リゴーニ・ステルンの動物記 ―北イタリアの森から― マリオ・リゴーニ・ステルン 志村啓子訳 福音館書店

今月の初め、kikoさんと六甲山にハイキングに行った。六甲は無数にハイキングコースがあって、私たちが行ったような初心者向けのコースは、人の手が入って整備されている。それでも山の中は別世界で、何より鳥の声がたくさん聞こえる。一カ所、家の周りではほとんどいなくなったウグイスが集まっている場所があった。深い谷の木々をじっと見ていると、あちこちに留まっているウグイスの姿が段々浮かび上がってくる。不思議に思いながらそこを離れたのだが、しばらく行ったところでバードウオッチングをしている方に会い、ウグイスの巣穴がある場所を教えて頂いた。どうやら、山ではその頃が鳥たちの子育ての季節らしかった。あれから時々あのウグイスの雛はもう巣立ちをしただろうかと考える。人と出会ってもすぐに友達にはなれないが、動物だと一瞬姿を見ただけでも、なぜだか心に残るのが不思議だ。この本にも忘れられない動物たちがたくさん登場する。

この本は以前に読んだことがあって、その時にもレビューを書いているのだが、今現在、版元では絶版になってしまったらしい。表紙を見て貰うだけで伝わると思うのだが、この本はとても美しい。表紙のノロジカに見つめられて扉を開くと、長靴のようなイタリアの地図。もう一枚開くと、二羽の愛らしいクロウタドリが出迎えてくれる。そこはもう、北イタリアの森の入り口なのだ。あちこちに散りばめられた挿絵も、活字の大きさや配置も、志村さんの訳されたリゴーニ・ステルンの文章にしっくりと溶け合っていて、見事な一冊だ。本というのは、特に翻訳されるものは、その一冊に関わる何人もの方の美意識が一点に凝縮されるものだろうと思う。作り手の「想い」が込められている本から伝わってくる風を感じるのは、とても幸せなことだ。特にこの本の巻頭に載せられている、リゴーニ・ステルンの「日本の若い読者への手紙」は、若い人たちに、ぜひ読んでほしいと思う。

「いつもこの世に平和と安らぎがあるとはかぎらない。それは日々守り、獲得していってはじめて可能だということを、これらの挿話は、わたしたちに気づかせてくれるでしょう。」

彼は兵隊として第二次世界大戦に従軍し、強制収容所にいたこともある。この本の中に出てくるように、彼の故郷も大きな傷跡を残した。その彼が、子どもたちや若い人たちに、なぜこの物語を読んで欲しいと思ったのか。この物語たちに登場する人たちは、「たいへんな労苦をはらって、平和の中での暮らしを再開」した人たちだ。現在の日本と中韓との関係を考えても、どんな時代に生きていても、私たちは戦争とは無関係ではいられない。また、戦争でなくても、いきなり厄災に巻き込まれることもあるし、理不尽な状況に陥ってしまうことだって多々ある。穴の中に落っこちてしまった人間には、「平和と安らぎ」は青空のように、あるのはわかっても手に入らない切ないものなのだ。「アルバとフランコ」の中で、男たちが冬のさなかに家にこもって、木の細工物を心満ち足りて作るシーンがある。苦しみの果てに取り戻した日常の中に漂う木の香りが、どんなに胸に優しく満ち足りたか。そして、故郷の山に生きる動物たちが、それぞれの人生に深く縫い止められながら、誇らしく自分の生をまっとうしていく姿に、どんなに愛情を感じているのか。多くは語られなくても、この物語たちには、喪失を体験した人の「平和と安らぎ」に対する深い思いが溢れている。「日本の読者へ 遠く、遠く離れたところに暮らす親愛なる友よ」とリゴーニ・ステルンが書いているように、ここには国や人種という壁を超える生き方が示されているのだと思う。動物たちは国境を持たない。ただ、故郷を持つのだ。リゴーニ・ステルンの描く故郷に愛情を抱くことの出来る若き読者は、心の中で彼と同郷になる。まだ見ぬ故郷を持つことができる、とも言える。その積み重ねが、もしかしたら―本当にわずかな望みであっても、次の世代の若者たちが、自分たちを超える繋がりを手にしてくれるかもしれないというかすかな、でも必死の希望をもって、彼は言葉を紡いだのではないかと思うのだ。

今読んでいる本の後書きで、管啓次郎さんが、こう述べている。「昨日に別れて、少しでもよい明日を作り出すために。きみは渡り鳥として飛ぶか。それとも小さな橋を作るのか。いずれにせよ、合い言葉は「渡り」となるだろう」(※)本屋さんではもう購入できないかもしれないけれど、図書館には所蔵しているところが多いと思う。まだ見ぬ北アルプスの静寂に住むノロジカや、クロライチョウや、ノウサギたち。言葉を持たぬ彼らの生き方に心を繋いでいく幸せを、どうか味わってみて欲しい。

※ミグラード 朗読劇『銀河鉄道の夜』 勁草書房