淵の王 舞城王太郎 新潮社

「私は光の道を歩まねばならない」

 この物語の語り手は、主人公をすぐ傍で見つめ続ける目に見えないが、確固たる意志や人格を持つ者であり、主人公はその存在には気付いていないことになっている。しかし、この言葉は、その設定を唯一飛び越えて、主人公が語り手に宣言した言葉なのである。この小説のメタ構造を、さらに飛び越えた、メタ宣言なのだ。つまり、この言葉は小説世界を貫くまっすぐな芯であり、舞城の挑戦的な宣言が主人公の口から語られたものなのではないかと思う。その証拠に、この言葉は最後の「中村悟堂」でもう一度繰り返される。ところが、この唐突な宣言を聞いた目に見えぬ語り手は、アイタタ、と主人公のさおりちゃんを思い切り揶揄する。 「あははははははははは!」「是非歩んで欲しいよ!」「頑張ってさおりちゃん!」と。

 この揶揄は、軽い言葉のようでいて、実はとてつもなく重い。時間が止まって全てを吸い込むブラックホールのように重いのだ。平和や相互理解や、基本的人権の尊重なんて生ぬるいんだよ。結局世の中は強いもの、金持ってるものが勝ちなんだよ。その中で「光の道を歩まねばならない」なんて言ってたら、笑われるよー、いいの?そんなこと言ってたら、踏みつぶされちゃうよん、という、にやにやした虚無。舞城は、そのブラックホールに、言葉で錐を突き立てる。「中島さおり」「堀江果歩」「中村悟堂」という三人の主人公は、底知れない悪意の塊、にやにやとすり寄ってくる「淵の王」に、壮絶な闘いを挑むのだ。しごくまっとうに生きること。自分を、友達を大切にし、誠実に生きること。生きることを楽しむこと。しかし、その中で、彼らは傷つき、ぼろぼろにされ、あげくの果てには飲み込まれてしまうのだ。ただその事実だけを見ると、虚無派の言う「負け」なのかもしれない。しかし、彼らは、間違いなく光の道を歩いたのだ。

 私たちは、自分の生きているどの地点でも、自分の人生、自分の物語が意味しているものを完全に振り返ることができない。それがわかるのは、人生に終止符を打つとき、暗闇に飲み込まれるときなのだろう。この物語は、はじめに書いたように、単なる主人公と読者、という二元性にもう一つのファクターを放り込んでいる。普通なら黒子として身を潜めている語り手が、別個の人格として登場するメタ構造になっているのだ。従って、読み手の感情移入や視線も、その語り手と同調することになる。さおりちゃん、果歩、悟堂、の人生を見つめ、彼らの人生が光であることを知っているのは、語り手だけ。その語り手は、自分を見つめ続けるもう一人の私かもしれないし、さおりちゃんに果歩が、悟堂にさおりちゃんが、というふうに、これまた入れ子になった語り手がついているのかもしれない。(ややこしい!)しかし、とにかくこの物語は、生が死という暗闇に飲み込まれんとするときに読む黙示録なのかもしれない、と私は思うのだ。この物語を語っているのは、生と死の狭間の一点に立つもの。そこに立ち、「私は光の道を歩んだ」と思える人生とは何か、とこの物語を読みながら考えてしまった。もちろんミステリとしても、単なる怖い話としても、たまらなく面白い。でも、私にとってこの物語は、虚無や他者への無関心というブラックホールに舞城が渾身の力で切りつけた、光の一撃に思えて仕方ない。
 
 今、国会前で、日本中で、理不尽に押しつけられようとしている法案と闘うために、勇気を出して声を上げている若者たちがいる。この物語の主人公たちのまっとうさ、光の道をごく自然に歩もうとする姿が、私には彼らと重なって見える。若者たちを、愚者たちが用意している暗闇に差し出してはいけない。絶対にさせない。そう思う。