キミトピア 舞城王太郎 新潮社

舞城氏の言葉は、日常に切り込んでくる鋭く、扇情的な凶器のようだと思う。「言葉」というものは不完全で曖昧な道具で、私たちの生活や意識と密接に結びついている。個人個人の言語感覚のずれもある。その「個」に結びついた言語をいったん日常から引きはがし、厳密に再構築した上でもう一度「日常」という風景の中に放り込む。すると、言葉は新たな熱を帯びて「個」の中に切り込んでゆき、私たちが言葉にすることを諦めて葬り去ろうとしていた感情や奇妙なズレや暗闇を掘り起こしていく。文学というものは、多かれ少なかれ、この営みを繰り返すものだけれど、舞城氏ほど、言葉の可能性と限界を同時に感じさせてくれる人はあまりいないんじゃないか、と思ってしまうのだ。

『キミトピア』と名づけられたこの短編集は、誰でも一度は巻き込まれてしまうような、人間同士のトラブルやズレを克明に描き出す。登場人物、特に語り手は、とにかく論理的に言葉を駆使して思考し、問題の本質をえぐりだそうとする。たとえば冒頭の「やさしナリン」。夫と義妹の「他人のかわいそうに弱い」という性格が巻き起こす、お金とコンプレックスの混じった身内のゴタゴタ…もう、他人に説明するのもめんどくさいこういうゴタゴタって、誰でも一度や二度は巻き込まれたことがあるはず。ものすごく精神力を消耗するんだよなあ、こういうのって。言葉を尽くしても尽くしても、なぜか見事に核心がすれ違っていくあの隔靴掻痒というか、気持ち悪さが、こんなに見事に再現されるのが信じられないくらいなのだ。主人公の櫛子は、夫に、義妹に、ありとあらゆる言葉を駆使して彼らの「やさしナリン」の理不尽さをわからせようとする。この櫛子の言葉は、「そう!それが言いたかったの!」と、自分の過去のゴタゴタに使いたかったセリフ満載の明晰さなんですよ。このあたりの言葉の縦横無尽さは、「真夜中のブラブラ蜂」の網子の言葉たちなんかも読んでてうっとりするくらいです(笑)「好きなことやっていいよ」と言いながら、絶対にそう思ってない夫や息子の無意識の領海に、ビシビシと切り込んでいく網子の言葉たちに、すっかり惚れました。(個人的な感情が入ってるな・爆)

しかし、しかし。櫛子にしても網子にしても、言葉を交わせば交わすほど、相手との距離が離れていくんですよね。言葉たちが、見事な理論と世界観を構築していけばいくほど言葉が照らす光は、同時にくっきりと距離と、お互いの間に横たわる暗闇を暴きだすことになる。…言葉の可能性と限界とは、人間同士が分かり合おうとする可能性と限界のことだよな、とつくづく思う。キミと僕、あなたと私がいてわかり合おうとすることは、どこにもないユートピアを願うことなのかもしれない。でもでも。その言葉の限界を、人と人との果てしない距離を、舞城氏はありとあらゆる仕掛けを駆使して突き抜けようとするんですよね。流動的で、ヒステリックな「今」をガリガリと齧りながら走る、その乱舞っぷりを、私は頼もしいと思うし、エロくて素敵だとも思うし、とことんいてまえ!とも思うのである。文体の疾走感を読む楽しみだけでも、相当ポイント高いです。…なんで、舞城氏は、芥川賞を取れないんだろう。不思議だなあ。

2013年1月刊行
新潮社

図工準備室の窓から 窓をあければ子どもたちがいた 岡田淳 偕成社

昨日、この本を神戸からの帰りの電車の中で、待ち切れずに読んでしまったんです。いやー、失敗でした。もうね、面白すぎて、楽しくて、うふうふと声が漏れてしまうのです。あまりにツボにはまって、爆笑したくなるのを必死でこらえ、でも読むのをやめられなくて目を白黒してる私は、相当ヘンな人だったと思われます(笑)トンビのトンちゃんのくだりや、川を飛び越えられんで落っこちたお話、トイレのよこに図工準備室があるのをええことに、肝試しにきた子どもたちを脅かしてるところ・・・「さんばんめーのーはーなこさーん」「は~~~い」・・・もう、帰宅後再読して、転がりまわるくらい笑いました。「先生、何してんねんな!」ってツッコミながら。

そう、この本を読んでいる間、私はすっかり岡田先生に図工を教えてもらってる小学生みたいな気分でした。私、小学生のときは図工が大好きだったんです。でも、段々人と自分の作品を比べるようになって、あんまり好きじゃなくなってしまった。ほんまに勿体なかったなあ・・と、この本を読んで思ってしまった。岡田さんは、ずっと小学校で図工を教えてらして、その想い出がこの本にはぎっしり詰まっています。それがもう、楽しいのなんの。岡田先生は、図工準備室をうす暗くして、大きな枝やら不思議なオブジェ、雑然といろんなものを詰め込んで、ワンダーランドみたいにしてしまう。しかも、「先生のゆるしなく、じゅんびしつにはいったら、おしりペンペンです」などと書いた紙を張る。思わず裏返すと「うらがえしたひとはもういっぱつおしりペンです」と書いてあって「つぎのやつをひっかけるから、もとのむきにもどしておくこと」なんて、書いてある。ひゃ~!もう、こんな図工準備室に、行かずにおられようか、ってなもんです。そして、岡田先生の授業の楽しそうなこと!あー、これやりたかった!(今でもやってみたい)と思うことばっかり。それだけやなくて、岡田先生はいろんなことを子どもたちに働きかけます。演劇部をつくったり、お昼休みの放送のDJをして、そこで自作の短編を朗読してしまう。その短編は、今、自分が通ってる小学校が舞台なんです。ああ!なんて幸せなこどもたち。だって、その物語は、「今」の自分たちと一緒にあるワンダーランド、現在進行形の物語なんですよ。それは、不思議と一緒に生きること。子どもたちは、どんなにドキドキして放送を聞いたやろう。これこそ、エブリディマジックの魔法です。

岡田先生が図工の授業で目指してはったのは三つ。

わくわくどきどきしながら、
①絵をかくことが好きになること
②ぼくはやったぞ、と思えること
③あの子やるなあ、と思えること

ああ・・これに尽きるなあ。なんかもう、これがすべてやなって。そう思います。生きる喜びが、ここにはぎゅっと詰まっています。「図工は、いつの日か豊かな人生を送れるために、ではなく、今を豊かに生きる実学であったのだ」(本分より)私たち大人は、子どもたちに「先々のために勉強しなさい」と言う。でも、その「先」って、どこにあるんやろう。高校受験のため。大学受験のため。就職のため。スキルアップのため・・いつまで行っても「先」ばかり見なければならない人生って、しんどくない?って、思うんですよ。子どもたちの気分を支配している行き詰まり感って、そこにあるんじゃないのか。そう思います。岡田先生のような発想の先生が教育現場にいはって、子どもたちに「先生、はよ図工しよ」と言われる授業をしはることは、どんなに大切なことか。

昨日「しあわせなふくろう」さんで、この本にサインをして頂きました。その時に岡田淳さんがイラストも一緒に書いて下さったんです。私が『夜の小学校で』の最後の物語、『図書室』がとても好きだと言うのを聞きながら書いてくださったのは、人が軽く腰に手をあてて佇むシルエット。私は単純に「うわあ、素敵だ」と喜んで「ありがとうございます」と脳天気に抱きしめて帰りました。そして、この本をずーっと読んでいって。その『図書室』の話が出てきました。そこに書いてあった「本」に対する思を書いた一節に、私は撃ち抜かれてしまったんです。「世界はやっていける、人生は生きるに値する、ひとは信頼できるという感覚を、ドリトル先生の台所は育ててくれたのではないか」そう!これやん!って。私が幼いころに物語からもらったもののこれやった。そして、これからを生きる子どもたちに必要なんは、やっぱりこれやんな、って。もう、まっすぐ胸の真ん中に落ちました。岡田さんの作品の根底にあるのもこれで、だから、私はいっつも岡田さんの物語に勇気と優しさをもらうんやな、って。そう思って頁をめくったら・・・その言葉の裏に、私がサインしてもらった人のシルエットの絵が出てきたんです。うわあ!とびっくりしました。岡田先生にやられてしまった。もしかして・・私の一言を聞いて、岡田先生はこの絵を書いてくれはったんかも!そう思ったら、ドキドキして、嬉しくて、何だか泣けてしまった…。岡田先生のマジックに、笑って泣いて、感動して。すごく大切な宝物を頂きました。

この本には、阪神淡路大震災の話も出てきます。神戸に生きる人たちは、みんなこの記憶を抱えています。岡田先生も、きっときっと大変な思いをされたに違いない。でも、岡田先生は、悲しい話、つらい話ではなく、「それ以外の話をしよう」と心に決めたらしいのです。kikoさんもそうなんですが、神戸の人にはこういうところがあるなあと思います。優しいんです。悲しみも辛さも、お互いの中にあることを受け止めながら、「生きてるうちは、笑っとこや」て労わりあうような。美しいもの、美味しいものが大好きで、今を一生懸命生きてる。そんな強さと優しさ。『願いのかなうまがり角』(偕成社)に出てきた、震災でつぶれてしまったまがり角の話を思い出しました。大きな悲しみを知っている人ほど、人に優しい。身内に教育関係が多い私は、学校という場所の大変さについてもよく聞きます。それはそれは、いろんなことがあったに違いない。でも、こんなふうに学校生活の想い出を書き、愛情の溢れる本にされた岡田先生の想いに、たくさん幸せを頂いて、大切なことを教えて頂きました。岡田先生、素敵なサインとイラストを、本当にありがとうございました。大切にします。

2012年9月刊行
偕成社

 

岡田淳さんの「夜の小学校で」原画展と“ひつじ書房”

春らしい穏やかなお天気のもと、神戸まで足を伸ばして岡田淳さんの作品展に行ってきました。JRの摂津本山駅前の画廊「しあわせなふくろう」さんで、『夜の小学校で』の原画展が行われていたのです。

原画はとても素敵でした。やっぱり印刷されたものよりも色がとても鮮やかに美しく、絵から優しさや温かさが溢れてくるようでした。ほかにも素敵な絵がいっぱい出品されていて、そちらは販売されてもいたのですが、何とほとんどが売約済み。わかるなあ・・・だって、岡田さんの絵って、見ていると、何だか胸にぽっと明るいものが宿るようなのです。落ち込んだ時や、心がすさんでやさぐれた時に、あたたかい光を投げかけてくれるような。「しあわせなふくろう」さんの中には、そんな岡田さんのパワーが満ち溢れていました。小さな画廊は、もういっぱいの人。今日は岡田さんご自身も来られていて、本にサインもして頂けるということで、小学生たちがたくさん来てました。皆、手に手に岡田さんの本を持って、とっても嬉しそう。岡田さんは一人ひとりとお話しながら、ゆっくりサインとイラストを描いてあげておられました。もう、子どもたちも岡田さんも幸せそうで、いつまでも見ていたい光景でした。一人の女の子なんか、岡田さんの大ファンで、ノートに書いた自分の物語も岡田さんに読んでもらおうと持ってきてて。一生懸命な顔して岡田さんが読むのを見てました。一生の思い出になるよなあ、もしかして、将来作家さんになって、この日のことをエッセイに書いたりして・・・なんて思うのも幸せでした。もちろん私もkikoさんもサインして貰いました。私がサインしてもらったのは『図工準備室の窓から』です。

その「しあわせなふくろう」さんの数軒横に、児童書の専門店「ひつじ書房」さんがあります。ここは、kikoさんの馴染みの本屋さん。児童書の専門店として有名です。以前からkikoさんに聞いて、ぜひ行ってみたかったので、今日は心おきなく埋没(笑)kikoさんと私をこんな本屋さんにほりこんだら、もう、何時間でもいます(笑)岡田淳さんを偕成社に紹介して、作家さんになるきっかけを作られたのは、ここの店主さんです。児童書に深い造詣と理解をお持ちの方なのです。もちろん品ぞろえも充実。大好きな本、気になる本がいっぱい。選書がとても素敵なんですよね。端から端まで欲しくなる。絵本から専門書まで、何を聞いてもいろんなお話をしてくださるので、嬉しくなってあれこれとおしゃべりしているうちに、数時間も経ってしまったという・・・。本を、児童書を、とても愛してらっしゃる。その愛情がたっぷり詰まった本屋さんでした。アイザック・B・シンガーの『ショーシャ』(吉夏社)と、マーガレット・ワイズ・ブラウン&バーバラ・クーニーという大好きなコンビの絵本『どこへいってた?』(童話館)を購入。ここは、また通ってしまうと思います。

たっぷり本を見たあとで、kikoさんのお友達の雑貨屋さんでカレー皿を衝動買いし、「tea room mahisa」で、美味しいスイーツとミルクシナモンティーを満喫し、帰りの電車の中で岡田さんの『図工準備室の窓から』を読んで、電車内で爆笑したくなるのを必死でこらえつつ帰宅するという、至福の一日でした。楽しかった~!

※「しあわせなふくろう」での原画展は、3月26日(火曜日)まで。最終日の26日は、1時頃から岡田さんご自身が来店されます。店内で本の販売あり。お近くの方は、ぜひ!

 

 

 

 

おなやみジュース 15歳の寺子屋 令丈ヒロ子 講談社

この本、まず、タイトルがいいなあ!と思うのです。「おなやみジュース」。とても日常的な言葉で、核心をぎゅっと掴むこの言語感覚が、いつも凄いなあと思うのです。令丈さんは大阪の方で、日ごろコテコテの大阪弁の私としては、文章のリズムや言葉のニュアンスが、とても心に馴染む、というのもあるのですが、この本、15歳をとっくに過ぎた…過ぎたというのもはばかられるような年齢の私にも、まっすぐ伝わってくるものがありました。自分の不甲斐なさへの実感と、この年齢になってこそわかる「そう!その通り!」という共感がいっぱい(汗)この本、ぜひぜひ15歳の人たちに、いや、それ以外の年齢の人たちにも読んでほしいなあ~と思います。

自分の人生という小さな世界の中で起こる、悩み事。当事者以外には、そないに大したことやなくても、これがもう自分にしてみたらしんどくて、切なくてしゃあないこと。ほんとに、人生ってそんなことの繰り返しなんですよね。令丈さんは、そんな「コップの中の嵐」に揉まれた自分の経験を、「作家になりたい」と気付くまでのジタバタする気持ちを振り返りながら率直に語ってはります。自分の将来を考える時期になって、美大への受験で悩んだこと。悩んで悩んで、お父さんの言葉がきっかけで気付いたのは、「作家になりたい」という自分の本当の思い。その覚悟を受け入れるまでの葛藤。こう書いてしまうと簡単だけれど、自分という人生の「おなやみジュース」を飲み干すのは、とても勇気がいることです。誰のせいにもしない、自分をごまかさないでまっすぐ見つめること。私はこれが今でも非常に苦手で、やっぱりすぐに逃げたくなる。苦い「おなやみジュース」を飲まずにおこうとする弱さ、失敗したり傷ついたりしたくないという防衛本能に振り回される…令丈さん曰く「気に入らないおなやみジュースをそっと捨て、なかったことにする」ことが、たびたびです(汗)そんな私に追い打ちの言葉。「おなやみジュースが、グレードアップして再登場」そう!そうそう!これやん…もう、人生の真理を突いてますわ。その通りなんやわ、と何度もグレードアップに打ちのめされた経験があれもこれもと湧いてきます。私も、若い頃の自分に言うてやりたい。「おなやみジュースは、どんなにしんどくても飲んだほうがええよ」って。ほんまに楽しいことや、嬉しいことは、そんなおなやみジュースから生まれてくることも、知ってるから。

自分の思いを言葉にする、っていうのは客観的に捉える余裕を持つということやと思います。ぐるぐる回るコップの中の嵐に出会ったとき、「あ、これって令丈サンの言うてはったおなやみジュースかも」って思えたら、それだけでも安心できたり、少しだけ違うところからおなやみを見る目が出来るかもしれない。自分以外のだれかに相談してみよかな、と思えるかもしれない。だからこそ、この「おなやみジュース」というネーミングのセンスが素敵やと思います。悩みに悩んだあげくに、自分の命を断つ、なんていう取り返しのつかないことろまで自分を追い込んでしまう悲しいことにならないように。こんなふうに心に届く本がもっとあったらええなあと真剣に思います。ほんまに、たくさんの子どもに読んでほしいなあ。

2009年刊行
講談社

霧の王 ズザンネ・ゲルドム 遠山明子 東京創元社

設定がとても面白いファンタジーなのですが、その設定ゆえに、主人公たちの心の中まで霧の中になってしまい、最後まで共感がもたらす心の震えを感じることが出来なかったのが残念です。

物語は、大きなお屋敷の下働きの少女サリーが、図書室で本を閉じるシーンから始まります。お屋敷はクモの巣のような廊下と、幾つあるのかわからない部屋と、東西南北にそびえる大きな塔、地下の迷路まである壮大なもの。サリーはそこから出たことがありません。いきなり夜の晩さん会にかり出されたサリーは、そこで客の何人かが死んでいく恐ろしい光景を見ます。どうやら、このお屋敷は普通の世界にあるのではないらしい。館の中の人は何度死んでも生き返り、図書室の仲良しの司書は梟だし、庭園にいる猫は、サリーに語りかけてくる。どうやらこのお屋敷は、邪悪な霧の王を閉じ込めるための時の止まった空間らしい。そして、サリーは、この世界のゆがみを正す唯一の存在らしい・・・ということが、読み進めるうちに段々とわかってきます。

凝った装丁と、各章の初めに施されている繊細な挿絵。贅沢な調度や料理のあれこれを読む楽しさ。美しい庭や果樹園の描写なども素晴らしくて、印象的なシーンがたくさんあります。RPGのゲームのように、大きな図書室をホームに、壮麗なお屋敷や地下迷路のダンジョンを探検したくなる。どこまで行っても霧の中、というあやかしの世界をさまよう面白さがあります。狼の頭に手を触れてワープしたりする面白い仕掛けもあって、そこがとても魅力的なのですが・・・その霧が、いつまで経っても晴れない。主人公のサリーは、霧の王をこの屋敷に幽閉した猫の女王・サラのもうひとつの姿らしいのです。しかし、サリーはそのサラの記憶を今は失っていて、なぜ自分が霧の王に立ち向かわねばならないのかがわからない。サリーの人格や個性が、設定に引きずられるままに最後まではっきりしません。そして、頭に霧がかかったサリーを導く役のわき役たちも、やはり、いまひとつキャラクターがはっきりせず、皆で右往左往したまま最後まで行ってしまうんですね。だから、ストーリーの中で誰かに感情移入することがしにくいのです。皆、ぼんやりと輪郭がかすんだまま・・・それが設定の在り方ではあるのですが、やはり物語というのは、主人公と一緒に心の旅をするものであると思うのです。そこが弱いというのが非常にもったいない気がしました。そして、これは私の理解力の故かもしれないのですが、この霧の奥にあるはずの、登場人物たちの真の姿が織り上げる物語の在りようも、しっかりと伝わってこない。だから、最後に霧が晴れたときのカタルシスが、あまり無いんですよねえ。右往左往した割には、あっけなく最後の闘い(?)が終わってしまう・・・というか、実質的にサリーはなんにもしてないというのも、感情移入しにくい理由の一つかもしれません。

何やら文句ばかりつけたような文章になってしまいましたが(汗)文章や設定の魅力と、筋運びとのアンバランスさが何やら歯がゆくて、ついあれこれ書いてしまいました。ファンタジーって、難しいもんですねえ。うーん・・・。でも、この作者は最近矢継ぎ早に作品を発表しているらしいので、翻訳されたらぜひ読んでみたいと思っています。いろんな要素がぱん、とツボにはまったら、傑作が生まれるんじゃないか。そう思わせる作者でもあるのです。いろんな意味で気になる一冊でした。

2012年12月刊行

東京創元社

 

あい 永遠に在り 高田郁 角川春樹事務所

高田さんには、「みをつくし料理帖」という時代小説の人気シリーズがあります。図書館でもたくさん予約が入りますし、夫が大ファンで、私も作品は全部読んでおります。高田さんの物語のヒロインは、いつも過酷な運命に翻弄されます。でも、激しく押し寄せる川の流れの中で、逆らわず、流されず、へこたれず、健気に生き抜くのです。この本の主人公・あいも、そういう女性です。関寛斉という幕末から明治にかけて活躍した医師の妻であり、実在の人。夫とともに時代の変わり目の激動の中に生き、12人の子を産み、6人の子を亡くし・・・古希を過ぎ、すべてを捨てて北海道に入植した夫についていって、そこで人生を終えた人です。

この夫婦の在り方をあえて一言でいうとしたら、「私心がない」ということだと思うんです。関寛斉とあいは、「八千石の蕪かじり」と言われる、貧しい農村の出身です。その地域から血の滲むような思いで学問を収め、医学を志した寛斉は人の何倍もの使命感を持って生きた人。栄達を嫌い、貧しいものからは医療費を取らず、種痘を実施し、晩年になって隠居するどころか、若者でも耐えられないほどの開拓事業にその身を投じていく人なんです。そういう人は、多分に人に、世間に理解されにくい。その夫の孤独を包み、幼い頃からの機織りで家計も支え、子どもを育てたあい。同じ女として溜息が出るほど凄いなと思います。若い頃の自分なら、こんな物語を読んだとき、「こんなに出来た人なんて、いるわけないやん」と思ってしまったような気がします。でも、この年齢になると、自分の狭い枠の中だけで人を判断することの無責任さだけはわかるようになるんですよね。自分の産んだ子のうち、6人を亡くすというのは、どれだけ辛いことだったことか。何度も財産すべてを無くす目にあうのは、家庭を持つ身として、どれだけ不安だったことか。それでもしゃんと立って歩いていけたのは、私心なく「人の本分」を果たしたいと願う夫に、自分の夢も託したからではなかったのかと思います。人は、辛いことがあったとき、自分のために頑張る気力も生まれてこないときでも、人のためなら頑張れたりする。高田さんが書きたかったのは、あいが苦しみや悲しみにぶつかったときに、どう行動し、生き抜いていったのか。彼女を支えたのは何だったのか、ということなのだと思うのです。「人たるものの本分は、眼前にあらずして、永遠に在り」。これは、寛斉を支援した豪商の濱口悟陵の言葉です。この言葉に支えられて生きた夫婦の、不器用な、でも私心のない生き方の尊さを思いました。

3・11から2年が経って・・・いろんな特集を見たり、いろんな人の書いたものを読んだりしましたが、本当に何一つ変わっていない。復興などほど遠い現状の中で、被災地とそれ以外の場所での温度差が大きくなっているようにも思います。アベノミクス、という言葉がやたらに飛び交う毎日ですが、経済というものは本当にこんなにヒステリックなものなんでしょうか。実質的な何かが変わったように見えないのに、なぜ政権が変わっただけでこんなに空気が違ってしまうのか。その動向の在り方というものが、私にはわけがわかりません。くるくる変わる猫の目のように、また空気が変われば簡単に転がり落ちるような気がしてならない。そして、この浮ついた流れが、弱いものや大切なことを置き去りにして忘れようとしているような気がしてならないのです。あいが見つめようとした永遠の中に在るものとはなにか。あいの眼差しに、今の私たちの目線を重ねてみる・・それが、この本の読み方の一つかもしれないとも思いました。

2013年1月刊行

角川春樹事務所

 

狛犬の佐助 迷子の巻 伊藤遊 岡本順絵 ポプラ社

表紙の狛犬さんの顔がとても良いんです。お人よしのワンコのような、今にも何か話しかけてくれそうな、この狛犬さん。ワンコ好きの私としては見逃せません(笑)思わず読んでみたら、体中にあったかいパワーが溢れてくるような、そんなお話でした。

街中にある古い神社を守る2頭の狛犬さんには、石工の佐助と、親方の魂がそれぞれこもっています。この2頭、きっちり神社を守護しているというよりは、いつもしゃべくりまくって過ごしている、ゆるーい狛犬です。いつも弟子の佐助が親方に怒られてるんですが、めっちゃ仲良しなんやね、ということが伝わってくる、とってもいい漫才コンビです。そして、佐助は「心持ちも狛犬らしくなってきたし」なんていいながら、いろんなことが気になってしまう、やっぱりお人よし。最近はいつも神社にくる耕平という少年が気になって仕方がないのです。耕平は飼っていた大切な犬のモモがいなくなって落ち込む毎日。佐助は、ある日、そのモモの行方の手がかりを聞いて、なんとか耕平にそのことを伝えたいと必死になってしまうのです。佐助は狛犬です。石の身動きできない体では、何も出来ない。親方に「あきらめろ」と諭される佐助ですが、どうしても彼は諦められない。その思いが、佐助を石の体から解き放ってしまうのです。

神社というのは、たくさんの人が自分の願いを伝えにくるところです。中には切ない願いもあることでしょう。これまで、願いをする立場からしか、狛犬さんや神社の神様を見たことはなかったけれど、この必死の佐助の奮闘ぶりを読んで、もしかしたら神様もしんどいのかもしれへんな、と思ったり。何かしてあげたい、思いを叶えてあげたいと思っても、してあげられへんことのほうが多いやないですか。いろんなことが見えたり、俯瞰できたりすれば、尚更その思いは強いのかもしれないですよね。家族や友達や、恋人が苦しみや悲しみを抱えているのを知っていて、何も出来ない、というのはとても辛いことです。でも、だからこそ、その「何かしてあげたい」「喜ばせてあげたい」という気持ちというのは、とても尊い、強いパワーでもあると思うのです。佐助のパワーも思わず爆発してしまうのですが、獅子奮迅のおせっかいは、見当はずれの結果に終わってしまいます。これもねえ、何だかじーんとよくわかるんですよね。私もお節介な性質で、ついあれこれ世話を焼きたがるほうなんです。でも、それがいつもいい結果につながるとは限らない。佐助のように見当はずれになることも多いし、やめときゃ良かった、と後悔することもあります。だから、この佐助の気持ちがよーくわかる。佐助は狛犬としてはおバカさんかもしれないけれど、そのおバカさんなところが、よくわかるというか、何とも愛しいんです。

佐助は生きている間も、とても不器用な人でした。でも、だからこそ、親方の期待に応えたいと一生懸命で必死でこの狛犬を彫ったのです。その誰かの思いに応えたいという純粋さが狛犬さんに宿り、息づいている。見かけはあんまりカッコよくなくても、お節介がうまく実を結ばなくても、その「思い」は、とても大切な宝物なんですね。今日読んでいた『それでも人生にイエスと言う』(※)の中で、フランクルが次のようなことを述べていました。「私たちは、生きる意味を問うてはならない」と。私たちは、人生に問われている存在、つまり人生は我々に何を期待しているか、を考えていくことが大切なんだと。そういう生き方は不器用に見えるし、要領よく生きていったり、得することとは縁遠かったりするのかもしれないけれど、どこかで誰かを笑顔に出来る唯一のパワーを生み出すものでもあると思うのです。その不器用な温かさが、溢れてくるような物語でした。狛犬さんの挿絵は、岡本順さん。伊藤さんといいコンビですねえ。見返しのどんぐりも可愛くて、心のこもった一冊でした。

2013年2月刊行

ポプラ社

(※)「それでも人生にイエスと言う」V・E・フランクル 春秋社

 

 

狼の群れと暮らした男 ショーン・エリス ペニー・ジューノ 築地書館

「私たち(人間)は、たかが欲張りの サルにしかすぎない」と述べていたのは、一匹のオオカミと10年間暮らした哲学者、マーク・ローランズ(※)だ。曰く、人間はサル的動物であると。サルは、人生にとって 一番大切なものを、自分に対する利益ではかる。目に見えるもの。 物質、利益、コスト・・つまり、対費用効果だ。 その為に、陰謀を図り、共謀し、相手を欺き、利益をあげることで 文明を築いてきた。確かに優れた 芸術、文化、科学、真実は存在するが、その偉大さを生む知性の核心には 邪悪さと狡猾が潜んでいる。 しかし、オオカミにはそのような邪悪さは一切ない。彼らは計算をしない。 嘘をつけない。相手を欺かない。恐ろしいほどの運動能力があるが、その能力をちゃんと抑制してみせる・・・。この本を読んだとき、私は非常にその論に共感し、親オオカミ派になってしまったのだが、この本を読んでオオカミという生き物の見事さにますます惚れてしまった。しかし、どれだけ惚れても、私にはこのショーン・エリスのようにオオカミの群れに単身のりこんで暮らすことは出来ない。彼は「ウルフ・マン」とも呼ばれるオオカミにとり憑かれた男なのである。

幼い頃から英国の自然の中に育ち、人間よりもキツネにのめりこんでしまう少年だったショーンは、軍隊生活を経たのち、アメリカに渡ってネイティブ・アメリカンの管理するオオカミの生息地区に入り、野生のオオカミと暮らすという経験をする。この本には彼の半生がそのまま綴られているのだけれど、圧巻はやはりその2年間の記録だ。ショーンは寝袋一つ持たずに森の中に入っていく。そしてオオカミの取ってきた獲物を共に食べ、一緒に眠り、子育てまでつぶさに見る。いやもう、ほんとに人間超えてます。you tubeで検索して動画を見たのだけれど、そりゃもう人間離れしてます。どうも、ショーンは人間が苦手なんですね。彼は人間の世界にいるよりは、オオカミの世界にいるほうがしっくりくる。ショーン曰く。

「人間はオオカミに冷酷な殺人鬼の汚名を着せたが、本当の強さの源は武器を持ちながらそれを使わないことにある。人間があのような殺人能力を手にしたら、どれだけの人がそれを使わないだけの抑制力をもっただろうか」

オオカミは非常に家族を大切にする。彼らは自分の命を持続し、子どもを育てるための狩りはするが、必要以上の殺戮は決して行わない。しかし、ショーンも言うように、人間は少しずつ彼らの世界を切り取っていき、オオカミが長い間培ってきた世界のバランスを壊してしまう。その結果人間とオオカミの不幸な遭遇が起こってしまうのだ。こういう動物の世界のことを書いた本を読むたびに、もしかしたら人間はこの地球に一番不要な生き物なんじゃないかと思ってしまう。とにかく必要以上のものを欲しがってむやみに増殖して生態系を壊していくなんて、まるでガン細胞みたいだ。私も便利な生活を手放すことも出来ない、それこそ欲張りのサルの一員なのだから、偉そうなことを言う資格は一切ない。しかし、せめて動物たちの世界のバランスを壊すことだけはしたくないし、正しい知識を持たずに思いこみやイメージで安易な失敗をしたくないと思う。人間にとってはちょっとした間違いでも、動物にはそれが命取りになるのだから。ショーンが命を張って教えてくれたオオカミの生き方は、非常にまっとうで理にかなっている。最近とみにサル的な人間のあれこれがしんどいと思ってしまう中、この本はとても楽しい一冊だった。

私もショーン同様、一番心安らいで落ち着くのは、猫たちと一緒にいる時だ。彼らは言葉を持たない分、何の嘘も裏表もなく、今生きていることの喜びを全身で教えてくれる。この「今」を生き切ることは、やたらに先の繁栄ばかりを夢みて今をおろそかにする人間が学ばなければいけないことのような気がする。

2012年9月刊行
築地書館

(※)『哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン』(マーク・ローランズ著 今泉みね子訳 白水社)

祖母の手帖 ミレーナ・アグス 中嶋浩郎訳 新潮クレストブックス

最後にどんでん返しがある本というのは、レビューが書きにくい。そこがキモなのに、ネタばれになってしまうと思うと、やっぱり伏せとかなきゃ、と思いますもんね。この本もそうで、最後の2頁ほどに、「えっ!」と思わせる仕掛けがあります。仕掛け・・・と言っていいのかどうか。もしかしたらそれは、私たちが誰しも心に秘めている自分だけの物語のあり方そのものなのかもしれないなとも思います。

娘の頃から、まだ見ぬ恋に憧れ続けていた「祖母」は、親の勧めで祖父と結婚するが、夫を愛せないままだった。1950年の秋、結石の治療で湯治に出かけた祖母は、そこで運命の恋人である帰還兵と出会う。つかの間の激しい恋に身を焦がしたあと帰郷した祖母は、初めての男の子を出産する。家庭は何不自由なく営まれていくが、祖母はいつまでも帰還兵のことが忘れられない。何度も繰り返し祖母に帰還兵のことを聞いていた「私」は、祖母の死後に一冊の手帖を発見する・・・。この物語の語り手は、孫娘の「私」です。

全編を通じて、心と体の皮膚感覚に訴えてくる物語です。ストレートに言うと、とってもイタくて痛いのです。まだ見ぬステキな愛を待つ祖母の期待っぷりはイタタだし、その祖母を打ちすえる曾祖母の鞭はじんじんと肌に応えるます。結婚してからの針を踏むようなセックスレスの日々も、それが一転して娼婦のような性生活を受け入れるくだりも、とっても痛い。彼女がいつも体の中に持っている石は、蝶の幼虫が、まだ見ぬ美しい羽を思って作り出す繭のようなものかもしれない。叶えられない夢、この世界のどこかに、自分の運命の人がいるのではないかと思う、人に聞かれたら顔から火が出るほどハズカシイ願望の塊。でも、その痛みの中には、いつもひっそりと、快楽の甘やかさが潜んでいる。女という性が運命のように持っている痛みと快楽いうものを、こんなに傷ましく典雅に書き記した物語は珍しいかもしれないと思います。

そう、女って常に痛い。生理痛に頭痛、腰痛なんてのは女の常だし。思春期になると膨らみだした胸がやたらに痛むし、子どもを産むのはもちろん、閉経だって痛い。性に必ず痛みがついて回るのです。だから、この祖母の痛みは他人事ではなく、そのまま自分の体と繋がるもの。その女が、痛みを抱えながら、なおかつ「愛」という口はばったいものに繋がれてしまうイタタな部分を持っているというのは、何故なんでしょう。―心と体の奥底に持つ柔らかに密やかな、目の前に取り出せばあまりに剥き出しすぎて踏みにじらずにはいられないような、悲しみにも似たもの。そこに従ってしまうと、社会的な「死」が待っている。思えば、ボヴァリー夫人も、アンナ・カレーニナも、そんな痛みと快楽にに振り回された女たちでした。彼女たちは、みんな愛を手にいれるのと引き換えに破滅して死んでいったのです。この物語にも、たった一度の運命の愛を手に入れたあとを、ずっと不遇のままに生きた女性が描かれています。それはこの物語の語り手である「私」のもう一人の祖母。彼女は富裕階級の出身ですが、若い頃のたった一度の恋で勘当され、一生を働きづめに働いてたった一人で子どもを育てて死んでいくのです。でも、「祖母」は、たった一度の激しい恋をしたのに、ひと世代前の彼女たちのように破滅もしなければ、結婚生活を失いもしなかった。それは何故か・・という答えが、最後の最後に用意されているのです。

えっ、そうだったの・・・と確かにびっくりするのですが、そうか、やったね!とにんまりほくそ笑むというか。フィクション、つまり物語というものを自分の中に取り込み、生み出していく力を女が得たことの、これは可能性の物語でもあると、私は最後まで読んで思ったのです。だから、これは祖母の次の世代、「私」が受け継ぐべき物語であるんだな、と。感情を押し殺して生きることが美徳とされた世代に生きた祖母が思い描いた全き愛情の姿は、実は心の自由を手に入れることだったのかもしれない。もし彼女が今の時代に生きていたら、世の女性たちの心震わせる恋愛小説の書き手になっていたかもしれないですよね。じゃあ、あなたはどんな愛を思い描くの?と、祖母は残した手帖から孫娘に問いかけます。愛情というものは、ある意味独りよがりで滑稽なものでもあります。でも、後書きの作者の言葉にもあるように、その滑稽さも誰からも理解されない部分も、物語にすれば私たちは共感をもって迎え入れることが出来る。そして、孤独と悲しみにも居場所を与えることが出来るのです。祖母の痛みを受け継いだ「私」は、一人ひとりの読者なんですね、きっと。

「生まれてからずっと、月の国の人間のようだと言われてっきて、ようやく同じ国の人に出会えたような気がしたし、彼こそ今まで求めつづけていた、人生で一番大切なものだったように思えた」

私も、こんな風に思ったことがあります。恋愛したとき・・・と言いたいですが(笑)うん、まあ、そう思ったことも無きにしもあらずですけど、現実の恋は大概後で苦い思いを突き付けられるもんです(笑)そのもっと昔、居場所がないと思っていた頃に出会った物語の主人公たちと分け合った思いは、ずっと大切なものであり続けています。この物語も、ふとした時に思い出す、忘れられない一冊になりそうです。

2012年11月刊行

新潮クレストブックス

夜の写本師 乾石智子 東京創元社

ファンタジーの面白い作品に出合うと、ほんとに嬉しい。子どもの頃のように、ご飯を食べるのもうっとうしくなるぐらい熱中するのが読書の一番の醍醐味です。本の中の世界に飛んでいって、はまり込みすぎて、帰られへんねんけど!みたいな(笑)その中でもファンタジーって、一番遠くに飛んでいけるジャンルです。特にハイ・ファンタジーと呼ばれる、世界観から細かい設定まですべて作り上げるファンタジーは、はまるとほんとに異次元に飛んでいける快感があります。偉大なトールキンの『指輪物語』はもちろんのこと、ル=グウィンの『ゲド戦記』やルイスの『ナルニア国物語』のシリーズなんかが一番の有名どころですが、どうもこのファンタジーという分野においては、特に欧米のものは最近粗製乱造の気配があって、げんなりしてしまうことが多々あるんですよね。・・・そう、CGで作ればファンタジーでしょ、みたいな認識のハリウッド映画みたいな作品が多すぎる。(おお、偉そうな発言・・・)少々行き詰まり感があるんですよね。キリスト教史観の縛りって、結構強いものがあるのかもとも思いますが。

その点、上橋菜穂子さんの『守り人』のシリーズや、小野不由美さんの『十二国記』のシリーズなどは、民俗学的な視点を得た、新しいファンタジーの可能性を切り開いておられると思うのです。(そう言えば、ル=グウィンも民俗学者の両親をお持ちですよね)菅野雪虫さんの『天山の巫女ソニン』や、濱野京子さんも、意欲的な作品を次々と刊行なさっています。日本のファンタジーは、いいぞ!というのがこのところの実感なのです・・・って、なんでこんなに前置きが長くなるんだろう(汗)で、要は、この『夜の写本師』は、いいぞ!ということが言いたいわけです。

右手に月石、左手に黒曜石、口のなかに真珠と、三つの品を持って生れてきた少年・カリュドウ。女魔道師であるエイリャに育てられた彼は、才能の豊かな少年だった。しかし、ある日、エイリャと幼馴染の少女フィンは、当代随一の大魔道師・アンジストに惨殺されてしまう。その光景を目の当たりにしたカリュドウは、全身を憤怒の炎に焼かれ、復讐を誓う・・・。

ガンディール呪法、ウィダチスの魔法、ギデスディンの魔法、と細かく体系づけられた魔法の数々を横糸に、アンジストと彼に殺された3人の魔女の運命が紡がれ、カリュドウの運命と繋がっていく。カリュドウの物語の間に過去の魔女たちの物語が挟まって、とても複雑な構成になっているにも関わらず、読み手を混乱させずに物語に引き込んでいく力があります。魔術に対して、「写本」という行為、言葉が持つ力を根幹にした営みを配したことも面白い。本というものに年がら年中取り憑かれている本読みにとって、これほど実感できる力は無いと思われます。

そして、これはファンタジーのみならず全ての文学に言えることなのかもしれませんが、人間の暗黒面、呪いや恨みや憎しみというものを見据えて掘り下げていく意思があることもこのファンタジーに深みを与えています。これは、何百年も続く恨みと復讐の螺旋が、膨大な命を飲み込んでいく物語です。でも、長い長い戦いの原点は、ある一人の男の愛の欠落から始まるのです。一人の男の負のエネルギーがどれだけの人を巻き込んで翻弄していくのか・・・その大きさをこの本は物語ります。先日もグアムで恐ろしい事件がありました。たった一人の男が自分の満たされない思いで振り回した刃物が、他人の大切な命を奪ったとき、どれだけの悲しみと苦しみを生み出すことか。しかも、それは、他人事ではなく、いつ、だれの身に起こるかしれないことです。明日、私の身にも降りかかるかもしれない。また、誰かを深く傷つけてしまうかもしれない。人は常にそういう存在なのです。私たちは間違いを犯す。間違いを犯すまいとして、また新たな過ちに陥ったりもする。この本からは、その人間を見据えて描き切る覚悟というか、強い意志を感じるのです。魔術という人智を超えた理不尽な力に、「写本」という徹底的に磨き上げた美意識の手仕事で対抗していく。そこに、人が限界の中で、必死にそこを超えてゆかんとする可能性を感じるのが、心惹かれるところです。そして、この復讐の結末が、またいいんですよ。ネタばれになるから書きませんが、一言だけ。・・・『愛』なんですね。いやあ、照れます・・・って、あんたが照れてどうするって感じですが、そう、『愛』なんです。そこが、またいい。優れたファンタジーは人生を語ります。私たちが忘れてしまった生き物としての根源的な力や暗黒の暗闇、それを凌駕する命の輝き、つまり魂の記憶を呼び覚ますような力があると思うのです。苦しみに満ちた復讐の物語ですが、最後の最後に呼び覚まされた記憶に、全てが浄化されていくようなカタルシスを感じました。

解説の井辻朱美さんもおっしゃるように、この物語にはゲド戦記は言わずもがなですが、『蟲師』や『百鬼夜行抄』、『夏目友人帳』といった日本の大好きな漫画の影響もそこはかとなく感じられて、漫画フリークとしても心ざわめく楽しさがありますね。漫画は、この国にだけ繁栄している独特の豊穣な文化だと思います。これから、その文化を土台にした新しい文学が生まれるかも・・・なんて思うのも楽しい。このシリーズにはあと2冊、『魔導師の月』と『太陽の石』があるんですよね。楽しみです。

2011年4月刊行

東京創元社

 

 

 

 

長い道 宮崎かづゑ みすず書房

昨年見た辰巳芳子さんのドキュメンタリー『天のしずく』で、この本の著者である宮崎かづゑさんのことを知った。宮崎さんは、10歳のときに国立ハンセン病療養所長島愛生園に入園され、それ以後の人生をずっと園内で過ごしてこられた方だ。宮崎さんは、病で倒れたお友達のために、毎日辰巳さんのポタージュスープを作って届けた。そのお礼の手紙を辰巳さんに出したことが縁となり、辰巳さんが宮崎さんを訪ねられたのだ。映画の中での宮崎さんの言葉は、とても強く心に残った。「人間は生きているべきですねえ。私、5、6年前でしょうか、ここまで生きてこなくてはわからないことがあったと思うことがあります」その言葉に頷きあう宮崎さんと辰巳さんを見て、私は「ああ、まだまだだな」と思ったのである。清々しく完敗したと言ったら語弊があるだろうか。少々人生にお疲れ気味だなと思っていたのだが、まだまだ自分が若輩者であることを先輩方に優しく厳しく諭されたようないい気持であった。

繰り返すが、かづゑさんは10歳で園に入られた。そのとき、故郷を失ったのである。私は桜井哲夫さんという、やはりハンセン病の方の詩が好きで関連本を何冊か読んだのだが、その昔「らい」と呼ばれ、人から恐れられたハンセン病にかかって故郷を離れることは、もう二度と帰らぬことと同義であった。かづゑさんのこの本にも、近所の人たちがかづゑさんの実家と同じ井戸を使わなくなったことが、彼女に園に入る決意をさせたことが書かれている。(宮崎さんは、その人たちが遠くまで水汲みをしに行くのが辛いと思われたのだ)この本の冒頭には、幼いころを過ごした故郷のことがとても細やかに描かれている。ほぼ自給自足の農家の生活。こまごまとお漬物や味噌を作り、家族に食べさせる祖母の手。季節の行事や、田んぼの仕事。生き生きと語られるその日々の、なんと色鮮やかなことか。体の弱いかづゑさんを、家族が愛して慈しんでいたことが切ないほど伝わってくる。そして、その思い出を、かづゑさんが宝物のように大切に大切に胸の中で育んで生きてこられたことが、こちらにも温かい雫のように沁み渡るのだ。まさに、天のしずく。さっき私は「故郷を失った」と書いたが、人は本当に愛するものを失ったりはしないのかもしれないとも思う。そう思わせるほどかづゑさんの思いは深い。愛情が深い人なのだと思う。

故郷から離れ、園に入ってからの生活は、戦争とも重なって苦難の連続だ。人間関係に苦しんだり、片方の足を切断しなければならなかったり、たび重なる痛みに苦しめられたりしながら、それでもかづゑさんは結婚し、夫のために料理をし、ミシンで様々なものを手作りし、日々の暮らしに心をこめて生きていく。私は知らなかったのだが、家事仕事をすることは、手の指を失うことなのだ。病気の後遺症で抵抗力が弱くなっているので、水仕事で傷が出来ると、段々手指に血流がいかなくなるという。かづゑさんも両手の指がない。でも、その手で親友のために、非常に手間のかかる辰巳芳子さんのスープを毎日手作りして持っていく。何の理屈も欲得もない無償の行為が、何の計算もなくある。その尊さが、穏やかな海のように輝いて私たちを照らしてくれる。

トヨちゃんは、幼いころから体は病に攻めつづけられたけれど、まるでその苦しみが彼女の心をざぶざぶと洗い流していたかのように、魂に磨きがかかり、美しい光を放ち、そしてその光は歳をとるごとに輝きを増していったと私は思う―・・・

これは、かづゑさんが親友のトヨさんのことを語った文章なのだけれど、そのままかづゑさんのことを表す文章ではないかと思う。そして、この言葉からもわかるように、かづゑさんは、とてもまっすぐな力のある文章を綴られるのだ。かづゑさんは、無類の本好き。趣味などという軽いものではなく、本は親友だとおっしゃる。どんなに苦しいときも、本を読む心の自由が自分を支えてくれたと。そう、そうですよね!と、私は嬉しくなってしまった。モンテ・クリスト伯、赤毛のアンのシリーズ・・・むさぼるように本を読む幸せ。まったく違う世界に飛んでいく時のときめき。

「行きづまっているとき心が自由だったのは、本の中の地中海があったから」

物語の力って、これですよね。この心の自由は、何物にも代えがたい喜び。多分、目だってあまりご丈夫ではなかったろうけれど、本を手放せなかったかづゑさんの気持ちは、同じ本読みとしてとてもよくわかる。そして、だからこそ、私も、年齢を重ねたときに、かづゑさんのように己の人生をありのままに「よかった」と思える日がくるように。心こめて生きていかねばなあと思う・・・思いながら、今日も背中がちょっと痛いだけでへたりこんでいた、どうしようもない私ではあるけれど。「もう人間はやめようね」と、かづゑさんは親友に呼び掛ける。その言葉が感じさせる背負ってきたものの重みと、かづゑさんが与えられ、与えてきた愛情の重みの両方を、深く感じる一冊だった。この本を書くきっかけになった辰巳芳子さんとの出会いも、その愛情が手繰り寄せた縁なのだろう。そして、その愛情はまったく見知らぬ私の胸の中をも照らしてくださったのだ。辰巳芳子さんは、かづゑさんの文章のことを「あの文章を読んだ人は、命とは何かということを見出して、感じて、そのあとでほんとうの意味の解放感を味わうと思う」とおっしゃっていた。まことに、その通りだ。この一冊を世の中に届けてくださったことに、心から感謝したいと思う。

2012年7月

みすず書房

 

映画 『故郷よ Land of oblivion』 ミハル・ボガニム監督 

先週の木曜日に、この映画を見てきました。チェルノブイリの原発事故によって故郷を失った人たちの物語です。舞台は、チェルノブイリからわずか3kmの町・プリピャチ。冒頭には、事故寸前ののどかな町の様子が描かれます。きらめく川の流れが幸せな恋人たちを運び、緑豊かな自然の中で人々が笑う。父と息子がリンゴの木を植え、牛がゆっくりと歩いていく・・・光が溢れて穏やかで、見ているだけで涙がこぼれそうなほど綺麗な、町というよりは村の風景です。ボートに乗っているカップルの女性は、この物語の主人公の一人、アーニャ。彼女の結婚式を明日に控えた春の夜に、原発は事故を起こしてしまうのです。アーニャを、『薬指の標本』で見たことのある、オルガ・キュリレンコが演じているのですが、監督は当初彼女が美人すぎるのでこの映画での起用をためらっていたらしいのです。でも、この冒頭の、ボッティチェリが描く春の女神そのもののような彼女の輝きは、あの風景にとても似合っていました。明日結婚しようとしていた彼女の中に満ち溢れていたのは、これから生まれてくるだろう子どもも含めての、未来へのエネルギーであり、豊穣の予感だったのです。そして、その輝きが美しければ美しいほど、失われたものの大きさと取り返しのつかなさが色濃く胸に落ちます。この映画にどうしても出たかったというキュリレンコの思いが伝わってくる演技でした。

映画は淡々と事故当日の人々を追っていきます。まったく情報がなく、何が起こったのか誰も知らずにいる人たちの上を、放射能を含んだ雨が何度も何度も通り過ぎていきます。結婚式の真っ白なケーキを黒い雨が汚し、子どもたちはその雨の中で遊んでいるんです。映画の中の人々に向かって「逃げて」と思わず心の中で叫んでしまう。二度と帰れないと知らないまま強制避難させられてしまう人たち。耕してきた土地も牛も奪われてしまった農家のお年寄りの顔。いきなり愛する人を失って茫然とするアーニャ。3.11と結びついていく光景です。この映画が撮影されたのは、3.11の前なんですが、見事に符号にようにすべてが重なっていくのが、怖いようでした。こんなに同じことが起きていたのに、私たちは何も学ばなかった。対岸の火事だと思っていた。そのことを痛感しました。前半の、事故当時の混乱の様子を見ながら、思わず全身に力が入り、こわばってしまう。その臨場感は半端ないものでした。

10年後、アーニャはプリピャチの町で、「チェルノブイリ・ツアー」のガイドとして働き続けます。この映画は、初めて立入制限区域で撮影された映画で、誰もいなくなってしまった町の風景が延々と続きます。後半は、アーニャと、リンゴの木を川岸に植えた少年・ヴァレリーとその父親である技師のアレクセイの10年後が描かれます。3人が3人とも、故郷と大切な人を失った喪失感の中で暮らしている。アレクセイは、事故のあと精神を病んだまま、ずっとプリピャチ行きの列車を探して放浪します。もう、プリピャチという名前の駅はこの世には存在しないのに・・・。彼の息子のヴァレリーは、いなくなった父の痕跡を求めてプリピャチに潜入します。でも、そこには何も残ってはいなかった。アーニャは恋人が出来ても、どうしても新しい生活に踏み出すことが出来ない。その彼らの物語も胸に染みましたが、何より説得力があったのは、プリピャチの空っぽの風景でした。暮らしも笑い声も失われたその風景は、今、日本のあの場所にも広がっている、そう思わずにはいられない。チェルノブイリの事故の際に、アーニャの夫のように事故処理などのために亡くなってしまった方は4千人にも及びます。しかも、石棺はすぐに老朽化し始めて常に補強しなくてはいけない。その作業は、これから数千年も続くのです。そして、立入制限区域は、私たちには永遠と思える時間が経っても人が住めるようにはならない。永遠に空っぽのままである風景が、ずっと乾いた涙を流し続けているように見えました。町も風景も生き物なのだと。その命を奪ってしまうことの残酷さを町自身が物語る、そんな映画でした。

 

 

 

 

 

 

鳥越信先生と国際児童文学館

鳥越信先生が亡くなられた。ご冥福を心からお祈り申し上げたいと思う。晩年になって、心血を注がれた、万博公園の中にあった国際児童文学館があのような形でつぶされてしまったことで、どんな思いをされたかと想像すると、心が痛んで仕方ない。

文化や芸術というものは、成長し、実りをもたらすのに長い時間がかかる。しかし、今はとにかく費用対効果、短いスパンで目に見える・・つまり、お金となって返ってくることは大切にされるが、目に見えないもの、数値化できないものに関してはとにかく切り捨てられることが多い。まるで役立たずの、金食い虫と言わんばかりである。特に児童文学という地味な世間でスポットライトの当たらない分野は、興味のない人にとっては無駄にしか思えないものなのだろう。大阪は一番文化や芸術に縁のない、興味のない人を長に据えてしまった。それゆえに、鳥越先生が膨大な資料を寄付された、児童文学研究の礎となるべき場所を失ってしまったのだ。そして、私の卒業した大阪女子大学も大阪府立大学に統合されてしまい、今や文学部は影も形もない。大阪市立大学とも統合されるらしいが、この流れでは文系の学部は大きく減らされ、何を勉強するのかわからない名前の学部ばかりになってしまいそうな流れだなと思う。

しかし、これでいいのだろうか。文学や哲学というのは、すべての学問を貫く背骨のようなものだと思うのは、私だけだろうか。私たちは何処からやってきて、どこに行くのか。幸せとはなにか。生きるということはどういうことか。生きる意味とはなにか。人間の存在とは如何なるものであるのか。答えの無い問いを、さぐり続けて私たちは生きている。科学や技術も、その問いから離れて発展してきたわけではない。また、複雑化し、専門化するに従って、ますます根源的なその問いは大切なものになると思う。フクシマでの手痛い教訓は、私たちに科学技術を不完全な人間という存在が操ることの怖さを教えてくれたではないか。その人間について、とことん考え抜く学問が、大学のどこにもない。これほど不思議なことは、あるだろうか。こんな風に思うのは、私が古い人間だからだろうか?
そして、子どもの文学は、未来を作っていく子どもの心を育むもの。子どもが生まれて初めて出会う、新しい世界を開く目であり、耳であり、やわらかい心に播かれる種なのだ。深く根を下ろし、血肉となる、目に見えない大切なもの。星の王子さまが言うように、「肝心なことは眼に見えない」。見えないものに触れる一瞬が、文学だ。このとりとめのない不安だらけの世界に自分の心を迎え入れてくれる場所があることを知り、共感し、他者と心を分け合うことを知る。想像すること、この体だけに囚われぬ心の自由を持つこと。その心のありようの上に、よりよく生きようとする向日性が生まれるのではないのだろうか。その児童文学について、常に研究し、資料を蓄え、発信し続ける機関があるということは、とても大切なことなのだ。議論され、語られ、活性化することなしには、学問は命を失ってしまうから。児童文学の様々な作品が多角的に取り上げられ、議論され、評価されることが、新しい児童文学へと繋がっていく糧になるはず。そこをないがしろにして、なんの教育改革だと私は思う。

鳥越先生が亡くなられたことを知り、常日頃思っていることが何やら噴出してしまった。こんな偉そうなことを語る資格は、何の肩書きも持たない私にはないのかもしれないけれど。何の肩書きも持たぬ私だから、言えることもあるかもしれないとも思ったりする。積み上げるのに何十年かかっても、つぶすのは一瞬だ。でも、つぶしてしまったものは、もう取り返しがつかなくなる。私たちは、もう少し長い目で、広い視野で、文化や芸術を考えていく必要があるのではないだろうか。心の財産を食いつぶしてしまうところに、真の発展はないと思う。

 

灰色の地平線のかなたに ルータ・セペティス 野沢佳織訳 岩波書店

梨木香歩さんの『エストニア紀行』に、ソ連が行った強制連行のことが書かれていたけれど、この本はそのエストニアと同じバルト三国の中の一つ、リトアニアの少女がソ連の収容所に強制連行されてしまう物語だ。読むのが辛い物語ではあるのだけれど、これは自分と関係ない国の過去の物語ではない。極限の状況の中で最後まで愛情を失わずにいいた家族がたどった道のりを考えるとき、この物語は、私たちのこれからを考える物語として「今」に繋がるのだと思う。

大学教授の父と美貌で優しい母、可愛い弟のいる15歳の少女リアは、家庭にも絵の才能に恵まれて何不足ない生活を送っていた。ところが、ある日いきなり踏み込んできたソ連の秘密警察に連行され、父親と引き離され、母と弟とともに気が遠くなるほど長く辛い貨物列車での旅の果てに強制収容所に送られてしまう。連行される直前に出産し、そのまま列車に乗せられてしまう若い母と赤ちゃんの話はとても辛い。そこで待ち構えていたのは、過酷な飢えと寒さと強制労働。このシベリアの収容所の悲惨さというのは、同じくシベリアに8年間収監されていた石原吉郎の手記にも詳しい。「そこは人間が永遠に欠落させられる、というよりは、人間が欠落そのものになって存在を強制される場所」(※)なのだ。特にリアたちがいた頃の、スターリンが死去する間際の収容所の内情というのは陰惨を極めたものだったらしい。リアたちの舐めた苦しみは、作者がシベリアからの生還者やその家族に丹念に話を聞いて書き起こしたもので、フランクルの『夜と霧』を思わせるほどに辛い。初めはとても喉を通らなかったドロドロのわけのわからぬ食べ物を、そのうち争って食べるようになる、知識階級の人たち。・・・私もきっと同じ状況なら必死で食べるようになるんだろう。でも、その度ごとに自分の中で大切にしている美しいものが死んでいくような気持ちになるに違いないと思う。それでもリアのように、彼女の母のエレーナのように誇り高く生きていられるのかと思うと、まったく自信がなくなってしまう。

そう、壊血病にかかってしまうほどの飢えの中でリアと弟のヨーナスが生き延びることが出来たのは、美しく賢い母のエレーナがいたから。彼女は愛の人で、どんなに苦しくとも少しの食べ物をみんなと分け合い、病に倒れた人を看病し、励まし続けた。しかし、鴨長明が『方丈記』の中で「思ひまさりて深きもの、必ず先だちて死しぬ」と言ったように、『夜と霧』でフランクルが「最もよき人々は帰ってこなかった」と述べたようにエレーナは子どもを二人残して死んでしまう。彼女のような精神の美しさは、虐げようとするものにとっては一番先に踏みにじるべきもので、そのためにはありとあらゆる努力が行われると言っても過言ではない。しかし、どんなに踏みつけにされ、汚されても、一番強く人々の中に生き続け、灯り続けるのもまたその美しさだと思う・・・これは綺麗ごとでなく、そう思うのだ。私はそうはなれないかもしれない。しかし、この世界にはエレーナのように美しい人はちゃんと存在する。(これはまた別のレビューに書くが、今日読んだ宮崎かづゑさんの『長い道』を読んでそれをまた確信した)そのかけがえのない美しさをこの物語の中で強く書ききったことを、私はとても大切だと思う。極限とも言える収容所生活のなかで、リナが紡ぐほのかな恋や、人々が祝うクリスマスの夜もまた、そんな美しさの一つだ。

また、リアは収容所の中の様子や苦しむ人々の姿を得意な絵で刻み続ける。命の危険と隣り合わせの行為を何度たしなめられても、それだけはやめることが出来ない。それは、家族も将来の夢もすべてを奪われたリナのたった一つの生きている証だったのだ。15歳というのは、一番お腹も空き、自意識もピリピリと過剰な時だ。誇り高く教育された少女らしい潔癖さと感受性は彼女を苦しめるけれど、それがまたリアを支えて生かしているのだとも思うのだ。そして、このリアが燃やし続ける「伝えたい」という思いと祖国への愛情は、苦しい時代を生き延びたリトアニアの人々の心のうちに燃え続けたものでもあるのだと思う。私はこの物語を読みながら、『エストニア紀行』で梨木さんが翻訳されていた、エストニアの国歌を思い出していた。リトアニアが独立を回復したのは1990年。私の感覚からいうと、ついこの間のことなのだ。この物語では、母のエレーナが死んだあとの物語は語られない。リアとヨーナスはリトアニアに13年後に帰還したらしいが、その後の物語も語られない。しかし、きっと「その後」の物語は今も続いているのだと思う。シベリアにいた石原吉郎は、帰国後にまた一段と辛い苦しみに陥った。辛酸を舐めて帰国した祖国は、彼にとって優しい場所ではなかったのだ。作者のあとがきによると、やはりシベリアからの帰還者には、帰国後も様々な困難が待ち構えていたらしい。このリアたちのような帰還者の言葉がこれからどのように掘り起こされるのかを考えたとき、次世代へのメッセージとしてこの物語が書かれたことは、出発点としてとても大切なことだ。そして、リアの一家が収容所に送られたのは、親戚の一家がドイツに脱出するのを手伝ったためだった。同じように生き延びた人たちは、自分たちの代わりに収容所に送られた人たちのことをどんな風に思いながら過ごしていたことだろう。そう考えると、「生き延びてしまった人たちの苦しみ」も、また今に続いているのではないだろうか。作者であるセペティスさんの父親は、リトアニアからドイツに脱出した人であったらしい。その家族の歴史を思うとき、この物語は、作者自身にとっても書かねばならない一冊であったことだろう。それだけの強さと内容をもった作品だ。この本を大切に訳された野沢佳織さんにも感謝をささげたいと思う。

(※)「望郷と海」石原吉郎 みすず書房

2012年1月刊行

岩波書店

 

 

 

ふしぎな八つのおとぎばなし ジョーン・エイキン クエンティン・ブレイク絵 こだまともこ訳 冨山房

「奇妙な味」の短編集です。ナンセンス、怪奇幻想、SF、神話・・・そのすべてをひっくるめての「おとぎばなし」。鮮やかなイメージを生み出す言葉の喚起力が半端なくて、読みだしたら止まらない。ブラックなスパイスも効いていて、とても好みです。特に好きなのは、『怒り山』と『冬の夜にさまよう』。心の奥底のぽっかりと空いた穴から、闇の匂いが吹き上げてくるような短編です。怖いのに、凝視する目が離せない・・・「魅入られる」というのは、こういうことなんでしょうね。暗い森の奥でたき火をしながら、誰かの昔話を聞いているような、そんな気持ちになってしまう物語たちです。

『怒り山』の頂上にある村に、八本足の馬に乗って片目の男がやってくる。彼は家々の石に指先で輪を書きつけた後に、村の井戸の横で骨接ぎを始めます。彼は村人に聞きます。「わたしの父は、死の床で、むすこになんといいのこしたのかね?」誰もその問いに答えぬまま、すべての治療を終えた男は、村人たちに引きずられて崖の上から突き落とされる。すると家々の石に書きつけられた輪が、ぎらぎらと真っ赤に輝きだし、そこで物語はおわります。どうやら、この男は、村であった『九つの火の戦い』と深い関係がありそうなのです。何かを全員で隠している様子もある。その何かとは、たぶん自分たちも直視するのが怖いほどの非人道的なことのような気配も漂います。開けてはいけない記憶の箱を封じ込めるかのように、村人たちは自分を治療してくれた男を崖から突き落とします。昔、何があったのか。そのあと、村がどうなったのか・・描かれなかったものが闇の中で膨れ上がるような見事なラストです。

最近、戦争関係などの本や資料を少しずつ読んでいます。目に見えていることの裏側にあるものの大きさと果てしなさに愕然とするのですが、同時に国家というもののあまりの人間臭さに虚を突かれたような気持ちになることが多い。どうやら、私たちは、自分で思っているほど理性的でも公平でもない。そして、自分たちがしてしまったことを直視するのはもっと怖い。この物語の村人たちのことも、私には他人事とは思えないのです。この物語を読んだ子どもたちは、もしかしたら、ただ怖いだけの感想しかその時には持てないかもしれない。でも、エイキンの刻む真っ赤に燃える輪は、その理不尽さと一緒に子どもたちの心に刻まれると思います。そして、人生のどこかで人間の残虐さに触れてしまったとき、その輪が語りかけることがあるのではないか。そんな気がします。

『冬の夜にさまよう』は、とても幻想的な物語です。気難しい粉ひきのバーナードは、木の彫刻を作ることに取り憑かれた男。とうとう、村のシンボルであるオークの木まで勝手に切り倒してしまいます。ところが、そのせいで、彼は朝一番に手に触れたものがことごとく木になってしまうという呪われた体になってしまう。一人娘アリスを木にしないために、納屋に寝かせていたのだけれど、アリスは夜な夜な森の中をさまよい、眠りながら歩く大きなくまと夜を過ごす・・・。

真っ赤な服を着て森をさまようアリスの姿と、ゆらゆらと眠りながら歩く大きなくまのシルエットが月明かりに重なります。物語の始まりから、アリスには月に魅入られたような不吉な影が射しています。彼女が木になってしまうことが運命のように彼女に縫いとめられているのを感じざるを得ないのです。その空気感の見事さ。ブレイクの挿絵と相まって、悪い夢のように美しく、引き込まれます。人間の男には一切目をくれなかったアリスが、なぜ森をさまようくまに心惹かれていったのか。なぜくまは、夜な夜なふらふらと歩いていたのか。単なる因果応報のお話ではない、人間のどうしようもない根っこのようなものとへその緒で繋がっているような、古い記憶を呼び覚ますような不思議なお話なのです。得体が知れなくて美しい。エイキンという人の懐の深さをしみじみと感じました。

ちょっと怖いお話ばかり取り上げましたが、幸せなお話も、宇宙をまたにかけるスケールの大きなホラ話も、ロマンチックなお話もあって、どれも楽しい。そして、どれも冒頭に述べたように、どこか奇妙な味を漂わせて、とてもセンスが良いのです。物語の力が横溢している、充実の短編集。子どもも大人も一緒に楽しめる一冊だと思います。

2012年12月刊行

冨山房刊