青いスタートライン 高田由紀子作 ふすい絵 ポプラ社

東京オリンピックの影響だろうか。最近、若い子たちの活躍が大きく取り上げられることが多い気がする。将棋の藤井四段のような、何十年に一度という天才の活躍は確かに心弾むけれど、心配性の私は、あんまり若い子たちを急かさないで欲しいなあと思ってしまう。
ゆっくり大きくなるタイプの子どもは焦ってしまうんじゃないだろうか。

この物語の主人公、颯太もゆっくりタイプの男の子。でも、仲良しのハルは、もう中学受験の準備を始めている。そして、お母さんのお腹の中には、生まれてくる妹か弟がいる。颯太は、自分の周りの流れが、急に速くなったように感じてしまう。おばあちゃんのいる佐渡に夏休みの間行くことになった颯太は、おばあちゃんが見せてくれたオープン・ウォータースイミング、つまり遠泳の大会の映像に心惹かれて、なぜか自分も出場することを決めてしまうのだ。プールで25mしか泳いだことのない颯太に、おばあちゃんは夏生という17歳のかっこいい男の子をコーチにつけてくれる。佐渡の美しい海で、颯太と夏生の夏が始まるのだ。

この物語の魅力は、言葉が五感を鮮やかに立ち上げてくるところだ。海の匂い。日焼けした肌の感触。颯太が体で感じることが、まっすぐに心の波として打ち寄せる。颯太は、決して要領が良いわけでも、運動神経がいいわけでもない。海もほんとは怖かったりする。でも、そんな自分にまっすぐ向き合う素直さが颯太にはある。この、海という大きな大きなものに向き合うときの、もう、自分以上でも、自分以下でもない感じ。自分がちっぽけだよなあと思う爽快感が、颯太と、夏生という二人の少年の姿から自分に吹き込んでくる。この風に、吹かれているのがとっても気持ちいいのだ。海に向かうときは、誰かと比べる必要なんてない。遠泳は、最後は心だという、地元の漁師のおじいちゃんの言葉が、とてもいい。佐渡に生きている人だからこその、人生の言葉だ。

海の魅力は、怖さとセットになっていると思う。どこまでも広がる視界は、気持ちいいけれども、果てがなさ過ぎて、不安になる。入ってみたい衝動にかられるけれども、いきなり深くなって足を取られたり、見た目ではわからない急な流れがあったりする。子どもが、人生という、先の見えないものに対する恐れや不安にも重なるようにも思う。その海の、ほんとに短い距離だけれど、自分の力で泳ぎ切って見えた輝く風景を、颯太と一緒に見て欲しいなと思う。きっと海に行きたくなる。佐渡は作者の高田さんの故郷だ。この海、私も行ってみたい。もう、颯太のように泳ぐのは無理だけど(笑)

八月の光 失われた声に耳をすませて 朽木祥 小学館 


偕成社版に収録されていた「雛の顔」「石の記憶」「水の緘黙」、文庫版に収録された「銀杏のお重」「三つ目の橋」、そしてこの美しい本に新たに収録された「八重ねえちゃん」と書き下ろしの「カンナ―あなたへの手紙」。密やかな声を心に響かせる短篇が7篇積み重なって、こんなに美しい装丁で再刊されたことがとても嬉しい。君野可代子さんの装画と挿絵が素晴らしい。表題紙の上には桜の花びらの薄紙。それぞれの短篇のタイトルにも、手向けの花のような、心のこもったイラストがついている。七つの物語は、あの日から少しずつ違う時間軸で描かれている。原爆という途方もない暴力になぎ倒された、小さな人間たちの物語に、とても相応しい装丁だ。

「いとけないもんから・・・・・・こまいもんから、痛い目におうて(あって)しまうよねえ」

これは、老犬のトキを権力に殺された日の「八重ねえちゃん」の言葉だ。戦争末期に、軍服用の毛皮にしたり、軍用犬として使うという名目でたくさんの犬たちが殺された。年老いて、もはやしっぽもすすけてしまった老犬まで殺されてしまうと思っていなかった綾は「なんで連れていかれたん、なんで、なんで」と泣き叫ぶ。しかし、その問いにきちんと答えられる大人はいないのだ。ただ、お人好しで、皆に軽く扱われていた八重ねえちゃんだけが、「いけんよねえ、こうようなことは、ほんまにいけんようねえ」と一緒に泣いてくれた。この少女たちの、小さなものを踏みつけにするものたちへの怒りと、人の痛みに共感する力が、もっと、もっと、人間には、今の私たちには必要なのだ。

この7篇の物語を、私は何度読み返したことだろう。まるで自分の記憶のようになっている、と思うほどなのだが、やはり読み返すたびに違うものが見えてくる。例えば、「水の緘黙」。この短篇は、7篇の中で、一つだけ「ウーティス―ダレデモナイ」という『オデュッセイア』のキュプクロスに寄せられた頌が物語の前に付けられている。この物語の中に出てくる人たちは、「僕」「K修道士」という風に、固有名詞を持たない。「僕」は、あの日からさすらい続けている。

「水の緘黙」の自分の名前を忘れてしまった「僕」は、ついてくる影たちから逃げるように彷徨うが、夜には川のほとりに寝に帰る。そこは、原爆スラムと呼ばれた川沿いの町だったのだろうか。だとすれば、そこで、ただ彷徨う「僕」を助けていたのは、やはり被爆して、そこにバラックを建てて住んでいた人たちだったのだろうか。原爆スラムは、「ヒロシマの恥部」と言われ続け、その後強制撤去されて平和公園の一部になった。そう思うと、「僕」は、忘れられていく町の記憶とも重なるようにも思える。そこで、懸命に生きていた人たちの姿とも重なるように思う。記憶は、歴史の出来事として記録されるときには単純化されてしまう。物語だけが、人間の心と体の厚みをもって、語り継がれていくのだ。

私は、この物語は、生き残ってしまった者と、あの日に声も上げずに死んでいった人たちとの、魂の対話の物語だと思っている。生き残った人たちにも、ずっと苦しみはつきまとった。「三つ目の橋」の娘の同級生たちは、あの日奉仕作業でピカにあい、誰一人助からなかった。彼女は腹痛で休んでいたのだ。本当に偶然にすぎなかった生と死を分けた理由は、ずっと娘を苦しめる。被爆による差別。親を亡くした生活の困窮。「僕」は、復興していく町が見かけを変えていっても、ずっと変わらず苦しみを抱えている生き残ってしまった人たちの心そのもののように、行き場もなくさまよい、数え切れないほどの人たちが死んでいった水辺にうずくまっている。

しかし、「水の緘黙」の扉絵に添えられている百合の花のように、この苦しみは、人間が人間の心を持っているがゆえの、切ない希望なのだと思う。この7篇の物語の主人公たちの苦しみに触れると、その尊い痛みから、ひそやかで香り高い、小さな花が生まれるように思うのだ。作者が、渾身の思いを込めて咲かせたこの花が、この表紙のようにたくさんの人たちの心に咲いて、世界中に広がっていくことを、私は心から願っている。それこそが、照りつける八月の光を、絶望の闇から希望の光へと変える力になるのだから。書き下ろしの「カンナ あなたへの手紙」は、70年以上経った日本から、世界に向けて警鐘を鳴らす物語だ。今月の7日、ニューヨークの国連本部で、核兵器禁止条約が採択されたが、世界で唯一の被爆国である日本は、その条約に署名しなかった。「八重ねえちゃん」の少女のように、「どうして、どうして」と問い続ける決意も込めて、この物語を、また何度も読み返そうと思う。何度も、何度も。

 

風の靴 朽木祥 講談社文庫

暑い。とにかく暑すぎるので、爽やかな風が欲しくてこの本を読み出したら止まらなくなった。海風に乗って、心がどこまでも駆けていくような気がする。

出来のよすぎる兄と同じ私立中学の受験に失敗した夏。中一の海生は、もやもやした気持ちを連れて、親友の田明と愛犬のウィスカーを連れて家出を決行する。江ノ島のヨットハーバーから、風色湾のおじいちゃんのクルーザー、アイオロス号まで。A級ディンギーのウィンドウシーカー号を、自分たちだけで駆っていこうとする冒険の旅なのだ。海生にヨットの操縦を教えてくれたかっこいいおじいちゃんは、受験のあとで急死してしまった。抱えきれない思いがふくれあがった少年は、海に向う。

ヨットを子どもたちだけで乗り回す。もちろん私にはそんな経験はないのだが、海生たちがウィンドウシーカーで海にこぎ出していく瞬間、胸が疼くような本物の喜びがある。海やヨットを知り尽くしている作者の知識が深く、海の輝きと風を切るヨットの音まで伝わってくることが一つ。そして、読み返して改めて感嘆するのは、この物語が内包している世界観の深さと広がりだ。

この物語は、海生という少年の他に、もう一人主人公がいる。それは、ウィンドウシーカーとアイオロスの持ち主で、今、目の前にはいない海生のおじいちゃんだ。海風に洗われたような、かっこいいおじいちゃんだが、彼の人生も、決して平坦ではなかったようなのだ。彼と、海生の父である息子の間にあっただろう葛藤や、失ってしまった愛するものへの悲しみの物語が、どうやらこの物語の背後にはあるらしい。目の前にいないからこそ、読者は残された船や本や、海生の思い出から彼の生き方を想像し、思いを馳せる。凜と生き抜いたおじいちゃんの人生は、海生という少年の心と体の中に、しっかりと根を張って息づいている。だからこそ、おじいちゃんが海生に残した言葉が、羅針盤のように、しっかり胸に届くのだ。その言葉は、ぜひ物語の中で読んで欲しい。そのとき、この物語のタイトルが、星の輝きのように胸に落ちてくるはずだから。風はいろんな方向から吹いてくる。しかし、その風をどう掴み取るか、どう生きるかは自分で決めることなのだ。こう言ってしまうのは簡単だが、それはとても難しい。でも、難しいからこそ、船出していく喜びもあるんだということが、この物語の中で夏の海のように煌めく。海の風が心を後押しする。

夏休みの子どもたちと船、というとアーサー・ランサムを連想するのだが、ランサム・サーガの第一巻『ツバメ号とアマゾン号』の解説で、訳者の神宮輝男が、物語に寄せて、こう書いている。

「このよろこびは、レクリエーションというようなものではなく、人間がもっとも人間らしくなったときに感じる深いよろこびだとわたしは思います。」

この言葉を、私はこの『風の靴』にも捧げたい。神宮輝男氏というと、私たち児童文学に関わる人間には神のような存在なのだが、その神が『風の靴』にも見事な解説を寄せている。それも、ぜひ読んで欲しい。文庫で再刊になって、ますます手にとりやすくなった。夏休みに、親子で読むと、絶対楽しい一冊。

2016年刊行
講談社

八重ねえちゃん 朽木祥 日本児童文学 2016年7・8月号

 
戦時中に、たくさんの犬や猫たちが、殺されていったことをご存じだろうか。食糧事情が悪くなる中で、ペットを飼うことが敵対視されるようになり、軍服用の毛皮にしたり、軍用犬にしたりするためという名目で犬や猫が供出させられたのだ。役立つどころか、ただ無残に殺されてしまっただけの子たちもたくさんいたという。この物語の主人公・綾子の飼っていた老犬のトキも、役所の人に連れていかれてしまった。日向ぼっこと綾子を迎えに出てくるのが精一杯のおじいさん犬だったのに。何の罪もない動物たちを、人間を信頼しきって暮らしていた犬や猫を、なぜむごたらしく殺さねばならないのか。泣きながら「なんで連れていかれたん。なんで、なんで」と聞く綾子の問いに、大人たちは黙ってしまうか、苦々しい顔をするだけ。母には「お国のため」だから「仕方が無い」と、叱られてしまう。ただ一人、年の近い叔母の八重姉ちゃんだけが、綾子の問いに何とか答えようと一生懸命言葉を探し、「こうようなことは、いけんよねえ」と、怒りに震える綾子と共に泣いてくれたのだ。

賢い大人たちは、綾子の「なんで」という問いかけに「聞こえないふりや見ないふり」をした。心のどこかでおかしいと思っていても、その気持ちと向き合えば、「非国民」であることに繋がってしまうからだ。それは、すなわち危ない目にあうことでもあり、大きな壁にたった一人でぶつかりにいくようなことでもあった。だから、皆、自分の家の犬や猫が殺されていくのを、見て見ぬふりをした。私だって、戦争中に生きていれば、同じことをしただろう。しかし、老犬のトキが連れていかれてから半年後、広島には原爆が落とされ、昭和20年だけで14万人が死んでいったのだ。「聞こえないふりや見ないふり」をした大人たちだけではなく、たくさんの、本当にたくさんの若者や子どもたちが死んでいった。爆心地近くでは建物疎開などの勤労奉仕作業のために、女学校や中学校の学生たちが多数集められていた。彼らの大多数は、即死し、遺体も残らぬほど焼けてしまったのだ。綾子と一緒に泣いてくれた八重姉ちゃんも、帰ってこなかった。朽木は、この短い短編で、史実を踏まえ、歴史を見据えた問題提起を、小さい子どもの眼差しを通して見事に描き出している。子どもたちは動物への愛情を通して、戦争の残酷さを心で知ることが出来る。また、この物語を読んだ大人は、「どうして」という綾子の問いかけのくさびを、胸に打ち込まれるはずだ。

「いとけないもんから・・・・・・こまいもんから、痛いめにおうて(あって)しまうよねえ・・・・・・」

戦争で一番先に踏みにじられるのは、子どもや弱い立場にいるものたちだ。八重姉ちゃんは、良く言えばおっとり、要領が悪い愚直な人だった。でも、彼女だけが綾子の、連れていかれたトキの痛みと苦しみに共感し、「こうようなことはいけんよねえ」と言う力を持っていたのだ。人が生きていくには、賢く社会の中で立ち回るのも必要なことだ。しかし、それだけでは、人は大切なものを見失ってしまう。
 アウシュヴィッツ収容所にいた経験を、評論や小説で語り続けたプリーモ・レーヴィは、当時の大多数のドイツ人が、「意図的な無知と恐怖が、ラーゲル(収容所)のおぞましい残虐さを証言したかもしれない多くの「市民」の口をつぐませることになった」と述べている。(『溺れるものと救われるもの』)私たちは収容所、というとアウシュヴィッツやビルケナウ、ダッハウ、くらいしか思いつかないが、当時のドイツ領には、地図が真っ黒になるほど収容所があった。そこに物品を納入したり、労働力をただで使って利益を得ていた一般企業も多く存在した。囚人服、ガス室の装置、多くの薬品、建築資材。何しろ500万人以上のユダヤ人たちが収容され、殺されていったのだ。その維持に「普通の人々」が関わらないはずがない。でも、彼らは「目と耳と口を閉じて」語らなかった。そして、皆が自分の足元に開いている暗闇を見ようとしなかったのだ。賢く生きるということは、「意図的な無知」に繋がりやすいのだ。
 これは他人事ではない。日本にも、あまり知られていないが、ナチスドイツのように中国大陸から人々を強制連行してこき使った収容所がたくさんあった。今年の課題図書である『生きる 劉連仁の物語』(森越智子 童心社)はその問題を扱っている。日本は、その戦争の反省に立って、平和憲法を守ってきたはずだ。しかし、その足元が揺らいでいる。参院選で自民党が圧勝し、その大勢が判明した途端に、憲法改正という言葉が大量に、それまで沈黙していたメディアから流れた。本来なら権力の監視役としての機能を果たさねばならないメディアは、もうその役割を放棄して、「賢く」目と耳と口を閉じていこうとしている。その姿勢は、私たち日本人の心性をそのまま反映しているのだと思う。『帰ってきたヒトラー』という映画を先日見に行ったのだが、その中でヒトラーは「普通の人々が私を選んだのだ」と言っていた。大きな暗闇が、今、「賢く」生きていると思っている私たちの足元に開いてはいまいか。

この物語の最後、18歳になった主人公の綾子は、原爆のあの日を思い出しながら、「どうして、あんな恐ろしいことが起きたのだろう」と激しく読み手に語りかける。その声が、いつまでも胸の中でこだまする。愚直な子どもの「どうして」を大人が手放してしまったあと、犠牲になるのはこれからを生きる子どもたちなのだ。この物語には、「今」に繋がる大切な問いかけがたくさん詰まっている。たくさんの人に読んで欲しい。

カエルくんのだいはっけん! 松岡達英 小学館

 松岡達英さんの命への愛情が、いっぱいに詰まった絵本。松岡さんというと、『ぴょーん』のカエルの表紙を思い浮かべてしまうが、この絵本の表紙も、元気なカエルくんだ。このカエルくんは、生まれたてというか、カエルになりたてのほやほや。だから、その目に映るもの、何もかもが色鮮やかで瑞々しい。

四ヶ月検診で赤ちゃん達に会うと、目の美しさにいつも見とれてしまう。透明な水の膜がうっすらと瞳を覆う、生まれたての目で見たら、どんなにこの世界が色鮮やかに見えるだろうと思うのだ。この絵本の命の輝きを見て、私は、「あっ、これが生まれたての目で見る世界かも」とドキドキした。沼や、川や、夜の森や、茂みにいる昆虫や虫たちが、見開きいっぱいに展開して、生き生きと動いている。生まれたての子どもの眼差しと、経験を積み重ねた表現力と、生き物への深い理解。優れた画家は皆この三つを兼ね備えているのかもしれないが、松岡さんはその力を、惜しげも無くこの絵本に注ぎ込んでいる。この見開きに描かれる生き物たちは、全て食べたり食べられたりする関係で、こうして多種多様な存在がいることで、大きな命の環が出来ている。それが、とても自然にわかるのだ。

今、虫やカエルを、気持ち悪いと思う人が多い。私も小さな頃はびっくりするぐらいの虫嫌いで、虫だらけの田舎に帰省するのが気が重かったが、今から思うと、とても貴重な経験だった。空が真っ赤になるほど群れ飛ぶ赤とんぼや、手ぬぐいひとつで掬い放題に小魚がいる沢。そこにオニヤンマが無数に卵を産むところを、息を潜めて見入ったし、アリジゴクの巣にいろんなものを落としてみたりした。父に連れられて滝に行ったとき、そこがあまりにひんやりと冷たくてしんとしているのが怖かった。今、石牟礼道子さんの『水はみどろの宮』を読んでいるのだが、人の魂の奥深くに分け入るような世界に入っていくとき、その入り口は人ではないもの―虫や花や、川や木の息づくところにあるのだと気付かされる。この世界を人間ではないものの目で眺めてみる眼差しは、人間が人間として旅をするのに必要なことなのだ、きっと。松岡さんの生き物の絵本に出会ったら、きっと本物の自然に向いたくなる。夏休みに、親子でゆっくり楽しめる絵本だと思う。どこかにキャンプに行く前に読んだら、そこで虫たちに出会うのが楽しみになるかもしれない。私の周りにいる絵本好きな人たちにもとても好評だった。見返しの、泳ぐカエルさんの絵も、とっても可愛い。私のようなカエル好きにはたまらない一冊。

2016年5月刊行
小学館

しおちゃんとこしょうちゃん ルース・エインズワース 河本祥子訳・絵 福音館書店

『こすずめのぼうけん』『ちいさなロバ』のエインズワースの絵本だ。ちいさなものへの眼差しに、子どもたちへの深い慈しみを感じる。子どもたちが、どうか幸せに生きていってくれますように、という祈りのような思い。もちろん、それがたやすく叶えられるものではないことを知り尽くしているからこその、祈りだ。

子ねこのしおちゃんとこしょうちゃんは、競い合って大きなもみの木に登ってしまう。河本祥子さんの絵がとても素晴らしい。しなるモミの枝と見事な遠近法で、屋根より高い枝の上ですくんでしまった子ねこたちの視点を、俯瞰で感じさせてしまう。そこからきゅっと画面はしおちゃんとこしょうちゃんにクローズアップしていく。二匹は鳥や飛行機に助けを求めるのだが、当然のごとく願いは届かない。そうこうしているうちに夜がやってくる。どうしようと困り切ったそのとき、もみの木の下に、ふたつの光が現れて二匹のところに登ってくるのだ。ふたつの光はしおちゃんとこしょうちゃんの、お母さんだ。良かった!家の中に戻った三匹は、くっついて眠る。その幸せそうなこと。

二匹を迎えにきたお母さんのタビーふじんは、冒険に出て失敗してしまった二匹を叱ったりしない。「さあ、もう ベッドに はいって、ねる じかんですよ」と静かに話しかけるだけなのだ。冒険の結果、誰かに助けてもらうことになっても、それは決して恥ずかしいことでも、責められることでもない。自分の足で歩き出そうとする子どもを見守る優しい眼差しが、ぬくもりとなって心に届く。

この本の中で子ねこたちを助けてくれるのはお母さんだ。もちろん、それは子どもの「安心」に直に繋がる大切なこと。でも、それと同時に、子どもたちは、この絵本を作ったエインズワースと河本さんの心を受け取るのだと思う。見知らぬ大人たちが、自分に届けてくれる、祈りと慈しみ。それを心の奥底で感じることは、子どもの心を育てる大きなゆりかごになるのだ。そう思わせてくれる絵本が好きだ。

1993年に「こどものとも」で発行された本を、ハードカバーにして再刊したもの。

福音館の持っている絵本の財産は、素晴らしい。

2016年2月発行

福音館書店

まんげつの夜、どかんねこのあしがいっぽん 朽木祥 片岡まみこ絵 小学館

誰も遊びに来てくれないのが寂しくて、自分で作ったご馳走を食べ過ぎて太ってしまったネコが一匹。友達を探しに出かけたのに、なんと不幸なことに、土管にすっぽりはまって動けなくなってしまう。さあ、大変。皆でこの子を助けなきゃ!と「おおきなかぶ」状態になるのかと思いきや、そこはやっぱりネコですからね。皆、何だこりゃ、とフンフン匂ったりするだけで、どこかに行ってしまう。でも、その日はちょうど満月。ネコの集会が行われる夜だったのだ。土管のまわりを、ネコたちが歌って踊る。土管にはいったまんまのどかんねこはどうなるの?・・・という、可愛くて何だか不思議な味わいの絵本なのだ。

夜と満月の匂い。片岡まみこさんとコラボのネコの絵本ということで、私はもっとほんわかした感じを想像していた。もちろん、ネコたちはとってもとっても可愛くて、たまらなく魅力的だ。この絵を額に入れて、部屋のあちこちに飾っておきたい。ところが、その可愛いネコたちが朽木祥の研ぎ澄まされた言葉のマントをふわりと羽織ると、ネコのリアルをそのままに、不思議な夜の住人になるのである。

たん、たたん、たん! 「まんげつのよーる!」

宮沢賢治に「鹿踊りのはじまり」という短編がある。すすきの野原で、栃団子と忘れものの手ぬぐいを真ん中にして、鹿たちがぐるぐると歌って踊るのを、手ぬぐいの持ち主の目を通して、目撃する物語だ。鹿たちは、筋肉の盛り上がりや息づかいが感じられるほどに見事に鹿そのもので、だからこそ私たちは目の前で展開する鹿の会話の不思議に、息を詰めて魅入られる。私たちが見ているこの世界と、重なりながら隔たっている異世界。そのあわいで、鹿たちの命が喜びに歌う、くらくらする幻想とリアルの世界だ。この物語にも、そんな不思議な魅力がある。うちのネコたちも、満月の夜にするっと二本足でこの家を抜け出して、どこかの野原でこうして踊っていたりするんじゃないか。もしそうなら、どんなに嬉しいだろう。だって、まんげつの光を浴びて踊るネコたちは、それはそれは生き生きとネコである瞬間を楽しんでいるのだから。ネコは、どんなに幸せに暮らしていても、どこか「ひとり」であることを忘れない。自分の生も死も、ありのまま見事に引き受ける。そこに、私たち人間は、寂しみや、ひとりであることの誇りや、様々な人生の「滋味」のようなものを感じてしまう。この物語のネコたちも、何だか皆、それぞれにひとかたならぬネコ生を持ち寄っている気配がする。簡潔なテキストで、そこまで読み手に感じさせる深みが、朽木祥の言葉の魔法だ。心のなかの、なぜか知らないけれど、生まれたときからある寂しさに、じん、と染みこんでくる。

この満月の光は、『かはたれ』で八寸がネコになるために浴びていた光と同じなのだろうか。『かはたれ』は、夜明け前の薄明の時間のこと。ぼんやりとした、朝でも夜でもない幻の時間のことだ。母を失った少女の麻は、八寸というネコの形で現れた河童の魂に触れて、失いかけた心を取り戻す。この夜のネコたちも、異世界の住人だ。でも、きっと昼間は別の姿で暮らしているに違いない。そこらで昼寝をしていたり、おやつをねだっていたり。でも、こうして物語の中で、命の不思議のマントを羽織り、私たちに会いに来てくれる。それにもっともしかして、私も「まんげつの夜」は、こうして二本足のネコになって、この物語の中で踊っているのかもしれないじゃないか。物語という異世界に魂だけになって触れることで、私はやっと昼間人間の姿を保っているのかもしれない。

お日様が昇って朝のノネコは野原に取り残されてしまうが、もうノネコも、この絵本を最後まで読んだ私も、「ひとり」だけど一人ぼっちではない。「まんげつの夜」は、ノネコのご馳走を食べて、たん、たたん、とステップを踏みに、この絵本の頁をめくれば、よいのである。この表紙のノネコは、こちらをまっすぐに見つめて、物語の世界に誘ってくれている。ネコにこんな風に見つめられたら、私たちは魅入られるしかないのである。

2016年1月刊行

小学館

わたしが外人だったころ 鶴見俊輔文 佐々木マキ絵 福音館書店


 鶴見俊輔氏が93歳で亡くなられた。文章と本でしか存じ上げないのに、あんなに凄い知性の方なのに、なぜかとても心の近くに存在を感じる方だった。朝日新聞の上野千鶴子氏の追悼の文章が心に沁みる。もっと氏の本を読まねばと、憲法九条がなし崩しにされようとしている今、焦るように思っていたところだった。私の勉強の仕方は、いつも遅すぎる。

 この本は、福音館書店が出している「たくさんのふしぎ」という月刊誌から生まれたもので、今年の五月に傑作集としてハードカバーで出版された。16歳だった鶴見少年がアメリカに渡り、ハーバード大学に入学する。しかし、日本とアメリカは戦争を始め、大学卒業間際だった俊輔青年は留置場に入れられてしまう。その後、「日本が戦争に負ける時、負ける国にいたい」と帰国するも、徴兵されて戦地へ。そこでカリエスを発症して帰国し、敗戦の日を迎えたのだ。この体験は、鶴見氏のその後の生き方の原点になっている。

「わたしは、アメリカにいた時、外人でした。戦争中の日本にもどると、日本人を外人と感じて毎日すごしました」

 大体の日本人は、自分が「日本人」であることに、何の疑いも持たない。しかし、鶴見青年は、戦争というものによって、自分のアイデンティティを根本から覆されてしまったのだ。そして、鶴見青年を乗せた日本の軍艦は、一隻残らず太平洋に沈んでいった。たくさんの人が死んでいった。では、「なぜ自分がここにいるのか」。自分の生き残った理由もわからない。その「たよりない気分」はずっと続く。常に思想家の鶴見氏の中には、この思い惑う、柔らかな心の青年が息づいている。鶴見氏は、ずっと問いかけ続けたのだ。自分は何者か。日本人であるとはどういうことか。日本がした戦争とは何か。近代とはなにか。国とはなにか。一生をかけて問い続け、行動し、自分の頭で、考え続けた人。その原点には、自分の肉体で感じた抽象化されない強い実感がある。その実感が、ここに、とてもわかりやすい言葉で、子どもたちに向けて綴られている。佐々木マキさんの挿絵も、氏の孤独や「国家」の不気味さを写し、不思議な美しさで一人の青年の内面を表現している。

 この不安や孤独に揺らいだ感覚をずっと忘れずにいたこと、魂の奥深くに刻んだことが、真のリベラルな思想を生んだのだと私は思う。だからこそ、これからを生きていく子どもたちにこの本を読んで欲しい。感じて欲しい。復刊されて良かったと心から思う。

星のこども 川島えつこ作 はたこうしろう絵 ポプラ社

昨日思い立ってブログのタイトルを少し変えてみた。何のブログか明確にするためにと、少しでも検索ワードに引っかかるとよいな、という計算からだが(笑)好きな作品を、好きだ!と書くというスタンスは変わらない。この作品も、表紙を見ただけで「好きかも」と思った予感が当たって、とても素敵な本だった。

まず、文章がとても心地良い。この物語は、ゆいという少女が思春期の入り口に立って迎える、小さなターニングポイントを描いたものだ。急に背が伸びて、今まで気にしなかった異性も、少し気になったりする。自分でももてあますほどの大きな波がやってくる前の、体の中がざわめくような季節が、一年の自然の移り変わりと共に描かれる。ゆいと一緒に、柔らかな命の気配にふんわりと包み込まれるような心持ちになった。

 そう、この物語に満ちているのは、様々な命の気配だ。まず、仲良しの姉であるまいの妊娠。「おねえちゃん」が迎える様々な変化に、まいは戸惑う。妊娠しているときというのは、自分であって自分ではない、「あたしの体は今、ちびちびちゃんが操縦しているようなもんだよ」という時間なのだ。植物たちが一斉に芽吹くような命のたくましさへの畏怖のような気持ちを、ゆいはお腹が大きくなっていく姉とともに体験する。そのたくましい命は、目覚め始めたゆいの心と体にも芽吹いているものなのだ。
 もう一つは、ゆるやかな時の流れの中に溶け込んでいる、耳を澄ませないと聞こえない遙かな命の気配だ。学校にあるゆいのお気に入りの月野池には、河童の主がいるという。ゆいには、幼い頃にここで出会った不思議な少年との大切な思い出があった。千年を生きる木々や森たちのように、自分とは違う時の流れの中にいる存在を感じ取る力が、ゆいにはある。目には見えないものを見る感受性は、やはり河童と出会う『かはたれ』(朽木祥、福音館書店)の麻のように、美を感じる心、何者にも侵されない心の羅針盤を持つことに繋がっていく。だから、ゆいの奏でるピアノの音には、人の心を揺さぶる力があるのだと思う。

 今生きているということと、自分が遙かな時の流れの中にいるということは、同じことなのだ。刹那と永遠をこの身にいだく、命の不思議への畏怖と敬意が、ゆいという少女の日常から素直に伝わってくるこの物語は、木々が緑に染まっていく今の季節にぴったりだと思う。

2014年11月刊行

『鹿の王 上 生き残った者』『鹿の王 下 還って行く者』上橋菜穂子 角川書店

この本が、今年度の本屋大賞をとったらしい。先日季節風のためにこの本の書評を書いたのだが、上橋菜穂子氏への深い敬意を込めて違うバージョンのものをアップしておきたい。

上橋菜穂子は、ヴァンとホッサルという対照的な二人の男を軸に、息をもつかせぬ迫力で物語を展開していく。黒い犬の襲撃をきっかけに死病が蔓延した岩塩坑から幼子のユナを連れて逃げだした奴隷のヴァン。そして、天才医師として権力の中枢まで入り込み、自分たちの国を滅ぼした黒狼熱という病気の謎を追うホッサル。細部まで徹底的に構築された世界を細やかに描きながらも、上橋の視線は常に「複眼」だ。上橋は決して一方通行の正義を描かない。一つの正義があるところには、必ずそれに反する立場や勢力があり、考え方がある。大国の覇権に伴う近隣諸国の、生き残りをかけた戦術や陰謀。踏みつぶされた民族の怒りが絡み合う事情が、複数の立場から丹念に描かれることによって、読み手は常に価値観が揺らぎ、何が真実なのかを考えさせられることになる。自分が持つ価値観や正義は、他の目から見たときどう映るのか。正しいと信じるものは、本当に正しいのか。怒りは、復讐は、他を断罪する理由になり得るのか、否か。これは、ハイ・ファンタジーという俯瞰の視線を通した、自己への問いかけなのだ。

ヴァンは、かっては飛鹿を操り、山中でのゲリラ戦を得意とした部隊「独角」の頭を務めた男だ。「独角」は小国である故郷の部族が東乎瑠と有利な立場で交渉をするための、死ぬことを前提とした捨て駒だった。その事情に心を寄せるものは、ヴァンを歴戦の英雄とみるだろう。しかし、彼に殺された部族のものから見れば、彼は残虐な殺人者だ。また、ホッサルという医学の天才も、彼に助けられたものには神の手と言われるが、医学を穢れた呪術師として見るものからは、自分たちの血を汚す不心得者にしかすぎない。自分たちがいる場所の価値観は、違う目から見るとくるりとひっくり返るのだ。その中で、現実とどう向き合うのか。人としてどう生きるのか。ヴァンは独角の最後の生き残りだ。仲間たちはまさに捨て駒として戦地に散った。しかし、今、たった一つ守らねばならないものがある。それは、自分が背に守っている幼子の命だ。自分の能力を利用するために、ユナをさらっていったものたちに、ヴァンが吠える。

「大義のためだかなんだか知らんが、自分の命なら勝手に捨てろ。だが、おれの命はおれのもの。あの子の命も、あの子のものだ。…おれはな、なんの関係もない幼子の命を使い捨ててかまわないと思う、おまえや、いま、おれの手の下で涎を垂らしているこの爺に怒ってるんだよ。」

このヴァンという男の魅力的なことと言ったら。男が惚れる強さと情を持ち合わせる男。幼い我が子と妻を病で失い、大きな孤独を抱えながらも、再びユナを背負って守り抜こうとする包容力。彼と行動を共にする密偵のサエが彼に心惹かれてしまうのも無理はない。ヴァンは、そもそも生きること自体に深い虚無感を持つ男だ。愛した妻も息子も、病で簡単に彼から去っていった。こんなに簡単に奪われる人間の命とは何なのか。上橋は、その虚無感を抱えたヴァンの魂を裏返す。人間の視点からではなく、山犬たちの視点を借りて、この世界全体の命の流れを、光として描いてみせる。その光景の、何と不思議で美しいことか。テロの道具として使われる犬たちは、暴力と恐怖の象徴のように見えるが、実は仲間たちや他の動物たちの命と深い友愛で繋がっているのだ。まるで、『風の谷のナウシカ』のオームたちのように。その動物たちを、自分たちの「大義」のために殺戮の道具にするのは、人間の傲慢であり、身勝手に過ぎない。しかし、自分たちの大義のために子どもたちや動物を犠牲にする身勝手は、どれほどこの世界に転がっていることか。人間の勝手な都合に操られかけたオームを、そして風の谷を、自らを犠牲にして救ったのはナウシカという少女だが、この物語でその役割を果たすのは、ヴァンだ。

これ以上ネットであらすじに触れるのは、いかんだろうと思いつつ。分厚い上下巻があっという間の読み応えで、なおかつラストシーンが素晴らしいことだけは書いておきたい。民族も生まれた場所も違う血縁で結ばれてもいない者同士が結ぶ絆が光りとなって輝く。幼い子どもの、まっすぐな、ひたすらな愛情が、闇に消えてゆこうとするものを、取り戻そうとする。人は生まれて、死んでゆく。その間を必死に生きようとする姿には、イデオロギーも国も、宗教も、関係ないのだ。争いを超えて繋がろうとする人間の、子どもの力を信じたい。私はこのラストに、上橋の次の世代を生きる子どもたちへの深い思いを感じた。今、まさに読まれるべき本だと思う。

2014年

わたしちゃん 石井睦美作 平澤明子絵 小峰書店

幼い頃にたった一度だけ遊んだことがある子。でも、なぜか覚えているのは自分だけで、大人になってから他の誰に聞いても「そんな子いたっけ」と言われたりする。記憶の彼方にある光景は時間が経つほどぼんやりと儚げで、でも楽しかった気持ちだけ鮮やかで。そんな不思議な時間を、石井さんはほんわりと物語にしてみせた。

「わたし」は、パパの転勤で見知らぬ町に引っ越ししてきたところ。おじいちゃんおばあちゃんがいて、大好きな海があった町から引っ越してきて、心細くて寂しいわたし。ママも片付けに忙しくて、ひとりぼっち。「どこにいきたい?」ともう一人のわたしに問いかけて、外に遊びにいったら、素敵な庭のある家から「こんにちは」と声がする。誘われるままに、美しい庭でおままごと。まるでずっと友達だったような時間を過ごして最後に名前を聞いたら、「わたしちゃん」と教えてくれた。でも、次の日にまた遊びにいったら、彼女はいなかったのだ。

「わたしちゃん」と過ごした時間は、もしかしたら夢だったのかもしれないし、もうひとりの「わたし」だったのかもしれない。でも、多分そんな謎解きはどうでもいいんだろうと思う。引っ越しして、まだ新しい場所には馴染んでいない時間。体はここにあるのに、心だけどこかに忘れてきたようなふわふわした心もとない、つかの間の揺らぎが風船になって浮かんでいるような物語だ。幼い頃に「もうひとりのわたし」が、もっとくっきり自分の中にあったことを思い出す。私は一人遊びが多い子だったから余計にそう思うのかもしれないが、何かにつけ自分に語りかけてくる「わたし」がいることを、いつもとても意識していた。そして、今は出来ないのだが、少し左右の目の焦点をずらすだけで、すっと自分の体から意識を浮かせることが出来て(いや、わからないですよね。自分でも書いていてわけがわからない(笑))何か自分に都合の悪いことが起きると、よくそうやって逃避していた。離脱しているときの自分は、そこに体のある自分とは少しずれた存在で、半分「あちら側」にずれこんでいる強い感覚があった。その「あちら側」とはどこかと言われると上手く言葉にできないのだが。そういう感覚は自分だけかと思っていたが、大人になってあれこれ読んでいるうちに、似たことを書いている人をまま見つけることがある。言葉にすると特別なことに聞こえるが、多分幼い頃の未分化な、もしくは統合されていなかったりする心のありようの一つだったのだろう。あの頃リアルに私の中にあった「もう一人の私」は、大人になる道筋のどこかで姿を変えてしまったが、あの「あちら側」にずれ込む感覚は、本を読んでいるときの自分に近しいものがあるように思う。日常からふわりと抜け出す魔法の時間。その手触りを、石井さんの言葉たちに誘われて堪能した。

きっと誰でも、こんな「もうひとりのわたし」に出会う時間は子ども時代の中にそっと潜んでいるのではないだろうか。だから、大人が不思議だと思うこの物語も、子どもが読むと「うん、そうそう!」とすっと心に馴染むのかもしれないと思ったりするのだ。もはや自分の子どももうっそりした大人になってしまったので、そこを聞いてみることができないのが、誠に残念だ。

2014年7月刊行

いっしょにアんべ! 高森美由紀作 ミロコマチコ絵 フレーベル館

人々の暮らしと共に歩いてきた言葉が持つ力というものは誠に大きいなと思う。タイトルは東北の方言で「いっしょに行こう!」という意味だ。しかし、「アんべ!」という言葉には、もっと深い温もりや、お互いの荷物を持ち合うような共生の気持ちが含まれているように思う。まあ、お互いあんまり器用には生きられないけれど、一緒にいこか(大阪弁で解説して申し訳ない)という気持ち。この物語には、縁があって寄り添う男の子のストレートな思いが溢れている。踏まれても折られても、何とか伸びようとする若芽のような子どもの力が、朝日のように輝く素敵な物語だ。

主人公は、柿の木から落ちて足を骨折してから、クラスメイトたちと距離が出来てしまい、ひとりの日々を過ごしている5年生の男の子ノボル。そして、彼の家に里子としてやってくる、3.11の震災で親を亡くした有田といういがぐり頭の少年だ。この二人の距離感がとても面白い。有田はマイペースで、いつも首からカメラをさげ、目に付くものを片端から撮りまくっている。何かにつけその調子で、長年ひとりっきりで人との距離感に敏感になっているノボルにぐいぐい近寄ってくる。ノボルも最初は引き気味なのだが、有田のどこかひょうきんで憎めない性格に少しずつ惹かれていく。震災は有田の心に深い傷を残している。水が怖くて一人で風呂に入れないし、首から提げているカメラは、独りぼっちになってしまった避難所で被災した夫婦がくれたもので、片時も手離すことが出来ない。学校に行っても昔自分が飼っていた犬に似ている近所の犬を、追いかけ回してしまう。

この有田という少年が持っている悲しみと痛みが、ノボルの目を通して読み手に強い実感をもって伝わってくる。彼がなぜ、目に映るすべてのものをカメラに撮りたがるのか。それは、彼が常に「末期の目」でこの世の中を見ているからに違いない。彼はあの日に生と死の境目に立ち、家族も友達も目の前で亡くしてしまった。それまでの日常を無くしてしまった彼には、窓に映る水滴一つもかけがえのない「今」の瞬間なのだ。少しの揺れにも恐怖が蘇り、愛犬のチョコを、流されていく父や母を助けられなかった苦しみはいつも胸にある。大人はそんな彼を傷つけまいと、少し遠巻きにして彼を見ているのだが、ノボルはそんな有田に振り回されながらも、子ども同士のまっすぐさで、彼にぶつかっていく。ケンカもする。文句も言う。でも、ずっと一人で過ごしてきたノボルは、いきなりひとりっきりになってしまった有田の心の痛み、苦しみを理屈ではなく感じる心根を持っているのだ。有田にどんな声をかければいいのかと聞いたときに、ノボルの父ちゃんが言う。「ただ、そういうことがケイタくんの身に起きた、ということを知っていればいい、心にもないなぐさめやとってつけたようなはげましはするな。・・・ただ事実を覚えておきなさい」という。その言葉のとおりに、ただ一緒にいようとするノボル。そして、有田もノボルの過ごしてきた日々の寂しさに気がつく。そんな二人に巻き起こるいろんな事件が、小さなつむじ風のように心に風穴を開けていく。それがとても心地よく胸に沁みた。

物語の最後、犬のダイゴロウを連れた二人が新雪の上を走り回って朝日に叫ぶ姿が忘れられない。声が枯れるまで父母と愛犬の名前を呼び続ける有田の声を、じっと聴くノボル。

「有田の深い傷と、痛みをオレもいっしょになって浴び続けた」

ここから、また生きることが始まるのだ。ひとりではなく、一緒に。「いっしょにアんべ!」という言葉の美しさに込められた作者の思い。たくさんの人に読んで欲しい一冊だ。

2014年2月刊行

ちいさなちいさな めにみえない びせいぶつのせかい ニコラ・デイビス文 エミリー・サットン絵 越智典子訳 出川洋介監修 ゴブリン書房

子どもの特権は(もちろん大人でも大切なことだけれど)びっくりすることだと思う。 おっ、と思うくらいの小さなびっくり。世界の見え方が変わってしまうほど、大きな声で走り回って「知ってた?ねえねえ、知ってた?」と言ってあるきたいほど、大きなびっくり。それが次の「知りたい」に移っていったり、自分を思いもよらない方向に突き動かしたりするんじゃないかと思うのだ。この絵本は「びせいぶつ」つまり、微生物についての絵本だが、一応の知識がある大人でも思わず「うわあ」と声を出してしまう驚きと楽しさに満ちている。絵がとてもいい。スプーン一杯の土に、インドの人口と同じくらいの10億もの微生物がいること。10億・・・という数字は具体的に想像するのが難しいけれど、こうしてうまく視覚化されると、すんなり驚くことができる。一つの微生物があっという間に増殖して見開きの頁いっぱいになるところは、インフルエンザにやられたばかりの体には少々こたえるくらいだ(笑)

微生物は、私たちの目には見えないけれど、地球の生き物にとって大きな役割を果たしている。それが、美しくセンスの良い絵で、誰にでもわかるように描かれていて、なぜかしら、ふーっとため息をつきたくなる。この世界を支えている生き物たちの絶妙な役割分担について。どうして、こんなに多種多様なものが存在するんだろうという素朴な驚き。微生物の形の面白さや不思議さ。何もかもがやっぱり不思議で、何度も読んで、ふーっとため息。大きい、小さい、ということは非常に相対的なこと何だわ、と改めて思う。くじらは大きくて微生物は小さい。うん、確かにそうではあるけれど、それはあくまで「人間」を尺度にしているからそう思うだけのこと。微生物から見れば、猫も人間もくじらも、多分分解したり寄生するべき有機物、というだけのことなのだろうと思う。別の生き物の視点に立つだけで、これまでとは全く違う世界が見えてくる。その面白さを発見する喜びがこめられている科学絵本が私は好きだ。子どもと読んで一緒にびっくりするのが楽しい一冊。

2014年8月刊行

ルゥルゥおはなしして たかどのほうこ作・絵 岩波書店

本当にもう、隅から隅まで可愛い、高楼さんの世界がいっぱい詰まった本なのだ。小さな女の子のルゥルゥが、自分の部屋で可愛がっているぬいぐるみを主人公にしてお話をする。ぬいぐるみたちはそれが嬉しくて、いつも彼女がちりん、と鈴の音をたてて部屋に入ってくるのを心待ちにしている。このルゥルゥの部屋がこれまた可愛いこと、可愛いこと!この本自体、表紙から見返しの小花模様、目次も表題紙もすべてとても凝っていて、本の扉を開いて可愛いお話の部屋に入っていくような気持ちになれる。子どもたちは、この本の扉を開いてルゥルゥのお部屋のぬいぐるみたちの隣にそーっと座り、綺麗なカーテンのかかった窓から素敵なお庭を眺めてルゥルゥのお話を聞けるのだ。私が少女の頃に思い描いた幸せというのはこんな姿形をしていたんじゃないのかしらと思うほど、この本にはいっぱいに喜びが詰まっている。お話を聞く喜び、自分でお話を作る喜び。お話の中に入っていく喜び、そっと本を閉じて物語の世界からそっと帰ってくる喜び。ルゥルゥのお話は子どもらしく行ったり来たりするし、途中で思いつきが挟まったりするのだけれど、それがまた友達とのおしゃべりみたいで楽しい。盛大なツッコミ覚悟で書いてしまうが、私の中に眠っている(何年眠ってるかは秘密)女の子がこの物語の中で満足のため息をつくのが聞こえるのである。   『時計坂の家』『11月の扉』『緑の模様画』。私の大好きな高楼作品の少女達は現実と幻想の世界とのあわいにいて、二つの世界をかろやかに行き来する。彼女たちにとって「おはなし」は特別なものであり無くてはならないものだ。きっと高楼さんご自身もそんな少女だったのだろう。高楼さんも訳した『小公女』のセーラも、自在にお話を語る少女だった。『11月の扉』では主人公の爽子が物語の中で『ドードー鳥の物語』というおはなしを書く。ぬいぐるみと11月荘の住人を重ねて描くそのおはなしは、劇中劇のように物語の中での現実とリンクして爽子の内面を光と影を色濃くして語っていくのだが、このお話のルゥルゥは、爽子よりもっと幼いので、まだ物語に影は生まれていない。ルゥルゥの語るペパーミントの海の色のようにきらきらと透明でどこまでも幸せなのだ。こんなに曇りのないきらきらの幸せが言葉で紡げることに驚いてしまう。岡田淳さんといい、高楼さんといい、絵が書ける方の文章は独特のきらめきがある。ルゥルゥの部屋から見えるペパーミントグリーンの海の色は、『ルチアさん』(フレーベル館、2003)が持っていた水色の玉と同じような色なのだろうか。『ルチアさん』が私は大好きなのだが、あの物語の中の女の子も、確かルゥルゥという名前だった。何でもこじつけたがるのは、本読みの悪い癖かもしれないが、『ルチアさん』のルゥルゥが抱いていた遙かなものへの憧れは、この『ルゥルゥおはなしして』のルゥルゥにも溢れているように思う。

2015年2月刊行

あしたも、さんかく 毎日が落語日和 安田夏菜作 宮尾和孝絵 講談社

落語っていい。大阪の人間なので、上方落語は心と身体にすうっと馴染むし、江戸前の落語も言葉のキレが好きで最近は三代目志ん朝の古典をよく聞いている。落語の一番いいところは、あんまり偉い人が出てこないところだ。みーんな、どこか足りない。怠け者だったり、ちょっとおバカだったり、お人好しで騙されてばかりだったり、だらしなかったり。概して上方落語の方が、主人公の「あかんやっちゃ」感は強いように思う。(枝雀の「貧乏神」に出てくる男は、貧乏神に愛想つかされるくらいの怠けモンだ)でも、彼等は絶対に一人ではなくて、いつも町内の誰かが助けに来たり、「どんならん(どうしようもない)やっちゃな」と言われながら面倒を見てもらったり、大家さんに説教されたりしている。まあ、人間生きてたら色々あるやんか、あかんとこはお互いさんやから、助け合っていっとこか、という人の世の底を生きている人間の笑いが好きなのだ。

この物語の主人公の圭介も、クラスメイトに「あかんやっちゃ」と言われてがっくり落ち込んでいる。大阪弁で言う「イチビリ」、お調子もんの騒ぎたがりの圭介だが、それが徒と成って「ありがた迷惑」「空気を読め」と言われてしまうのだ。自信を無くして意気消沈してしまった彼の前に、行方不明になっていたおじいちゃんが現れる。圭介のじいちゃんは、典型的な一発狙うタイプで家族に長らく迷惑をかけ、息子ともケンカばかりしている。そして年いってから落語家に入門するが芽が出ず、酒に逃げて挙げ句の果てに師匠に破門され、孫の貯金を使い込んで家出してしまうという、「どんならん」ぶりなんである。そのじいちゃんが、人知れず落語の修行を積んで、一発逆転を狙って落語コンクールに出るという。信用できない圭介の前で、じいちゃんは見事な「さくらんぼ」という落語を披露するのだ。

このじいちゃんの人となりというか、どんならんけど、あんまり憎めへん感じ、アホやでほんまに、という可愛げを、安田さんはほんまに上手いこと書いてはると思う。この「さくらんぼ」というのは、頭におおきな桜の木が生えて人がそこでどんちゃん騒ぎをする、うるそうてかなわんと抜いたらそこに池が出来て・・・というもの凄いシュールなネタで、よっぽど勢いがないと人を笑いに引き込めない。じいちゃんは、そのネタで人を引きつけられるほど修練を積んだのだ。その必死さ、ひたむきさに圭介はじいちゃんを応援したくなる。どっちかいうたらイチビリ同士、という共感もありつつ、圭介はクラスの中で浮いてしまった自分とじいちゃんが重なってみえる。もっぺん、家族にええとこ見せたいじいちゃんを応援する圭介を、友達が手伝ってくれる。圭介は自分も友達連中も皆もそれぞれにしんどさやアカンタレなところを抱えていることを知るのだ。

「みんなそれぞれ弱っちくて。 陰でこっそり落ち込んだりして。 けど、そやから、さっきみたいに、みんなで思い切り笑えたらええな。」

そう、これが「情(じょう)」というもんやなあとしみじみ思う。失敗したら、あかん。いっぺん落ちこぼれたら、そこで終わり。空気読んでおとなしくしとかな、頭打たれる。滅多なこと言うたら袋だたきやで、という空気が今、えらい強いような気がする。息詰まる。正直、今、子どもに生まれてたらしんどいやろな、としみじみ思うのだ。「笑う」というのは、自分も相手も一度突き放して眺める余裕がないと生まれない。頭を冷やして「お互いアホやなあ」と思い合うこと。全部丸やなくていい。あしたもさんかくで、うまいこと転がれなくて、角っこが削れたり上手いこといかんかもしれんけど、一緒に笑うとこから始めようや、というこの物語の暖かみが胸に沁みた。いつだったか、図書館のカウンターで落語をたくさん借りていた高校生が、横にいた友達に「落語はええで。落語は世界を救うで」と力説していたことがある。すんでのところで「そや!おばちゃんもそう思うわ」と言いそうになったが、まさにこの物語を読んでそう思う。笑いのない世の中になったら終わりやがな。サザンの年越しライブで桑田さんがしたパフォーマンスに右翼が抗議をして、とうとう謝罪騒動になったらしい。反日、とか国賊、などという言葉がまかり通る世の中になってきた。笑いや風刺を許さない流れの果てに何があるのか考えると、ぞっとする。毎日が落語日和な世の中のほうが、なんぼええかわからへん。誠に真剣に、心からそう思う。

2014年5月刊行