やくそく ニコラ・デイビス文 ローラ・カーリン絵 さくまゆみこ訳 BL出版

スリやかっぱらいをして生きていた女の子が、ある日おばあさんからカバンをひったくろうとする。その中には、緑のどんぐりがたくさん入っていた。おばあさんの「おまえさんにやるよ。これを植えるってやくそくするんならね」という言葉どおり、女の子は次々にどんぐりを植えていく。すると、すさみきった街に緑が生まれ、人々の心が色づいて鳥たちが帰ってくるのだ。女の子は、どんどん違う街にどんぐりを植えていく・・・。

とてもシンプルなテキストなのだが、深みのある素晴らしい絵と溶け合って、読み手に新鮮な言葉として届くように考え抜かれている。どんぐりは、どんぐりなのかもしれないし、目に見えない大切なものの寓意ともとれる。女の子が初めてどんぐりの詰まったカバンを手に入れて眠った夜の枕辺の絵が素晴らしいのだ。色とりどりの小鳥たちが集まって、慈しむかのように孤独な女の子を見つめている。緑の葉っぱや、小鳥の声。小さな小さな命を慈しむことは、実は慈しまれることなのだとこの絵を見て思う。

うちにはけっこう大きな庭がある。まあ、大きいといってもたかが知れているのだが、長年暮らしているうちに、様々な草花が植わっている。しかし、ここ10年くらい、私はこの庭をほったらかしにしてきた。手入れをしなくちゃ、と思えば思うほど身体は動かず、月桂樹にはカイガラムシが付き、君子蘭は鉢から溢れそうになり、枯れるものは枯れて、生命力の強い花だけがやたらに咲き誇る、荒れ果てた野原のような場所になっていた。ところが、ふと出来心で買った、たった一株のパンジーが、この春とても美しく咲いてくれて、彼女と毎日話をするうちに、私は何となくまた庭に出る時間が多くなった。月桂樹を剪定して、君子蘭の絡んだ根を分けて植え替えもした。雑草を丁寧に抜いていると、それこそ10年以上前に撒いたカモミールの芽が出ていることに気がついた。手を入れて話しかけると、花や木は気持ち良さげに風に吹かれて、優しい顔を見せる。

「人の気持ちが変わることを、わたしはもう知っていたから」

自分のカバンを次の命に受け渡していくとき、女の子はこうつぶやく。壊れて失ったと思うものも、実は形を変えて自分の中に緑の芽のように生きているのかもしれない。こんな年齢でもそう思えるときが巡ってくるのだから、伸びようとする力に溢れている子どもたちなら尚更だ。小さな緑は、大きな樹となって、今度はたくさんの人の心を包んでいく。その力が、小さなひとりの人間にもちゃんと備わっていることが、素直に伝わってくる。何度でもやり直そうとしていいんだよ、何度でも手を繋ごうとしていいんだよ、と静かに語りかけるとても素敵な絵本だと思う。さくまゆみこさんは、こういう高学年から中学生向けの、力のある絵本をたくさん訳されていて、選書のセンスが素晴らしい。絵にとても力があるので、多人数を対象にした高学年の読み聞かせにも良いのでは。

2014年2月刊行

BL出版

二つ、三ついいわすれたこと ジョイス・キャロル・オーツ 神戸万知訳 岩波書店

先日見た『ドストエフスキーと愛に生きる』の翻訳者スヴェトラーナ・ガイヤーが、アイロンをかけた美しいレース編みを撫でながら、一つ編み目が違っても作品にはならないの・・・とつぶやいていたけれど。ジョイス・キャロル・オーツのテキストの精緻さも複雑なレース編みさながらだ。繊細な美しい編み目を紡ぎながら、女の子たちの息が詰まるような閉塞と不安を浮かび上がらせていく。

この物語に描かれるのは、アメリカという階級社会のヒエラルキーの上位の子どもたちが通うハイスクール。その中でもカースト上位のグループの女の子たちが、この物語の主人公だ。ナンバースクールへの進学を決めたメリッサは、すらりとした恵まれた容姿と頭の良さで誰もがうらやむ少女だが、常に不安につきまとわれて一人になるとこっそり自傷行為を繰り返している。一方、ナディアは、ぽっちゃりした可愛い女の子だが、「尻軽」と言われるようになってしまい、苦しむ。そして、自分に優しくしてくれた担任教師に自宅にあった高価な絵画をプレゼントしてしまい、大きなトラブルを引き起こしてしまうのだ。一見恵まれた場所で生きているように見える彼女たちは、いつも笑顔の下に傷を隠している。そんな彼女たちの自己評価の低さの鍵を握るのは、父親だ。仕事が出来て、いわゆる成功者である父親たちは、娘に「成功者であること」と「女らしく可愛くあること」という二重の縛りをかける。ところが、縛りをかけた父親は、自分や母親を捨てて、あっさりと若い女に愛情を移していくのだ。可愛い女でなければ愛されない。しかし、可愛い女でいることは、常に女性的な価値を失う危うさを孕む。セクシーで人気者でなくてはならないが、危うい均衡から転げ落ちると、イタい女になるか、「尻軽」と言われて軽蔑の対象になってしまう。(小保方さんの痛々しさにも、一脈通じるところがありますね・・・)メリッサもナディアも、切ないほど父親の愛情を求めているが、報われない。オーツの筆は緊迫感に満ちて、鋭いメスのように男性社会の中での彼女たちの痛みををくっきりとえぐり出す。その緊張感は半端ないのだが、オーツの面白いところは、この物語にもう一人、既にいなくなった少女が絡んでくることだ。

ティンクという燃えるような赤毛のその少女は、元有名な子役で、優等生揃いの高校の中で特異な存在だった。メリッサにとっても、ナディアにとっても、ティンクは特別の存在だった。小柄でやせっぽちなティンク。性的な関心からは遠い場所にいるくせに、頭が切れるから、男子にも一目置かれて、有名人であるという勲章もある。しかし、女の子たちは知っていたのだ。ティンクが非常に脆い一面を抱えていたことを。傷ついた魂を抱えながら、誇り高く、自分に正直に生きようとしていたことを。この物語の時間軸の中には、既に生身の彼女はいない。彼女は吸い込まれるように、自分の痛みの中に消えてしまった。しかし、強烈な存在感で友人たちの近くに居続ける。メリッサもナディアも、ティンクの痛みが他人事ではないことを知っている。多分、ティンクは「もう一人の私」なのだ。メリッサもナディアも、自分の胸の内にいるティンクと語り合うことで、悩み傷つきながらも、ほのかな光を見いだしていく。そして、そっと手を繋ぎ合うのだ。

裕福な私学に通う女子高生の悩みなんて、「恵まれてるのに何が不満なんだ」と世間的には一蹴されてしまうかもしれない。(この圧力感も、この物語の中に渦巻いている)でも、彼女たちの苦しみや痛みは、私たちが生きている社会の、あまり意識化されない根深い場所から生まれてくるものだと思うのだ。だから、日本の女子高生が読んでも、「彼女は私だ」と強く思うだろうし、もはやとっくに少女でなくなった私が読んでも、やはり同じ痛みが自分の中で疼く。オーツは誠に容赦ない人だ。痛みをえぐる筆の鋭さもさることながら、彼女たちが内に秘めているしなやかさと強さの予感まで描き出すことが出来る。「彼女は私だ」と思うことは、強さへの出発点だと思うのだ。出来ることなら、男子にも、この痛みを読んで欲しいと切に思う。

2014年1月刊行

岩波書店

 

[映画]ドストエフスキーと愛に生きる ヴァデイム・イェンドレイコ監督

翻訳という仕事を、私はとても尊敬している。私は外国文学が大好きだが、それも翻訳して下さる方がおられるからこそ。(今月号の『考える人』も「海外児童文学ふたたび」と題した外国文学特集で、思わず買ってしまった。)信頼できる翻訳家の方の名前が表紙にあると、「これは読まねば!」と嬉しくなるのだ。この作家ならこの方、という名コンビも多々ある。アーサー・ランサムなら神宮輝男さん。今の朝ドラになっている村岡花子さんとモンゴメリ。ミルンと石井桃子さん。・・・もう、書いても書いても書き切れないほど名翻訳がたくさんある、これは非常に幸せなことだが、元を正せば、そもそも日本の近代文学は児童文学も含めて、翻訳を通じて始まったのだ。そう思うと、「翻訳」という仕事は幾世代にもわたって交流していく大きな橋をかけるお仕事に違いないと思う。

この『ドストエフスキーと愛に生きる』というドキュメンタリーは、スヴェトラーナ・ガイヤーというドイツ在住のロシア語翻訳家の暮らしを追ったものだ。84歳の彼女は、ドストエフスキーの翻訳に取り組んでいる。彼女曰く、「五頭の象」、『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『白痴』『悪霊』『未成年』という、目眩がするほどの大作に、真摯に向き合う日々が描かれる。 翻訳家の作業を、こうして映像で見せて貰うということに、まず感動した。綿密な準備に、細かい読み合わせを人を替えて何度も行う、その労力といったら。翻訳をするということは、原文に忠実であることと、俯瞰した視線で言葉の向こうにあるものを捉える批評家としての作業を同時に進行させていくことなのだ。スヴェトラーナは作中で、文学で書かれたテキストを緻密に織られた生地にたとえているが、翻訳も、オリジナルへの忠実さを横糸に、ありとあらゆる教養と、人生を見つめる深い眼差しを縦糸に織り込んで出来上がるものなのだろうと思う。この映画は、その彼女の縦糸の部分に深く分け入っていく。暖かみのある手仕事の数々で飾られた家。リネンに丁寧にアイロンをかける、折り目正しい生活の美しさもさることながら、私が引きつけられたのは、彼女の過去への旅だった。

スヴェトラーナはウクライナ出身で、父親はスターリンの大粛正による拷問が原因で亡くなっている。その娘であるということは、一生反体制の人間として冷遇されて生きていくことなのだ。ちょうどそのとき、キエフはナチスドイツに占領される。語学に秀でていた彼女は、敵国であるドイツに協力し、ドイツ軍が引き上げていくときに共に出国して奨学金を得て安定した職を得ることになる。父親は15歳の彼女に、収容所での一部始終を語ったのだが、スヴェトラーナは全くその内容を覚えていないらしい。生きるために、幼かった彼女はその記憶を封印してしまったと言う。ドイツはどん底の彼女に手を差し伸べ、救ってくれた。しかし、同時にキエフのユダヤ人を殺害し、ヨーロッパ全土で何十万人という人たちを収容所に送り込んだのだ。彼女の友達もキエフの谷で虐殺されたという。15歳の彼女が、母と二人で懸命に生き抜いていくときに、何があったのか。何を見て、何を感じたのか。過去について、彼女は多くは語らない。しかし、65年間一度も帰らなかった故郷を「月よりも遠いところ」と言う彼女にとって、過去は年老いてますます重く胸に刻まれていたものではないかと思うのだ。それは時間が経ったから消えてしまうような生半可な記憶ではなかっただろうと思う。翻訳という自分の仕事に対する勤勉さについて問われたスヴェトラーナは、「負い目があるのよ」と答えていた。もちろん、それだけで語れてしまうほど簡単なことではないだろう。しかし、晩年になって、ドストエフスキーの新訳に全てを注ぎ込む彼女の記憶と思いを想像すると、粛然とするのだ。キエフの若い人たちに、「自分の心の声をよく聴くこと。もし、それがそのときの常識とかけ離れているとしても」(記憶だけで書いているので、原文そのままではありません。念のため。)と彼女は説いていた。それは、大きな波に飲み込まれようとするときに、自分の心にどんな羅針盤を持つかという意味ではないだろうか。その羅針盤を心に宿すための闘いが、彼女の残したいものなのかもしれない。だから、彼女は取り憑かれたように仕事をせずにはいられない。このドキュメントのさなかに、彼女は最愛の息子を失う。その悲しみも、過去の痛みも、愛情も、誇りも、全てを背負い、厳然と窓辺に座って言葉を選んでいく彼女の姿から、最後まで目が離せなかった。彼女の訳では、『罪と罰』は『罪と贖罪』というタイトルらしい。読んでみたいと心から思う。彼女は87歳で亡くなられたそうだが、きっと最後の最後まで仕事をされたことだろう。ドイツ語のドストエフスキーは一生読めないけれど、私も、「五頭の象」を、もう一度読み直してみたくなった。文学好き、特に外国文学好きな方にはおすすめの映画です。

 

あひるの手紙 朽木祥 ささめやゆき絵 佼成出版社

言葉を初めて手に入れたときの喜びを覚えていると言うと、「ほんまかいな」と言われそうですが。自分としては結構はっきりした記憶です。「あいうえお」の赤い磁石を買って貰い、それを絵本の字と同じ順番に並べてみたとき、「あ」の字と音が、ふと一致したんですよね。一つわかれば後は芋づる式に疑問氷解し、それまで見知らぬ暗号だった文字が、私に語りかけてくるように思えて、興奮しました。多分三才くらいだった・・・ということは、ウン十年昔の記憶ですか(笑)私にとって、文字を手に入れた日は、新しい扉が開いた瞬間だったのでしょう。 そんな古い記憶が蘇ってくるほど、この物語には磨き抜かれた言葉の喜びがきらきらしています。

ある日、一年生のクラスに一通の手紙が届きます。そこには覚えたての元気な字でただ一言「あひる」の文字。それは、「ゆっくり、ゆったり、大きくなって」ひらがなを書けるようになった24歳のけんいちさんからのお便りだったのです。そこから、子どもたちとけんいちさんの、お手紙での素敵な言葉のキャッチボールが始まります。「あひる」「るびい」「いるか」・・・交わし合うたった一つの言葉に、たくさんの笑顔が重なっていきます。手紙を送るときの、「喜んでくれるかな?」というドキドキ。お返事を待つときの「早く来ないかな~?」と思うときめき。届いたお手紙を開けて、紙をそっと開くまでの待ち遠しさ。そんな時間も全部こもった手紙って、ほんとにいい。「あひる」という言葉と一緒に、一年生の皆と、ゆっくり大きくなった、けんいちさんが、にこにこと行進していくような。お手紙に書いた言葉たちが、皆で歌っているような楽しい時間が、見事に一冊の本になっています。

朽木さんの物語には、よく手紙が登場します。『かはたれ』(福音館書店、2005年)の、麻のお父さんからの手紙。『風の靴』(講談社、2009年)の、ヨットマンのおじいちゃんからの瓶に入った手紙。『オン・ザ・ライン』(小学館、2011年)では、何枚もの絵葉書が、主人公の侃をめぐる人々の心を行き交います。作品の中で、手紙たちはゆっくりと相手に届く時を待ち、主人公たちの心をほぐしていくのです。思うに、手紙は心を交わすのにちょうどいい「時間」を生むのだと思います。何もかも、早く、早くとせかされてしまいがちな子どもたち。そのスピードはますます上がってめまぐるしいほど。でも、ゆっくりでなければ育たないものがあるのです。けんいちさんの書いた「あひる」の文字は、「にぎやかに、わらっているみたいな三つの文字」。ゆっくり、ゆっくりたどりついた三つの文字への時間の中に、どれだけの愛情と慈しみがこめられていることか。だからこそ育った素直な喜びが、この「あひる」という言葉にはじけているように思うのです。そのけんいちさんの言葉を、まっすぐに受け止めて返していく子どもたちの心には、余計な壁も何もない。心地良いリズムを刻む楽しさと共に、何の押しつけもなく、お互いの尊厳を大切にするメッセージが心にするりと染みこんでくる。言葉は不完全な入れ物だから、そこに何を込めるかで宝物にもなれば、相手を切り裂く刃にもなります。子どもたちには、相手と自分を大切にする言葉を育てて欲しいと切に思います。幼年の物語という難しいジャンルで(これは、ほんとに難しいんですよ!)こんなに自然にメッセージと楽しさを両立させた作品が生まれたというのは、ほんとに嬉しいことです。学校という社会の始まりの中に飛び込んでいく子どもたちへのプレゼントにも相応しい一冊だと思います。ささめやゆきさんの暖かみのある挿絵も、この物語にぴったり。表紙の赤いポストがいい!あのずんぐりした形。ポストは、やっぱりこれでなくちゃね。

2014年4月刊行

佼成出版社