二つ、三ついいわすれたこと ジョイス・キャロル・オーツ 神戸万知訳 岩波書店

先日見た『ドストエフスキーと愛に生きる』の翻訳者スヴェトラーナ・ガイヤーが、アイロンをかけた美しいレース編みを撫でながら、一つ編み目が違っても作品にはならないの・・・とつぶやいていたけれど。ジョイス・キャロル・オーツのテキストの精緻さも複雑なレース編みさながらだ。繊細な美しい編み目を紡ぎながら、女の子たちの息が詰まるような閉塞と不安を浮かび上がらせていく。

この物語に描かれるのは、アメリカという階級社会のヒエラルキーの上位の子どもたちが通うハイスクール。その中でもカースト上位のグループの女の子たちが、この物語の主人公だ。ナンバースクールへの進学を決めたメリッサは、すらりとした恵まれた容姿と頭の良さで誰もがうらやむ少女だが、常に不安につきまとわれて一人になるとこっそり自傷行為を繰り返している。一方、ナディアは、ぽっちゃりした可愛い女の子だが、「尻軽」と言われるようになってしまい、苦しむ。そして、自分に優しくしてくれた担任教師に自宅にあった高価な絵画をプレゼントしてしまい、大きなトラブルを引き起こしてしまうのだ。一見恵まれた場所で生きているように見える彼女たちは、いつも笑顔の下に傷を隠している。そんな彼女たちの自己評価の低さの鍵を握るのは、父親だ。仕事が出来て、いわゆる成功者である父親たちは、娘に「成功者であること」と「女らしく可愛くあること」という二重の縛りをかける。ところが、縛りをかけた父親は、自分や母親を捨てて、あっさりと若い女に愛情を移していくのだ。可愛い女でなければ愛されない。しかし、可愛い女でいることは、常に女性的な価値を失う危うさを孕む。セクシーで人気者でなくてはならないが、危うい均衡から転げ落ちると、イタい女になるか、「尻軽」と言われて軽蔑の対象になってしまう。(小保方さんの痛々しさにも、一脈通じるところがありますね・・・)メリッサもナディアも、切ないほど父親の愛情を求めているが、報われない。オーツの筆は緊迫感に満ちて、鋭いメスのように男性社会の中での彼女たちの痛みををくっきりとえぐり出す。その緊張感は半端ないのだが、オーツの面白いところは、この物語にもう一人、既にいなくなった少女が絡んでくることだ。

ティンクという燃えるような赤毛のその少女は、元有名な子役で、優等生揃いの高校の中で特異な存在だった。メリッサにとっても、ナディアにとっても、ティンクは特別の存在だった。小柄でやせっぽちなティンク。性的な関心からは遠い場所にいるくせに、頭が切れるから、男子にも一目置かれて、有名人であるという勲章もある。しかし、女の子たちは知っていたのだ。ティンクが非常に脆い一面を抱えていたことを。傷ついた魂を抱えながら、誇り高く、自分に正直に生きようとしていたことを。この物語の時間軸の中には、既に生身の彼女はいない。彼女は吸い込まれるように、自分の痛みの中に消えてしまった。しかし、強烈な存在感で友人たちの近くに居続ける。メリッサもナディアも、ティンクの痛みが他人事ではないことを知っている。多分、ティンクは「もう一人の私」なのだ。メリッサもナディアも、自分の胸の内にいるティンクと語り合うことで、悩み傷つきながらも、ほのかな光を見いだしていく。そして、そっと手を繋ぎ合うのだ。

裕福な私学に通う女子高生の悩みなんて、「恵まれてるのに何が不満なんだ」と世間的には一蹴されてしまうかもしれない。(この圧力感も、この物語の中に渦巻いている)でも、彼女たちの苦しみや痛みは、私たちが生きている社会の、あまり意識化されない根深い場所から生まれてくるものだと思うのだ。だから、日本の女子高生が読んでも、「彼女は私だ」と強く思うだろうし、もはやとっくに少女でなくなった私が読んでも、やはり同じ痛みが自分の中で疼く。オーツは誠に容赦ない人だ。痛みをえぐる筆の鋭さもさることながら、彼女たちが内に秘めているしなやかさと強さの予感まで描き出すことが出来る。「彼女は私だ」と思うことは、強さへの出発点だと思うのだ。出来ることなら、男子にも、この痛みを読んで欲しいと切に思う。

2014年1月刊行

岩波書店