ミュシャ展 スラブ叙事詩 見るものを射貫く眼差し 東京新国立美術館

スラブ叙事詩を見てきた。予想を遙かに超えて巨大だ。展示できる場所を選ぶこの巨大さは、なぜ必要だったのだろうと思っていたのだが、実物を見て納得するところがあった。これは体験型の絵画なのだ。ミュシャはサラ・ベルナールという大女優の舞台装置や衣装、ポスターを作り上げていた。今で言うプロデューサーのような役割をしていた人だ。その経験も踏まえ、空間が持つ力を最大限に引き出すことで、自分の描く歴史の一瞬を、見るものに肌で感じて欲しかったのではないだろうか。

例えば『原故郷のスラブ民族』の、星空に浮かぶ異教の祭司から見下ろされる威圧感。そして、何より見るものと対峙し、こちらをみつめる二人の男女の凍り付くような眼差しは、強烈だ。今、まさに背後から襲いかかりつつある、殺戮者たちの息づかいや激しい足音の気配が、この眼差しに凝縮している。そして、この眼差しは、この一枚だけではない。どの絵にも、明らかに「見る者」を意識した眼差しでこちらを見つめてくる人物がいる。あなたは今、目撃者になった。見てしまった以上、この出来事と無関係ではいられないのだよ、という眼差しだ。戦いで殺されてしまった人々、故郷を追われさまよう母と子どもたち。ミュシャが描いているのはスラブ民族の人々の歴史だが、民族や宗教の対立をきっかけにした憎しみは、今も世界中に渦巻いている。画布の向こうから見つめ返す眼差しに、こんなに射貫かれてしまったのは、私自身、迫り来る暴力の足音に大きな不安を抱えているからなのだろうと思う。

また、画面はどんなに巨大になっても、そこに存在する人たちは、一人一人の確かな体温と自分だけの顔を持って描きあげられている。『ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛』では、戦いのさなか、火のついた松明が火薬に投げ込まれる、その瞬間が描かれている。画面いっぱいにひしめく、人、人、人。梯子によじ登ろうとしている人も、疲れて座り込んでいる人も、何かを囁き合う人たちも、次の瞬間には全てこの爆発に巻き込まれてしまうのだ。画面中央の黒い帯がそれを暗示して不気味に流れている。私はこの黒い帯に、原爆投下のきのこ雲を連想した。その瞬間まで、自分の運命を知らずに生きていた人たちの顔がここには刻みつけられている。

「見る」ことは、どうしても見るものと見られるものを分かつ。この戦闘を絵にし、客観化してしまうことは、古典絵画の戦闘シーンのような「ただ眺めるもの」として片付けられる危険性も生んでしまう。今の3D技術がある時代なら、ヴァーチャルで体験させてみたいと思うところかもしれないが、ミュシャは、暗黒を絵の中央に出現させることで、この一瞬後を想像させる推進力を絵に込めたのだ。この推進力はヴァーチャルな世界よりも強いメッセージを生むのだと私は思う。ここに刻みつけられた「瞬間」には終わりがない。だからこそ、永遠の問いかけとして見るものの心に刻印されるのだ。芸術が生み出す力を強く感じた一日だった。

茶色の朝 フランク・パブロフ・物語 ヴィンセント・ギャロ・絵 高橋哲也・メッセージ 藤本一勇・訳 大月書店

この物語は、ファシズムが音も無く静かに自分の日常の中に入り込んでくる恐怖を描いたもの。猫が増えすぎるという「問題を解決」するために、「茶色以外の猫をとりのぞく制度にする法律」を「仕方がない」と承諾したことが始まりになって、どんどん取り締まりは広がっていきます。茶色の犬以外の禁止へ。過去に茶色以外の犬猫を飼っていた人たちへの弾圧へ。いつの間にか、茶色以外のものは全て許されない朝を迎える恐怖です。以前読んだ記憶があるので、すっかりレビューを書いたつもりになっていたのに、検索してみたら無いんです。つまり、前回読んだときには、この恐ろしさが身にしみていなかったのでしょう。私も、この恐怖を見過ごしてきた一人です。

教育勅語を復活させ、教育の現場に銃剣で人を殺す方法を持ち込む。それがいつの間にか、閣議決定や、党議拘束で縛られた国会で決まっていく。権力は常に子どもを支配しようとします。子どもを洗脳すると、優秀な兵隊になっていくのは、戦前の日本の教育やヒトラーユーゲントの政策、今も世界中で増え続けている少年兵を見れば、明らかなこと。

もう何年も前から、ひっそりと教科書は政権寄りに改訂され続けているし、「個」より国や全体に奉仕することを目標にした道徳教育も、本格的に実施されます。いつの間にか、私たちの生活は茶色に染まっているのです。過酷な労働。格差の拡大。原発の再稼働。沖縄の基地問題。銃剣で人を殺す以外にも、戦争はそこここに、転がっている。何が出来るのだろう。何が。焦りながら、策を持たない私に、後書きの高橋哲也さんのメッセージが染みます。何が出来るのかを、私は誰かに教えて貰わずに、自分で考えなければならないのです。この違和感や疑問、恐怖を決して手放さないことを軸にして。

いろいろな形はそのまま残っている。家族や会社や、学校や、音楽や、映画や、そんなものは変わっていないのに、いつの間にか精神はそっくり入れ替わっている。でも、形はそのまま残っているから、誰も変わってしまったことに気づかない―これは、丸山眞男の評論で紹介されている、ヒトラーが台頭していった時代について語ったドイツの言語学者の証言です。同じことを繰り返してはならない。何十年かあとの子どもたちに、なぜ、あの時に止めておいてくれなかったのか、と言われないためにも。

 

 

あひる 今村夏子 書肆侃侃房

三つの短編それぞれがお互いの補助線のような役割を果たしていて、読み終わったあと、ほの暗く浮かび上がってくるものがある。それは、家族という形の不気味さだ。

この物語たちの中で、個人名で呼ばれるものは、あひるの「のりたま」と、子どもたちだけだ。大人たちは父、母、弟、おばあさん、という役割としての呼び方しかされない。二つ目の「おばあちゃんの家」のおばあちゃんに至っては、孫以外の家族から「インキョ」と呼ばれている。役割の中に、「個」は埋没してしまい、見えなくなってしまっている。

彼らが守ろうとしているのは、形だ。あひるののりたまは、あっという間に死んでしまう。空っぽになったケージに、しばらくしてまたあひるが帰ってくるが、それは明らかに違う個体のあひる。しかし、老夫婦はあひるを入れ替えたことを、自分でも忘れてしまったかのように振る舞う。あひるが入れ替えられたのは、子どもたちを呼び寄せるためだが、彼らは子どもが本当に好きだから、呼び寄せたかったわけではない。「子どもがいることが幸せ」だという形に拘っているからなのだ。

その形が本当に幸せなのか、幸せとは何なのか、この物語の中にいる人たちが自分に問うことは、無い。いや、そこを問いただしてしまったら、かろうじて保っているものが粉々になってしまう。それは、きっと果てしなく面倒なことなのだ。何があっても毎日ご飯を食べて、生きていかねばならないから。だから、見ないことにする。見ないことで、その形に馴染んでいるうちに、空っぽな自分になっていく。その不気味さをあぶり出しているのは子どもの眼差しだ。子どもの目は、見たくないものを見ないようにする、という取捨選択をしない。出来ないのだ。全てを等価に見る、その回路を通ってあぶり出されるものは、形と心を同じものだと思い込む暴力だ。死んでいくあひるは、その暴力に命を奪われる。

自分の名前を持たずに死んでいくあひるは、間違いなく私の中にも、私の家庭にもいる。この社会のあそこにも、ここにも。さらりとそれを平易な言葉遣いで書き上げてあるのがいい。この人の書いた児童文学が読んでみたいと思う。