[映画]ドストエフスキーと愛に生きる ヴァデイム・イェンドレイコ監督

翻訳という仕事を、私はとても尊敬している。私は外国文学が大好きだが、それも翻訳して下さる方がおられるからこそ。(今月号の『考える人』も「海外児童文学ふたたび」と題した外国文学特集で、思わず買ってしまった。)信頼できる翻訳家の方の名前が表紙にあると、「これは読まねば!」と嬉しくなるのだ。この作家ならこの方、という名コンビも多々ある。アーサー・ランサムなら神宮輝男さん。今の朝ドラになっている村岡花子さんとモンゴメリ。ミルンと石井桃子さん。・・・もう、書いても書いても書き切れないほど名翻訳がたくさんある、これは非常に幸せなことだが、元を正せば、そもそも日本の近代文学は児童文学も含めて、翻訳を通じて始まったのだ。そう思うと、「翻訳」という仕事は幾世代にもわたって交流していく大きな橋をかけるお仕事に違いないと思う。

この『ドストエフスキーと愛に生きる』というドキュメンタリーは、スヴェトラーナ・ガイヤーというドイツ在住のロシア語翻訳家の暮らしを追ったものだ。84歳の彼女は、ドストエフスキーの翻訳に取り組んでいる。彼女曰く、「五頭の象」、『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『白痴』『悪霊』『未成年』という、目眩がするほどの大作に、真摯に向き合う日々が描かれる。 翻訳家の作業を、こうして映像で見せて貰うということに、まず感動した。綿密な準備に、細かい読み合わせを人を替えて何度も行う、その労力といったら。翻訳をするということは、原文に忠実であることと、俯瞰した視線で言葉の向こうにあるものを捉える批評家としての作業を同時に進行させていくことなのだ。スヴェトラーナは作中で、文学で書かれたテキストを緻密に織られた生地にたとえているが、翻訳も、オリジナルへの忠実さを横糸に、ありとあらゆる教養と、人生を見つめる深い眼差しを縦糸に織り込んで出来上がるものなのだろうと思う。この映画は、その彼女の縦糸の部分に深く分け入っていく。暖かみのある手仕事の数々で飾られた家。リネンに丁寧にアイロンをかける、折り目正しい生活の美しさもさることながら、私が引きつけられたのは、彼女の過去への旅だった。

スヴェトラーナはウクライナ出身で、父親はスターリンの大粛正による拷問が原因で亡くなっている。その娘であるということは、一生反体制の人間として冷遇されて生きていくことなのだ。ちょうどそのとき、キエフはナチスドイツに占領される。語学に秀でていた彼女は、敵国であるドイツに協力し、ドイツ軍が引き上げていくときに共に出国して奨学金を得て安定した職を得ることになる。父親は15歳の彼女に、収容所での一部始終を語ったのだが、スヴェトラーナは全くその内容を覚えていないらしい。生きるために、幼かった彼女はその記憶を封印してしまったと言う。ドイツはどん底の彼女に手を差し伸べ、救ってくれた。しかし、同時にキエフのユダヤ人を殺害し、ヨーロッパ全土で何十万人という人たちを収容所に送り込んだのだ。彼女の友達もキエフの谷で虐殺されたという。15歳の彼女が、母と二人で懸命に生き抜いていくときに、何があったのか。何を見て、何を感じたのか。過去について、彼女は多くは語らない。しかし、65年間一度も帰らなかった故郷を「月よりも遠いところ」と言う彼女にとって、過去は年老いてますます重く胸に刻まれていたものではないかと思うのだ。それは時間が経ったから消えてしまうような生半可な記憶ではなかっただろうと思う。翻訳という自分の仕事に対する勤勉さについて問われたスヴェトラーナは、「負い目があるのよ」と答えていた。もちろん、それだけで語れてしまうほど簡単なことではないだろう。しかし、晩年になって、ドストエフスキーの新訳に全てを注ぎ込む彼女の記憶と思いを想像すると、粛然とするのだ。キエフの若い人たちに、「自分の心の声をよく聴くこと。もし、それがそのときの常識とかけ離れているとしても」(記憶だけで書いているので、原文そのままではありません。念のため。)と彼女は説いていた。それは、大きな波に飲み込まれようとするときに、自分の心にどんな羅針盤を持つかという意味ではないだろうか。その羅針盤を心に宿すための闘いが、彼女の残したいものなのかもしれない。だから、彼女は取り憑かれたように仕事をせずにはいられない。このドキュメントのさなかに、彼女は最愛の息子を失う。その悲しみも、過去の痛みも、愛情も、誇りも、全てを背負い、厳然と窓辺に座って言葉を選んでいく彼女の姿から、最後まで目が離せなかった。彼女の訳では、『罪と罰』は『罪と贖罪』というタイトルらしい。読んでみたいと心から思う。彼女は87歳で亡くなられたそうだが、きっと最後の最後まで仕事をされたことだろう。ドイツ語のドストエフスキーは一生読めないけれど、私も、「五頭の象」を、もう一度読み直してみたくなった。文学好き、特に外国文学好きな方にはおすすめの映画です。

 

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