戦場のオレンジ エリザベス・レアード 石谷尚子訳 評論社

内線が激しくなったベイルートの町を、ひとりの少女が駆け抜けようとします。自分のいる場所から、闘いの激しい中心地を抜け、相手側に飛び込むという命をかけた旅。10歳の女の子が、町を分断するグリーンラインを命がけで超えて見たものは何なのか。少女が感じた「戦争」が、息詰まるような臨場感で迫ってくる作品です。

でも、主人公の少女アイーシャは、例えばナウシカのように特別に強い女の子でも何でもありません。彼女は、出稼ぎにいった父親が帰らぬうちに内戦の爆撃で母が死に、祖母と兄弟と、命からがら避難先で共同生活を送っています。弟の面倒も見ているけれど、10歳の女の子らしく、自分のことだけでいっぱいいっぱいな毎日。用事を言いつけられてふくれたりするアイーシャを、作者はとても身近な存在として描いています。中東、アラブ諸国に生きる人々に対して、私も含めて日本人は遠い距離感で感じていることが多いのではないでしょうか。イスラム、テロ、戦争―マスコミで伝えられるそんなイメージばかりが先行すると、そこに生きる人たちの顔が見えなくなってしまう。でも、そこには私たちと変わらぬ人間の暮らしがあり、家族が、子どもたちがいるのです。物語は、ひとりの人間の心に飛び込むことで、そんな先入観の壁を超えることができる。この物語も、そうです。あなたと、私と、どこも変わらぬ普通の少女が、なぜ危険地帯に行かねばならなかったのか。唯一自分たちの暮らしを支えてくれているおばあちゃんの具合が急に悪くなったのです。彼女に残された道は、たった一つ。戦闘地帯のグリーンラインを超えて、おばあちゃんの持病の薬を貰いにいくことだけなのです。

アイーシャを突き動かしているのは、「不安」です。戦争のさなか、もし母さんだけではなく、おばあちゃんまでもが死んで、自分たちだけ取り残されてしまったら。当たり前にいてくれると思う人がいなくなる、その恐怖は、アイーシャが身近な存在であるからこそ、余計に読み手の心に食い入ります。だからこそ、彼女が必死の思いで飛び込むグリーンラインの緊張感が、ダイレクトに伝わってくるのです。戦争という有無を言わさぬ暴力の気配が充満する中を走る恐ろしさ。でも、私が何より怖かったのは、そのグリーンラインを超えた一歩先の向こうには、またごく普通の人々の暮らしがあることでした。戦闘と日常が、こんなにも背中合わせだということ。これは、日本という島国から出たことのない私にとっては、やはり虚を突かれることなのです。内線は、一つの国を二分します。目指すお医者さんの家がわからなくて泣いているアイーシャを、ひとりの少年が助けてくれ、オレンジをくれる。その美味しさは、誰が食べても変わらないのに、なぜか人は敵と味方に分かれて殺し合う。戦争に大人の事情は、嫌と言うほどあるでしょう。青臭い物言いをするなと言われそうですが、この根本的な問いをまっすぐ投げかけられるのが、児童書の素晴らしいところだと、私は思っています。戦闘が始まった市場の中を、少年の店のオレンジが転がっていくシーンが忘れられません。殺戮の中で無防備な人間の命のようでもあり、踏みにじられる暖かい心の象徴のようでもあります。

アイーシャは子どもだから(いや、大人もそうかもしれないけれど)敵味方を単純に信じています。敵は悪い人で、味方はいい人。でも、「とってもいい兵隊さん」は、帰ってきたアイーシャに、敵の兵隊と同じ眼をして銃を突きつけます。そして、敵側にいるライラ先生は、アイーシャにおばあちゃんを助けるお薬をくれたし、アブー・バシールは、危険を冒して彼女を助けてくれた。アイーシャは敵も味方も超えた、何人かの善意で危険地帯を行って、帰ってくることができたのです。では、なぜ、その人間が殺し合うのか。その不条理が、アイーシャの眼差しの中から鮮やかに浮かび上がります。戦争がテーマですが、スリリングな展開にのめり込んでいるうちに、アイーシャの気持ちに、素直に寄り添っていくことが出来る。読後、子どもたちの心の中には、アイーシャが助かって良かったと思う気持ちと共に、たくさんのやり切れなさが残るでしょう。そのやり切れなさを、いつまでも覚えていて欲しい。「大人になっても、人をにくんじゃだめよ」というライラ先生の言葉を、アイーシャが敵側の少年から貰って食べた、オレンジの暖かい味と一緒に覚えていて欲しいと思います。そして、私のようにまっすぐな問いかけを忘れてしまいそうな大人は、せっせと児童書を読むことにしたいとおもいます。

2014年4月刊行
評論社

[映画 チョコレートドーナツ] トラヴィス・ファイン監督

とにかく、主演のアラン・カミングが素晴らしい!彼の演じるルディは、その日暮らしのゲイのダンサーです。ショービジネスの中で生きる色気と、散々傷ついてきた苦しみと、孤独に汚されずに息づいている純粋さが見事に一つの表情に見え隠れするのです。冒頭のドラァグクイーンとして踊る姿も魅力的だけれど、ドラマが展開していくにつれて、今度は内面から溢れてくる光が彼を美しく照らして、見ほれてしまいました。そして、折々に入る歌声が、またいい!あの歌声で、感動は確実に何割増しかになってますね。

ルディは、店に来た弁護士のポールと恋に落ちるのですが、奇しくもその日、麻薬常習者の母親に取り残された、ダウン症のマルコという少年と出会います。親の愛を知らずに育ってきたマルコを、優しいルディは手放せなくなってしまう。その気持ちを知ったポールは、自分の家で一緒に暮らそうと二人を誘って、ルディとポールは、マルコの両親となります。このとき、ルディがデモテープを作るために、二人の前で歌う“Come to me” が、素晴らしい。ハロウインやクリスマスでの三人の笑顔。海辺で寄り添うマルコとルディ。その光景があまりに美しくて、儚くて、きっとこの幸せがすぐに壊れてしまうだろうことが暗示されていて、とても切ない。この映画の舞台は1979年。車の中でルディとポールがいちゃいちゃしているだけで、警官に銃を突きつけられるシーンがあって驚いたのですが、この当時は同性愛が即犯罪であるという認識だったわけです。当然、彼らへの世間の風当たりは、恐ろしく厳しく、マルコは家庭局に連れ去られてしまい、ポールは自分の仕事を失ってしまうことになります。

ここからの、ルディとポールの闘いは壮絶です。いくら彼らが愛情深くマルコを育てていたことが証言されても、裁判で繰り返されるのは、ただ、彼らの性生活をほじくり返し、揶揄することばかり。差別と偏見の壁は、彼ら三人を打ち砕きます。ただ、一緒にいたいだけという彼らの愛情は、法律という網の目からこぼれ落ちてしまう。それは、世間の枠組みに当てはまらない愛情だから。自分には何の関係もないのに、あの手この手でルディ達を追い詰めるポールの上司の弁護士が出てくるのですが、ルディとポールが苦しむところを見ながらほくそ笑む彼の顔には、マイノリティへの被虐の快感がにじみ出ていました。一緒に映画を見た若い友人が、なぜあんな意地悪をするのかわからない、と言っていましたが。弱いものを踏みにじりたいという欲望、それも正義の名を騙って自分の支配力を確認したい人間は、たくさんいるんですよね。それは多分、私の心にも住んでいる。そう見るものに思わせるだけの深みが演技にありました。一歩間違えればセンチメンタリズムに流されかねないテーマに分厚さを与えているのは、この脇を固める俳優陣の素晴らしさだったのかもしれません。数シーンしか出てこないマルコの母親が、底知れない虚無に包まれていたのも胸に刺さりました。

ネタばれになるのでこれ以上ストーリーは書きませんが、ラストはハッピーエンドではありません。映画館中、すすり泣きの声でえらいことになっていたぐらいです。でも、心の中にとても暖かいものが残ります。ルディとポールは、楽な道を選ばなかった。どんなに傷つけられても、マルコを守ろうとした。自分が愛しているものへの気持ちを汚され、笑われることって、とても凹みます。でも、やっぱり自分が愛しているものは、自分が守っていかなくちゃいかんのだわ、と。例えその結果が敗北の形をとったとしても、それはいつか、光となって自分の中に帰ってくる。ルディが最後に歌った“I Shall Be Released ”は、ずっと私の胸の内で鳴り響く臆病な自分を励ますテーマソングになりそうです。

ネルソン・マンデラ カディール・ネルソン作・絵 さくまゆみこ訳 鈴木出版

先日紹介した『やくそく』と同じく、さくまゆみこさんが翻訳されています。アパルトヘイトという人種差別政策と闘い、南アフリカの大統領になったネルソン・マンデラ氏の大型伝記絵本です。この表紙のインパクトの強さといったら!留置場での長い年月を耐え抜き、世界中の人々の尊敬を集めた、素晴らしい「人間の顔」です。この顔を見つめていると、彼が持ち続けた人としての貴さが伝わってきます。

差別と闘う、というのはこれはもう並大抵のことではないです。今、『九月、東京の路上で』(加藤直樹著 ころから)という本を読んでいます。関東大震災のときに何千人もの朝鮮人の人たちが殺されてしまったときの記録なのですが、これを読むと差別心というのは人の心の中に巣くう弱さや恐怖心と分かちがたく結びついているということがわかります。だからこそ、それが発露されるときは暴力性も伴うし、有無を言わせない理不尽さで人の尊厳を踏みにじる。人を虐げるということは、加害者と被害者の心に、同時に恐怖という闇を育てるのです。しかし、さくまゆみこさんが後書きで述べられているように、マンデラ氏は、自分が受けた差別という恐怖に対して、恨みではなく融和で対峙していったのです。ノーベル平和賞をはじめとしたマンデラ氏への評価は、その越えがたいところを越えた彼の大きさへの敬意であり、越えがたさの中で悪戦苦闘を続ける泥沼の中に咲く一筋の希望であるのかもしれません。

この本には、南アフリカという国が置かれていた状況や、その中でマンデラ氏がどのように生き抜き、人々の希望となっていったのかが、簡潔にわかりやすく描かれています。そして何より、マンデラ氏が、英雄ではなく、一人の人間として誠実に生き抜いたことが書かれているのです。彼は誰にも成し遂げられなかったことをしたのではなく、自分の為すべきことを常に見据えて、苦しみに負けずに果たしきった。その身近さと非凡さが同時に伝わってくるのが素晴らしいと思うのです。関東大震災のときに吹き荒れたジェノサイドの嵐の中で、朝鮮人の人たちを守り切った人たちは、常日頃から、ごく普通に彼らと人間同士のつきあいをした人たちでした。人間を、たった一人の顔と名前のある存在として見るのではなく、「○○人」という顔の見えない記号でひとくくりにしてしまうことは、非常に危険なことなのです。私は、物語の力こそが、その危険を救うものであると思っています。物語は、常に「たった一人」の心に寄り添うものだから。すべての壁を乗り越えて心を繋ぐ力があると信じているのです。

南アフリカは日本から遠く、子どもたちにとってもあまり馴染みのない国かもしれません。しかし、アパルトヘイトにも繋がる、人種や民族への差別の問題は、間違いなく今の日本にも重くわだかまっています。だからこそ、ネルソン・マンデラ氏の、一人の人間としての生き方、この力強い顔を持つ「個」としての彼の存在がきちんと描かれている絵本を、たくさんの子どもたちに読んで貰いたい。そう思います。

2014年2月刊行

鈴木出版

 

やくそく ニコラ・デイビス文 ローラ・カーリン絵 さくまゆみこ訳 BL出版

スリやかっぱらいをして生きていた女の子が、ある日おばあさんからカバンをひったくろうとする。その中には、緑のどんぐりがたくさん入っていた。おばあさんの「おまえさんにやるよ。これを植えるってやくそくするんならね」という言葉どおり、女の子は次々にどんぐりを植えていく。すると、すさみきった街に緑が生まれ、人々の心が色づいて鳥たちが帰ってくるのだ。女の子は、どんどん違う街にどんぐりを植えていく・・・。

とてもシンプルなテキストなのだが、深みのある素晴らしい絵と溶け合って、読み手に新鮮な言葉として届くように考え抜かれている。どんぐりは、どんぐりなのかもしれないし、目に見えない大切なものの寓意ともとれる。女の子が初めてどんぐりの詰まったカバンを手に入れて眠った夜の枕辺の絵が素晴らしいのだ。色とりどりの小鳥たちが集まって、慈しむかのように孤独な女の子を見つめている。緑の葉っぱや、小鳥の声。小さな小さな命を慈しむことは、実は慈しまれることなのだとこの絵を見て思う。

うちにはけっこう大きな庭がある。まあ、大きいといってもたかが知れているのだが、長年暮らしているうちに、様々な草花が植わっている。しかし、ここ10年くらい、私はこの庭をほったらかしにしてきた。手入れをしなくちゃ、と思えば思うほど身体は動かず、月桂樹にはカイガラムシが付き、君子蘭は鉢から溢れそうになり、枯れるものは枯れて、生命力の強い花だけがやたらに咲き誇る、荒れ果てた野原のような場所になっていた。ところが、ふと出来心で買った、たった一株のパンジーが、この春とても美しく咲いてくれて、彼女と毎日話をするうちに、私は何となくまた庭に出る時間が多くなった。月桂樹を剪定して、君子蘭の絡んだ根を分けて植え替えもした。雑草を丁寧に抜いていると、それこそ10年以上前に撒いたカモミールの芽が出ていることに気がついた。手を入れて話しかけると、花や木は気持ち良さげに風に吹かれて、優しい顔を見せる。

「人の気持ちが変わることを、わたしはもう知っていたから」

自分のカバンを次の命に受け渡していくとき、女の子はこうつぶやく。壊れて失ったと思うものも、実は形を変えて自分の中に緑の芽のように生きているのかもしれない。こんな年齢でもそう思えるときが巡ってくるのだから、伸びようとする力に溢れている子どもたちなら尚更だ。小さな緑は、大きな樹となって、今度はたくさんの人の心を包んでいく。その力が、小さなひとりの人間にもちゃんと備わっていることが、素直に伝わってくる。何度でもやり直そうとしていいんだよ、何度でも手を繋ごうとしていいんだよ、と静かに語りかけるとても素敵な絵本だと思う。さくまゆみこさんは、こういう高学年から中学生向けの、力のある絵本をたくさん訳されていて、選書のセンスが素晴らしい。絵にとても力があるので、多人数を対象にした高学年の読み聞かせにも良いのでは。

2014年2月刊行

BL出版

二つ、三ついいわすれたこと ジョイス・キャロル・オーツ 神戸万知訳 岩波書店

先日見た『ドストエフスキーと愛に生きる』の翻訳者スヴェトラーナ・ガイヤーが、アイロンをかけた美しいレース編みを撫でながら、一つ編み目が違っても作品にはならないの・・・とつぶやいていたけれど。ジョイス・キャロル・オーツのテキストの精緻さも複雑なレース編みさながらだ。繊細な美しい編み目を紡ぎながら、女の子たちの息が詰まるような閉塞と不安を浮かび上がらせていく。

この物語に描かれるのは、アメリカという階級社会のヒエラルキーの上位の子どもたちが通うハイスクール。その中でもカースト上位のグループの女の子たちが、この物語の主人公だ。ナンバースクールへの進学を決めたメリッサは、すらりとした恵まれた容姿と頭の良さで誰もがうらやむ少女だが、常に不安につきまとわれて一人になるとこっそり自傷行為を繰り返している。一方、ナディアは、ぽっちゃりした可愛い女の子だが、「尻軽」と言われるようになってしまい、苦しむ。そして、自分に優しくしてくれた担任教師に自宅にあった高価な絵画をプレゼントしてしまい、大きなトラブルを引き起こしてしまうのだ。一見恵まれた場所で生きているように見える彼女たちは、いつも笑顔の下に傷を隠している。そんな彼女たちの自己評価の低さの鍵を握るのは、父親だ。仕事が出来て、いわゆる成功者である父親たちは、娘に「成功者であること」と「女らしく可愛くあること」という二重の縛りをかける。ところが、縛りをかけた父親は、自分や母親を捨てて、あっさりと若い女に愛情を移していくのだ。可愛い女でなければ愛されない。しかし、可愛い女でいることは、常に女性的な価値を失う危うさを孕む。セクシーで人気者でなくてはならないが、危うい均衡から転げ落ちると、イタい女になるか、「尻軽」と言われて軽蔑の対象になってしまう。(小保方さんの痛々しさにも、一脈通じるところがありますね・・・)メリッサもナディアも、切ないほど父親の愛情を求めているが、報われない。オーツの筆は緊迫感に満ちて、鋭いメスのように男性社会の中での彼女たちの痛みををくっきりとえぐり出す。その緊張感は半端ないのだが、オーツの面白いところは、この物語にもう一人、既にいなくなった少女が絡んでくることだ。

ティンクという燃えるような赤毛のその少女は、元有名な子役で、優等生揃いの高校の中で特異な存在だった。メリッサにとっても、ナディアにとっても、ティンクは特別の存在だった。小柄でやせっぽちなティンク。性的な関心からは遠い場所にいるくせに、頭が切れるから、男子にも一目置かれて、有名人であるという勲章もある。しかし、女の子たちは知っていたのだ。ティンクが非常に脆い一面を抱えていたことを。傷ついた魂を抱えながら、誇り高く、自分に正直に生きようとしていたことを。この物語の時間軸の中には、既に生身の彼女はいない。彼女は吸い込まれるように、自分の痛みの中に消えてしまった。しかし、強烈な存在感で友人たちの近くに居続ける。メリッサもナディアも、ティンクの痛みが他人事ではないことを知っている。多分、ティンクは「もう一人の私」なのだ。メリッサもナディアも、自分の胸の内にいるティンクと語り合うことで、悩み傷つきながらも、ほのかな光を見いだしていく。そして、そっと手を繋ぎ合うのだ。

裕福な私学に通う女子高生の悩みなんて、「恵まれてるのに何が不満なんだ」と世間的には一蹴されてしまうかもしれない。(この圧力感も、この物語の中に渦巻いている)でも、彼女たちの苦しみや痛みは、私たちが生きている社会の、あまり意識化されない根深い場所から生まれてくるものだと思うのだ。だから、日本の女子高生が読んでも、「彼女は私だ」と強く思うだろうし、もはやとっくに少女でなくなった私が読んでも、やはり同じ痛みが自分の中で疼く。オーツは誠に容赦ない人だ。痛みをえぐる筆の鋭さもさることながら、彼女たちが内に秘めているしなやかさと強さの予感まで描き出すことが出来る。「彼女は私だ」と思うことは、強さへの出発点だと思うのだ。出来ることなら、男子にも、この痛みを読んで欲しいと切に思う。

2014年1月刊行

岩波書店

 

[映画]ドストエフスキーと愛に生きる ヴァデイム・イェンドレイコ監督

翻訳という仕事を、私はとても尊敬している。私は外国文学が大好きだが、それも翻訳して下さる方がおられるからこそ。(今月号の『考える人』も「海外児童文学ふたたび」と題した外国文学特集で、思わず買ってしまった。)信頼できる翻訳家の方の名前が表紙にあると、「これは読まねば!」と嬉しくなるのだ。この作家ならこの方、という名コンビも多々ある。アーサー・ランサムなら神宮輝男さん。今の朝ドラになっている村岡花子さんとモンゴメリ。ミルンと石井桃子さん。・・・もう、書いても書いても書き切れないほど名翻訳がたくさんある、これは非常に幸せなことだが、元を正せば、そもそも日本の近代文学は児童文学も含めて、翻訳を通じて始まったのだ。そう思うと、「翻訳」という仕事は幾世代にもわたって交流していく大きな橋をかけるお仕事に違いないと思う。

この『ドストエフスキーと愛に生きる』というドキュメンタリーは、スヴェトラーナ・ガイヤーというドイツ在住のロシア語翻訳家の暮らしを追ったものだ。84歳の彼女は、ドストエフスキーの翻訳に取り組んでいる。彼女曰く、「五頭の象」、『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『白痴』『悪霊』『未成年』という、目眩がするほどの大作に、真摯に向き合う日々が描かれる。 翻訳家の作業を、こうして映像で見せて貰うということに、まず感動した。綿密な準備に、細かい読み合わせを人を替えて何度も行う、その労力といったら。翻訳をするということは、原文に忠実であることと、俯瞰した視線で言葉の向こうにあるものを捉える批評家としての作業を同時に進行させていくことなのだ。スヴェトラーナは作中で、文学で書かれたテキストを緻密に織られた生地にたとえているが、翻訳も、オリジナルへの忠実さを横糸に、ありとあらゆる教養と、人生を見つめる深い眼差しを縦糸に織り込んで出来上がるものなのだろうと思う。この映画は、その彼女の縦糸の部分に深く分け入っていく。暖かみのある手仕事の数々で飾られた家。リネンに丁寧にアイロンをかける、折り目正しい生活の美しさもさることながら、私が引きつけられたのは、彼女の過去への旅だった。

スヴェトラーナはウクライナ出身で、父親はスターリンの大粛正による拷問が原因で亡くなっている。その娘であるということは、一生反体制の人間として冷遇されて生きていくことなのだ。ちょうどそのとき、キエフはナチスドイツに占領される。語学に秀でていた彼女は、敵国であるドイツに協力し、ドイツ軍が引き上げていくときに共に出国して奨学金を得て安定した職を得ることになる。父親は15歳の彼女に、収容所での一部始終を語ったのだが、スヴェトラーナは全くその内容を覚えていないらしい。生きるために、幼かった彼女はその記憶を封印してしまったと言う。ドイツはどん底の彼女に手を差し伸べ、救ってくれた。しかし、同時にキエフのユダヤ人を殺害し、ヨーロッパ全土で何十万人という人たちを収容所に送り込んだのだ。彼女の友達もキエフの谷で虐殺されたという。15歳の彼女が、母と二人で懸命に生き抜いていくときに、何があったのか。何を見て、何を感じたのか。過去について、彼女は多くは語らない。しかし、65年間一度も帰らなかった故郷を「月よりも遠いところ」と言う彼女にとって、過去は年老いてますます重く胸に刻まれていたものではないかと思うのだ。それは時間が経ったから消えてしまうような生半可な記憶ではなかっただろうと思う。翻訳という自分の仕事に対する勤勉さについて問われたスヴェトラーナは、「負い目があるのよ」と答えていた。もちろん、それだけで語れてしまうほど簡単なことではないだろう。しかし、晩年になって、ドストエフスキーの新訳に全てを注ぎ込む彼女の記憶と思いを想像すると、粛然とするのだ。キエフの若い人たちに、「自分の心の声をよく聴くこと。もし、それがそのときの常識とかけ離れているとしても」(記憶だけで書いているので、原文そのままではありません。念のため。)と彼女は説いていた。それは、大きな波に飲み込まれようとするときに、自分の心にどんな羅針盤を持つかという意味ではないだろうか。その羅針盤を心に宿すための闘いが、彼女の残したいものなのかもしれない。だから、彼女は取り憑かれたように仕事をせずにはいられない。このドキュメントのさなかに、彼女は最愛の息子を失う。その悲しみも、過去の痛みも、愛情も、誇りも、全てを背負い、厳然と窓辺に座って言葉を選んでいく彼女の姿から、最後まで目が離せなかった。彼女の訳では、『罪と罰』は『罪と贖罪』というタイトルらしい。読んでみたいと心から思う。彼女は87歳で亡くなられたそうだが、きっと最後の最後まで仕事をされたことだろう。ドイツ語のドストエフスキーは一生読めないけれど、私も、「五頭の象」を、もう一度読み直してみたくなった。文学好き、特に外国文学好きな方にはおすすめの映画です。

 

あひるの手紙 朽木祥 ささめやゆき絵 佼成出版社

言葉を初めて手に入れたときの喜びを覚えていると言うと、「ほんまかいな」と言われそうですが。自分としては結構はっきりした記憶です。「あいうえお」の赤い磁石を買って貰い、それを絵本の字と同じ順番に並べてみたとき、「あ」の字と音が、ふと一致したんですよね。一つわかれば後は芋づる式に疑問氷解し、それまで見知らぬ暗号だった文字が、私に語りかけてくるように思えて、興奮しました。多分三才くらいだった・・・ということは、ウン十年昔の記憶ですか(笑)私にとって、文字を手に入れた日は、新しい扉が開いた瞬間だったのでしょう。 そんな古い記憶が蘇ってくるほど、この物語には磨き抜かれた言葉の喜びがきらきらしています。

ある日、一年生のクラスに一通の手紙が届きます。そこには覚えたての元気な字でただ一言「あひる」の文字。それは、「ゆっくり、ゆったり、大きくなって」ひらがなを書けるようになった24歳のけんいちさんからのお便りだったのです。そこから、子どもたちとけんいちさんの、お手紙での素敵な言葉のキャッチボールが始まります。「あひる」「るびい」「いるか」・・・交わし合うたった一つの言葉に、たくさんの笑顔が重なっていきます。手紙を送るときの、「喜んでくれるかな?」というドキドキ。お返事を待つときの「早く来ないかな~?」と思うときめき。届いたお手紙を開けて、紙をそっと開くまでの待ち遠しさ。そんな時間も全部こもった手紙って、ほんとにいい。「あひる」という言葉と一緒に、一年生の皆と、ゆっくり大きくなった、けんいちさんが、にこにこと行進していくような。お手紙に書いた言葉たちが、皆で歌っているような楽しい時間が、見事に一冊の本になっています。

朽木さんの物語には、よく手紙が登場します。『かはたれ』(福音館書店、2005年)の、麻のお父さんからの手紙。『風の靴』(講談社、2009年)の、ヨットマンのおじいちゃんからの瓶に入った手紙。『オン・ザ・ライン』(小学館、2011年)では、何枚もの絵葉書が、主人公の侃をめぐる人々の心を行き交います。作品の中で、手紙たちはゆっくりと相手に届く時を待ち、主人公たちの心をほぐしていくのです。思うに、手紙は心を交わすのにちょうどいい「時間」を生むのだと思います。何もかも、早く、早くとせかされてしまいがちな子どもたち。そのスピードはますます上がってめまぐるしいほど。でも、ゆっくりでなければ育たないものがあるのです。けんいちさんの書いた「あひる」の文字は、「にぎやかに、わらっているみたいな三つの文字」。ゆっくり、ゆっくりたどりついた三つの文字への時間の中に、どれだけの愛情と慈しみがこめられていることか。だからこそ育った素直な喜びが、この「あひる」という言葉にはじけているように思うのです。そのけんいちさんの言葉を、まっすぐに受け止めて返していく子どもたちの心には、余計な壁も何もない。心地良いリズムを刻む楽しさと共に、何の押しつけもなく、お互いの尊厳を大切にするメッセージが心にするりと染みこんでくる。言葉は不完全な入れ物だから、そこに何を込めるかで宝物にもなれば、相手を切り裂く刃にもなります。子どもたちには、相手と自分を大切にする言葉を育てて欲しいと切に思います。幼年の物語という難しいジャンルで(これは、ほんとに難しいんですよ!)こんなに自然にメッセージと楽しさを両立させた作品が生まれたというのは、ほんとに嬉しいことです。学校という社会の始まりの中に飛び込んでいく子どもたちへのプレゼントにも相応しい一冊だと思います。ささめやゆきさんの暖かみのある挿絵も、この物語にぴったり。表紙の赤いポストがいい!あのずんぐりした形。ポストは、やっぱりこれでなくちゃね。

2014年4月刊行

佼成出版社

 

アトミック・ボックス 池澤夏樹 毎日新聞社

凜とした物語だった。大きなものに流されずに自分の足で立ち、自分の頭で考えること。こうして書くのは簡単だが、いざ人生でこれを貫こうとすると、様々な困難がつきまとう。しかし、この物語の主人公はやり切ったのだ。国家権力に追われるという恐ろしい状況の中で、一歩も引かずに父親の後悔を受け止め、もみ消されぬように命をかけて守り切ったのだ。痛快とも言える彼女の鮮やかな軌跡が、この国の中に重く立ちこめている闇を切り裂いていく。そんな景色さえ見えるような、池澤さんの鮮やかな一冊だ。

社会学者である美汐の父は、島の漁師だった。死の間際、彼は美汐にあるものを託す。それは、父が昔関わっていた国産原爆の開発プロジェクト「あさぼらけ」の資料だった。父は、自らも被爆者でありながら、原爆の開発に関わってしまったことを深く後悔し、その機密を娘に託す。それを公表するのか、しないのか。考えるよりも先に美汐に公安の手が伸びてくる。捕まれば、あさぼらけは闇に葬られる。そこから美汐の逃亡が始まるのだ。この逃亡劇が手に汗握るエンタメとして成功しているのも読み応えがあるのだが、私は美汐の逃亡を手助けする、あちこちの島に点在する老人達がとても印象的だった。彼らの、日本にいながらにして、「国」のシステムの外側にいるような生き方が、水俣で漁師として生きてこられた緒方直人さんと、ふとだぶる。

「「国」とは何だったのか。私たちは何を「国」といってきたのか。「国に責任がある」といいながら、実はそこにあったのは、「国」という主体が見えない、主体の存在しない「システム社会」ではなかったのか」 (『チッソは私であった』緒方直人葦書房)

緒方さんは、システム社会の一員ではなく、魂を持った「一人の「個」に帰りたい」ということが、ただ一つの望みだという。美汐も、逃亡を決めた瞬間から、指名手配され、家族とも職場ともアクセスできず、社会のシステムから全く切り離された「個」としてこの「あさぼらけ」という存在に対峙することになる。一方、美汐を追い、過去を握りつぶそうとする力は、国の威信や大義のためと称しながら、美汐という一人の人間の尊厳を傷つけ、危険に陥れることをためらわない。その残酷さが、美汐の薄氷を踏むような逃亡劇の中で浮かび上がって身に染みる。自分がこの立場に立ったら・・・美汐ほど体力も知力もない私はひとたまりもなく捕まってしまう。簡単に踏みにじられてしまうよなあとしみじみ思う。最後に展開される美汐と、あさぼらけプロジェクトの中心にいた人物との対話は、まさに国に「愛」という名をつけて声高に語られる数の論理と、良心を「個」に引き受けて生きようとする者との論戦で、読み応えがあった。美汐のように、戦えなくても。それが自分一人では動かしようのない、大きすぎる問題に見えても。その問題を、システム社会の論理ではなく、「個」の良心にひきうけて考え尽くしてみなければ、大切なことは見えてこない。その原点を、美汐という若い女性に託した池澤さんの願いが伝わるような一冊だった。「中年の、男性の、大企業に所属する人たち」「経済成長ばかりを大事にする今の日本の社会構造」(本文より)だけで全てを押し切ろうとする態度には、もううんざりだ。もういい加減に変わろうよ、と私も心から思う。核という私たちの手には負えないものが、一人歩きしてしまったら。その恐怖を、日本人は何度も味わったのではなかったか。この物語に描かれるあさぼらけの顛末は、その怖さも含めて、読み手に様々なことを問いかける。エンタメで愛国心をやたらに売りにする作品がベストセラーになったりするのに対抗して(かどうかはわからないけれど)池澤さんがこういう作品を書いてくれたのが、とても嬉しい。

2014年2月刊行

毎日新聞社

 

ミシンのうた こみねゆら 講談社

こみねさんの描く世界は、どこかしら、私たちがどこかに置き忘れている世界と呼応していると思う。それは、常に美の世界に耳を澄ませ、心を尽くしている人だけが捉えることのできる、一抹の水脈のようなものかもしれない。昨年の夏、満月の夜に八島ヶ原湿原の夜の中を歩いた。灯りひとつ、人工物の何一つ無い世界を、神経を研ぎ澄ませて歩いていると、身体のどこかに違う目が開いていくような気がした。この絵本を読んでいると、あのとき満月を見上げていたときの気持ちを思い出す。月や風や草花や虫たちが語りかける耳に聞こえない声に、全身を使って耳をすませる時間。心をすます、という言葉はないけれど、こみねさんの絵本にゆっくり向き合って、心をすませているときに聞こえてくる音楽がとても好きだ。

品の良い洋装店のウインドウに、手回しのアンティークミシンが置かれている。たくさんのお洋服を作ってきたに違いないミシンは、もっと効率の良いミシンに仕事を譲って店頭にひっそり飾られているのだけれど、きっと「私を使って」と願っていたに違いない。その願いに引き寄せられるように、見習いの女の子が満月の夜にミシンのところにやってくる。カタカタ・・・可愛い音をたてて、少女は個性的なお洋服を作り出す。このお洋服が、どれもとっても素敵で美しいのだ。朝になって少女は勝手なことをして、と怒られるのだけれど、彼女のお洋服にぴったりな人がやってきて、必ず売れてしまうのだ。もしかして、このミシンは「こんなお洋服が欲しい」という願いを受け止めて、少女を呼び寄せているのかもしれない。一生に一度でいいから、まるで自分のためにあるように似合うお洋服を着てみたいというのは、女性なら誰でも思うことだと思う。「着る」というのは、そうありたい自分自身を多少なりとも体現することだし、どんなお洋服を着るかは自分の生き方とも深く関わってくる。自分の好きなものを着られるということは、人の尊厳を守るものでもあると思う。自由が奪われるところでは、大抵「着る」自由も奪われてしまうから。・・・などと大きな話になっていくのは、少女が最後に作ったお洋服を着るために現れたちいさな女の子がとても気になってしまうからだ。

遠くの野原にぽつんと佇んでいるちいさな女の子は、真っ白い服を着て、どことなく寂しそうだ。満月の月明かりの中をやってきたときも、命を宿さないような、青白い顔をしている。でも、ミシンが作り出した可愛い青いフリルのお洋服を着たとたん、生き生きとした表情で走り出すのだ。この子はどこから来たのかな。ずっと一人でいたのかな・・・。夜明けの町を手を繋いで走っていくふたりは、どこに行くのだろう。ふと、バーネットの『白い人びと』を思い出したりするのだけれど、その答えは読むものが「こうであって欲しいな」という自分の願いとともに、胸に沈めておくべきものなのだろうとも思う。あの小さな女の子は、女の子の憧れそのものなのかもしれないし、帰る場所を見つけた可愛い天使なのかもしれない。確かなのは、小さなミシンが、誰かの願いや希望を、カタカタと優しい歌を歌いながら生み出してきたということ。その音に心を澄ます、美しいオルゴールのような絵本が私のところにやってきてくれたことが、とても嬉しい。

2014年2月刊行

講談社

大震災から3年― 「さよならのかわりにきみに書く物語 田中正造の谷中村と耕太の双葉町」 一色悦子 随想舎

先日、kikoさんと、神戸の灘にある「阪神大震災記念 人と防災未来センター」に行ってきた。4Fのシアターで阪神大震災を、映像と音響で体験することができる。これが、「来る」と身構えているにも関わらず、非常に怖い。音と映像だけでも恐ろしい。あれがいきなり来たらと思うと、やはり想像を超える。そのあとの、震災の記憶を伝えるブースであれこれ資料を見ていると、6000人を越える死者数に改めて呆然とするのだが、そのときに横にいたkikoさんがぽつりと、「それでも私たちはまだ幸せやったな、って思う」と言う。(kikoさんは神戸の人だ)東日本大震災では、未だに行方不明の方たちがたくさんおられるから、と。kikoさんの中には、どうしても忘れられない記憶が、多分いつも、何をしていても自分の中のどこかにあるのだ。それは、きっと一生そうなのだろうと、いつも彼女を見ていて思う。この一週間、様々なドキュメンタリー番組で震災の三年後の姿が取り上げられると、その果てしなさが心を噛む。傷ついた心と暮らし、そしてもっと降り積もる原発の不安。西館の資料室には、犠牲者の方々のひとりひとりの名前と顔と人生の記録を丁寧に綴った記録がある。数ではない、たった一つの人生がそこには刻まれている。

前置きが長くなってしまったが、この物語は、福島県郡山市出身の作者が、双葉町という避難区域に住む中学生、耕太を主人公に書いた物語だ。あの日、原発の事故が起こり、いきなり避難勧告が出て避難生活を余儀なくされた中学生の耕太。茨城県古河市にある母方の祖父の家に疎開してきた彼は、そこの渡良瀬遊水池が、昔足尾銅山の鉱毒によって消えてしまった谷中村の跡地であることを知る。自分でいろいろと調べるうちに耕太は自分の故郷である双葉町と谷中村が重なって見える。富国強兵を推し進めるために銅山はどんどん開発され、そのためにふもとの谷中村は鉱毒被害に見舞われた。豊かだった村の作物はとれなくなり、渡良瀬川は死の川になり、人々は病気になり死んでいった。しかし、村民の苦しみよりも国の利益を選んだ結果、反対運動は押しつぶされ、村民は村を追い出された。その跡地が渡良瀬遊水池なのだ。

経済的な利益を優先して、一握りの人たちの苦しみは置き去りにしてしまう構図がどんな風に展開されていくのか。そして、それが今もそのまま繰り返されていることを、一色さんは、耕太の目を通して資料と共に説得力を以て描き出していく。実のところ、私がその構図に気付いたのは恥ずかしながら最近なのだ。ヒロシマを勉強していくと、必然的に核や水俣のことにぶつかる。若い頃には、それらは別々のことだと思っていた。しかし、その根っこは全て繋がっている、ヒロシマもフクシマも、谷中村の鉱毒も、水俣も。私は気付くのが遅すぎた。はっきり言うと、日本中の大人たちが気付くのが遅すぎたのだと思う。だからこそ、若い人たちにはこの国の根っこにある負の連鎖を知って欲しいのだ。そして、自分や大切な場所を守るためにも、嘘やごまかしを見抜く目を身につけて欲しい。生涯を捧げて谷中村のために奔走し続けた政治家の田中正造の言葉が紹介されている。「人、侵さばたたかうべし。そのたたかうに道あり。腕力殺りくを持ってせると、天理によって広く教えて勝つものとの二分あり。余はこの天理によりてたたかうものにて、たおれても止まざるはわが道なり」。言葉で、静かに繰り返したたかうこと。根気よく、諦めず。そのための知性を身につけることがこれからを生きる子どもたちには必要なのだと思う。この本には、一色さんの身を切るような切なる願いが込められている。子どもたちにも、そして大人にも、今是非読んでもらいたい本だ。

一色さんは、発売になったばかりの「日本児童文学 2014年3-4月号」に「「演題 だれが戦争を始めるのですか」福島県立安積女子高校三年 山崎悦子」という作品を書いておられる。十八歳の高校生のレポートという形で、日露戦争を始めたときの日本を通じて、今の日本に流れる不穏な空気を考える作品だ。原敬と田中正造という対照的な二人の政治家が、もし協力しあえていたら―お互いの立場を越えて力を合わせることが出来ていたら、戦争を繰り返した歴史は違っていたかもしれない。時代の空気に流されずに発言することはいつも勇気がいる。この一色さんの真摯な闘いに私は胸を打たれた。そちらも、是非読んで欲しい。

2013年10月刊行

随想舎

炎と茨の王女 レイ・カーソン 杉田七重訳 東京創元社

異世界ファンタジーが好きであれこれ読むんですが、最近読んだ中では、これは特筆物のおもしろさでした。主人公は王女様。生まれつき神に選ばれしゴッド・ストーンの持ち主である彼女が、試練の旅を通じて大きな成長を遂げるというファンタジーの王道です。王道ですが、設定がとてもユニークで文章が瑞々しいので、良い意味でその王道を感じさせません。恋も、裏切りも、悲しみも、友情も、冒険も楽しめるジェットコースターストーリー。こういうの、いいですよねえ。ここまでいろんな要素を盛り込んであるにも関わらず、とても読みやすい。感情移入しやすいんです。それは、思うに主人公である王女さまであるエリサのキャラによるものなのかも。華やかさとは無縁の性格。食いしん坊で汗っかき、国政の面倒なことは優秀な姉に任せ、趣味は勉強。三カ国語を話し、聖典や歴史書は暗記するほど読み込んでいるという、引きこもり系のオタク女子王女なんですよ。何だかもう、読書好き人間にとっては他人とは思えない(笑)

その彼女がいきなり隣国のえらくかっこいい王と結婚することになります。嫁ぎ先にいく途中で既に命を狙われ、やっと着いたと思ったら、なぜか王は自分を王妃としては紹介してくれない。美しい愛人はいるは、先妻はやたらに美女だは、落ち込むことばっかりの日々で、ますます引きこもり傾向が加速するエリサ。このあたりのエリサのもやもやがとても丁寧に書き込まれていたので、そうか、宮廷を舞台にした心理劇になるのかなあと思ったら、何とある日いきなり誘拐されて砂漠の旅に放り込まれてしまうという運命の急変から、それはそれは息つく暇もないジェットコースターストーリーになるんですよ。ぐっと主人公の気持ちに引きつけておいてから翻弄する。もうね、読むのが止まらなくて困りました。

物語は、エリサの持つゴッドストーンをめぐって展開していきます。王女暮らしのエリサが、砂漠を越え、大きな国の戦争の狭間でぼろぼろに傷ついた人たちと出会って、何とかして彼らの力になりたいと思うようになる。これまで与えられていただけの生活から、自分の力と才覚で居場所を勝ち取っていくまでの、彼女の闘いと成長がまぶしくて読み甲斐があります。個人的には侍女として宮廷に潜入し、エリサを誘拐する美女のコスメ、エリサを愛する、優しい大型犬のような若者のウンベルトがお気に入りかなあ。この物語は三部作で、次々翻訳されるみたいです。早く続きが読みたいなあ。

そこに僕らは居合わせた 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶  グールドン・パウゼヴァング 高田ゆみ子訳 みすず書房

作者のパウゼヴァングさんは、終戦時17歳でした。そのとき、軍国少女だった彼女は、戦時中に叩き込まれた価値観が全て粉々になる体験をしたのです。この本は、ナチス・ドイツ下にあった頃、ドイツの少年少女たちが何を考え、どんな風に過ごしていたかを、その自らの体験と見聞きしたエピソードから20の短編に仕上げたものです。実は、私はこの本を読むとき、身構えていました。戦争に関する本を読むのは、時として辛いものです。みすず書房という出版社といい、この装丁といい、もう見るからに誠実な作りの本だけに、よしっ、と気合いを入れて頁を開いたのですが、読み始めると、今度はやめられなくなりました。読み物として、非常に面白かったのです。面白かった、というのは語弊があるかもしれません。しかし、とにかく一気に引き込まれて読むのがやめられなかった。ここには、人の醜さ、ずるさ、無関心や偏見が引き起こす残酷さがあります。そして、同時に人の美しさ、悲しみ、友情、尊さも描かれています。つまり、私たちがおくる人生と少しも変わらない人々の生活と心境が、非常にシンプルに、かつ深く描かれていて心に響いてくるのです。たまたま、彼らはあの当時のドイツに生まれ、それぞれの人生を生きていた。それが伝わってくるからこそ、その彼らを大きな狂気に引きずり込んだものが何かを、時代と個人の関係を、深く考えさせられます。そしてまた、私があの時代に、ドイツ人として生きていたら、どうしていただろうと考えざるを得ないのです。

連行されたユダヤ人の家に入りこんでスープをすする家族。可愛い甥っこを「狩り」と称して連れて出て、練習だからと逃亡してきたロシア人を射殺させる。一方で、アメリカに逃れていこうとするユダヤの家族に、村中の冷たい目を浴びながら自分の貯金をすべてはたいて旅費として与える人がいる。連行されていった友達が残していったお人形を生涯大切に持ち続けた人もいる。一方を非難して一方を偉いと思うことはたやすいけれど、果たしてその時代の空気の中にいたら自分はどちらの行動をとっていただろうと思うのです。その昔、自分がおかしいと思うことをうっかり口にして、いじめられたときの恐怖も思い出します。そのあと、すっかり口をつぐむことに慣れてしまったことも。わかっているつもりで、わかっていないことだらけの人生をおくってきたと、最近思い知らされることばかりです。私には、自分が彼らから遠い場所にいると思うことが出来ません。だからこそ、この本はぜひ子どもたちに読んで欲しい。この本に書かれていることが他人事でなく、自分たちの今の社会のあり方にも繋がっていることだと実感できると思うのです。そして、ここには教育の恐ろしさも書かれています。人種と外見だけで人の価値を決めつけることが、授業で行われていたこと。おとぎ話のイメージを借りて、子どもに人種的偏見を植え付けてしまう『おとぎ話の時間』は作者自身の経験だといいます。こんなこと、戦争中だからだよ、などと言えるのかどうか。例えばヘイトスピーチや、ヘイトスピーチまがいの記事をまきちらす雑誌の見出しを見ると、私はその根っこにあるものは同じだと思わざるを得ません。意味の無い優越感が何を生み出すのか。だからこそ、この本は大人にも読んで欲しい。

ドイツという国は、確かに大きな負の遺産を残したけれども、その負の遺産との向き合い方には、日本との大きな違いがあるように思います。紆余曲折はあっても、とにかく事実に向き合おうという努力が払われている。でも、この国でこのように日本が戦争でしたことをわかりやすく子どもたちに伝えることが、どれくらい行われてきたか。私自身の記憶をたどっても、それはゼロに近いのではないのでしょうか。この本の『アメリカからの客』というお話の中に、昔のことを伏せようとする祖母に「私は本当のことが知りたいの!」と少女が叫ぶシーンがあります。そう、本当のことが知りたい。都合の悪いところを伏せて「美しい日本」を押しつけようと思ったところで、子どもはそんな嘘は簡単に見抜きます。嘘は不信しか生みません。確かに辛い過去をみつめるのは苦しい。パウゼヴァングさんがこの本を書くのも、決して簡単なことではなかったはずです。「私の十七歳までの人生を形作ったものと向き合えるようになるには、何十年という年月が必要だったということです」という言葉が紹介されていますが、それでもこの本を書こうと思ったのは、時代の証人が段々いなくなることに危機感を覚えたからとのこと。時代の証人がいなくなってしまう前に、徹底的に、あらゆる角度から検証した事実と向き合うことが、これからを生きる子どもたちのためにもしなければならないことではないのか。それは、日本という国のためだけではなく、人類に対する責任としても果たすべきことではないのかと、この本を書かれたパウゼヴァングさんの思いに心を打たれながら、思ったことでした。

2012年7月刊行

みすず書房

 

ゾウと旅した戦争の冬 マイケル・モーパーゴ 杉田七恵訳 徳間書店

ゾウがとっても可愛いです。戦争という、人間の最も醜い愚行の中で、一頭の子ゾウの姿だけが生き物としてのまっとうさに輝いているのです。空襲の中を子ゾウと旅するというのは、本来なら非現実なことなんですが、戦争がその非現実をひっくり返します。支え合い、いたわり合うということを思い出させてくれる穏やかな、優しい命。戦争のお話なのに、読み終わったあと、生きる喜びがじんわりと心を包んできます。マイケル・モーパーゴならではの不思議な輝きを放つ物語です。

第二次世界大戦の末期、空襲が始まったドレスデンの町から、一組の家族が子ゾウと共に逃げだします。16歳のリジーと、9歳の弟のカーリ、そして母のムティ。飼育員をしていたムティが動物園から連れ帰ってきた子ゾウのマレーネは、人懐っこくて可愛い子。マレーネがいるところには、いつも安らぎが生まれます。空襲の夜、命からがら逃げ、動物園から聞こえる悲鳴を聞きながらたちすくむ三人を、マレーネがそっと鼻で包むシーンがあります。人間の勝手な都合に何の罪もない動物たちを巻き込んでしまったこと。町が焼き尽くされていく悲しみと怒り。地獄絵図のような状況の中で、ただ自分たちを信頼して温もりを伝えてくるマレーネ。その対比が鮮やかで忘れられない情景です。

傷つけ合う愚かさと、心を繋ぐ素晴らしい力と、どちらもが人間であり、生きていく上で多かれ少なかれ誰もが身のうちに抱える両面です。作者はその両面を戦争という極限の中で見事に描いていきます。命を繋ぐぎりぎりの場所で、怒りや悲しみに胸を焦がしながら、家族がいつも「愛」に軸足を置いて歩こうとする。その先頭にゾウのマレーネがいることが、私にはとても象徴的なことに思えるのです。ありとあらゆる手段でお互いを差別化しようとしてしまう人間が陥る最大の過ちが戦争。その過ちをどう乗り越えるかを、種という垣根を超えて心を繋ぐマレーネが教えてくれているようだと思うのです。そして、その力は子ども達の中にも溢れています。たどり着いた叔父さんの農場で出会った敵国人であるカナダ人の兵隊であるピーターに、リジーはあっという間に恋をして、カーリはなついてしまうのです。兵隊という顔の見えない存在から、名前と顔のあるひとりの人間として出会ったとき、いろんな壁が消えてしまう。子どもの持つ、壁を超えてゆく力の鮮やかさが、この物語の中で希望として輝いています。

大人はなかなかそうはいきません。戦争に反対で、日頃ドイツ政府を批判していた母が、一番ピーターに抵抗感が強いのも、これまたよくわかるところです。しかし、この物語にはもうひとつの輝きが描かれています。傷ついた人たちを助け、敵国人であるペーターと共にいるリジー達家族を救ってくれた公爵夫人の知性の輝きです。避難民を受け入れ、自らの信念を貫く勇気は、きっと長い時間をかけて磨き上げられた教養と知性に支えられている。その美しさに、リジー達は救われるのです。壁を超えていく子どものしなやかな心と、磨き上げられた大人の知性。その両方に敬意を払う作者の願いが伝わってきます。

リジーとペーターがその後、どんな人生を送ったか。子ゾウのマレーネが戦争のあとどうなったのか。それは、ネタばれになるので書きませんが。老婦人の回想として少年に語られるこの物語が、かけがえのない子どもたちへの贈り物であることは間違いがありません。表紙も装丁も素敵で、ほんとに読んで良かったなと思わせられる1冊でした。

2013年12月刊行

徳間書店

 

図書館のトリセツ 福本友美子 江口絵理 絵スギヤマカナヨ 講談社

子ども向けに、図書館をどう使うか、どう図書館と仲良くなるかを書いた本なのだけれど、これがとってもわかりやすくて、伝えるべきことをしっかり踏まえている内容になっています。図書館で働いてる私でさえもなるほど~、と思うくらいです。大人の方が読んでも、きっと目からウロコのところがあるはず。

この本には、図書館で出来ることがたくさん書いてあります。本を読む、借りる、本で調べる。もちろんそれが基本なのですが、私が一番いいな、と思ったのは「図書館では、なにかをしなければいけない、ということは1つもないのです。こんな自由な場所は、ほかにそうそうありません」という言葉。そう、その通りなんですよねえ。本はたくさんあるけれど、別に読まなくたってかまわない。反対に、どれだけ読んでもかまわない。誰にもなんにも強制されません。この本にも書かれていますが、様々なジャンルの本を、なるべく偏りのないように収集する。この本が読みたいとリクエストされれば、その希望を叶えるべくあちこちに問い合わせて提供します。そう、図書館は「自由」が基本なのです。そのために、図書館は資料収集の自由と、提供の自由を宣言しているんです。(「図書館の自由に関する宣言」を、リンクしておきます。私は時々、この宣言を読むことにしています。何かこうね、ぎゅっと身が引き締まる思いがします。 )その自由を、最大限に活用して貰いたいなあと思うんですよ。なぜなら、この自由は活用して、使い倒すことで、もっと活性化して広がっていくと思うから。

だいたいの図書館は地方自治体が運営している「市民の図書館」なのですが、こんな風に公共図書館が出来るまでには、先人たちの努力と闘いがあったのです。それこそ女性や子どもに貸し出しをするようになったのも、そんなに昔のことではありません。はじめから当然のようにあるものではないからこそ、どんどん使って、実績を作って、この社会になくてはならぬものとして根付いて欲しいのです。日本では、そこがまだまだだと思うんですよねえ。「これだけネットがあるんだから、何も本でなくても」という声もあるでしょうが、やはり一冊の本が持つ情報量の多さと確かさは、ネットで検索して見る頁とは格段に違います。客観性も違います。この本にも「なぜ本でさがすかというと、たいていの本は専門家が書いていますし、出版される前に何人もの人が、正しいかどうかを確認しているからです」とあるように、ネットで個人的に書いているものと、出版されるものとはその責任の取り方が根本的に違います。ネットは匿名が基本ですもんね。

そして、図書館のいいところは、同じテーマの本が何種類も揃っていること。調べたことを鵜呑みにしないで、別の角度からも見ることができる。この本には、そこもちゃんと書いてあります。「1冊見て終わりではなく、2冊以上の本を使って確認しよう」その通り。活字で書かれているからと言ってそれを鵜呑みにしない、というのも大切なことです。いろいろ調べて同じテーマで違うことが書いてあったら、それは自分で考えてみる余地があるビッグチャンスですもんね!それだけで自由研究ができちゃう。卒論もできちゃうかもしれない。「なぜだろう」と思って自分で調べて、自分の頭で考えて「これだ!」という解答を手に入れることって、ほんとに楽しい。解答を得られなくても、これまたずっと考え続けるという楽しみが生まれます。また、答えは一つでなくてもいいかもしれない。答えは無いのかもしれない。でも、なぜだろうと思って考えることが、人間に与えられた一番の楽しみであると私は思います。そして、もちろん、何にも考えないために図書館に来るのも、いいですよねえ。いろんなことに疲れて、家や学校から離れたいとき。一人でいるのも寂しいけれど、誰とも話したくないとき。人間関係に疲れて、生きていくのがめんどくさいよな、と思うとき。図書館にきて、ぼーっとして、綺麗な写真集や、美しい絵画を眺めたり。漫画を読んでみたり。居眠りしたりするだけでも、ほっと出来るかもしれない。誰に気を遣う必要もないのが、また、図書館のいいところです。安心してひとりになれる。そして、本ほどひとりになった人間の味方をしてくれるものはありません。

「学校は何年かたつと卒業しなければなりませんが、図書館に卒業はありません。何歳になっても行けます。もし図書館があなたのお気に入りの場所になったら、一生ずっと遣い続けることができますよ」

いいこと言うなあ。私もきっと一生図書館には通い続けるでしょうねえ。他にもいっぱいしびれる名言がたくさんあって、この本付箋だらけになってしまいました。「私は図書館のことよく知ってるから」と思う方にもおすすめです。そうそう~~!と嬉しくなって、明日図書館に行きたくなること、請け合いです。

2013年10月刊行

講談社

てつぞうはね ミロコマチコ ブロンズ新社

てつぞうは、ミロコマチコさんが一緒に暮らしていた猫さんだ。もっとも、猫飼いの勘で、白いおっきな猫がはみださんばかりの表紙を見ただけで、「あ、この子はミロコマチコさんの猫だな」とわかってしまったけれど。『おおかみがとぶひ』の動物たちは、とってもアートだったけれど、このてつぞうは「あにゃにゃ」と話しかけてきそうなほど心の近くまで寄ってくる。賢くて気むずかしくて、わがままで甘えたのてつぞう。うちのぴいすけも、歯磨きのスースーする匂いが大好きで、私が歯を磨いているとやたらに寄ってくるんだけど。しかも、猫ぎらいで、人を選ぶところも、一緒なんだけど。桜の花びら追いかけてるし。可愛いなあ。てつぞうがめっちゃ好きになってまうやん。やだなあ。困ったなあ。だって、いやな予感がするんだよね・・・と思っていたら、やっぱりてつぞうは、見開きの画面の中で、虹の橋を渡って逝ってしまった。

でも、ミロコさんのところには、今、ソトとボウという二匹の猫さんたちがいて、彼らはてつぞうのお皿でご飯を食べて、てつぞうの使っていたトイレでおしっこもうんちもする。彼らは捨てられていたのを、ミロコさんの知り合いが拾って、てつぞうのあとにミロコさんのところにやってきた。生まれて死んでいくサイクルが、猫は私たちよりも短くて、どうしても先に逝ってしまう。それがわかっているから、目の前にいても、いつも心のどこかに、失うことを怖れる気持ちが揺れているのだけれど。ミロコさんが描かずにいられなかったてつぞうの絵は、生きている喜びがひたすらにいっぱいで、ミロコさんを愛して、ミロコさんに愛されて一生を送ったことがまっすぐ伝わってくる。彼はとても誇り高く自分の命をまっとうして逝った。これを幸せと言わずしてなんとしよう。

ミロコさんは、てつぞうというかけがえのない自分の猫を描いているのだけれど、自分のためにこの絵本を描いていない。命の大きな流れの中に、視点を置き直している距離感が、この絵本を見事な作品にしていると思う。命は絵本の大きなテーマの一つだ。生まれて初めて「死」に向かい合う瞬間が、幼い頃に必ず誰にもやってくるから。てつぞうの命が、ミロコさんの絵の中で生き生きと飛び跳ね、また次の子たちの命と響き合っているようなこの絵本は、言葉を尽くさなくても子どもたちに大切なことを教えてくれるような気がする。

2013年9月刊行

ブロンズ新社