さがしています アーサー・ビナード 写真・岡倉禎志 童心社

ここに映されている「もの」たちは、かっては人の体温に寄り添っていたものたちだ。お弁当箱。鼻眼鏡。手袋。日記。帽子・・・。本来なら、人生の時の中で、ゆっくりと持ち主に寄り添い、役立ち、共に朽ちていくはずだった「もの」たち。でも、彼らが寄り添っていた人たちは、あの広島の暑い夏の日に一瞬で消えてしまった。だから、彼らの時間は止まったままなのだ。彼らは原爆資料館にいて、小さな椅子が彼だけのイーダを待っていたように、ずっと持ち主を待っている。彼らはもの言わぬけれど、確実に持ち主だった人と繋がっているのだと思う。その証拠に、これらの写真を見ていると、彼らが生き帰って、役目を果たしている情景がむくむくと浮かんでくるのだ。「もの」が語るものを、こんなに鮮やかに浮かび上がらせた関係者の方々の心が深く感じられる一冊である。

巻末には、ひとつひとつの「もの」たちの由来が、持ち主の名前とともに語られている。これらの道具を使っていた個人を紹介することは、そのたったひとりの不在を強く意識させる。でも、ひとつだけ、その名前がない写真がある。銀行の階段についた、黒い影である。朽木さんは『八月の光』の中で、この影が、この世界でたったひとりの名前のある存在であることを浮かび上がらせていた。そのことについては、また後で述べようと思うけれど、ここには、永遠の不在が焼き付けられているのだと思う。ここに座っていた人が誰だったのかは、ほぼ特定されているそうだけれど、生前手元に置かれていた道具たちが「生」を繋がっていたのに比べて、この影は「死」にだけ結びついている。そのせいか、とても孤独で悲しい。

「死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名前を呼ばれなければならないのだ」と、シベリアの収容所で捕虜として暮らした石原吉郎は言う。人は尊厳を踏みにじられるとき、必ずその名前をはく奪される。その昔、初めてこの影のことを知ったとき、私が感じたのは原爆の威力の恐ろしさだけだった。でも、今、私はこの写真から、名前を持たない死、ジェノサイドの恐ろしさをひしひしと感じてしまう。そして、それは表紙の鍵が語るように、どちらが加害者だとか、被害者だとかという理屈を超えて私たちが考えなければならないことなのだろうと思う。

表紙の鍵は、10名の米軍兵士が収容されていた独房の鍵だ。原爆で、その収容されていた兵士も死んでしまった。異国の地で、独房に入れられたまま被爆した彼らは、どんな思いで死を迎えただろう。死の前には、国同士の事情など関係ない。国と国との関係は、まるで人同士のそれのように語られる。しかし、私たちが「あの国って・・・」と語るとき、そこから大切なものがこぼれおちてはいないだろうか。国同士の感情や国益が踏みつけにする現場に、生身のむき出しの体で実際に身を置く恐怖を、この鍵は語っているのではないかと思う。この表紙の鍵は、大切な命を閉じ込めた鍵。でも、だからこそ、大切なことを教えてくれる鍵なのではないかと思うのだ。「ヒロシマ」は世界共通の大切な遺産だと思う。世界が一瞬で繋がるグローバルな時代に、もっともっと語られねばならないことだと思う。

この絵本の話題から外れるのだけれど・・・この名前を持たない死について、考えていることがあるので自分の覚書も兼ねて書いておきたい。夏ぐらいから、ずっとしつこく石原吉郎の『望郷の海』『海を流れる河』、フランクルの『夜と霧』を読んでいる。そこで報告される収容所における徹底的な抑圧は、まず名前を奪われるところから始まる。そこには、個人としての生も死もない。そこから始まる悲惨を読みながら、私は朽木さんの『八月の光』に収録されていた『水の緘黙』の登場人物たちが名前を持たないことについてずっと考えていた。夏に書いたレビューでは、私はそこを「たったひとつのかけがえのない記憶であると同時に、大きな普遍性を持ちながら立ちあがっていくようなのだ」と書いた。でも、どうやら、この物語の登場人物たちが名前を持たないのは、それだけではなく、もっと深い意味があるのではないかと今は思っている。主人公の青年は、あの日に一人の少女を見捨てたという苦しみから、自分の名前も想い出せなくなってしまう。生きながら、名前のない存在になってしまうのだ。それは、この社会からも切り離された存在になってしまうということ。深い孤独の闇にたった一人残されてしまうことなのだ。この『八月の光』の中で生き残った人たちは、それぞれにあの日の記憶に苦しんでいる。それは、あの日の自分が人であって人でないように思えるから。人が人でなくなるとき、死者も生者もその名前を奪われてしまうのだ。

ここまで書いて、以前読んで心のどこかにひっかかったままの『乙女の密告』(赤染晶子)のことを思い出した。あの小説のラストで、乙女たちが「アンネ・フランク」という名前を呼ぶのは、彼女が名前を奪われてしまったことへの糾弾だったんだな、と。そんなことに今頃気づく私はアホですが(汗)あのレビューで、私は現代に生きる彼女たちの幼児性と、アンネ・フランクという存在を結び付けていいのか、というようなことを書いた。でも、それは今になって間違っていたなあと思う。中国との尖閣諸島をめぐっての争いや現大阪市長の言動を見るにつけ、大きく鬱積された不満がいかに幼児性と結びつきやすいかを実感するからだ。ヒロシマも、シベリアも他人事でもなく、遠い歴史上のことでもない。当たり前に、私たちのすぐそばに転がっている、それこそひとりひとりの心の中にも潜んでいることなのだ。この絵本の作者であるアーサー・ビナードさんは、「ピカドン」という言葉に生活者の実感を読みとられた。それは、生身の体で感じた恐怖だ。頭で、机上の理論をこねまわしているだけでは、私たちはかえって自らの幼児性に振り回されてしまうことになるんじゃないか。自らが体で感じること、そこをしっかり踏まえないと、また私たちは怖ろしいところに踏み込んでしまうのではないかと、自分の弱さを振り返るにつけ、そう思う。

・・・・・長い文章になってしまった。重く長い文章に最後までお付き合いいただいた方、ありがとうございました。

2012年7月
童心社

by ERI

ルチアさん 高楼方子 フレーベル館

「飛ぶ教室」の2008年春号に12歳の自分に、今プレゼントするならどんな本にするか、という特集があって自分なら何にするか、つらつらと考えていました。上橋さんの「守り人」のシリーズなんかもいいし梨木さんの「西の魔女が死んだ」も読ませたい。朽木さんの「たそかれ」の河童くんにも会わせてやりたかったもんだとか、色々悩んでたんですが、やっぱり一冊あげろと言われたら、たかどのさんの「時計坂の家」かな、と思い至りました。12歳であった私が感じていた、この世界に対するおののき・・不安。遠く果てしないものへの憧れ。そんなものが、目一杯詰まったこの本は、きっとあの頃の私にとって、かけがえのない一冊になっただろうと思うからです。高楼さんの本を、少女の頃に読んでいたかったなあ。今読むよりも、切実に心に食い込んでいたと思うんですよ。この「ルチアさん」も、やっぱり少女の頃の自分に読ませたい本。「どこか遠くのきらきらしたところ」という、書き表すのが非常に難しい、でも、人の心にある普遍的な想いが、見事にここに流れています。高楼さんは、凄いなあ・・素敵だなあ、と読み返すたびに思わずにはいられません。

「たそがれ屋敷」に、美しいお母様と暮らす、スゥと、ルゥルゥという二人の少女がいました。ある日、この屋敷に、新しいお手伝いさん、ルチアさんがやってきます。この一見変哲もないルチアさんは、二人にとって不思議な人でした。なぜか、二人の目にはルチアさんが、水色に光って見えるのです。まるで、船乗りのお父様が、異国から持ち帰った水色の玉のように・・。その謎を突き止めたいと思った二人は、ルチアさんの家まで彼女を尾行します。そこで出あったのは、ボビーという、ルチアさんの娘。ボビーには、ルチアさんは光ってなんか見えません。でも、ある日、ボビーとスゥ、ルゥルゥの3人は、夜中で一人、水色に光る不思議な実を漬け込んだ飲み物を飲むルチアさんを見るのでした・・・。

ルチアさんは、一見、どうってことのない、普通のおばさん。でも、なぜか、いつも満ち足りていて、くるくると楽しそうに働いていて。傍にいる人たちは、なぜか彼女に対して素直になってしまう。そして、なぜかスゥとルゥルゥには、ルチアさんが、きらきらと輝いて見える。その秘密を見届けようと、二人が夜の街を歩くシーンが、印象的なんです。自分たちの憧れを見届けたくて歩く夜の街は、未知の世界。なにやら心の底を歩くような薄闇の間からみた、ルチアさんの秘密のなんてキラキラして美しいこと・・。それは、闇の対比として描かれることで一層の輝きを見せて、読み手を魅了します。この、光と影を描く見事さは、高楼さんの独壇場で、読んでいると心がほうっと溜息をついて、憧れが放つあえかな光に満たされていくようです。スゥとルゥルゥ、そして、ボビーの3人の少女は、確かにその光景を見た。でも、その秘密の本当のところは、謎のままです。なぜ、水色の実は、光を放つのか。なぜ、その光は、ルチアさんを光らせているのか。その光は、なぜスゥとルゥルゥ以外には見えないのか・・。ボビーによって、その実は、ルチアさんの叔父さんが彼女に残したものということはわかるのですが、やはり、その実の持つ不思議さの答えは出ません。その謎を抱えながら、3人は大人になるのです。

水色の玉の事を忘れ、「ここ」で現実と向かい合って生きたスゥ。屋敷がなくなった後、心に、水色の玉への憧れを抱えたまま、旅に出たままのルゥルゥ。そして、ずっと、謎の水色の玉を持って、それについて考えていたままだったボビー。誰が一番幸せだったのか、などという簡単なことではなく、それぞれの生き方を選んだ人生の中で、変わらず輝いていたもの。それが、「どこか遠くのきらきらしたところ」への想い・・憧れであることが、しみじみと胸に迫ってきます。尽きせぬ憧れを胸に抱くことは、ある意味残酷なことで、その人の人生を奪ってしまう。ルゥルゥと、その父親が、人生を旅に捧げてしまったように。でも、現実の中で、ひたすら生きてきたスゥも、やはりどこか満たされない思いを抱えて生きています。

・・・そうよ、わたしたち、思っていたのよ。どこか遠いところに、
これとそっくりの、きらきら輝く、水色の国がきっとあるって。
いつかそこに行ってみたいって。わたし、本当にそう思ってたのよ。

ボビーに返してもらった水色の玉とともに、スゥのところに帰ってきた、「どこか遠くの
きらきらしたところ」への憧れは、彼女の心を満たします。この「どこか遠くのきらきらしたところ」への憧れは・・きっと、人が心の中に一度は持ったことがあるものだと思います。でも、私たちはそれを忘れてしまう。そんなものでは、食べていけないから。
・・・でも、その憧れをいつまでも忘れずに持ち続け、自分だけの結晶にしようとすることが、創作というもの、文学であり、アートであるように思います。私にとって、ルチアさんが飲んでいた水色のキラキラしたものは、例えば、この高楼さんのような作品であり、大好きな人の歌声だったりするのかもしれません。

闇の中を歩く子どものように見知らぬ場所に旅に出る・・そのおののき。はるかなもの・・形にならない、目には見えない憧れというものの輝き。高楼さんの見せてくれる世界は、いつも果てしなくて吸い込まれそうになります。12歳の時に、この本を読んでいたら・・ちょっと違う人生を歩いていたかしら。ボビーのように、目に見えないものについてずっと想いをめぐらす力を持っていたら、物語を書く人にもなれたかもしれないなあ、などど思ったり(笑)この3人の少女たちは、皆高楼さんの分身なのでしょうが、ボビーが一番高楼さん自身なのかな・・と。これは私の勘ですが。児童書ですが、「ここ」に疲れた大人の方にも、ぜひ読んで頂きたい一冊です。

by ERI