サースキの笛がきこえる エロイーズ・マッグロウ 斎藤倫子訳 偕成社

この物語の主人公であるサースキは「とりかえ子」です。妖精が、人間の子どもをさらうかわりに、置いていった子どもが「とりかえ子」。しかも、サースキは妖精の母親と人間の父親との間に生まれた子。つまり、妖精の世界でも居場所がなくて人の世界に送られてきた子なのです。サースキは、妖精であったときの記憶を自分の心の奥底に封じ込め、なぜ自分がこんなに他の人とは違うのかということがわからぬままに苦しみ、悩みます。両親とも、村の人たちとも違う自分。「とりかえ子」という悲しい言葉の響きそのままに苦しむサースキと、彼女を育てる両親の心の痛みを感じながら・・・いつしか、彼女の悲しみと苦しみが、自分の中に潜むいつの日かの自分と響きあっていくのを感じました。

サースキは見かけもやることも、人間の子とは違っています。少しの間もじっとしていられないし、人間ならだれも恐れて近づかない荒れ地が大好き。壁を駆け上がれるほど身軽です。誰に教えてもらわずとも、バグパイプの演奏ができる。そんな彼女は村の子どもたちだけではなく、大人からも冷たいまなざしを向けられます。それは、彼女の両親だって例外ではありません。サースキがほかの子と違うということを、一番よくわかっているのは父と母。そして、サースキが「とりかえ子」であるということを一番先に感じていた祖母のベスです。その不安と戸惑いも、この物語はきちんと描き出します。なかなか分かり合えないサースキと家族の行き違いは、読んでいてとても切ない。サースキは、幼いころにすべてに戸惑い、壁に囲まれているような違和感に固まってばかりいた自分のようだし、サースキの両親は、手探りで悩みながら子育てをしていた自分の姿を見るようなのです。人がどこに、どのような親の元に生れ落ちてくるのか。それは、全く自分には意思決定権がありません。だから・・・行き違うし、誤解しあうし、全く理解しあえないこともあるし、気持ちが通じないことだってたくさんある。親子だから分かり合える、などというのは思い込みや幻想にすぎないのです。でも、その幻想に私たちはとことん振り回されます。この物語の中でも、サースキを理解し、お互いに安らぐ存在になれるのは、赤の他人であるタムという少年だけ。でも、サースキの両親は、サースキを理解できなくても、ただひたすら守ろうとします。災いをもたらすものとして村の大人全員が、サースキをつるし上げようとしても。(この集団心理の描き方は見事です)親って、ほんとはこれだけでいいのかもしれません。その気持ちさえあれば、子どもはそこから生きる力を生み出すことができる。サースキは、そんな両親に少しずつ愛情を感じ、彼らの本当の子を妖精たちから奪い返そうとするのです。その不器用な、ぎこちない愛情が生まれていく様子がなんとも愛しくて仕方ありませんでした。親子であることの苦しみと喜びが、子どもであった、親でもあった(両方とも過去形ではないけれども)私の心に、しみこんでいきました。荒れ野に広がるサースキのバグパイプの音のように。

 

そう、どこにも馴染めないサースキが奏でる音楽だからこそ、響いてくるものがある。彼女が傷だらけになりながら獲得していく感情のひとつひとつの感触が、今更のように胸の底に落ちてくるのです。自分の声が届かない悲しみ。絶望。誰かを大切に思うこと。自分を守ろうとしてくれる愛情を感じること。理解してくれる人と出会う奇跡。レコードの針が小さな溝のくぼみをたどって美しい音楽を奏でるように、サースキの心の震えは、読み手の心の中に埋もれていた柔らかい部分から大きな共振を引き起こします。それは、サースキの心を借りて、また自分自身と向き合うということでもあると思うのです。物語だけが果たすことができる役割が、ここにあります。

 

サースキは、失っていた記憶を取り戻し、自分が自分でいられる場所を探してタムと旅立ちます。悲しい結末ではありますが、私はそこに新しい希望を感じさせるすがすがしさも感じました。ここにカタルシスを感じる子どもたちもたくさんいるのではないでしょうか。生きる悲しみと喜びを見事に浮かび上がらせた物語でした。訳と装丁も、繊細さを伝えて素敵です。このタイトルに惹かれて読んだ自分の勘が、見事に当たった一冊でした。

2012年6月刊行

偕成社

 

ウエストウイング 津村記久子 朝日新聞出版

一昨日だったか、テレビのバラエティで、大阪府民の県民性をえらい誇張してやってました。大阪の男は声がでかいとか、やたらに「くさっ」と言うとか。まるで大阪府民が全員お笑い芸人みたいな取り上げ方で、なんやら片腹痛いなと思ったりしました。そないに、皆がみんな、お笑いに走ってるわけやないですしねえ。まあ、確かに人を楽しませたいとか、大阪人同士の独得の間の取り方とかはありますが、大阪弁は、お笑いだけに特化した言葉やない、当意即妙の距離感の伸び縮みがある言葉やと思ってます。その距離感の伸び縮みというのは、年齢だけやない、「オトナ」であることをわきまえてるのんかどうなんか、という物差しなんやと思うのです。津村さんの小説読んでもろたら、そのへんがわかってもらえるかもなあ、と思った次第です。

年代物の雑居ビルを職場にしているネゴロさんと、フカボリくん。そして、ビル内の塾に通ってきているヒロシという小学生。ビルの物置をそれぞれが休憩所にしている縁で顔も見ずにゆるく繋がっている3人の物語が同時進行します。仕事をきちんとこなす中堅事務職で、それだけにややこしいことを抱えがちな事務職のネゴロさん。真面目でおっちょこちょいで、自ら貧乏くじを引いてみたがるような、可笑しみのある男のフカボリくん。そして、母親にいわれていやいや塾に通ってはきてるんだけれども、全く身が入らずに絵ばかり書いているヒロシ。それぞれの人間関係の円がゆるく重なって、模様を作ります。この大人の世界の中に、ふっとヒロシが上手いこと紛れこんでるとこが、面白い。絵が好きで、多分それで食べていける才能のあるヒロシは、年齢的には子どもやけど精神的にはすっかりオトナです。絵を描く人、写真を撮る人というのは、物事の本質をすっと見抜く目を持っていることが多いんですよね。そこを一目で見抜いてバイトに据えたレンタルロッカー屋の親父はさすがです(笑)オトナ子どものヒロシ、雨の地下道にゴムボート浮かべて乗り入れたりする子どもオトナのフカボリくん、しっかり者でオトナオトナのネゴロさん。その三者三様の描く模様が古いビルのゆるい風景の中で雨に打たれて滲んでいくような独特の風情が読みどころでした。成長戦略とか、グローバルとか、ぴかぴかのオフィスで働いてはるとことは、ちょっと違う、圧倒的大多数の大阪民の匂いです。その匂いがやたらに濃く匂う(文字通り濡れた靴下のかほりまで漂う)大雨に閉じ込められる日のドタバタなんか、お腹抱えて笑いました。

テレビ用の言葉ではなく、日常の中で生きてる大阪弁の微妙なやり取りを、その時の空気感も含めてごく自然に小説に出来る、というのはとても難しいことやと思うんですが、津村さんはそこがとっても上手い。この小説も、ほんまに普通の私らとおんなじような大阪の子(大阪では大人にも「子」を使います。)の毎日―そないにぱっとしたこともなく、地味にひたすら働いて、その割にはお給料安いし、けどこの仕事かていつまでちゃんとあるんやろ、と思いながらなんとか暮らしてる。そんな毎日の中にある、ちっさいけどおっきなこと、ほんまに狭い世界での出来事やけど、うちらにとってはそこが大事やねん、ということが見事に書いてあるなと思います。生きてるってそういうことですよねえ。その大事なことは、大人であれ、子どもであれ、人に指図されて決められたり、わかったような顔で図られたりするようなもんではないんです。ヒロシの通う塾の講師が「こんな所で働く人間になったらダメだ」というような古いビル。そんな一元的な価値観がはびこりかけてる日本ですが、そんなゆるい所にだからこそ生まれる人と人との繋がり、コミュニティがあって、本当はそっちのほうが毎日生きていくには大切なんちゃうかな、と思います。大雨の中で、「あ、あそこ入ろう」と走り込みやすい、すっと何もかも受け入れる余地がある曖昧な場所。そんな場所を、効率や欲得ばかりではなく、ちゃんと確保して大切にしとくのが、ほんまのオトナ社会というもんやんな、と。津村さんの描くあったかい場所を失ったらあかんなと思いながら、この本を読み終えました。

 

2012年11月刊行

朝日新聞出版

 

気仙川 畠山直哉 河出書房新社

3・11から、あと数ヶ月で2年。あの日を忘れまいとする声は、世間的には少しづつ少数派になっていくような気がします。原発推進を唱える自民党が選挙で大勝ちしましたし。でも、3・11がアートや小説として登場し、語られていくのはこれからだと思うのです。あの日に自分が感じたこと、体験したことを発信するには、内的な作業がそれだけ必要だと思うのです。この写真集も、昨年の9月に刊行されたもの。ここに収録された作品を見、震災時に故郷の陸前高田に向かった畠山さんの文章を読んで、繰り返し語られねばならない「あの日」について、また考えることができました。

私は、この写真集のきっかけになった2011年の東京都写真美術館での写真展『畠山直哉展 Natural Stories ナチュラル・ストーリーズ』を見ています。これぞ畠山さんというスケール感の大きな作品たちとは区切られた一角で、この故郷を撮影した作品たちは静かに震災を、在りし日の美しさを語っていました。そして、その写真たちが飾られた一角を、大きな満月の写真が照らしていました。それを見たとき、上手く言えないのですが、ただもう、あるがままに悲しかったのです。震災をめぐるもろもろの動きに対するもやもやした怒りや、自分自身に対する苛立ちや、そんなものとは無関係に、失われた命と風景に対するただひたすらな悲しみがまっすぐ伝わってきて、ぽろぽろと泣けたのを覚えています。

 写真は「あの日」を伝えるものとして、震災後からたくさん目にしました。写真や動画というのは衝撃的な力があります。あの日ー流されていく車や家に「逃げて」と叫ばずにはいられなかった、でも絶対的にその声は届かないという無力感と絶望に日本中の人が苛まれました。映像には有無を言わせぬ圧倒的な説得力があるのです。でも、だからこそ、写真にはコマーシャリズムをはじめとする様々な計算もつきまとう。報道の傍若無人さもあいまって、その頃の私には、映像の毒が回っていたのかもしれません。そんな時に見た畠山さんの写真は、私の中の混乱を解きほぐし、写真本来の力を以て「あの日」を伝えてくれたのです。あれから一年経って再び出会ったこの写真たちを見て、やはり記憶が薄れかけていた私は、畠山さんが何の気なしに撮影していたという在りし日の陸前高田の美しさに改めて衝撃を受けました。何とも色鮮やかなかっての故郷と、灰色に破壊された震災後の風景との落差に改めて愕然としたのです。
畠山さんは日本を代表する写真家の一人です。彼の写真は見るものに真実とは何かを考えさせる力があると思います。この震災前の故郷を撮影した作品は、誰に見せるつもりもなく撮影されたらしいのですが、まるで動き出すかのように鮮やかに美しい。それ故に、一瞬にしてこの風景を失ったあの日を刻みつけているのです。失われたが故に永遠のものとなってしまった写真たち。震災後の気仙川沿いの写真は、有無を言わせぬ圧倒的な力が過ぎ去ったあとの灰色の風景です。これらの写真と共に、言葉としてあの日のことが語られているのは、この写真集がアートではなく、記録としての位置づけであるが故なのでしょう。その生々しい記憶を読むと、畠山さんが、まだあの日のこの場所に、ずっと佇んだままであることが伝わってきます。震災を遠い記憶にしようとしている今の空気と、未だあの日に佇む人たちとの落差。それが、震災前と震災後の風景との落差に重なって見えます。もうすぐ阪神大震災がおこった1月17日もやってきます。今だからこそ、たくさんの人に手にとって欲しい本だと思います。
2012年9月刊行
河出書房新社

インヘリタンス 果てなき旅 ドラゴンライダーbook4 クリストファー・パオリーニ 静山社

前作の『ブリジンガー』から3年あまり。待っていた完結編が刊行されました。上下巻の力作です。ただ人がたくさん死ぬ戦闘ファンタジーは苦手なんですが、この物語は単なる善悪の二元論に止まらず、争いという出来事の中にある人間の複雑さや心情をしっかり描き出しています。手に汗握る展開といい、キャラクターの魅力といい、この分厚さを一気に読ませて圧巻です。

そう、この物語の読みどころは、戦争という特殊な状況の中での、主人公たちの内面の葛藤や弱さが克明に描かれるところだと思います。ドラゴンライダーとして、ガルバトリックスという最強の敵と対峙しなければならない重圧に苦しむエラゴン。寄せ集めの軍隊をまとめて指揮をとるナスアダは強い女性ですが、今回は敵に誘拐され拷問を受けるという苦難に陥ります。そして、魔力も特別な能力も持たずに、自らの知恵と力だけで妻子を守り抜こうと苦闘するローラン。命をかけたぎりぎりの場所でまっすぐ自分の弱さを見つめた時に、もう尽きたと思った場所から新しい力が溢れてくる。そこに大きなドラマがありました。

でもねえ、ほんとにたくさん人が死ぬんですよ。息子たちがやっている「三国無双」を連想するくらい。ちょっとうんざりしかけました。でも、読んでいるうちに、そのあたりの矛盾も、作者は意識して書いてるんじゃないかと思ったんです。敵はばったばったとなぎ倒して死に対する感覚も麻痺するぐらいなのに、自分の身内の死に対しては深い喪失感に苦しむ。戦争の中で、エラゴンの身内に赤ん坊が生まれます。口に障がいを持って生まれたその子を、エラゴンは時間と力を使って必死に治すんです。何百人という人を殺したその手で。でも、本当はなぎ倒される名も無い兵士(実は名も無い兵士なんていないのですが)一人一人に家族があり、大切な人生がある。そこを感覚的に切り捨てる無自覚の怖さと、無自覚に気付いたときの苦しみ。その矛盾と葛藤の中に人は生きている。

それを象徴するのが、エラゴンとガルバトリックスとの最後の戦いと戦後処理の描かれ方です。ネタバレになってしまうので、あまり詳しいことは書きませんが、最後の戦いでは、相手を力でねじ伏せるのではなく、「理解」を求めるところから活路が見いだされる。この迫力溢れるシーンは圧巻でしたが、その戦いで勝利を収め(そこは予定調和だから書いていいよね)英雄になったエラゴンの身の処し方に、ああ、そうなのか、と私はこの物語のテーマが腑に落ちるような気がしたんです。ここも書いてしまうとこれから読む人が面白くないんで、明言は避けますが。エラゴンは、ガルバトリックスが犯した過ちを二度と繰り返さぬために、栄光とは無縁の、厳しい生き方を選ぶのです。そこには、ル=グウインの言うヒロイックファンタジーの本質ー「人が過ちを犯すこと。そして、ほかの人であれ、本人であれ、誰かがその過ちを防いだり、正したりしようと努めて、けれどもその過程で、さらに過ちを犯さずにはいられないこと」を描き出そうとする営みがありました。これを読んだ子どもたちは、ハラハラドキドキしながら、自分自身と語り合い、矛盾も含めた人間という存在に思いを馳せることになると思います。この壮大なファンタジーを締め括りに相応しい爽かなラストも良かった。何はともあれ、最後までこの分厚さにめげずに読み終われてほんとに良かった(笑)

2012年11月刊行 静山社

 

※表紙の画像を入れたいのですがiPadでどうしたらそれができるのかわからない。ああ。。。普通のパソコン欲しい(笑)

映画:『最初の人間』ジャンニ・アメリオ監督

あけましておめでとうございます。皆様、良いお正月をお過ごしでしょうか。私、なんと元旦からパソコンが壊れるというアクシデントに見舞われました。何をやっても立ちあがらない。とうとうリカバリまでしましたが、やっぱり立ち上がらない。仕方なく、本日修理入院となりました。正月休みということもあって、いつ治るかわからないとのこと。がっくりです。従って、しばらくは家族のiPadを使わせてもらうことにしたのですが、これがまあ、慣れないので非常に使いにくい。文章もそこはかとなく電報みたいでぎこちない。読みにくい箇所などございましたら、どうか教えてくださいませ。お願いします。

今日、パソコンを修理に持っていくついでに、息子と映画を見てきました。ジャンニ・アメリオ監督の『最初の人間』です。カミュの自伝的な遺作を映画化した作品で、静かな語り口の中にたくさんの問いかけのある映画でした。祖国アルジェリアに帰郷する有名な作家のコルムリ。独立運動に揺れる祖国のために投げかける彼の言葉は、その時は一部の人にしか届かなかった。映画の中で、恩師に彼が、自分の政治的な立ち位置の苦しみを伝えるシーンがあります。その時、恩師は彼に「小説を」書きなさいという。小説の中にこそ真実がある」と。

この映画の舞台となっているのが50年ほど前。民族や領土をめぐる問題はネットの普及も手伝って、より複雑になっているようにも思います。また、政治的に威勢のいい言葉が、年末には日本でもたくさん飛び交いました。その一方で、静かに核廃絶を訴えて座り込みを続ける方たちがいるのも事実です。今、多数の人に支持されるのは、威勢のいい言葉なのかもしれない。でも、カミュが自らの軸足を非暴力に置き続けたこと。その根底にある母への愛情や、祖国への思いが掘り下げられたこの作品を見て、最後に人の心に残っていくのは、やはりここに、非暴力に軸足を置く人間の言葉なのだと思いました。小説、物語というものはマイノリティな存在だと思います。世界の流れを変えたり、主流になることは決してないのかもしれません。でもカミュのような小説家の物語が流れる時の中で生き残っていてくれることは、とても大切なことであり、もしかしたらぎりぎりの所で私たちが踏みとどまれる最後の力になり得るのでは・・・そんなことを思った年頭でした。

少年時代のコルムリを演じた少年が、聡明な繊細さと芯の強さを見せてとても凛々しかった。彼の魅力もあって、回想の少年時代の映像がとても詩情に溢れていて素敵でした。そして主人公のコムルリのジャック・ガンブランが個人的にとても好みでした。手の表情が良かったなあ。静かに座っているだけでコムルリの、カミュの背負うものの重みを感じさせるんですよ。パソコンが壊れてしまったのは残念ですが、お正月からいい映画を見て、今年もこつこつやっていこうとおもえたのはとても良かったと思います。今年もどうかよろしくお願いいたします。

 

 

2012年 今年印象に残った本

あと少しで2012年が終わります。年齢を重ねるごとに一年が短くて、今年も「○○をした」と自分に言えないまま終わってしまうのが悔しいというか、歯がゆいというか。でも、とにかくこうして本を読みながら無事に一年を終えられることは、とてもありがたいことです。そして、ブログを移転したにも関わらず、たくさんの方がこちらにもレビューを読みに来てくださっていることに、心から感謝いたします。どうもありがとうございました。

2012年に書いた本のレビューは、102本でした。読んだ本の3分の1くらいしかレビューをかけないのが我ながら情けないのですが、不思議なことに、年々レビューを書くということが難しく感じられます。時はさらさらと過ぎていくのに、その中で出会うものの重みは増すようなのです。一冊の重み。そこに注ぎ込まれた思い。感じれば感じるほど、筆は重くなる(汗)でも、私は本をとにかく愛しているので、来年もたゆまずレビューを書いていきたいと思っていますし、そのほかにも自分なりに立てている目標に向かって、一歩ずつ進んでいきたいと思っています。どうか、ときどき「何書いてるんかな~」と覗いてやってくださいませ。

さて、2012年に読んだ中でも、自分の印象に強く残った本をピックアップしてみました。

☆国内作品

『八月の光』 朽木祥 偕成社 http://oisiihonbako.at.webry.info/201206/article_10.html

朽木さんの渾身の作品。今、そしてずっと私たちが心に刻まねばならないことがぎゅっと凝縮されています。今年の一冊をあげろと言われたら、この本を選びます。

『雪と珊瑚と』 梨木香歩 角川書店 http://oisiihonbako.at.webry.info/201205/article_8.html

梨木さんの投げかけるものは、いつも私にとってこれからを考える羅針盤です。

『天山の巫女ソニン 巨山外伝 予言の娘』 菅野雪虫 講談社http://oisiihonbako.at.webry.info/201205/article_2.html

シリーズの外伝というだけでもファンには嬉しいのに、とても深く読み応えのある内容で、ここで終わってしまうのが残念なくらいでした。

『リンデ』 ときありえ 高畠純絵 講談社 http://oisiihonbako.at.webry.info/201202/article_4.html

犬のあったかい体、命のぬくもりの確かさが心に残ります。

『ある一日』 いしいしんじ 新潮社 http://oisiihonbako.at.webry.info/201204/article_7.html

生まれ来るひとつの命が、すべての生死と繋がっていく壮大なドラマ。見事でした。

『ことり』 小川洋子 朝日新聞出版局 http://oishiihonbako.jp/wordpress/?p=465

これは、昨日レビューを書いたところなので、下の記事を読んでください(笑)

☆翻訳作品

『クロックワークスリー マコーリー公園と三つの宝物』 マシュー・カービー 石崎洋司訳 講談社  http://oisiihonbako.at.webry.info/201201/article_9.html

手に汗握って読んだという点においては、今年のNo.1!

『サラスの旅』 シヴォーン・ダウド 尾高薫訳 ゴブリン書房http://oisiihonbako.at.webry.info/201209/article_2.html

サラスのおぼつかない足取りの旅が、愛しかった・・・。

『少年は残酷な弓を射る』 ライオネル・シュライヴァー 光野多恵子/真貴志順子/堤理華訳 イーストプレス』 http://oisiihonbako.at.webry.info/201207/article_3.html

先日もアメリカで銃の発砲事件がありました。この作品のことを考えました。幼い子ともたちのこと。それでも銃社会をやめられない大人の事情・・・。

『ジェンナ 奇跡を生きる少女』 メアリ・E・ピアソン 三辺律子訳 小学館SUPER YA  http://oisiihonbako.at.webry.info/201204/article_9.html

この作品も、今年のノーベル賞であるIPS細胞とリンクしていました。文学作品というのは、不思議に時代とリンクしていきます。

追記;『ミナの物語』デイヴィッド・アーモンド 山田順子訳 東京創元社  http://oishiihonbako.jp/wordpress/ya/78/ 

を忘れていました。私としたことが(汗)

今年も、たくさんの素敵な作品と出合えました。活字本や雑誌の発行額は年々減り、電子書籍の台頭も話題になる今ですが、私は一冊の「本」という世界に出会うことが大好きです。2013年はどんな本に出会えるのか。それを楽しみに新しい年を迎えます。小さな声ですが、細々とでも語り続けることを目指して・・・。一年間どうもありがとうございました!

ことり 小川洋子 朝日新聞出版局

年末は、なんだかバタバタして忙しい。そんなに特別はことはしないでおこうと思うのに、一日が飛ぶように過ぎていきます。そんな中で、この本を読む間だけは、時間の流れ方が違います。いつもの窓から見る風景なのに、穏やかな日の光が美しすぎて、なんだか怖いような思いにとらわれることがあります。日常の中に潜む、不意に永遠と繋がる神聖な瞬間。小川さんの物語は、私がごくたまに遭遇する特別な回路を、開きっぱなしにしてくれます。さらさらと音がするほどの、質量をもった光が降り注ぐ特別な空間に私をいざなってくれるのです。その光には、深い死の匂いがします。何十億年という孤独な暗闇にはさまれて、僥倖のように瞬く命のきらめき。その儚さと確固たる美しさを、光溢れる鳥かごに閉じ込めて、ただ、存在させる。五感のすべてを使って味わう福音のような時間が、頁をめくれば、そこにある。やっぱり、これは奇跡というべきものなんだと思うのです。

小川さんの著書に『言葉の誕生を科学する』という本があります。この『ことり』で謝辞を捧げられている岡ノ谷先生と、「言葉」についての考察を重ねた本なんですが、その中で言葉の起源として挙げられているのが、鳥のさえずりです。歌うことができるのは、鳥とくじらと人間だけ。求愛のために奏でる音楽が、「言葉」に繋がっていくのではないかという仮説が小川さんの心に種を撒いて、この『ことり』という物語に育っていったような気がします。この物語の主人公の「小父さん」は、ポーポー語という自分だけの言葉しか話さない兄さんと共に暮らしています。ある日、人間の言葉を捨てて、自分だけの言葉を話し始めた兄さん。その言葉を共有することができるのは、小父さんと小鳥だけ。その時から、世界はふたりだけの孤独と輝きに満ち溢れます。そう、言葉は常に私たちと共にあり、自分と世界を繋げてくれるもの。そして、同時に私たちと世界を切り離すものでもあります。この世界を言葉ですくい取ろうとしても、どうしても言い表せないものが残る。言葉にすることで、わかったような気になってしまう。そして、言葉は誰かを傷つける最大の武器になる。同じ言葉を使っていても、どうしても分かりあえないこともある・・・というか、そのことの方が多かったりする。その時の徒労感というか、孤独と疲労は、何よりも私たちの心を蝕みます。世間と同じ言葉を持つ小父さんが、心無い人たちの噂話で白眼視されてしまうように。ささやかな、本当にささやかな司書の女の子との思い出さえも、始末書という紙切れで汚されてしまうように。それに引き換え、お兄さんは、自分の中に、誰の手あかもついていない無垢な言葉を持っていた。その奇跡は誰にも顧みられず、称賛もされず、お兄さんだけのものとして朽ち果てていく。でも、そのお兄さんと、小父さんとことりたちの過ごす小さな世界が、なんとかけがえのない美しさに満ちていることか。そこには、言葉と自分との乖離は無いのです。言葉を通じて、たくさんの人と繋がっているかのように思っている私たちは、本当にそうだと言えるのか。お兄さんの言葉は、ことりのさえずりのように、自分自身から生まれてくるものだった。そんな、自分自身と不可分な言葉は、ほんとうは誰とも分け合えないものなのかもしれないのです。そこを分かち合う人がいたお兄さんは、世界の誰よりも孤独に見えるけれども、本当は誰よりも幸せな人だったのかもしれない。お兄さんだけの耳に聞こえていた鳥の歌が、少しだけれど私の耳にも聞こえるような・・・果てしない暗闇に挟まれた一瞬の光の中に存在することの小さな幸せを味わいつくす喜びが、静かに胸に満ち溢れる。そんな物語でした。

ただ、存在すること。そして、歌を歌うことができること。それだけで奇跡なんだけれども、私たちはすぐにそのことを忘れてしまう。言葉は、誰かに愛情を伝えるために生まれたのに、そのことも私たちは忘れてしまう。この物語は、小父さんの亡骸から始まります。小さなことりの死のように、誰からも顧みられない小父さんの死。たいていの私たちは、そんな生を命を生きている。でも、その小さな命が響き合って奏でる音楽は、こんなにも美しい。最後にメジロが奏でた小父さんへの求愛のさえずりが、いつまでも胸に残ります。この間の選挙や、毎日報道されるあれこれを見ていると・・・なんだかとても恐ろしいのです。なんて自分がマイノリティであることかとしみじみ思って、無力感に押し流されそうになってしまう。でも、そんな中で小川さんの小説を読んでいると、自分の足元がどこにあるのかがわかるような気がします。小川さんが生み出す、小さくて悲しくて、孤独で、でもかけがえのない喜びに満ちた世界がともす灯りが、ひとつずつ誰かの胸に増えていく。そのことを願って・・・ささやかな、このブログの2012年のレビュー書き納めといたします。また、もう一本日記はあげたいと思っているのですが。どうなることやら(笑)

皆様、良いお年をお迎えくださいませ。

by ERI

 

緑の精にまた会う日 リンダ・ニューベリー 野の水生訳 徳間書店

今日はクリスマス。眼に見えないものに思いを馳せる日です。私は特別な宗教をもたない人間です。でも、クリスマスという日に、世界中でたくさんの祈りが捧げられることは、とても大切なことだと思います。愛する人の幸せを願って。生きていることへの感謝をこめて。不条理に生きる私たちは、祈らずにはいられない。この本は、眼に見えない大切なものと再会を果たす物語。厳しい冬のあとで春が芽吹くような希望の物語です。

ロンドンに住む少女のルーシーは、大好きなおじいちゃんがいます。おじいちゃんは田舎の農園で、それはそれは見事な野菜を作る「緑の手」を持っている人なのです。そして、おじいちゃんの農園には、緑の精のロブが住んでいます。お気に入りの場所にいて庭仕事を手伝ってくれるロブ。彼の存在を信じ、その気配を感じるのは、おじいちゃんとルーシーだけ。ところが、大好きなおじいちゃんは、突然帰らぬ人となります。農園は売り払われ、つぶされてしまう。ルーシーは、ロブに手紙を書きます。どうか、私のところへ、ロンドンへ来てくださいと。その願いにこたえるかのように、歩きだしたロブ。彼の、ロンドンまでの旅が始まります。

ロブというのは、どういう存在なのかをルーシーに伝えるおじいちゃんの言葉がいいんです。

いいかい、ロブは雨と風からできている、ひざしと、そしてひょうからも。それに、光と闇からも、…(中略)…過ぎ去った時間、訪れる時間からも、ロブはできているんだよ。考えてみりゃあ、わたしらだっておんなじだ。みーんな、おんなじなんだよな

命の船を、ともに浮かべようとする、意志のようなもの。どんなときにも歩き続けてきた、そして歩き続けていこうとする、古い古い記憶のようなもの…ロブはそんな存在なのかと思います。でも、この物語で大切なのは、ロブが何者であるかを解き明かすことではありません。ただ、感じること。彼がいるおじいちゃんの農園が、どんなに満ち足りて美しいか。ルーシーが、農園から森に入ってしまう夜のシーンが、とても印象的です。闇に抱かれて感じる、ぴりぴりするような精神の覚醒は、体の中に眠る動物であったころの自然への記憶そのもののようです。そして、その楽園を失ったルーシーとロブの悲しみ。ロブの旅は困難を極めます。道の途中でロブが出会ったのは彼がまったく見えない人、利用しようとする人、見えても化け物扱いして追いだす人。あちこちでサンドバッグ状態になってしまうロブの旅…その苦しさを読んでいると、酸素が足りなくなった金魚のような心地がします。その中でも、ロブが見えているのに、一緒にいる友達に馬鹿にされて、見えないことにしてしまった女の子のことが、心に刺さりました。本当に大切なこと、自分の心が感じる声を無視してしまうことは、あとになるほど心を荒らします。私にも、何度も何度もそんなことがあったから…わかるのです。だから、ここを子どもたちに読んで欲しい、そう心から思いました。一番大切なことは、心の声に、見えないところに潜んでいるのです。私たちは、いろんな大人の事情で、その声を無視しようとする。その結果がどうなるのか、何度歴史の中で経験しても同じことを繰り返す。でも、声なき声は、ちゃんと胸の中に潜んでいるのです。どんなにひどい目にあっても、やっぱり人と共に命を育てようとするロブのように。この物語は、ほんとはどこにでもいる、誰も知っているはずの、でも、人がすぐに忘れてしまう存在の痛みと希望を描き出そうとしています。

わたしは道を歩むだけ。どこへ行くかは、たどりつくまで、わからない。

そう。わからないけれど…ルーシーと、ロブの再会の旅のように、子どもたちが何度も大切な存在とめぐりあって、秘密を共有してくれたらいいなと心から思います。

「おークリスマスツリー おークリスマスツリー みどりのきよ とわに
よろこびのよるに ほしひとつひかり みどりごうまれん
おークリスマスツリー おー クリスマスツリー」

大好きな、マーガレット・ワイズ・ブラウンの『ちいさなもみのき』の一節です。
子どもたちに、祝福がたくさん舞い降りますように。
Merry X’mas!!

2012年3月刊行

 

シフト ジェニファー・ブラッドベリ 小梨直訳 福音館書店

18歳。子どもから大人へ、シフトチェンジの季節です。働くにしても進学するにしても、親の羽の下から飛び出して、自分の生き方を探すとき。この本は、少年が青年になる、ギュンとギアが入れ替わる瞬間をとらえた物語。疾走感にあふれた魅力がありました。

18歳のクリスは、高校を卒業し、大学に入るまでの2カ月で、親友のウィンと自転車で大陸を横断するという冒険旅行に出かける。ところがその親友は、旅の終わりに、自分を置き去りにしていなくなってしまったのだ。実力者であるウィンの父親は、クリスが居所を知っているはずと圧力をかけてくる。物語は、大学の新生活と、そんなウィンをめぐるごたごたに振り回されるクリスの戸惑いから始まります。

幼いころからの親友だったウィン。何もかも知りつくしているはずだった。でも、本当にそうだったのか。クリスは、ウィンとの旅を思い返しながら、見知らぬ人のように遠くなってしまった彼の心を手繰り寄せようとします。この物語は、夏の旅から帰ってきたあとの、もう一つの心の旅なのです。旅の濃密な時間の中に隠されていた、わずかなサインを、クリスは思い出します。男子ならではの、ライバル心と親しみが交錯する距離感が、ジェットコースターのように展開する旅の面白さ。腕立て伏せや、パンク修理のタイムトライアルに始まって、水のかけあいから、派手な喧嘩やら・・・その子どものじゃれあいのような楽しさと、風景や人と出会いの、なんときらめいていること。でも、その中にこれまでとは違う空気が、冷やりとする水のように流れていたことが、クリスの「今」と交互に書かれていく構成の中で浮かび上がってくるのがスリリングで、物語から目が離せなくなりました。

ウィンは、この旅がクリスとの別れであると心に決めていたのです。高圧的な父に反発して、ずっと自分を出すことなく生きてきたウィン。でも、親友はそんな自分とは裏腹に、勉強もボーイスカウトも、親との関係もしっかり自分のものにして、進学も自分の力で決めた。それに引き換え、自分のこれまでの人生は、やたらに人を支配しようとする父親にたてつくためだけに費やされている。そんな自分からシフトするための、崖を飛び降りるような決断の旅だったのです。これまでずっとくっついて暮らしてきたウィンとクリスの激しいぶつかりあいは、今までの自分との闘いでもあるのです。自転車で大陸を横断するという、無謀に近いような旅。でも、その旅は、ウィンの背中を確実に押したのです。「追いつくよ、いつか」というウィンの言葉は、ここからが自分のスタートだというしるしなんですよね。

いまは-おれたちふたりとも変わって、みんなが考えるより、すごいんだってことがわかって-お互いそれを知ったいまは、もうもどれないよな、もとの場所には。

親子という関係は、ほんとに難しいものだと思います。捨てようと思って簡単に捨てられるものではないんですよね。父親の支配という引力から抜け出すために、ウィンが走った距離を思うと、ため息が出そうです。子は親を捨てていい、私はそう思っています。(反対は絶対だめですけどね)また、いつか拾わなければならないときがやってくるから。若いとき、自分が自分らしく生きる道を探すためには、一度精神的に親を捨てる必要があると思うのです。この二人の旅は、これまでの自分との闘いであると同時に、いわば親捨ての闘いの旅だと思うのですよ。執拗に追いすがってくるウィンの父親の手を、なんとか振り切るクリスの闘いも、ある意味親という引力を振り切る闘いなのでしょう。歩きだそうとする若者に対するエールを、この物語から感じました。

今あちこちで展開されている教育論を聞いていると、若い人たちをなんとか自分の思い通りにしたいという欲望が先に立っているように思えてなりません。そう、このウィンの父親が繰り出す教育論のように。その欲望から逃げ出して、地に足のついた生活をしていこうとするウィンのような若者は、これから増えてくるんじゃないか。そんな風にも思います。もしかしたら、それがこれからの希望かもしれない。選挙のあとの、おじさんたちの高揚の中で読んだこの本は、何やら象徴的でした。YAを対象とした物語としては、少し読み手の想像力に頼る部分が大きいかもしれません。でも、これが第一作という筆者の熱い思いをふつふつと感じる、面白い一冊でした。装丁もとてもしゃれていて、カッコいい。男子向けの貴重なYA小説です。

2012年9月刊行
福音館書店

by ERI

海街Diary 5 群青 吉田秋生 小学館フラワーコミックス

毎日ブログを訪問している、「くるねこ大和」のくるさんが、今日は落ち込んでました。胡てつんの入院がこたえているらしい。くるさんもかあ・・猫好き人間にとって、自分の不注意や至らなさで猫に何かある、というのはとても辛いです。(胡てつんの入院は、くるさんのせいじゃないです。念の為。)私の落ち込みは、ガスコンロの工事に来てもらったときに、私の不注意でぴいを脱走させてしまったこと。業者さんの出入りに気をつけているつもりで、一瞬の隙を突かれてしまった。幸い、30分ほどですぐに帰ってきたけれど、その間生きた心地がしませんでした。長らく外に出していなくて、最近はあまり出せ出せと言わなくなっていたこともあって、油断してたんですよね。ちゃんと帰ってきたからいいものの、またお薬を飲んでいるこの時期に、行方不明にしていたらと思うだけで、背筋が冷える思いがしました。しかも、業者さんにも心配させて、申し訳なかったし・・・。相手はもの言わぬ子だから、こっちが良かれと思ってしていることが食い違ったり、通じなかったりすることもままあります。もっとも、これは人間同士でも同じなのかもしれないですけどね。これからは、もっと気をつけなくちゃいけません。肝に銘じました。

がっくりきて、なんだかちゃんと活字も追えず。この間買ったこの本に、ずいぶん癒されました。この作品の中の時間の流れ方が、とても心地よいのです。鎌倉の街での四人姉妹の生活は、穏やかながらもいろんな波が打ち寄せます。すずの亡くなった祖母からの連絡。幸ねえの、病気疑惑。馴染みの食堂のおばさんの死。みんな、人は、それぞれが生きてきた時間や、背負っているものを携えて、これから歩く道に悩んだり苦しんだりする。その中で言葉にできない思いがたくさん生まれて流れていくんです。この物語は、その言葉にできない思いがちゃんと伝わってくる。彼女たちの思いに触れて、自分が言葉にできなかったあの日の思いが、蘇る。うまく伝えられなくて苦しかったこと。言葉にできなくて、傷ついたまましまいこんでしまったこと。それを、彼女たちとわかちあって、そっと同じ風景の中に、群青の空に解き放てる。この幸せは、なんとも言えません。

空気が薄いほど、空は青さを増すらしいです。そこに立つ人にしか見えない色、景色があって・・・それぞれが違う色の空の下にいるのかもしれないけれど、空はいつも見上げればそこにある。そのことが、とても胸に沁みる。そんな巻でした。うーん・・・やっぱり、「吉田秋生−夜明け− (フラワーコミックスマスターピーシーズ)」は買うべきか。これまで全巻揃えているファンとしては、やっぱり見逃せないかなあ・・・。

2012年12月刊行

小学館

by ERI

くりぃむパン 濱野京子 黒須高嶺絵 くもん出版

私はパンが大好きで、一日2食はパンを食べます。とにかくパンなら何でも食べますが、一番好きなのは、昔からずーっとある地元の商店街のお店のパン。いつ行っても変わらない味で、品揃えも多少のリニューアルはあっても、基本同じ。アンパン、クリームパン、メロンパンは必ずある。甘い甘いコロネパンもね。こういう昔っからあるパンって、とにかく人を黙らせてしまう力があると思います。疲れたとき、欲しくなる。舌に馴染む味に、ほっとする。実は、そんなシンプルなパンほど、ほんとは作るのが難しいんじゃないかと思うんですが、この物語は、そんなくりぃむパンの細やかな味みたいに、プレ思春期の女の子の心境を丁寧につづった物語です。

一家9人、下宿している人も合わせて11人という大家族で暮らす4年生の香里の家に、ある日同学年の未香がやってきます。遠い親戚筋の未香は、お父さんの失業のために、一人で香里の家に身を寄せることになったのです。でも、美人で聞き分けがよくって、お手伝いもし、みんなにお小遣いをもらう未香が、だんだん香里はうっとうしくなります。そんなある日、もやもやした気持ちで、つい同級生の前でつぶやいた、未香への「守銭奴」という言葉が、あっという間にクラス中に広まってしまうのです。

聞き分けがよくてしっかりした子、というのは、ほんとは危なっかしいものなんです。この物語の未香は、自分の立場をよくわかっている子なのです。自分の家ではない場所で、居候させてもらっている自分。肩身の狭さを、「いい子」でいることで何とか埋め合わせをしようと必死なのです。大人は、そこをよくわかっているからこそ、未香を労わろうとする。でも、一度もそんな立場に立ったことのない四年生の香里には、そんな未香の気持ちはわかるはずもありません。みんなにちやほやされているだけのように見えてしまう。だから、つい、意地悪な気持ちになってしまう。幼いころから、父親のお金の苦労を見ている未香とは、感覚が違うのです。早くに大人びてしまった未香と、まだ子どものままの自分。その違いを慮るほどの人生経験は、香里にはまだないのです。

普通は、ここから一気に二人の関係が煮詰まってしまうものなのですが、香里の家には、回復力が備わっています。それは、五世代にもわたる家族が、たくさんいるところ。成り行きで、ひいばあちゃんのところで一緒に過ごしたり、下宿している志帆さんのマンガの話をしたり、いろんなシチュエーションで未香と触れ合う機会がたくさん生まれます。そこで、二人の間には共感が生まれます。未香と自分は違うけれど、ひいばあちゃんのところで過ごす時間は、ゆったりした「魔法の時間」だったこと。おんなじくりぃむパンを食べて、美味しい!と思えること。そんな、単純な時間を分け合うことで、香里は徐々に未香の心の内を知ることになるのです。分け合う、という大切な時間が丁寧に描かれているのが、とてもよかった。

「なんかさあ・・・生きるってせつないね」

小学校四年生の香里の口から出たこの言葉に、「ほんまやねえ」と答えそうになってしまいました。生きる切なさは、大人だけが感じるものではありません。子どもだって自分たちの切なさの中で生きている。彼女たちの人生は始ったばっかりで、いろいろあるのはこれからです。でも、生きることの切なさを分け合う友達がいるということは、いつ食べてもおいしいクリームパンを手にしているように、心強い。違う境遇を抱えてひとつ屋根の下に暮らす違和感から、友だちになるまでの時間を、細やかに描いた物語でした。その時間を支えるものを、この物語から子どもたちが受け取ってくれたらいいなと思います。

2012年10月

くもん出版

by ERI

 

イクバルと仲間たち 児童労働にたちむかった人々 スーザン・クークリン 小峰書店

橋下大阪市長(すっかり大阪はほったらかしにされてるみたいですけど)が、最低賃金制の廃止を言い出したそうで、一体何を目指しているのかと怖くなります。最低賃金制が廃止されるということは、どんなに安い賃金で働かせてもいいということ。今でも、必死に働いても食べていけない人が増えているというのに。若い人たちを安くこき使おうとする思惑がぷんぷん匂う。この本には、そんな欲得しか考えない企業論理のしわ寄せがどこに行くのかが書かれています。理不尽な暴力そのものである、児童労働。一日働いて2.6円しかもらえず、逃げ出せば連れ戻されて拷問され、埃だらけの環境で病気を患いながら働かされ、学校にもいかせてもらえない。働いても増えるのは借金ばかり・・・まるで、江戸時代の遊郭のような労働条件です。でも、実際にこの世界のどこかでは、そうして働かされる子どもたちがいる。世界中がネットワークで繋がれた大きな網の中では、誰もそんな事実と無関係ではないのです。子どもたちの作り出した商品を買うのは、先進国の人間だから。買う人間には罪はない、という考え方もあります。でも、この本を読んだら、誰もそんな考え方に違和感を覚えるのではないでしょうか。

この本は、パキスタンで絨毯を織るという児童労働に、4歳(4歳!)の頃から従事させられていたイクバルという少年の、子ども向けのドキュメントです。彼は、600ルピー(約1600円)の借金のカタに、売り飛ばされたも同然の形で働かされる人生を送りながら、BLLF(債務労働開放戦線)の集会に参加したことがきっかけで、自分と仲間たちを工場主から解放させ、開放運動の先頭に立って活動を展開した少年です。彼はアメリカに渡り、「リーボック行動する若者賞」を受賞し、たくさんの子どもたちの前で自分の経験を語る、いわゆるBLLFのシンボルともいえる存在になるのです。

この本の読みどころは、イクバルという少年の人生を軸にして、児童労働の歴史や現状、どうして子どもたちが働かされるのか、という問題を多角的に説明しているという点にあると思います。児童労働の悲惨さは、驚くべきものです。読んでいて、胸が痛くなる。でも、それだけでは「世界にはかわいそうな子がいるんだな」で、自分と無関係に終わってしまうこともあります。児童労働が貧しさと結びついていること。だからこそ、なかなか無くならないこと。児童労働だけをやめさせようとしても、新たな貧困を生んでしまうだけに終わってしまうこと。その貧しさは、世界の別の場所の豊かさと結びついていること。この本は、そこまで踏み込んでこの問題を追っていきます。地図資料や語句の解説、写真も多数添えられていてとてもわかりやすく、著者がなるべく公平な視線で冷静にこのテーマを子どもたちに伝えようとしていることがわかります。著者は、なるべく自分の目と足でたくさんの人に会い、取材をし、この本を書いています。そこに、たった12歳で殺されてしまったイクバルという少年の理不尽な人生に真摯に向き合おうとする誠実さを感じます。グローバルという言葉を安易に使うのが私は嫌いですが、世界中に張り巡らされたシステムの中にいるという事実からは逃げられません。その中で、イクバルを殺してしまった大人のように、大切なものを見失わないようにする目をどうやって獲得するのかが、これからとても大切なことだと思うのです。

 大勢が声を揃えて一つのことを言っているようなとき、少しでも違和感があったら、自分は何に引っ掛かっているのか、意識のライトを当てて明らかにする。自分が、足がかりにすべきはそこだ。(「僕は、僕たちはどう生きるか」梨木香歩・理論社)

自分の違和感に意識のライトを当てるのは、自分を大切にすることでもあります。知識と思考訓練は、自分を守る砦となり得ます。そのためにも、一つのテーマから、様々な学ぶきっかけが生まれる、こんな本がもっと注目されてもいい。そう思います。

2012年9月発行

小峰書店

by ERI

ミラノの太陽、シチリアの月 内田洋子 小学館

ここのところ、ずっとパソコンの不調に悩まされていました。ちゃんと立ち上がらないし、すぐに固まってしまう。あれこれやってみても埒が明かないので、とうとうリカバリしました。しかも、リカバリディスクを紛失してしまったので、F10連打からのリカバリという原始的(?!)な方法で。おかげで何とか動くようになったんですが、設定のやり直しやWindowsの膨大な更新やらで、時間と手間が半端なくかかりました。慣れないことをするというのは、ほんと大変です。その作業をしながら、この本を読んでいたのですが、こんなパソコンひとつでも右往左往してしまう私にとって、さらっと異国で家を買ったり、パーティを開いたりしてしまう内田さんは、それこそ遠い月を眺めるような遥かな憧れの存在です。

このエッセイは、『ジーノの家』に続くエッセイの第二弾。緻密な香り高い文章はますます冴え、10編のお話は、まるで巨匠が撮った映画のように鮮やかにイタリアの風景と人間を浮かび上がらせます。私は体質的にお酒があまり飲めないのですが、上質のワインを味わう楽しみというのはこういうものかしらと思わせられる、贅沢な文章です。異国人ならではの眼差しと、深くその国を理解する知力と教養。心に刻んだものを、ゆっくりと熟成させる時間。それが結びついた稀有な文章だと思うのです。イタリアという国で、凛と背筋を伸ばして仕事をし、人との出会いを大切にして生きてこられた内田さんの豊かさが、文章から溢れてくる。「六階の足音」という章に、谷崎の『陰影礼賛』の話が出てくるのですが、イタリアという歴史のある国ならではの陰影の濃さに心が震えます。50年間秘めた恋をやっと叶えた喜びもつかの間、病に倒れてしまう女性弁護士。狷介な夫との長年の確執の象徴のような古い屋敷を守り通す女性の孤独。読み書きを学ばないままに生きてきた老練な一匹狼のような船乗り。小さな駅舎でつましく暮らしながら、確かな幸せを築いた一家・・・人生という思い通りにならない旅を続けながら、彼らがなんと自分らしく背筋を伸ばしていることか。彼らの目に映るイタリアの空と海の色が、見たこともないのに心に映ります。たとえどんな場所にいても、イタリアのいい女は高いヒールの靴をはいて美しく装い、まっすぐ風を受ける。内田さんもそうでらっしゃるのかなと勝手に想像します。

そんな孤独と誇りが香るイタリアもとても美味しいけれど、へたれな私は、滅多にない幸せな風景に惹かれます。この10編の中で特に好きなのは「鉄道員オズワルド」と「祝宴は田舎で」そして最後の「シチリアの月と花嫁」。「鉄道員オズワルド」の海の上に建っているかのような駅舎の家は、想像するだけで光溢れて「幸福」という捉えがたいものが幻のように浮かんでいるみたいです。「祝宴は田舎で」は、とにかく美味しい料理がこれでもかと押し寄せる贅沢な時間。そして、「シチリアの月と花嫁」は、映画の『ゴッドファーザー』を連想するような、痺れる一篇です。誰もが濃い血縁に結ばれた土地で、息を潜めるように日々を暮らす人たちの、ハレの一日です。この上なく清楚な美しい月の化身のような花嫁。その母の着る燃え上がるようなオレンジのドレス。ボルサリーノ帽にダークスーツの男たち。夜の中に浮かび上がる舞踏会・・招待の言葉は「あなたの来年の九月二十五日の予定は、私がお預かりしますが、よろしいか」。そのセリフを見事に形にして見せるイタリア男の実力に、くらっとしました。ずっとケばかりでハレのない私の人生(笑)一生縁のない特別な経験を共有させてもらえるなんて、なんて読書って美味しいんでしょう。この世のどこかに、そんな時間が、空間がある。そう思うだけで、とても豊かな気持ちになれる、素敵な一冊です。

2012年11月刊行
小学館

by ERI

ふたつの月の物語 富安陽子 講談社

置き去りにされた双子。人里離れた神社に伝わる神事。狼の血をひく、青く輝く瞳を持つ少女。横溝正史の世界のような伝奇ホラーの雰囲気を湛えた、YA小説です。富安さんのYAものを読むのは初めてなんですが、幻想的なモチーフを使いながら、主人公の双子の少女のキャラがそれに負けずに立っていて、読み応えがありました。

離れ離れに育っていた双子が、大きくなってから出会うという設定や、人里離れたお屋敷とか。代々伝わる神事とか。さっきも書きましたが、横溝正史シリーズを連想させるような要素がいっぱいです。若い頃好きだったんですよね、私も。古本屋をあさって全部読んだ身としては、何やら懐かしい昭和の香り(笑)すっと体に馴染んでお話に入っていけました。若い頃って、こういう因習の匂いのする物語が、かえって新鮮で面白かったりしますよね。『獄門島』とか、『悪魔の手毬唄』とか、タイトルを書くだけで、今でもちょっとワクワクする(笑)私が言うまでもなく、民俗学がからむミステリーというのは日本では一つの王道です。富安さんも、こういうジャンルがお得意の方だけあって、雰囲気作りはお手の物。出だしの少女二人の登場から、ぐぐっと読み手を引き込む力があります。

私がいいなと思ったのは、主人公二人のキャラです。美しくて聡明で、人間離れした嗅覚を持つが故に、人から浮いてしまう少女・美月と、行動力旺盛でまっすぐな気性の、テレポーションの能力を持つ少女・月明。二人でひとつのような彼女たちが、自分で考えて行動し、自らの出生の謎を解いていくのが読んでいて気持ちよかった。児童文学の手練れの富安さんは、二人の性格や表情を活き活きと描きます。富豪の女性、津田節子が何の目的でそんな二人を引き取ったのか。それがこの物語の核心で、二人の出生の秘密と深く関わる部分です。そこを語ってしまうとネタばれになってしまうので伏せますが、最愛の孫を失った節子の深い悔恨と悲しみが、その目的の裏にあります。人の生死の理を超えようとしてしまうほど、節子はその悲しみに囚われている。愛するものを失う悲しみ、しかも逆縁で愛するものを失う苦しみは、筆舌に尽くしがたいものがあると思います。でも、悲しいことに、私達は、そんな理不尽の中に生きている。

昨日、『菖蒲』という映画を見てきましたが、そこに描かれていたのは、やはり別れという名の理不尽に戸惑う人間の姿でした。どんな人生経験を積もうとも、私たちは「別れ」に慣れることはない。でも、その辛さと悲しみの中に、一番尊いものがあるのではないか。私は、そう思いながら昨日帰ってきたのです。ラストシーンで、若い男の子を抱きしめる主人公の中年女性は、我が子を失って泣くピエタを思わせました。節子の悲しみは、人を愛したが故の喪失の苦しみです。受け入れられない、飲み込めない事実―でも、再び自分の近くに少女たちの若い命を感じたとき、節子の心に、優しさが生まれた。理不尽に打ち砕かれても、悲しみに打ちひしがれても、またその中から誰かを思う気持ちが芽生える。それが、理不尽に翻弄されて生きている、私達に与えられた唯一の祝福なのかもしれません。途中まではらはらしながら読んでいた物語は、思いがけず穏やかな充足をもたらせて終わります。節子さんの満足が切ないけれども、心に沁みました。酒井駒子さんの表紙と装丁も、夜の匂いのするこの物語にぴったりあって、さすがの出来栄えでした。

2011年10月刊行
講談社

by ERI

祈りよ力となれ リーマ・ボウイー自伝 東方雅美訳 英治出版

「希望を持つこと以上の苦しみがあるだろうか」
この言葉の重さが、同じ女として深く心に響いた。私たち女は、何があっても日常を保とうとする。だって、子どもにはご飯を食べさせなければならないもの。洗濯をし、少しでも清潔であろうと心を配る。時には、もう何をする気力もないと思っても、日常を放棄することは、たった一日だって出来ない。それが、「生きる」ということだから。心折れてしまう毎日の中で、少しだけ光が見えたとき、「今度こそは」と希望を抱く。でも、その希望が打ち砕かれたとき、見えたと思った光は、刃となって心を貫くのだ。この本は、内戦によって、何度も何度もとことん希望を打ち砕かれた女性が、自ら立ちあがり、希望を現実にした事実を綴った本である。アフリカの内戦について、いろんな本は読むのだが、この本ほど他人事ではないと思ったことはない。女として。子どもを産んだ母として。理不尽な暴力に痛みを感じる人間として、心に深く刺さる本だった。

リーマ・ボウイーさんは、昨年(2011年)のノーベル平和賞を受賞した方だ。リベリアという内戦が続く国で、初めて女性たちが団結して立ちあがり、男たちが成し遂げられなかった停戦を実現させた。その活動の中心となった方である。この本で語られるのは、彼女の半生。リーマさんは、希望溢れる18歳の大学生だった。本当に、日本にも普通にいる、将来のあれこれを普通に思い描く大学生だったのだ。そんな彼女が内戦に翻弄され、夫にDVのような扱いを受けながら4人の子どもを産み、その後シングルマザーとなって働きながら、現在のような平和活動に従事するまでの過程が、率直に語られている。権力・利益・富・有利なポジション。それが、古今東西変わらぬ戦争のモチベーションだ。しかし、その争いで殺され、とことん傷つけられるのは、子どもと女性である。以前『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』(イシメール・ベア 河出書房新社)という本を読んだことがある。リベリアの隣・シエラレオネで、少年兵として過ごした日々のことを綴った本だ。精神を麻痺させるために使われる麻薬と薬。少年たちは、幼い手に銃を握らされて殺戮に駆り出される。悪夢にさいなまれながら、人であることを売り渡さねばならなかった悲惨さは忘れられない。そしてこの本に書かれているのは、女性として経験した内戦の苦しみだ。このような女性の苦しみは、なかなか報道されないし、表に現れない。それは日本でも同じだと思うが、例えば性的な暴力を受けた苦しみは、声高に語ることさえできない性質のものだ。家族にさえ話せない。

―女はスポンジだ―と、私は思う。すべてを自分のなかに吸収する―別れた家族のトラウマも、愛する人の死も、子供や夫の話を聞き、社会や信念の体系が破壊されるのを見て、その痛みまでも吸収する。女は強くなければならず、愚痴を言うことや経験を誰かに話すことさえ、弱さを示すことだからと全部を抱え込んでしまう。

どうやら、戦争における殺戮の欲望は、性的な暴力と深く結びついているように思う。戦争の惨禍をとことん見つめたゴヤが「我が子を喰らうサトゥルヌス」で描き出したように。リーマさんも、レイプの被害こそないが、その例外ではない苦しみを舐めている。戦争の精神的な混乱の中で結婚した夫に、DVを受け、蔑まれながら4人の子を産んだ。その苦しみから立ちあがろうとし、女性のためのトラウマヒーリングの活動に参加しはじめたところから、彼女の闘いは始まった。女性たちが、自分たちの経験した恐怖や苦しみを打ち明け合い、共有すること。そこから、女性達の輪は広がり始めたのだ。そこには、権力や富や、支配欲などは何も関係ない。ただ、自分たちが女であること。奪われ続けることにうんざりしていること。「平和が欲しい」ということ。その祈りが繋ぐ絆だった。もちろん、うんざりするほどのややこしい諍いや、もめ事があったことも書かれている。しかし、「平和が欲しい」という女性たちの座り込み、非暴力の訴えは、男たちが為し得なかった停戦を実現したのだ。

このリーマさんたちの闘いは、女として全く他人事ではない。日本でも選挙が始まって、何やら鼻息荒く威勢のいいことを言う男たちの声が聞こえる。穿ちすぎなのかもしれないけれど、私はその興奮ぶりに、何やら欲望の気配を感じてしまうのだ。私たちが共有すべきなのは、この本に書かれているような苦しみと、平和への祈り。どんなにカッコよく聞こえる議論も、そこを踏まえたものでなければいけないと心から思うのだ。だから女は甘っちょろいんだよ、などという言葉を、この本を読んだ上で吐ける人は、誰もいないはずだ。女性もそうだけれど、男性にもぜひ読んでもらいたい一冊である。

ちなみに、『闇のダイヤモンド』(キャロライン・B・クーニー 武富博子訳 評論社ミステリーBOX)という本には、このリベリアから難民としてアメリカに避難してくる一家の話が描かれている。リベリアの元大統領が、ナオミ・キャンベルに大きなダイヤの原石を贈った話は有名だが、『闇のダイヤモンド』も、ダイヤという欲望の塊が重要な役割を果たしている。この本を読んで、あのリベリアからやってきた親子の苦しみが、余計に胸に迫る。

2012年9月刊行
英冶出版

by ERI