花びら姫とねこ魔女 朽木祥作 こみねゆら絵 小学館

もう5年ほど前になるんですが、当時はまだ外に遊びに出していたうちの猫が、数日の間行方不明になったことがあります。いつもなら名前を呼べば帰ってくる子が夜になっても帰らない。さあ、そこから私がどんなにうろたえたか、苦悩の数日間を過ごしたかは、興味のある方は当時の日記をお読み頂くとして-靴下を何足も履き破ってしまうほど愛猫を探し歩きながら、ずっと考えていたことは、「なぜ、ぴいすけじゃなきゃダメなんだろう」ということでした。早朝や夜に猫のいそうな場所を探しながら歩いていると、飼い猫やら野良さんやら、たくさんの猫に出会います。その度に「うちの子じゃない」とがっくりし、狂おしいまでに自分の猫をこの手で抱きたいと思った、あの渇望。猫はこんなにたくさんいるのに、どうして私はあの子でないとダメなんだろうと、よその猫を見るたびに苦しいほどに思ったあの気持ちを、この絵本を読んで久しぶりに胸をつかまれるほど思い出してしまいました。

花びら姫は、五月のばらよりも綺麗なお姫様。自分の美しさをよーく知っているお姫様は、「とくべつ」なものだけを求めて、家来たちに集めさせておりました。ところが、ある日妖精たちのパンケーキをつまみ食いしてしまったせいで、花びら姫は恐ろしい呪いをかけられてしまい、凍える寒さの北の森にある石の館に、ムカデやカエルと住むことになってしまいます。その呪いを解くには、「とくべつ」な猫が必要。そこで、呪いのかかった花びら姫、つまりねこ魔女は、そこら中から猫を探してさらってきますが、手当たり次第に集めたどの猫も、「とくべつ」ではないのです。その彼女に「とくべつ」を教えたのは、誰だったのか。「とくべつ」って何なのか。それが、この絵本のテーマになっています。

花びら姫は、誰も愛したことがなかったんですよね。愛したのは自分だけ。だから「とくべつ」がわからない。彼女が閉じ込められた北の森の館は、本当は誰も愛さなかった彼女の心の中だったのかもしれません。その彼女の凍てついた心を溶かしたのは、どこにでもある、でも、たった一つしかないもの。それは、私が、どうしてもぴいすけを抱きしめたいと思った気持ち。初めて抱き上げたときの柔らかさに感じた愛しさから始まって、毎日交わす眼差しや、寄り添う体温の中に育てているものに違いありません。私は、お散歩してるワンちゃんと飼い主さんを見るのがとっても好きですが、それはお互いを「とくべつ」と思っている気持ちを感じるからなんだと思います。あと、猫を猫可愛がりしている、もしくは猫に下僕のようにお仕えしている(笑)ベタ甘の猫ブログを見るのも、とっても好きなんですよね。猫という生き物は、人間に愛されれば愛されるほど猫らしく、「うふふ。私ってとくべつ」と輝いているように思います。猫が大好きでご自分も猫さんと暮らしておられる朽木さんとこみねさんは、そこがとてもよくわかってらっしゃる。ありふれているけれど、かけがえのないもの。日常の中にごく当たり前にあるけれど、本当はふたつとない大切なもの。この絵本は、そんな自分のそばにある「とくべつ」を教えてくれる。読み終わったあと、思わず自分のそばにいる可愛い子を抱きしめたくなる。自分の愛するものが、きらきらと輝いてみえる。そんな絵本です。

実は、この絵本に描かれている猫さんたちは、みーんな誰かの「とくべつ」なのです。ツイッターで、この絵本のために愛猫の写真を募集があったんです。2月ぐらいだったかな?もちろん、私もちゃんとうちの猫さんふたり、ぴいすけとくうちゃんの写真を送りました。こみねさんは、その全部の猫さんたちを、丁寧に丁寧に、一匹一匹この絵本に書き込んでくださったのです。なんと、全部で80枚以上の原画をお描きになったとか。うちの子たちも、ちゃーんとおります。「うちの子、わかるかなあ」と思っていたのが申し訳ないくらいに、一目見て「あっ、これ、うちの子!」とわかりました。それだけ、ほんとに愛情込めて書いてくださったんだと、もう感涙で、それからどれだけ人に自慢しまくっていることか(笑)自慢用の一冊を用意して、持ち回っています。きっと、私のように自慢しまくっている飼い主さんたちが、日本中にいますね。今、ざっと数えただけでも100匹近くの猫さんがこの絵本におりましたよ。凄い!だから、この絵本にはたくさんの、でも、たった一つしかない「とくべつ」が詰まっています。こみねさんの筆は、その愛情を感じ、朽木さんの描き出す心の物語に感応して、冴え渡っているようです。もう、隅々まで美しい。どの頁を見ても見飽きない。見れば見るほど引き込まれます。朽木さんの繊細な文章とこみねさんの絵の素敵なマッチング。「細部に神が宿る」とはこのことかと思いますね、ほんとに。

私はきっと、一生この絵本をそばにおいて、誰かれ構わず自慢しまくることでしょう。「また、はじまったで、ばあちゃんの自慢話」「何回聞かされたかわからんな、もう耳タコや」「もうしゃあないな、あれがたった一つの自慢なんやから、聞いたれや」と言われることでしょう。もし、将来孫なんかが出来たら、きっと嫌というほど読み聞かせてしまうに違いない。入手してから、枕元に置いて毎日眺めております。大好きな朽木さんのテキストで、大好きなこみねさんの絵の本に、うちの猫たちがいるなんて、これほど幸せなことはありません。この本は、私の「とくべつ」な一冊です。

2013年10月刊行

小学館

 

 

 

光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島  朽木祥 講談社

「美」はいつも心に新しい感動をくれる。美しさは人の心の扉を開いて、そっと奥底に滑り込む。夕焼けが、樹々や海の色が人の心にいつも何かを語りかけるように、「美しい」ということは私たちの心を解き放つのだ。ヒロシマの物語、というと「怖い」「恐ろしい」という拒否反応が特に子どもたちには生まれがちだが、この『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』は、ヒロシマの記憶を残された人たちの心と共に伝えながら、しみじみと美しい。この作品は、児童文学というジャンルにおいて、「ヒロシマを美を以て語る」という難しいことをやってのけたのではないかと、読み終えてまず思ったことだった。卓越した文章力がある朽木さんだから出来たこの物語は、灯籠の光とともに、原爆投下前の廣島、あの日のヒロシマ、そして現在の広島を繋いで確かなメッセージを刻み、読み手の心に色鮮やかに流れ込んでくる。

舞台は、あの日から25年後の広島。犠牲者を悼む色とりどりの灯籠流しのシーンから始まる。12歳の希未は、母が何も書かれていない白い灯籠を流すことに初めて気がつく。「あれは誰の灯籠なんだろう」と思った希未に、一人の老婦人が声をかける。「あなたは、おいくつ?」どうやら、老婦人は誰かの面影を希未に見つけたようなのだ。その老婦人のことが気になっていた夜、希未は仏壇の部屋で声を殺して泣く自分の母を見る。「もはや戦後ではないと言われ始めたころになっても、人びとは変わらず誰かを待ち続け、探していたのである」これは、朽木さんが書かれた「過ぎたれど去らぬ日々」(※1)という文章の一節だが、25年が経っても希未の周りにいる人々は、それぞれ亡くなった人の面影を心に「うつしえ」として刻んだままなのだ。希未は、ひょんなことから自分の通う中学校の美術教師である吉岡先生にも、忘れられない人がいることを知る。そして、その吉岡先生の入院をきっかけに、希未たち美術部は「あのころの廣島とヒロシマ」というテーマで文化祭に向けて作品を作ることを決め、自分たちの身近な人たちのかっての「廣島」と、あの日の記憶 「ヒロシマ」を聞くことにする。そのための打ち合わせのために若い希未や俊が話し合っている言葉の一つに、私ははっとした。

「よう知っとると思うとることでも、ほんまは知らんことが多いよな」
「よう知っとると思うとる人のこともね・・・・・ 」

この夏にNHKが放送した『ヒバクシャからの手紙』という番組を見たのだが、68年経った今でも、自分の娘や息子たちに被爆体験を語れない人たちがたくさんおられる。親しい肉親相手だからこそ、語れない人も多い。この「語れない」というところに、何が込められているのか。その言葉にならぬ思いを、朽木さんはこの作品の中で、丁寧に選び抜かれた言葉で綴られているように思う。この本の献辞は【世界中の「小山ひとみさん」のために】と綴られている。小山ひとみさんは、戦死された息子さんのことを歌った短歌をたくさん新聞に投稿された実在の方で、この物語にも何首か紹介されている。その短歌には、夫も子どもにも先立たれた小山さんの、極北に一人佇むような日々が凝縮されているようだ。先日の講演会で聞いたところによると、朽木さんはこの小山さんの短歌をリアルタイムで読んでおられたらしい。私は母親だから、やはり、息子を失った母の辛さに共鳴してしまう。そのしんしんと伝わってくる思いが、作品中に挿入される一人一人の記憶の物語と深く響き合って、まるで昨日自分の身におこったことのように身に染みた。吉岡先生の、耕造の祖父母の、須藤さんの、そして、希未の母が流す灯籠に託された思い。「知っていると思うとる人」が心の奥深くにしまい込んでいた記憶、顔の見える身近な人たちの見えなかった苦しみに触れることは、希未たち若者の心に新しい目を開いていく。人を成長させるのは、誰かの苦しみや痛みを自分自身のものにする力、「共感共苦」(Compassion)(※2)の力なのだ。お見舞い帰りのバスの中で吉岡先生の気持ちに気がついて大泣きしてしまった希未の涙は、今まで気づかなかった他人の心に深く共感したからこそ生まれてくるものであり、その共感は、この混沌とした世の中でいったい何が真実なのかを見抜く鍵でもあるのだと思う。

そう、この「よう知っとると思うとることでも、ほんまは知らんことが多いよな」という一言には、私たち人間が常に意識して考えていかねばならない深いものが隠されている。 1996年にノーベル賞を受賞したポーランドの詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカは、言う。自分に対して「わたしは知らない」ということが、自分の選び取った仕事に対する不断のインスピレーションを生むものだと。そして、反対に「知っている」と思うことの危険性についてこう述べている。「どんな知識も、自分のなかから新たな疑問を生み出さなければ、すぐに死んだものになり、生命を保つのに好都合な温度を失ってしまいます。最近の、そして現代の歴史を見ればよくわかるように、極端な場合にはそういった知識は社会にとって危険なものにさえなり得るのです。」(※3)私たちはヒロシマを知っていると、記憶していると思っていた。少なくとも、私はそんな風に思い込んでいた。ところが、だ。真の記憶として心に刻まずにいた核の恐ろしさは、いつの間にか「知っている」と思う傲慢さの陰で忘れられて、日本は名だたる原発依存の国になっていた。そのことが、3.11のフクシマに繋がっているのだと私は思う。そんな私たちに、この物語は静かに語りかける。「あなたは知っていますか?」と。真の意味で、「知ろうとしていますか?」と。この、固定概念や思い込みを解き放ち、新しい目で、新鮮な心で物事の本質を見極めようとする、それは物語の力であり、芸術の力なのだ。

しかし、この『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』でも語られているように、美術や音楽、芸術は、国が危険な方に向かおうとするときに一番に弾圧されてしまう。「戦争が始まって真っ先に無用とされた科目は美術や音楽だったって。あと本もたくさん規制されたって」というのは事実だ。なんだか、その萌芽が今、あちこちに芽生えているような気がするのは私だけなんだろうか。(余談だけれど・・。「役にたたない」というお題目のもとに、文学や哲学さえも大学の学部から無くなっていくことが、私には何か恐ろしいことの始まりのように思えてならない。)希未や俊は、絵や彫刻を制作し、自由に「あのころの廣島とヒロシマ」を表現することで新しい心の目を開いていく。そして、ヒロシマを出発点として、その眼差しはもっと広がっていくのである。子どもを、若者を自分たちの都合の良いように使いたがる大人は、まずそういう自由な心の目をふさごうとする。吉岡先生からの手紙の中で述べられている「加害者になるな。犠牲者になるな。そしてなによりも傍観者になるな」という言葉は、心の自由を奪われない未来に向けての、これからを生きる子どもたちへの大切なメッセージだ。そして何より私がいいなと思うのは、この物語の中で、そのメッセージが「自分たちの出来ること」と結びついていることだと思う。大きな暴力や社会的な問題に対するとき、人は自分の小ささと非力を感じて、無力感に襲われてしまう。自分に出来ることなど、何もないと思ってしまいがちだ。私もずっとそう思っていた。しかし、吉岡先生が手紙の中で希未たちに伝えているように、「この世界は小さな物語が集まってできている。それぞれのささやかな日常が、小さいと思える生活が、世界を形作っている」のだ。そこから離れたところに、人の幸福はない。だからこそ、私たちは自分たちの小さな人生の中で何度も大切な記憶を心に刻みつける必要があるのだ。小さいからこそ出来ることがある。心に小さな灯籠流しの光を刻むことが、まことしやかに語られる大きな嘘を見抜く礎になるはずなのだ。希未や俊や耕造が、小さな「自分に出来ること」を精一杯やり遂げたことが、彼らの身近にいた人たちに、どんなに希望を与えたか、この物語の最後に原爆ドームを照らした色とりどりの美しい輝きを、どうか味わって欲しい。

ヒロシマは、過ぎた過去のことではなく、これから世界中どこにでも起こりえることでもあるし、この世界のどこかで、今、起こっていることでもある。ヒロシマを深く記憶することは、過去と現在と未来を繋ぐ視点を持つことではないか。私は最近ようやく、そんな風に考えるようになった。この物語のサブタイトル『廣島 ヒロシマ 広島』が意味するところも、そこにあるように思う。この物語は、これまでヒロシマを知っていたつもりであった私のような大人にも、これからヒロシマを知る子どもにも、非常に大切なことを丁寧に伝えてくれる物語だと思う。原爆についての基本的な知識もきっちりと書かれている。たくさんの人に読んで貰いたいし、『八月の光』(偕成社)の時にも思ったのだが、ぜひ翻訳されて海外の人にも読んで頂きたい。

2013年10月11日発行

講談社

 

(※1)「過ぎたれど去らぬ日々」朽木祥 子どもの本2012年9月号 日本児童図書出版協会

(※2)「「記憶」から去らない姿」朽木祥 子どもと読書 2013年7・8月号 親子読書地域文庫全国連絡会

(※3)「終わりと始まり」ヴィスワヴァ・シンボルスカ 沼野光義訳 未知谷

朽木祥講演会と池袋ジュンク堂でのブックフェア

久しぶりの更新です。何と一ヶ月近く放置してました・・。今日からまたぼちぼちと更新していきます。実はその間、堅い文章を一生懸命書いていたので、自分のブログにどんな感じで書いていいのか軽く戸惑い中(笑)

更新はさぼっておりましたが、その間にも文学オタクはますます昂進しておりまして、この週末は東京のオリンピックセンターで開かれた、親地連(親子読書地域文庫連絡協議会)の全国大会に行ってまいりました。一番のお目当ては朽木祥さんの講演会『物語の力』ですが、夜の交流会も次の日の分科会も、非常に充実した内容で有意義な時間でした。はるばる行って、本当によかった。まず、朽木祥さんの講演会のご報告と感想を・・・。

朽木祥さんの講演会のタイトルは「物語の力」。去年上梓された『八月の光』(偕成社)と、刊行されたばかりの『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』(講談社)を中心に、「ヒロシマをどう伝えるか」というお話でした。その鍵は“Compassion”(共感共苦)だと。この、人の苦しみを他人事にせず、自分の痛みとして記憶する、という営みをいろんな手法で積み重ねてらっしゃる朽木さんのお仕事に、私は深く共感するところがあります。『彼岸花はきつねのかんざし』(学研)はきつねと少女が心通わせるファンタジーの手法で。そして、『八月の光』は精緻なリアリズムの手法で。その「物語の力」で、忘れっぽい私たちが見失いかけている大切なことを問いかけてくださるように思うのです。朽木さんも講演の中でおっしゃっておられましたが、私たちが(少なくとも日本人の大部分が)ヒロシマを忘れてしまっていたことは、そのままフクシマと繋がっているように思うんですよ。だからこそ、今、またヒロシマを深く記憶する必要があるんですよね。でもでも・・・そんな風に思う人間は、少数派なのかと、憲法改正やオリンピック招致の際の原発に対する発言、『はだしのゲン』に対する圧力なんかを見るたびに苦しい思いに駆られてました。でも、朽木さんのお話を聞いて、やっぱりここで、子どもたちにしっかり過去のことを伝えていかなきゃいけないんだと思いました。「声高にではなく、静かな声であきらめず、しぶとく語ること」と朽木さんはおっしゃった。「静かな共感を呼ぶ物語を書きたい」と。

世間を暗い方向に引きずっていこうとするプロパガンダは大声でがなり立てることで、聞き手を思考停止に陥らせます。人は、暴力や破壊に惹かれていく一面を持ち合わせていて、私の中にも、そういう衝動は確かにある。でも、心に静かな声で語りかける愛しい物語の主人公たちが住んでいたら。きっと、そんな衝動に優しい手を当てて引き留めてくれると思うんですよね。朽木さんの物語には、そんな優しさと力があります。新刊の『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』もヒロシマがテーマで、そのお話もたくさんしてくださいました。ネタばれになるので詳しくは書きませんが、「芸術の力」と「失われた声を聞くこと」という二つが重要なモチーフになっているとのこと。「被害者、加害者という次元ではなく、この人類が経験した未曾有の事件を、人類共通の問題として記憶し、伝えたい」と語っておられたことを、しっかり覚えておきたいと思います。

こうして書くと、ひたすら堅い重い講演会かという感じですが、所々でユーモアも交えながら、ぎゅっと中身の詰まった一時間半でした。最後にファンタジーの物語に触れて、「ファンタジーを読むことで心が育ってくる。幸福な約束をちゃんと果たして終われることが児童文学のすばらしいところ。この世の楽しさも味わってもらいたいし、自由な心と深い知性を育てて欲しい」と述べておられたことに、深く頷きました。『光のうつしえ』と『花びら姫とねこ魔女』にもサインをして頂いたし。大満足でした。私ももっと勉強しなくちゃなあと、教養の塊のようなあれこれをお聞きして思ったことでした。

朽木祥さんの新刊『光のうつしえ』(講談社)と『花びら姫とねこ魔女』(小学館)については、また改めて長々と書きます。(笑)

池袋のジュンク堂で、新刊発売に合わせて朽木祥ブックフェアが開催されています。私も行ってきましたが、とっても可愛くコーナーが作ってありました。可愛いミニ冊子もありました。これは数量限定でいつ無くなるかわかりませんが、貰えます。 初日に行けてラッキーだったなあ。10月いっぱい開催の予定だそうです。

親地連のことも書きたかったのに、時間ぎれ。また明日・・・。

by ERI

あたしがおうちに帰る旅 ニコラ・デイビス 代田亜香子訳 小学館

ここ数日の暑さといったら。命の危険を感じるほど暑いですよね。その中で、我が家は築26年のお風呂とリビングの改装工事が今日まで入っておりまして、非常に疲れました。工事というのは、たくさんの人が出入りします。常に自宅開け放し状態。その気疲れと、壁をドリルではつっていく恐ろしい音、古い痛んだコンクリの匂いと想像以上にダメージをくらったわけですが、特にかわいそうだったのが猫たちで、ストレスで便秘になってしまいました。終わった途端に立派なのが出て一安心でしたが。どうも、人も猫も、思ったよりも「家」というものに守られているんだなあと実感した一週間でした。猫たち、今爆睡してます。

この物語は、そんな安心できる「家」を持たない少女のお話です。彼女は「イヌ」と呼ばれて怖いおじさんにこき使われてペットショップで暮らしています。いや、「暮らしている」わけじゃありません。だって、人間扱いされていないんですから。そんなイヌの唯一の友達は、ハナグマのエズミ。そんな彼女のところに、カルロスという一羽の大きなコンゴウインコがやってきます。来たときはボロボロだったカルロスですが、イヌに助けられて店の人気者になります。そしてイヌとエズミを連れておじさんのところから抜け出し、「おうち」を目指すのです。

イヌは店に連れてこられる前の記憶がありません。言葉も一言もしゃべらないまま暮らしています。この母語と記憶を失くしてしまうということは、普通ならあり得ません。しかし、『四つの小さなパン切れ』という本を書いたマグダ・オランデール=ラフォンは、アウシュビッツの強制収容所での体験のせいで、母語であるハンガリー語と幼い頃の記憶を失くしてしまったそうです。そこを読んで、私ははっとイヌもそうなんじゃないかと思ったんです。どうやら彼女は誘拐されてきたらしい。子どもを誘拐したり、人身売買したりして強制労働させる、という非人道的なことが、今、この世界で実際に行われている。作者のニコラ・デイビスさんは、そんな子たちのことを取材してこの本を書いたらしい。イヌは、人間としての尊厳もぬくもりもすべてを踏みにじられて生きている。だから、「言葉」も失っているのです。だからこのイヌとエズミ、カルロスの三人(あえて三人と書きますが)の旅は、自分の居場所を取り戻す旅、そしてイヌにとっては自分の言葉を取り戻す旅です。

こういう社会的な問題をテーマにした児童文学、というのは難しいものだと思います。そのテーマをいかに自分のものとして、感じさせるか。そこが非常に難しい。教科書のように「考えてみましょう」と言われたりするのに、子どもたちは飽き飽きしているだろうし。自分とは関係ない、と思われてしまったらアウトでしょう。その点、この物語は、とっても生き生きと物語が動いていきます。読みだしたら止まらないくらい、三人の冒険の続きが読みたくてたまらなくなるのです。いつも傍にいてくれるエズミと、信じられないくらい頭の良いカルロスの組み合わせがいいんですよねえ。窮地に追い込まれたときのカルロスが放つ言葉が、相手をやっつけてしまうところなんか、もう、ほんとに胸がすっとします。ほんとにカルロスはまるで中世の騎士のようにイヌを守るんですよ。カッコいいんです。惚れちゃいます。

動物、冒険、そして友情。ハラハラドキドキの冒険の後、カルロスは「言葉」のいらない自分の世界に帰っていきます。このシーンの美しさ、切なさは忘れられません。そして、最後にたどりついた場所で、イヌはやっと自分の「言葉」を取り戻します。そのとき、イヌと呼ばれていた女の子が、本当はなんという名前だったかが初めてわかるのです。やっと彼女はひとりの人間に帰ることが出来たのです。ああ、良かった・・と思いながら、そのとき改めて、彼女が抱えていた痛みと、生きていこうとする強さが自分の胸の中に溢れてくるのを感じるのです。

想定も挿絵もとても神経が使われています。そして、代田さんの翻訳もとても読みやすくて言葉が美しいのです。イヌと呼ばれた少女を、まるで抱きしめるようかのような本の作りに感動しました。こういうところからも、子どもたちにさりげなく伝えたいものが感じられます。夏休みにおすすめの一冊。ああ、面白かった、と読むだけでいい。きっと、この少女と、エズミとカルロスと友達になれるから。それが大切なんだと思います。私にとっても、忘れられない一冊になりました。

2013年3月刊行

小学館

 

ゲンタ! 風野潮 ほるぷ出版

嬉しい『ビート・キッズ』シリーズの新刊です。なんと、ビート・キッズのヴォーカルのゲンタが、小学生の見知らぬゲンタと入れ替わってしまう物語。キレのいいテンポで、読後感も爽快。しばし暑さを忘れて読みふけりました。

小学校5年生のゲンタは、林間学校で行ったキャンプ場で高いところから落ちて気を失う。同じころ、キャンプ場の近くの高原でライブをしていたビート・キッズのヴォーカル、ゲンタもステージからジャンプしてそのまま意識を失ってしまう。そして、気がついたときには、二人は入れ替わっていた!というお話です。

大阪弁バリバリで、いらん笑いを取りにいっては滑る25歳の子どものようなゲンタと、少々ひねくれていて、こまっしゃくれた小学生のゲンタ。その二人が入れ替わって、右往左往しながらもとに戻ろうと悪戦苦闘。そのゲンタをサポートする25歳と11歳のサトシ、というなんとも憎い構成になっています。表のゲンタと裏のゲンタ―というと、どっちが表やねん、ということになるんで紛らわしいんですが。この二人、性格は違うんですが、どことなく「今」の自分に行き詰まり感があるんです。25歳のゲンタは、自分の家庭の事情が原因で、ライバルだったバンドに差をつけられてしまったのが面白くない。一方、11歳のゲンタは、母親が離婚するといって家を出ていったのを止められなかった自分が悔しくて仕方ない。もやっとしていた二人の心が入れ替わって別の体に放り込まれたときに、その体で体感することが、ビンビンとハートをゆさぶっていくのがとっても新鮮で楽しいんです。まさに、心のビートが伝わってきます。そして、大阪弁の飛び交うノリの中に、たまらん胸キュンが不意に現れるのに、私のような大阪もんは、特にやられてしまいます。

ツボは、25歳のゲンタのダメダメっぷり(笑)自分の携帯の番号ぐらい覚えときいや、とか。なんで11歳のサトシに全部おまかせやねん、とか。ものすごツッコミました(笑)いやもう、ほんまに「あかんやん」なゲンタなんですが、こういうアホで憎めんキャラを書かせたら、風野さんはほんまに上手いです。でも、その25歳のゲンタの刻むビートと音楽が、11歳のゲンタと彼を「歌う喜び」で繋いでいくんです。11歳のハートのゲンタが、たくさんのオーディエンスの前で25歳の体で歌う。そして、25歳のハートのゲンタが、サトシだけしかいない道端で、11歳の体で歌う。その時に訪れる至福の、無垢な喜びの手触りがまっすぐ胸に落ちてきます。

「歌うことは、喜びなのだ。声を出すことは―言葉を、心を伝えることは、喜びだったんだ。それを相手に伝えることも大事だけど、自分に伝えることはもっと大事だったんだ。」

この生きる喜びが、ビートになって心に伝わってくる。音楽の喜びって、今、ここにいる喜びに直結するんですよね。それを物語で伝えてしまう風野さんの言葉たちが気持ちよくて、ここ数日いろんなことで凹んでいた心に風穴があきました。子どもも大人も、先を見て歩くことばかりです。役に立つ大人にならなきゃいかんとか。どんなスキルを身につけるかで将来が変わってくるとか。そして、いざこの年齢になってみると、先に待っていることって、そんなに好いとは思えないあれこればかり。おいおい、ってそれこそツッコミたくなってしまう。そう思うと、私たちは限りなく「今」を失っているのかもしれないのです。音楽は、そんな私たちを「今」に結びつける営み。その輝かしい瞬間が、この物語には煌めいています。

そして、もうひとつ嬉しかったのは、最後に出てくるライブ会場が、万博のもみじ川広場だったこと。うふふ。地元です。夏のもみじ川というと、FM802のライブかなあ、なんて思うのも楽しい。自分のよーく知ってる場所が出てくると臨場感たっぷりで萌えます。久々にライブ行きたいなあ~と、音楽好きの血が騒いだ一冊でした。

2013年6月刊行

ほるぷ出版

by ERI

 

 

家と庭と犬とねこ 石井桃子 河出書房新社

石井桃子さんの書かれる文章が好きです。時折、いろんなテーマで絵本を探したりすることがあるのですが、そんな時でもふと引き込まれるのは、石井さんのテキストのものが多い。文章が伸びやかで暖かく、しかも凛としているんですよね。『たのしい川べ』や『くまのプーさん』、ブルーナのうさこちゃんのシリーズ(あのうさこちゃんのおしゃまな物言いが大好きで、どれだけ子どもたちに読んできかせたことか!)。『おやすみなさいのほん』・・・石井さんの本に触れずに大人になるのが難しいほど、たくさんの子どもの本に関わってこられた石井さん。戦前、戦後を通して、まさに日本の児童文学の基礎を作ってこられた方の一人でしょう。偉大な、という言葉が相応しい方なのです。でも、この本に溢れているのは、地に足をつけてひたすら自分の足で歩いてこられた女性のひたむきさです。迷いも苦しみもありながら、誠実に力いっぱい生きてこられた石井さんの息吹が、このエッセイたちから感じられるようで、私はそこに心打たれてしまいました。

実は、この本は二度読みました。石井さんの膨大なお仕事量や、かつら文庫での活動は知っていたのですが、宮城で一時期農業をしてらしたことは知らなかった。このエッセイを読んで、少々意外に思った私は、買い込んでそのままになっていた「新潮(2013年1・2月号)」の『石井桃子と戦争』を一気に読みました。これは、尾崎真理子さんという方が、晩年の石井桃子さんご本人から聞いたことと資料を突き合わせて、戦前から戦時中、戦後すぐにかけての石井桃子さんのことを詳細に書かれたものです。これを読んで、石井さんがどれだけ日本の児童文学の中心におられたのかを知って、改めて圧倒されました。この論文は、何しろ戦争というものが大きく児童文学にのしかかっていた時代のことでもあり、これから単行本として詳しい資料が付随されて検証されていく性質のものだと思います。でも、犬養家との縁や、石井さんが関わった作家や学者さんたちの名前を見ただけでも、まさに歩く近代文学史そのもの。戦前から、今につながる児童文学の礎を築いてこられた方なんだと。戦前に東京にあったブルジョア階級の若者たちの集まりなどにも参加して、びっくりするほど多彩なお仕事と人間関係に、気おされて頭がくらくらする想いでした。

でも、この『家と庭と犬とねこ』の石井桃子さんは、真黒になって労働し、何年も自分の作ったお洋服を着て、旅に出ても残してきた猫のことがひたすら気になったりする、とても慎ましやかな方なんです。「新潮」には、私が疑問に思った、なぜ石井さんが宮城で農業を始められたのかということについての、野崎さんなりの推測が書かれていました。それは戦時中に石井さんが関わった子ども向けの戦争推進作品との関連から、石井さんの贖罪の気持ちがあっての行動だったのではないかという推論でした。私にはその真偽はわかりません。でも、とにかく、石井さんがどのような気持ちで戦争の間を過ごされ、終戦を迎えられたのかを想い、暗然たる気持ちになったことは確かです。そんなことを考えつつ、思いつつ、もう一度私はこの本に帰ってきて、一からこの本を読みなおしました。そして改めて思ったことは、石井桃子さんという方の心の波長に、私はとても惹かれるんだという、誠に単純な一点でした。どんなに偉い方でも、物語やエッセイを通じて心の友達になれる、その幸せったらありません。集団就職で出てきた若い人たちに何度も会いにいく石井さん。ひなまつりのお道具を大切に大切にしまっておく石井さん。縁があってやってきた傷を負った猫を、最初はこわごわながら、そのうち親友のように大切に介抱した石井さん。このエッセイにあふれる、ひとりの人間としての石井さんが、私はとても好きなんです。静かに自分を深く見つめながら生きてらっしゃる、いい意味での不器用さと一徹さに、心が寄り添います。

「・・・目のまえにたくさんあるものは、人間はだいじにしなくなりがちだ。そこで、このごろは、本もなるで消耗品のようなありさまになってしまった」

「人間には、まだわからない科学的な法則―たとえば、体質とか、気質とかで、ぴったり理解しあえる人間とか、物の考えかた、感じかたがあるような気がする。・・・この自分の波長を、ほかの人のなかに見出すことが、人生の幸福の一つなんではないかしらと、私はよく考える。」

「人生をゆっくり歩けば、ひとりや二人は、きっとこんなにわかりあえる友だちや作家にぶつかるのではないかと思う」

共感すること。出会う人や、本との一期一会を大切に思うこと。石井さんの言葉のひとつひとつに、ああ、その通りだとしみじみ思う。そして、そんな風に出会いを大切にするのは、石井さんがいつも「ひとりでいること」をとても大切にしてらしたことと深い関わりがあるように思います。誰にも流されずに、ただ自分で在り続けること。日本の児童文学の中心にいて、どんなに華やかなお仕事をされても。どんなにたくさんの人たちに囲まれても。時代や風潮に流されず、ずっと「石井桃子」であり続けた石井さんのスタンスが、たくさんの、いつまでも輝き続ける作品を生み出された根本にあるのではないか。もしかしたら、そこには戦争を体験されたことも関わりがあるのかもしれない―とも思ったりします。物語という、たったひとりの心に寄り添うものは、戦争という大義名分の塊とは対極にあります。時代という大きな流れの中にあっても、たったひとりの自分の足で立ち続けること。それだけが、雪崩を打って間違った方向に進んでいこうとする暴力を押しとどめることが出来る。例えば、子どもの頃からの友達であるプーさんや、うさこちゃんがいる国と、戦争をしたいと思う人はいないでしょう。「ひとりの力」を静かに育む物語の力を、石井さんは強く信じてらしたのではないか。このエッセイを読んで、改めてそう思ったことでした。次は、『幻の朱い実』を読もう。そう思っています。

2013年5月刊行

河出書房新社

 

発電所のねむるまち マイケル・モーバーゴ ピーター・ベイリー絵 杉田七重訳 あかね書房

何度も何度も繰り返し語られねばならないことがある。例えば、児童文学の大きなテーマの一つである戦争。ヒロシマ、ホロコースト、強制収容所・・・これまで、幾多の物語が様々な苦しみの中の「たったひとり」の物語を紡いできた。時々、「何度も使い古されたテーマで物語を書くのは、進歩がないのでは」などと言う人もいるが、それは誠に間抜けな楽観主義である。私たち人間は間違いを犯す動物なのである。間違えまいとして考えに考えた挙句、大きな落とし穴に落ちたりすることもある。間違える動物である私たちが出来ることと言えば、何度も何度も、間違えた記憶を反芻し、なぜ間違えたのか、これから間違えないためにはどうしたらよいのかを、真剣に考え続けることくらいしかないと思うのだ。そして、その記憶は、たったひとりの心に寄り添うものでなくてはならない。私たちは、他人の苦痛に鈍感だ。特に、顔の見えない人たちの苦痛は、無かったものとして葬り去ることが出来る。だからこそ、「ひとり」の、名前と顔を持つ人間の心を描き切ることでしか、私たちはその苦しみを共有できないのだと思う。だから、物語は、何度も何度も書かれねばならない。『八月の光』の後書きで、朽木祥さんが、おっしゃっていた言葉。「二十万の死があれば二十万の物語があり、残された人びとにはそれ以上の物語がある」のだから。

原発の問題もそうである。チェルノブイリに、3.11の震災でのフクシマと、短期間に私たちは大きな事故を繰り返した。あれからたった2年と少ししか経たないのに、もはやマスコミも政治家も、原発の問題を論点にしなくなっている。むしろ論点にすることがタブー視されるような空気までも漂っている。今議論を尽くさずして、いつ尽くすのだろうと思うのだけれど。前置きがとても長くなってしまったけれど、この『発電所がねむるまち』は、原発で失ってしまったものを描く物語だ。表紙に描かれているような、生きる喜びがいっぱいに漲っている美しい湿原が、死の土地に変わってしまう物語だ。

この表紙でロバに乗って走っている少年が、主人公のマイケル。物語は、大人になったマイケルが、生まれ育った海辺の町を訪ねるところから始まる。少年の頃、その町には大きな湿原があった。ひょんなことから、マイケルは、そこに鉄道客車を置いて暮らしているぺティグルーさんと友達になる。ペティグルーさんは夫が事故で死んでしまったあと、一人で湿原で暮らしている。ロバと三匹の犬と、ミツバチと畑仕事、そしてたくさんの本と暮らしているペティグルーさんの客車の、なんて居心地よさそうなこと。いつぞや、ドキュメンタリーでトーベ・ヤンソンが夏の間暮らしていた島の家を見たことがある。小さい、まさに小屋のような家なのだけれど、その小ささが魅力的だった。生きていくのにこれだけあれば十分、という取捨選択を間違いなく選び取る知性と果断さ、そしてユーモアが溢れているような家。さすが、ととても惹きつけられたのだが、このペティグルーさんの鉄道客車の家も、そこに匹敵するほど魅力的だ。もう、ぜひ、そこはこの本を見て頂きたいと思う。ペティグルーさんは、湿原の中で、賢い動物のように過不足なく生きている。その人となりが伝わってくる。

マイケルと彼の母は、ペティグルーさんと友達になり、そこでとても幸せな時間を過ごす。広大な湿原と走る動物たち。降るような星空。幸せな日々―。ところが、ある日、その湿原に原発計画が持ち上がる。初めは反対していた人たちも、段々原発賛成にまわりはじめ、とうとうペティグルーさんは湿原から追い出されてしまうのだ。そんな犠牲の上に作った原発だったのに―久しぶりに帰ってきたマイケルが見たものは、使い古されてただのコンクリートの塊になってしまった原発と、かっての輝きをすべて失ってしまった故郷の姿だった。

「だからお願いです。もういちど考えてください。機械は完璧ではありません。科学も完璧ではありません。まちがいは簡単に起きる。事故は起きるのです。」

私もそう思う。どんなに安全基準を徹底しようとも、間違いは簡単に起きる。だって、その機械を管理しているのは人間なのだもの。自分の手で客車を燃やし、うつむくペティグルーさんの姿に、フクシマの事故で故郷を失ってしまった何万人もの人たちの姿が重なる。よしんば事故が起こらなくても、原発は廃炉にするのにも非常な手間と時間がかかる。そして、その後、また更地にしてしまえるわけでもない。放射能の半減期は人間の寿命など吹き飛んでしまうくらいに長いのだから。例えばコンクリートの石棺で覆い、何百年どころか何千年、何万年もの時を待たねばならない。しかも、コンクリートは劣化する。チェルノブイリのように、何十年ごとにより大きな石棺を作り続けねば放射能は隙間から洩れる。しかも、使用済みの核燃料をどうするかという問題もある。すべてが棚上げなのである。そこまで考えると、果たして原発は安い電力を産む、などと脳天気なことを言ってよいのだろうかと思う。今だけのコストパフォーマンス(この言葉は大嫌いだけれども)と引き換えにするものは大きすぎないか。この物語を読んで、ますますそう思ってしまった。この物語は、本当に「今」読まれるべき物語だと痛切に思う。

2012年11月発行

あかね書房

by ERI

 

グーテンベルクのふしぎな機械 ジェイムズ・ランフォード 千葉茂樹訳 あすなろ書房

もし、私の人生に本が無かったら。想像することも出来ないほど真っ暗闇の人生だっただろうと思います。どういう遺伝子のいたずらなのか、物心ついてからずーっと活字中毒なんですよねえ。3つぐらいのときに、あいうえお磁石で文字を覚えたんです。「言葉」と「文字」が頭の中で結びついた瞬間、自分の中でぱちん、と音がして、もやもやしていたもどかしいものが、するん、とほどけていった。なーんて気持ちいい!と思った快感は忘れられません。それからずっと、私にとって文字は、活字は快楽なのです。その活字を発明してくれたグーテンベルクは、まさに恩人というか、心の御先祖さまというか、日々感謝を捧げても捧げ足りない人であることに間違いはありません。―前置きが長くなりましたが、この絵本は、グーテンベルクが発明した印刷技術を、手順を追って絵にしてある本なのです。紙と皮、真黒なインクと金や緋色やラピスラズリの青で飾られた美しいグーテンベルクの本が、どうやって作られたか。それは、グーテンベルクだけではなく、当時のすべての知恵と、気が遠くなるほど根気のいる作業の上に生まれたものだったのだと、この本を読んで思ったことでした。

頁の見開き左側に、「紙」「インク」「革」「金箔」などが項目ごとに語られ、一冊の本になっていくまでが順を追って解説されます。右側にはそれらの挿絵。唐草模様の装飾に、忠実に当時の風俗を再現した絵が見事です。凝りに凝った造りです。紙をすく人、革をなめす人、真黒になってインクを作る人、大きな木の機械を作る人―名前も残っていない、当時の職人や下働きの人たちが、ここにはとても丁寧に書きこまれています。ただ黙々と働いた、たくさんの人たちの努力があって、やっと一冊の本が出来る。そのことに対する尊敬と感謝がこの本から溢れています。

私にとって「読む」ことは、考えることと同義です。その訓練を長年紙の本で積み上げてきた結果として、私は読むことを紙の活字本から切り離すことが難しい。後書きで訳された千葉茂樹さんがおっしゃるように、印刷技術はここ数十年で恐ろしく進化を遂げて、グーテンベルクのような活字を使った印刷は無くなってしまいました。昔は―なんて話をすると、息子たちに過去の遺物を見るような眼をされるのですが(笑)―出版社ごとに活字が違って、本を開くとまず、どこの出版社かわかったものでした。活字と活字の間の微妙な空き具合や、紙の色の違い。組まれた活字から立ち上る気配のようなものを感じることも、読書の一部に組み込まれている世代です。ところが、「書く」ことになると、今度はパソコンに向かってキーボードを叩かないとダメなんですね、これが。原稿用紙に万年筆なんて、畏れ多くて何も書けない(笑)人間のこの順応性の高さと、一旦何かを自分の標準にしてしまったあとの融通のきかなさは、果てない世代格差を生むんですね、きっと。生まれたときから携帯端末が身近にあるような今の子どもたちは、情報ツールに対する意識も根本的に違うでしょう。印刷技術が発明されたことによって、母国語という概念が生まれ、中産階級が形成された。文学や哲学、科学技術を同時代の共有財産として分け合うことで、市民意識や民主主義が生まれていった。では、これから、私たちはこのインターネットの情報網を土台にして、何を生み出していくのだろう。ほんとに、これから何もかも変っていくのかもしれない。そうとも思います。

今、携帯端末に決して出来ないことは、この本に込められている「美」でしょう。装丁と印刷の美しさ。細部へのこまやかな心遣い。でも、それだっていつの日か、携帯端末が乗り越える時代が来るのかもしれません。でも、何があっても、どんな形態になろうとも、本がひとりひとりの心の扉を開くものであること、知る権利と自由を保障するものであること、国境も人種の違いも、性別も年齢も、時代も地理的な距離も、何もかもを超えて、ひとりの人間同士を繋ぐものであることは変わらないと思っています。数ある人間の中からたったひとりの人と友達になるように、本を愛する。その感謝と愛情を、この本と分け合えるのは、とても幸せな体験でした。グーテンベルクが発明してくれたのは、本によって魂の自由を得る幸せなのかもしれません。そのことを大切に、心から大切にしたいと思う一冊でした。

2013年4月発行

あすなろ書房

by ERI

 

いのちあふれる海へ 海洋学者シルビア・アール クレア A・ニヴォラ おびかゆうこ訳 福音館書店

タイトルの通り、それはそれは色鮮やかな海の生き物たちが溢れる本です。有名な海洋学者であるシルビア・アールの伝記絵本なのですが、絵が本当に素晴らしくて、いつまでも見ていたくなります。シルビア・アールは、12歳のときに移り住んだフロリダの海の生き物に魅せられ、海洋学者になりました。この本は、シルビアが海で出会ってきた生き物の姿に焦点をあてて描き出しています。生きていることは、こんなに美しいんだと感じさせる絵です。だからこそ、シルビア・アールの海に対する愛情が溢れるように伝わってくるのです。海の大切さ、そこに生きる命の美しさを目で体感することで、読み手がその愛情を共に感じることが出来る。どんな理屈よりも、心に訴える本の作り方だと思います。

いやもう、何度も言いますが、絵の力が半端ないのです。クジラが縦横無尽に泳ぎ回る絵だけでも、いつまでも見ていられそうなほど見事なんですよ。クジラというと、大きく悠々と泳ぎまわるイメージしかなかったんですが。こんな風にお茶目に泳ぎまわる生き物だったんですね。そして、海底に輝く星のような命のきらめき。エンゼル・フイッシュと一緒に泳ぐシルビアの眼差しの優しいこと。この本には、たくさんの美しいものがいっぱいに詰まっています。それだけに、後書きで作者のクレアさんが書いておられる海に対する環境破壊のあれこれが胸に刺さります。私たちの命は、多様性を基本にしたありとあらゆる存在に支えられているはず。しかし、どうも私たち人間は、競争や成長と称して、その多様性を潰していくほうに走っているような気がしてなりません。「地球の青い心臓」は、次世代の子どもたちのもの。原発の問題も含めて、未来にツケを残さないのが良識ある大人の取る態度だと思うのですが・・・。子どもにも、そしてたくさんの大人の人たちにも読んで欲しい本だと思います。

2013年4月刊行

福音館書店

引き出しの中の家 朽木祥 ポプラ文庫

朽木祥さんの『引き出しの中の家』が文庫になりました。(以前書いたレビューはこちら→「おいしい本箱Diary 引き出しの中の家」)単行本も赤い表紙のとても可愛い本だったのですが、今度はピンクの表紙で、これまた乙女心をキュンとくすぐる可愛さ、愛しさです。文庫化を機会に、またこの本を読み返しました。再読って、いいですね。新しい発見と、時間を経て自分の中に積み重なってきたものとの両方を感じながら読むことが出来る。若い頃、大学で物語の受容と創造について講義を聞いたことがあります。昔、印刷がなかった頃は、写本を繰り返して物語は波及していった。その際に、写本をしながら、読み手は自分の物語を少しだけそこに付け加える。もしくは書き換える。それを繰り返すことによって物語は変貌を遂げていくわけです。その変化を研究することによって、私たちはその頃の人たちの価値観や物語観を知ることが出来る。もちろん、私は写本はしませんが、初読みのときから自分の中につけ加わったものを意識することで、いろんなことを改めて感じ、また考えさせられました。これまで単行本で買った本を文庫本で買いなおすことはしませんでした。これが初めての体験なんですが、再読をきちんとし直す機会になってとても貴重でした。朽木さんの本は折に触れて読み返すことが多いのですが、読むたびに新しい発見があります。だから、いつも付箋だらけ。

この作品の感想は、以前のレビューに書いています。ですので、重なる感想は書きませんが。物語の、目に見えているものの奥にあるものの深さに、改めて感じ入ってしまいました。「小さい人」が登場する物語というのは、『床下の子どもたち』(メアリー・ノートン)を初めとして私が知っているだけでも幾つかあります。彼らは小さいがゆえに常に危険と隣り合わせに住んでいます。日本のもので有名なのは、いぬいとみこさんの『木かげの家の小人たち』と佐藤さとるさんの『だれも知らない小さな国』ですが、『木かげの家の小人たち』では戦争が、『だれも知らない小さな国』では、都市開発が彼らの前に立ちはだかる大きな困難として描かれます。この物語の「花明り」たちもそうなんですね。殿様によって弾圧された歴史を持っている。そして、もしその存在が大多数の人に知られるところになれば、散在が池で河童が見つかったときの大騒ぎのようになることでしょう。花明りたちが、ひっそりとどこで暮らしているのは、この物語で詳しく書かれていませんが、常に怯えながら生活していることは想像に難くありません。この物語の前半では、そんな花明りと、病気がちで義母ともうまくいかない七重の孤独な心が重なります。散在が池に身を隠す河童たち。そして、人差し指ほどの小さな人たち。朽木さんのファンタジーは、常にマイノリティである存在が描かれます。河童。小さな人たち。きつねや猫、犬。その心に寄り添い、そっと彼らの世界に目を凝らせて見えてくるもの。その中に、私たちが忘れてはならない一番大切なものが隠れている。思えば、子どもも、この社会の中でのマイノリティである存在です。常に七重のように大人の思惑に左右される。だからこそ、二つの魂は出会うのです。河童の八寸と麻が出会ったように。そんな彼らと心を重ね、寄り添うことで、私たちはとても美しい風景を見ることが出来る。それは、大きなものばかりを見ていては気がつかない、人間らしく生きるための原風景ではないかと思うのです。

大きくがなりたてるプロパガンダや、一斉に雪崩を打って変わっていく世論。マスコミの喧騒に、私たちはとかく引きずられがちです。でも、自分の心の中に、こんな小さな人や、幼い河童の姿を住まわせ、彼らの声に耳を傾けていれば。きっとすべての見え方は違ってくるのではないか。そう思うのです。小さな人は、私たちが守らねばならない時代の中で抑圧されていくものの影を背負っているのかもしれません。そう思いながら読んでいると、この大きな屋敷のからくりは、アンネ・フランクの潜んでいた屋根裏に、ふと重なるように思ったりもしました。小さな存在、隠れているもの、耳を傾けなければ聞こえない声の中に、私たちが守らねばならないものがある。この物語を読む子どもたちの心の中に、花の香りと光を放つ小さな人が住んでくれますようにと思います。そして、大人の心には、彼らが帰ってくる喜びがもたらされるはず。

物語の後半、「今」を生きる薫と桜子が、失われそうになっていた七重と独楽子の絆を結び合わせます。人間と花明り。大きさも生き方も違うけれど、お互いの立場を超えて心を繋ぐ薫と桜子の笑顔が、ラストで見事に花開く光景に胸が熱くなってしまいます。実は数日前にぱせりさんのブログでこの本の感想を読ませて貰ったのですが。ぱせりさんは、この物語の最後に脳内でアメリカに住む七重から手紙がくるシーンを付け加えてしまっていたらしいのです。それをふんふん、さもありなん、と読んでいた私なのですが、なんと私もちゃっかり同じことをしていました。「おばあちゃんが薫にこのライト様式の家屋敷をゆずるつもりで、手入れをしようと密かに決意する」「七重を乗せた飛行機がタラップに到着して、彼女の足先が見える」という二つのシーンを勝手に付け加えていたことが判明。何度もこの物語の細部を反芻するうちに、自分の願望まで付け加えていたんですね。そんなシーンがつけ加わるほど、私もぱせりさんも、この物語に「希望」を貰っていた。そんな気がします。希望は、これからを生きる力、そしてかけがえのない「今」を感じる力です。

「瑠璃のさえずりはね、忘れていた大切なことを思い出させてくれる。あたしたちが、どんなすてきなものを持っているか教えてくれる。ほんとうに大切なことを、きっと思い出させてくれる。だから、瑠璃と会えた人はとても幸せなんだって」

花明りの独楽子に、七重に、薫に、桜子に、またこの文庫で会えて、とても幸せでした。物語の力を信じることが出来る。その喜びも、またこの物語から貰うことが出来ました。薫のおばあちゃんの口からふと「散在が池」という言葉がこぼれて、私の脳内朽木ワールドの地図帳に、そっとこの家の場所が書き記されています。ファンとしては、そんなオタクな楽しみもまたこたえられません。この物語を読んだ人たちが、それぞれどんなシーンを頭の中で付け加えたのか。とっても知りたい・・・。

2013年6月刊行
ポプラ社

魔女のシュークリーム 岡田淳 BL出版

私は、小さい頃イチゴがとっても好きで、(今でも好きだけど)少しばかりのイチゴを妹と分け合うのが悔しくてならなかった。オトナになったら山盛りのイチゴを自分で買って食べるんだ!とずっと思っていた。ところが、いざ大人になると、そんなにイチゴばっかり食べられないんですよね、これが。第一、今、どんなに美味しいイチゴを買ってみても、記憶の中のイチゴとは何かが違う。去年のクリスマスに、同年代の友人3人と昔懐かしいバタークリームのクリスマスケーキを食べる会を催した。明らかに昔のケーキよりいい素材を使ってあるだろうに、あのロウが固まったようなクリームもどきのケーキの記憶に遠く及ばなかった。子どもの頃の新鮮な味蕾と食欲は、もう戻ってこないということなんだな、きっと。(気付くの遅すぎ・・・)この『魔女のシュークリーム』は、ぴちぴちの味蕾&食欲のダイスケくんが、これでもかというほど大好きなシュークリームをお腹いっぱい食べる、とっても幸せな物語です。岡田さんの物語に出てくる食べ物は、いつもとっても美味しそうなんだけれど、このシュークリームはまた格別に美味しそう。

ダイスケくんは、「あなたの頭は、シュークリームのことしか考えられないの!?」とお母さんに言われてしまうほどのシュークリーム好き。岡田さん描くダイスケくんも、ふっくらシュークリームみたいでとっても可愛い。ある日、そんな彼に100倍大きなシュークリームを食べる幸せがやってきます。しかも、それは魔女にいのちを取られているカラスとネコとヒキガエルの呪いを解くための闘いなのです。なんと気の毒なことに、彼らは魔女にシュークリームを、身の毛がよだつほど嫌いになる魔法をかけられているのです。ダイスケくんは、うはうはとシュークリームにのめり込みます。この一心不乱に食べるダイスケくんの幸福感といったら!甘いクリームにうっとりと埋没するダイスケくんに、カラスたちが「まことのゆうきをおもちである」「ほこりたかきライオンのようだ」なんて感心するところなんか、可笑しくて仕方がない。可笑しくて仕方ないんですけど、私は何だかすごくジーンとしてしまったんです。ダイスケくんの「シュークリームのことしか考えられない」という性格は、あんまり実生活では人に評価されないことです。でも、そのマイナスが、この物語ではくるっとひっくりかえって、困っている動物たちを助けるための武器になる。お母さんが言う「あなたの頭は、シュークリームのことしか考えられないの!?」というセリフが、魔女との闘いの最後に最大級の賛辞として動物たちからダイスケくんに捧げられる。そこが、たまらなくいい。この物語を読む子どもたちは、きっと心が深呼吸するでしょう。

私たちは、特に大人はすぐに明日のことばかりを気にします。でも、それこそ五感のすべてが手つかずの新鮮さで立ちあがっているような子ども時代は、もう二度と帰ってこない。大人になってからの時間のほうが、うんざりするほど長いんです。だからこそ、思う存分楽しんで欲しい。そして、ダイスケくんのように食べることを最大限に楽しむ感受性は、「今」を楽しむ最大の武器なのかもしれない。食べることだけは、明日病にかかっている私たちに残された「今」を生き切ることが出来る場面だなあ、と思う。・・・なんていう理屈は、この物語の楽しさの前ではかえって野暮かも(笑)余談ですが。やたらに美容を気にする魔女に、つい「美魔女」という言葉を連想して、「うふふ」となってしまう私は、意地悪おばさんです。美魔女、なんて言われるのは恥ずかしいよねえ。必死のパッチな感じがね、恥ずかしい。いや、私は絶対言われないから、いいんですけどね(爆)

2013年4月

BL出版

 

チェロの木 いせひでこ 偕成社

人は―と言うと、風呂敷を広げすぎかもしれないけれど。特に子どもは、歩いていける場所に森を持つべきだとこの本を読みながら思ったことだった。命を、生と死を内包しながら深く呼吸し続ける森。古の時を受け継ぎ、そして自分の命が無くなってしまったあとにも、ずっとそこにあって静かな音楽を紡ぎ続ける場所。奥深く迷い込めば帰ってはこれないかもしれない。恐ろしい獣に出会うかもしれない。でも、だからこそ心の奥底に何かを語り掛けてくる。自分という存在が、大きな命の流れに抱かれていること。同時に、かけがえのないたった一つの存在であること。そのどちらも感じながら生きることが、今はとても難しい。私たちは、どこを切っても同じような金太郎飴のような世界に生きているから。しかし、本来私たちは森と繋がるべき存在なのだ、きっと。

この本に描かれるのは、森が生み出す命の循環だ。森で育った一本の木が、美しいチェロという楽器になり、音楽が奏でられ、人々の心に届いていく。森と人が生み出す命の饗宴にうっとりと聞き惚れてしまう。森をはぐくむのも、チェロを作るのも、音楽を奏でるのも、心を込めて修行した優しい手。そのぬくもりが伝わってくる。森の中に踊る光が、静かに降りしきる雪の重みが、切り株が、少年に語りかけた物語が、きこえてくるようだ。命を受け継ぎ、思いを込め、新しい息吹を込めて次の世代に伝えていく。人の根源的な、忘れてはならない営みが、一人の少年をそっと揺らして、豊かな人生に送り出していく。祖父から父へ、そして自分へと受け継がれていく命。自分の目で、耳で、確かにその営みを確かめて大きくなる幸せがここにある。

私も、自分の近くに本物の森を持たない。残り少ない自然も、ますます切り取られていくばかりだ。家は受け継がれるものではなくなり、代替わりすれば全てが更地になる。この間も、町内の長年丹精こめられた庭が、あっと言う間に潰されて新しい家が建った。でも、私には本がある。たくさんの人に読まれ、受け継がれてきた本たち。ずっと幼い頃から読み返している大切な本たち。そして、こうして大切なことを伝えるために生まれてくる愛しい本たち。私はその本の森を歩き続ける。そして、この森が、次の世代に、受け継がれていくために・・・少しでも私に出来ることがないか、と思い続けている。日暮れて道遠し・・・ではあるけれど。遠いなあ。(愚痴ってどうする!)

2013年3月

偕成社

村岡花子と赤毛のアンの世界 生誕120周年永久保存版 河出書房新社

今日、初めて梅田のグランフロントに行ってきました。目的は、本を大好きなもの同士のおしゃべりです。デイヴィッド・アーモンド氏の講演会に行った折に、本当に偶然に知り合った若いお友達と、マニアックな本の話をしに行ったのでした。好きな本が重なる、というのはこんなに楽しいものかという勢いで喋りに喋り、気が付いたら夕方。本人たちの感覚では、つい1時間くらいしゃべったかな、くらいの感覚でびっくりしたのでした。本を読むというのはとても個人的な行為なのですが、思い入れのある本のことを同士とあれこれお喋りするのは、本当に楽しいことです。一つの本について、複数の目が持てる。自分が気付かない良さを発見する、話しあうことで深いところまで分かり合えたりする。そんな喜びは、本読みの大きな幸せです。この本のようなマニアックな特集本を読む楽しみも、そこにあります。村岡花子さんと赤毛のアンを大好きな人たちが集まって、自分の想いを語る楽しみ。今まで知らなかったことを教えてもらえる楽しみ。そして、これまで以上に、またその本が好きになれる幸せ。たくさんの喜びがぎゅっと詰まっています。

村岡花子さんについては、以前『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』を読んだことがあります。その時にも思ったのですが、こうして様々な論考やご自身のエッセイなどを読むと、モンゴメリという作家と村岡さんが出会った必然性というか、深い縁に驚きます。ポール・オースターと柴田元幸氏、フランクルの『夜と霧』と霜山徳爾氏、という風に、深く結びついて切り離せない名訳というのがありますが、それはただ文章を訳するという作業以上のものがあるような気がします。明治という時代に、特権階級でない女性が学問を修め、家庭を持ち、幼子を亡くし、戦争を乗り越えて生き抜いていく中で、モンゴメリの物語と魂が結びついていったのではないか、この本の様々な資料を読みがなら、その感はより強くなりました。そして、この本はまた新しい驚きもくれました。モンゴメリが亡くなった当日に出版社に届けられた原稿があったこと。それが最後の赤毛のアンシリーズとしてカナダで出版されたのが2009年であること。そして、その日本語訳が村岡美枝さんの訳で去年出版されていること!慌ててアマゾンでポチりました。アンの後日談ではなく、アンの周りにいた人たちの物語で、これまでよりもダークな、人間の影の部分に焦点を当てた物語が多いとのこと。(まだ全然読めていません)そして、モンゴメリが、最後は自分で命を断ってしまったことも、この本で初めて知りました。彼女は実生活でいろいろな苦しみを抱えていたんですよね。そのことはある程度は知っていたのですが。小説家として成功しながら、晩年を迎えて自殺しなければならなかったその苦しみを、この年齢になって考えると胸がしんとします。そのことも含めて、最後の小説が現れたことで、ここから新しい検証と論考が始まっていくのでしょう。それは、戦争や家庭、女性の生き方という「今」の困難と響き合うのものなのではないか。そんな予感もします。

『赤毛のアン』を、私は何度読み返したことか。アンのような友だちが欲しいと願った幼い頃から、このシリーズは理屈抜きの私の腹心の友でした。アン・シャーリーや『小公女』のセーラ、そしてアンネ・フランクが、ある意味、現実の友だちよりも大切な存在だった時もあります。その自分の強い思い入れが何故だったのか。私は今でも折に触れ考えることがあるのです。この本のような多角的な資料を集めた特集本は、その自分の心のへの道しるべとなるのです。一応図書館で予約して読んでみましたが、やはりこれはポチっと購入決定です。これまた大好きな梨木香歩さんと熊井明子さんの対談が載っているのにも興奮しました。河出書房新社さん、ありがとう。そして、今気付いたんですが、同じく河出書房新社から『図説赤毛のアン』という本も出てるんですね。これも読まねば。

 

つなのうえのミレット エミリー・アーノルド・マッカリー 津森優子訳 文渓堂

この本、絵がとても素晴らしいのです。表紙の女の子、主人公のミレットの表情に思わず引き込まれてしまう。きゅっと結んだ唇と真剣な眼差し。強い風の中で踏み出していく一歩目の緊張と勇気が伝わってきます。

ミレットは、パリの宿屋で一生懸命働く女の子。ある日宿屋に綱わたり師のペリーニという男がやってきます。彼が密かに綱わたりをしているところを見たミレットは、どうしてもやりたくなって密かに練習するのです。それを知ったペリーニは練習をつけてくれ、ミレットはどんどん上達します。ある日、ペリーニが有名な綱わたり師だったことをミレットは知って、一緒に仕事をさせて欲しいというのですが、ペリーニは一度失敗した恐怖から興行ができなくなっていたのです。勇気を振り絞って再び綱の上に乗るペリーニですが、やはり凍りついたように立ち止ってしまう。その彼のところに、思わず走っていくミレット。

私は絵については全く門外漢なのですが、綱わたりをしている時と、ただ歩いている時では、全く身体表現というのは違うだろうと思います。体全体に漲る鞭のようなバランス感覚。しなやかな筋肉の張り。集中しながら、余計な力が入らないようにコントロールする難しさ。そんな体の表現する美しさが、見事に描き表されていて見とれてしまう。しかも、ペリーニが長年興行を張ってきた一流のパフォーマーであることも、綱の上の彼の姿に刻みこまれているのです。それに対する、ミレットの子猫のような身軽さ。若さ漲る運動神経、負けん気の強い性格も、それはそれは生き生きと伝わってきます。絵に物語があって、それが言葉で説明されなくても見るものにわかる。だからこそ、二人が綱の上で会うシーンが胸に迫ります。まっすぐ自分を見つめる少女の瞳から溢れる信頼が、ペリーニにとってどんなに嬉しいことだったか。手を差し伸べ合う二人から生まれる新しい希望と力が、きらきらと夜空に輝くラストシーンがなんて美しいこと。

今、NHKでやっている朝ドラの「あまちゃん」を、毎朝楽しみに見ているのですが、主人公のアキちゃん演じる能年玲奈ちゃんの目が、とても綺麗で毎朝見とれてしまいます。水気を含んでキラキラしてるんですよねえ。きっと、ミレットが綱の上でペリーニをみつめた瞳も、何恐れることなく輝いていたでしょう。マネやロートレックの絵のような、ノスタルジックな味が漂う絵から、ピュアな気持ちが溢れてくる素敵な絵本です。

2013年4月発行

文渓堂

 

 

トランプおじさんと家出してきたコブタ たかどのほうこ にしむらあつこ画 偕成社

音読、というのが結構好きです。声に出して読むと、黙読では味わえない言葉のリズムの面白さも味わえるし、とっても簡単に俳優気分も味わえます。その昔、とても長い間私は子どもたちに本の読み聞かせをしましたが、それは多分子どものためと言いながら、半分以上自分の楽しみだったんですよね。今はそれが出来なくてとても残念。特に、この本のように言葉が生き生きと脈打っているような物語に出会うと、「声に出して読みたい病」が再発して、困りました。子どもたちと、あれこれ突っ込んだりして笑いながら、読みたかったなあ。

まず、登場人物の名前が面白い。動物の言葉がわかるトランプおじさんは、ほとんどいつも本を読んていて、イルカーネポポラーネという白いずんどうの、ソファでいっつもごろごろしてる犬と暮らしています。この「イルカーネポポラーネ」っていうのを、「いるか~ね ぽぽら~ね」ってまず引き延ばして読みたいじゃありませんか。まったり暮らしている二人のところに、トゥモロウというブタが転がり込んできます。トゥモロウは、モンドリ・ドリーさんというおばあさんと一緒に暮らしていたのですが、家族だった動物たちが次々といなくなったのがおばあさんのせいだと思い込んで家出してきたのです。そこで、トランプおじさんとイルカーネポポラーネは、いなくなったカモとワニとテンと小鳥がどうなったのか、調査することになったのです。

このトゥモロウというブタさんの微妙な人(?)となりといい、トランプおじさん&イルカーネポポラーネの、のんびりした探偵っぷりといい、だあれも偉い人や「ああしましょう、こうしましょう」という人が出てこないのが最高に楽しいんですよね。たかどのさんの軽快な言葉のリズムに乗って、つるつる物語の中を滑っていく楽しみ。ところどころに「ふくみがあったのです」「じくじたる思いがしたのでしょう」なんて、大人の言い回しが出てきて、うまくジャンプする場所を作ってあるのもいい。こういう言葉を知って、自分の頭に書きこむ楽しみって、読書の喜びの一つですよね。このあたりの言葉遣いの呼吸が、さすがです。

猫のシマモヨウにそそのかされて生まれたトゥモロウのモンドリ・ドリーさんへの疑いは、実は妄想なのです。でも、調査しているうちにトランプさんたちもその妄想にどんどん巻き込まれていっちゃうんですよね。そのあたりにハラハラしながら、でも、読み手には彼らの妄想が、妄想であることがちゃんと伝わるように書いてあります。だから、子どもたちは、トゥモロウの妄想に皆が巻き込まれる物語を安心しながら楽しめるし、その一部始終を客観的に眺めることにもなっているんですよね。言葉というのは魔力があって、表に見えているものだけを使って、どんな風にも物語を作ることが出来る。それって、ほんとは怖いことなんですよね。例えば・・・ですが。皇太子妃の雅子さんに対する報道なんかを見ていると、マスコミの姑根性を凄く感じてしまうんですよ。ご病気が長くて自分のことを語る機会がないだけに、どんどん勝手に物語が作られてしまっている気がします。心の病を抱えた家族に対して、これは暴力に近いよなあと溜息が出る。そして、こんな風に誰かを追い詰めることを、自分もしてしまうかもしれないと怖くもなる。だから、トゥモロウが作った物語が、ドリーさんの実際の姿からどんどんかけ離れていくのを読みながら、「おーい、帰ってこいよ~!」と子どもたちが思ってくれたら嬉しいな、とこの物語を読んでいて思いました。「これはね、じぶんのよわいこころにつかまっちゃったってことだとおもうんです」という最後のトゥモロウの言葉に、つるつるっと楽しく読みながら、ぽーんと飛びこんで、「ああ、よかった~」って思える。たかどのさんの物語の中に張り廻らされた何気ない仕掛けに、「うんうん」といっぱいニコニコしながら頁を閉じました。子どもと一緒に読むと、ほんとに楽しいだろう一冊です。にしむらあつこさんの絵も、とっても可愛い。エプロンの似合うトゥモロウが最高です。

2013年4月

偕成社