[映画]ハンナ・アーレント マルガレーテ・フォン・トロッタ監督

特定秘密保護法案が強行採決された。なぜ、そんなに急いであの穴だらけの法案を通さなければならないのか。世論の反対を押し切っての強行採決に非常に不安を覚える。憲法改正の動きといい、中高年御用達の週刊誌が煽り立てている反中韓キャンペーンといい、ここ最近のきな臭さといったらどうだろう。昨年の自民党の圧勝から不安に思っていたのだが、一斉になだれを打って一つの方向になびいていくこの空気が恐ろしい。しかも、こんな風に考える自分はえらくマイノリティであるようなのだ。ずっとのしかかる重いものを抱えている中で、この映画の予告を見て、「これは見にいかねば」と思ったのだが、なんと梅田ガーデンシネマでは珍しい立ち見まで出る混雑ぶりに驚いた。岩波ホールでも連日満員だそうである。嬉しい驚きだった。もしかしたら、私のような不安を抱えている人間は、多数派とはいかぬまでもそこそこいるんじゃないか。どんな非難にも負けずに真実を主張したハンナの姿とともに、少し勇気づけられた午後だった。

ハンナ・アーレントはユダヤ人の高名な哲学家だ。戦時中はユダヤ人の青少年をパレスチナに移住させる仕事をしていた。フランスで国内収容所に収容され、何とか脱出したあとアメリカに亡命し、そこで『全体主義の起源』を書いて名声を獲得する。しかし、1960年にイスラエル軍が逮捕したアイヒマンの裁判を傍聴し、ニューヨーカー誌に連載した『イェルサレムのアイヒマン』が世論の猛反発にあう。何百万人ものユダヤ人を収容所に送り虐殺した稀代の極悪人として裁判にかけられたアイヒマンが、実は何も考えずに言われたまま任務を遂行しただけの凡庸な人間であったこと。そして、当時ナチスに協力したユダヤ人の指導者達がいたことを指摘したためであった。彼女はそのために長年の友人を失い、孤独の中に叩き込まれる。しかし、彼女は一歩も引くことがなかった。アイヒマンの凡庸さの中にこそ、思考停止という最大の悪が潜んでいると確信していたからだ。この映画は、アイヒマンが強制連行されるシーンから始まり、非難の嵐の中で孤独に戦うハンナの姿が描かれる。

思考停止と悪というテーマで思い出すのは、高村薫の『冷血』だ。ネットの掲示板で出会った男たちが、さしたる動機もなく歯科医の家族を惨殺する。徹底的な警察の検証をもってしても、そこには犯行に繋がる「なぜ」は見つからない。彼らは言う。「考えていたら、やってません」と。何とアイヒマンと似ていることか。彼らは思考停止の虚無の中に自分を放り込み、ただ身を任せただけなのだ。この映画ではアイヒマンは役者が演じておらず、実際の裁判での映像が使われている。話し方といい、その情けない風貌といい、「ああ、知ってるわ、こんな人・・・」と思うようなただのオジサンなんである。「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない、人間であることを拒絶したものなのです」 これは映画の中でハンナが学生に講義する一節だが、実際のアイヒマンの映像はその主張を見事に裏付けていた。

この思考停止が、当時のドイツの官僚たちだけではなく、ドイツに対抗するべき連合国側にもはびこっていたことは、エリ・ヴィーゼルが『死者の歌』の中で述べている。ナチス政権はユダヤ人における虐殺を一気に行ったわけではなく、段階を踏んで小出しにし、諸外国の反応を伺っていた。しかし、そのどの段階においてもさしたる反応は見られず、ナチス側はこれを「了承」と見なしていった。『サラの鍵』(タチアナ・ド ロネ)で当時ナチスに反目していたはずのフランスでもユダヤ人の強制収容が行われていたことが世界に知られるようになったが、つまるところユダヤ人たちは「傍観者の無関心」(『死者の歌』)の中で四面楚歌の状態だったのだ。この思考停止は、まさに何百万人という大虐殺を引き起こしたが、その中枢にいた人物がまさに平々凡々たる一市民であったことは、今、私たちが肝に銘じるべきことだと思う。中国を占領していた時代の日本人将校の回想を読んだことがあるが、彼らはアイヒマンと同じことを言っていた。曰く、自分たちは命令されてやっていただけなんだと。ただ真面目に任務を遂行しただけなんだと。「真面目」という美徳が、戦争において発揮されてしまうとそれは無制限のやりたい放題になってしまうのだ。思考停止という『冷血』は、特別な人の中にのみ存在するのではない。それは、人間という存在が常に抱える、誰もが孕んでいる最大の悪に繋がるものなのだ。

そう考えたとき、まるでザルのように政権に無制限な秘密保持の権限を与える法案を強行採決してしまう安倍政権は非常に危険な存在であると思わざるを得ない。政権を握る側が一方的に秘密を指定でき、それを国民が知ろうとするだけでも懲罰の対象になるという法律が、恣意的に運用されない保障など、どこにもない。彼を「支持する」と答える大多数の人々の支持理由は、アベノミクスという、株価の上昇と円安という経済的なものだと思われる。要は金だ。私には、彼らが「あんたらは株価だけ見ときなはれ。そのほかのことは、わしらが上手いことやっといたるさかい」と国民の耳と口をふさぎにかかっているとしか思えない。彼らがこの強行採決の影で何を考えているのか、もっと目を懲らしてしっかり見ていないと大変なことになるのではないだろうか。人間は誰一人として全知全能な存在ではない。だからこそ、細心の注意を払って、悪が生まれる可能性をつぶしておかねばならないのだ。ハンナはこの映画のラストで疲れ切って自宅の窓から町を見下ろす。パンフに早乙女愛氏も書いておられるが、そこには摩天楼の夜が広がっているのだ。夜の都会の風景は、今、どこの国もさして変わらない。ハンナを包む夜の孤独は、今、私たちの周りにも広がっている。この映画はそのままでいいのか、と見る者に強く語りかけているようだった。ハンナは「思考」とは「自分自身との静かな対話」だと言う。その行為に「書物を読む」という行為は深く関わっていると私は思う。子どもたちにどうやってその行為を手渡すのか。そのことについても、また深く考えさせられる映画だった。

紙コップのオリオン 市川朔久子 講談社

母親というものは、当たり前のようだが家庭にとっては大きな存在だ。良くも悪くも家庭というものの中心にいて、家の中を丸く治めてしまう存在でもある。特に食欲で一日が回っているような男子中学生にとっては、例えもやもやとしたものがあったとしても、母親がいて帰ったらご飯が出てきて日常が回っていると「ま、いっか」といろんなことをやり過ごしてしまったりするだろう。しかし、この物語ではまず冒頭でその母親が「やるなら今でしょ」的な書き置きを残して、冗談ではなく本当に旅に出てしまうのだ。同じ母親の立場から言うと、思い切ったなあと関心してしまう。もっとも、なぜ母がそこまで思い切ったのかもこの物語の伏線として最後にわかることになるのだが。母親の不在でぽっこり空いた穴は、これまでうやむやにしてきた父親との関係を浮かび上がらせる。そして、少し日常から外れてしまった視点は、学校という「埋もれるのが勝ち」の世界で少しだけ自分と彼に関わる人を変えるきっかけを主人公の少年に与えるのだ。日常の中にある、ささやかだけれども大きな意味を持つこと。それに気付くことで起こる変化のダイナミズムを描き出した素敵な物語だった。

主人公の論里は、父親とは血が繋がっていない。思春期になり、これまでのように無邪気に父親に向かいあうことが出来なくなってしまった論里は、母の不在によって、父親との仲がぎくしゃくしてしまう。シングルマザーだった母と結婚することが世間的にどんな意味を持つかがわかってしまう年頃なのである。論里は自分の存在が父親にとって迷惑なのではないかと内心怖くてたまらないのだ。そんな中、論里は創立行事委員会で、ふとキャンドルナイトを提案してしまい、面倒くさいと思っていた行事に主体的に関わっていくことになる。そのきっかけは、同級生の女子、白(ましろ)がキャンドルナイトを「あたし、ほんとにいいと思う」と言ってくれたことだ。白は、その名前のように皆から「変わってる」と思われている。「気になっていることはすぐに突き詰めちゃう」性格の白は、でしゃばりだとか、テンポが合わないと思われているらしい。白は自分が大切だと思ったことにまっすぐ向かっていこうとする性格なのだ。委員会でキャンドルナイトで何を描くのか、という話になったとき、「絆」といういかにもそれらしい提案に流れかけるのだが、白は果敢にも「めんどくさいな」という空気に負けず、「あたしは、なんか、嫌です」ときっぱり言う。皆でやる行事だからこそ、お弁当のプチトマトのように「みんな入れてるからそれを入れてれば安心」という安易な言葉に乗っかりたくない。その思いを、論里は受け止めるのだ。

この世界はとても複雑に出来ている。家族と一口に言っても、論里が母親の気持ちを全く知らなかったように、自分を育ててきた父親の気持ちがわからないように、見せている顔はごくわずかだ。小学校の時に仲良しだった大和が学校を休みがちなのも、多分本人にも論里にもどうしようもない家庭的な背景がある。それをきちんと見つめていくことは、白のように人との軋轢を生む結果になったりするし、論里のようにしなくていいことを背負わなければならなかったりする。損得―今風に言えば「コスパ」で考えたら効率の悪い、損なことなのかもしれない。しかし、白の思いを叶えたいと思ってはまり込んだキャンドルナイトは、論里に「やろうという意志を持って動き始めると確実に物事は動きだす」ということを教えてくれる。面倒だと思っていたことも、誰かのためにと思ってやり出したことも、自分の手で成し遂げれば大きな実りをもたらすこと。その実りは自分以外の人も幸せにする力を持つこと。論里は自分という小さな星を、他人の星と繋いでいく一歩を踏み出したのだ。物語のクライマックスであるキャンドルナイトはとても美しい。論里と白の想いがぴったり重なる告白のシーンも、とても印象的だ。誰かを大切に思うことは、迷惑や損得で割り切れることではない。論里の胸の中に芽生えた恋心、「好き」と想う気持ちは、この世の中で一番大切なダイナミズムなのだ。自分に大切なことを教えてくれた白への想いを、「好き」という言葉を使わずに現したこのシーンは、とても素敵だ。

星座とは見ようとしなければ見えない。人の心も、世の中の動きも、やっぱりそうなのだ。昆虫好きでマイペースな妹の有里や、笑顔がさわやかで完璧そうに見える進藤先輩や、調子が良くていつも賑やかな同級生の元気も、皆どこかしらでこぼこや痛みを持っているのだ。それをめんどくさいと見ないようにしていると、大切なものを見失う。そこにあるものを新しい眼差しで見つめること。そうして自分で発見したことだけが、自分の中で経験になって新しい星座になって輝き出す。

「考えてみれば水原は、いつも自分の言葉に勇敢だった」

私はこの一節がとても好きだ。自分の言葉を大切にする、この勇気がないと心は枯れる。枯らそうとする圧力がやたらに多い息苦しい今、小さな勇気が灯したかけがえのない光を描き出す市川さんの繊細さが胸に染みる物語だった。

2013年8月刊行

講談社

[映画]もうひとりの息子 ロレーヌ・レヴィ監督

ある日いきなり、自分の子どもが「あなたの実子ではない」と告げられたら。 是枝監督もこの赤ちゃんの取り違えをテーマにして映画を撮っていましたが、この「もうひとりの息子」の設定はもっと過酷です。何しろ、赤ん坊は片方はイスラエル、片方はパレスチナという反目しあう国の間で取り違えられてしまったのだから。この映画は、思いもよらない状況に放り込まれてしまった二組の親子を描いた物語です。

イスラエルとヨルダン川西岸地区のパレスチナというと、かってのベルリンの壁よりも超えがたい壁が幾重にも重なっているように思います。現実として、そこには鉄条網が張り巡らされた分離壁がそびえ立っていて、映画の中で何度もクローズアップされて映し出されます。恥ずかしながら、私自身初めてこの映画でその分離壁を見たのですが、まるで「国」や「宗教」という大きな枠組みの超えがたさの象徴のように延々と、全く向こう側が見えないほどに高くそびえ立っているのに圧倒されました。しかし、この映画は、その何とも如何しがたい壁を超えようとする物語なのです。

この映画は、二組の親子がいきなり我が子の出生の秘密を告げられるところから始まるのです、その受け止め方が母親と父親では全く違うのが印象的です。同じ部屋に集められ、初めてお互いの顔合わせをしたとき、父親同士はまるで縄張りで出会った犬のように牙を剥きあうのだけれど、母親はただ見つめ合っただけで、お互いの胸にある辛さと苦しみを認め合うのです。ひたすら抱いて、ご飯を食べさせて、病気のときは胸もつぶれんばかりに心配して看病して。たとえ宗教がなんであろうと、どんな言語を話そうと、その母としての営みや赤ん坊を一人前にするときの苦労や喜びのあり方は同じなんですよね。お互いの瞳の中に苦しみを認めあったとき、苦しみがその愛情から生まれているものだということが理屈ではなく伝わってしまう。その共感が、同じように自分の胸にも伝わってくるのがわかりました。

2011年にノーベル平和賞を貰ったリーマ・ボウイーさんの自伝を読んだとき、男たちがいつまで経っても出来なかった停戦を、女たちが短期間に実現させてしまったことが書かれていたのを思い出します。イスラエル人として生きてきたヨセフは、ユダヤ教のラビにユダヤ人としての自分を否定されてしまう。そして、パレスチナ人として生きてきたヤシンは、分身のように仲が良かった兄に、いきなり敵視されてしまう。お互いのアイデンティティが揺らぐ日々の中で、ただひたすら手を差し伸べる母親がいるということが、二人の息子を支えていくんですね。そして、若者の心にお互いに対する共感と、一歩を踏み出そうとする勇気が芽生えます。

国家とか宗教とか。絶対に超え難いと思うものを、ただ一人の人間として向き合ったもの同士だけが超えていく。基本はここだな、と。人間は時代や国家との関わりから絶対的に逃げられない存在です。でも、物語は「個」を徹底的に描ききることでその縛りを唯一超えられるのではないのか。そこに、おとぎ話ではない希望が見いだせないか。脚本だけに3年かけ、国籍を超えて様々な国のスタッフとキャストをそろえてこの映画を撮影した監督の心にある願いが、非常に胸を打つ映画でした。

図書館に児童室ができた日 アン・キャロル・ムーアのものがたり ジャン・ピンポロー文・デビー・アトウェル絵 張替惠子訳 徳間書店

今では、児童サービスは図書館の基本中の基本です。でも、図書館に児童サービスが出来たのは、公共図書館という概念が成立し、「子ども」が教育を受ける権利を有するものであると認識されてからのことであり、それは近代史で言えばつい最近のことなのです。誰もが性別や年齢に関係なく、平等に教育を受け、知識を得て自分の意見を持つことができる。それは民主主義の基本であり、図書館はそのために必要不可欠な、国民の「知る権利」を保障するためのもの。でも、その権利は長い間に渡っての、先人たちの地道な努力の上に成り立っているもの。初めて司書の勉強をして図書館の成立史に触れたとき、非常に感動したのを覚えています。この絵本は、世界で初めて、図書館に児童室を作ったアン・キャロル・ムーアの物語です。

アンが子どもの頃は、図書館で子どもが本を借りる、ということさえ出来ませんでした。特に女の子が勉強をする、ということも許されなかった時代です。その中で、アンは自分の力で道を切り開き、他の先駆者たちと協力して、公共図書館における児童サービスの基礎を築いた人なのです。アン・キャロル・ムーアはとても活動的で世話好きのきさくな女性だったようです。日本の児童文学にとても大きな役割を果たされた石井桃子さんが、アメリカに留学したときにアン・キャロル・ムーアに出会ったときのことを「児童文学の旅」(岩波書店1981年刊)に書いてらっしゃいます。(余談ですが、この本は石井さんがサトクリフやファージョンのもとを訪問したときの話も収録されていて、非常におもしろい。外国児童文学がお好きな人はぜひご一読を)アンは日本からきた石井さんをとても大切にして、あちこちに紹介し、自分でもニューヨーク中を案内してまわったとのこと。その頃、アンはアメリカ図書館界の大御所でしたが、いたずらっ子のように瞳をきらきらさせて、石井さんを血の繋がった姪っ子のように可愛がったのでした。その石井さんは、帰国後「かつら文庫」(現在の東京子ども図書館)という私設の文庫を開きました。石井さんがどれだけ日本の子どもたちのために力を尽くされたかは私などが書かなくても非常に有名なことですが、その精神の真ん中に、アメリカでアン・キャロル・ムーアのような女性たちと出会ったことがあったのではないかと思います。この絵本では、アンの人生がわかりやすく描かれていますが、子どもたちにとって「図書館の児童室」というものがはじめからあったものではない、ということを、ぜひこの本を通じて知って欲しいなと思います。

思えば、私自身、子どもの頃に図書館で本を借りたことはほとんどありませんでした。市で唯一の図書館は、子どもの足では行くのが難しい山の上にあり、ある日同学年の子が自転車で勢いよく山を下った際に事故を起こして命を落としてしまったこともありました。苦労して行ったところで、そこにはあまり魅力的な子どもの本も無かったんですよね。だから、今私が働いているような図書館の児童室があったら、幼い頃の私はどんなに嬉しかっただろうかと思います。でも―これは日々の実感なのですが、子どもたちがふらっと自分のために図書館にやってくることは減っているように思うのです。教育熱心な両親に連れられてやってくる子どもたちはいるんですが。これは、これからの児童サービスをどうしていくのかという自分たちの課題なのですが、その一つのヒントが、この本にあると思ったんですよ。こつこつと子どもたちに本の紹介をしたり、児童室での楽しい催しを企画すること。常に書架を魅力的にしておくこと。司書が常に児童室にいて、子どもたちと関わり、彼らと話をすること。基本中の基本ですが、やはりそこなんだよな、と思います。どれだけ情熱を持って子どもと本に関わっていくか、どれだけ魅力的なライブラリアンになれるか、というところなんですよね。

児童室があって、子どもたちが自由に自分の好きな本を借りることができる。それは当たり前のことではありません。日本だって戦後になって、たくさんの努力の上にやっと実現したことです。世界に目を向けてみれば、女の子が学習する権利を唱えて殺されかけたマララさんや、児童労働の悲惨さを訴えて殺されてしまったイクバルのように、宗教や貧困などの理由で子どもたちの権利は簡単に左右されてしまうのです。それが日本の子どもたちと関係のないことだとは、私には思えません、図書館の根幹には平和があり、思想と良心の自由があり、それは憲法と同じく「不断の努力」によってしか維持されない。そのことを、大人も―特に図書館で働く人間は肝に命じなければならないし、子どもたちにもよく知って欲しいと思うのです。この本は、ライブラリアンにとって、大切な一冊だと思います。訳された張替惠子さんの後書きも必読です。

2013年8月刊行
徳間書店

おいでフレック、ぼくのところに エヴァ・イボットソン 三辺律子訳 偕成社

たくさんの物に囲まれて何不自由なく暮らしていても、心が空っぽなハルという少年がいます。彼は犬が欲しいと両親にお願いしますが、贅沢な家が汚れるのが嫌いな母親はそれを許しません。でも、どうしてもと願うハルに、両親は彼にレンタルであることを隠して犬を与えます。ところが、そのフレックという犬は、少年にとってはたった一匹の運命の犬だったのです。しかし、両親は残酷にもだまし討ちのようにして、二人を引き離します。とことん家族に絶望したハルは、自分の手でフレックを取り戻し、彼を理解してくれる祖父母のところに旅することを決意します。この物語は、自分で生き方を決めるために一歩を踏み出す犬と少年のお話です。

子どもって、ハルのように家出したい、と思う気持ちを願望のように持っているものではないかと思うのです。この物語で、ハルの両親、特に母親はとても愚かな面を強調して描かれています。新しもの好きで、お金持ちで、息子にたくさんのモノを与えるけれど、彼が何を望んでいるのかは考えたことがない。それなのに、「こんなにあの子のために色々しているのに」と思ったりする。確かに嫌な人たちなのですが、うーん、親ってこういう愚かなところ、ありますよね。こんなに極端ではないにしろ、自分の価値観が先走って、子どもの心を置き去りにしてしまうことはよくある話です。自分の子育てを振り返っても、あったなあと今更ですが思います。親子であっても―いや、時に親子だからこそ、お互いが違う人間であるということをちゃんと認識して認め合うことは至難の業です。多かれ少なかれそういう親子のしんどさは、誰でも抱えている普遍的な問題でもありますし、また、「自分は親とは違う」と思うことは、思春期の入り口に立つ子どもたちが初めて出会う人生の課題でもあるでしょう。それだけに、この物語に丹念に綴られているハルの絶望と怒り、フレックを愛する気持ちは、子どもの心を捉えて放さないのではないかと思うのです。

ハルはフレックと、おてがるペット社に閉じ込めれられていた4匹の犬たち、そしてピッパという少女と共に、自分の居場所を求めて旅に出ます。セントバーナードのオットー、プードルのフランシーヌ、コリーのハニー、ペキニーズのリー・チーとしっかり者のピッパという個性豊かな彼らが転々としていく旅は、ハルの両親が雇った探偵たちからも追われる、なかなか苦労の多い旅です。でも、ブレーメンの音楽隊のように、みんなで困難を乗り越えていく痛快さがあって、一瞬たりとも目が離せません。印象的なのは、この旅の中で、4匹の犬たちがそれぞれ自分の居場所を見つけていくこと。そして、その居場所は、自分が、誰かを笑顔にするために生きられる場所だということです。何を心の羅針盤として生きていくのか。これは、いつの時代にも難しい課題ではありますが、これからを生きる子どもたちには、私たちの世代とはまた違う大変さがあると思います。グローバル、と言えば聞こえはいいですが、これから企業が国家を超えて流動的に変化していくことが加速してくるでしょう。誰も時代の波の中で生きていかざるを得ないわけで、その中で自分の居場所をどこに見つけ、何を喜びとして生きていくかは、非常に見えにくいものになるだろうと思います。イボットソンが、この物語の中で、愚かさと美しさとして描き分ける人間と犬の姿は、彼女が子どもたちに送る一つの提案であると思います。ハルとフレックを結びつける、自分が誰かの喜びであることの幸せ。その喜びをを心ゆくまで感じることが、自分の人生の扉をあける力になる。ハルは、フレックと生きたいと強く願ったことで、自分と周りを変えたのです。

この物語はイボットソンの遺作だそうです。物語と子どもたちへの愛情がいっぱいに詰まったこの作品は、私をとても幸せにしてくれました。うちには猫は2匹いるけれど、犬はいません。息子たちに犬を飼ってやれば良かったと今更ながらに思います。動物には、幸せにまっすぐに向かおうとする力があります。優れた子どもの物語にも同じ力があって、私はそこに惹かれるんだなと改めて思うことが出来ました。また、この物語の中に出てくる、動物虐待すれすれのおてがるペット社のように、動物の命を軽んじてお金もうけをする人たちは、実際にたくさんいます。無理な繁殖を繰り返して、さんざん子どもを生ませた挙げ句に捨てたり、処分しようとしたり。狭い場所に病気になるのも構わず詰め込んだり。人間ならまさに犯罪そのものなのに、動物たちにはなかなか救いの手がさしのべられません。そして、犬猫を収容するセンターには、常に売れ筋の純血腫たちが持ち込まれます。この物語は動物も心と体温を持ったかけがえのない存在であることを教えてくれる。個性豊かな犬たちの名前と顔が、子どもたちの心に自分の心の友として刻まれること。これもまた、イボットソンの残した宝物ではないかと思います。動物は、特に犬や猫は、人間の一番の友達です。そして、いつも笑い会える友達こそ、人生の宝物ですもんね。

2013年9月

偕成社

花びら姫とねこ魔女 朽木祥作 こみねゆら絵 小学館

もう5年ほど前になるんですが、当時はまだ外に遊びに出していたうちの猫が、数日の間行方不明になったことがあります。いつもなら名前を呼べば帰ってくる子が夜になっても帰らない。さあ、そこから私がどんなにうろたえたか、苦悩の数日間を過ごしたかは、興味のある方は当時の日記をお読み頂くとして-靴下を何足も履き破ってしまうほど愛猫を探し歩きながら、ずっと考えていたことは、「なぜ、ぴいすけじゃなきゃダメなんだろう」ということでした。早朝や夜に猫のいそうな場所を探しながら歩いていると、飼い猫やら野良さんやら、たくさんの猫に出会います。その度に「うちの子じゃない」とがっくりし、狂おしいまでに自分の猫をこの手で抱きたいと思った、あの渇望。猫はこんなにたくさんいるのに、どうして私はあの子でないとダメなんだろうと、よその猫を見るたびに苦しいほどに思ったあの気持ちを、この絵本を読んで久しぶりに胸をつかまれるほど思い出してしまいました。

花びら姫は、五月のばらよりも綺麗なお姫様。自分の美しさをよーく知っているお姫様は、「とくべつ」なものだけを求めて、家来たちに集めさせておりました。ところが、ある日妖精たちのパンケーキをつまみ食いしてしまったせいで、花びら姫は恐ろしい呪いをかけられてしまい、凍える寒さの北の森にある石の館に、ムカデやカエルと住むことになってしまいます。その呪いを解くには、「とくべつ」な猫が必要。そこで、呪いのかかった花びら姫、つまりねこ魔女は、そこら中から猫を探してさらってきますが、手当たり次第に集めたどの猫も、「とくべつ」ではないのです。その彼女に「とくべつ」を教えたのは、誰だったのか。「とくべつ」って何なのか。それが、この絵本のテーマになっています。

花びら姫は、誰も愛したことがなかったんですよね。愛したのは自分だけ。だから「とくべつ」がわからない。彼女が閉じ込められた北の森の館は、本当は誰も愛さなかった彼女の心の中だったのかもしれません。その彼女の凍てついた心を溶かしたのは、どこにでもある、でも、たった一つしかないもの。それは、私が、どうしてもぴいすけを抱きしめたいと思った気持ち。初めて抱き上げたときの柔らかさに感じた愛しさから始まって、毎日交わす眼差しや、寄り添う体温の中に育てているものに違いありません。私は、お散歩してるワンちゃんと飼い主さんを見るのがとっても好きですが、それはお互いを「とくべつ」と思っている気持ちを感じるからなんだと思います。あと、猫を猫可愛がりしている、もしくは猫に下僕のようにお仕えしている(笑)ベタ甘の猫ブログを見るのも、とっても好きなんですよね。猫という生き物は、人間に愛されれば愛されるほど猫らしく、「うふふ。私ってとくべつ」と輝いているように思います。猫が大好きでご自分も猫さんと暮らしておられる朽木さんとこみねさんは、そこがとてもよくわかってらっしゃる。ありふれているけれど、かけがえのないもの。日常の中にごく当たり前にあるけれど、本当はふたつとない大切なもの。この絵本は、そんな自分のそばにある「とくべつ」を教えてくれる。読み終わったあと、思わず自分のそばにいる可愛い子を抱きしめたくなる。自分の愛するものが、きらきらと輝いてみえる。そんな絵本です。

実は、この絵本に描かれている猫さんたちは、みーんな誰かの「とくべつ」なのです。ツイッターで、この絵本のために愛猫の写真を募集があったんです。2月ぐらいだったかな?もちろん、私もちゃんとうちの猫さんふたり、ぴいすけとくうちゃんの写真を送りました。こみねさんは、その全部の猫さんたちを、丁寧に丁寧に、一匹一匹この絵本に書き込んでくださったのです。なんと、全部で80枚以上の原画をお描きになったとか。うちの子たちも、ちゃーんとおります。「うちの子、わかるかなあ」と思っていたのが申し訳ないくらいに、一目見て「あっ、これ、うちの子!」とわかりました。それだけ、ほんとに愛情込めて書いてくださったんだと、もう感涙で、それからどれだけ人に自慢しまくっていることか(笑)自慢用の一冊を用意して、持ち回っています。きっと、私のように自慢しまくっている飼い主さんたちが、日本中にいますね。今、ざっと数えただけでも100匹近くの猫さんがこの絵本におりましたよ。凄い!だから、この絵本にはたくさんの、でも、たった一つしかない「とくべつ」が詰まっています。こみねさんの筆は、その愛情を感じ、朽木さんの描き出す心の物語に感応して、冴え渡っているようです。もう、隅々まで美しい。どの頁を見ても見飽きない。見れば見るほど引き込まれます。朽木さんの繊細な文章とこみねさんの絵の素敵なマッチング。「細部に神が宿る」とはこのことかと思いますね、ほんとに。

私はきっと、一生この絵本をそばにおいて、誰かれ構わず自慢しまくることでしょう。「また、はじまったで、ばあちゃんの自慢話」「何回聞かされたかわからんな、もう耳タコや」「もうしゃあないな、あれがたった一つの自慢なんやから、聞いたれや」と言われることでしょう。もし、将来孫なんかが出来たら、きっと嫌というほど読み聞かせてしまうに違いない。入手してから、枕元に置いて毎日眺めております。大好きな朽木さんのテキストで、大好きなこみねさんの絵の本に、うちの猫たちがいるなんて、これほど幸せなことはありません。この本は、私の「とくべつ」な一冊です。

2013年10月刊行

小学館