鳥越信先生と国際児童文学館

鳥越信先生が亡くなられた。ご冥福を心からお祈り申し上げたいと思う。晩年になって、心血を注がれた、万博公園の中にあった国際児童文学館があのような形でつぶされてしまったことで、どんな思いをされたかと想像すると、心が痛んで仕方ない。

文化や芸術というものは、成長し、実りをもたらすのに長い時間がかかる。しかし、今はとにかく費用対効果、短いスパンで目に見える・・つまり、お金となって返ってくることは大切にされるが、目に見えないもの、数値化できないものに関してはとにかく切り捨てられることが多い。まるで役立たずの、金食い虫と言わんばかりである。特に児童文学という地味な世間でスポットライトの当たらない分野は、興味のない人にとっては無駄にしか思えないものなのだろう。大阪は一番文化や芸術に縁のない、興味のない人を長に据えてしまった。それゆえに、鳥越先生が膨大な資料を寄付された、児童文学研究の礎となるべき場所を失ってしまったのだ。そして、私の卒業した大阪女子大学も大阪府立大学に統合されてしまい、今や文学部は影も形もない。大阪市立大学とも統合されるらしいが、この流れでは文系の学部は大きく減らされ、何を勉強するのかわからない名前の学部ばかりになってしまいそうな流れだなと思う。

しかし、これでいいのだろうか。文学や哲学というのは、すべての学問を貫く背骨のようなものだと思うのは、私だけだろうか。私たちは何処からやってきて、どこに行くのか。幸せとはなにか。生きるということはどういうことか。生きる意味とはなにか。人間の存在とは如何なるものであるのか。答えの無い問いを、さぐり続けて私たちは生きている。科学や技術も、その問いから離れて発展してきたわけではない。また、複雑化し、専門化するに従って、ますます根源的なその問いは大切なものになると思う。フクシマでの手痛い教訓は、私たちに科学技術を不完全な人間という存在が操ることの怖さを教えてくれたではないか。その人間について、とことん考え抜く学問が、大学のどこにもない。これほど不思議なことは、あるだろうか。こんな風に思うのは、私が古い人間だからだろうか?
そして、子どもの文学は、未来を作っていく子どもの心を育むもの。子どもが生まれて初めて出会う、新しい世界を開く目であり、耳であり、やわらかい心に播かれる種なのだ。深く根を下ろし、血肉となる、目に見えない大切なもの。星の王子さまが言うように、「肝心なことは眼に見えない」。見えないものに触れる一瞬が、文学だ。このとりとめのない不安だらけの世界に自分の心を迎え入れてくれる場所があることを知り、共感し、他者と心を分け合うことを知る。想像すること、この体だけに囚われぬ心の自由を持つこと。その心のありようの上に、よりよく生きようとする向日性が生まれるのではないのだろうか。その児童文学について、常に研究し、資料を蓄え、発信し続ける機関があるということは、とても大切なことなのだ。議論され、語られ、活性化することなしには、学問は命を失ってしまうから。児童文学の様々な作品が多角的に取り上げられ、議論され、評価されることが、新しい児童文学へと繋がっていく糧になるはず。そこをないがしろにして、なんの教育改革だと私は思う。

鳥越先生が亡くなられたことを知り、常日頃思っていることが何やら噴出してしまった。こんな偉そうなことを語る資格は、何の肩書きも持たない私にはないのかもしれないけれど。何の肩書きも持たぬ私だから、言えることもあるかもしれないとも思ったりする。積み上げるのに何十年かかっても、つぶすのは一瞬だ。でも、つぶしてしまったものは、もう取り返しがつかなくなる。私たちは、もう少し長い目で、広い視野で、文化や芸術を考えていく必要があるのではないだろうか。心の財産を食いつぶしてしまうところに、真の発展はないと思う。