あひるの手紙 朽木祥 ささめやゆき絵 佼成出版社

言葉を初めて手に入れたときの喜びを覚えていると言うと、「ほんまかいな」と言われそうですが。自分としては結構はっきりした記憶です。「あいうえお」の赤い磁石を買って貰い、それを絵本の字と同じ順番に並べてみたとき、「あ」の字と音が、ふと一致したんですよね。一つわかれば後は芋づる式に疑問氷解し、それまで見知らぬ暗号だった文字が、私に語りかけてくるように思えて、興奮しました。多分三才くらいだった・・・ということは、ウン十年昔の記憶ですか(笑)私にとって、文字を手に入れた日は、新しい扉が開いた瞬間だったのでしょう。 そんな古い記憶が蘇ってくるほど、この物語には磨き抜かれた言葉の喜びがきらきらしています。

ある日、一年生のクラスに一通の手紙が届きます。そこには覚えたての元気な字でただ一言「あひる」の文字。それは、「ゆっくり、ゆったり、大きくなって」ひらがなを書けるようになった24歳のけんいちさんからのお便りだったのです。そこから、子どもたちとけんいちさんの、お手紙での素敵な言葉のキャッチボールが始まります。「あひる」「るびい」「いるか」・・・交わし合うたった一つの言葉に、たくさんの笑顔が重なっていきます。手紙を送るときの、「喜んでくれるかな?」というドキドキ。お返事を待つときの「早く来ないかな~?」と思うときめき。届いたお手紙を開けて、紙をそっと開くまでの待ち遠しさ。そんな時間も全部こもった手紙って、ほんとにいい。「あひる」という言葉と一緒に、一年生の皆と、ゆっくり大きくなった、けんいちさんが、にこにこと行進していくような。お手紙に書いた言葉たちが、皆で歌っているような楽しい時間が、見事に一冊の本になっています。

朽木さんの物語には、よく手紙が登場します。『かはたれ』(福音館書店、2005年)の、麻のお父さんからの手紙。『風の靴』(講談社、2009年)の、ヨットマンのおじいちゃんからの瓶に入った手紙。『オン・ザ・ライン』(小学館、2011年)では、何枚もの絵葉書が、主人公の侃をめぐる人々の心を行き交います。作品の中で、手紙たちはゆっくりと相手に届く時を待ち、主人公たちの心をほぐしていくのです。思うに、手紙は心を交わすのにちょうどいい「時間」を生むのだと思います。何もかも、早く、早くとせかされてしまいがちな子どもたち。そのスピードはますます上がってめまぐるしいほど。でも、ゆっくりでなければ育たないものがあるのです。けんいちさんの書いた「あひる」の文字は、「にぎやかに、わらっているみたいな三つの文字」。ゆっくり、ゆっくりたどりついた三つの文字への時間の中に、どれだけの愛情と慈しみがこめられていることか。だからこそ育った素直な喜びが、この「あひる」という言葉にはじけているように思うのです。そのけんいちさんの言葉を、まっすぐに受け止めて返していく子どもたちの心には、余計な壁も何もない。心地良いリズムを刻む楽しさと共に、何の押しつけもなく、お互いの尊厳を大切にするメッセージが心にするりと染みこんでくる。言葉は不完全な入れ物だから、そこに何を込めるかで宝物にもなれば、相手を切り裂く刃にもなります。子どもたちには、相手と自分を大切にする言葉を育てて欲しいと切に思います。幼年の物語という難しいジャンルで(これは、ほんとに難しいんですよ!)こんなに自然にメッセージと楽しさを両立させた作品が生まれたというのは、ほんとに嬉しいことです。学校という社会の始まりの中に飛び込んでいく子どもたちへのプレゼントにも相応しい一冊だと思います。ささめやゆきさんの暖かみのある挿絵も、この物語にぴったり。表紙の赤いポストがいい!あのずんぐりした形。ポストは、やっぱりこれでなくちゃね。

2014年4月刊行

佼成出版社

 

ミシンのうた こみねゆら 講談社

こみねさんの描く世界は、どこかしら、私たちがどこかに置き忘れている世界と呼応していると思う。それは、常に美の世界に耳を澄ませ、心を尽くしている人だけが捉えることのできる、一抹の水脈のようなものかもしれない。昨年の夏、満月の夜に八島ヶ原湿原の夜の中を歩いた。灯りひとつ、人工物の何一つ無い世界を、神経を研ぎ澄ませて歩いていると、身体のどこかに違う目が開いていくような気がした。この絵本を読んでいると、あのとき満月を見上げていたときの気持ちを思い出す。月や風や草花や虫たちが語りかける耳に聞こえない声に、全身を使って耳をすませる時間。心をすます、という言葉はないけれど、こみねさんの絵本にゆっくり向き合って、心をすませているときに聞こえてくる音楽がとても好きだ。

品の良い洋装店のウインドウに、手回しのアンティークミシンが置かれている。たくさんのお洋服を作ってきたに違いないミシンは、もっと効率の良いミシンに仕事を譲って店頭にひっそり飾られているのだけれど、きっと「私を使って」と願っていたに違いない。その願いに引き寄せられるように、見習いの女の子が満月の夜にミシンのところにやってくる。カタカタ・・・可愛い音をたてて、少女は個性的なお洋服を作り出す。このお洋服が、どれもとっても素敵で美しいのだ。朝になって少女は勝手なことをして、と怒られるのだけれど、彼女のお洋服にぴったりな人がやってきて、必ず売れてしまうのだ。もしかして、このミシンは「こんなお洋服が欲しい」という願いを受け止めて、少女を呼び寄せているのかもしれない。一生に一度でいいから、まるで自分のためにあるように似合うお洋服を着てみたいというのは、女性なら誰でも思うことだと思う。「着る」というのは、そうありたい自分自身を多少なりとも体現することだし、どんなお洋服を着るかは自分の生き方とも深く関わってくる。自分の好きなものを着られるということは、人の尊厳を守るものでもあると思う。自由が奪われるところでは、大抵「着る」自由も奪われてしまうから。・・・などと大きな話になっていくのは、少女が最後に作ったお洋服を着るために現れたちいさな女の子がとても気になってしまうからだ。

遠くの野原にぽつんと佇んでいるちいさな女の子は、真っ白い服を着て、どことなく寂しそうだ。満月の月明かりの中をやってきたときも、命を宿さないような、青白い顔をしている。でも、ミシンが作り出した可愛い青いフリルのお洋服を着たとたん、生き生きとした表情で走り出すのだ。この子はどこから来たのかな。ずっと一人でいたのかな・・・。夜明けの町を手を繋いで走っていくふたりは、どこに行くのだろう。ふと、バーネットの『白い人びと』を思い出したりするのだけれど、その答えは読むものが「こうであって欲しいな」という自分の願いとともに、胸に沈めておくべきものなのだろうとも思う。あの小さな女の子は、女の子の憧れそのものなのかもしれないし、帰る場所を見つけた可愛い天使なのかもしれない。確かなのは、小さなミシンが、誰かの願いや希望を、カタカタと優しい歌を歌いながら生み出してきたということ。その音に心を澄ます、美しいオルゴールのような絵本が私のところにやってきてくれたことが、とても嬉しい。

2014年2月刊行

講談社

図書館のトリセツ 福本友美子 江口絵理 絵スギヤマカナヨ 講談社

子ども向けに、図書館をどう使うか、どう図書館と仲良くなるかを書いた本なのだけれど、これがとってもわかりやすくて、伝えるべきことをしっかり踏まえている内容になっています。図書館で働いてる私でさえもなるほど~、と思うくらいです。大人の方が読んでも、きっと目からウロコのところがあるはず。

この本には、図書館で出来ることがたくさん書いてあります。本を読む、借りる、本で調べる。もちろんそれが基本なのですが、私が一番いいな、と思ったのは「図書館では、なにかをしなければいけない、ということは1つもないのです。こんな自由な場所は、ほかにそうそうありません」という言葉。そう、その通りなんですよねえ。本はたくさんあるけれど、別に読まなくたってかまわない。反対に、どれだけ読んでもかまわない。誰にもなんにも強制されません。この本にも書かれていますが、様々なジャンルの本を、なるべく偏りのないように収集する。この本が読みたいとリクエストされれば、その希望を叶えるべくあちこちに問い合わせて提供します。そう、図書館は「自由」が基本なのです。そのために、図書館は資料収集の自由と、提供の自由を宣言しているんです。(「図書館の自由に関する宣言」を、リンクしておきます。私は時々、この宣言を読むことにしています。何かこうね、ぎゅっと身が引き締まる思いがします。 )その自由を、最大限に活用して貰いたいなあと思うんですよ。なぜなら、この自由は活用して、使い倒すことで、もっと活性化して広がっていくと思うから。

だいたいの図書館は地方自治体が運営している「市民の図書館」なのですが、こんな風に公共図書館が出来るまでには、先人たちの努力と闘いがあったのです。それこそ女性や子どもに貸し出しをするようになったのも、そんなに昔のことではありません。はじめから当然のようにあるものではないからこそ、どんどん使って、実績を作って、この社会になくてはならぬものとして根付いて欲しいのです。日本では、そこがまだまだだと思うんですよねえ。「これだけネットがあるんだから、何も本でなくても」という声もあるでしょうが、やはり一冊の本が持つ情報量の多さと確かさは、ネットで検索して見る頁とは格段に違います。客観性も違います。この本にも「なぜ本でさがすかというと、たいていの本は専門家が書いていますし、出版される前に何人もの人が、正しいかどうかを確認しているからです」とあるように、ネットで個人的に書いているものと、出版されるものとはその責任の取り方が根本的に違います。ネットは匿名が基本ですもんね。

そして、図書館のいいところは、同じテーマの本が何種類も揃っていること。調べたことを鵜呑みにしないで、別の角度からも見ることができる。この本には、そこもちゃんと書いてあります。「1冊見て終わりではなく、2冊以上の本を使って確認しよう」その通り。活字で書かれているからと言ってそれを鵜呑みにしない、というのも大切なことです。いろいろ調べて同じテーマで違うことが書いてあったら、それは自分で考えてみる余地があるビッグチャンスですもんね!それだけで自由研究ができちゃう。卒論もできちゃうかもしれない。「なぜだろう」と思って自分で調べて、自分の頭で考えて「これだ!」という解答を手に入れることって、ほんとに楽しい。解答を得られなくても、これまたずっと考え続けるという楽しみが生まれます。また、答えは一つでなくてもいいかもしれない。答えは無いのかもしれない。でも、なぜだろうと思って考えることが、人間に与えられた一番の楽しみであると私は思います。そして、もちろん、何にも考えないために図書館に来るのも、いいですよねえ。いろんなことに疲れて、家や学校から離れたいとき。一人でいるのも寂しいけれど、誰とも話したくないとき。人間関係に疲れて、生きていくのがめんどくさいよな、と思うとき。図書館にきて、ぼーっとして、綺麗な写真集や、美しい絵画を眺めたり。漫画を読んでみたり。居眠りしたりするだけでも、ほっと出来るかもしれない。誰に気を遣う必要もないのが、また、図書館のいいところです。安心してひとりになれる。そして、本ほどひとりになった人間の味方をしてくれるものはありません。

「学校は何年かたつと卒業しなければなりませんが、図書館に卒業はありません。何歳になっても行けます。もし図書館があなたのお気に入りの場所になったら、一生ずっと遣い続けることができますよ」

いいこと言うなあ。私もきっと一生図書館には通い続けるでしょうねえ。他にもいっぱいしびれる名言がたくさんあって、この本付箋だらけになってしまいました。「私は図書館のことよく知ってるから」と思う方にもおすすめです。そうそう~~!と嬉しくなって、明日図書館に行きたくなること、請け合いです。

2013年10月刊行

講談社

てつぞうはね ミロコマチコ ブロンズ新社

てつぞうは、ミロコマチコさんが一緒に暮らしていた猫さんだ。もっとも、猫飼いの勘で、白いおっきな猫がはみださんばかりの表紙を見ただけで、「あ、この子はミロコマチコさんの猫だな」とわかってしまったけれど。『おおかみがとぶひ』の動物たちは、とってもアートだったけれど、このてつぞうは「あにゃにゃ」と話しかけてきそうなほど心の近くまで寄ってくる。賢くて気むずかしくて、わがままで甘えたのてつぞう。うちのぴいすけも、歯磨きのスースーする匂いが大好きで、私が歯を磨いているとやたらに寄ってくるんだけど。しかも、猫ぎらいで、人を選ぶところも、一緒なんだけど。桜の花びら追いかけてるし。可愛いなあ。てつぞうがめっちゃ好きになってまうやん。やだなあ。困ったなあ。だって、いやな予感がするんだよね・・・と思っていたら、やっぱりてつぞうは、見開きの画面の中で、虹の橋を渡って逝ってしまった。

でも、ミロコさんのところには、今、ソトとボウという二匹の猫さんたちがいて、彼らはてつぞうのお皿でご飯を食べて、てつぞうの使っていたトイレでおしっこもうんちもする。彼らは捨てられていたのを、ミロコさんの知り合いが拾って、てつぞうのあとにミロコさんのところにやってきた。生まれて死んでいくサイクルが、猫は私たちよりも短くて、どうしても先に逝ってしまう。それがわかっているから、目の前にいても、いつも心のどこかに、失うことを怖れる気持ちが揺れているのだけれど。ミロコさんが描かずにいられなかったてつぞうの絵は、生きている喜びがひたすらにいっぱいで、ミロコさんを愛して、ミロコさんに愛されて一生を送ったことがまっすぐ伝わってくる。彼はとても誇り高く自分の命をまっとうして逝った。これを幸せと言わずしてなんとしよう。

ミロコさんは、てつぞうというかけがえのない自分の猫を描いているのだけれど、自分のためにこの絵本を描いていない。命の大きな流れの中に、視点を置き直している距離感が、この絵本を見事な作品にしていると思う。命は絵本の大きなテーマの一つだ。生まれて初めて「死」に向かい合う瞬間が、幼い頃に必ず誰にもやってくるから。てつぞうの命が、ミロコさんの絵の中で生き生きと飛び跳ね、また次の子たちの命と響き合っているようなこの絵本は、言葉を尽くさなくても子どもたちに大切なことを教えてくれるような気がする。

2013年9月刊行

ブロンズ新社

あいしてくれて、ありがとう 越水利江子作 よしざわけいこ絵 岩崎書店

私の父親はとても心配性だった。少しでもとがったもの、例えばハサミや毛糸の編み棒なども、妹や私が怪我をしてはいけないと、すぐにどこかにしまい込んでしまう。建て売りの古い家の窓から冷たい風が入ってくるのを気にして、私の部屋の窓をきっちりテープで封鎖してしまったこともあった。もう、ちょっと、やめてよー、息苦しいやん、と若い私は思っていたものだ。この物語を読んでいると、あんな風に何の見返りもなく、ただ愛してくれた人がいなくなってしまったということが、表紙の風船のようにぽっかりと浮かんでくる。とても寂しいけれど、その風船を手に持ってしばらく眺めていたくなる。

この物語は、急にいなくなってしまった、大好きなおじいちゃんへの手紙だ。バイクでタイフーンのようにやってくるカッコいいおじいちゃん。どうやら何かの事情で、自分だけで子どもを育てている娘と、孫のことが気になって気になって仕方なかったおじいちゃん。口うるさいけれど、女親とは違うやり方で包んでくれるおじいちゃんは特別の存在だ。別におじいちゃんが何か役に立つことをしてくれるからじゃない。何かいい物を持ってきてくれるからでもない。ただ、「お母さんのおにぎりと、おじいちゃんのおにぎりと、どっちがうまい?」なんて聞いたりする、おとなげないおじいちゃんは、「僕」が今ここにいることを、とてもかけがえなく思っていたのだと思う。そのことを、抑えた言葉数で見事に伝えてしまう利江子先生の筆力は、さすがだ。

年を取ればとるほど、悲しいことも、辛いこともたくさん見てしまう。ヘンな話、親子だからといって愛し合えるとも限らないし、また愛し合っていても、会いたい時に会えるとも限らない。だからこそ、きっと、このおじいちゃんは、僕たちにいつも「ここにこうして、いてくれて、愛させてくれて、ほんまにありがとう」と思っていた人なのだ。その「ありがとう」は、お母さんの、お姉ちゃんの、そして僕が今ここにいることへの限りない寿ぎだった。だから、「あいしてくれてありがとう」という僕たちの感謝は、おじいちゃんの「愛させてくれてありがとう」という感謝と背中合わせなんだろうと思う。この物語には、その背中合わせの「ありがとう」の暖かさが溢れている。この物語を読む子どもたちは、ふと顔をあげて、自分を愛してくれる人を改めて見つめたくなるんじゃないだろうか。それは、自分が今生きているということを、とても大切に思える瞬間のはずだ。

心配性だった私の父は平均寿命よりもだいぶ早く、この物語のおじいちゃんと同じように、肺が原因であっという間にいなくなってしまった。だから、やっぱりこの物語のお母さんのように「ごめんね」と思うことが今でもある。でも、猫を溺愛している長男に、最近父と同じような心配性ぶりをみつけることがあって、可笑しくて一人で笑ってしまうことがあるのだ。ああ、そういうことなんやなあと、この物語で僕がおじいちゃんから受け取った愛情を感じて、納得してしまった。この年齢で父の娘である自分を思い出すというサプライズももらえて、とても嬉しかった。そして、この物語のような距離感が自分と息子の間に生まれるのだとしたら(生まれるのだかどうだかわからないけれど)、死ぬのもちょっと悪くないとも思う。大人の疲れた心にも効く一冊です。

2013年9月刊行

岩崎書店

12種類の氷 エレン・ブライアン・オベッド文 バーバラ・マクリントック絵 福本友美子訳 ほるぷ出版

もうすぐソチオリンピックがありますね。「がんばれ!日本!」みたいな応援の仕方はあんまり好きじゃないのですが、フィギュアスケート好きとしては、今度の五輪は見逃せないでしょう。テレビで放映される大会は全部見ているので、外国の選手にも好きな方がたくさんいるんですが、一番好きなのは、やっぱり大ちゃんこと高橋大輔選手。彼の最後のオリンピックですから。年末の代表選考はやきもきしました。彼はアスリートで、演技を数値化される競技でぎりぎりの闘いをしているのですが、生まれながらのダンサーで身体が物語を語るんですよね。そこにいつもドキドキしてしまう。その分、失敗も多くてドキドキしますけど(笑)高橋大輔選手と浅田真央選手のスケーティングは上手く言えないんですけど、他の選手と全く違うものを感じます。他の選手はスケートを愛しているんですが、彼らはスケートに愛されてるなあと思うんですよね。氷が彼らに滑ってもらいたがってる。彼らが、氷の上で流れるように滑っているだけで、うっとりする。それを見るのが至福です。二人がヘンなナショナリズムに巻き込まれないで、オリンピックで楽しく、のびのびと滑ってくれたらいいなと思うんですけど。ほんとに応援しているファンは、メダルの色がどうとか言わないんですよね、きっと。オリンピックのときだけやたらに愛国主義になる人たちに振り回されませんように。

前置きが長くなりましたが、これは、そんな氷を愛してやまない小さなスケーターたちの本です。冬を迎えて、初氷が出来ると子どもたちは期待に胸がいっぱいになるのです。それは、スケートができるから!この本には、そんなスケートの楽しみがいっぱいに詰まっています。小川の上をずっとたどっていくスケート。分厚い氷が張った池の上を走るスケート。そして、自分の家の農園にスケートリンクを作って(凄い!)そこで近所の友達とフィギュアスケートやアイスホッケーをする楽しみ。日常の中にこんなにスケートがある喜びが溢れているなんて、なんて幸せなんだろうと思います。空と、風と、森と、溶け合うように滑る楽しさ。私はスケートは屋内のリンクでしかしたことがなくて、しかも下手っぴであまりスピードを出せませんでしたが、スキーは結構経験があります。冷たい風の中で、きらきら光る白い世界を山の景色を見ながら滑り降りていく楽しさ。耳元で風がうなりをあげるほどスピードを出す感覚。もうこの年齢でそんなことをしたら危ないだろう私には、もう体感できませんが、この本の中で思い出せて嬉しくてぞくそくしました。

銀のスピードが出るまですべると、肺と足が、雲と太陽が、風と寒さが、みんないっしょにきょうそうしているみたいになる。

うん、そうそう!楽しいんだよねえ。自分の身体で掴む、確かな弾む喜びが、この本には溢れています。子どもが身体を思い切り使って喜びを感じる幸せの大切さ。それをさりげなく支える大人の心遣い。それがとても美しい絵と文章で綴られています。

児童文学には、スケートがよく登場します。フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』の川をスケートで渡っていくシーンの美しさは格別ですし、『ピートのスケートレース』(ルイーズ・ボーデン 福音館書店)の少年の冒険も忘れられません。メアリー・メイプス ドッジの『銀のスケート』(岩波少年文庫)や 『 楽しいスケート遠足』(ヒルダ・ファン・ストックム 福音館書店)も好きだなあ。こんなにフィギュアスケートが好きなのは日本人だけかも、といつも満杯のテレビ中継を見てて思うのですが、スケートを長く愛してきた国のことを、こんな物語からたどってみるのも、また楽しいと思います。

2013年の心に残った本 

2013年が終わります。自分でもツッコミたくなるくらい、久しぶりの更新ですねえ。実は今年の後半は、ずーっと評論を書いていました。一つは10月締め切りで、もう一つは今日、12月31日締め切り。もう、大掃除も何にもしないままに、やっと書き上げて送ったところです。公募の評論なので、結果がどうなるかはわかりませんが、とにかく書き上げられただけで自分では満足かな(笑)でも、10月に送った方は、おかげさまで選考を通過しまして、来年『日本児童文学』という雑誌に載せて頂く予定です。何月号に載るかはっきりしたら、お知らせします。タイトルは「朽木祥の『八月の光』が照らし出すもの」。機会があれば、読んで頂けると嬉しいです。

私は不器用というか、頭の切り替えが出来ないというか、評論を書いていると、ずーっとそのことで頭がいっぱいになってしまって、他のレビューが書けなくなってしまいます。ほんとに、いろんな作品を並行して書き上げられる作家の皆さんは凄い!もうね、30枚くらいの評論を書くのに、こんなに苦労する自分に笑えます。でも、あれこれ悩んでじたばたしながら書いていると、ふっと自分の思考の蓋がパカッと開いて次に行ける瞬間があって、そこが面白くて苦しくて、面白いという(笑)来年はどうするかわかりませんが、いろんな機会を捕まえて、評論を書いていこうと思っています。ですので、ブログの更新がしばらく無かったら、「あ、今、苦しんでるな」と思ってください(笑)(知らんがな!!)

今年はそんな関係で、評論や社会学の本を読むことが多くて、肝心の児童書や、大好きな翻訳作品を集中して読むことが出来なかったのが心残りです。来年はもっとがっつりと読んで、レビューもたくさん書きたい!うん、これはちゃんと言葉にして言っとくべきですね。言霊、言霊。そんな中でも、心に残った本たちをあげておきます。順不同。

光のうつしえ―廣島 ヒロシマ 広島 朽木祥 講談社

実は、この作品で今日まで評論書いてました。ヒロシマは、とても大切な、私たちが伝え続けていかなければいけないことです。ヒロシマを置き去りにしてきたことが、今、私たちの暮らしとこれからの子どもたちの生きる場所を脅かしている。戦後70年経った今、ヒロシマをどう自分の問題として若い人たちに伝えていくのか。この作品は、その難しさに対する真摯な挑戦であると思います。原発の問題、それから秘密保護法案、きな臭い情勢の中での靖国参拝。非常に危機感を覚えます。この本を、少しでも多くの人に読んでもらいたい。ヒロシマは、他人事ではありません。今、ひしひしとそれを感じます。

嵐にいななく L・S・マシューズ 三辺律子訳 小学館

近未来のような、位相が少しずれた世界のような、どこか不安を感じさせる場所が舞台のこの物語。冒頭の洪水のシーンが忘れられません。ひたひたと押し寄せる黒い水のような不安の中から、主人公の少年が自分の手で掴む信頼という名の黄金がきらめきます。最後まで読んで、あっと驚くどんでん返しの妙も味わってほしい一冊。

マルセロ・イン・ザ・リアルワールド フランシスコ・X・ストーク 千葉茂樹訳 岩波書店

今年のYA翻訳作品の中で、一番好きな作品です。主人公のマルセロがほんとに素敵で、どんどん感情移入してしまう。マルセロの感受性と内面の豊かさに、大切なことを教えられます。何を目指して人生を歩いていくのか。人を愛するということはどういうことなのか。マルセロの眼差しとともに、じっくりゆっくり考えたくなる。文章もとても美しくて何度も読み返したくなる作品でした。

象使いティンの戦争 シンシア・カドハタ 代田亜香子訳 作品社

今年は戦争についての本をたくさん読みました。思うのは、戦争とはある日突然始まるのではなく、いつの間にか一線を越えてしまっているもの、知らないうちに巻き込まれているものなんだということ。その「知らないうちに」の恐ろしさが、この本には描かれています。ジャングルの混沌の中を彷徨うティンと、暁の星のように彼を導く象たちの愛情に満ちた姿。忘れられない物語です。

わたしは倒れて血を流す イェニー・ヤーゲルフェルト ヘレンハルメ美穂訳 岩波書店

岩波のSTAMP BOOKSは面白い。この本はのっけから血だらけだし、主人公の少女のエキセントリックさや性の描き方など、YAとしては結構リスキーな選書です。でも、だからこそ面白い。時代が突きつけてくるテーマから目をそらさず、挑み続けるこの姿勢は、さすがに岩波だと思うのです。身体と心から血を流す少女の痛みと危うさに、もっと身を浸していたくなる。母と娘の根源的なテーマを描いた骨太さも魅力的でした。

スターリンの鼻が落っこちた ユージン・イェルチン 若林千鶴訳 岩波書店

今年は信じられないことが次々と起こった一年でした。オリンピックの誘致で首相が原発事故について、全世界に嘘をついたこと。橋下大阪市長の慰安婦発言。さっきも書きましたが、特別秘密保護法案の強行採決。原発ゼロを目指すと決めたことを翻して、原発をベース電源にするとの方針転換。そして、過敏になっている神経を逆なでするように行われた靖国参拝。この流れに、恐ろしいものを感じてしまうのです。この「スターリンの鼻が落っこちた」の中の一節。

「わたしたちがだれかの考えを、正しかろうが間違っていようが、うのみにし、自分で選択するのをやめることは、遅かれ早かれ政治システム全体を崩壊に導く。国全体、世界をもだ」

この言葉を忘れないように。そして、子どもたちにも伝えていきたいと思います。

花びら姫とねこ魔女 朽木祥作 こみねゆら絵 小学館

この本に登場するたくさんの猫たち。ゆらさんのお書きになる猫さんたちがとても可愛くて愛しくて。しかも、うちの猫二匹もこの中に書いて頂いたんですよね~~(自慢自慢!)この本を何人に見せたことか。―という個人的な事情は別にして、これはとても素敵な本です。あなたにとって「とくべつ」って何ですか?と問いかけてくる物語なのです。他の誰かの「とくべつ」ではありません。自分だけの「とくべつ」です。心通う「とくべつ」を探して、自分だけの「とくべつ」を抱きしめて見失わずにいたい。声高に語られる大きな物語や誰かの思惑に振り回されずに。それが来年の私の目標でもあります。

こんな気まぐれの更新しかないブログにきて下さって、やたらに長いレビューを読んで頂けたこと、心から感謝しております。ありがとうございました。 来年もよろしくお願いいたします。

Rie Shigeuchi

図書館に児童室ができた日 アン・キャロル・ムーアのものがたり ジャン・ピンポロー文・デビー・アトウェル絵 張替惠子訳 徳間書店

今では、児童サービスは図書館の基本中の基本です。でも、図書館に児童サービスが出来たのは、公共図書館という概念が成立し、「子ども」が教育を受ける権利を有するものであると認識されてからのことであり、それは近代史で言えばつい最近のことなのです。誰もが性別や年齢に関係なく、平等に教育を受け、知識を得て自分の意見を持つことができる。それは民主主義の基本であり、図書館はそのために必要不可欠な、国民の「知る権利」を保障するためのもの。でも、その権利は長い間に渡っての、先人たちの地道な努力の上に成り立っているもの。初めて司書の勉強をして図書館の成立史に触れたとき、非常に感動したのを覚えています。この絵本は、世界で初めて、図書館に児童室を作ったアン・キャロル・ムーアの物語です。

アンが子どもの頃は、図書館で子どもが本を借りる、ということさえ出来ませんでした。特に女の子が勉強をする、ということも許されなかった時代です。その中で、アンは自分の力で道を切り開き、他の先駆者たちと協力して、公共図書館における児童サービスの基礎を築いた人なのです。アン・キャロル・ムーアはとても活動的で世話好きのきさくな女性だったようです。日本の児童文学にとても大きな役割を果たされた石井桃子さんが、アメリカに留学したときにアン・キャロル・ムーアに出会ったときのことを「児童文学の旅」(岩波書店1981年刊)に書いてらっしゃいます。(余談ですが、この本は石井さんがサトクリフやファージョンのもとを訪問したときの話も収録されていて、非常におもしろい。外国児童文学がお好きな人はぜひご一読を)アンは日本からきた石井さんをとても大切にして、あちこちに紹介し、自分でもニューヨーク中を案内してまわったとのこと。その頃、アンはアメリカ図書館界の大御所でしたが、いたずらっ子のように瞳をきらきらさせて、石井さんを血の繋がった姪っ子のように可愛がったのでした。その石井さんは、帰国後「かつら文庫」(現在の東京子ども図書館)という私設の文庫を開きました。石井さんがどれだけ日本の子どもたちのために力を尽くされたかは私などが書かなくても非常に有名なことですが、その精神の真ん中に、アメリカでアン・キャロル・ムーアのような女性たちと出会ったことがあったのではないかと思います。この絵本では、アンの人生がわかりやすく描かれていますが、子どもたちにとって「図書館の児童室」というものがはじめからあったものではない、ということを、ぜひこの本を通じて知って欲しいなと思います。

思えば、私自身、子どもの頃に図書館で本を借りたことはほとんどありませんでした。市で唯一の図書館は、子どもの足では行くのが難しい山の上にあり、ある日同学年の子が自転車で勢いよく山を下った際に事故を起こして命を落としてしまったこともありました。苦労して行ったところで、そこにはあまり魅力的な子どもの本も無かったんですよね。だから、今私が働いているような図書館の児童室があったら、幼い頃の私はどんなに嬉しかっただろうかと思います。でも―これは日々の実感なのですが、子どもたちがふらっと自分のために図書館にやってくることは減っているように思うのです。教育熱心な両親に連れられてやってくる子どもたちはいるんですが。これは、これからの児童サービスをどうしていくのかという自分たちの課題なのですが、その一つのヒントが、この本にあると思ったんですよ。こつこつと子どもたちに本の紹介をしたり、児童室での楽しい催しを企画すること。常に書架を魅力的にしておくこと。司書が常に児童室にいて、子どもたちと関わり、彼らと話をすること。基本中の基本ですが、やはりそこなんだよな、と思います。どれだけ情熱を持って子どもと本に関わっていくか、どれだけ魅力的なライブラリアンになれるか、というところなんですよね。

児童室があって、子どもたちが自由に自分の好きな本を借りることができる。それは当たり前のことではありません。日本だって戦後になって、たくさんの努力の上にやっと実現したことです。世界に目を向けてみれば、女の子が学習する権利を唱えて殺されかけたマララさんや、児童労働の悲惨さを訴えて殺されてしまったイクバルのように、宗教や貧困などの理由で子どもたちの権利は簡単に左右されてしまうのです。それが日本の子どもたちと関係のないことだとは、私には思えません、図書館の根幹には平和があり、思想と良心の自由があり、それは憲法と同じく「不断の努力」によってしか維持されない。そのことを、大人も―特に図書館で働く人間は肝に命じなければならないし、子どもたちにもよく知って欲しいと思うのです。この本は、ライブラリアンにとって、大切な一冊だと思います。訳された張替惠子さんの後書きも必読です。

2013年8月刊行
徳間書店

おいでフレック、ぼくのところに エヴァ・イボットソン 三辺律子訳 偕成社

たくさんの物に囲まれて何不自由なく暮らしていても、心が空っぽなハルという少年がいます。彼は犬が欲しいと両親にお願いしますが、贅沢な家が汚れるのが嫌いな母親はそれを許しません。でも、どうしてもと願うハルに、両親は彼にレンタルであることを隠して犬を与えます。ところが、そのフレックという犬は、少年にとってはたった一匹の運命の犬だったのです。しかし、両親は残酷にもだまし討ちのようにして、二人を引き離します。とことん家族に絶望したハルは、自分の手でフレックを取り戻し、彼を理解してくれる祖父母のところに旅することを決意します。この物語は、自分で生き方を決めるために一歩を踏み出す犬と少年のお話です。

子どもって、ハルのように家出したい、と思う気持ちを願望のように持っているものではないかと思うのです。この物語で、ハルの両親、特に母親はとても愚かな面を強調して描かれています。新しもの好きで、お金持ちで、息子にたくさんのモノを与えるけれど、彼が何を望んでいるのかは考えたことがない。それなのに、「こんなにあの子のために色々しているのに」と思ったりする。確かに嫌な人たちなのですが、うーん、親ってこういう愚かなところ、ありますよね。こんなに極端ではないにしろ、自分の価値観が先走って、子どもの心を置き去りにしてしまうことはよくある話です。自分の子育てを振り返っても、あったなあと今更ですが思います。親子であっても―いや、時に親子だからこそ、お互いが違う人間であるということをちゃんと認識して認め合うことは至難の業です。多かれ少なかれそういう親子のしんどさは、誰でも抱えている普遍的な問題でもありますし、また、「自分は親とは違う」と思うことは、思春期の入り口に立つ子どもたちが初めて出会う人生の課題でもあるでしょう。それだけに、この物語に丹念に綴られているハルの絶望と怒り、フレックを愛する気持ちは、子どもの心を捉えて放さないのではないかと思うのです。

ハルはフレックと、おてがるペット社に閉じ込めれられていた4匹の犬たち、そしてピッパという少女と共に、自分の居場所を求めて旅に出ます。セントバーナードのオットー、プードルのフランシーヌ、コリーのハニー、ペキニーズのリー・チーとしっかり者のピッパという個性豊かな彼らが転々としていく旅は、ハルの両親が雇った探偵たちからも追われる、なかなか苦労の多い旅です。でも、ブレーメンの音楽隊のように、みんなで困難を乗り越えていく痛快さがあって、一瞬たりとも目が離せません。印象的なのは、この旅の中で、4匹の犬たちがそれぞれ自分の居場所を見つけていくこと。そして、その居場所は、自分が、誰かを笑顔にするために生きられる場所だということです。何を心の羅針盤として生きていくのか。これは、いつの時代にも難しい課題ではありますが、これからを生きる子どもたちには、私たちの世代とはまた違う大変さがあると思います。グローバル、と言えば聞こえはいいですが、これから企業が国家を超えて流動的に変化していくことが加速してくるでしょう。誰も時代の波の中で生きていかざるを得ないわけで、その中で自分の居場所をどこに見つけ、何を喜びとして生きていくかは、非常に見えにくいものになるだろうと思います。イボットソンが、この物語の中で、愚かさと美しさとして描き分ける人間と犬の姿は、彼女が子どもたちに送る一つの提案であると思います。ハルとフレックを結びつける、自分が誰かの喜びであることの幸せ。その喜びをを心ゆくまで感じることが、自分の人生の扉をあける力になる。ハルは、フレックと生きたいと強く願ったことで、自分と周りを変えたのです。

この物語はイボットソンの遺作だそうです。物語と子どもたちへの愛情がいっぱいに詰まったこの作品は、私をとても幸せにしてくれました。うちには猫は2匹いるけれど、犬はいません。息子たちに犬を飼ってやれば良かったと今更ながらに思います。動物には、幸せにまっすぐに向かおうとする力があります。優れた子どもの物語にも同じ力があって、私はそこに惹かれるんだなと改めて思うことが出来ました。また、この物語の中に出てくる、動物虐待すれすれのおてがるペット社のように、動物の命を軽んじてお金もうけをする人たちは、実際にたくさんいます。無理な繁殖を繰り返して、さんざん子どもを生ませた挙げ句に捨てたり、処分しようとしたり。狭い場所に病気になるのも構わず詰め込んだり。人間ならまさに犯罪そのものなのに、動物たちにはなかなか救いの手がさしのべられません。そして、犬猫を収容するセンターには、常に売れ筋の純血腫たちが持ち込まれます。この物語は動物も心と体温を持ったかけがえのない存在であることを教えてくれる。個性豊かな犬たちの名前と顔が、子どもたちの心に自分の心の友として刻まれること。これもまた、イボットソンの残した宝物ではないかと思います。動物は、特に犬や猫は、人間の一番の友達です。そして、いつも笑い会える友達こそ、人生の宝物ですもんね。

2013年9月

偕成社

花びら姫とねこ魔女 朽木祥作 こみねゆら絵 小学館

もう5年ほど前になるんですが、当時はまだ外に遊びに出していたうちの猫が、数日の間行方不明になったことがあります。いつもなら名前を呼べば帰ってくる子が夜になっても帰らない。さあ、そこから私がどんなにうろたえたか、苦悩の数日間を過ごしたかは、興味のある方は当時の日記をお読み頂くとして-靴下を何足も履き破ってしまうほど愛猫を探し歩きながら、ずっと考えていたことは、「なぜ、ぴいすけじゃなきゃダメなんだろう」ということでした。早朝や夜に猫のいそうな場所を探しながら歩いていると、飼い猫やら野良さんやら、たくさんの猫に出会います。その度に「うちの子じゃない」とがっくりし、狂おしいまでに自分の猫をこの手で抱きたいと思った、あの渇望。猫はこんなにたくさんいるのに、どうして私はあの子でないとダメなんだろうと、よその猫を見るたびに苦しいほどに思ったあの気持ちを、この絵本を読んで久しぶりに胸をつかまれるほど思い出してしまいました。

花びら姫は、五月のばらよりも綺麗なお姫様。自分の美しさをよーく知っているお姫様は、「とくべつ」なものだけを求めて、家来たちに集めさせておりました。ところが、ある日妖精たちのパンケーキをつまみ食いしてしまったせいで、花びら姫は恐ろしい呪いをかけられてしまい、凍える寒さの北の森にある石の館に、ムカデやカエルと住むことになってしまいます。その呪いを解くには、「とくべつ」な猫が必要。そこで、呪いのかかった花びら姫、つまりねこ魔女は、そこら中から猫を探してさらってきますが、手当たり次第に集めたどの猫も、「とくべつ」ではないのです。その彼女に「とくべつ」を教えたのは、誰だったのか。「とくべつ」って何なのか。それが、この絵本のテーマになっています。

花びら姫は、誰も愛したことがなかったんですよね。愛したのは自分だけ。だから「とくべつ」がわからない。彼女が閉じ込められた北の森の館は、本当は誰も愛さなかった彼女の心の中だったのかもしれません。その彼女の凍てついた心を溶かしたのは、どこにでもある、でも、たった一つしかないもの。それは、私が、どうしてもぴいすけを抱きしめたいと思った気持ち。初めて抱き上げたときの柔らかさに感じた愛しさから始まって、毎日交わす眼差しや、寄り添う体温の中に育てているものに違いありません。私は、お散歩してるワンちゃんと飼い主さんを見るのがとっても好きですが、それはお互いを「とくべつ」と思っている気持ちを感じるからなんだと思います。あと、猫を猫可愛がりしている、もしくは猫に下僕のようにお仕えしている(笑)ベタ甘の猫ブログを見るのも、とっても好きなんですよね。猫という生き物は、人間に愛されれば愛されるほど猫らしく、「うふふ。私ってとくべつ」と輝いているように思います。猫が大好きでご自分も猫さんと暮らしておられる朽木さんとこみねさんは、そこがとてもよくわかってらっしゃる。ありふれているけれど、かけがえのないもの。日常の中にごく当たり前にあるけれど、本当はふたつとない大切なもの。この絵本は、そんな自分のそばにある「とくべつ」を教えてくれる。読み終わったあと、思わず自分のそばにいる可愛い子を抱きしめたくなる。自分の愛するものが、きらきらと輝いてみえる。そんな絵本です。

実は、この絵本に描かれている猫さんたちは、みーんな誰かの「とくべつ」なのです。ツイッターで、この絵本のために愛猫の写真を募集があったんです。2月ぐらいだったかな?もちろん、私もちゃんとうちの猫さんふたり、ぴいすけとくうちゃんの写真を送りました。こみねさんは、その全部の猫さんたちを、丁寧に丁寧に、一匹一匹この絵本に書き込んでくださったのです。なんと、全部で80枚以上の原画をお描きになったとか。うちの子たちも、ちゃーんとおります。「うちの子、わかるかなあ」と思っていたのが申し訳ないくらいに、一目見て「あっ、これ、うちの子!」とわかりました。それだけ、ほんとに愛情込めて書いてくださったんだと、もう感涙で、それからどれだけ人に自慢しまくっていることか(笑)自慢用の一冊を用意して、持ち回っています。きっと、私のように自慢しまくっている飼い主さんたちが、日本中にいますね。今、ざっと数えただけでも100匹近くの猫さんがこの絵本におりましたよ。凄い!だから、この絵本にはたくさんの、でも、たった一つしかない「とくべつ」が詰まっています。こみねさんの筆は、その愛情を感じ、朽木さんの描き出す心の物語に感応して、冴え渡っているようです。もう、隅々まで美しい。どの頁を見ても見飽きない。見れば見るほど引き込まれます。朽木さんの繊細な文章とこみねさんの絵の素敵なマッチング。「細部に神が宿る」とはこのことかと思いますね、ほんとに。

私はきっと、一生この絵本をそばにおいて、誰かれ構わず自慢しまくることでしょう。「また、はじまったで、ばあちゃんの自慢話」「何回聞かされたかわからんな、もう耳タコや」「もうしゃあないな、あれがたった一つの自慢なんやから、聞いたれや」と言われることでしょう。もし、将来孫なんかが出来たら、きっと嫌というほど読み聞かせてしまうに違いない。入手してから、枕元に置いて毎日眺めております。大好きな朽木さんのテキストで、大好きなこみねさんの絵の本に、うちの猫たちがいるなんて、これほど幸せなことはありません。この本は、私の「とくべつ」な一冊です。

2013年10月刊行

小学館

 

 

 

光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島  朽木祥 講談社

「美」はいつも心に新しい感動をくれる。美しさは人の心の扉を開いて、そっと奥底に滑り込む。夕焼けが、樹々や海の色が人の心にいつも何かを語りかけるように、「美しい」ということは私たちの心を解き放つのだ。ヒロシマの物語、というと「怖い」「恐ろしい」という拒否反応が特に子どもたちには生まれがちだが、この『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』は、ヒロシマの記憶を残された人たちの心と共に伝えながら、しみじみと美しい。この作品は、児童文学というジャンルにおいて、「ヒロシマを美を以て語る」という難しいことをやってのけたのではないかと、読み終えてまず思ったことだった。卓越した文章力がある朽木さんだから出来たこの物語は、灯籠の光とともに、原爆投下前の廣島、あの日のヒロシマ、そして現在の広島を繋いで確かなメッセージを刻み、読み手の心に色鮮やかに流れ込んでくる。

舞台は、あの日から25年後の広島。犠牲者を悼む色とりどりの灯籠流しのシーンから始まる。12歳の希未は、母が何も書かれていない白い灯籠を流すことに初めて気がつく。「あれは誰の灯籠なんだろう」と思った希未に、一人の老婦人が声をかける。「あなたは、おいくつ?」どうやら、老婦人は誰かの面影を希未に見つけたようなのだ。その老婦人のことが気になっていた夜、希未は仏壇の部屋で声を殺して泣く自分の母を見る。「もはや戦後ではないと言われ始めたころになっても、人びとは変わらず誰かを待ち続け、探していたのである」これは、朽木さんが書かれた「過ぎたれど去らぬ日々」(※1)という文章の一節だが、25年が経っても希未の周りにいる人々は、それぞれ亡くなった人の面影を心に「うつしえ」として刻んだままなのだ。希未は、ひょんなことから自分の通う中学校の美術教師である吉岡先生にも、忘れられない人がいることを知る。そして、その吉岡先生の入院をきっかけに、希未たち美術部は「あのころの廣島とヒロシマ」というテーマで文化祭に向けて作品を作ることを決め、自分たちの身近な人たちのかっての「廣島」と、あの日の記憶 「ヒロシマ」を聞くことにする。そのための打ち合わせのために若い希未や俊が話し合っている言葉の一つに、私ははっとした。

「よう知っとると思うとることでも、ほんまは知らんことが多いよな」
「よう知っとると思うとる人のこともね・・・・・ 」

この夏にNHKが放送した『ヒバクシャからの手紙』という番組を見たのだが、68年経った今でも、自分の娘や息子たちに被爆体験を語れない人たちがたくさんおられる。親しい肉親相手だからこそ、語れない人も多い。この「語れない」というところに、何が込められているのか。その言葉にならぬ思いを、朽木さんはこの作品の中で、丁寧に選び抜かれた言葉で綴られているように思う。この本の献辞は【世界中の「小山ひとみさん」のために】と綴られている。小山ひとみさんは、戦死された息子さんのことを歌った短歌をたくさん新聞に投稿された実在の方で、この物語にも何首か紹介されている。その短歌には、夫も子どもにも先立たれた小山さんの、極北に一人佇むような日々が凝縮されているようだ。先日の講演会で聞いたところによると、朽木さんはこの小山さんの短歌をリアルタイムで読んでおられたらしい。私は母親だから、やはり、息子を失った母の辛さに共鳴してしまう。そのしんしんと伝わってくる思いが、作品中に挿入される一人一人の記憶の物語と深く響き合って、まるで昨日自分の身におこったことのように身に染みた。吉岡先生の、耕造の祖父母の、須藤さんの、そして、希未の母が流す灯籠に託された思い。「知っていると思うとる人」が心の奥深くにしまい込んでいた記憶、顔の見える身近な人たちの見えなかった苦しみに触れることは、希未たち若者の心に新しい目を開いていく。人を成長させるのは、誰かの苦しみや痛みを自分自身のものにする力、「共感共苦」(Compassion)(※2)の力なのだ。お見舞い帰りのバスの中で吉岡先生の気持ちに気がついて大泣きしてしまった希未の涙は、今まで気づかなかった他人の心に深く共感したからこそ生まれてくるものであり、その共感は、この混沌とした世の中でいったい何が真実なのかを見抜く鍵でもあるのだと思う。

そう、この「よう知っとると思うとることでも、ほんまは知らんことが多いよな」という一言には、私たち人間が常に意識して考えていかねばならない深いものが隠されている。 1996年にノーベル賞を受賞したポーランドの詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカは、言う。自分に対して「わたしは知らない」ということが、自分の選び取った仕事に対する不断のインスピレーションを生むものだと。そして、反対に「知っている」と思うことの危険性についてこう述べている。「どんな知識も、自分のなかから新たな疑問を生み出さなければ、すぐに死んだものになり、生命を保つのに好都合な温度を失ってしまいます。最近の、そして現代の歴史を見ればよくわかるように、極端な場合にはそういった知識は社会にとって危険なものにさえなり得るのです。」(※3)私たちはヒロシマを知っていると、記憶していると思っていた。少なくとも、私はそんな風に思い込んでいた。ところが、だ。真の記憶として心に刻まずにいた核の恐ろしさは、いつの間にか「知っている」と思う傲慢さの陰で忘れられて、日本は名だたる原発依存の国になっていた。そのことが、3.11のフクシマに繋がっているのだと私は思う。そんな私たちに、この物語は静かに語りかける。「あなたは知っていますか?」と。真の意味で、「知ろうとしていますか?」と。この、固定概念や思い込みを解き放ち、新しい目で、新鮮な心で物事の本質を見極めようとする、それは物語の力であり、芸術の力なのだ。

しかし、この『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』でも語られているように、美術や音楽、芸術は、国が危険な方に向かおうとするときに一番に弾圧されてしまう。「戦争が始まって真っ先に無用とされた科目は美術や音楽だったって。あと本もたくさん規制されたって」というのは事実だ。なんだか、その萌芽が今、あちこちに芽生えているような気がするのは私だけなんだろうか。(余談だけれど・・。「役にたたない」というお題目のもとに、文学や哲学さえも大学の学部から無くなっていくことが、私には何か恐ろしいことの始まりのように思えてならない。)希未や俊は、絵や彫刻を制作し、自由に「あのころの廣島とヒロシマ」を表現することで新しい心の目を開いていく。そして、ヒロシマを出発点として、その眼差しはもっと広がっていくのである。子どもを、若者を自分たちの都合の良いように使いたがる大人は、まずそういう自由な心の目をふさごうとする。吉岡先生からの手紙の中で述べられている「加害者になるな。犠牲者になるな。そしてなによりも傍観者になるな」という言葉は、心の自由を奪われない未来に向けての、これからを生きる子どもたちへの大切なメッセージだ。そして何より私がいいなと思うのは、この物語の中で、そのメッセージが「自分たちの出来ること」と結びついていることだと思う。大きな暴力や社会的な問題に対するとき、人は自分の小ささと非力を感じて、無力感に襲われてしまう。自分に出来ることなど、何もないと思ってしまいがちだ。私もずっとそう思っていた。しかし、吉岡先生が手紙の中で希未たちに伝えているように、「この世界は小さな物語が集まってできている。それぞれのささやかな日常が、小さいと思える生活が、世界を形作っている」のだ。そこから離れたところに、人の幸福はない。だからこそ、私たちは自分たちの小さな人生の中で何度も大切な記憶を心に刻みつける必要があるのだ。小さいからこそ出来ることがある。心に小さな灯籠流しの光を刻むことが、まことしやかに語られる大きな嘘を見抜く礎になるはずなのだ。希未や俊や耕造が、小さな「自分に出来ること」を精一杯やり遂げたことが、彼らの身近にいた人たちに、どんなに希望を与えたか、この物語の最後に原爆ドームを照らした色とりどりの美しい輝きを、どうか味わって欲しい。

ヒロシマは、過ぎた過去のことではなく、これから世界中どこにでも起こりえることでもあるし、この世界のどこかで、今、起こっていることでもある。ヒロシマを深く記憶することは、過去と現在と未来を繋ぐ視点を持つことではないか。私は最近ようやく、そんな風に考えるようになった。この物語のサブタイトル『廣島 ヒロシマ 広島』が意味するところも、そこにあるように思う。この物語は、これまでヒロシマを知っていたつもりであった私のような大人にも、これからヒロシマを知る子どもにも、非常に大切なことを丁寧に伝えてくれる物語だと思う。原爆についての基本的な知識もきっちりと書かれている。たくさんの人に読んで貰いたいし、『八月の光』(偕成社)の時にも思ったのだが、ぜひ翻訳されて海外の人にも読んで頂きたい。

2013年10月11日発行

講談社

 

(※1)「過ぎたれど去らぬ日々」朽木祥 子どもの本2012年9月号 日本児童図書出版協会

(※2)「「記憶」から去らない姿」朽木祥 子どもと読書 2013年7・8月号 親子読書地域文庫全国連絡会

(※3)「終わりと始まり」ヴィスワヴァ・シンボルスカ 沼野光義訳 未知谷

朽木祥講演会と池袋ジュンク堂でのブックフェア

久しぶりの更新です。何と一ヶ月近く放置してました・・。今日からまたぼちぼちと更新していきます。実はその間、堅い文章を一生懸命書いていたので、自分のブログにどんな感じで書いていいのか軽く戸惑い中(笑)

更新はさぼっておりましたが、その間にも文学オタクはますます昂進しておりまして、この週末は東京のオリンピックセンターで開かれた、親地連(親子読書地域文庫連絡協議会)の全国大会に行ってまいりました。一番のお目当ては朽木祥さんの講演会『物語の力』ですが、夜の交流会も次の日の分科会も、非常に充実した内容で有意義な時間でした。はるばる行って、本当によかった。まず、朽木祥さんの講演会のご報告と感想を・・・。

朽木祥さんの講演会のタイトルは「物語の力」。去年上梓された『八月の光』(偕成社)と、刊行されたばかりの『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』(講談社)を中心に、「ヒロシマをどう伝えるか」というお話でした。その鍵は“Compassion”(共感共苦)だと。この、人の苦しみを他人事にせず、自分の痛みとして記憶する、という営みをいろんな手法で積み重ねてらっしゃる朽木さんのお仕事に、私は深く共感するところがあります。『彼岸花はきつねのかんざし』(学研)はきつねと少女が心通わせるファンタジーの手法で。そして、『八月の光』は精緻なリアリズムの手法で。その「物語の力」で、忘れっぽい私たちが見失いかけている大切なことを問いかけてくださるように思うのです。朽木さんも講演の中でおっしゃっておられましたが、私たちが(少なくとも日本人の大部分が)ヒロシマを忘れてしまっていたことは、そのままフクシマと繋がっているように思うんですよ。だからこそ、今、またヒロシマを深く記憶する必要があるんですよね。でもでも・・・そんな風に思う人間は、少数派なのかと、憲法改正やオリンピック招致の際の原発に対する発言、『はだしのゲン』に対する圧力なんかを見るたびに苦しい思いに駆られてました。でも、朽木さんのお話を聞いて、やっぱりここで、子どもたちにしっかり過去のことを伝えていかなきゃいけないんだと思いました。「声高にではなく、静かな声であきらめず、しぶとく語ること」と朽木さんはおっしゃった。「静かな共感を呼ぶ物語を書きたい」と。

世間を暗い方向に引きずっていこうとするプロパガンダは大声でがなり立てることで、聞き手を思考停止に陥らせます。人は、暴力や破壊に惹かれていく一面を持ち合わせていて、私の中にも、そういう衝動は確かにある。でも、心に静かな声で語りかける愛しい物語の主人公たちが住んでいたら。きっと、そんな衝動に優しい手を当てて引き留めてくれると思うんですよね。朽木さんの物語には、そんな優しさと力があります。新刊の『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』もヒロシマがテーマで、そのお話もたくさんしてくださいました。ネタばれになるので詳しくは書きませんが、「芸術の力」と「失われた声を聞くこと」という二つが重要なモチーフになっているとのこと。「被害者、加害者という次元ではなく、この人類が経験した未曾有の事件を、人類共通の問題として記憶し、伝えたい」と語っておられたことを、しっかり覚えておきたいと思います。

こうして書くと、ひたすら堅い重い講演会かという感じですが、所々でユーモアも交えながら、ぎゅっと中身の詰まった一時間半でした。最後にファンタジーの物語に触れて、「ファンタジーを読むことで心が育ってくる。幸福な約束をちゃんと果たして終われることが児童文学のすばらしいところ。この世の楽しさも味わってもらいたいし、自由な心と深い知性を育てて欲しい」と述べておられたことに、深く頷きました。『光のうつしえ』と『花びら姫とねこ魔女』にもサインをして頂いたし。大満足でした。私ももっと勉強しなくちゃなあと、教養の塊のようなあれこれをお聞きして思ったことでした。

朽木祥さんの新刊『光のうつしえ』(講談社)と『花びら姫とねこ魔女』(小学館)については、また改めて長々と書きます。(笑)

池袋のジュンク堂で、新刊発売に合わせて朽木祥ブックフェアが開催されています。私も行ってきましたが、とっても可愛くコーナーが作ってありました。可愛いミニ冊子もありました。これは数量限定でいつ無くなるかわかりませんが、貰えます。 初日に行けてラッキーだったなあ。10月いっぱい開催の予定だそうです。

親地連のことも書きたかったのに、時間ぎれ。また明日・・・。

by ERI

あたしがおうちに帰る旅 ニコラ・デイビス 代田亜香子訳 小学館

ここ数日の暑さといったら。命の危険を感じるほど暑いですよね。その中で、我が家は築26年のお風呂とリビングの改装工事が今日まで入っておりまして、非常に疲れました。工事というのは、たくさんの人が出入りします。常に自宅開け放し状態。その気疲れと、壁をドリルではつっていく恐ろしい音、古い痛んだコンクリの匂いと想像以上にダメージをくらったわけですが、特にかわいそうだったのが猫たちで、ストレスで便秘になってしまいました。終わった途端に立派なのが出て一安心でしたが。どうも、人も猫も、思ったよりも「家」というものに守られているんだなあと実感した一週間でした。猫たち、今爆睡してます。

この物語は、そんな安心できる「家」を持たない少女のお話です。彼女は「イヌ」と呼ばれて怖いおじさんにこき使われてペットショップで暮らしています。いや、「暮らしている」わけじゃありません。だって、人間扱いされていないんですから。そんなイヌの唯一の友達は、ハナグマのエズミ。そんな彼女のところに、カルロスという一羽の大きなコンゴウインコがやってきます。来たときはボロボロだったカルロスですが、イヌに助けられて店の人気者になります。そしてイヌとエズミを連れておじさんのところから抜け出し、「おうち」を目指すのです。

イヌは店に連れてこられる前の記憶がありません。言葉も一言もしゃべらないまま暮らしています。この母語と記憶を失くしてしまうということは、普通ならあり得ません。しかし、『四つの小さなパン切れ』という本を書いたマグダ・オランデール=ラフォンは、アウシュビッツの強制収容所での体験のせいで、母語であるハンガリー語と幼い頃の記憶を失くしてしまったそうです。そこを読んで、私ははっとイヌもそうなんじゃないかと思ったんです。どうやら彼女は誘拐されてきたらしい。子どもを誘拐したり、人身売買したりして強制労働させる、という非人道的なことが、今、この世界で実際に行われている。作者のニコラ・デイビスさんは、そんな子たちのことを取材してこの本を書いたらしい。イヌは、人間としての尊厳もぬくもりもすべてを踏みにじられて生きている。だから、「言葉」も失っているのです。だからこのイヌとエズミ、カルロスの三人(あえて三人と書きますが)の旅は、自分の居場所を取り戻す旅、そしてイヌにとっては自分の言葉を取り戻す旅です。

こういう社会的な問題をテーマにした児童文学、というのは難しいものだと思います。そのテーマをいかに自分のものとして、感じさせるか。そこが非常に難しい。教科書のように「考えてみましょう」と言われたりするのに、子どもたちは飽き飽きしているだろうし。自分とは関係ない、と思われてしまったらアウトでしょう。その点、この物語は、とっても生き生きと物語が動いていきます。読みだしたら止まらないくらい、三人の冒険の続きが読みたくてたまらなくなるのです。いつも傍にいてくれるエズミと、信じられないくらい頭の良いカルロスの組み合わせがいいんですよねえ。窮地に追い込まれたときのカルロスが放つ言葉が、相手をやっつけてしまうところなんか、もう、ほんとに胸がすっとします。ほんとにカルロスはまるで中世の騎士のようにイヌを守るんですよ。カッコいいんです。惚れちゃいます。

動物、冒険、そして友情。ハラハラドキドキの冒険の後、カルロスは「言葉」のいらない自分の世界に帰っていきます。このシーンの美しさ、切なさは忘れられません。そして、最後にたどりついた場所で、イヌはやっと自分の「言葉」を取り戻します。そのとき、イヌと呼ばれていた女の子が、本当はなんという名前だったかが初めてわかるのです。やっと彼女はひとりの人間に帰ることが出来たのです。ああ、良かった・・と思いながら、そのとき改めて、彼女が抱えていた痛みと、生きていこうとする強さが自分の胸の中に溢れてくるのを感じるのです。

想定も挿絵もとても神経が使われています。そして、代田さんの翻訳もとても読みやすくて言葉が美しいのです。イヌと呼ばれた少女を、まるで抱きしめるようかのような本の作りに感動しました。こういうところからも、子どもたちにさりげなく伝えたいものが感じられます。夏休みにおすすめの一冊。ああ、面白かった、と読むだけでいい。きっと、この少女と、エズミとカルロスと友達になれるから。それが大切なんだと思います。私にとっても、忘れられない一冊になりました。

2013年3月刊行

小学館

 

ゲンタ! 風野潮 ほるぷ出版

嬉しい『ビート・キッズ』シリーズの新刊です。なんと、ビート・キッズのヴォーカルのゲンタが、小学生の見知らぬゲンタと入れ替わってしまう物語。キレのいいテンポで、読後感も爽快。しばし暑さを忘れて読みふけりました。

小学校5年生のゲンタは、林間学校で行ったキャンプ場で高いところから落ちて気を失う。同じころ、キャンプ場の近くの高原でライブをしていたビート・キッズのヴォーカル、ゲンタもステージからジャンプしてそのまま意識を失ってしまう。そして、気がついたときには、二人は入れ替わっていた!というお話です。

大阪弁バリバリで、いらん笑いを取りにいっては滑る25歳の子どものようなゲンタと、少々ひねくれていて、こまっしゃくれた小学生のゲンタ。その二人が入れ替わって、右往左往しながらもとに戻ろうと悪戦苦闘。そのゲンタをサポートする25歳と11歳のサトシ、というなんとも憎い構成になっています。表のゲンタと裏のゲンタ―というと、どっちが表やねん、ということになるんで紛らわしいんですが。この二人、性格は違うんですが、どことなく「今」の自分に行き詰まり感があるんです。25歳のゲンタは、自分の家庭の事情が原因で、ライバルだったバンドに差をつけられてしまったのが面白くない。一方、11歳のゲンタは、母親が離婚するといって家を出ていったのを止められなかった自分が悔しくて仕方ない。もやっとしていた二人の心が入れ替わって別の体に放り込まれたときに、その体で体感することが、ビンビンとハートをゆさぶっていくのがとっても新鮮で楽しいんです。まさに、心のビートが伝わってきます。そして、大阪弁の飛び交うノリの中に、たまらん胸キュンが不意に現れるのに、私のような大阪もんは、特にやられてしまいます。

ツボは、25歳のゲンタのダメダメっぷり(笑)自分の携帯の番号ぐらい覚えときいや、とか。なんで11歳のサトシに全部おまかせやねん、とか。ものすごツッコミました(笑)いやもう、ほんまに「あかんやん」なゲンタなんですが、こういうアホで憎めんキャラを書かせたら、風野さんはほんまに上手いです。でも、その25歳のゲンタの刻むビートと音楽が、11歳のゲンタと彼を「歌う喜び」で繋いでいくんです。11歳のハートのゲンタが、たくさんのオーディエンスの前で25歳の体で歌う。そして、25歳のハートのゲンタが、サトシだけしかいない道端で、11歳の体で歌う。その時に訪れる至福の、無垢な喜びの手触りがまっすぐ胸に落ちてきます。

「歌うことは、喜びなのだ。声を出すことは―言葉を、心を伝えることは、喜びだったんだ。それを相手に伝えることも大事だけど、自分に伝えることはもっと大事だったんだ。」

この生きる喜びが、ビートになって心に伝わってくる。音楽の喜びって、今、ここにいる喜びに直結するんですよね。それを物語で伝えてしまう風野さんの言葉たちが気持ちよくて、ここ数日いろんなことで凹んでいた心に風穴があきました。子どもも大人も、先を見て歩くことばかりです。役に立つ大人にならなきゃいかんとか。どんなスキルを身につけるかで将来が変わってくるとか。そして、いざこの年齢になってみると、先に待っていることって、そんなに好いとは思えないあれこればかり。おいおい、ってそれこそツッコミたくなってしまう。そう思うと、私たちは限りなく「今」を失っているのかもしれないのです。音楽は、そんな私たちを「今」に結びつける営み。その輝かしい瞬間が、この物語には煌めいています。

そして、もうひとつ嬉しかったのは、最後に出てくるライブ会場が、万博のもみじ川広場だったこと。うふふ。地元です。夏のもみじ川というと、FM802のライブかなあ、なんて思うのも楽しい。自分のよーく知ってる場所が出てくると臨場感たっぷりで萌えます。久々にライブ行きたいなあ~と、音楽好きの血が騒いだ一冊でした。

2013年6月刊行

ほるぷ出版

by ERI

 

 

家と庭と犬とねこ 石井桃子 河出書房新社

石井桃子さんの書かれる文章が好きです。時折、いろんなテーマで絵本を探したりすることがあるのですが、そんな時でもふと引き込まれるのは、石井さんのテキストのものが多い。文章が伸びやかで暖かく、しかも凛としているんですよね。『たのしい川べ』や『くまのプーさん』、ブルーナのうさこちゃんのシリーズ(あのうさこちゃんのおしゃまな物言いが大好きで、どれだけ子どもたちに読んできかせたことか!)。『おやすみなさいのほん』・・・石井さんの本に触れずに大人になるのが難しいほど、たくさんの子どもの本に関わってこられた石井さん。戦前、戦後を通して、まさに日本の児童文学の基礎を作ってこられた方の一人でしょう。偉大な、という言葉が相応しい方なのです。でも、この本に溢れているのは、地に足をつけてひたすら自分の足で歩いてこられた女性のひたむきさです。迷いも苦しみもありながら、誠実に力いっぱい生きてこられた石井さんの息吹が、このエッセイたちから感じられるようで、私はそこに心打たれてしまいました。

実は、この本は二度読みました。石井さんの膨大なお仕事量や、かつら文庫での活動は知っていたのですが、宮城で一時期農業をしてらしたことは知らなかった。このエッセイを読んで、少々意外に思った私は、買い込んでそのままになっていた「新潮(2013年1・2月号)」の『石井桃子と戦争』を一気に読みました。これは、尾崎真理子さんという方が、晩年の石井桃子さんご本人から聞いたことと資料を突き合わせて、戦前から戦時中、戦後すぐにかけての石井桃子さんのことを詳細に書かれたものです。これを読んで、石井さんがどれだけ日本の児童文学の中心におられたのかを知って、改めて圧倒されました。この論文は、何しろ戦争というものが大きく児童文学にのしかかっていた時代のことでもあり、これから単行本として詳しい資料が付随されて検証されていく性質のものだと思います。でも、犬養家との縁や、石井さんが関わった作家や学者さんたちの名前を見ただけでも、まさに歩く近代文学史そのもの。戦前から、今につながる児童文学の礎を築いてこられた方なんだと。戦前に東京にあったブルジョア階級の若者たちの集まりなどにも参加して、びっくりするほど多彩なお仕事と人間関係に、気おされて頭がくらくらする想いでした。

でも、この『家と庭と犬とねこ』の石井桃子さんは、真黒になって労働し、何年も自分の作ったお洋服を着て、旅に出ても残してきた猫のことがひたすら気になったりする、とても慎ましやかな方なんです。「新潮」には、私が疑問に思った、なぜ石井さんが宮城で農業を始められたのかということについての、野崎さんなりの推測が書かれていました。それは戦時中に石井さんが関わった子ども向けの戦争推進作品との関連から、石井さんの贖罪の気持ちがあっての行動だったのではないかという推論でした。私にはその真偽はわかりません。でも、とにかく、石井さんがどのような気持ちで戦争の間を過ごされ、終戦を迎えられたのかを想い、暗然たる気持ちになったことは確かです。そんなことを考えつつ、思いつつ、もう一度私はこの本に帰ってきて、一からこの本を読みなおしました。そして改めて思ったことは、石井桃子さんという方の心の波長に、私はとても惹かれるんだという、誠に単純な一点でした。どんなに偉い方でも、物語やエッセイを通じて心の友達になれる、その幸せったらありません。集団就職で出てきた若い人たちに何度も会いにいく石井さん。ひなまつりのお道具を大切に大切にしまっておく石井さん。縁があってやってきた傷を負った猫を、最初はこわごわながら、そのうち親友のように大切に介抱した石井さん。このエッセイにあふれる、ひとりの人間としての石井さんが、私はとても好きなんです。静かに自分を深く見つめながら生きてらっしゃる、いい意味での不器用さと一徹さに、心が寄り添います。

「・・・目のまえにたくさんあるものは、人間はだいじにしなくなりがちだ。そこで、このごろは、本もなるで消耗品のようなありさまになってしまった」

「人間には、まだわからない科学的な法則―たとえば、体質とか、気質とかで、ぴったり理解しあえる人間とか、物の考えかた、感じかたがあるような気がする。・・・この自分の波長を、ほかの人のなかに見出すことが、人生の幸福の一つなんではないかしらと、私はよく考える。」

「人生をゆっくり歩けば、ひとりや二人は、きっとこんなにわかりあえる友だちや作家にぶつかるのではないかと思う」

共感すること。出会う人や、本との一期一会を大切に思うこと。石井さんの言葉のひとつひとつに、ああ、その通りだとしみじみ思う。そして、そんな風に出会いを大切にするのは、石井さんがいつも「ひとりでいること」をとても大切にしてらしたことと深い関わりがあるように思います。誰にも流されずに、ただ自分で在り続けること。日本の児童文学の中心にいて、どんなに華やかなお仕事をされても。どんなにたくさんの人たちに囲まれても。時代や風潮に流されず、ずっと「石井桃子」であり続けた石井さんのスタンスが、たくさんの、いつまでも輝き続ける作品を生み出された根本にあるのではないか。もしかしたら、そこには戦争を体験されたことも関わりがあるのかもしれない―とも思ったりします。物語という、たったひとりの心に寄り添うものは、戦争という大義名分の塊とは対極にあります。時代という大きな流れの中にあっても、たったひとりの自分の足で立ち続けること。それだけが、雪崩を打って間違った方向に進んでいこうとする暴力を押しとどめることが出来る。例えば、子どもの頃からの友達であるプーさんや、うさこちゃんがいる国と、戦争をしたいと思う人はいないでしょう。「ひとりの力」を静かに育む物語の力を、石井さんは強く信じてらしたのではないか。このエッセイを読んで、改めてそう思ったことでした。次は、『幻の朱い実』を読もう。そう思っています。

2013年5月刊行

河出書房新社