祖母の手帖 ミレーナ・アグス 中嶋浩郎訳 新潮クレストブックス

最後にどんでん返しがある本というのは、レビューが書きにくい。そこがキモなのに、ネタばれになってしまうと思うと、やっぱり伏せとかなきゃ、と思いますもんね。この本もそうで、最後の2頁ほどに、「えっ!」と思わせる仕掛けがあります。仕掛け・・・と言っていいのかどうか。もしかしたらそれは、私たちが誰しも心に秘めている自分だけの物語のあり方そのものなのかもしれないなとも思います。

娘の頃から、まだ見ぬ恋に憧れ続けていた「祖母」は、親の勧めで祖父と結婚するが、夫を愛せないままだった。1950年の秋、結石の治療で湯治に出かけた祖母は、そこで運命の恋人である帰還兵と出会う。つかの間の激しい恋に身を焦がしたあと帰郷した祖母は、初めての男の子を出産する。家庭は何不自由なく営まれていくが、祖母はいつまでも帰還兵のことが忘れられない。何度も繰り返し祖母に帰還兵のことを聞いていた「私」は、祖母の死後に一冊の手帖を発見する・・・。この物語の語り手は、孫娘の「私」です。

全編を通じて、心と体の皮膚感覚に訴えてくる物語です。ストレートに言うと、とってもイタくて痛いのです。まだ見ぬステキな愛を待つ祖母の期待っぷりはイタタだし、その祖母を打ちすえる曾祖母の鞭はじんじんと肌に応えるます。結婚してからの針を踏むようなセックスレスの日々も、それが一転して娼婦のような性生活を受け入れるくだりも、とっても痛い。彼女がいつも体の中に持っている石は、蝶の幼虫が、まだ見ぬ美しい羽を思って作り出す繭のようなものかもしれない。叶えられない夢、この世界のどこかに、自分の運命の人がいるのではないかと思う、人に聞かれたら顔から火が出るほどハズカシイ願望の塊。でも、その痛みの中には、いつもひっそりと、快楽の甘やかさが潜んでいる。女という性が運命のように持っている痛みと快楽いうものを、こんなに傷ましく典雅に書き記した物語は珍しいかもしれないと思います。

そう、女って常に痛い。生理痛に頭痛、腰痛なんてのは女の常だし。思春期になると膨らみだした胸がやたらに痛むし、子どもを産むのはもちろん、閉経だって痛い。性に必ず痛みがついて回るのです。だから、この祖母の痛みは他人事ではなく、そのまま自分の体と繋がるもの。その女が、痛みを抱えながら、なおかつ「愛」という口はばったいものに繋がれてしまうイタタな部分を持っているというのは、何故なんでしょう。―心と体の奥底に持つ柔らかに密やかな、目の前に取り出せばあまりに剥き出しすぎて踏みにじらずにはいられないような、悲しみにも似たもの。そこに従ってしまうと、社会的な「死」が待っている。思えば、ボヴァリー夫人も、アンナ・カレーニナも、そんな痛みと快楽にに振り回された女たちでした。彼女たちは、みんな愛を手にいれるのと引き換えに破滅して死んでいったのです。この物語にも、たった一度の運命の愛を手に入れたあとを、ずっと不遇のままに生きた女性が描かれています。それはこの物語の語り手である「私」のもう一人の祖母。彼女は富裕階級の出身ですが、若い頃のたった一度の恋で勘当され、一生を働きづめに働いてたった一人で子どもを育てて死んでいくのです。でも、「祖母」は、たった一度の激しい恋をしたのに、ひと世代前の彼女たちのように破滅もしなければ、結婚生活を失いもしなかった。それは何故か・・という答えが、最後の最後に用意されているのです。

えっ、そうだったの・・・と確かにびっくりするのですが、そうか、やったね!とにんまりほくそ笑むというか。フィクション、つまり物語というものを自分の中に取り込み、生み出していく力を女が得たことの、これは可能性の物語でもあると、私は最後まで読んで思ったのです。だから、これは祖母の次の世代、「私」が受け継ぐべき物語であるんだな、と。感情を押し殺して生きることが美徳とされた世代に生きた祖母が思い描いた全き愛情の姿は、実は心の自由を手に入れることだったのかもしれない。もし彼女が今の時代に生きていたら、世の女性たちの心震わせる恋愛小説の書き手になっていたかもしれないですよね。じゃあ、あなたはどんな愛を思い描くの?と、祖母は残した手帖から孫娘に問いかけます。愛情というものは、ある意味独りよがりで滑稽なものでもあります。でも、後書きの作者の言葉にもあるように、その滑稽さも誰からも理解されない部分も、物語にすれば私たちは共感をもって迎え入れることが出来る。そして、孤独と悲しみにも居場所を与えることが出来るのです。祖母の痛みを受け継いだ「私」は、一人ひとりの読者なんですね、きっと。

「生まれてからずっと、月の国の人間のようだと言われてっきて、ようやく同じ国の人に出会えたような気がしたし、彼こそ今まで求めつづけていた、人生で一番大切なものだったように思えた」

私も、こんな風に思ったことがあります。恋愛したとき・・・と言いたいですが(笑)うん、まあ、そう思ったことも無きにしもあらずですけど、現実の恋は大概後で苦い思いを突き付けられるもんです(笑)そのもっと昔、居場所がないと思っていた頃に出会った物語の主人公たちと分け合った思いは、ずっと大切なものであり続けています。この物語も、ふとした時に思い出す、忘れられない一冊になりそうです。

2012年11月刊行

新潮クレストブックス

夜の写本師 乾石智子 東京創元社

ファンタジーの面白い作品に出合うと、ほんとに嬉しい。子どもの頃のように、ご飯を食べるのもうっとうしくなるぐらい熱中するのが読書の一番の醍醐味です。本の中の世界に飛んでいって、はまり込みすぎて、帰られへんねんけど!みたいな(笑)その中でもファンタジーって、一番遠くに飛んでいけるジャンルです。特にハイ・ファンタジーと呼ばれる、世界観から細かい設定まですべて作り上げるファンタジーは、はまるとほんとに異次元に飛んでいける快感があります。偉大なトールキンの『指輪物語』はもちろんのこと、ル=グウィンの『ゲド戦記』やルイスの『ナルニア国物語』のシリーズなんかが一番の有名どころですが、どうもこのファンタジーという分野においては、特に欧米のものは最近粗製乱造の気配があって、げんなりしてしまうことが多々あるんですよね。・・・そう、CGで作ればファンタジーでしょ、みたいな認識のハリウッド映画みたいな作品が多すぎる。(おお、偉そうな発言・・・)少々行き詰まり感があるんですよね。キリスト教史観の縛りって、結構強いものがあるのかもとも思いますが。

その点、上橋菜穂子さんの『守り人』のシリーズや、小野不由美さんの『十二国記』のシリーズなどは、民俗学的な視点を得た、新しいファンタジーの可能性を切り開いておられると思うのです。(そう言えば、ル=グウィンも民俗学者の両親をお持ちですよね)菅野雪虫さんの『天山の巫女ソニン』や、濱野京子さんも、意欲的な作品を次々と刊行なさっています。日本のファンタジーは、いいぞ!というのがこのところの実感なのです・・・って、なんでこんなに前置きが長くなるんだろう(汗)で、要は、この『夜の写本師』は、いいぞ!ということが言いたいわけです。

右手に月石、左手に黒曜石、口のなかに真珠と、三つの品を持って生れてきた少年・カリュドウ。女魔道師であるエイリャに育てられた彼は、才能の豊かな少年だった。しかし、ある日、エイリャと幼馴染の少女フィンは、当代随一の大魔道師・アンジストに惨殺されてしまう。その光景を目の当たりにしたカリュドウは、全身を憤怒の炎に焼かれ、復讐を誓う・・・。

ガンディール呪法、ウィダチスの魔法、ギデスディンの魔法、と細かく体系づけられた魔法の数々を横糸に、アンジストと彼に殺された3人の魔女の運命が紡がれ、カリュドウの運命と繋がっていく。カリュドウの物語の間に過去の魔女たちの物語が挟まって、とても複雑な構成になっているにも関わらず、読み手を混乱させずに物語に引き込んでいく力があります。魔術に対して、「写本」という行為、言葉が持つ力を根幹にした営みを配したことも面白い。本というものに年がら年中取り憑かれている本読みにとって、これほど実感できる力は無いと思われます。

そして、これはファンタジーのみならず全ての文学に言えることなのかもしれませんが、人間の暗黒面、呪いや恨みや憎しみというものを見据えて掘り下げていく意思があることもこのファンタジーに深みを与えています。これは、何百年も続く恨みと復讐の螺旋が、膨大な命を飲み込んでいく物語です。でも、長い長い戦いの原点は、ある一人の男の愛の欠落から始まるのです。一人の男の負のエネルギーがどれだけの人を巻き込んで翻弄していくのか・・・その大きさをこの本は物語ります。先日もグアムで恐ろしい事件がありました。たった一人の男が自分の満たされない思いで振り回した刃物が、他人の大切な命を奪ったとき、どれだけの悲しみと苦しみを生み出すことか。しかも、それは、他人事ではなく、いつ、だれの身に起こるかしれないことです。明日、私の身にも降りかかるかもしれない。また、誰かを深く傷つけてしまうかもしれない。人は常にそういう存在なのです。私たちは間違いを犯す。間違いを犯すまいとして、また新たな過ちに陥ったりもする。この本からは、その人間を見据えて描き切る覚悟というか、強い意志を感じるのです。魔術という人智を超えた理不尽な力に、「写本」という徹底的に磨き上げた美意識の手仕事で対抗していく。そこに、人が限界の中で、必死にそこを超えてゆかんとする可能性を感じるのが、心惹かれるところです。そして、この復讐の結末が、またいいんですよ。ネタばれになるから書きませんが、一言だけ。・・・『愛』なんですね。いやあ、照れます・・・って、あんたが照れてどうするって感じですが、そう、『愛』なんです。そこが、またいい。優れたファンタジーは人生を語ります。私たちが忘れてしまった生き物としての根源的な力や暗黒の暗闇、それを凌駕する命の輝き、つまり魂の記憶を呼び覚ますような力があると思うのです。苦しみに満ちた復讐の物語ですが、最後の最後に呼び覚まされた記憶に、全てが浄化されていくようなカタルシスを感じました。

解説の井辻朱美さんもおっしゃるように、この物語にはゲド戦記は言わずもがなですが、『蟲師』や『百鬼夜行抄』、『夏目友人帳』といった日本の大好きな漫画の影響もそこはかとなく感じられて、漫画フリークとしても心ざわめく楽しさがありますね。漫画は、この国にだけ繁栄している独特の豊穣な文化だと思います。これから、その文化を土台にした新しい文学が生まれるかも・・・なんて思うのも楽しい。このシリーズにはあと2冊、『魔導師の月』と『太陽の石』があるんですよね。楽しみです。

2011年4月刊行

東京創元社

 

 

 

 

長い道 宮崎かづゑ みすず書房

昨年見た辰巳芳子さんのドキュメンタリー『天のしずく』で、この本の著者である宮崎かづゑさんのことを知った。宮崎さんは、10歳のときに国立ハンセン病療養所長島愛生園に入園され、それ以後の人生をずっと園内で過ごしてこられた方だ。宮崎さんは、病で倒れたお友達のために、毎日辰巳さんのポタージュスープを作って届けた。そのお礼の手紙を辰巳さんに出したことが縁となり、辰巳さんが宮崎さんを訪ねられたのだ。映画の中での宮崎さんの言葉は、とても強く心に残った。「人間は生きているべきですねえ。私、5、6年前でしょうか、ここまで生きてこなくてはわからないことがあったと思うことがあります」その言葉に頷きあう宮崎さんと辰巳さんを見て、私は「ああ、まだまだだな」と思ったのである。清々しく完敗したと言ったら語弊があるだろうか。少々人生にお疲れ気味だなと思っていたのだが、まだまだ自分が若輩者であることを先輩方に優しく厳しく諭されたようないい気持であった。

繰り返すが、かづゑさんは10歳で園に入られた。そのとき、故郷を失ったのである。私は桜井哲夫さんという、やはりハンセン病の方の詩が好きで関連本を何冊か読んだのだが、その昔「らい」と呼ばれ、人から恐れられたハンセン病にかかって故郷を離れることは、もう二度と帰らぬことと同義であった。かづゑさんのこの本にも、近所の人たちがかづゑさんの実家と同じ井戸を使わなくなったことが、彼女に園に入る決意をさせたことが書かれている。(宮崎さんは、その人たちが遠くまで水汲みをしに行くのが辛いと思われたのだ)この本の冒頭には、幼いころを過ごした故郷のことがとても細やかに描かれている。ほぼ自給自足の農家の生活。こまごまとお漬物や味噌を作り、家族に食べさせる祖母の手。季節の行事や、田んぼの仕事。生き生きと語られるその日々の、なんと色鮮やかなことか。体の弱いかづゑさんを、家族が愛して慈しんでいたことが切ないほど伝わってくる。そして、その思い出を、かづゑさんが宝物のように大切に大切に胸の中で育んで生きてこられたことが、こちらにも温かい雫のように沁み渡るのだ。まさに、天のしずく。さっき私は「故郷を失った」と書いたが、人は本当に愛するものを失ったりはしないのかもしれないとも思う。そう思わせるほどかづゑさんの思いは深い。愛情が深い人なのだと思う。

故郷から離れ、園に入ってからの生活は、戦争とも重なって苦難の連続だ。人間関係に苦しんだり、片方の足を切断しなければならなかったり、たび重なる痛みに苦しめられたりしながら、それでもかづゑさんは結婚し、夫のために料理をし、ミシンで様々なものを手作りし、日々の暮らしに心をこめて生きていく。私は知らなかったのだが、家事仕事をすることは、手の指を失うことなのだ。病気の後遺症で抵抗力が弱くなっているので、水仕事で傷が出来ると、段々手指に血流がいかなくなるという。かづゑさんも両手の指がない。でも、その手で親友のために、非常に手間のかかる辰巳芳子さんのスープを毎日手作りして持っていく。何の理屈も欲得もない無償の行為が、何の計算もなくある。その尊さが、穏やかな海のように輝いて私たちを照らしてくれる。

トヨちゃんは、幼いころから体は病に攻めつづけられたけれど、まるでその苦しみが彼女の心をざぶざぶと洗い流していたかのように、魂に磨きがかかり、美しい光を放ち、そしてその光は歳をとるごとに輝きを増していったと私は思う―・・・

これは、かづゑさんが親友のトヨさんのことを語った文章なのだけれど、そのままかづゑさんのことを表す文章ではないかと思う。そして、この言葉からもわかるように、かづゑさんは、とてもまっすぐな力のある文章を綴られるのだ。かづゑさんは、無類の本好き。趣味などという軽いものではなく、本は親友だとおっしゃる。どんなに苦しいときも、本を読む心の自由が自分を支えてくれたと。そう、そうですよね!と、私は嬉しくなってしまった。モンテ・クリスト伯、赤毛のアンのシリーズ・・・むさぼるように本を読む幸せ。まったく違う世界に飛んでいく時のときめき。

「行きづまっているとき心が自由だったのは、本の中の地中海があったから」

物語の力って、これですよね。この心の自由は、何物にも代えがたい喜び。多分、目だってあまりご丈夫ではなかったろうけれど、本を手放せなかったかづゑさんの気持ちは、同じ本読みとしてとてもよくわかる。そして、だからこそ、私も、年齢を重ねたときに、かづゑさんのように己の人生をありのままに「よかった」と思える日がくるように。心こめて生きていかねばなあと思う・・・思いながら、今日も背中がちょっと痛いだけでへたりこんでいた、どうしようもない私ではあるけれど。「もう人間はやめようね」と、かづゑさんは親友に呼び掛ける。その言葉が感じさせる背負ってきたものの重みと、かづゑさんが与えられ、与えてきた愛情の重みの両方を、深く感じる一冊だった。この本を書くきっかけになった辰巳芳子さんとの出会いも、その愛情が手繰り寄せた縁なのだろう。そして、その愛情はまったく見知らぬ私の胸の中をも照らしてくださったのだ。辰巳芳子さんは、かづゑさんの文章のことを「あの文章を読んだ人は、命とは何かということを見出して、感じて、そのあとでほんとうの意味の解放感を味わうと思う」とおっしゃっていた。まことに、その通りだ。この一冊を世の中に届けてくださったことに、心から感謝したいと思う。

2012年7月

みすず書房

 

映画 『故郷よ Land of oblivion』 ミハル・ボガニム監督 

先週の木曜日に、この映画を見てきました。チェルノブイリの原発事故によって故郷を失った人たちの物語です。舞台は、チェルノブイリからわずか3kmの町・プリピャチ。冒頭には、事故寸前ののどかな町の様子が描かれます。きらめく川の流れが幸せな恋人たちを運び、緑豊かな自然の中で人々が笑う。父と息子がリンゴの木を植え、牛がゆっくりと歩いていく・・・光が溢れて穏やかで、見ているだけで涙がこぼれそうなほど綺麗な、町というよりは村の風景です。ボートに乗っているカップルの女性は、この物語の主人公の一人、アーニャ。彼女の結婚式を明日に控えた春の夜に、原発は事故を起こしてしまうのです。アーニャを、『薬指の標本』で見たことのある、オルガ・キュリレンコが演じているのですが、監督は当初彼女が美人すぎるのでこの映画での起用をためらっていたらしいのです。でも、この冒頭の、ボッティチェリが描く春の女神そのもののような彼女の輝きは、あの風景にとても似合っていました。明日結婚しようとしていた彼女の中に満ち溢れていたのは、これから生まれてくるだろう子どもも含めての、未来へのエネルギーであり、豊穣の予感だったのです。そして、その輝きが美しければ美しいほど、失われたものの大きさと取り返しのつかなさが色濃く胸に落ちます。この映画にどうしても出たかったというキュリレンコの思いが伝わってくる演技でした。

映画は淡々と事故当日の人々を追っていきます。まったく情報がなく、何が起こったのか誰も知らずにいる人たちの上を、放射能を含んだ雨が何度も何度も通り過ぎていきます。結婚式の真っ白なケーキを黒い雨が汚し、子どもたちはその雨の中で遊んでいるんです。映画の中の人々に向かって「逃げて」と思わず心の中で叫んでしまう。二度と帰れないと知らないまま強制避難させられてしまう人たち。耕してきた土地も牛も奪われてしまった農家のお年寄りの顔。いきなり愛する人を失って茫然とするアーニャ。3.11と結びついていく光景です。この映画が撮影されたのは、3.11の前なんですが、見事に符号にようにすべてが重なっていくのが、怖いようでした。こんなに同じことが起きていたのに、私たちは何も学ばなかった。対岸の火事だと思っていた。そのことを痛感しました。前半の、事故当時の混乱の様子を見ながら、思わず全身に力が入り、こわばってしまう。その臨場感は半端ないものでした。

10年後、アーニャはプリピャチの町で、「チェルノブイリ・ツアー」のガイドとして働き続けます。この映画は、初めて立入制限区域で撮影された映画で、誰もいなくなってしまった町の風景が延々と続きます。後半は、アーニャと、リンゴの木を川岸に植えた少年・ヴァレリーとその父親である技師のアレクセイの10年後が描かれます。3人が3人とも、故郷と大切な人を失った喪失感の中で暮らしている。アレクセイは、事故のあと精神を病んだまま、ずっとプリピャチ行きの列車を探して放浪します。もう、プリピャチという名前の駅はこの世には存在しないのに・・・。彼の息子のヴァレリーは、いなくなった父の痕跡を求めてプリピャチに潜入します。でも、そこには何も残ってはいなかった。アーニャは恋人が出来ても、どうしても新しい生活に踏み出すことが出来ない。その彼らの物語も胸に染みましたが、何より説得力があったのは、プリピャチの空っぽの風景でした。暮らしも笑い声も失われたその風景は、今、日本のあの場所にも広がっている、そう思わずにはいられない。チェルノブイリの事故の際に、アーニャの夫のように事故処理などのために亡くなってしまった方は4千人にも及びます。しかも、石棺はすぐに老朽化し始めて常に補強しなくてはいけない。その作業は、これから数千年も続くのです。そして、立入制限区域は、私たちには永遠と思える時間が経っても人が住めるようにはならない。永遠に空っぽのままである風景が、ずっと乾いた涙を流し続けているように見えました。町も風景も生き物なのだと。その命を奪ってしまうことの残酷さを町自身が物語る、そんな映画でした。

 

 

 

 

 

 

鳥越信先生と国際児童文学館

鳥越信先生が亡くなられた。ご冥福を心からお祈り申し上げたいと思う。晩年になって、心血を注がれた、万博公園の中にあった国際児童文学館があのような形でつぶされてしまったことで、どんな思いをされたかと想像すると、心が痛んで仕方ない。

文化や芸術というものは、成長し、実りをもたらすのに長い時間がかかる。しかし、今はとにかく費用対効果、短いスパンで目に見える・・つまり、お金となって返ってくることは大切にされるが、目に見えないもの、数値化できないものに関してはとにかく切り捨てられることが多い。まるで役立たずの、金食い虫と言わんばかりである。特に児童文学という地味な世間でスポットライトの当たらない分野は、興味のない人にとっては無駄にしか思えないものなのだろう。大阪は一番文化や芸術に縁のない、興味のない人を長に据えてしまった。それゆえに、鳥越先生が膨大な資料を寄付された、児童文学研究の礎となるべき場所を失ってしまったのだ。そして、私の卒業した大阪女子大学も大阪府立大学に統合されてしまい、今や文学部は影も形もない。大阪市立大学とも統合されるらしいが、この流れでは文系の学部は大きく減らされ、何を勉強するのかわからない名前の学部ばかりになってしまいそうな流れだなと思う。

しかし、これでいいのだろうか。文学や哲学というのは、すべての学問を貫く背骨のようなものだと思うのは、私だけだろうか。私たちは何処からやってきて、どこに行くのか。幸せとはなにか。生きるということはどういうことか。生きる意味とはなにか。人間の存在とは如何なるものであるのか。答えの無い問いを、さぐり続けて私たちは生きている。科学や技術も、その問いから離れて発展してきたわけではない。また、複雑化し、専門化するに従って、ますます根源的なその問いは大切なものになると思う。フクシマでの手痛い教訓は、私たちに科学技術を不完全な人間という存在が操ることの怖さを教えてくれたではないか。その人間について、とことん考え抜く学問が、大学のどこにもない。これほど不思議なことは、あるだろうか。こんな風に思うのは、私が古い人間だからだろうか?
そして、子どもの文学は、未来を作っていく子どもの心を育むもの。子どもが生まれて初めて出会う、新しい世界を開く目であり、耳であり、やわらかい心に播かれる種なのだ。深く根を下ろし、血肉となる、目に見えない大切なもの。星の王子さまが言うように、「肝心なことは眼に見えない」。見えないものに触れる一瞬が、文学だ。このとりとめのない不安だらけの世界に自分の心を迎え入れてくれる場所があることを知り、共感し、他者と心を分け合うことを知る。想像すること、この体だけに囚われぬ心の自由を持つこと。その心のありようの上に、よりよく生きようとする向日性が生まれるのではないのだろうか。その児童文学について、常に研究し、資料を蓄え、発信し続ける機関があるということは、とても大切なことなのだ。議論され、語られ、活性化することなしには、学問は命を失ってしまうから。児童文学の様々な作品が多角的に取り上げられ、議論され、評価されることが、新しい児童文学へと繋がっていく糧になるはず。そこをないがしろにして、なんの教育改革だと私は思う。

鳥越先生が亡くなられたことを知り、常日頃思っていることが何やら噴出してしまった。こんな偉そうなことを語る資格は、何の肩書きも持たない私にはないのかもしれないけれど。何の肩書きも持たぬ私だから、言えることもあるかもしれないとも思ったりする。積み上げるのに何十年かかっても、つぶすのは一瞬だ。でも、つぶしてしまったものは、もう取り返しがつかなくなる。私たちは、もう少し長い目で、広い視野で、文化や芸術を考えていく必要があるのではないだろうか。心の財産を食いつぶしてしまうところに、真の発展はないと思う。

 

灰色の地平線のかなたに ルータ・セペティス 野沢佳織訳 岩波書店

梨木香歩さんの『エストニア紀行』に、ソ連が行った強制連行のことが書かれていたけれど、この本はそのエストニアと同じバルト三国の中の一つ、リトアニアの少女がソ連の収容所に強制連行されてしまう物語だ。読むのが辛い物語ではあるのだけれど、これは自分と関係ない国の過去の物語ではない。極限の状況の中で最後まで愛情を失わずにいいた家族がたどった道のりを考えるとき、この物語は、私たちのこれからを考える物語として「今」に繋がるのだと思う。

大学教授の父と美貌で優しい母、可愛い弟のいる15歳の少女リアは、家庭にも絵の才能に恵まれて何不足ない生活を送っていた。ところが、ある日いきなり踏み込んできたソ連の秘密警察に連行され、父親と引き離され、母と弟とともに気が遠くなるほど長く辛い貨物列車での旅の果てに強制収容所に送られてしまう。連行される直前に出産し、そのまま列車に乗せられてしまう若い母と赤ちゃんの話はとても辛い。そこで待ち構えていたのは、過酷な飢えと寒さと強制労働。このシベリアの収容所の悲惨さというのは、同じくシベリアに8年間収監されていた石原吉郎の手記にも詳しい。「そこは人間が永遠に欠落させられる、というよりは、人間が欠落そのものになって存在を強制される場所」(※)なのだ。特にリアたちがいた頃の、スターリンが死去する間際の収容所の内情というのは陰惨を極めたものだったらしい。リアたちの舐めた苦しみは、作者がシベリアからの生還者やその家族に丹念に話を聞いて書き起こしたもので、フランクルの『夜と霧』を思わせるほどに辛い。初めはとても喉を通らなかったドロドロのわけのわからぬ食べ物を、そのうち争って食べるようになる、知識階級の人たち。・・・私もきっと同じ状況なら必死で食べるようになるんだろう。でも、その度ごとに自分の中で大切にしている美しいものが死んでいくような気持ちになるに違いないと思う。それでもリアのように、彼女の母のエレーナのように誇り高く生きていられるのかと思うと、まったく自信がなくなってしまう。

そう、壊血病にかかってしまうほどの飢えの中でリアと弟のヨーナスが生き延びることが出来たのは、美しく賢い母のエレーナがいたから。彼女は愛の人で、どんなに苦しくとも少しの食べ物をみんなと分け合い、病に倒れた人を看病し、励まし続けた。しかし、鴨長明が『方丈記』の中で「思ひまさりて深きもの、必ず先だちて死しぬ」と言ったように、『夜と霧』でフランクルが「最もよき人々は帰ってこなかった」と述べたようにエレーナは子どもを二人残して死んでしまう。彼女のような精神の美しさは、虐げようとするものにとっては一番先に踏みにじるべきもので、そのためにはありとあらゆる努力が行われると言っても過言ではない。しかし、どんなに踏みつけにされ、汚されても、一番強く人々の中に生き続け、灯り続けるのもまたその美しさだと思う・・・これは綺麗ごとでなく、そう思うのだ。私はそうはなれないかもしれない。しかし、この世界にはエレーナのように美しい人はちゃんと存在する。(これはまた別のレビューに書くが、今日読んだ宮崎かづゑさんの『長い道』を読んでそれをまた確信した)そのかけがえのない美しさをこの物語の中で強く書ききったことを、私はとても大切だと思う。極限とも言える収容所生活のなかで、リナが紡ぐほのかな恋や、人々が祝うクリスマスの夜もまた、そんな美しさの一つだ。

また、リアは収容所の中の様子や苦しむ人々の姿を得意な絵で刻み続ける。命の危険と隣り合わせの行為を何度たしなめられても、それだけはやめることが出来ない。それは、家族も将来の夢もすべてを奪われたリナのたった一つの生きている証だったのだ。15歳というのは、一番お腹も空き、自意識もピリピリと過剰な時だ。誇り高く教育された少女らしい潔癖さと感受性は彼女を苦しめるけれど、それがまたリアを支えて生かしているのだとも思うのだ。そして、このリアが燃やし続ける「伝えたい」という思いと祖国への愛情は、苦しい時代を生き延びたリトアニアの人々の心のうちに燃え続けたものでもあるのだと思う。私はこの物語を読みながら、『エストニア紀行』で梨木さんが翻訳されていた、エストニアの国歌を思い出していた。リトアニアが独立を回復したのは1990年。私の感覚からいうと、ついこの間のことなのだ。この物語では、母のエレーナが死んだあとの物語は語られない。リアとヨーナスはリトアニアに13年後に帰還したらしいが、その後の物語も語られない。しかし、きっと「その後」の物語は今も続いているのだと思う。シベリアにいた石原吉郎は、帰国後にまた一段と辛い苦しみに陥った。辛酸を舐めて帰国した祖国は、彼にとって優しい場所ではなかったのだ。作者のあとがきによると、やはりシベリアからの帰還者には、帰国後も様々な困難が待ち構えていたらしい。このリアたちのような帰還者の言葉がこれからどのように掘り起こされるのかを考えたとき、次世代へのメッセージとしてこの物語が書かれたことは、出発点としてとても大切なことだ。そして、リアの一家が収容所に送られたのは、親戚の一家がドイツに脱出するのを手伝ったためだった。同じように生き延びた人たちは、自分たちの代わりに収容所に送られた人たちのことをどんな風に思いながら過ごしていたことだろう。そう考えると、「生き延びてしまった人たちの苦しみ」も、また今に続いているのではないだろうか。作者であるセペティスさんの父親は、リトアニアからドイツに脱出した人であったらしい。その家族の歴史を思うとき、この物語は、作者自身にとっても書かねばならない一冊であったことだろう。それだけの強さと内容をもった作品だ。この本を大切に訳された野沢佳織さんにも感謝をささげたいと思う。

(※)「望郷と海」石原吉郎 みすず書房

2012年1月刊行

岩波書店

 

 

 

ふしぎな八つのおとぎばなし ジョーン・エイキン クエンティン・ブレイク絵 こだまともこ訳 冨山房

「奇妙な味」の短編集です。ナンセンス、怪奇幻想、SF、神話・・・そのすべてをひっくるめての「おとぎばなし」。鮮やかなイメージを生み出す言葉の喚起力が半端なくて、読みだしたら止まらない。ブラックなスパイスも効いていて、とても好みです。特に好きなのは、『怒り山』と『冬の夜にさまよう』。心の奥底のぽっかりと空いた穴から、闇の匂いが吹き上げてくるような短編です。怖いのに、凝視する目が離せない・・・「魅入られる」というのは、こういうことなんでしょうね。暗い森の奥でたき火をしながら、誰かの昔話を聞いているような、そんな気持ちになってしまう物語たちです。

『怒り山』の頂上にある村に、八本足の馬に乗って片目の男がやってくる。彼は家々の石に指先で輪を書きつけた後に、村の井戸の横で骨接ぎを始めます。彼は村人に聞きます。「わたしの父は、死の床で、むすこになんといいのこしたのかね?」誰もその問いに答えぬまま、すべての治療を終えた男は、村人たちに引きずられて崖の上から突き落とされる。すると家々の石に書きつけられた輪が、ぎらぎらと真っ赤に輝きだし、そこで物語はおわります。どうやら、この男は、村であった『九つの火の戦い』と深い関係がありそうなのです。何かを全員で隠している様子もある。その何かとは、たぶん自分たちも直視するのが怖いほどの非人道的なことのような気配も漂います。開けてはいけない記憶の箱を封じ込めるかのように、村人たちは自分を治療してくれた男を崖から突き落とします。昔、何があったのか。そのあと、村がどうなったのか・・描かれなかったものが闇の中で膨れ上がるような見事なラストです。

最近、戦争関係などの本や資料を少しずつ読んでいます。目に見えていることの裏側にあるものの大きさと果てしなさに愕然とするのですが、同時に国家というもののあまりの人間臭さに虚を突かれたような気持ちになることが多い。どうやら、私たちは、自分で思っているほど理性的でも公平でもない。そして、自分たちがしてしまったことを直視するのはもっと怖い。この物語の村人たちのことも、私には他人事とは思えないのです。この物語を読んだ子どもたちは、もしかしたら、ただ怖いだけの感想しかその時には持てないかもしれない。でも、エイキンの刻む真っ赤に燃える輪は、その理不尽さと一緒に子どもたちの心に刻まれると思います。そして、人生のどこかで人間の残虐さに触れてしまったとき、その輪が語りかけることがあるのではないか。そんな気がします。

『冬の夜にさまよう』は、とても幻想的な物語です。気難しい粉ひきのバーナードは、木の彫刻を作ることに取り憑かれた男。とうとう、村のシンボルであるオークの木まで勝手に切り倒してしまいます。ところが、そのせいで、彼は朝一番に手に触れたものがことごとく木になってしまうという呪われた体になってしまう。一人娘アリスを木にしないために、納屋に寝かせていたのだけれど、アリスは夜な夜な森の中をさまよい、眠りながら歩く大きなくまと夜を過ごす・・・。

真っ赤な服を着て森をさまようアリスの姿と、ゆらゆらと眠りながら歩く大きなくまのシルエットが月明かりに重なります。物語の始まりから、アリスには月に魅入られたような不吉な影が射しています。彼女が木になってしまうことが運命のように彼女に縫いとめられているのを感じざるを得ないのです。その空気感の見事さ。ブレイクの挿絵と相まって、悪い夢のように美しく、引き込まれます。人間の男には一切目をくれなかったアリスが、なぜ森をさまようくまに心惹かれていったのか。なぜくまは、夜な夜なふらふらと歩いていたのか。単なる因果応報のお話ではない、人間のどうしようもない根っこのようなものとへその緒で繋がっているような、古い記憶を呼び覚ますような不思議なお話なのです。得体が知れなくて美しい。エイキンという人の懐の深さをしみじみと感じました。

ちょっと怖いお話ばかり取り上げましたが、幸せなお話も、宇宙をまたにかけるスケールの大きなホラ話も、ロマンチックなお話もあって、どれも楽しい。そして、どれも冒頭に述べたように、どこか奇妙な味を漂わせて、とてもセンスが良いのです。物語の力が横溢している、充実の短編集。子どもも大人も一緒に楽しめる一冊だと思います。

2012年12月刊行

冨山房刊

 

 

ヘリオット先生と動物たちの8つの物語 ジェイムズ・ヘリオット 井上由見子訳 集英社

私は動物に弱い。パソコンもiPhoneも犬猫ブログのブックマークだらけだし。自分のレビューを書くよりも、よそのお宅の猫さまを見て、「かわいー」「かわいー」とうっとりしている時間のほうが多い。(あかんやん・・・)うちにも猫が2匹いて、何だかんだとかまったり撫でまくったり、お腹に顔を埋めてモフったりしているうちに、一日が過ぎていく。夜になると一緒に寝ようと猫が呼びにくるので、甘えたの猫を抱きこんで、干したてのお布団で眠る。もういくらでも眠れる(笑)。動物と暮らして何が一番嬉しいか。それは、彼らが幸せそうにしているのを見るということに尽きると思う。あったかい毛布の上でのびのびになって寝ていたり、おもちゃに目をらんらんさせてじゃれついたり、美味しそうにご飯を食べていたりするのを見ると、「これでいいのだ」というバカボンのパパ的な全世界肯定感が溢れてきて、もっと甘やかしたくなる。

この本に収録されている8つのお話も、「これでいいのだ」という幸せが溢れている。ヘリオット先生は、イギリスのヨークシャー地方の動物のお医者さんだ。農家が多いこの地方で、ヘリオット先生はいつもあちこちに往診に飛び回っている。そこで出会ったいろんな動物たちとのお話が、この本にはいっぱい詰まっている。ここに描かれているのは、動物と人との信頼と愛情だ。たとえば冷たい北風の中で死にかけていた子猫。ヘリオット先生に拾われて、農家のあったかいオーブンの中で息を吹き返して、豚さんのおっぱいでつやつやのお猫さまに育ったり。自分の身なりなど一度も構わず過ごしてきた農家のおやっさんが、長年働いてくれた馬を、見事に飾り立ててペットコンテストに連れていったり。このお話に出てくる人たちは、みんな自分と関わりのある命を大切にする。そして動物というのは、大切にされると必ずその愛情に応えようとする。人間同士だと時に愛情は難しく絡み合ったり、ねじれたり、すれ違ったりするものだが、動物はいつもまっすぐ愛情を受け止めて、つやつやの毛並みで返してくれる。そこには確かな心の繋がりがある。ほんとに、この世の中難しい事やどうしようもない事がいっぱいなのだけれど、動物が寄せてくれる愛情のこもった眼を見ていると、これが生きていることの基本だよなあと素直に思える。その肯定感がこの物語8篇のすべてに溢れていて、とても幸せな気持ちにさせてもらった。

ヘリオット先生は、長年実際に獣医として働いておられた方。それだけに物語には体験に裏打ちされた厚みがある。たくさんの本が既に翻訳されているらしい。この本は、若い読者のために書きおろされた一冊。小学校高学年くらいなら余裕で読めると思う。こういう愛情から生まれる信頼感、それも積み重ねられた体験に裏打ちされた信頼感というのは、元気が出てとても素敵だと思う。表紙も挿絵もとても可愛くて、中の活字もセンスがいい。この表紙に呼ばれて読んでみたら、やっぱり当たりだった。ヘリオット先生、もっと読んでみようっと。

2012年11月刊行

集英社

 

フォーラム 子どもの本と「核」を考える 

先週末(1月26日)、広島平和記念資料館で開かれた、日本ペンクラブ主催のフォーラム『子どもの本と核を考える』に行ってきた。第一部が、ペンクラブ会長浅田次郎さんのチェルノブイリの現状報告、そして二部はアーサー・ビナードさん、令丈ヒロ子さん、朽木祥さん、那須正幹さんという、核をテーマにした児童文学を書かれている方をパネリストに、子どもの本と核を考えるというお話があった。実際に自分の目でチェルノブイリを見てこられた浅田さんのお話、そして自著を通して、子どもたちに何を伝えていくかという作家さんのお話、それぞれに驚きと新しい発見があり、日ごろ考えている自分の思いと共感するところも多かった。これからを生きる子どもたちのために何ができるのか、ということを真摯に考え、歴史的な視野に立って実践していこうとされていることが伝わるフォーラムだった。

●浅田次郎さんのチェルノブイリ報告について

子どもの甲状腺ガンとDNAの異常が増えていること。これは、いろんな方の報告から知ってはいたのだが、やはり直接見聞きしてこられた浅田氏の言葉を直接耳で聞くと、ずっしりと重い。事故から27年が経ち、石棺といわれるコンクリートの覆いも劣化が酷い。そこで、もう一回り大きな石棺を作ってかぶせる作業が必要になるのだけれども、それもまた数十年後には劣化してしまう。放射能の半減期を計算すると、その作業はこれから何千年も繰り返さねばならない・・。そのことに茫然としてしまう。「一国が滅亡するかもしれないものは持ってはいけない」「負の遺産は私たちの世代で決着をつけていくという覚悟が必要」という言葉に深く頷く。歴史小説をたくさん書いておられる氏の言葉には、「今」を俯瞰で捉える強さがある。戦争を経験した親世代は、負の遺産を後の世代に伝えてはいけないという思いがあったのではないか。その親たちに珠のように育てられた私たちが、原発の事故を起こしてしまったということは、過去に対しても未来に対しても無責任なことであるということを述べられていた。このところ「やっぱり経済優先」という空気が世間に流れているように思う。経済をないがしろにする積りはないのだが、この原発の問題だけは、その短期的な視点から外れないと、また大きな過ちにつながってしまうような気がしてならないのだが、浅田さんの言葉に改めてその通りだと思う。浅田さんいわく、フクシマの原発事故に対して、外国からは「日本なら何とかするだろう」という期待が寄せられている、この期待を裏切ることは、日本に対する信頼を失うことになる。これは、国家として絶対に乗り越えねばならない試練である、という言葉が印象的だった。

●核をテーマにした児童文学を書かれた作家さんたち

アーサー・ビナードさんは、『さがしています』という、原爆の遺品の写真をテーマにした写真絵本を出してらっしゃる方。あの絵本は4年前に撮影するための台の石づくりから始められたらしい。その手間暇と思いが深く伝わってくる絵本だ。母国語である英語の「atomic bomb」「Nuclear weapons」という言葉ではなく、「ピカドン」という体験者の側から生まれた言葉で核を見たときに初めて自分の視点が変わったという体験を話された。「ピカドン」は、自分が原爆ドームのそばにいて、あの日を見ている視点の言葉だと。英語を母国語にするアーサーさんだからこその気付きは、いろんな問題提起を含んでいると思う。

令丈ヒロ子さんは、『パンプキン!模擬原爆の夏』についてのお話だった。これは、パンプキン爆弾という、原爆投下のための練習として日本全国に落とされた模擬原爆のことをテーマにした作品だ。この作品を書かれたきっかけは、近所に模擬原爆の慰霊碑があったことだったとか。この作品は、主人公の子どもたちが、自由研究で模擬原爆と戦争のことを調べていくという形式で書かれている。出版後大きな反響があって、テレビのドキュメンタリーでも放送されたほど。若おかみシリーズなど、子どもたちに絶大な人気を持つシリーズを書いておられる令丈さんだけあって、面白く、わかりやすく、しかも資料もふんだんに取り入れた説得力のある作品だ。その令丈さんが戦争というテーマに取り組まれたことはとても有意義なことだと朽木さんもおっしゃっていた。御苦労もたくさんおありだったようだが、教育現場からの反響がすごかったということ、そして、子どもたちがこちらが思うよりも普通に受け止めてくれた、という報告になるほど、と思った。子どもたちは、こちらが真摯に伝えたことを、ちゃんと聞く力を持っている。この作品のような、今の子どもたちの生活と戦争・核という問題を繋ぐような作品がたくさん生まれることがこれからとても大切なのではないかと思った。

八月の光』『彼岸花はきつねのかんざし』など、ヒロシマをライフワークにしてらっしゃる朽木祥さんのお話はとても心に沁みた。文学が持つ力は「共感共苦」にある。共感し、誰かの苦しみを分かち持つこと・・・正しい歴史認識を後世に伝え、理解することで正しい「心情の知性」を育む本を書きたいと述べておられた。「心情の知性」は、時代が全体主義に流されようとしたりしたときに、踏みとどまり、違うと言える知性のこと。全体主義は、他人事では決してないと私も思う。人の心の中には、ややもすると大きな声を出す人に飲み込まれて思考停止してしまう昏い部分がある。それは、人を、国家や民族や、性別などのわかりやすい切り口でくくってしまうところから始まるのだ。数ではなく、ひとりひとりを顔のある存在として認識することの大切さを心に刻みつけること。『八月の光』について、私は昨年[時が経てば経つほど困難になる【記憶】の刻印に、真摯に向き合い、共有することで、私たちは確かな繋がりを手にすることが出来るのだと思う。その心の糸を繋ぎ、張り巡らせることだけが、ただのお題目になってしまいそうな「過ちは 繰返しませぬから」という言葉に命を与えるのではないか]と書いた。その思いを改めて感じたし、忘れてはならない記憶を「今」に結びつける営みに、果敢に挑戦され続ける姿勢に頭が下がる。「失われた顔と声を聞いてそれを伝えていく」という言葉に物語の根源的な力を信じるものとして強く共感した。

●那須正幹さんは、3歳の時にご自身も被爆されている。『絵で読む広島の原爆』『八月の髪かざり』『ヒロシマ 歩き出した日』『ヒロシマ 様々な予感』『ヒロシマ めぐりくる夏』など、核をテーマにした本をたくさん書かれている。当日は、那須さんまで順番が回った時点であまり時間がなくなってしまい、詳しいお話は伺えなかったのだけれど、自分の後に続く世代の人たちが核について作品を発表されていることが、とても心強いとおっしゃっていた。私も強くそう思う。

もうすぐ、3.11から2年になる。まだ何も終わっていない。事故の後始末も、震災の傷跡も、何もかもそのままだ。でも、最近、そのことを忘れようとする力がいろんな場所で働いているように思えて仕方がない。マスコミは、すぐに何もかも忘れてしまおうとする。彼らは数の論理で動いているから・・・だからこそ、これから物語がとても大切になってくると思うのだ。フォーラムの最後で、中日新聞の記者の方が、沈黙を守ってきた被爆された方々のことに触れ、「なぜ人は語ってこなかったのか」という問いかけをされておられた。そこには声高に語れなかった事情や心情があるだろうし、語ることを許さなかった力も働いていたと思う。その記憶と心に寄り添う、朽木さんのおっしゃる「失われた顔と声を聞いてそれを伝えていく」営みこそが、これからの私たちの進むべき道を指し示してくれると思うから。顔のあるたった一人の心に思いを馳せる力、想像力を育てること・・・このフォーラムに参加された作家さんたちのお話を聞いて、その必要性をひしひしと感じた。それはとても辛いことではあるけれども、今、とても大切なことなのではないかと思う。こんな偉そうなことを言っていても、久しぶりにじっくり見た平和記念資料館、そして初めて拝見した国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の、被爆された方の写真のお顔を見て、実は私自身打ちのめされ、しばらく言葉を綴ることも苦しかった。この問題に向き合うには、本当に気力と体力が必要だとしみじみ思う。だから、ずっとこのテーマと向き合って作品を書いておられる方々には素直に尊敬の気持ちを感じてしまうのだ。那須さんは「この年齢なんで、どこまで書けるか」などとおっしゃっておられたが、お体に気をつけて頂いて、これからも子どもたちに大切な作品を届けて頂きたいと思った。

フォーラムの参加者に配られたパンフレットもさすがの出来栄えだった。特に、2部の司会をされていた野上暁さんの「核と日本の児童文学」という評論は個人的にとてもありがたく、これを頂けただけでも行った甲斐があった。とても寒いヒロシマの週末だったけれど、遠征してとてもよかったと思えるフォーラムだった。

 

 

 

オレたちの明日に向かって 八束澄子 ポプラ社

「出会う」というのは偶然なものだけれど、出会うべくして出会った、と思えることが時々あります。偶然だけど必然だったよね、という出会い。そんな出会いは、人を変える力があるものです。この物語の主人公・勇気も、ジョブ・トレーニングでの出会いをきっかけにして、これまで見えなかったものが少しだけ見えるようになります。若い身体と心が大きくなるときを、伸びやかな筆遣いで描いた素敵な作品でした。

主人公の勇気は、勉強にはいまいち身が入らないし、部活に出れば顧問に怒鳴られっぱなしという中学二年生。ある日、保育園に勤める姉が、交通事故を起こしてしまうのだが、どうやら相手の中学生は、親に強要されて当たり屋をしているらしい。一歩間違えれば大変な事態になるところを助けてくれたのは、保険代理店の今井さんだった。それがきっかけで、勇気はジョブ・トレーニング(職業体験)で今井さんのところに行くことを選ぶ。そこで出会ったのは、保険という大きなお金が絡む世界の、大人の姿だった・・・。

保険というのは、大金が絡むだけに、今井さんの言うように「人間の負の側面を刺激する」んですよね。お金というのは、生きていくことと直結しているだけに、非常に生臭い一面を持っています。勇気は今井さんのところに通っている二日間のうちに、人のいろんな面に触れます。その冷たさや暖かさが、勇気の若い心にまっすぐ沁みこんでいくのを読みながら、ああ、これが「知る」ということなんだなあと思ったんですよ。何でも知っているふりをする人っていますよね。「そんなこと、ニュースでもいつもやってるよね」とか、「ああ、どこかで読んだことあるよ」というくらいで、「知っている積り」になっている、そんな人の「知っている」は、「忘れてた」と同じくらいの重みしかない。「知る」というのは、心に刻むこと、自分の内的な体験として血肉化することです。介護する奥さんの頭をなでるおじいさんの無骨な手や、稲刈りのお礼にとおばあさんが作ってくれたちらし寿司の味や、今井さんが話してくれた交通事故のあとの何ともやるせない光景。そして、姉の車に当たり屋として突っ込んできた男の子の家庭の事情。それまで無関係だと思っていたことが、姉の事故や、今井さんとの関わりを通じて、顔が見える人の出来事として勇気の胸に刻まれる・・・それが、彼を変えていくのです。

この週末、広島に行っておりました。(その話は、またゆっくり書きますが)。平和記念公園の中に、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館があります。そこには、原爆で命を落とされた方の名簿と写真が収められており、常にそのお顔を見ることができるようになっているのです。映し出される一人ひとりの顔を見つめながら、私は、何万人という死者の一人ではない、たった一つの存在であったそれぞれの方の命の重みを感じました。誰も、「どこにでもいるような一人」ではなく、ほかの誰でもない、たった一人の存在であること。その認識を持つことが、かけがえのない命をもって生きる人間同士が生きていく基本なんですよね。そこを失ってしまったとき、私たちは大きな間違いを犯すことになります。そして、他者をかけがえのない存在として認識することは、自分の大切さにも気付くこと。関わりを持った人に誠実に対応する今井さんの仕事ぶりを見て、勇気は「この社会のどこかに自分の居場所と仕事がある」と、ぼんやりとでも思えるようになる。それもまた、他者に顔の見える存在としての自分を思い描けた上のことだと思います。何やら不安だらけの、漠然とした未来に押しつぶされそうになる若い子たちに、この感触を伝えたいという作者の思いが伝わるような気がしました。

勇気の家庭のあけすけな明るさや、勇気が友達のきぼちんと、犬のマロンの三人(笑)ではしゃぐおバカっぷりが楽しくて、保険という重いテーマをテンポ良く読ませる役割を果たしています。雪合戦のシーンなんかは笑いながら、なぜか涙が出てしまいました。若い子の笑顔に泣けるなんて、年やね・・と思ったりしましたが(笑)挿絵や、今井さんの業務日誌がはさんである工夫も面白くて素敵なんですが、少しもったいないと思うのが、タイトルです。もう少しひねってあったほうが、若者の食い付きが良かったんじゃないかしらん。ラノベ世代にはストレートすぎないかしら・・などと、余計な心配をしたりしました。凝りに凝ったラノベのタイトルを常に見ているものの老婆心かな。とにかく、たくさんの若い人が手にとってくれたらいいなと思います。

2012年10月

ポプラ社

冷血 高村薫 毎日新聞社

神は細部に宿るというけれど、この小説における高村さんの仕事の見事さは恐ろしいほどだった。CGなんて目じゃないほどの緻密さで小説が立ち上がってくるのである。圧倒的な力でねじ伏せられ、引きずり込まれる。虚無へ、人間が持つ果てしないブラックホールのような虚無へと連れていかれ、逃れるすべもない。しかし、その中に、ほんの少しだけ見える、人として踏ん張る足がかりがあって、それが合田という、ずっと高村さんと共に歩んできた存在に見え隠れしているのが、今、この時代の『冷血』として高村さんが命がけで提示してくれたものなのかもしれないと思う。

この物語の背後にあるのは、フラクタルな、逃げ場のない都会の近郊地の風景だ。著者の高村薫さんが、インタビューで、「16号線があって、初めてこの人物の物語が成立する」とおっしゃっていたが、ここに描かれる16号線の風景は、東京という都会の周り、日本のどこに行っても広がっているような大きな道路沿いに広がる無機質な風景だ。都会と田舎の境目、田舎ほど濃い人間関係もなくて人の出入りも激しいけれど、どこか全てが他人事のような風景だ。トラックとコンビニと、チェーンの飲食店にショッピングモール。車で旅行していると、あまりに同じような風景が続くんで、時々どこを走っているんだかわからなくなることがある。それは、ル=グウィンの言う「同じものが常に、同じものへとつながっていく」「他者はない。逃げ道もない」(※)風景なのかもしれない。その逃げ場のない場所から、二人の殺人者がむっくりと立ち上がり、特に理由もないままに歯科医の一家を惨殺する。高村さんの筆は、その二人の男が身体の中に抱えている、逃げ場のない熱量を文章の細部にまで漲らせる。犯行前の二日間ほどの二人の行動を読んでいると、爆発寸前のような膿が、二人の間に膨れ上がっていくのがわかる。この二人は出会いサイトで知り合った行きずりのような関係性なのだけれど、彼らにはある共通性があると思う。それは、思考停止だ。

犯人の二人は、一家四人を即死させるような理不尽な犯罪のあと、まことに幼稚な行動をとる。何だかもう、犯罪を隠すのもめんどくさい、というような投げやりさなのだ。ペタペタとあちこちに足跡をつけた二人は逮捕され、そこから合田も含めた捜査班の徹底的な検証が始まる。生い立ちから成育歴、当日の行動から何もかも調べ上げられ、追求されるのだけれど、そこには犯罪に繋がる「なぜ」という理由はまったく見当たらない。ただただ、二人のたどった、やり切れない人生の風景だけが延々と立ち上がるだけなのだ。その一つ一つは犯罪と明確な繋がりは持たないのだけれど、少しずつ積み重なることで、親不知が腐る圧倒的な疼痛のように彼らから思考能力を奪い、雪崩が起きるように理不尽な暴力へと二人を押し流していく。「考えていたら、やってません」という彼らの言葉は、掛け値なしに本当なのだ。私には、その思考停止が、「冷血」というテーマに繋がるものだと思えて仕方なかった。そして、彼らのような思考停止は、私の中にも巣食うものであると思わざるを得ないのだ。

私の人生にも、彼らのように積み重なってどうしようもない風景がある。犯罪は侵さないけれど、そこから目をそらして考えないようにすることで、成り立っている日常があるのは事実だし、自分の人生から目をあげても、やはりそこには累々と積み重なっているやり切れない風景が広がっている。私は最近になって漸く戦争や、ヒロシマと長崎の原爆投下や、貧困や、原発について考えるようになった。それらについて少しずつ勉強し始めて思うことは、これまでの自分の徹底的な無関心と思考停止だ。こんな大きなことを自分のような小さな存在が考えてみたところで、なんになるだろう。それよりは、自分の目に見えていることだけを考えて過ごしたほうが、精神衛生にもいいし、という感覚でほったらかしてきたことがたくさんある。その自分の無関心を振り返ってあれこれ考えていると、私と同じような無関心の洞が、あちこちに空いているのが見えるような気がする。私もやっとその洞を見始めたところなので、何の偉そうなことも言えないし、その洞を見つめれば見つめるほど、どうしようもない人間存在のカオスにはまり込んでいくことは目に見えているのだけれど、その洞に目を凝らしておかないと、大変なことになるんじゃないか(いや、もう、なっているんだと思うけれど)という予感がしているのだ。『新潮』の2月号「有限性の方へ」という評論の中で、加藤典洋さんが、今私たちの足元に空いている巨大な穴ぼこについて言及されているけれど、たとえ視界に入らないような大きすぎる穴ぼこであっても、「仕方ない」という思考停止だけはしてはいけないように思う。この年齢で青臭いといわれても、マイノリティとして小さな小さな声に過ぎなくても、考えて、それを言葉にしていかなければ、この穴ぼこはもっと巨大になってしまうような気がする。この『冷血』という物語の男たちに穿たれている思考停止という洞は、今、私たちの中に、足元に空いている穴ぼことそういう意味で繋がっていると思うのだ。

その巨大な穴ぼこの前で、ただひたすら目をそらさずに見つめる役割をはたしているのが、合田という人間だ。この『冷血』というブラックホールのような暗闇の中で、唯一光となって掲げられるのは、この犯罪と二人の男に正面から向き合い、ひたすら泥臭く正体の見えない暗黒を見据え続けた合田という男の眼差しだと思う。犯人にも「学生のようだ」と言われるような合田は、輪郭を持たない化け物のような彼らの犯罪を調べつくし、何とかして言葉にしようとあがき続ける。この物語のほとんどは、その営みで埋め尽くされている。そして、世間が彼らのことを忘れる頃になっても、彼らにハガキを書き、会いにいく。何度わからないと言われても、とにかく彼らの言葉を聞き、彼らと同じ映画を見たり本を差し入れたりして読んだ感想を述べ合ったりする。そんな高村薫さんがおっしゃるように、「事件を超えて人間そのものと向き合うようになった」合田に対し、殺人者である井上が書き送るハガキの内容が、「文学」なのだ。多分彼らにも、自分自身の犯したことは「わからない」ことなのだと思う。でも、合田との、まるで合同作業のような検証と、「人間として」彼らと向き合う眼差しから、井上の中に言葉が生まれてくる。その言葉は、生きて思いを伝え合うからこそ生まれる、『冷血』の中に微かにめぐる希望なのかもしれないと思う。希望という言葉を使っていいかどうかわからないほどの希望ではあるけれど。そのほのかな温かみは、冒頭に置かれている、もう誰とも思いをかわすことの出来ない殺されてしまった少女の日記の言葉が放つ死者の孤独を際立たせる。彼女の日記は、誰も受け止めてくれる人がいないまま、打ち捨てられるのだ。血のつながった祖母にさえも、「見たくもない」と言われてしまう、少女が唯一残した言葉たちが不憫で仕方なかった。それに比べて、井上には最後の最後まで自分の言葉を聞いてくれた合田がいた。少女と井上を分けていたのは、生きているかどうかという違い、その言葉を受け止めてくれる誰かがいるかどうかの違いなのだ。その理不尽も含めて、「生きよ」とぎりぎりの場所から発する高村さんの問いかけは、カポーティの『冷血』をそのまま使ったタイトルに相応しい、今読むべき本だと思う。図書館の返却期限があったので、だいぶ急いで読み飛ばしてしまった。これは、買ってじっくり読み直さなければな、と思う。

(※『いまファンタジーにできること アーシュラ・K・ル=グウィン 河出書房新社)

2012年12月刊行

毎日新聞社

 

 

 

劇団6年2組 吉野万理子 学研教育出版

懐かしや、クラス演劇。思い出すとけっこうやってましたねえ。外したときのリスクも高いんですが、その分ツボにはまったときの達成感は半端なかったことを覚えています。盛り上がれば盛り上がるほど凝り性になって、家からいろんなものを持ってきてあれこれ作ったり。私たちの頃は、放課後塾に行っている子なんて全くいなかったので、時間が使い放題だったというのもあるかも。そして、あの頃はドラマ全盛の時代です。百恵ちゃんの『赤い~』シリーズに本気で泣いていた時代ですから。漫画だって『ベルサイユのばら』に『ガラスの仮面』という、セリフを口にするだけでお芝居気分になれたものがいっぱいありました。どれだけ皆で真似っこしたことか。近所のバラの生垣のところで、オスカル役とアンドレ役を決めて、ラブシーンやったり(笑)そんな下地もあったせいか、とにかくやってみたかったんですよね、お芝居というやつを。この本を読んで、久しぶりにあの頃のときめきと楽しさを思い出しました。

お芝居の楽しさは、何にもない空っぽのところから、皆で架空の国を作り上げるところ。この物語もそうです。学校に公演に来たプロの演技に魅せられて、卒業のお別れ会でお芝居をやりたい!と思った立樹が、クラスの皆と自分たちだけのシンデレラのお芝居を作り出すところが描かれます。お芝居なんて、どうしたらできるのかわからない立樹たちは、プロの人に話を聞きにいったり、自分たちで台本を探したりします。でも、俄然面白くなるのは、台本通りにする必要はなくて、自分たちの自由にお話を作り上げていけばいい、と知ったところからです。誰もが知っているシンデレラのお話。でも、なぜ継母はシンデレラに意地悪したくなるのか。魔法使いはなぜシンデレラを舞踏会に送り込んだのか。「なんで?」と登場人物の気持ちになって考えていくことで、物語はどんどん膨らんで、自分たちだけのリアルな心が入っていく。そして、それが、見ている人に伝わっていく。「伝わる」ということは、とても嬉しいことなんですよね。その喜びが、とてもストレートに物語から溢れてきました。

「伝える」というのは、本当は生きていく基本なんですが、これがけっこう難しかったりします。立樹たちがこのお芝居から見つけた「人の気持ちを考えると、これまで見えなかったことが見えてくる」ということは、思いを伝えたり、伝わったりするために絶対必要なことなんだと思います。自分ではない誰かになりきってみる、という経験は、これまで知らなかった人の心に踏み込んでみることに繋がりますよね。この物語でも、立樹やクラスの子どもたちは、お芝居を通じてお互いの知らなかった部分に気づきます。自由な想像力は、現実を変える力ともなるのです。そのパワーを、さわやかに描きあげた楽しい物語でした。ト書きというあまり子どもたちが目にしない脚本形式を物語の中に交えてあるのですが、とても自然で新鮮な印象になっていて、これはとても苦労されたところではないかと思いました。脚本家でもある吉野さんの手練の賜物ですね。挿絵も『チームふたり』のコンビである宮尾和孝さんで、さすがのチームワークです。

2012年11月刊行

学研教育出版

 

 

大きな音が聞こえるか 坂木司 角川書店

毎日がつまらない。このままオトナになっても、退屈な人生しか待っていないような気がする。「なりたいタイプの大人がいない」のがここ数年来の悩みである主人公の泳。何かに向かって努力する気力もわかず、ただぼんやりしている夏休みが、「ポロロッカ」という目標にロックオンしたとたんに激変します。狭い場所で、言葉をこねくり回して何もかもわかった積りになっていた泳が、自分の身体を使って生きることを確かめていく旅。若い身体は、成功も失敗も、すべてを糧として吸収していきます。その「骨がぎしぎしいうくらい」の成長を、物語として言葉で読む面白さに酔いました。ポロロッカというのは、月の引力が引き起こすアマゾン河の大逆流です。3mもの高さの波が河口から内陸に向かって逆流する。海の波なら消えてしまうものが、一方方向にどこまでも続いていく。サーファーには応えられない波なのかもしれません。主人公の泳は、その波に乗りたいと思うのです。

かったるいけど特に反抗もせず、学校でも空気を読んで本音は言わず、自分の居場所を確保する。最初に展開する友達の二階堂との会話なんか、THE・男子高校生の日常という感じ。この「空気を読む」というのは、日本独自の文化ですよね。お互いぶつからずに物事を進行させるという面においては優れていますが、常に束縛と排除されるかもしれないという恐れをはらみます。皆でぬるま湯にいることをお互いに監視して、抜け駆けを許さない。でも、ポロロッカでサーフィンするという目標を定めてバイトを始めたところから、その「空気を読む」文化から、泳は抜け出していきます。引っ越しのバイトも、まるで外国のような中華料理店のバイトも、お互いの空気を読めるかどうかを判断基準にするような付き合い方では、到底勤まらない職場です。そして、アマゾンという場所に行く手続きを一人でするためには、誰かが空気を読んでくれるのを待っていても何も始まらない。ちゃんと正面から話をし、自分のやりたいことを説明する必要があるのです。このあたりから、学校にいる時の泳と、自分のやりたいことに向かう場所にいる泳に違いが出てくるんですよね。違う世界に触れることで、新しく生まれてくる自分の手触りが、学校の同級生の女の子たちのゆるふわぶりとバイト先のエリという苛烈な女子の対比や、クラスメイトとの諍いを通してうまく描かれています。若いっていうことは、次々と自分の殻を抜け出していけることなんですよね。うらやましいわ、ほんとに(笑)

その脱皮ぶりが、ブラジルに渡ってからすごいことになるんですよ。このあたりからぐんぐん波に乗っていくサーファーそのものの弾けっぷりで、読んでいて面白かったのなんの。いきなり日系人の可愛い女子と・・・という展開になったときは「おいおい、調子に乗りすぎやろ」と爆笑しましたが(笑)強烈な日差しの中での濃い経験は、くっきりと光と影をつくって泳に刻まれます。違う文化や価値観に触れること。大きな自然に身一つで相対してみること。どちらも少年を大人にします。泳は外国人のパーティの船に乗せてもらい、ポロロッカに乗ることになるのですが、何しろ外国人相手に空気をどうのこうのというのは全く無理です。自分の言いたいことをはっきり言わないと、かえってややこしいトラブルを生むことになります。そして、泳はアマゾンの自然から、自分を含めた人間が、最後の最後は、自分の身体ひとつで生まれて死んでいくだけのものであることを教わっていくんですよね。河に落ちる夕焼けの中でぼんやりと自分が死ぬときのことを想像する泳は、身体と心が釣り合って過不足ない幸せの中にいるんだと思います。ただ身体一つで波に乗ることだけを考えてわいわいと過ごす船の上の男たちの、なんて楽しそうなこと。その生き物としての根源的な喜びが爆発するポロロッカのサーフィンのシーンは圧巻で、理屈抜きに楽しかった。

俺なんて、俺の身体以下の存在なんだ。カラダ、えらい。
心なんていらない。オレ、いらない。

このサーフボードの上での泳の叫びは、完全に自らの身体性を取り戻した雄叫びのように聞こえました。旅から帰った泳は、両親が嘆くほど大人になって帰ってきます。でも、そこで子どもっぽいと泳が思っていた父親からかけられるラストシーンの言葉がいいんですよね。目の前にいるよく知っているはずの人間だって、「こんなもん」と思い込んですむ存在じゃない。この父と子の関係も、この物語の面白さの一つでもあります。

これから、泳はとってもモテる男子になるに違いない。いい男になるには、旅だね!と勢い込んで本を閉じたものの、家でぐだぐだしてる息子を見つめて遠い目になる今日この頃。うちの息子たちは、いつ旅に出るのかしら・・・。などという愚痴は置いといて(笑)坂木さんの、若者たちへのエールがきこえてきそうな力作でした。読み応えたっぷりの青春小説です。

 

2012年11月刊行

角川書店

かえでの葉っぱ D・ムラースコーヴァー 関沢明子訳 出久根育絵 理論社

とても美しい絵本です。この何とも美しい絵本に、もっと他に素敵な表現はないかといろいろ考えたんですが、美しいものは美しいんだから、仕方ない。(開き直ってますね)金色で、片方のふちがピンクの大きなかえでの葉っぱが、ふわりと自分の樹から旅立ち、さまざまな場所に自分のその身を置く話です。ムラースコーヴァーさんのとてもシンプルなテキストと、出久根育さんの詩情に満ち溢れた絵が溶け合って、一頁一頁がとてもドラマチック。ツバメと葉っぱが一緒に空を飛んでいる頁なんて、一緒に風を感じてドキドキします。こんな風に空を飛ぶなんて、絶対に私たちは体験できない。でもね、不思議なんですけど、私はどこかにこの記憶を持っているようなんです。少年と山の上で出会うことも。虫を乗せて川を下るのも。無数の星たちを見上げて夜の空を飛んでいくのも。雪の下で、じっと春を待つのも。この絵本の舞台のチェコなんて全く知らないのに、葉っぱの出会う風景が、心がぎゅっとするほど懐かしい。散々旅をして、いっぱい命と出会って、そのあと懐かしい人に火の近くで再会して燃え尽きる。そんなことが、いつか自分にもあったと思うんです。

生まれて、死んで。輝いたり燃え尽きたり、風に吹かれて舞い上がったり、どこかに落ちてそのまま朽ち果てたり・・・きっと、私たちはそんな風に命を繋いで繰り返してきた。その流れが、自分にも、葉っぱにも、少年にも、ムラースコーヴァーさんにも、出久根さんにも、そして私にも流れている。言葉にならない原風景のような記憶が溢れるような、静かだけれどもドラマチックな時間がここにあります。ただただ、その時間に身を浸す寂しさに近いような幸せを感じました。手元に置いて、いつも眺めたい一冊。この絵を原画で見たいものです。どこかで原画展をしてくださらないかしらん・・・。

 

2012年11月刊行

理論社

 

映画 100万回生きたねこ

私は、否定的なことをネットに乗せるのは好きじゃない。せっかく語るのなら、好きなもの、自分が感動したことについて書きたいと思うから。でもなあ・・・今日は辛口です。何故かというと、佐野さんファンとして、とても残念だから。佐野さんという稀有な存在をドキュメンタリーにするのに、あれでは残念すぎて仕方ないと思うのです。

『100万回生きたねこ』を今日kikoさんと見てきた。大好きな佐野さんのドキュメンタリーということで、期待は大きかった。佐野さんはとても大きな人で、ありのままで、何もかもを丸ごと見つめる人。時々、自分が嘘っぽくて空っぽになってると思うと、私は佐野さんの本を読む。すると、内臓がちゃんと自分の中に帰ってきてくれる気がするのである。佐野さんの体はいなくなってしまったけれど、佐野さんとはいつも本を通してしか繋がっていなかったせいもあって、私にとっては永遠の存在だ。でもでも、その最後の日々に、映像を通して触れることができるかもしれないと思うと、私はこの映画がとても楽しみだった。

しかし映画の内容は、期待していたものとは全く違った。まず残念だったのは、佐野さんと、ほかの登場人物たちが、全く有機的な繋がりを持たなかったという点だ。ほんの一瞬佐野さんの肉声が流れただけで、そのあとは延々と「それぞれの生きづらさと向き合う読者たち」が絵本を読み、自らの生きづらさを語る映像が続くのだが、私には、彼女だちの生きづらさと佐野さんの絵本や生き方がどう関わりを持つのか、さっぱりわからなかった。それもそのはず・・・映画に参加した女性たちは、この監督さんの前作の映画を見に来た方たちなのである。佐野さんとも、「100万回生きたねこ」とも、なんの関わりもない。だから、単に自分語りに終わってしまうのである。しかも、その苦しみの描き方というか、映像の演出が、これでもかこれでもかと過剰すぎて、かえって彼女たちの真実が卑小化されてしまってこちらにまっすぐ伝わってこない。「人の苦しみってこんなもんでしょ」という監督さんの思い込みの中に、佐野さんも読者の人たちもすべてを押し込んでしまったようなそんな印象だった。これでは、佐野さんに対しても読者の方たちに対しても失礼ではないのかしらと思う。

 

そして、何よりも残念だったのは、佐野さんという大きな存在に対して、全く切り込んでいないこと。佐野さんという天衣無縫な人を前にしてどうしていいのかわからない、というのはわかる。簡単な物差しでは測れない人だし。だからこそ、佐野さんを自分の理解できる場所に無理やりあてはめるのではなく、「わからない」ということをまっすぐ見つめてぶつかっていくべきだったと思う。簡単な理屈なんかに人間を押し込めては、大きなものが抜け落ちる。映画では、お顔を撮影するのは佐野さん自身が拒否されたということで、肉声だけが流れた。その声の、なんと魅力的なこと。一度も聞いたことがないにも関わらず、「ああ、佐野さんだ!」とすとん、と胸に落ちてくるほど説得力がある。もっと聞かせてよ!と私は歯ぎしりしそうだった。「私ね、もうすぐ死ぬのよ」なんて、あの声で言える人は、そうそういない。佐野さんへのインタビューは、撮影時間にして20時間もあるらしい。もったいない。心底もったいない。それをしっかり編集して、佐野さんのアトリエや自宅の風景とともに見せてくれるだけで十分だったんじゃないか。佐野さんは、佐野さんだ。いつ、どこにいても、死の間際にいても、大きな樹がただそこにあるように100%佐野さんで、私はそんな佐野さんにずっと触れていたかった。猫のように、すりすりしたかった。佐野さんのインタビューだけで、もう一つDVDを作ってくれはらへんかな。アトリエにあった、原画や未公開の絵を、もっと見たかったな。何の小細工もいらない。ただ、そこにいる佐野さんを感じたかった。先日見た『天のしずく』は、監督さんがまったく表に出ずに辰巳さんという「人」を丁寧に見つめ、そこから始まる広がりを見事にとらえていた。ドキュメンタリーは、そうあって欲しい。

残念のあまり、筆が進んでしまいました(汗)でも、監督さんが佐野さんに会いにいかなければ、佐野さんの肉声を聞ける機会はなかったんですよね。うん。そこは、素直に感謝です。もったいないけどね。ほんまに、もったいないけどね・・・(何回いうねん!)