とっても すてきな おうちです なかがわちひろ文 高橋和枝絵 アリス館

先日、津久井浜にある「うみべのえほんやツバメ号」で開催されていた「高橋和枝絵原画展」におじゃましたときに、この絵本の原画を拝見した。当日は37度になろうとする酷暑で、その前に行った上野では息も絶え絶えになったが、京急の特急で向かった三浦半島の津久井浜という、海風が吹き渡るところはとても爽やかで、生き返ったような気持ちになった。そして、そこで出会った絵本の原画も、私を生き返らせてくれるような気持ちにしてくれたのだ。一階には『ねこもおでかけ』(朽木祥 講談社)の原画。大好きな茶トラの猫、トラノスケがとっても可愛くて、ご自分も猫を飼ってらっしゃる高橋さんの猫愛があふれていた。猫愛は昨年出版された『うちのねこ』(アリス館)にもあふれているのだが、そのモデルの猫さんとの日々を綴った手作りの冊子も拝見できて、とても嬉しかった。そして、二階のギャラリーには、この『とっても すてきな おうちです』の原画が並んでいたのだ。

 

「幸福という言葉が、どのような内容を持っているかは別問題としても、私は幸福になろうと思うし、そう希望することを許されている筈だ。私たちはあまり多くの不幸を知りすぎたので、自分がどんなに不幸であるかということをはっきり知る力を失ってしまっており、そういうほんとうに不幸な状態に完全に慣らされてしまった結果、ばくぜんと、そういう不幸な状態を最もふつうの状態のように考え、そのことから幸福という言葉の本当の意味の重量を知ることができなくなっている。」(石原吉郎「一九五六年から一九八五年までのノートから」石原吉郎詩集、講談社文芸文庫、二〇〇五より)

 

「幸せ」とは人によって違う。特に幸せを欲望と結びつけたときには。しかし、シベリア抑留という生と死の極限を体験した石原吉郎にとっての「幸せ」とは、欲望をかなえる喜びとは違うような気がするのだ。それは、人間が人間として、当たり前に、深々と呼吸をし、生活するようなことではないかと思う。この絵本には、その「幸せ」が見事に息づいている。何も特別なこともない、ただ日の当たる春の庭。アリや、クモや、ツバメが巣を作り、猫と子どもが日向ぼっこをする。それぞれの生き物には「おうち」があって、命の営みがある。お互い食べたり食べられたり、という緊張感はあるけれど、硬く、重たく炸裂し、あたり一面を焼け野原にするものなど何も降ってはこない、共存を許された穏やかな場所。陽射しのなかで、お日様の匂いのする猫の背中に顔をくっつけて、命たちの小さなざわめきを感じながら、うとうと、ごろごろ、する。子どものほっぺと膝小僧も、ほんのり色づいている。「これが/わたしたちの おうちです。/おひさま きらきら かぜが そよそよ/つちが しっとり ほっこり あたたかい。」ツバメの巣のある縁側で、うーんと昼寝のあとの伸びをする頁の絵に、魅入られる。高橋さんの絵は質感がとても柔らかい。植物も鳥も虫たちもたくましい生命力を持っているが、同時にその命の湛えられている体の輪郭はとても柔らかくて傷つきやすい。だからこそ、命は成長するし、形を変えて生き続けることもできるのだ。その儚さゆえの命の力がどの絵からも伝わってきて、心を包んでくれる。

 

ここ数年、そして去年の秋から特に、何をしていても気持ちの裏側に、今、ガザで行われているジェノサイドのことがべったりと張り付いて、消えない。子どもたちが飢え、殺されていくのを世界中が見ていることを思うたび、「幸せ」という言葉自体が崩れ去っていくような気さえする。この状態に自分自身が慣れてしまっている、と思うときには特にそうだ。

「幸せ」はここにある。子どもが柔らかく伸びをし、風がそよぎ、洗濯物がはためいているこの庭に。この「幸せ」を心ゆくまで享受するのはすべての子どもがもっている権利だし、この世界を担保するのは大人の役割だ。改めてそう思う。そう思える出会いがあって、ほんとうに良かった。『ねこもおでかけ』と、去年出版された『うちのねこ』(アリス館)にお宝サインを頂いて、ほんとに「幸せ」な時間だった。

まんげつの夜、どかんねこのあしがいっぽん 朽木祥 片岡まみこ絵 小学館

誰も遊びに来てくれないのが寂しくて、自分で作ったご馳走を食べ過ぎて太ってしまったネコが一匹。友達を探しに出かけたのに、なんと不幸なことに、土管にすっぽりはまって動けなくなってしまう。さあ、大変。皆でこの子を助けなきゃ!と「おおきなかぶ」状態になるのかと思いきや、そこはやっぱりネコですからね。皆、何だこりゃ、とフンフン匂ったりするだけで、どこかに行ってしまう。でも、その日はちょうど満月。ネコの集会が行われる夜だったのだ。土管のまわりを、ネコたちが歌って踊る。土管にはいったまんまのどかんねこはどうなるの?・・・という、可愛くて何だか不思議な味わいの絵本なのだ。

夜と満月の匂い。片岡まみこさんとコラボのネコの絵本ということで、私はもっとほんわかした感じを想像していた。もちろん、ネコたちはとってもとっても可愛くて、たまらなく魅力的だ。この絵を額に入れて、部屋のあちこちに飾っておきたい。ところが、その可愛いネコたちが朽木祥の研ぎ澄まされた言葉のマントをふわりと羽織ると、ネコのリアルをそのままに、不思議な夜の住人になるのである。

たん、たたん、たん! 「まんげつのよーる!」

宮沢賢治に「鹿踊りのはじまり」という短編がある。すすきの野原で、栃団子と忘れものの手ぬぐいを真ん中にして、鹿たちがぐるぐると歌って踊るのを、手ぬぐいの持ち主の目を通して、目撃する物語だ。鹿たちは、筋肉の盛り上がりや息づかいが感じられるほどに見事に鹿そのもので、だからこそ私たちは目の前で展開する鹿の会話の不思議に、息を詰めて魅入られる。私たちが見ているこの世界と、重なりながら隔たっている異世界。そのあわいで、鹿たちの命が喜びに歌う、くらくらする幻想とリアルの世界だ。この物語にも、そんな不思議な魅力がある。うちのネコたちも、満月の夜にするっと二本足でこの家を抜け出して、どこかの野原でこうして踊っていたりするんじゃないか。もしそうなら、どんなに嬉しいだろう。だって、まんげつの光を浴びて踊るネコたちは、それはそれは生き生きとネコである瞬間を楽しんでいるのだから。ネコは、どんなに幸せに暮らしていても、どこか「ひとり」であることを忘れない。自分の生も死も、ありのまま見事に引き受ける。そこに、私たち人間は、寂しみや、ひとりであることの誇りや、様々な人生の「滋味」のようなものを感じてしまう。この物語のネコたちも、何だか皆、それぞれにひとかたならぬネコ生を持ち寄っている気配がする。簡潔なテキストで、そこまで読み手に感じさせる深みが、朽木祥の言葉の魔法だ。心のなかの、なぜか知らないけれど、生まれたときからある寂しさに、じん、と染みこんでくる。

この満月の光は、『かはたれ』で八寸がネコになるために浴びていた光と同じなのだろうか。『かはたれ』は、夜明け前の薄明の時間のこと。ぼんやりとした、朝でも夜でもない幻の時間のことだ。母を失った少女の麻は、八寸というネコの形で現れた河童の魂に触れて、失いかけた心を取り戻す。この夜のネコたちも、異世界の住人だ。でも、きっと昼間は別の姿で暮らしているに違いない。そこらで昼寝をしていたり、おやつをねだっていたり。でも、こうして物語の中で、命の不思議のマントを羽織り、私たちに会いに来てくれる。それにもっともしかして、私も「まんげつの夜」は、こうして二本足のネコになって、この物語の中で踊っているのかもしれないじゃないか。物語という異世界に魂だけになって触れることで、私はやっと昼間人間の姿を保っているのかもしれない。

お日様が昇って朝のノネコは野原に取り残されてしまうが、もうノネコも、この絵本を最後まで読んだ私も、「ひとり」だけど一人ぼっちではない。「まんげつの夜」は、ノネコのご馳走を食べて、たん、たたん、とステップを踏みに、この絵本の頁をめくれば、よいのである。この表紙のノネコは、こちらをまっすぐに見つめて、物語の世界に誘ってくれている。ネコにこんな風に見つめられたら、私たちは魅入られるしかないのである。

2016年1月刊行

小学館