雪と珊瑚と 梨木香歩 角川書店

「滋養」という言葉があります。ちょっと古めかしい匂いがしますが、「栄養」というのとは、ニュアンスが違う。しみじみと心と体にしみ込んで、命を永らえさせるもの。弱っていたところを修復してくれるもの。そんな意味合いの言葉かと思うのですが、この物語を読んでいる間、この言葉が何度も頭に浮かびました。
主人公は、雪という赤ん坊を抱えて一人生きていこうとする、シングル・マザーの珊瑚。彼女自身もシングルマザーの母を持つのだが、ネグレクトでほぼ放置されて生きてきた。頼る人もない孤独な身の上で乳飲み子を抱え、途方にくれている彼女の目に、「赤ちゃん、お預かりします」の張り紙が映った。思わず飛び込んだ珊瑚は、そこでくららさんという年配の女性に出逢う。くららさんは、『西の魔女』のおばあちゃんのように、傷ついて行き場のない珊瑚と雪を受け入れる。その出逢いから、珊瑚の人生が広がり始める―・・・。
『西の魔女が死んだ』は、「魔女修行」というおばあちゃんの教えが、ラストでまいに見事なカタルシスを与える、エブリデイ・マジックの物語でした。この物語では、その魔法は、「食」に込められています。この、くららさんの作るご飯が、それはそれは美味しそうなんです。元は修道院にいたというくららさんだから、派手な料理は一切なくて、お大根を煮たお汁で作ったスープとか、小松菜と水菜の炒めたのとか、お野菜をメインにした、しみじみした料理。それが、珊瑚の心を満たし、雪の身体を作っていくのが、読んでいてまっすぐ伝わってきます。珊瑚は、ネグレクトの中で育っているので、これまでの人生の中で、全面的に誰かに心を許した経験がない。苦しい経験をしてきたからこそのプライドもある。でも、このくららさんという人は、長年信仰に生きてきた懐の深さがあって、そんな珊瑚の生き難さを、ふわりと受け止めて放さない。『西の魔女が死んだ』の、まいとおばあちゃんの関係もそうでしたが、保護者と被保護者(この言葉は適切ではないかもしれないけれど、どうも他に思いつかなかった)の関係でありながら、お互いの尊厳を損なわず、向き合える―そんな難しい在り方を、梨木さんは見事な呼吸で描きます。支え合うけれども、べたべたはしない。この凛とした空気感は、読んでいてとても心地いい。その中で、珊瑚は、手さぐりで自分の生き方を探していきます。
子どもを産む、育てる、というのはそれまでの生き方や価値観が、がらりと変わる時なんですよね。
「どんなときでも、自分さえしっかり頑張れば大抵のことは何とかなる。現に何とかなった、自分の力でやってきた、という自負と確信のようなものが珊瑚にはいつもあったのだ。」
ずっと気を張って生きてきた珊瑚の人生に、見事に欠けていたもの。それが、「食」です。家に帰っても食べるものがない。飢えまで経験するような苛酷さの中で、いつも疎外感に付きまとわれてきた珊瑚が、初めて人の手から暖かい「食」を手渡される。それがきっかけとなって、珊瑚は人に「食」を提供する仕事をしたいと思うようになる。唐突に思われる、この珊瑚の方向転換は、「母」になったことのあるものなら、理屈ではなくわかることだと思います。母になるということは、たった一人の子の母になると同時に、この世界に生まれている命を強く意識するようになること。たくさんの人に守られていないと生きていけない赤ん坊を持つことで、これまで見えていなかったことが見えるようになる。満たされなかった「食」への想いが、命への慈しみとなって珊瑚の中で膨れ上がっていく過程が、「カフェを開く」という実際的な道のりの中で実直に描かれていくのが、とても興味深くて、まるで自分がカフェを開く準備をしているような気持ちで読みました。そして、この珊瑚が開いたカフェの、なんと居心地のよさそうなこと!!木々の中に埋もれるように建っている民家を利用したカフェ。静かで、ゆったりした時間が流れているここに、私も美味しいコーヒーと食事をしにいきたいと切実に想ってしまった。近くに、こんな場所があればどんなにいいかしらと思う。
・・・と、こうして書いていると、いいことづくめのサクセスストーリーの物語のようですけど、梨木さんなので、そうはいきません。ネグレクト。子を愛せない母、そして愛していても、我が子を信頼できない母。父親の不在。宗教。祈り。食の安全に対する不安。アレルギー。簡単には答えの出ない問いを、梨木さんは丁寧に静かに投げかけます。しかも、梨木さんは、ラスト近くで、この珊瑚の生き方そのものをガツンと否定するような爆弾まで用意するんです。絶対に、ただの「いい話」では終わらないんですよね。真面目に、真摯に向き合えば向き合うほど、葛藤も苦しみも大きい。そこから決して目をそらさない厳しさが、慈しみと同居する。そこが大きな魅力です。そして、その葛藤があるからこそ、ラストの雪の言葉が、胸に迫ります。この無垢な言葉に込められた命の輝きに、ほろほろと心がほどけていくようでした。

梨木さんは実は危うい方なのかもしれないと思います。もちろん小説を書いたり、芸術に人生を捧げようとする人たちは多かれ少なかれ、危うさを抱えているものだと思うけれど。梨木さんは、世間のイメージとは裏腹に、実は非常に激しいものを抱えてらっしゃる方なのではないかと思うんですよ。梨木さんが、鋭敏なアンテナでこの世界から受け取ってらっしゃることは、きっと言葉に出来ることの何万倍もある。その感覚と思考の奔流に押し流されて、どこか遥かな場所に行ってしまわれるのではないかと思う・・・そういう意味での危うさを感じる時があります。深い教養と知性の間に、その危うさが顔をのぞかせるのが、また梨木さんの魅力ではあるけれど、時として置き去りにされてしまうような気持ちにさせられてしまうこともあったりします。『沼地のある森を抜けて』から、『ピスタチオ』まで、私はしばしばそんな想いに囚われていました。でも、この本は、そんなトロい私を置き去りにせず、様々なことを語りかけてくれた。大好きな『西の魔女が死んだ』の、続編のような雰囲気もあって、そこも嬉しかった。発売と同時に買って、何度も何度も読み返してしまいました。きっと、これからも何度も読み返すことになると思います。まだ新刊なので、ネタばれになるようなことは書けないので・・もう少し時間が経ってから、またもう一度詳しくレビューを書いてみたい作品でした。(ほんまに書けよ!)

2012年4月刊行 角川書店

 

by ERI

私は売られてきた パトリシア・マコーミック 代田亜香子訳 作品社

これは、非常に辛い本です。
毎年、たくさんの・・後書きによると、年間一万二千人近いネパールの少女たちが、インドの売春宿に売られているとのこと。それも、たった300ドル。円高であることを考慮に入れても、たった三万円くらいのお金と引き換えに、売られていく。この本は、その少女たちのことを実際に取材し、自分の目と足で確かめた著者が、一人の少女を主人公に、物語という形にまとめたもの。ですので、フィクションですが、この本に書かれていることは、事実です。今も、この世界のどこかで起こっていること。読めば読むほどに辛いです。でも、目をそらしてはいけない現実でもあります。

主人公のラクシュミーは、ネパールの山の村で生まれた女の子。荘厳な山の自然の中で、彼女は母と、義父と、兄弟たちと暮らしている。彼女が初潮を迎えた頃、村は洪水に見舞われ、働かない義父のせいもあって彼女の家は貧窮する。もともとラクシュミーに辛くあたっていた義父は、ほんのわずかなお金を引き換えに、彼女を売ってしまう。自分がどこに行くのか、何をさせられるのか、知らないままに遠くに運ばれてしまったラクシュミー。彼女を、過酷な現実が待っています。その一部始終が、押さえた筆致で、冷静に描かれています。ラクシュミーが、母を、兄弟たちをどんなに愛していたか。故郷の山々を、どんなに切なく思い出すことか・・。その思い出を散々に汚してしまうような、悲惨な出来事が、どれだけ彼女の心を、身体を引き裂くことか。私たちは、21世紀になっても、この貧困ゆえに女の子が売り飛ばされることさえ終わらせることが出来ない。その事にうなだれます。

こういう悲劇を食い止めるために、行わなければいけないことは、たくさんあると思うのだけれど、まずは教育なんだろうと思うんですよ。文字を知る。本を読む。様々な価値観があることを知る。自分の身体を大切にする権利を、誰かが奪うことが間違いだという事。例え、それが親であっても。人間を売り買いしてはいけない事。男も女も、性によって暴力を受けてはいけない事。私たちはその事を当たり前だと今は思っているけれど、つい戦前までは日本にも、この本に書かれているような現実があった。それは、そんなに昔のことではないんだから・・・。

後書きで、著者が、このような悲惨な状況から逃れた少女たちに実際に会ったことが書かれています。自分たちの置かれていた現実の問題に気づき、様々な活動をしている少女たちは、人間としての誇りと尊厳をかけて、自分たちのような少女たちが少しでも減るように頑張っているらしい。その尊厳を取り戻すのも、また知識の、教育の力だと思う。人として生まれたものが、等しくきちんとした教育が受けられる。そんな最低限のことが出来る世の中に・・なって欲しいと、まるで人ごとのように書く自分が嫌になってしまうけれど。同じ女として、この本を読んでいる間中、心と体が痛かった。

著者もきっと非常に辛い想いをした事だと思いますが、感情に流されず、悲惨な体験をした少女たちの尊厳を、きちんと尊ぶ姿勢でこの本を書いている。その事が伝わってくる文章でした。

あたしの名前はラクシュミーです。
ネパールから来ました。
わたしは十四才です。

この結びの文章がいつまでも胸に残ります。身体の中に鈍痛のように・・・。

2010年6月刊行
作品社

by ERI

ルチアさん 高楼方子 フレーベル館

「飛ぶ教室」の2008年春号に12歳の自分に、今プレゼントするならどんな本にするか、という特集があって自分なら何にするか、つらつらと考えていました。上橋さんの「守り人」のシリーズなんかもいいし梨木さんの「西の魔女が死んだ」も読ませたい。朽木さんの「たそかれ」の河童くんにも会わせてやりたかったもんだとか、色々悩んでたんですが、やっぱり一冊あげろと言われたら、たかどのさんの「時計坂の家」かな、と思い至りました。12歳であった私が感じていた、この世界に対するおののき・・不安。遠く果てしないものへの憧れ。そんなものが、目一杯詰まったこの本は、きっとあの頃の私にとって、かけがえのない一冊になっただろうと思うからです。高楼さんの本を、少女の頃に読んでいたかったなあ。今読むよりも、切実に心に食い込んでいたと思うんですよ。この「ルチアさん」も、やっぱり少女の頃の自分に読ませたい本。「どこか遠くのきらきらしたところ」という、書き表すのが非常に難しい、でも、人の心にある普遍的な想いが、見事にここに流れています。高楼さんは、凄いなあ・・素敵だなあ、と読み返すたびに思わずにはいられません。

「たそがれ屋敷」に、美しいお母様と暮らす、スゥと、ルゥルゥという二人の少女がいました。ある日、この屋敷に、新しいお手伝いさん、ルチアさんがやってきます。この一見変哲もないルチアさんは、二人にとって不思議な人でした。なぜか、二人の目にはルチアさんが、水色に光って見えるのです。まるで、船乗りのお父様が、異国から持ち帰った水色の玉のように・・。その謎を突き止めたいと思った二人は、ルチアさんの家まで彼女を尾行します。そこで出あったのは、ボビーという、ルチアさんの娘。ボビーには、ルチアさんは光ってなんか見えません。でも、ある日、ボビーとスゥ、ルゥルゥの3人は、夜中で一人、水色に光る不思議な実を漬け込んだ飲み物を飲むルチアさんを見るのでした・・・。

ルチアさんは、一見、どうってことのない、普通のおばさん。でも、なぜか、いつも満ち足りていて、くるくると楽しそうに働いていて。傍にいる人たちは、なぜか彼女に対して素直になってしまう。そして、なぜかスゥとルゥルゥには、ルチアさんが、きらきらと輝いて見える。その秘密を見届けようと、二人が夜の街を歩くシーンが、印象的なんです。自分たちの憧れを見届けたくて歩く夜の街は、未知の世界。なにやら心の底を歩くような薄闇の間からみた、ルチアさんの秘密のなんてキラキラして美しいこと・・。それは、闇の対比として描かれることで一層の輝きを見せて、読み手を魅了します。この、光と影を描く見事さは、高楼さんの独壇場で、読んでいると心がほうっと溜息をついて、憧れが放つあえかな光に満たされていくようです。スゥとルゥルゥ、そして、ボビーの3人の少女は、確かにその光景を見た。でも、その秘密の本当のところは、謎のままです。なぜ、水色の実は、光を放つのか。なぜ、その光は、ルチアさんを光らせているのか。その光は、なぜスゥとルゥルゥ以外には見えないのか・・。ボビーによって、その実は、ルチアさんの叔父さんが彼女に残したものということはわかるのですが、やはり、その実の持つ不思議さの答えは出ません。その謎を抱えながら、3人は大人になるのです。

水色の玉の事を忘れ、「ここ」で現実と向かい合って生きたスゥ。屋敷がなくなった後、心に、水色の玉への憧れを抱えたまま、旅に出たままのルゥルゥ。そして、ずっと、謎の水色の玉を持って、それについて考えていたままだったボビー。誰が一番幸せだったのか、などという簡単なことではなく、それぞれの生き方を選んだ人生の中で、変わらず輝いていたもの。それが、「どこか遠くのきらきらしたところ」への想い・・憧れであることが、しみじみと胸に迫ってきます。尽きせぬ憧れを胸に抱くことは、ある意味残酷なことで、その人の人生を奪ってしまう。ルゥルゥと、その父親が、人生を旅に捧げてしまったように。でも、現実の中で、ひたすら生きてきたスゥも、やはりどこか満たされない思いを抱えて生きています。

・・・そうよ、わたしたち、思っていたのよ。どこか遠いところに、
これとそっくりの、きらきら輝く、水色の国がきっとあるって。
いつかそこに行ってみたいって。わたし、本当にそう思ってたのよ。

ボビーに返してもらった水色の玉とともに、スゥのところに帰ってきた、「どこか遠くの
きらきらしたところ」への憧れは、彼女の心を満たします。この「どこか遠くのきらきらしたところ」への憧れは・・きっと、人が心の中に一度は持ったことがあるものだと思います。でも、私たちはそれを忘れてしまう。そんなものでは、食べていけないから。
・・・でも、その憧れをいつまでも忘れずに持ち続け、自分だけの結晶にしようとすることが、創作というもの、文学であり、アートであるように思います。私にとって、ルチアさんが飲んでいた水色のキラキラしたものは、例えば、この高楼さんのような作品であり、大好きな人の歌声だったりするのかもしれません。

闇の中を歩く子どものように見知らぬ場所に旅に出る・・そのおののき。はるかなもの・・形にならない、目には見えない憧れというものの輝き。高楼さんの見せてくれる世界は、いつも果てしなくて吸い込まれそうになります。12歳の時に、この本を読んでいたら・・ちょっと違う人生を歩いていたかしら。ボビーのように、目に見えないものについてずっと想いをめぐらす力を持っていたら、物語を書く人にもなれたかもしれないなあ、などど思ったり(笑)この3人の少女たちは、皆高楼さんの分身なのでしょうが、ボビーが一番高楼さん自身なのかな・・と。これは私の勘ですが。児童書ですが、「ここ」に疲れた大人の方にも、ぜひ読んで頂きたい一冊です。

by ERI

クラバート オトフリート・プロイスラー 中村浩三訳 偕成

土と因習の匂い。死が背中あわせに待つ閉塞感。これは児童書でありながら、人の無意識の中に巣くう 夢魔が形をとってあらわれたような物語です。舞台は近世ドイツの、湿地帯にある水車小屋。

村をまわって物乞いをする貧しい生活にくたびれた14才の少年、クラバートはある日夢で彼をさそうカラスの夢を見る。その声にしたがってコーゼル湿地のほとりにある水車小屋にやってきた彼は、まるで当たり前のようにそこで働くことになる。なにしろ寝るところと食べるものがある、というだけでもクラバートにとってはありがたいことなのだ。しかし、そこはただの水車小屋ではない。親方は魔法使いで、どうやら十一人の職人は彼に魔法で縛られているらしい。それが証拠に、単調な労働に嫌気がさして逃げようとしてもどうしてもそこからは逃げられない。そして辛い見習いの期間が終わると、昼間は魔法の力でラクに働けるようになり、カラスになって親方から魔法をおそわる日々が続く。しかし、親方との恐ろしい契約は、どうやらそれだけではないらしい。なんと一年に一人職人達が死んでゆくのだ。クラバートに親切にしてくれたトンダ、そして落ち着きのあるミヒャルも死んでいく。そんな虜の生活の中で、クラバートは一人の少女と出会う。そして、この囚われた生活から彼を救い出してくれる方法は、彼女がクラバートに会いにきて、彼をえらんでくれることだということを知る。はたしてクラバートの運命は・・?

まるで終わらない夢のなかでずっと働いているようなこの物語。 読んでいる間中時間軸がずれていくような不思議な感覚に襲われました。霧の漂う湿地。カラスに変身して行われる魔術の授業。時々現れる、親方のまたその親方である男の不気味さ。彼がくる夜にひきうすですりつぶすのは、人の骨・・?!そして、一つずつ増えていく、湿地の墓と棺桶。この水車小屋での労働は、生身の身体で行うものではないらしい。みんなで働くこと自体は苦痛を伴うものではないらしい。身体も疲れないし、困ったことがあっても、ちょっと魔法を使えばうまくいってしまうし。なにしろ、この時代の一番重要な「食べること」には困らないんだから・・。でも、その代償として大きすぎるものをクラバートたちは親方に与えてしまう。それは自由と、命と、それから誰かと愛し合うこと。好きな女の子ができても、とことん黙っていろと言ったトンダは、やはり愛を親方に潰された人だった。みじろぎもしないで彼女を思うトンダとともにいる時に聞いた、どこからともなく聞こえてきた歌声。それがクラバートの愛する人・・・。すべてがモノトーンのなかにうずもれているようなこの物語の中で、この自分の可愛い人とふれあう時だけ、色づいているような美しさが溢れます。それは、語りかける声だけでかわすような恋です。でも、暖かい命そのもののような彼女の存在が、この魔術も親方の陰謀も、恐ろしい束縛も、すべてを吹き飛ばしてしまう力になる。この大いなる女性の力。

「心の奥底からはぐくまれる魔法」が解き放ったクラバートは、魔術も使えず、もう自分の力だけでいきていくことになる。でも、クラバートには、それは苦痛ではないはず。自由と愛を手にいれたんだから。そう。どうせ囚われるのなら、魔法にではなく、愛に囚われたいよなあ。

この物語は、古い民話がベースになっているらしい。やはり民話というのは、その土地がもつ、そこから生まれた幻想だけが持つ深さがあります。人が心の底に持つ、古い古い記憶の中で発酵している積み重ねられた思いは、夢の中で響く歌声のように、懐かしくて人を虜にする。
幻想を色濃く反映しながら、長い時間をかけて書かれたこの物語は、緻密な構成と筆力で、見事な幻想溢れるファンタジーになっています。それぞれのシーンが美しいんですよ。様々な光景が流れて、自分の中にしみこんでいくようです。この世界を見事に表現したヘルベルト・ホルツィングの挿し絵もこよなく魅力的。宮崎駿監督も、この物語から多くの着想を得ているそうです。
「千と千尋」のラスト、千尋が豚のなかから両親を選ぶシーンなんて、まさしくそうだなあ。魔女と契約して働く、というのもやはり同じだし。この物語と映画を比較しながら読んでも面白いかも。面白くてそんなこと忘れてよんじゃいましたが。オトナの人むけのファンタジー。とっぷり幻想の気配とゾクゾクする怖さを味わいたい人に。

by ERI