あらしの島で ブライアン・フロッカ文 シドニー・スミス絵 原田勝訳 偕成社

 シドニー・スミスの絵が、すばらしい。いまにも嵐がやってこようとするときの、空の色や風の匂い、ざわざわする空気感が、みごとに描き出されている。嵐が来るときの、非日常感。怖いけど、ワクワクするような、体中がざわめくような、あの感じ。いつもと違う顔をしている場所をめぐってみたくなるのは、誰でも経験のある感情だ。 

 

「もう、気がすんだ? それとも まだ?

 手をひっぱって、ひっぱられて、ぼくらはさきへすすむ」

 

海も空も暗くなって、それでいて雲の切れ間から光が射して。複雑な表情を見せる瞬間が、ページをめくるたびに押し寄せ、ドキドキする。見開きいっぱいに展開するところと、横に長く切り取った絵を重ねていくところと、変化とリズムがあるのもいい。嵐が吹き荒れるギリギリのところを駆け抜けながら、五感が研ぎ澄まされていく。迫力に押し流されて、細部の美しさに引き込まれる。いいなあ、と、溜息をついて、もう一度、はじめから読む。何度もめくりたくなる。何度も体感したくなる。この世界は、こんなに美しくて、不思議に満ちているということを。

こうして、本棚にシドニー・スミスコレクションが増えていく。 

 

 

いち にの さん! スギヤマカナヨ 童心社

 

日本で初めて出版される多言語の赤ちゃん絵本。 

 この絵本は、9つの言葉で書いてあります。日本語、中国語、ベトナム語、韓国語、フィリピノ語、ポルトガル語、英語、ネパール語、スペイン語です。日本語ではない言葉を話す人にも楽しんでもらえるように作りました。言葉を読まなくても、絵を見ておしゃべりするのでもいいのです。(童心社HPより) 

 赤ちゃんにファーストブックをプレゼントする「ブックスタート」の仕事を長らくさせてもらっている。最近、海外から来られて、日本で子育てする方が、ぐんと増えた。ブックスタートNPOが用意してくださっている多言語の案内冊子も添えるが、プレゼントするのはもちろん日本語の赤ちゃん絵本だ。皆さん、とても喜んでもらってくださるが、母国語で書かれた絵本もあると嬉しいだろうな、といつも思う。この『いち にの さん!』は、9か国語で書かれていて、絵も明るく楽しく、視覚的にとてもわかりやすい。赤ちゃん絵本は、絵本のなかでも最も難しいジャンルで、色や形が洗練され、リズムがあって、読んだときに心地よい、動きがあって赤ちゃんの目でもとらえやすくて…と、様々な条件をクリアしないと、これ!という作品にならない。この絵本は、スギヤマカナヨさんのセンスと心遣いが、ぎゅっと詰まって、子供もだけれど、大人にも楽しい一冊だ。それぞれの言葉をどう読むのか、後ろにちゃんと読み方がついているし、奥付のQRコードから、各言語の朗読も聞くことができる。世界には、こんなに色々な言葉があって、それでいて、「友達」「だいすき」という共通の感情は同じなんだな、ということもわかる。 

言葉は扉で、居場所でもある。壁をこえて、たくさんの子供たちの居場所が、絵本のなかにできるといいな、と思う。

One Day ホロコーストと闘いつづけた父と息子の実話 マイケル・ローゼン 文, ベンジャミン・フィリップス 絵, 横山和江 訳鈴木出版

 

表紙に描かれているのは、たくさんの顔、顔、顔。眼鏡をかけたり、帽子をかぶったり、スカーフやストールを巻いたり。赤ちゃんや子どもを抱いた人もいる。皆、表情には影が射して唇は引き結ばれ、言葉にしがたい思いを、必死に飲み込んでいるように見える。服には、黄色のユダヤの星が縫い付けられている。X(旧ツイッター)で、Auschwitz Memorialというアカウントが、アウシュヴィッツに収監されたユダヤ人の写真を、毎日のように一人ずつ紹介しているのだが、彼等のまなざしと表情が、そのままこの表紙に書き起こされているようで、胸が痛い。 

 

この絵本は、第二次大戦中、パリから収容所に強制連行された、ハンガリー系ユダヤ人の父と息子の物語だ。1940年にパリがナチスドイツに陥落し、ヴィシー政権はナチスに協力してユダヤ人の連行を推し進めていた。この物語の「ぼく」と「父さん」はレジスタンス活動をしていて警察に目をつけられ、収容所に送られてしまう。ナチス政権下でレジスタンス活動をするということは、反戦ビラを配った白バラのショル兄弟が絞首刑になったことを思い出すまでもなく、大変勇気のいることだ。しかし、そんな二人にとっても、収容所の生活はつらすぎた。飢えた体に重労働がのしかかる。アウシュヴィッツ収容所にいたプリーモ・レーヴィが、水さえも与えられずに工事現場のほこりの中で働かされ、いつも渇きにさいなまれていたとき、一本の管から滴り落ちる水を、友人と二人でほんの少しずつ舐めつくしたことがあったという。たったコップ一杯分ぐらいの水だ。しかし、そのことを知った他の友人との間には、解放後もずっとしこりが残ったという。その数滴の水が、生死をわけるほどの重みをもっていたということなのだ。

 

昨日のことは、かんがえない。

明日なんて、ないかもしれない。

 

「その日、一日だけ」を生き延びる。ただ、それだけを考える日々。人間らしい暮らしというのは、昨日と同じ今日があり、今日と変わらぬ明日を送ることができるはず、という日常の連続性の上に成り立っている。そんな人間の尊厳すべてを奪う収容所の暮らしの過酷さが、この言葉に込められている。でも、彼らのいた収容所は、通過収容所で、実は、もっとひどい収容所に送られる前にいれられるところだったのだ。そこから毎日ユダヤ人たちがどこかに連れていかれ、帰ってくることはなかった。どこか、というのは、恐ろしいガス室のある、絶滅収容所だ。もちろん、彼らはプリーモ・レーヴィがいた悪名高きアウシュヴィッツやトレブリンカで何が行われているのか知るよしもなかったが、列車に乗せられてしまえば、もう戻っては来られないことだけはわかったのだ。どこかわからないその場所を、彼等は「ピチポイ」と呼んでいた。「ピチポイ」という、どことなく滑稽な、それでいて空虚な語感には、底知れない恐怖も、恐怖だけに支配されたくない抵抗の意志も込められているように思う。これ以上、尊厳も命も失いたくない。ピチポイにだけは行きたくなかった彼らが収容所で何を始め、その後どうなったか。それは、この絵本を読んで自分で確かめて頂きたい。極限のなかで、彼らがどう絶望と闘い、自分たちを押しつぶそうとする力に抵抗しようとしたかを、だ。

 

この絵本に書かれているのは、地獄の窯で煮詰められたような絶望だ。しかし今、その暗闇は、描かれなければならない大切なものだと思う。ナチスのホロコーストの物語は、これまでにもたくさん書かれてきた。でも、ガザで繰り返されている民族浄化の虐殺を目の前にして、まだまだ、私も含め、この虐殺を止めることができなかったすべての者たちは、ホロコーストの教訓を、真の意味で受け止めきれていないのだと思っている。この表紙の人たちのまなざしは、今、殺されていこうとする人たちのまなざしなのだ。

 

しずくと祈り 「人影の石」の真実 朽木祥 小学館

 ライフワークとしてヒロシマを描き続けてきた朽木祥さんの最新刊。広島平和記念資料館に収蔵されている「人影の石」をテーマにした、史実を忠実に踏まえた物語だ。実は、この「人影の石」の主ではないかと言われている「越智ミツノ」さんは、朽木さんの姻戚にあたる人で、ミツノさんの一人娘の幸子さんは子どもの頃にお世話になった方だったらしい。この石に残った人影が誰のものであるかを確定することは、この物語に詳しく書かれているように、非常に難しいことだった。「人影の石」があったのは、ほとんど爆心地ともいえるような場所だ。三千度から四千度になったという熱線を浴びて、ほとんどの人が即死し、壊滅的な被害が出た混乱の極みのなかで、たったひとつの死の状況を特定することが、いかに難しいか。しかし、難しいからこそ、この物語は書かれねばならなかったに違いない。

 「人影の石」のモチーフは、『八月の光 失われた声に耳をすませて』(小学館)の冒頭に収録されている短編「石の記憶」にも取り上げられているが、今回は、歴史ドキュメントとして、非常に緻密に再構成されている。幾つもの時と場所、眼差しを重ねながら、「あの日」を立ち上がらせていく過程が見事だ。物語としては、一気に読めるぐらいのページ数でありながら、原爆という巨大な、捉えがたいものに肉薄する扉がたくさん秘められている。原爆のことは学校で習っても、冒頭に描かれる原爆スラムのことまで知っている人は、あまりいないかもしれない。そこにずっと暮らしている人たちと、原爆のことを考えずに生きていける人たちとの断絶から紡がれる物語は、零れ落ちていく人々の記憶を、パズルのピースを埋めるように丁寧に拾い集めていく。原爆投下の日に人々が体験したこと、また何とかあの日を生き延びても、家や家族を焼かれてしまったあと、傷ついた心と体を抱えて生きてゆかねばならなかったこと。声も出さずに消えていった人たちのこと。被曝しても被爆者と認められず、何の支援も受けられなかった朝鮮の人々のこと。

 巨大な暴力に押しつぶされてしまったのは、「人間」なのだ。このことを忘れてしまったら、ミツノさんと、娘の幸子さんが味わった地獄は、再び未来に蘇ってしまう。ガザで繰り返されているジェノサイドを目の当たりにし、核兵器の使用が再び現実性を帯びているいま、これは腹の底に落ちてくる恐ろしい確信だ。 先日、「パレスチナ・イスラエル取材記 壁の外側と内側」という映画を見に行った際、この映画を作った川上泰徳氏の舞台挨拶を聞く機会があった。映画は川上氏がイスラエルとヨルダン川西岸のパレスチナ自治区で人々に直接取材した映像がそのまま使われていて、ニュース報道ではわからない人々の生の声を伝えてくれる。日常的に行われているパレスチナの人々へのイスラエルの暴力と抑圧は痛ましく残酷なものだが、ほとんどのイスラエルの人々は、その事実を知らない。イスラエルはパレスチナの人々を閉じ込めるために巨大な分離壁を作ったが、その壁は「外側」を遮断し、「内側」に自らの加害への無関心を育てている。「無関心」は暴力の温床になっているが、その暴力は「自分とは関係ない」人々を殺すだけではなく、イスラエルの人々自らの人間性を殺してしまっているのではないかと川上氏は言う。自分の知りたい情報の中だけで過ごすのは、SNSのフィルターバブルのなかで生きている現代人すべてに共通していることで、これは何もイスラエルの人だけの問題ではないのだ、と。しかし、絶望的にも思えるこの状況のなかでも、イスラエル人のなかに、少数ではあるがパレスチナの人々と交流を持ち、「友人」になろうとする人たちがいる。このささやかな営みは、袋小路から脱する、微かではあるが、確かな道標になるのではと川上氏は言う。パレスチナの人々は、何度叩きのめされても、家を壊されても、洞窟の一隅に薔薇を飾り、人間らしく生きようとする。それは、人間らしく生きて日常を送ることが、ささやかでも確かな抵抗の印だからだ。そのパレスチナの人々と友人になって初めて、イスラエルの人々も人間性を回復できるのでは、と。この話を聞きながら、この人間性の回復のあり方は、物語の中に生きる人々の喜びと痛みを共にし、思いを馳せることにも通じるのではと、私は思ったのだ。 

ささやかな、小さな命のしずくは、戦争で一番先に踏みつぶされる。あの日の朝、ミツノさんは銀行に出かける前に、縁側に布団を干していく。あの頃、布団は、何度も綿を打ち直し、仕立て直して、とても大切に使ったものだった。夫亡きあと、娘との暮らしを守ってゆかねばならぬという母の思いが、ささやかな行いのなかにも宿っている。記憶の糸を伸ばし、張りめぐらせて失われた命のしずくを蘇らせる。それは、巨大な暴力への、ささやかでしぶとい抵抗であり、人間性を失わぬための道標でもある。そのしずくをこの手に受け、命の重みを感じることもまた、このやり切れない世界に生きながら人間としての心を失わぬための、大切な抵抗だ。またひとつ、灯された平和へのあかりが、大きく広がっていくことを願う。

2025年10月刊行

 

 

 

 

最新刊「日本児童文学 7・8月号」特集「記憶を伝えるという文化」

 

自分のインタビューを載せてもらったから、というのではないが、今月号の「日本児童文学」(日本児童文学者協会)が、読み応えがあって面白い。 

まず、「雨あがりに虹が立つように」という井上良子さんの詩が、心に刺さる。井上さんは、この詩に本当のことだけ書いたという。家族や親族の人々が原爆投下によって舐めた辛酸を、熱のある言葉で連ねてあるのだが、連ねた記憶に詩人の魂が注がれており、力強くも琴線に触れるメッセージとなっている。

朽木祥さんの「『負の記憶』を伝えるということ」、中澤晶子さんの「八十年目のひろしまで」というエッセイには、原爆の物語をずっと書いてこられた方の誠実さと責任感が伺えて背筋が伸びる。西山利佳さんの「伝える語り・伝わる語りーー朽木祥作品を通して『伝える』を考える」と相川美恵子さんの「中澤晶子作『ワタシゴトー14歳のひろしま』の越え方を『ワタシゴトー14歳のひろしま』から学ぶーー「原爆を発見する物語」のこれから」という評論にも、気づかされることが多かった。そして、指田和さんの「日本原水爆被害者団体協議会 田中煕巳さんとの対話」は、指田さんならではの、貴重な記録だと思う。田中さんの温かいお人柄とともに、憲法九条についての厳しい言葉や、核兵器廃絶に今もたゆまぬ努力をされている姿勢など、学ぶことがたくさんあった。

「繁内理恵さんに「戦争」と「児童文学」について聞く」という、拙著『戦争と児童文学』(みすず書房)についてのインタビューは、9ページにわたって掲載していただいた。何時間も調子にのってしゃべりまくってしまったことを、的確にまとめて頂いて感謝しかない。本屋さんからの取り寄せもできるし、全国の図書館で読めると思うので、良ければ手にとって頂けると嬉しい。 

ともちゃんとうし 市川朔久子作 おくやまゆか絵 岩崎書店

大好きな市川さんの本が久しぶりに刊行されて、とても嬉しい。「市川朔久子はじめての絵本」(帯より)で、絵はおくやまゆかさん。おおきな牛がどーんとこっちを見ていて、ちんまり主人公のともちゃんが乗っている表紙がインパクトがあります。どんな中身か、覗いてみたくなりますね。

学校に行くのがいやで泣いているともちゃんが角を曲がると、そこには「のっしり」すわりこんだ大きな牛。牛は、ともちゃんに「もっ」と言い、ともちゃんは牛の背にのって、

のっ しり、のっ しり

ぎっ たこ、ぎっ たこ

歩き出すのです。「もっ」(この牛の声がとても好き。話しかけられてるみたい)という牛と、のーんびりしたテンポ。ああ、いい。毎日のルーティンがいやになっちゃうとき。心に引っかかることがあって、逃げ出しちゃいたくなるとき。こんな風に、牛の背に揺られてお散歩できたら、どんなにいいか。シンプルな筋立てですが、いつもの道の角を曲がると牛がいる、という素敵な非日常に誘う魔法が、とても丁寧にちりばめられています。

牛の背はきっとあったかくて、時々道草くったりして、急ぎたくない気分にぴったり寄り添ってくれると思います。大人もだけれど、子どもだって、最近とっても忙しくて、ひとりになれる時間もあんまりないかもしれません。読んでもらうのもいいけれど、この絵本をひらいて、ゆっくりゆっくり声に出して自分で読むのもいい。タイパとかコスパじゃない、「生き物の時間」に戻れるひと時を過ごせます。

とっても すてきな おうちです なかがわちひろ文 高橋和枝絵 アリス館

先日、津久井浜にある「うみべのえほんやツバメ号」で開催されていた「高橋和枝絵原画展」におじゃましたときに、この絵本の原画を拝見した。当日は37度になろうとする酷暑で、その前に行った上野では息も絶え絶えになったが、京急の特急で向かった三浦半島の津久井浜という、海風が吹き渡るところはとても爽やかで、生き返ったような気持ちになった。そして、そこで出会った絵本の原画も、私を生き返らせてくれるような気持ちにしてくれたのだ。一階には『ねこもおでかけ』(朽木祥 講談社)の原画。大好きな茶トラの猫、トラノスケがとっても可愛くて、ご自分も猫を飼ってらっしゃる高橋さんの猫愛があふれていた。猫愛は昨年出版された『うちのねこ』(アリス館)にもあふれているのだが、そのモデルの猫さんとの日々を綴った手作りの冊子も拝見できて、とても嬉しかった。そして、二階のギャラリーには、この『とっても すてきな おうちです』の原画が並んでいたのだ。

 

「幸福という言葉が、どのような内容を持っているかは別問題としても、私は幸福になろうと思うし、そう希望することを許されている筈だ。私たちはあまり多くの不幸を知りすぎたので、自分がどんなに不幸であるかということをはっきり知る力を失ってしまっており、そういうほんとうに不幸な状態に完全に慣らされてしまった結果、ばくぜんと、そういう不幸な状態を最もふつうの状態のように考え、そのことから幸福という言葉の本当の意味の重量を知ることができなくなっている。」(石原吉郎「一九五六年から一九八五年までのノートから」石原吉郎詩集、講談社文芸文庫、二〇〇五より)

 

「幸せ」とは人によって違う。特に幸せを欲望と結びつけたときには。しかし、シベリア抑留という生と死の極限を体験した石原吉郎にとっての「幸せ」とは、欲望をかなえる喜びとは違うような気がするのだ。それは、人間が人間として、当たり前に、深々と呼吸をし、生活するようなことではないかと思う。この絵本には、その「幸せ」が見事に息づいている。何も特別なこともない、ただ日の当たる春の庭。アリや、クモや、ツバメが巣を作り、猫と子どもが日向ぼっこをする。それぞれの生き物には「おうち」があって、命の営みがある。お互い食べたり食べられたり、という緊張感はあるけれど、硬く、重たく炸裂し、あたり一面を焼け野原にするものなど何も降ってはこない、共存を許された穏やかな場所。陽射しのなかで、お日様の匂いのする猫の背中に顔をくっつけて、命たちの小さなざわめきを感じながら、うとうと、ごろごろ、する。子どものほっぺと膝小僧も、ほんのり色づいている。「これが/わたしたちの おうちです。/おひさま きらきら かぜが そよそよ/つちが しっとり ほっこり あたたかい。」ツバメの巣のある縁側で、うーんと昼寝のあとの伸びをする頁の絵に、魅入られる。高橋さんの絵は質感がとても柔らかい。植物も鳥も虫たちもたくましい生命力を持っているが、同時にその命の湛えられている体の輪郭はとても柔らかくて傷つきやすい。だからこそ、命は成長するし、形を変えて生き続けることもできるのだ。その儚さゆえの命の力がどの絵からも伝わってきて、心を包んでくれる。

 

ここ数年、そして去年の秋から特に、何をしていても気持ちの裏側に、今、ガザで行われているジェノサイドのことがべったりと張り付いて、消えない。子どもたちが飢え、殺されていくのを世界中が見ていることを思うたび、「幸せ」という言葉自体が崩れ去っていくような気さえする。この状態に自分自身が慣れてしまっている、と思うときには特にそうだ。

「幸せ」はここにある。子どもが柔らかく伸びをし、風がそよぎ、洗濯物がはためいているこの庭に。この「幸せ」を心ゆくまで享受するのはすべての子どもがもっている権利だし、この世界を担保するのは大人の役割だ。改めてそう思う。そう思える出会いがあって、ほんとうに良かった。『ねこもおでかけ』と、去年出版された『うちのねこ』(アリス館)にお宝サインを頂いて、ほんとに「幸せ」な時間だった。

きみは、ぼうけんか シャフルザード・シャフルジェルディー 文, ガザル・ファトッラヒー 絵, 愛甲恵子 訳 ブロンズ新社

 

窓ガラスが割れ、家族の写真も壁から落ち、一目で爆撃されたことがわかる部屋に兄と妹がいる。両親の姿はすでにない。戦車が迫る町から逃げ出さないと命があぶない。途方に暮れる幼い妹に、兄は「ぼうけんかになりたくない?」と言葉をかけ、一冊の本とともに、戦火から逃れ、難民のひとりとなって歩き続ける。生き延びるために、兄は物語の魔法の力を妹と分け合おうとした。次々と直面する苦難に打ちひしがれるたび、兄はその魔法が解けないように、妹に、これは「ぼうけんか」になるための旅だと必死に語り続ける。それは、自分をはげます魔法でもあるのだ。

「さあ、おやすみ……。/ぼうけんかには こわいものなんて なにもないんだ。/もちろん、くらやみだって」

小さな肩に背負う妹の命と、胸に抱えた悲しみ。複雑な気持ちを湛えた兄の表情が切ない。その兄が疲れ果てて力尽きようとしたとき、今度は妹が再び兄に魔法をかけようとする。この、小さい子どもたちが抱いている、大きくて尊い愛情が、柔らかく繊細な絵で伝わってくる。表題紙と最後の頁の折り鶴に心が掴まれる。この物語が、国境を、時代を超えた、苦しみと困難に直面している子どもたちの物語であることを教えてくれているようだ。

殺傷能力のある武器を作り、輸出することを推進しようという動きが活発化している。軍事の専門家、と言われるひとたちの口からも「どんどんやったらいい」などという言葉があちこちで聞こえて驚く。平和主義というこれまで一応でも原則とされていたことが、冷笑と蔑みに汚されていく。そのしたり顔の欺瞞を打ち砕くのは、この子どもが抱く悲しみと愛情ではないかと、私は思う。

この絵本は。2021年度 プラチスラバ世界絵本原画展金杯を受賞している。

ねこもおでかけ 朽木祥作 高橋和枝絵 講談社

 家の近くを飛び交う鳥たちを見ながら、数メートル、時に数千メートルの高度まで飛べる鳥たちには、私たちと全く違う世界が見えているのだろうといつも思う。
 うちの猫たちも、少し開けた窓から外の空気を嗅ぐとき、この町内に住んでいるもの、通り過ぎていくものの気配を、アンテナをびんびん立てて感じている顔をしている。
当たり前だけれども、猫は人間とは違う種族なので、同じ空間にいても、私たちには見えない異世界への扉を持っている。それでいて、寂しがり屋だったり、甘えん坊だったり、やきもちを焼いたり、いたずらして隠れてみたり、一緒に暮らしていると、感情や心のありようが、驚くほど人間と変わらない。
この物語には、そんな猫の魅力がいっぱいに詰まっている。三匹の猫と暮らす私の心のツボにすっぽりはまってくる素敵な物語だ。

主人公の小学生の信ちゃんが愛犬のダンと公園で散歩していると、一匹の茶トラの子猫がダンの足元に走り込んできた。思わずかぶっていた野球帽に入れて連れて帰った、かぼちゃプリンのような色のトラノスケは、大きなダンもタジタジの元気な子。

余談だが、朽木さんの物語に登場する、優しくて食いしん坊のダンが、ほんとに好きだ。彼は、犬種族の信頼と愛情を体現するような存在だなあといつも思う。信ちゃんと、心配性のお父さん、動物大好きのお母さんに可愛がられて、トラノスケは家族の一員になっていく。大きくなった彼は、「ねこのごようじ」のためにお出かけするようになる。トラノスケがどこに行くのか気になる信ちゃんは、こっそりあとをついていき、「ねこのごようじ」の秘密をさぐってみるのだった。
うちにも、トラノスケとそっくりの茶トラくん(現在16歳)がいて、その昔、わが家の周りが田んぼだらけの頃はお外で遊んだりしていたのだ。でも、あっという間に田んぼが埋め立てられ、車の通りも多くなって、心配性の私は、信ちゃんのお父さんのように、彼が帰ってくるまで胃に穴があくほど心配で心配でいてもたってもいられず、ここ十年以上、室内飼いを貫いている。でも、今も思い出す。遊び疲れて、満ち足りて眠っていた寝息。お外に出るとき、意気揚々と弾んでいた足取り。カエルを咥えて帰ってきて大騒ぎしたこと。そして、トラノスケの親友のコタロウと同じように、仲良しのハチワレがいて、いつも一緒に遊んでいたこと。一日遊んで帰ってきたうちの子から、なんともいえないお日様の匂いがしていたこと。あれは、平和の幸せな匂いだ。

遊んで、可愛がられて、おなか一杯食べて、コテンと寝こけて。この物語には、そんな、猫と子どもの幸せがいっぱいに詰まっている。猫と人間、犬と猫、犬と人間。お互い持ってる時間軸も種族も違うけれど、お互いの聞こえない声に耳をすませて、愉快に、共に生きることが出来る。出来るんだよ、という声が聞こえて、ここ最近の、恐ろしい出来事に冷え切った心と指先をふんわり温めてくれる。この物語のトラノスケと信ちゃんは、光村図書の三年生の国語教科書に掲載された「もうすぐ雨に」にも登場するふたり。朽木さんの物語は、先行作品の世界と重なりながら、波紋のように広がり、深まっていくのが、読んでいてとても嬉しく、楽しい。物語と友だちになることは、自分の座る椅子がそこに出来る、ということだ。高橋和枝さんの可愛い絵は、トラノスケと信ちゃんがいる、暖かい陽だまりの居場所に読み手を連れていってくれる。特に、裏表紙のトラノスケのお尻がお気に入り。猫がお尻を見せてくれるのは、友情の証。こっちにおいで、と誘ってくれている。子どもの持つ、小さきものへの優しい眼差しが、トラノスケの心の声となって響いてくる、子どもと共に大人にも読んでほしい作品だ。

 

 

夏に、ネコをさがして 西田俊也作 徳間書店

細やかな、心の隅々まで満たされるような物語だった。大好きだった祖母のナツばあが、急に亡くなってしまった。あまりに突然の別れの日から、ずっと怖い夢の中にいるような気持ちの佳斗と両親は、ナツばあが住んでいた古い家に、引っ越すことにする。ナツばあは、テンちゃんというネコを飼っていたのだが、佳斗たちが越してきてすぐに、いなくなってしまう。ちょうど夏休みの佳斗は、姿を見せないテンちゃんを探して、町中を探して歩く。

私も猫を探して歩いたことがあるのでよくわかるのだが、どこにでも入れる、小さい体の猫の目線で町を見ると、見慣れたと思っていた町が摩訶不思議なダンジョンに思えてくる。ビラを作ってあちこちに貼らせてもらったり、見知らぬ人にも声をかけて手渡ししたりすると、「見かけたら知らせますね」と、思いがけない優しさや心遣いに出会ったりもする。佳斗もテンちゃんを探して歩くうちに、いろんな人と出会う。ナツばあの知り合いや、思い出にもたくさん出会うことになる。

この物語に登場するひとたちは、みんな心のうちに大切な別れや喪失を抱えている。ネコさがしを手伝ってくれる蘭も大好きな猫のメ―を亡くしている。そして、蘭のおばあちゃんは、戦争のときに、供出させられてしまった猫のことを、ずっと忘れられないでいる。それは確かに痛みだが、愛する人や生き物を失った痛みや悲しみは、人が人であることそのものだと、この物語を読みながら思えてくる。佳斗は、いなくなってしまったテンちゃんに導かれるように町を歩き、心のなかのナツばあに出会い続ける。そこにはもういなくても、愛したものたちの話を一緒にすることで、心のなかにひとつ、あかりがともる。物語とは、そんなあかりを、たくさん胸にともすことかもしれない。死者とともに生きることで、人は幾重にも重なる豊かな時間を生きるのだ、きっと。佳斗が、探していたテンちゃんと再会できたのか、それは物語を読んでいただきたい。親子で、ゆっくり読みたい一冊。

 

おばあちゃんのにわ ジョーダン・スコット文 シドニー・スミス絵 原田勝訳 偕成社

昨年刊行された『ぼくは川のように話す』のコンビによる絵本。私はシドニー・スミスの絵がとても好きだ。『このまちのどこかに』(せなあいこ訳 評論社)の冬の都会の風景も忘れがたいし、『ぼくは川のように話す』の、川面のきらめく光にもとても心惹かれた。この『おばあちゃんのにわ』の表紙も、とてもいい。おばあちゃんとぼくのまわりを、うっすらと取り巻く光。まるで二人を祝福するかのようだ。シドニー・スミスの描く光には、時間と季節の表情がある。二人が朝食をとるシーンの朝の光。庭を歩く夕方の光。雨の日にガラス窓から射す淡い光。それが見事に心を映し、響いてくる。

作者であるジョーダン・スコットのおばあちゃんは、ポーランドからカナダに移民としてやってきた人だ。第二次世界大戦中は家族とともに、非常な苦労を味わったとのこと。第二次世界大戦は、ナチスドイツがポーランドに侵攻したとことを皮切りにはじまった。ユダヤ人に対する弾圧も、最も激しかった。有名なトレブリンカの収容所も、アウシュヴィッツの収容所もポーランドにある。ポーランドの総人口の五分の一が大戦中に亡くなっていて、大戦後はソ連の鉄のカーテンの向こうに組み込まれた。今、ロシアと戦争中のウクライナとは隣同士だ。『炎628』や『異端の鳥』という映画を見ると、当時の東欧がさらされていた暴力の恐ろしさの一端が垣間見える。垣間見えるだけで、本当のところはとてもわからない。いろんな当時の記録を何冊読んでもわからないことだらけだ。占領、飢餓、告発、逮捕、連行、病気。このおばあちゃんは、そんな苦難をかいくぐり、故郷から離れ、今は孫と一緒に、穏やかな光に包まれて歩いている。表紙のおばあちゃんの背中は、その幸せなひと時の重みを語っている。

元ニワトリ小屋だったというおばあちゃんの家が、とてもいい。朝の光に照らされて、猫がいて、いろんな果物や野菜がつるされたり、積まれたりしている。ビーツは、おばあちゃんの故郷の味だろうか。ぼくが食べ物をこぼすと、おばあちゃんはさっと拾い上げて、キスをしておわんに戻す。おばあちゃんの中にはたくさんの記憶が息づいているのだろう。言葉の壁があっても、いや、うまく言葉にできないことが、毎日の積み重ねのなかで「ぼく」に伝わっている。この穏やかさが、静かに満ちる安らぎが、実はとても尊く、得難いものであることが、繰り返して読むうちに伝わってきて、心がしんとする。過去と未来と今が、すべてこの一冊のなかで憩っているようだ。手元において、何度も開きたい絵本だ。

 

 

 

『へそまがりの魔女』 安東みきえ文 牧野千穂絵 アリス館

牧野千穂さんの絵と、安東みきえさんのテキストがお互いの良さを引き立て合って、おしゃれで、小さな宝箱のような一冊になっている。牧野さんの赤の使い方が、なんとも心憎くて、洗練されている。絵を眺めているだけで一日過ごせる。魔女が王子に呪いをかける、というおとぎ話の定型をうまく反転させて、どこか不穏な、それでいて心温まるファンタジーに仕上げている。一抹の不穏さと温かさが同居しているのがとても素敵だ

へそまがりの、年老いた魔女のところに、ある日少女が迷い込んでくる。身寄りのない少女は、魔女の家で骨身を惜しまず働くのだが、魔女はいつもそっけない。しかし、実は魔女は、誰かを愛して裏切られることに傷ついてしまっただけで、実は、帰りが遅くなった娘を心配して何も手につかなくなってしまうほど娘を愛しているのだ。大切なものができてしまうと、失うのが怖くなる。その怖さはよくわかる。

いいかい。良いことの裏には悪いこともくっついてくる。ふたつはうらおもてにできているんだ。良いことばかりを手にするわけにはいかないんだよ。」

この言葉を心に刻んでおくと、息をするのが少し楽になるかもしれない。祈りと呪いも裏表。呪いを祝福に変えるラストが嬉しい。

 

 

かぜがつよいひ 昼田弥子作 シゲリカツヒコ絵 くもん出版

大迫力。これは、子どもと一緒に読むと、ほんとに楽しいと思う。

風がびゅうびゅう吹く日に、家でお留守番しているお姉ちゃんと弟が、しりとりを始める。すると、窓の外を、しりとりの言葉で言ったものたちが、どんどん飛んでいく。おうむ、むしめがね、ねこ、こま・・・まじょ!!窓の外に飛び交うものは、どんどんシュールさを増していく。しりとり、っていうものは段々、脱線していくのを楽しむもの。そして、脱線していくとともに、窓の外も物凄いことになっていく。突き抜ける。気持ちいい!

どこまでいくの?というくらい、宇宙の果てまで飛躍したあとの、回収の仕方というか、日常への回復の仕方も面白い。

ナンセンス、というのは滅茶苦茶をやったからと言って手に入るものではない。「しりとり」という言葉の縛りが圧力を生み、絵の力で突き抜けていくのが、楽しくてわくわくする。個人的に「ずるいいるか」と「ろっぴきのまぐろ」がたまらなく好きだ。読み聞かせにもとての良いのではと思う一冊。

 

ぼくって、ステキ? ファン・インチャン文 イ・ミョンエ絵 おおたけきよみ訳 光村教育図書

授業中に、ふと隣の席の女の子が、ぼくを見て「すてき・・・・・・」と言った。

もしかして、ぼくのことを「すてき」って言ったのかな?と思ってから、いがぐり坊主の「ぼく」の日常がきらきらする。瞳だってきらきらしてしまうし、ご飯だっておいしいし、なんだかそのことばっかり考えてしまう。「すてき」ってどういうことなんだろう、ってずっと考える。でも、次の日学校にいった「ぼく」は、彼女が何を見て「すてき」と言ったのかわかってしまう。

この、勘違いしてしまったときの恥ずかしさというか、やっちまった感とか、いい気になっていた自分が恥ずかしい気持ちとか、わかりすぎるくらいにわかる。少年よ、落ち込むことはないんだよ、誰だって一度や二度、いや、何度もその穴に落っこちるものなのだ。いい歳をした大人になってもそうだし、大人だって、その穴に落っこちたときは、なかなか這い上がれないものなんだよ。うん。

それでもこの絵本を読んだあと、優しい気持ちになれるのは、「すてき」という言葉の魔法が、ポジティブに描かれているからだろう。この本のなかで「すてき」と言われているのは、一面にはなびらが散り頻る満開の桜の木。自分の思い込みが恥ずかしくて悲しくなってしまった「ぼく」の心は、「すてき」な桜になぐさめられる。ああ、「すてき」ってこういうことなんだなあと心に刻むのだ。花の命があふれて、皆を幸せにしてしまう。その不思議。すてきなものを見て幸せを感じたり、慰められる人の心のあり方が、愛しいなと思う。さくらのピンクにふんわりと包み込まれるような、優しい絵本だ。

 

リジーと雲 テリー・ファン&エリック・ファン作 増子久美訳 化学同人

淡い黄色とセピア色を基調にした配色がとても美しい絵本。

リジーは、公園の「雲うり」から、小さな雲を買ってもらって「ミロ」と名付けます。リジーは、ミロを大切にお世話します。どこに行くにも一緒です。でも、ミロはだんだん大きくなって、リジーの手にはおえなくなってしまいます。大きくなりすぎた雲は、お部屋に閉じ込めていてはいけないのです。悲しいけれどお別れしなくてはなりません。

子どものときに持っていたもの。名前をつけて慈しんでいたもの。大人になっていくどこかで、別れのときがやってきたりするのだけれども、それは消えてしまうわけではなくて。いつもミロのように、眼差しのどこかに宿っているし、なぜか年をとればとるほど、色鮮やかによみがえってくるように思う。だから、この本自体が、懐かしい記憶のように思えて、何度も頁をめくって細かいところを眺める。カーテンの揺らめきも、雨上がりの空気の匂いも、子どものときのあこがれも、細部まで心のこもった絵のなかにやさしく閉じ込められているようで、うれしくなる。この季節に何度もめくりたい。