ヒロシマを伝えるということ 朽木祥さんの作品に寄せて

原爆忌に朽木祥さんの『彼岸花はきつねのかんざし』(学研、2008年刊)『八月の光』(偕成社、2012年刊)『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』(講談社、2013年刊)を読み返していました。

(以前書いたレビューはこちら)→『彼岸花はきつねのかんざし』『八月の光』『光のうつしえ

原爆をテーマにした作品はたくさんありますが、朽木さんのようにヒロシマをライフワークにして創作されている方は少ないです。今、原爆や戦争のことを若者に伝えることは、なかなか難しいものがあります。NHKの番組で放送されたことですが、長崎では原爆の語り部の方に「死にぞこない」と中学生が暴言を浴びせたとか。戦争は、今の若者たちの暮らしから遠すぎて、「ふーん、そんなことあったんだ」くらいの感情しか動かないのではないかと思います。いや、実を言うと、私自身もそうでした。それどころか、社会的なことに問題意識を持つこと自体、何やらタブー感さえ持っていました。

日本の社会は、同調意識が強いんです。当たらずさわらず、「皆と一緒」にしておくのが、一番都合がいい。空気を読むことに長けていた私も、若さゆえの頑なさと保身で、そんな価値観にすっかり縛られていたように思います。でも、子どもを生んで、子育てにもみくちゃにされ、すっかり裸になった心に、幼い頃に触れた児童文学が再び色鮮やかに染みこんできた。戦争や核のことを深く考えるようになったのも、実を言うと朽木さんの作品に触れたことがきっかけです。だから、今の若者たちだって、例え教えられたその時にはピンとこなくても、ふとしたことがきっかけで、もう一度自分から知りたくなる時というのは、必ずやってくると思うのです。心の中に、そのきっかけを作っておくためにも、子どものうちに素晴らしい作品に出会っていて欲しい。今、核は世界的に大きな、避けて通れない、しかも自分たちに必ず降りかかってくる問題です。福島の原発事故では、全ての炉がメルトダウンし、3号機ではほぼ100%の燃料が溶け落ちているとのこと。廃炉までの行程を考えると気が遠くなります。これほどの規模の大事故があったにも関わらず、政府は原発を手放そうとはしません。それは、何故なのか。そこに住む人々の命を犠牲にして、一体何を守ろうとしているのか。秘密保護法案を可決させ、憲法を恣意的に解釈することを自分たち閣僚だけで決め、近隣諸国との対決姿勢をあらわにする今の政治のあり方に、私は強い不安を覚えています。広島と長崎から始まった核の時代は、そのままフクシマに繋がっています。「今」しか見えない眼では、それを見通すことは難しい。連作短編の『八月の光』は、卓越した文章力で「あの日」をくっきりと立ち上がらせ、これからの未来をどう生きるのかを問いかける意欲作です。そして『光のうつしえ』は、記憶を未来に繋いでいくことが語られます。

「加害者になるな。犠牲者になるな。そしてなによりも傍観者になるな」

『光のうつしえ』の中で、婚約者を原爆でなくしてしまった先生が、子どもたちに送った手紙の中の一節です。この言葉の中で一番大切なのは「傍観者になるな」ということ。戦争は常に一人の人間を加害者にも犠牲者にもするのです。それは、今、パレスチナで続く戦闘を見てもわかるように、国家に軸を置いた二元論という単純な腑分けでは語りきれるものではありません。『八月の光』の『水の緘黙』の主人公の青年は、「あの日」から深い深い罪悪感にさいなまれて彷徨い続けます。それは、目の前で燃える少女を助けられなかったから。生き残った人たちは、皆、多かれ少なかれ、自らも傷つきながら「生き残ってしまった」という苦しみに苛まれるのです。ハンナ・アーレントが指摘したように、ホロコーストが行われていたとき、ユダヤ人の指導者たちの中にもナチスに協力した人がいた。もしくは、『夜と霧』でフランクルが語ったように、看守の中にも何とかしてユダヤ人に親切にしようと努めた人もいたのです。私たちは否応なく時代の中で生きている。その中で何を選んでいくのか、どのように生きるのかを自らに常に問いかけなければならないのです。『象使いティンの戦争』(シンシア・カドハタ)では、アメリカ兵をトラッキング(敵の足跡をたどること)して案内した村人の親切が虐殺に繋がり、村人たちは戦争へと踏み出していきます。気がつかないうちに、村人たちは戦争への一線を越えていたのです。そうならないように、一人の人間として考え抜くこと。それが、「傍観者になるな」という言葉の中には含まれているのではないかと思うのです。個々の思考停止の果てに戦争があるのだとすれば、常に私たちの中に戦争の可能性は眠っているのです。『光のうつしえ』は、過去を踏まえた上で、国や民族の枠を超えて、一人の人間としてどう生きるかという真摯な問いかけを投げかける作品だと思うのです。

広島は、長崎は、世界で唯一直接的な核攻撃を受けた場所です。そこで何があったのか。それは、徹底的に語られ、検証され、人類への責任として世界中に発信するべきことです。世界中に核は溢れていて、フクシマの事故もチェルノブイリの事故も人為的なミスから起こっていることを考えれば、人間のすることに絶対はあり得ない。唯一の被爆地に生まれた朽木さんは、被曝を風化させないという責任を、人類に対して、これからを生きる世代に対して背負い続けて、物語を書いていこうとされているのではと思います。その物語の力を、どうかこの夏休みに、子どもたちと一緒に感じて頂きたいと心から思います。

 

槍ヶ岳山頂 川端誠 BL出版

槍ヶ岳。もう、名前からしてかっこいい。先日書いた『八月の六日間』の主人公のように、「槍を責めます」と、言ってみたい。この表紙でスナップショット風にこちらを向いている少年の顔も、とても誇らしげだ。この絵本は正方形に近く、かなり大型。見開きでたっぷり山のダイナミックさが楽しめる。10歳の少年がお父さんと槍ヶ岳縦走に挑む、濃い二泊三日が描かれているのだが、どーんとした山の存在感と迫力がとても素晴らしい。何しろ槍ヶ岳だから、10歳の少年にはなかなかキツい行程なのだが、キツいからこそ身体いっぱいで山を感じる少年と一緒に、心の中の余計なものがすうっとそぎ落とされる。深呼吸したくなる。見開きには、山荘の記念スタンプが旅の行程と一緒に押されていて、それも心憎いのだ。

山では、とにかく愚直に歩くしかない。この絵本の中でも、雨の中を「もうだめだ」と何度も思いながら登り続ける場面があるが、この愚直にやるしかない、というシチュエーションは、結構楽しいものなんだと思う。しんどいけど、楽しい。しんどいから、楽しい。山頂に立って自分の歩いてきた道をたどる少年の胸の内に溢れているものを、宝物のように愛しく思った。夏休みにこんな旅の出来る父と息子が、うらやましくて仕方ない。山と、自分の後ろをずっと歩いてくれるお父さんに見守られている少年は、とても幸せだと思う。風景も清々しくて、今この季節に読むのにぴったりだ。恐ろしいほどの酷暑を一瞬忘れさせてくれる一冊。

わたしたちの島で アストリッド・リンドグレーン 尾崎義訳 岩波書店

本を読む楽しみの一つは、自分とは違ういろいろな価値観に出会えることだ。頭と心の風通しが良くなる。でも、もっと楽しいのは、まるで旧友と出会ったかのように、共感できる一冊に出会うこと。毛細血管に酸素がたっぷり供給されるように、隅々まで美しいと思える物語に出会えることは、かけがえのない幸せだ。岩波が少年文庫で復刊してくれたことが、とても嬉しい。
北欧の輝く夏。20人ほどが住むバルト海の小さな島、ウミガラス島に一組の家族が夏を過ごしにやってくる。詩人で子どもっぽいパパのメルケル、家族の母親代わりの長女マーリン、元気いっぱいの少年のユーハンとニクラス。そして、まだ幼い、大の動物好きのペッレ。この物語は、メルケルの個性豊かな子どもたちと、隣の家に住むチョルベンという女の子を中心に島の暮らしを描いた物語だ。まず舞台になる島の風景が素晴らしい。野バラと白サンザシが咲き誇る海岸と、そこに生えているかのような古いスニッケル荘。桟橋に朝日が昇り、夕陽が満ち、リンゴの大きな木があって・・・。こうして書いているだけでうっとりするような島は、まるで子どもの楽園だ。楽しい夏休みを描いた作品は、児童文学に数多くあるのだけれど、リンドグレーンの描く楽園は、精神性も備えた厚みを備えていて、大人も子どもも、彼女の世界に深く分け入っていくことが出来る。そこが、とても魅力なのだ。

まず、先ほど触れた素晴らしい島の自然に、子どもたちの日常が深く溶け込んでいること。
スニッケル荘の隣に住むテディとフレディという姉妹は、お母さんに「おまえたち、エラが生えてきてもいいの?」と言われるくらいの海の子で、ユーハンとクラウスと加えた四人は、冒険の夏を送っている。秘密の隠れ家、ボート遊び、釣り、イカダ作り。ギャングエイジの彼らは、神出鬼没なのであまり物語の中心にはいない。しかし、彼らがいつも黄金の夏を送っていることは、物語のそこかしこにきらめいていて、それこそ太陽のようにこの物語を照らしている。物語は、その妹のチョルベンと、メルケルの末っ子・ペッレを中心に中心に展開する。いつも大きなセントバーナードの「水夫さん」を従えて島中を歩くチョルベンは、生まれついての大物だ。「永遠に変わらない子どもの落ちつき、あたたかみ、かがやき」を持つチョルベンは、この島の王のように楽しく島中に君臨している。一方、ペッレは子どもの危うい感受性がいっぱいに詰まった子どもだ。ペッレは、いつも「どこかの人や、どこかのネコや、どこかの犬が」十分に幸せでないと心配しているような子で、すべてのことを不思議の連続だと思い、動物に限りない愛情を持っている。

この二人が動物をめぐる大騒動をいろいろと引き起こすのが読みどころなのだが、私が凄いなと思ったのはリンドグレーンが、この輝かしい物語の一番奥に、「死」というものをきちんと描いていることだ。まず、この家族には母親がいない。ペッレの出産のときに亡くなってしまった母のことを、この家族は誰も言葉にしない。それは、母の死が、この家族にとってまだ過去にはなっていないことを意味している。子どもたちにとって、そして、そそっかしくて夢見がちで、子どもたちよりも子どもっぽい父親のメルケルにとって、妻がどんな存在だったか。それは、語られないからこそ、この物語の奥から立ち上ってくる。彼らは実は、生々しい大きな不在を抱えてこの島にやってきたのだ。だからこそ、この島の美しさは彼らの心に染み渡り、幸せな記憶が刻まれた古い家は、彼らに安らぎを与える。ペッレの存在不安と思慮深さは、自分の命と引き替えに母がいなくなってしまったことと無関係ではないだろう。島は、ペッレにまた新しい命を与え、奪うことを繰り返す。彼は、その中で、幼いながらも真剣に考え抜いて、自分なりの最善を尽くそうとする。私はそこに、リンドグレーンの、幼い者への限りない愛情を感じるのだ。幼い心は、大人が思う以上に「死」について敏感だ。ペッレの感受性は、決して特別なものではなく、きっと全ての子どもたちの心の中に棲んでいる。リンドグレーンは、その奥深くに眠る不安と喜びに、魂と言い換えてもいいかもしれない深い場所に語りかける術を持っている。この物語は、実は、家族の再生の物語なのだ。だからこそ、母親代わりのマーリンは、この島で将来を共に生きる恋人を見つけることが出来るのだと思う。

私たちは自然の不条理と共に生きている。命は与えられ、美しく輝いて、必ず奪われる。まるで守護神のようにチョルベンの横にいる水夫さんだって、その危険から逃れることができない。(この水夫さんの危機は、本当にはらはらした)でも、私たちは人間だから、心を持っているから、奪われるものを奪われるままに失うことはないのだということ。生きることが、こんなにも光に満ちて輝いているということ、まさに「この世は生きるに値する」ということを、この物語は教えてくれる。夏の日に何度も何度も読み返すのに相応しい一冊だ。この作品を原作にした映画が、この夏に日本で公開されるらしい。絶対に見に行こう!

戦場のオレンジ エリザベス・レアード 石谷尚子訳 評論社

内線が激しくなったベイルートの町を、ひとりの少女が駆け抜けようとします。自分のいる場所から、闘いの激しい中心地を抜け、相手側に飛び込むという命をかけた旅。10歳の女の子が、町を分断するグリーンラインを命がけで超えて見たものは何なのか。少女が感じた「戦争」が、息詰まるような臨場感で迫ってくる作品です。

でも、主人公の少女アイーシャは、例えばナウシカのように特別に強い女の子でも何でもありません。彼女は、出稼ぎにいった父親が帰らぬうちに内戦の爆撃で母が死に、祖母と兄弟と、命からがら避難先で共同生活を送っています。弟の面倒も見ているけれど、10歳の女の子らしく、自分のことだけでいっぱいいっぱいな毎日。用事を言いつけられてふくれたりするアイーシャを、作者はとても身近な存在として描いています。中東、アラブ諸国に生きる人々に対して、私も含めて日本人は遠い距離感で感じていることが多いのではないでしょうか。イスラム、テロ、戦争―マスコミで伝えられるそんなイメージばかりが先行すると、そこに生きる人たちの顔が見えなくなってしまう。でも、そこには私たちと変わらぬ人間の暮らしがあり、家族が、子どもたちがいるのです。物語は、ひとりの人間の心に飛び込むことで、そんな先入観の壁を超えることができる。この物語も、そうです。あなたと、私と、どこも変わらぬ普通の少女が、なぜ危険地帯に行かねばならなかったのか。唯一自分たちの暮らしを支えてくれているおばあちゃんの具合が急に悪くなったのです。彼女に残された道は、たった一つ。戦闘地帯のグリーンラインを超えて、おばあちゃんの持病の薬を貰いにいくことだけなのです。

アイーシャを突き動かしているのは、「不安」です。戦争のさなか、もし母さんだけではなく、おばあちゃんまでもが死んで、自分たちだけ取り残されてしまったら。当たり前にいてくれると思う人がいなくなる、その恐怖は、アイーシャが身近な存在であるからこそ、余計に読み手の心に食い入ります。だからこそ、彼女が必死の思いで飛び込むグリーンラインの緊張感が、ダイレクトに伝わってくるのです。戦争という有無を言わさぬ暴力の気配が充満する中を走る恐ろしさ。でも、私が何より怖かったのは、そのグリーンラインを超えた一歩先の向こうには、またごく普通の人々の暮らしがあることでした。戦闘と日常が、こんなにも背中合わせだということ。これは、日本という島国から出たことのない私にとっては、やはり虚を突かれることなのです。内線は、一つの国を二分します。目指すお医者さんの家がわからなくて泣いているアイーシャを、ひとりの少年が助けてくれ、オレンジをくれる。その美味しさは、誰が食べても変わらないのに、なぜか人は敵と味方に分かれて殺し合う。戦争に大人の事情は、嫌と言うほどあるでしょう。青臭い物言いをするなと言われそうですが、この根本的な問いをまっすぐ投げかけられるのが、児童書の素晴らしいところだと、私は思っています。戦闘が始まった市場の中を、少年の店のオレンジが転がっていくシーンが忘れられません。殺戮の中で無防備な人間の命のようでもあり、踏みにじられる暖かい心の象徴のようでもあります。

アイーシャは子どもだから(いや、大人もそうかもしれないけれど)敵味方を単純に信じています。敵は悪い人で、味方はいい人。でも、「とってもいい兵隊さん」は、帰ってきたアイーシャに、敵の兵隊と同じ眼をして銃を突きつけます。そして、敵側にいるライラ先生は、アイーシャにおばあちゃんを助けるお薬をくれたし、アブー・バシールは、危険を冒して彼女を助けてくれた。アイーシャは敵も味方も超えた、何人かの善意で危険地帯を行って、帰ってくることができたのです。では、なぜ、その人間が殺し合うのか。その不条理が、アイーシャの眼差しの中から鮮やかに浮かび上がります。戦争がテーマですが、スリリングな展開にのめり込んでいるうちに、アイーシャの気持ちに、素直に寄り添っていくことが出来る。読後、子どもたちの心の中には、アイーシャが助かって良かったと思う気持ちと共に、たくさんのやり切れなさが残るでしょう。そのやり切れなさを、いつまでも覚えていて欲しい。「大人になっても、人をにくんじゃだめよ」というライラ先生の言葉を、アイーシャが敵側の少年から貰って食べた、オレンジの暖かい味と一緒に覚えていて欲しいと思います。そして、私のようにまっすぐな問いかけを忘れてしまいそうな大人は、せっせと児童書を読むことにしたいとおもいます。

2014年4月刊行
評論社

ネルソン・マンデラ カディール・ネルソン作・絵 さくまゆみこ訳 鈴木出版

先日紹介した『やくそく』と同じく、さくまゆみこさんが翻訳されています。アパルトヘイトという人種差別政策と闘い、南アフリカの大統領になったネルソン・マンデラ氏の大型伝記絵本です。この表紙のインパクトの強さといったら!留置場での長い年月を耐え抜き、世界中の人々の尊敬を集めた、素晴らしい「人間の顔」です。この顔を見つめていると、彼が持ち続けた人としての貴さが伝わってきます。

差別と闘う、というのはこれはもう並大抵のことではないです。今、『九月、東京の路上で』(加藤直樹著 ころから)という本を読んでいます。関東大震災のときに何千人もの朝鮮人の人たちが殺されてしまったときの記録なのですが、これを読むと差別心というのは人の心の中に巣くう弱さや恐怖心と分かちがたく結びついているということがわかります。だからこそ、それが発露されるときは暴力性も伴うし、有無を言わせない理不尽さで人の尊厳を踏みにじる。人を虐げるということは、加害者と被害者の心に、同時に恐怖という闇を育てるのです。しかし、さくまゆみこさんが後書きで述べられているように、マンデラ氏は、自分が受けた差別という恐怖に対して、恨みではなく融和で対峙していったのです。ノーベル平和賞をはじめとしたマンデラ氏への評価は、その越えがたいところを越えた彼の大きさへの敬意であり、越えがたさの中で悪戦苦闘を続ける泥沼の中に咲く一筋の希望であるのかもしれません。

この本には、南アフリカという国が置かれていた状況や、その中でマンデラ氏がどのように生き抜き、人々の希望となっていったのかが、簡潔にわかりやすく描かれています。そして何より、マンデラ氏が、英雄ではなく、一人の人間として誠実に生き抜いたことが書かれているのです。彼は誰にも成し遂げられなかったことをしたのではなく、自分の為すべきことを常に見据えて、苦しみに負けずに果たしきった。その身近さと非凡さが同時に伝わってくるのが素晴らしいと思うのです。関東大震災のときに吹き荒れたジェノサイドの嵐の中で、朝鮮人の人たちを守り切った人たちは、常日頃から、ごく普通に彼らと人間同士のつきあいをした人たちでした。人間を、たった一人の顔と名前のある存在として見るのではなく、「○○人」という顔の見えない記号でひとくくりにしてしまうことは、非常に危険なことなのです。私は、物語の力こそが、その危険を救うものであると思っています。物語は、常に「たった一人」の心に寄り添うものだから。すべての壁を乗り越えて心を繋ぐ力があると信じているのです。

南アフリカは日本から遠く、子どもたちにとってもあまり馴染みのない国かもしれません。しかし、アパルトヘイトにも繋がる、人種や民族への差別の問題は、間違いなく今の日本にも重くわだかまっています。だからこそ、ネルソン・マンデラ氏の、一人の人間としての生き方、この力強い顔を持つ「個」としての彼の存在がきちんと描かれている絵本を、たくさんの子どもたちに読んで貰いたい。そう思います。

2014年2月刊行

鈴木出版

 

やくそく ニコラ・デイビス文 ローラ・カーリン絵 さくまゆみこ訳 BL出版

スリやかっぱらいをして生きていた女の子が、ある日おばあさんからカバンをひったくろうとする。その中には、緑のどんぐりがたくさん入っていた。おばあさんの「おまえさんにやるよ。これを植えるってやくそくするんならね」という言葉どおり、女の子は次々にどんぐりを植えていく。すると、すさみきった街に緑が生まれ、人々の心が色づいて鳥たちが帰ってくるのだ。女の子は、どんどん違う街にどんぐりを植えていく・・・。

とてもシンプルなテキストなのだが、深みのある素晴らしい絵と溶け合って、読み手に新鮮な言葉として届くように考え抜かれている。どんぐりは、どんぐりなのかもしれないし、目に見えない大切なものの寓意ともとれる。女の子が初めてどんぐりの詰まったカバンを手に入れて眠った夜の枕辺の絵が素晴らしいのだ。色とりどりの小鳥たちが集まって、慈しむかのように孤独な女の子を見つめている。緑の葉っぱや、小鳥の声。小さな小さな命を慈しむことは、実は慈しまれることなのだとこの絵を見て思う。

うちにはけっこう大きな庭がある。まあ、大きいといってもたかが知れているのだが、長年暮らしているうちに、様々な草花が植わっている。しかし、ここ10年くらい、私はこの庭をほったらかしにしてきた。手入れをしなくちゃ、と思えば思うほど身体は動かず、月桂樹にはカイガラムシが付き、君子蘭は鉢から溢れそうになり、枯れるものは枯れて、生命力の強い花だけがやたらに咲き誇る、荒れ果てた野原のような場所になっていた。ところが、ふと出来心で買った、たった一株のパンジーが、この春とても美しく咲いてくれて、彼女と毎日話をするうちに、私は何となくまた庭に出る時間が多くなった。月桂樹を剪定して、君子蘭の絡んだ根を分けて植え替えもした。雑草を丁寧に抜いていると、それこそ10年以上前に撒いたカモミールの芽が出ていることに気がついた。手を入れて話しかけると、花や木は気持ち良さげに風に吹かれて、優しい顔を見せる。

「人の気持ちが変わることを、わたしはもう知っていたから」

自分のカバンを次の命に受け渡していくとき、女の子はこうつぶやく。壊れて失ったと思うものも、実は形を変えて自分の中に緑の芽のように生きているのかもしれない。こんな年齢でもそう思えるときが巡ってくるのだから、伸びようとする力に溢れている子どもたちなら尚更だ。小さな緑は、大きな樹となって、今度はたくさんの人の心を包んでいく。その力が、小さなひとりの人間にもちゃんと備わっていることが、素直に伝わってくる。何度でもやり直そうとしていいんだよ、何度でも手を繋ごうとしていいんだよ、と静かに語りかけるとても素敵な絵本だと思う。さくまゆみこさんは、こういう高学年から中学生向けの、力のある絵本をたくさん訳されていて、選書のセンスが素晴らしい。絵にとても力があるので、多人数を対象にした高学年の読み聞かせにも良いのでは。

2014年2月刊行

BL出版

あひるの手紙 朽木祥 ささめやゆき絵 佼成出版社

言葉を初めて手に入れたときの喜びを覚えていると言うと、「ほんまかいな」と言われそうですが。自分としては結構はっきりした記憶です。「あいうえお」の赤い磁石を買って貰い、それを絵本の字と同じ順番に並べてみたとき、「あ」の字と音が、ふと一致したんですよね。一つわかれば後は芋づる式に疑問氷解し、それまで見知らぬ暗号だった文字が、私に語りかけてくるように思えて、興奮しました。多分三才くらいだった・・・ということは、ウン十年昔の記憶ですか(笑)私にとって、文字を手に入れた日は、新しい扉が開いた瞬間だったのでしょう。 そんな古い記憶が蘇ってくるほど、この物語には磨き抜かれた言葉の喜びがきらきらしています。

ある日、一年生のクラスに一通の手紙が届きます。そこには覚えたての元気な字でただ一言「あひる」の文字。それは、「ゆっくり、ゆったり、大きくなって」ひらがなを書けるようになった24歳のけんいちさんからのお便りだったのです。そこから、子どもたちとけんいちさんの、お手紙での素敵な言葉のキャッチボールが始まります。「あひる」「るびい」「いるか」・・・交わし合うたった一つの言葉に、たくさんの笑顔が重なっていきます。手紙を送るときの、「喜んでくれるかな?」というドキドキ。お返事を待つときの「早く来ないかな~?」と思うときめき。届いたお手紙を開けて、紙をそっと開くまでの待ち遠しさ。そんな時間も全部こもった手紙って、ほんとにいい。「あひる」という言葉と一緒に、一年生の皆と、ゆっくり大きくなった、けんいちさんが、にこにこと行進していくような。お手紙に書いた言葉たちが、皆で歌っているような楽しい時間が、見事に一冊の本になっています。

朽木さんの物語には、よく手紙が登場します。『かはたれ』(福音館書店、2005年)の、麻のお父さんからの手紙。『風の靴』(講談社、2009年)の、ヨットマンのおじいちゃんからの瓶に入った手紙。『オン・ザ・ライン』(小学館、2011年)では、何枚もの絵葉書が、主人公の侃をめぐる人々の心を行き交います。作品の中で、手紙たちはゆっくりと相手に届く時を待ち、主人公たちの心をほぐしていくのです。思うに、手紙は心を交わすのにちょうどいい「時間」を生むのだと思います。何もかも、早く、早くとせかされてしまいがちな子どもたち。そのスピードはますます上がってめまぐるしいほど。でも、ゆっくりでなければ育たないものがあるのです。けんいちさんの書いた「あひる」の文字は、「にぎやかに、わらっているみたいな三つの文字」。ゆっくり、ゆっくりたどりついた三つの文字への時間の中に、どれだけの愛情と慈しみがこめられていることか。だからこそ育った素直な喜びが、この「あひる」という言葉にはじけているように思うのです。そのけんいちさんの言葉を、まっすぐに受け止めて返していく子どもたちの心には、余計な壁も何もない。心地良いリズムを刻む楽しさと共に、何の押しつけもなく、お互いの尊厳を大切にするメッセージが心にするりと染みこんでくる。言葉は不完全な入れ物だから、そこに何を込めるかで宝物にもなれば、相手を切り裂く刃にもなります。子どもたちには、相手と自分を大切にする言葉を育てて欲しいと切に思います。幼年の物語という難しいジャンルで(これは、ほんとに難しいんですよ!)こんなに自然にメッセージと楽しさを両立させた作品が生まれたというのは、ほんとに嬉しいことです。学校という社会の始まりの中に飛び込んでいく子どもたちへのプレゼントにも相応しい一冊だと思います。ささめやゆきさんの暖かみのある挿絵も、この物語にぴったり。表紙の赤いポストがいい!あのずんぐりした形。ポストは、やっぱりこれでなくちゃね。

2014年4月刊行

佼成出版社

 

ミシンのうた こみねゆら 講談社

こみねさんの描く世界は、どこかしら、私たちがどこかに置き忘れている世界と呼応していると思う。それは、常に美の世界に耳を澄ませ、心を尽くしている人だけが捉えることのできる、一抹の水脈のようなものかもしれない。昨年の夏、満月の夜に八島ヶ原湿原の夜の中を歩いた。灯りひとつ、人工物の何一つ無い世界を、神経を研ぎ澄ませて歩いていると、身体のどこかに違う目が開いていくような気がした。この絵本を読んでいると、あのとき満月を見上げていたときの気持ちを思い出す。月や風や草花や虫たちが語りかける耳に聞こえない声に、全身を使って耳をすませる時間。心をすます、という言葉はないけれど、こみねさんの絵本にゆっくり向き合って、心をすませているときに聞こえてくる音楽がとても好きだ。

品の良い洋装店のウインドウに、手回しのアンティークミシンが置かれている。たくさんのお洋服を作ってきたに違いないミシンは、もっと効率の良いミシンに仕事を譲って店頭にひっそり飾られているのだけれど、きっと「私を使って」と願っていたに違いない。その願いに引き寄せられるように、見習いの女の子が満月の夜にミシンのところにやってくる。カタカタ・・・可愛い音をたてて、少女は個性的なお洋服を作り出す。このお洋服が、どれもとっても素敵で美しいのだ。朝になって少女は勝手なことをして、と怒られるのだけれど、彼女のお洋服にぴったりな人がやってきて、必ず売れてしまうのだ。もしかして、このミシンは「こんなお洋服が欲しい」という願いを受け止めて、少女を呼び寄せているのかもしれない。一生に一度でいいから、まるで自分のためにあるように似合うお洋服を着てみたいというのは、女性なら誰でも思うことだと思う。「着る」というのは、そうありたい自分自身を多少なりとも体現することだし、どんなお洋服を着るかは自分の生き方とも深く関わってくる。自分の好きなものを着られるということは、人の尊厳を守るものでもあると思う。自由が奪われるところでは、大抵「着る」自由も奪われてしまうから。・・・などと大きな話になっていくのは、少女が最後に作ったお洋服を着るために現れたちいさな女の子がとても気になってしまうからだ。

遠くの野原にぽつんと佇んでいるちいさな女の子は、真っ白い服を着て、どことなく寂しそうだ。満月の月明かりの中をやってきたときも、命を宿さないような、青白い顔をしている。でも、ミシンが作り出した可愛い青いフリルのお洋服を着たとたん、生き生きとした表情で走り出すのだ。この子はどこから来たのかな。ずっと一人でいたのかな・・・。夜明けの町を手を繋いで走っていくふたりは、どこに行くのだろう。ふと、バーネットの『白い人びと』を思い出したりするのだけれど、その答えは読むものが「こうであって欲しいな」という自分の願いとともに、胸に沈めておくべきものなのだろうとも思う。あの小さな女の子は、女の子の憧れそのものなのかもしれないし、帰る場所を見つけた可愛い天使なのかもしれない。確かなのは、小さなミシンが、誰かの願いや希望を、カタカタと優しい歌を歌いながら生み出してきたということ。その音に心を澄ます、美しいオルゴールのような絵本が私のところにやってきてくれたことが、とても嬉しい。

2014年2月刊行

講談社

図書館のトリセツ 福本友美子 江口絵理 絵スギヤマカナヨ 講談社

子ども向けに、図書館をどう使うか、どう図書館と仲良くなるかを書いた本なのだけれど、これがとってもわかりやすくて、伝えるべきことをしっかり踏まえている内容になっています。図書館で働いてる私でさえもなるほど~、と思うくらいです。大人の方が読んでも、きっと目からウロコのところがあるはず。

この本には、図書館で出来ることがたくさん書いてあります。本を読む、借りる、本で調べる。もちろんそれが基本なのですが、私が一番いいな、と思ったのは「図書館では、なにかをしなければいけない、ということは1つもないのです。こんな自由な場所は、ほかにそうそうありません」という言葉。そう、その通りなんですよねえ。本はたくさんあるけれど、別に読まなくたってかまわない。反対に、どれだけ読んでもかまわない。誰にもなんにも強制されません。この本にも書かれていますが、様々なジャンルの本を、なるべく偏りのないように収集する。この本が読みたいとリクエストされれば、その希望を叶えるべくあちこちに問い合わせて提供します。そう、図書館は「自由」が基本なのです。そのために、図書館は資料収集の自由と、提供の自由を宣言しているんです。(「図書館の自由に関する宣言」を、リンクしておきます。私は時々、この宣言を読むことにしています。何かこうね、ぎゅっと身が引き締まる思いがします。 )その自由を、最大限に活用して貰いたいなあと思うんですよ。なぜなら、この自由は活用して、使い倒すことで、もっと活性化して広がっていくと思うから。

だいたいの図書館は地方自治体が運営している「市民の図書館」なのですが、こんな風に公共図書館が出来るまでには、先人たちの努力と闘いがあったのです。それこそ女性や子どもに貸し出しをするようになったのも、そんなに昔のことではありません。はじめから当然のようにあるものではないからこそ、どんどん使って、実績を作って、この社会になくてはならぬものとして根付いて欲しいのです。日本では、そこがまだまだだと思うんですよねえ。「これだけネットがあるんだから、何も本でなくても」という声もあるでしょうが、やはり一冊の本が持つ情報量の多さと確かさは、ネットで検索して見る頁とは格段に違います。客観性も違います。この本にも「なぜ本でさがすかというと、たいていの本は専門家が書いていますし、出版される前に何人もの人が、正しいかどうかを確認しているからです」とあるように、ネットで個人的に書いているものと、出版されるものとはその責任の取り方が根本的に違います。ネットは匿名が基本ですもんね。

そして、図書館のいいところは、同じテーマの本が何種類も揃っていること。調べたことを鵜呑みにしないで、別の角度からも見ることができる。この本には、そこもちゃんと書いてあります。「1冊見て終わりではなく、2冊以上の本を使って確認しよう」その通り。活字で書かれているからと言ってそれを鵜呑みにしない、というのも大切なことです。いろいろ調べて同じテーマで違うことが書いてあったら、それは自分で考えてみる余地があるビッグチャンスですもんね!それだけで自由研究ができちゃう。卒論もできちゃうかもしれない。「なぜだろう」と思って自分で調べて、自分の頭で考えて「これだ!」という解答を手に入れることって、ほんとに楽しい。解答を得られなくても、これまたずっと考え続けるという楽しみが生まれます。また、答えは一つでなくてもいいかもしれない。答えは無いのかもしれない。でも、なぜだろうと思って考えることが、人間に与えられた一番の楽しみであると私は思います。そして、もちろん、何にも考えないために図書館に来るのも、いいですよねえ。いろんなことに疲れて、家や学校から離れたいとき。一人でいるのも寂しいけれど、誰とも話したくないとき。人間関係に疲れて、生きていくのがめんどくさいよな、と思うとき。図書館にきて、ぼーっとして、綺麗な写真集や、美しい絵画を眺めたり。漫画を読んでみたり。居眠りしたりするだけでも、ほっと出来るかもしれない。誰に気を遣う必要もないのが、また、図書館のいいところです。安心してひとりになれる。そして、本ほどひとりになった人間の味方をしてくれるものはありません。

「学校は何年かたつと卒業しなければなりませんが、図書館に卒業はありません。何歳になっても行けます。もし図書館があなたのお気に入りの場所になったら、一生ずっと遣い続けることができますよ」

いいこと言うなあ。私もきっと一生図書館には通い続けるでしょうねえ。他にもいっぱいしびれる名言がたくさんあって、この本付箋だらけになってしまいました。「私は図書館のことよく知ってるから」と思う方にもおすすめです。そうそう~~!と嬉しくなって、明日図書館に行きたくなること、請け合いです。

2013年10月刊行

講談社

てつぞうはね ミロコマチコ ブロンズ新社

てつぞうは、ミロコマチコさんが一緒に暮らしていた猫さんだ。もっとも、猫飼いの勘で、白いおっきな猫がはみださんばかりの表紙を見ただけで、「あ、この子はミロコマチコさんの猫だな」とわかってしまったけれど。『おおかみがとぶひ』の動物たちは、とってもアートだったけれど、このてつぞうは「あにゃにゃ」と話しかけてきそうなほど心の近くまで寄ってくる。賢くて気むずかしくて、わがままで甘えたのてつぞう。うちのぴいすけも、歯磨きのスースーする匂いが大好きで、私が歯を磨いているとやたらに寄ってくるんだけど。しかも、猫ぎらいで、人を選ぶところも、一緒なんだけど。桜の花びら追いかけてるし。可愛いなあ。てつぞうがめっちゃ好きになってまうやん。やだなあ。困ったなあ。だって、いやな予感がするんだよね・・・と思っていたら、やっぱりてつぞうは、見開きの画面の中で、虹の橋を渡って逝ってしまった。

でも、ミロコさんのところには、今、ソトとボウという二匹の猫さんたちがいて、彼らはてつぞうのお皿でご飯を食べて、てつぞうの使っていたトイレでおしっこもうんちもする。彼らは捨てられていたのを、ミロコさんの知り合いが拾って、てつぞうのあとにミロコさんのところにやってきた。生まれて死んでいくサイクルが、猫は私たちよりも短くて、どうしても先に逝ってしまう。それがわかっているから、目の前にいても、いつも心のどこかに、失うことを怖れる気持ちが揺れているのだけれど。ミロコさんが描かずにいられなかったてつぞうの絵は、生きている喜びがひたすらにいっぱいで、ミロコさんを愛して、ミロコさんに愛されて一生を送ったことがまっすぐ伝わってくる。彼はとても誇り高く自分の命をまっとうして逝った。これを幸せと言わずしてなんとしよう。

ミロコさんは、てつぞうというかけがえのない自分の猫を描いているのだけれど、自分のためにこの絵本を描いていない。命の大きな流れの中に、視点を置き直している距離感が、この絵本を見事な作品にしていると思う。命は絵本の大きなテーマの一つだ。生まれて初めて「死」に向かい合う瞬間が、幼い頃に必ず誰にもやってくるから。てつぞうの命が、ミロコさんの絵の中で生き生きと飛び跳ね、また次の子たちの命と響き合っているようなこの絵本は、言葉を尽くさなくても子どもたちに大切なことを教えてくれるような気がする。

2013年9月刊行

ブロンズ新社

あいしてくれて、ありがとう 越水利江子作 よしざわけいこ絵 岩崎書店

私の父親はとても心配性だった。少しでもとがったもの、例えばハサミや毛糸の編み棒なども、妹や私が怪我をしてはいけないと、すぐにどこかにしまい込んでしまう。建て売りの古い家の窓から冷たい風が入ってくるのを気にして、私の部屋の窓をきっちりテープで封鎖してしまったこともあった。もう、ちょっと、やめてよー、息苦しいやん、と若い私は思っていたものだ。この物語を読んでいると、あんな風に何の見返りもなく、ただ愛してくれた人がいなくなってしまったということが、表紙の風船のようにぽっかりと浮かんでくる。とても寂しいけれど、その風船を手に持ってしばらく眺めていたくなる。

この物語は、急にいなくなってしまった、大好きなおじいちゃんへの手紙だ。バイクでタイフーンのようにやってくるカッコいいおじいちゃん。どうやら何かの事情で、自分だけで子どもを育てている娘と、孫のことが気になって気になって仕方なかったおじいちゃん。口うるさいけれど、女親とは違うやり方で包んでくれるおじいちゃんは特別の存在だ。別におじいちゃんが何か役に立つことをしてくれるからじゃない。何かいい物を持ってきてくれるからでもない。ただ、「お母さんのおにぎりと、おじいちゃんのおにぎりと、どっちがうまい?」なんて聞いたりする、おとなげないおじいちゃんは、「僕」が今ここにいることを、とてもかけがえなく思っていたのだと思う。そのことを、抑えた言葉数で見事に伝えてしまう利江子先生の筆力は、さすがだ。

年を取ればとるほど、悲しいことも、辛いこともたくさん見てしまう。ヘンな話、親子だからといって愛し合えるとも限らないし、また愛し合っていても、会いたい時に会えるとも限らない。だからこそ、きっと、このおじいちゃんは、僕たちにいつも「ここにこうして、いてくれて、愛させてくれて、ほんまにありがとう」と思っていた人なのだ。その「ありがとう」は、お母さんの、お姉ちゃんの、そして僕が今ここにいることへの限りない寿ぎだった。だから、「あいしてくれてありがとう」という僕たちの感謝は、おじいちゃんの「愛させてくれてありがとう」という感謝と背中合わせなんだろうと思う。この物語には、その背中合わせの「ありがとう」の暖かさが溢れている。この物語を読む子どもたちは、ふと顔をあげて、自分を愛してくれる人を改めて見つめたくなるんじゃないだろうか。それは、自分が今生きているということを、とても大切に思える瞬間のはずだ。

心配性だった私の父は平均寿命よりもだいぶ早く、この物語のおじいちゃんと同じように、肺が原因であっという間にいなくなってしまった。だから、やっぱりこの物語のお母さんのように「ごめんね」と思うことが今でもある。でも、猫を溺愛している長男に、最近父と同じような心配性ぶりをみつけることがあって、可笑しくて一人で笑ってしまうことがあるのだ。ああ、そういうことなんやなあと、この物語で僕がおじいちゃんから受け取った愛情を感じて、納得してしまった。この年齢で父の娘である自分を思い出すというサプライズももらえて、とても嬉しかった。そして、この物語のような距離感が自分と息子の間に生まれるのだとしたら(生まれるのだかどうだかわからないけれど)、死ぬのもちょっと悪くないとも思う。大人の疲れた心にも効く一冊です。

2013年9月刊行

岩崎書店

12種類の氷 エレン・ブライアン・オベッド文 バーバラ・マクリントック絵 福本友美子訳 ほるぷ出版

もうすぐソチオリンピックがありますね。「がんばれ!日本!」みたいな応援の仕方はあんまり好きじゃないのですが、フィギュアスケート好きとしては、今度の五輪は見逃せないでしょう。テレビで放映される大会は全部見ているので、外国の選手にも好きな方がたくさんいるんですが、一番好きなのは、やっぱり大ちゃんこと高橋大輔選手。彼の最後のオリンピックですから。年末の代表選考はやきもきしました。彼はアスリートで、演技を数値化される競技でぎりぎりの闘いをしているのですが、生まれながらのダンサーで身体が物語を語るんですよね。そこにいつもドキドキしてしまう。その分、失敗も多くてドキドキしますけど(笑)高橋大輔選手と浅田真央選手のスケーティングは上手く言えないんですけど、他の選手と全く違うものを感じます。他の選手はスケートを愛しているんですが、彼らはスケートに愛されてるなあと思うんですよね。氷が彼らに滑ってもらいたがってる。彼らが、氷の上で流れるように滑っているだけで、うっとりする。それを見るのが至福です。二人がヘンなナショナリズムに巻き込まれないで、オリンピックで楽しく、のびのびと滑ってくれたらいいなと思うんですけど。ほんとに応援しているファンは、メダルの色がどうとか言わないんですよね、きっと。オリンピックのときだけやたらに愛国主義になる人たちに振り回されませんように。

前置きが長くなりましたが、これは、そんな氷を愛してやまない小さなスケーターたちの本です。冬を迎えて、初氷が出来ると子どもたちは期待に胸がいっぱいになるのです。それは、スケートができるから!この本には、そんなスケートの楽しみがいっぱいに詰まっています。小川の上をずっとたどっていくスケート。分厚い氷が張った池の上を走るスケート。そして、自分の家の農園にスケートリンクを作って(凄い!)そこで近所の友達とフィギュアスケートやアイスホッケーをする楽しみ。日常の中にこんなにスケートがある喜びが溢れているなんて、なんて幸せなんだろうと思います。空と、風と、森と、溶け合うように滑る楽しさ。私はスケートは屋内のリンクでしかしたことがなくて、しかも下手っぴであまりスピードを出せませんでしたが、スキーは結構経験があります。冷たい風の中で、きらきら光る白い世界を山の景色を見ながら滑り降りていく楽しさ。耳元で風がうなりをあげるほどスピードを出す感覚。もうこの年齢でそんなことをしたら危ないだろう私には、もう体感できませんが、この本の中で思い出せて嬉しくてぞくそくしました。

銀のスピードが出るまですべると、肺と足が、雲と太陽が、風と寒さが、みんないっしょにきょうそうしているみたいになる。

うん、そうそう!楽しいんだよねえ。自分の身体で掴む、確かな弾む喜びが、この本には溢れています。子どもが身体を思い切り使って喜びを感じる幸せの大切さ。それをさりげなく支える大人の心遣い。それがとても美しい絵と文章で綴られています。

児童文学には、スケートがよく登場します。フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』の川をスケートで渡っていくシーンの美しさは格別ですし、『ピートのスケートレース』(ルイーズ・ボーデン 福音館書店)の少年の冒険も忘れられません。メアリー・メイプス ドッジの『銀のスケート』(岩波少年文庫)や 『 楽しいスケート遠足』(ヒルダ・ファン・ストックム 福音館書店)も好きだなあ。こんなにフィギュアスケートが好きなのは日本人だけかも、といつも満杯のテレビ中継を見てて思うのですが、スケートを長く愛してきた国のことを、こんな物語からたどってみるのも、また楽しいと思います。

2013年の心に残った本 

2013年が終わります。自分でもツッコミたくなるくらい、久しぶりの更新ですねえ。実は今年の後半は、ずーっと評論を書いていました。一つは10月締め切りで、もう一つは今日、12月31日締め切り。もう、大掃除も何にもしないままに、やっと書き上げて送ったところです。公募の評論なので、結果がどうなるかはわかりませんが、とにかく書き上げられただけで自分では満足かな(笑)でも、10月に送った方は、おかげさまで選考を通過しまして、来年『日本児童文学』という雑誌に載せて頂く予定です。何月号に載るかはっきりしたら、お知らせします。タイトルは「朽木祥の『八月の光』が照らし出すもの」。機会があれば、読んで頂けると嬉しいです。

私は不器用というか、頭の切り替えが出来ないというか、評論を書いていると、ずーっとそのことで頭がいっぱいになってしまって、他のレビューが書けなくなってしまいます。ほんとに、いろんな作品を並行して書き上げられる作家の皆さんは凄い!もうね、30枚くらいの評論を書くのに、こんなに苦労する自分に笑えます。でも、あれこれ悩んでじたばたしながら書いていると、ふっと自分の思考の蓋がパカッと開いて次に行ける瞬間があって、そこが面白くて苦しくて、面白いという(笑)来年はどうするかわかりませんが、いろんな機会を捕まえて、評論を書いていこうと思っています。ですので、ブログの更新がしばらく無かったら、「あ、今、苦しんでるな」と思ってください(笑)(知らんがな!!)

今年はそんな関係で、評論や社会学の本を読むことが多くて、肝心の児童書や、大好きな翻訳作品を集中して読むことが出来なかったのが心残りです。来年はもっとがっつりと読んで、レビューもたくさん書きたい!うん、これはちゃんと言葉にして言っとくべきですね。言霊、言霊。そんな中でも、心に残った本たちをあげておきます。順不同。

光のうつしえ―廣島 ヒロシマ 広島 朽木祥 講談社

実は、この作品で今日まで評論書いてました。ヒロシマは、とても大切な、私たちが伝え続けていかなければいけないことです。ヒロシマを置き去りにしてきたことが、今、私たちの暮らしとこれからの子どもたちの生きる場所を脅かしている。戦後70年経った今、ヒロシマをどう自分の問題として若い人たちに伝えていくのか。この作品は、その難しさに対する真摯な挑戦であると思います。原発の問題、それから秘密保護法案、きな臭い情勢の中での靖国参拝。非常に危機感を覚えます。この本を、少しでも多くの人に読んでもらいたい。ヒロシマは、他人事ではありません。今、ひしひしとそれを感じます。

嵐にいななく L・S・マシューズ 三辺律子訳 小学館

近未来のような、位相が少しずれた世界のような、どこか不安を感じさせる場所が舞台のこの物語。冒頭の洪水のシーンが忘れられません。ひたひたと押し寄せる黒い水のような不安の中から、主人公の少年が自分の手で掴む信頼という名の黄金がきらめきます。最後まで読んで、あっと驚くどんでん返しの妙も味わってほしい一冊。

マルセロ・イン・ザ・リアルワールド フランシスコ・X・ストーク 千葉茂樹訳 岩波書店

今年のYA翻訳作品の中で、一番好きな作品です。主人公のマルセロがほんとに素敵で、どんどん感情移入してしまう。マルセロの感受性と内面の豊かさに、大切なことを教えられます。何を目指して人生を歩いていくのか。人を愛するということはどういうことなのか。マルセロの眼差しとともに、じっくりゆっくり考えたくなる。文章もとても美しくて何度も読み返したくなる作品でした。

象使いティンの戦争 シンシア・カドハタ 代田亜香子訳 作品社

今年は戦争についての本をたくさん読みました。思うのは、戦争とはある日突然始まるのではなく、いつの間にか一線を越えてしまっているもの、知らないうちに巻き込まれているものなんだということ。その「知らないうちに」の恐ろしさが、この本には描かれています。ジャングルの混沌の中を彷徨うティンと、暁の星のように彼を導く象たちの愛情に満ちた姿。忘れられない物語です。

わたしは倒れて血を流す イェニー・ヤーゲルフェルト ヘレンハルメ美穂訳 岩波書店

岩波のSTAMP BOOKSは面白い。この本はのっけから血だらけだし、主人公の少女のエキセントリックさや性の描き方など、YAとしては結構リスキーな選書です。でも、だからこそ面白い。時代が突きつけてくるテーマから目をそらさず、挑み続けるこの姿勢は、さすがに岩波だと思うのです。身体と心から血を流す少女の痛みと危うさに、もっと身を浸していたくなる。母と娘の根源的なテーマを描いた骨太さも魅力的でした。

スターリンの鼻が落っこちた ユージン・イェルチン 若林千鶴訳 岩波書店

今年は信じられないことが次々と起こった一年でした。オリンピックの誘致で首相が原発事故について、全世界に嘘をついたこと。橋下大阪市長の慰安婦発言。さっきも書きましたが、特別秘密保護法案の強行採決。原発ゼロを目指すと決めたことを翻して、原発をベース電源にするとの方針転換。そして、過敏になっている神経を逆なでするように行われた靖国参拝。この流れに、恐ろしいものを感じてしまうのです。この「スターリンの鼻が落っこちた」の中の一節。

「わたしたちがだれかの考えを、正しかろうが間違っていようが、うのみにし、自分で選択するのをやめることは、遅かれ早かれ政治システム全体を崩壊に導く。国全体、世界をもだ」

この言葉を忘れないように。そして、子どもたちにも伝えていきたいと思います。

花びら姫とねこ魔女 朽木祥作 こみねゆら絵 小学館

この本に登場するたくさんの猫たち。ゆらさんのお書きになる猫さんたちがとても可愛くて愛しくて。しかも、うちの猫二匹もこの中に書いて頂いたんですよね~~(自慢自慢!)この本を何人に見せたことか。―という個人的な事情は別にして、これはとても素敵な本です。あなたにとって「とくべつ」って何ですか?と問いかけてくる物語なのです。他の誰かの「とくべつ」ではありません。自分だけの「とくべつ」です。心通う「とくべつ」を探して、自分だけの「とくべつ」を抱きしめて見失わずにいたい。声高に語られる大きな物語や誰かの思惑に振り回されずに。それが来年の私の目標でもあります。

こんな気まぐれの更新しかないブログにきて下さって、やたらに長いレビューを読んで頂けたこと、心から感謝しております。ありがとうございました。 来年もよろしくお願いいたします。

Rie Shigeuchi

図書館に児童室ができた日 アン・キャロル・ムーアのものがたり ジャン・ピンポロー文・デビー・アトウェル絵 張替惠子訳 徳間書店

今では、児童サービスは図書館の基本中の基本です。でも、図書館に児童サービスが出来たのは、公共図書館という概念が成立し、「子ども」が教育を受ける権利を有するものであると認識されてからのことであり、それは近代史で言えばつい最近のことなのです。誰もが性別や年齢に関係なく、平等に教育を受け、知識を得て自分の意見を持つことができる。それは民主主義の基本であり、図書館はそのために必要不可欠な、国民の「知る権利」を保障するためのもの。でも、その権利は長い間に渡っての、先人たちの地道な努力の上に成り立っているもの。初めて司書の勉強をして図書館の成立史に触れたとき、非常に感動したのを覚えています。この絵本は、世界で初めて、図書館に児童室を作ったアン・キャロル・ムーアの物語です。

アンが子どもの頃は、図書館で子どもが本を借りる、ということさえ出来ませんでした。特に女の子が勉強をする、ということも許されなかった時代です。その中で、アンは自分の力で道を切り開き、他の先駆者たちと協力して、公共図書館における児童サービスの基礎を築いた人なのです。アン・キャロル・ムーアはとても活動的で世話好きのきさくな女性だったようです。日本の児童文学にとても大きな役割を果たされた石井桃子さんが、アメリカに留学したときにアン・キャロル・ムーアに出会ったときのことを「児童文学の旅」(岩波書店1981年刊)に書いてらっしゃいます。(余談ですが、この本は石井さんがサトクリフやファージョンのもとを訪問したときの話も収録されていて、非常におもしろい。外国児童文学がお好きな人はぜひご一読を)アンは日本からきた石井さんをとても大切にして、あちこちに紹介し、自分でもニューヨーク中を案内してまわったとのこと。その頃、アンはアメリカ図書館界の大御所でしたが、いたずらっ子のように瞳をきらきらさせて、石井さんを血の繋がった姪っ子のように可愛がったのでした。その石井さんは、帰国後「かつら文庫」(現在の東京子ども図書館)という私設の文庫を開きました。石井さんがどれだけ日本の子どもたちのために力を尽くされたかは私などが書かなくても非常に有名なことですが、その精神の真ん中に、アメリカでアン・キャロル・ムーアのような女性たちと出会ったことがあったのではないかと思います。この絵本では、アンの人生がわかりやすく描かれていますが、子どもたちにとって「図書館の児童室」というものがはじめからあったものではない、ということを、ぜひこの本を通じて知って欲しいなと思います。

思えば、私自身、子どもの頃に図書館で本を借りたことはほとんどありませんでした。市で唯一の図書館は、子どもの足では行くのが難しい山の上にあり、ある日同学年の子が自転車で勢いよく山を下った際に事故を起こして命を落としてしまったこともありました。苦労して行ったところで、そこにはあまり魅力的な子どもの本も無かったんですよね。だから、今私が働いているような図書館の児童室があったら、幼い頃の私はどんなに嬉しかっただろうかと思います。でも―これは日々の実感なのですが、子どもたちがふらっと自分のために図書館にやってくることは減っているように思うのです。教育熱心な両親に連れられてやってくる子どもたちはいるんですが。これは、これからの児童サービスをどうしていくのかという自分たちの課題なのですが、その一つのヒントが、この本にあると思ったんですよ。こつこつと子どもたちに本の紹介をしたり、児童室での楽しい催しを企画すること。常に書架を魅力的にしておくこと。司書が常に児童室にいて、子どもたちと関わり、彼らと話をすること。基本中の基本ですが、やはりそこなんだよな、と思います。どれだけ情熱を持って子どもと本に関わっていくか、どれだけ魅力的なライブラリアンになれるか、というところなんですよね。

児童室があって、子どもたちが自由に自分の好きな本を借りることができる。それは当たり前のことではありません。日本だって戦後になって、たくさんの努力の上にやっと実現したことです。世界に目を向けてみれば、女の子が学習する権利を唱えて殺されかけたマララさんや、児童労働の悲惨さを訴えて殺されてしまったイクバルのように、宗教や貧困などの理由で子どもたちの権利は簡単に左右されてしまうのです。それが日本の子どもたちと関係のないことだとは、私には思えません、図書館の根幹には平和があり、思想と良心の自由があり、それは憲法と同じく「不断の努力」によってしか維持されない。そのことを、大人も―特に図書館で働く人間は肝に命じなければならないし、子どもたちにもよく知って欲しいと思うのです。この本は、ライブラリアンにとって、大切な一冊だと思います。訳された張替惠子さんの後書きも必読です。

2013年8月刊行
徳間書店

おいでフレック、ぼくのところに エヴァ・イボットソン 三辺律子訳 偕成社

たくさんの物に囲まれて何不自由なく暮らしていても、心が空っぽなハルという少年がいます。彼は犬が欲しいと両親にお願いしますが、贅沢な家が汚れるのが嫌いな母親はそれを許しません。でも、どうしてもと願うハルに、両親は彼にレンタルであることを隠して犬を与えます。ところが、そのフレックという犬は、少年にとってはたった一匹の運命の犬だったのです。しかし、両親は残酷にもだまし討ちのようにして、二人を引き離します。とことん家族に絶望したハルは、自分の手でフレックを取り戻し、彼を理解してくれる祖父母のところに旅することを決意します。この物語は、自分で生き方を決めるために一歩を踏み出す犬と少年のお話です。

子どもって、ハルのように家出したい、と思う気持ちを願望のように持っているものではないかと思うのです。この物語で、ハルの両親、特に母親はとても愚かな面を強調して描かれています。新しもの好きで、お金持ちで、息子にたくさんのモノを与えるけれど、彼が何を望んでいるのかは考えたことがない。それなのに、「こんなにあの子のために色々しているのに」と思ったりする。確かに嫌な人たちなのですが、うーん、親ってこういう愚かなところ、ありますよね。こんなに極端ではないにしろ、自分の価値観が先走って、子どもの心を置き去りにしてしまうことはよくある話です。自分の子育てを振り返っても、あったなあと今更ですが思います。親子であっても―いや、時に親子だからこそ、お互いが違う人間であるということをちゃんと認識して認め合うことは至難の業です。多かれ少なかれそういう親子のしんどさは、誰でも抱えている普遍的な問題でもありますし、また、「自分は親とは違う」と思うことは、思春期の入り口に立つ子どもたちが初めて出会う人生の課題でもあるでしょう。それだけに、この物語に丹念に綴られているハルの絶望と怒り、フレックを愛する気持ちは、子どもの心を捉えて放さないのではないかと思うのです。

ハルはフレックと、おてがるペット社に閉じ込めれられていた4匹の犬たち、そしてピッパという少女と共に、自分の居場所を求めて旅に出ます。セントバーナードのオットー、プードルのフランシーヌ、コリーのハニー、ペキニーズのリー・チーとしっかり者のピッパという個性豊かな彼らが転々としていく旅は、ハルの両親が雇った探偵たちからも追われる、なかなか苦労の多い旅です。でも、ブレーメンの音楽隊のように、みんなで困難を乗り越えていく痛快さがあって、一瞬たりとも目が離せません。印象的なのは、この旅の中で、4匹の犬たちがそれぞれ自分の居場所を見つけていくこと。そして、その居場所は、自分が、誰かを笑顔にするために生きられる場所だということです。何を心の羅針盤として生きていくのか。これは、いつの時代にも難しい課題ではありますが、これからを生きる子どもたちには、私たちの世代とはまた違う大変さがあると思います。グローバル、と言えば聞こえはいいですが、これから企業が国家を超えて流動的に変化していくことが加速してくるでしょう。誰も時代の波の中で生きていかざるを得ないわけで、その中で自分の居場所をどこに見つけ、何を喜びとして生きていくかは、非常に見えにくいものになるだろうと思います。イボットソンが、この物語の中で、愚かさと美しさとして描き分ける人間と犬の姿は、彼女が子どもたちに送る一つの提案であると思います。ハルとフレックを結びつける、自分が誰かの喜びであることの幸せ。その喜びをを心ゆくまで感じることが、自分の人生の扉をあける力になる。ハルは、フレックと生きたいと強く願ったことで、自分と周りを変えたのです。

この物語はイボットソンの遺作だそうです。物語と子どもたちへの愛情がいっぱいに詰まったこの作品は、私をとても幸せにしてくれました。うちには猫は2匹いるけれど、犬はいません。息子たちに犬を飼ってやれば良かったと今更ながらに思います。動物には、幸せにまっすぐに向かおうとする力があります。優れた子どもの物語にも同じ力があって、私はそこに惹かれるんだなと改めて思うことが出来ました。また、この物語の中に出てくる、動物虐待すれすれのおてがるペット社のように、動物の命を軽んじてお金もうけをする人たちは、実際にたくさんいます。無理な繁殖を繰り返して、さんざん子どもを生ませた挙げ句に捨てたり、処分しようとしたり。狭い場所に病気になるのも構わず詰め込んだり。人間ならまさに犯罪そのものなのに、動物たちにはなかなか救いの手がさしのべられません。そして、犬猫を収容するセンターには、常に売れ筋の純血腫たちが持ち込まれます。この物語は動物も心と体温を持ったかけがえのない存在であることを教えてくれる。個性豊かな犬たちの名前と顔が、子どもたちの心に自分の心の友として刻まれること。これもまた、イボットソンの残した宝物ではないかと思います。動物は、特に犬や猫は、人間の一番の友達です。そして、いつも笑い会える友達こそ、人生の宝物ですもんね。

2013年9月

偕成社