緑の精にまた会う日 リンダ・ニューベリー 野の水生訳 徳間書店

今日はクリスマス。眼に見えないものに思いを馳せる日です。私は特別な宗教をもたない人間です。でも、クリスマスという日に、世界中でたくさんの祈りが捧げられることは、とても大切なことだと思います。愛する人の幸せを願って。生きていることへの感謝をこめて。不条理に生きる私たちは、祈らずにはいられない。この本は、眼に見えない大切なものと再会を果たす物語。厳しい冬のあとで春が芽吹くような希望の物語です。

ロンドンに住む少女のルーシーは、大好きなおじいちゃんがいます。おじいちゃんは田舎の農園で、それはそれは見事な野菜を作る「緑の手」を持っている人なのです。そして、おじいちゃんの農園には、緑の精のロブが住んでいます。お気に入りの場所にいて庭仕事を手伝ってくれるロブ。彼の存在を信じ、その気配を感じるのは、おじいちゃんとルーシーだけ。ところが、大好きなおじいちゃんは、突然帰らぬ人となります。農園は売り払われ、つぶされてしまう。ルーシーは、ロブに手紙を書きます。どうか、私のところへ、ロンドンへ来てくださいと。その願いにこたえるかのように、歩きだしたロブ。彼の、ロンドンまでの旅が始まります。

ロブというのは、どういう存在なのかをルーシーに伝えるおじいちゃんの言葉がいいんです。

いいかい、ロブは雨と風からできている、ひざしと、そしてひょうからも。それに、光と闇からも、…(中略)…過ぎ去った時間、訪れる時間からも、ロブはできているんだよ。考えてみりゃあ、わたしらだっておんなじだ。みーんな、おんなじなんだよな

命の船を、ともに浮かべようとする、意志のようなもの。どんなときにも歩き続けてきた、そして歩き続けていこうとする、古い古い記憶のようなもの…ロブはそんな存在なのかと思います。でも、この物語で大切なのは、ロブが何者であるかを解き明かすことではありません。ただ、感じること。彼がいるおじいちゃんの農園が、どんなに満ち足りて美しいか。ルーシーが、農園から森に入ってしまう夜のシーンが、とても印象的です。闇に抱かれて感じる、ぴりぴりするような精神の覚醒は、体の中に眠る動物であったころの自然への記憶そのもののようです。そして、その楽園を失ったルーシーとロブの悲しみ。ロブの旅は困難を極めます。道の途中でロブが出会ったのは彼がまったく見えない人、利用しようとする人、見えても化け物扱いして追いだす人。あちこちでサンドバッグ状態になってしまうロブの旅…その苦しさを読んでいると、酸素が足りなくなった金魚のような心地がします。その中でも、ロブが見えているのに、一緒にいる友達に馬鹿にされて、見えないことにしてしまった女の子のことが、心に刺さりました。本当に大切なこと、自分の心が感じる声を無視してしまうことは、あとになるほど心を荒らします。私にも、何度も何度もそんなことがあったから…わかるのです。だから、ここを子どもたちに読んで欲しい、そう心から思いました。一番大切なことは、心の声に、見えないところに潜んでいるのです。私たちは、いろんな大人の事情で、その声を無視しようとする。その結果がどうなるのか、何度歴史の中で経験しても同じことを繰り返す。でも、声なき声は、ちゃんと胸の中に潜んでいるのです。どんなにひどい目にあっても、やっぱり人と共に命を育てようとするロブのように。この物語は、ほんとはどこにでもいる、誰も知っているはずの、でも、人がすぐに忘れてしまう存在の痛みと希望を描き出そうとしています。

わたしは道を歩むだけ。どこへ行くかは、たどりつくまで、わからない。

そう。わからないけれど…ルーシーと、ロブの再会の旅のように、子どもたちが何度も大切な存在とめぐりあって、秘密を共有してくれたらいいなと心から思います。

「おークリスマスツリー おークリスマスツリー みどりのきよ とわに
よろこびのよるに ほしひとつひかり みどりごうまれん
おークリスマスツリー おー クリスマスツリー」

大好きな、マーガレット・ワイズ・ブラウンの『ちいさなもみのき』の一節です。
子どもたちに、祝福がたくさん舞い降りますように。
Merry X’mas!!

2012年3月刊行

 

シフト ジェニファー・ブラッドベリ 小梨直訳 福音館書店

18歳。子どもから大人へ、シフトチェンジの季節です。働くにしても進学するにしても、親の羽の下から飛び出して、自分の生き方を探すとき。この本は、少年が青年になる、ギュンとギアが入れ替わる瞬間をとらえた物語。疾走感にあふれた魅力がありました。

18歳のクリスは、高校を卒業し、大学に入るまでの2カ月で、親友のウィンと自転車で大陸を横断するという冒険旅行に出かける。ところがその親友は、旅の終わりに、自分を置き去りにしていなくなってしまったのだ。実力者であるウィンの父親は、クリスが居所を知っているはずと圧力をかけてくる。物語は、大学の新生活と、そんなウィンをめぐるごたごたに振り回されるクリスの戸惑いから始まります。

幼いころからの親友だったウィン。何もかも知りつくしているはずだった。でも、本当にそうだったのか。クリスは、ウィンとの旅を思い返しながら、見知らぬ人のように遠くなってしまった彼の心を手繰り寄せようとします。この物語は、夏の旅から帰ってきたあとの、もう一つの心の旅なのです。旅の濃密な時間の中に隠されていた、わずかなサインを、クリスは思い出します。男子ならではの、ライバル心と親しみが交錯する距離感が、ジェットコースターのように展開する旅の面白さ。腕立て伏せや、パンク修理のタイムトライアルに始まって、水のかけあいから、派手な喧嘩やら・・・その子どものじゃれあいのような楽しさと、風景や人と出会いの、なんときらめいていること。でも、その中にこれまでとは違う空気が、冷やりとする水のように流れていたことが、クリスの「今」と交互に書かれていく構成の中で浮かび上がってくるのがスリリングで、物語から目が離せなくなりました。

ウィンは、この旅がクリスとの別れであると心に決めていたのです。高圧的な父に反発して、ずっと自分を出すことなく生きてきたウィン。でも、親友はそんな自分とは裏腹に、勉強もボーイスカウトも、親との関係もしっかり自分のものにして、進学も自分の力で決めた。それに引き換え、自分のこれまでの人生は、やたらに人を支配しようとする父親にたてつくためだけに費やされている。そんな自分からシフトするための、崖を飛び降りるような決断の旅だったのです。これまでずっとくっついて暮らしてきたウィンとクリスの激しいぶつかりあいは、今までの自分との闘いでもあるのです。自転車で大陸を横断するという、無謀に近いような旅。でも、その旅は、ウィンの背中を確実に押したのです。「追いつくよ、いつか」というウィンの言葉は、ここからが自分のスタートだというしるしなんですよね。

いまは-おれたちふたりとも変わって、みんなが考えるより、すごいんだってことがわかって-お互いそれを知ったいまは、もうもどれないよな、もとの場所には。

親子という関係は、ほんとに難しいものだと思います。捨てようと思って簡単に捨てられるものではないんですよね。父親の支配という引力から抜け出すために、ウィンが走った距離を思うと、ため息が出そうです。子は親を捨てていい、私はそう思っています。(反対は絶対だめですけどね)また、いつか拾わなければならないときがやってくるから。若いとき、自分が自分らしく生きる道を探すためには、一度精神的に親を捨てる必要があると思うのです。この二人の旅は、これまでの自分との闘いであると同時に、いわば親捨ての闘いの旅だと思うのですよ。執拗に追いすがってくるウィンの父親の手を、なんとか振り切るクリスの闘いも、ある意味親という引力を振り切る闘いなのでしょう。歩きだそうとする若者に対するエールを、この物語から感じました。

今あちこちで展開されている教育論を聞いていると、若い人たちをなんとか自分の思い通りにしたいという欲望が先に立っているように思えてなりません。そう、このウィンの父親が繰り出す教育論のように。その欲望から逃げ出して、地に足のついた生活をしていこうとするウィンのような若者は、これから増えてくるんじゃないか。そんな風にも思います。もしかしたら、それがこれからの希望かもしれない。選挙のあとの、おじさんたちの高揚の中で読んだこの本は、何やら象徴的でした。YAを対象とした物語としては、少し読み手の想像力に頼る部分が大きいかもしれません。でも、これが第一作という筆者の熱い思いをふつふつと感じる、面白い一冊でした。装丁もとてもしゃれていて、カッコいい。男子向けの貴重なYA小説です。

2012年9月刊行
福音館書店

by ERI

海街Diary 5 群青 吉田秋生 小学館フラワーコミックス

毎日ブログを訪問している、「くるねこ大和」のくるさんが、今日は落ち込んでました。胡てつんの入院がこたえているらしい。くるさんもかあ・・猫好き人間にとって、自分の不注意や至らなさで猫に何かある、というのはとても辛いです。(胡てつんの入院は、くるさんのせいじゃないです。念の為。)私の落ち込みは、ガスコンロの工事に来てもらったときに、私の不注意でぴいを脱走させてしまったこと。業者さんの出入りに気をつけているつもりで、一瞬の隙を突かれてしまった。幸い、30分ほどですぐに帰ってきたけれど、その間生きた心地がしませんでした。長らく外に出していなくて、最近はあまり出せ出せと言わなくなっていたこともあって、油断してたんですよね。ちゃんと帰ってきたからいいものの、またお薬を飲んでいるこの時期に、行方不明にしていたらと思うだけで、背筋が冷える思いがしました。しかも、業者さんにも心配させて、申し訳なかったし・・・。相手はもの言わぬ子だから、こっちが良かれと思ってしていることが食い違ったり、通じなかったりすることもままあります。もっとも、これは人間同士でも同じなのかもしれないですけどね。これからは、もっと気をつけなくちゃいけません。肝に銘じました。

がっくりきて、なんだかちゃんと活字も追えず。この間買ったこの本に、ずいぶん癒されました。この作品の中の時間の流れ方が、とても心地よいのです。鎌倉の街での四人姉妹の生活は、穏やかながらもいろんな波が打ち寄せます。すずの亡くなった祖母からの連絡。幸ねえの、病気疑惑。馴染みの食堂のおばさんの死。みんな、人は、それぞれが生きてきた時間や、背負っているものを携えて、これから歩く道に悩んだり苦しんだりする。その中で言葉にできない思いがたくさん生まれて流れていくんです。この物語は、その言葉にできない思いがちゃんと伝わってくる。彼女たちの思いに触れて、自分が言葉にできなかったあの日の思いが、蘇る。うまく伝えられなくて苦しかったこと。言葉にできなくて、傷ついたまましまいこんでしまったこと。それを、彼女たちとわかちあって、そっと同じ風景の中に、群青の空に解き放てる。この幸せは、なんとも言えません。

空気が薄いほど、空は青さを増すらしいです。そこに立つ人にしか見えない色、景色があって・・・それぞれが違う色の空の下にいるのかもしれないけれど、空はいつも見上げればそこにある。そのことが、とても胸に沁みる。そんな巻でした。うーん・・・やっぱり、「吉田秋生−夜明け− (フラワーコミックスマスターピーシーズ)」は買うべきか。これまで全巻揃えているファンとしては、やっぱり見逃せないかなあ・・・。

2012年12月刊行

小学館

by ERI

くりぃむパン 濱野京子 黒須高嶺絵 くもん出版

私はパンが大好きで、一日2食はパンを食べます。とにかくパンなら何でも食べますが、一番好きなのは、昔からずーっとある地元の商店街のお店のパン。いつ行っても変わらない味で、品揃えも多少のリニューアルはあっても、基本同じ。アンパン、クリームパン、メロンパンは必ずある。甘い甘いコロネパンもね。こういう昔っからあるパンって、とにかく人を黙らせてしまう力があると思います。疲れたとき、欲しくなる。舌に馴染む味に、ほっとする。実は、そんなシンプルなパンほど、ほんとは作るのが難しいんじゃないかと思うんですが、この物語は、そんなくりぃむパンの細やかな味みたいに、プレ思春期の女の子の心境を丁寧につづった物語です。

一家9人、下宿している人も合わせて11人という大家族で暮らす4年生の香里の家に、ある日同学年の未香がやってきます。遠い親戚筋の未香は、お父さんの失業のために、一人で香里の家に身を寄せることになったのです。でも、美人で聞き分けがよくって、お手伝いもし、みんなにお小遣いをもらう未香が、だんだん香里はうっとうしくなります。そんなある日、もやもやした気持ちで、つい同級生の前でつぶやいた、未香への「守銭奴」という言葉が、あっという間にクラス中に広まってしまうのです。

聞き分けがよくてしっかりした子、というのは、ほんとは危なっかしいものなんです。この物語の未香は、自分の立場をよくわかっている子なのです。自分の家ではない場所で、居候させてもらっている自分。肩身の狭さを、「いい子」でいることで何とか埋め合わせをしようと必死なのです。大人は、そこをよくわかっているからこそ、未香を労わろうとする。でも、一度もそんな立場に立ったことのない四年生の香里には、そんな未香の気持ちはわかるはずもありません。みんなにちやほやされているだけのように見えてしまう。だから、つい、意地悪な気持ちになってしまう。幼いころから、父親のお金の苦労を見ている未香とは、感覚が違うのです。早くに大人びてしまった未香と、まだ子どものままの自分。その違いを慮るほどの人生経験は、香里にはまだないのです。

普通は、ここから一気に二人の関係が煮詰まってしまうものなのですが、香里の家には、回復力が備わっています。それは、五世代にもわたる家族が、たくさんいるところ。成り行きで、ひいばあちゃんのところで一緒に過ごしたり、下宿している志帆さんのマンガの話をしたり、いろんなシチュエーションで未香と触れ合う機会がたくさん生まれます。そこで、二人の間には共感が生まれます。未香と自分は違うけれど、ひいばあちゃんのところで過ごす時間は、ゆったりした「魔法の時間」だったこと。おんなじくりぃむパンを食べて、美味しい!と思えること。そんな、単純な時間を分け合うことで、香里は徐々に未香の心の内を知ることになるのです。分け合う、という大切な時間が丁寧に描かれているのが、とてもよかった。

「なんかさあ・・・生きるってせつないね」

小学校四年生の香里の口から出たこの言葉に、「ほんまやねえ」と答えそうになってしまいました。生きる切なさは、大人だけが感じるものではありません。子どもだって自分たちの切なさの中で生きている。彼女たちの人生は始ったばっかりで、いろいろあるのはこれからです。でも、生きることの切なさを分け合う友達がいるということは、いつ食べてもおいしいクリームパンを手にしているように、心強い。違う境遇を抱えてひとつ屋根の下に暮らす違和感から、友だちになるまでの時間を、細やかに描いた物語でした。その時間を支えるものを、この物語から子どもたちが受け取ってくれたらいいなと思います。

2012年10月

くもん出版

by ERI

 

イクバルと仲間たち 児童労働にたちむかった人々 スーザン・クークリン 小峰書店

橋下大阪市長(すっかり大阪はほったらかしにされてるみたいですけど)が、最低賃金制の廃止を言い出したそうで、一体何を目指しているのかと怖くなります。最低賃金制が廃止されるということは、どんなに安い賃金で働かせてもいいということ。今でも、必死に働いても食べていけない人が増えているというのに。若い人たちを安くこき使おうとする思惑がぷんぷん匂う。この本には、そんな欲得しか考えない企業論理のしわ寄せがどこに行くのかが書かれています。理不尽な暴力そのものである、児童労働。一日働いて2.6円しかもらえず、逃げ出せば連れ戻されて拷問され、埃だらけの環境で病気を患いながら働かされ、学校にもいかせてもらえない。働いても増えるのは借金ばかり・・・まるで、江戸時代の遊郭のような労働条件です。でも、実際にこの世界のどこかでは、そうして働かされる子どもたちがいる。世界中がネットワークで繋がれた大きな網の中では、誰もそんな事実と無関係ではないのです。子どもたちの作り出した商品を買うのは、先進国の人間だから。買う人間には罪はない、という考え方もあります。でも、この本を読んだら、誰もそんな考え方に違和感を覚えるのではないでしょうか。

この本は、パキスタンで絨毯を織るという児童労働に、4歳(4歳!)の頃から従事させられていたイクバルという少年の、子ども向けのドキュメントです。彼は、600ルピー(約1600円)の借金のカタに、売り飛ばされたも同然の形で働かされる人生を送りながら、BLLF(債務労働開放戦線)の集会に参加したことがきっかけで、自分と仲間たちを工場主から解放させ、開放運動の先頭に立って活動を展開した少年です。彼はアメリカに渡り、「リーボック行動する若者賞」を受賞し、たくさんの子どもたちの前で自分の経験を語る、いわゆるBLLFのシンボルともいえる存在になるのです。

この本の読みどころは、イクバルという少年の人生を軸にして、児童労働の歴史や現状、どうして子どもたちが働かされるのか、という問題を多角的に説明しているという点にあると思います。児童労働の悲惨さは、驚くべきものです。読んでいて、胸が痛くなる。でも、それだけでは「世界にはかわいそうな子がいるんだな」で、自分と無関係に終わってしまうこともあります。児童労働が貧しさと結びついていること。だからこそ、なかなか無くならないこと。児童労働だけをやめさせようとしても、新たな貧困を生んでしまうだけに終わってしまうこと。その貧しさは、世界の別の場所の豊かさと結びついていること。この本は、そこまで踏み込んでこの問題を追っていきます。地図資料や語句の解説、写真も多数添えられていてとてもわかりやすく、著者がなるべく公平な視線で冷静にこのテーマを子どもたちに伝えようとしていることがわかります。著者は、なるべく自分の目と足でたくさんの人に会い、取材をし、この本を書いています。そこに、たった12歳で殺されてしまったイクバルという少年の理不尽な人生に真摯に向き合おうとする誠実さを感じます。グローバルという言葉を安易に使うのが私は嫌いですが、世界中に張り巡らされたシステムの中にいるという事実からは逃げられません。その中で、イクバルを殺してしまった大人のように、大切なものを見失わないようにする目をどうやって獲得するのかが、これからとても大切なことだと思うのです。

 大勢が声を揃えて一つのことを言っているようなとき、少しでも違和感があったら、自分は何に引っ掛かっているのか、意識のライトを当てて明らかにする。自分が、足がかりにすべきはそこだ。(「僕は、僕たちはどう生きるか」梨木香歩・理論社)

自分の違和感に意識のライトを当てるのは、自分を大切にすることでもあります。知識と思考訓練は、自分を守る砦となり得ます。そのためにも、一つのテーマから、様々な学ぶきっかけが生まれる、こんな本がもっと注目されてもいい。そう思います。

2012年9月発行

小峰書店

by ERI

ミラノの太陽、シチリアの月 内田洋子 小学館

ここのところ、ずっとパソコンの不調に悩まされていました。ちゃんと立ち上がらないし、すぐに固まってしまう。あれこれやってみても埒が明かないので、とうとうリカバリしました。しかも、リカバリディスクを紛失してしまったので、F10連打からのリカバリという原始的(?!)な方法で。おかげで何とか動くようになったんですが、設定のやり直しやWindowsの膨大な更新やらで、時間と手間が半端なくかかりました。慣れないことをするというのは、ほんと大変です。その作業をしながら、この本を読んでいたのですが、こんなパソコンひとつでも右往左往してしまう私にとって、さらっと異国で家を買ったり、パーティを開いたりしてしまう内田さんは、それこそ遠い月を眺めるような遥かな憧れの存在です。

このエッセイは、『ジーノの家』に続くエッセイの第二弾。緻密な香り高い文章はますます冴え、10編のお話は、まるで巨匠が撮った映画のように鮮やかにイタリアの風景と人間を浮かび上がらせます。私は体質的にお酒があまり飲めないのですが、上質のワインを味わう楽しみというのはこういうものかしらと思わせられる、贅沢な文章です。異国人ならではの眼差しと、深くその国を理解する知力と教養。心に刻んだものを、ゆっくりと熟成させる時間。それが結びついた稀有な文章だと思うのです。イタリアという国で、凛と背筋を伸ばして仕事をし、人との出会いを大切にして生きてこられた内田さんの豊かさが、文章から溢れてくる。「六階の足音」という章に、谷崎の『陰影礼賛』の話が出てくるのですが、イタリアという歴史のある国ならではの陰影の濃さに心が震えます。50年間秘めた恋をやっと叶えた喜びもつかの間、病に倒れてしまう女性弁護士。狷介な夫との長年の確執の象徴のような古い屋敷を守り通す女性の孤独。読み書きを学ばないままに生きてきた老練な一匹狼のような船乗り。小さな駅舎でつましく暮らしながら、確かな幸せを築いた一家・・・人生という思い通りにならない旅を続けながら、彼らがなんと自分らしく背筋を伸ばしていることか。彼らの目に映るイタリアの空と海の色が、見たこともないのに心に映ります。たとえどんな場所にいても、イタリアのいい女は高いヒールの靴をはいて美しく装い、まっすぐ風を受ける。内田さんもそうでらっしゃるのかなと勝手に想像します。

そんな孤独と誇りが香るイタリアもとても美味しいけれど、へたれな私は、滅多にない幸せな風景に惹かれます。この10編の中で特に好きなのは「鉄道員オズワルド」と「祝宴は田舎で」そして最後の「シチリアの月と花嫁」。「鉄道員オズワルド」の海の上に建っているかのような駅舎の家は、想像するだけで光溢れて「幸福」という捉えがたいものが幻のように浮かんでいるみたいです。「祝宴は田舎で」は、とにかく美味しい料理がこれでもかと押し寄せる贅沢な時間。そして、「シチリアの月と花嫁」は、映画の『ゴッドファーザー』を連想するような、痺れる一篇です。誰もが濃い血縁に結ばれた土地で、息を潜めるように日々を暮らす人たちの、ハレの一日です。この上なく清楚な美しい月の化身のような花嫁。その母の着る燃え上がるようなオレンジのドレス。ボルサリーノ帽にダークスーツの男たち。夜の中に浮かび上がる舞踏会・・招待の言葉は「あなたの来年の九月二十五日の予定は、私がお預かりしますが、よろしいか」。そのセリフを見事に形にして見せるイタリア男の実力に、くらっとしました。ずっとケばかりでハレのない私の人生(笑)一生縁のない特別な経験を共有させてもらえるなんて、なんて読書って美味しいんでしょう。この世のどこかに、そんな時間が、空間がある。そう思うだけで、とても豊かな気持ちになれる、素敵な一冊です。

2012年11月刊行
小学館

by ERI

ふたつの月の物語 富安陽子 講談社

置き去りにされた双子。人里離れた神社に伝わる神事。狼の血をひく、青く輝く瞳を持つ少女。横溝正史の世界のような伝奇ホラーの雰囲気を湛えた、YA小説です。富安さんのYAものを読むのは初めてなんですが、幻想的なモチーフを使いながら、主人公の双子の少女のキャラがそれに負けずに立っていて、読み応えがありました。

離れ離れに育っていた双子が、大きくなってから出会うという設定や、人里離れたお屋敷とか。代々伝わる神事とか。さっきも書きましたが、横溝正史シリーズを連想させるような要素がいっぱいです。若い頃好きだったんですよね、私も。古本屋をあさって全部読んだ身としては、何やら懐かしい昭和の香り(笑)すっと体に馴染んでお話に入っていけました。若い頃って、こういう因習の匂いのする物語が、かえって新鮮で面白かったりしますよね。『獄門島』とか、『悪魔の手毬唄』とか、タイトルを書くだけで、今でもちょっとワクワクする(笑)私が言うまでもなく、民俗学がからむミステリーというのは日本では一つの王道です。富安さんも、こういうジャンルがお得意の方だけあって、雰囲気作りはお手の物。出だしの少女二人の登場から、ぐぐっと読み手を引き込む力があります。

私がいいなと思ったのは、主人公二人のキャラです。美しくて聡明で、人間離れした嗅覚を持つが故に、人から浮いてしまう少女・美月と、行動力旺盛でまっすぐな気性の、テレポーションの能力を持つ少女・月明。二人でひとつのような彼女たちが、自分で考えて行動し、自らの出生の謎を解いていくのが読んでいて気持ちよかった。児童文学の手練れの富安さんは、二人の性格や表情を活き活きと描きます。富豪の女性、津田節子が何の目的でそんな二人を引き取ったのか。それがこの物語の核心で、二人の出生の秘密と深く関わる部分です。そこを語ってしまうとネタばれになってしまうので伏せますが、最愛の孫を失った節子の深い悔恨と悲しみが、その目的の裏にあります。人の生死の理を超えようとしてしまうほど、節子はその悲しみに囚われている。愛するものを失う悲しみ、しかも逆縁で愛するものを失う苦しみは、筆舌に尽くしがたいものがあると思います。でも、悲しいことに、私達は、そんな理不尽の中に生きている。

昨日、『菖蒲』という映画を見てきましたが、そこに描かれていたのは、やはり別れという名の理不尽に戸惑う人間の姿でした。どんな人生経験を積もうとも、私たちは「別れ」に慣れることはない。でも、その辛さと悲しみの中に、一番尊いものがあるのではないか。私は、そう思いながら昨日帰ってきたのです。ラストシーンで、若い男の子を抱きしめる主人公の中年女性は、我が子を失って泣くピエタを思わせました。節子の悲しみは、人を愛したが故の喪失の苦しみです。受け入れられない、飲み込めない事実―でも、再び自分の近くに少女たちの若い命を感じたとき、節子の心に、優しさが生まれた。理不尽に打ち砕かれても、悲しみに打ちひしがれても、またその中から誰かを思う気持ちが芽生える。それが、理不尽に翻弄されて生きている、私達に与えられた唯一の祝福なのかもしれません。途中まではらはらしながら読んでいた物語は、思いがけず穏やかな充足をもたらせて終わります。節子さんの満足が切ないけれども、心に沁みました。酒井駒子さんの表紙と装丁も、夜の匂いのするこの物語にぴったりあって、さすがの出来栄えでした。

2011年10月刊行
講談社

by ERI

祈りよ力となれ リーマ・ボウイー自伝 東方雅美訳 英治出版

「希望を持つこと以上の苦しみがあるだろうか」
この言葉の重さが、同じ女として深く心に響いた。私たち女は、何があっても日常を保とうとする。だって、子どもにはご飯を食べさせなければならないもの。洗濯をし、少しでも清潔であろうと心を配る。時には、もう何をする気力もないと思っても、日常を放棄することは、たった一日だって出来ない。それが、「生きる」ということだから。心折れてしまう毎日の中で、少しだけ光が見えたとき、「今度こそは」と希望を抱く。でも、その希望が打ち砕かれたとき、見えたと思った光は、刃となって心を貫くのだ。この本は、内戦によって、何度も何度もとことん希望を打ち砕かれた女性が、自ら立ちあがり、希望を現実にした事実を綴った本である。アフリカの内戦について、いろんな本は読むのだが、この本ほど他人事ではないと思ったことはない。女として。子どもを産んだ母として。理不尽な暴力に痛みを感じる人間として、心に深く刺さる本だった。

リーマ・ボウイーさんは、昨年(2011年)のノーベル平和賞を受賞した方だ。リベリアという内戦が続く国で、初めて女性たちが団結して立ちあがり、男たちが成し遂げられなかった停戦を実現させた。その活動の中心となった方である。この本で語られるのは、彼女の半生。リーマさんは、希望溢れる18歳の大学生だった。本当に、日本にも普通にいる、将来のあれこれを普通に思い描く大学生だったのだ。そんな彼女が内戦に翻弄され、夫にDVのような扱いを受けながら4人の子どもを産み、その後シングルマザーとなって働きながら、現在のような平和活動に従事するまでの過程が、率直に語られている。権力・利益・富・有利なポジション。それが、古今東西変わらぬ戦争のモチベーションだ。しかし、その争いで殺され、とことん傷つけられるのは、子どもと女性である。以前『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』(イシメール・ベア 河出書房新社)という本を読んだことがある。リベリアの隣・シエラレオネで、少年兵として過ごした日々のことを綴った本だ。精神を麻痺させるために使われる麻薬と薬。少年たちは、幼い手に銃を握らされて殺戮に駆り出される。悪夢にさいなまれながら、人であることを売り渡さねばならなかった悲惨さは忘れられない。そしてこの本に書かれているのは、女性として経験した内戦の苦しみだ。このような女性の苦しみは、なかなか報道されないし、表に現れない。それは日本でも同じだと思うが、例えば性的な暴力を受けた苦しみは、声高に語ることさえできない性質のものだ。家族にさえ話せない。

―女はスポンジだ―と、私は思う。すべてを自分のなかに吸収する―別れた家族のトラウマも、愛する人の死も、子供や夫の話を聞き、社会や信念の体系が破壊されるのを見て、その痛みまでも吸収する。女は強くなければならず、愚痴を言うことや経験を誰かに話すことさえ、弱さを示すことだからと全部を抱え込んでしまう。

どうやら、戦争における殺戮の欲望は、性的な暴力と深く結びついているように思う。戦争の惨禍をとことん見つめたゴヤが「我が子を喰らうサトゥルヌス」で描き出したように。リーマさんも、レイプの被害こそないが、その例外ではない苦しみを舐めている。戦争の精神的な混乱の中で結婚した夫に、DVを受け、蔑まれながら4人の子を産んだ。その苦しみから立ちあがろうとし、女性のためのトラウマヒーリングの活動に参加しはじめたところから、彼女の闘いは始まった。女性たちが、自分たちの経験した恐怖や苦しみを打ち明け合い、共有すること。そこから、女性達の輪は広がり始めたのだ。そこには、権力や富や、支配欲などは何も関係ない。ただ、自分たちが女であること。奪われ続けることにうんざりしていること。「平和が欲しい」ということ。その祈りが繋ぐ絆だった。もちろん、うんざりするほどのややこしい諍いや、もめ事があったことも書かれている。しかし、「平和が欲しい」という女性たちの座り込み、非暴力の訴えは、男たちが為し得なかった停戦を実現したのだ。

このリーマさんたちの闘いは、女として全く他人事ではない。日本でも選挙が始まって、何やら鼻息荒く威勢のいいことを言う男たちの声が聞こえる。穿ちすぎなのかもしれないけれど、私はその興奮ぶりに、何やら欲望の気配を感じてしまうのだ。私たちが共有すべきなのは、この本に書かれているような苦しみと、平和への祈り。どんなにカッコよく聞こえる議論も、そこを踏まえたものでなければいけないと心から思うのだ。だから女は甘っちょろいんだよ、などという言葉を、この本を読んだ上で吐ける人は、誰もいないはずだ。女性もそうだけれど、男性にもぜひ読んでもらいたい一冊である。

ちなみに、『闇のダイヤモンド』(キャロライン・B・クーニー 武富博子訳 評論社ミステリーBOX)という本には、このリベリアから難民としてアメリカに避難してくる一家の話が描かれている。リベリアの元大統領が、ナオミ・キャンベルに大きなダイヤの原石を贈った話は有名だが、『闇のダイヤモンド』も、ダイヤという欲望の塊が重要な役割を果たしている。この本を読んで、あのリベリアからやってきた親子の苦しみが、余計に胸に迫る。

2012年9月刊行
英冶出版

by ERI

十一月の扉 高楼方子 千葉史子絵 講談社青い鳥文庫

十一月のうちに、この本のレビューを書きたかったのだけれど、気が付いたら12月に突入してしまった(汗)秋が深くなって風が冷たくなると、この物語が読みたくなります。年末に向けてあれこれしなきゃ、と想いながらぼんやりしたりして、あっという間にすぎてしまう11月。でも、この物語の中で爽子と過ごす11月は、感受性の塊のような14歳の心が紡ぐきらびやかなタペストリーです。高楼さんの筆は、彼女の心のひだを一つ一つ色鮮やかに描き出します。憧れ。ほのかな恋。背伸び。少女の感性は憧れとおなじくらい失望も経験します。恋心は、ため息と苦しみを。家族と離れた日々は、同性である母への複雑な想いも具現化したりします。物語の中に迷い込んだような十一月荘の日々は、様々な色で爽子を照らし、その心を染め上げるのです。少女の心の光も影も見つめながら、この作品世界は瑞々しい「美を感じる喜び」に満ちています。だから、爽子と一緒にこの物語の空気を胸いっぱいに吸い込みたくなるのです。

中学生の爽子は、ある日偶然に素敵な家を見つけます。それは「十一月荘」と名付けられた下宿ができるらしい洋館。急に父の転勤が決まった爽子は、3学期までの二ヶ月間、そこから学校に通うことを思いつきます。思いがけずその願いがかなった爽子は、十一月荘で、女性ばかりの個性的な住人たちと過ごすことになるのです。

まず、この物語は、とても重層的な構成になっています。まず、舞台となる十一月荘が、少女小説のエッセンスがぎゅっと詰まったような場所なのです。爽子の部屋は、赤毛のアンの部屋のよう。女ばかりの家は、若草物語を連想させますし、爽子と、幼いるみちゃんの関係は「小公女」のセーラとロッティを思わせます。この十一月荘に足しげくやってくる、おしゃべり好きの鹿島夫人は、赤毛のアンのレイチェル夫人…という風に、大好きな少女もののあれこれが、あちこちに散りばめられているようでうっとりしてしまう。この物語には、先行作品として人々の心に生き続ける永遠の少女たちのエッセンスが香りのように漂っています。そして、この物語には、爽子の書くもう一つの小説が描かれます。ドードー鳥の細密画の表紙の美しいノートに爽子が書きつづる「ドードー森」の物語。動物たちのファンタジーは、この物語の中でも触れられる「たのしい川べ」のような雰囲気なのですが、登場人物たちは、十一月荘の住人や、そこを訪れる人々なのです。物語の中で、もう一つの物語が語られる。それは、爽子という少女から生まれる新しい場所でもあります。家庭という檻の中から抜け出して、新しい扉を開いた爽子が、そこで出会う人たちから、これまでとは違う世界を教えてもらう。そして、そこから爽子の新しい扉が開く。それは、アンやジョーを愛する少女たちがたどってきた道のりでもあり、爽子という少女だけが開くことのできる、たった一つしかない世界でもあります。受け継がれるものと、そこから新しく生まれるもの。過去と今が出逢い、きらめくように溶けあってかけがえのない世界を作る幸せな一瞬が、ここにあります。そんな幸せが音楽の喜びとなって降り注ぐラストシーンに爽子がつぶやく言葉が、私は好きなのです。「だいじょうぶ。きっときっと、未来も素敵だ。」

物語は、心を繋ぎます。爽子の書くドードー森の物語が、るみちゃんと、そして耿介との心を繋ぐように。遥かなものに憧れ続けた少女の頃の私と爽子を繋ぎ、アンやセーラやジョーが大好きだった女の子たちの心も繋ぎます。そして、これからを生きる子どもたちの心にも、暖かい光を投げかけてくれるに違いないと思うのです。

「きょう一日(ひとひ)また金の風
大きい風には銀の鈴
きょう一日また金の風 … 」(中原中也 早春の風)

この詩は春の風の詩ですが、私はこの物語を読むと、この詩を思い出すのです。私の心が通り過ぎてしまった青春の風。でも、無くしてしまったわけじゃない。この物語に私の風も託して、今の子どもたちの心が、新しい扉を開いてくれることを願っています。「十一月には扉を開け。」りんりんと、爽やかな鈴の音がするような言葉に、物語の力が宿ります。この本は2011年に講談社の青い鳥文庫から新しい装丁で刊行されています。元々の単行本も好きなのですが、この青い鳥文庫には、高楼さんのお姉さんの千葉史子さんの挿絵がたくさん入っています。これがまた、可愛くて素敵なんですよね。こうして文庫になることで、またたくさんの子どもたちに読まれるといいなと心から思います。

2011年6月刊行
講談社青い鳥文庫

by ERI

かかしのトーマス オトフリート・プロイスラー ヘルベルト・ホルツィング絵 吉田孝夫訳 さ・え・ら書房

最近、かかしが立っている風景をあまり見なくなりました。鳥対策も、最近はCDを並べてつるしたものとか、おっきな目の模様のバルーンみたいなもの(正式名称はなんていうんだろう)だったりで、手間のかかるかかしは、あまり立てないのかもしれません。あの、田んぼの中にぽつねんと立っているかかしって、何だか切ない。「自分があのかかしだったら・・」と想像してしまう。人の形をしているせいでしょうか。寂しくないかなー、とか。誰にも「御苦労さん」とも言ってもらわずに、それでもじーっと畑や田んぼの見張りをしているのが、切なかったり。個人的には、面白キャラクターかかしより、そういう「いつから立ってるんだろう・・・」と思わせるようなかかしが好みです。(って、かかしの好みなんて生まれて初めて考えたんですけどね)

この物語のかかし、トリビックリ・トーマスくんは、そんな正統派(?!)のかかし。キャベツ畑の真ん中で、帽子にマフラー、着古した上着を着て畑を見張ることになるのです。彼はとっても生真面目で誠実。生まれながらに自分の役割をよくわかっています。存在が先か、意識が先か、なんてことを連想させるほど哲学的で考え深いトーマスくんの眼にうつるのは、自分の影に空に雲。キャベツを食べにやってくるウサギたち…振り返ることも出来ない、身動きできないトーマスくんは、限られた視界の中でいろんなことを感じ、考えます。その目にうつる風景は、人間の眼とは少し違います。だって、彼はかかしなんだから。人間なら、一日自分の影を見つめて、大きさが変わっていくのを「不思議だね」と思うなんてことは、普通はありません。自分の体を叩く雨から逃れることもせずに打たれ、そのまま虹を見上げる、なんてこともありません。蜘蛛が自分の目の前で巣を作るのをじーっと見ていることもないのです。トーマスの見ている風景は、私たちが見ているそれと、同じで違う。定点カメラの長回しの風景を時折テレビで見ると、一輪の花が咲いて枯れるまでが人の一生のようにダイナミックで驚くことがあります。あの視点に近いのかも。影が生まれ、消えていく。雲がやってきて飛び去っていく。それをじーっと見つめる彼は、目の前のすべてを「見届ける」のです。そりゃもう、哲学的にもなりますよね。皆、自分の眼の前を通り過ぎ、生と死をくり返していくのだから。トーマスくんの眼の前にやってきては去っていくものが、また、なんと美しく描かれていることか。トーマスくんがこの世で過ごしたのは、人間の尺度で言えばほんの短い間なんですが、心を込めて全てを見届ける彼にとっては無限にも感じられるほどのものだったのかもしれません。そのせいで、彼は「旅に出たい」と思うようになったのかもしれないな、と思うのは、「月日は百代の過客にして・・・」なんて連想してしまう日本人だからかもしれません。

その彼の願いは、唐突に叶えられます。その消え方には、訳された吉田さんも書いておられますが、びっくりしました。でも、プロイスラーがトーマスくんにこの旅立ちを与えたのが、何だかわかる気もするのです。大地に生まれてそこで生きて旅立っていく、それはとても自然なことだから。この物語の背景は、農場です。種まきから収穫まで、人は一生懸命働いて、大地が野菜を育てて実らせます。トーマスもその営みの一つなんですよね。太陽が昇って沈んで、一年を繰り返して…大きなサイクルの中で、トーマスは自分の命をまっとうしたのです。一生懸命働いて、誰にも振り返られることなく、ぽつねんと自然を見つめた彼に自分の気持ちを重ねてしまう物語でした。読んだあと、彼の孤独が沁みて、その分彼の眼に映ったものが綺麗すぎて、何やら人恋しくなってしまうような物語でもありました。子どもたちは、この物語を読んでどう思うのかな。大人が読むようにトーマスくんに人生を感じる、なんてことは無いかもしれないけれど、人以外のモノに心を重ねてみる、ということを何となくでも感じてくれたらいいなと思います。それが、大切な、目に見えないものを感じる第一歩だと思うから。

プロイスラーは、『クラバート』や『大どろぼうホッツェンプロッツ』が有名ですが、私は『クラバート』という物語が、とても好きなんですよ。あの本の表紙を見ただけで、くらっと異世界に迷い込みます。この本の挿絵も『クラバート』と同じヘルベルト・ホルツイング。彼の描くトーマスの表情の、なんて素敵なこと!わらで出来ているのに、ちゃんと表情がある。この挿絵を見るだけでも価値があります。しみじみと滋味溢れる一冊です。

2012年9月刊行
さ・え。ら書房

by ERI

ソロモンの偽証 第一部~第三部 宮部みゆき 新潮社

連載に9年をかけた大作。読むのも大変だったのだが、何とラスト近くになって、「もっと続きが読みたい」と思った自分に驚いた。テーマとしては、学校という閉鎖社会の中でのいじめと暴力という重くやりきれないものだ。しかし、最後まで読むと、心に光が射してくる。一巻で描かれたやり切れない場所から、この光に至るまでの過程には、なるほどこれだけの分量が必要だったのだと読み終わって納得した。

宮部さんもインタビューでおっしゃっていたが、誰が真実を知っているのかということは、途中で何となく予想がつくのである。しかし、それが物語への興味を失わせないどころか、だからこそますます読み進めたくなる。学校は部外者の立ち入りにくい密室だ。でも、その密室は大人の矛盾やこの社会の理不尽を見事に反映する。いじめ問題も、いくら行政が学校に介入し、手直しを図ろうとやっきになっても、根本的な解決にはならないような気が私はしている。効率よく弱者を切り捨てるのが当たり前という価値観が、大人の社会で大きな顔をしていることを、きっと子ども達は敏感にわかっているんだと思うから。この本は、そんな化け物に対する闘いの書なのだと思う。自分たちで設けた学校内裁判の法廷で、彼らはとことん話し合うことで、自分たちを呑み込もうとする虚無と闘うのだ。誰も真実を教えてくれないまま、うやむやにしてしまおうとする。身勝手な大人の事情を呑み込ませられることにうんざりした中学生たちを立ち上がらせた宮部さんの願いが、とても熱い物語だった。

そう、闘う相手は自分たちにつきつけられた理不尽だから、この学校内裁判では、裁判の勝ち負けではなく、真実にたどりつくことを目的にしている。それが、この法廷の肝だなあと思うのだ。ただ勝ち負けを争うなら、上げ足とりをし合うだけになってしまう。法廷という形をとり、証人と話をし、自分たちの言葉で真実を探そうとする。この、「話す」ということが、大切なんだと想う。昨日、リーマ・ボウイー氏の「祈りよ力となれ」という本を読んでいた。度重なる内戦で家族を殺され、財産を全てなくし、傷つけられ、辛酸をなめたリベリアの女性たちが立ちあがり、男たちが為し得なかった停戦を成し遂げる。その出発点は、自分の過去を語り、話し合い、共有するという営みだった。現実に学校という場所で声をあげるのは非常に大変なことだ。そのことは、自分の中学校時代を思い出しても身にしむほどわかる。こんな闘いは、物語だから出来ることと言ってしまえばそうかもしれない。この物語の中学生たちが出来すぎ、とも言えるかもしれない。(いや、実際、私はこの年齢でも、検察側も弁護側も裁判長も務まらないと思う)でも、この物語の中で積み上げられていく話し合いの中で、中学生たちが初めてお互いの心の中に踏み込んで、心を分け合っていく過程は、宝物だと思う。現実ではない物語だからこそ生まれる宝物がここにはある。その宝物を分け合うことが、微かな光となって私の心に射した。そして、この光が、少しでも現実を照らすものになって欲しいという宮部さんの祈りも、私の心に届いた。その祈りを、私も共有したいと心から思う。

ネタばれになってしまうかもしれないけれど。最後に書かれた短い後日談の中で、健一があれからの自分たちを語った一言を、今悩む子どもたちが言えるようになって欲しい。でも、それはグローバルに通用する優秀な人材(この人材という言葉は傲慢だと思う)を育てることからは生まれないと思う。Xmasの夜に死んでいった柏木くんと、弁護人をつとめた神原くんをわけたものは、優秀さや、そんなことではなくて―暮らしはささやかでも、ちゃんと心を分け合える人がいるか否かということだった。まっとうに生きていれば、人間らしい暮らしが出来る大切さ。そこを忘れてほしくない。もうすぐ始まる衆院選に出てくる政治家の方達には特にね。ちょっとため息ですね・・・。

2012年8月~10月刊行
新潮社

エストニア紀行 森の苔・庭の木漏れ日・海の葦 梨木香歩 新潮社

梨木さんが実際にエストニアを旅したのが、2008年。『考える人』での連載などを経て、一冊の本として上梓されたのが、今年の9月末だ。実に4年の間、梨木さんは「内的な旅」(『考える人 2012年秋号』)を続けてらしたのだ。この本で日程を追う限り、それは短い9日間の旅なのである。しかし、そこから始まる梨木さんの精神の旅は、ご自分が根源的に抱える孤独のありかをめぐる遥かな旅だった。そして、その魂の旅は、私の心のアンテナをびりびりと震わせた。読み進めるごとに私がこの本に貼ったメモつきの付箋が、アンテナが震えた痕。梨木さんという渡りの心性を持つ方から発信された示唆は、「個」を超えた力となって私達にある方向を教えてくれるような気がする。

エストニアはバルト三国のなかの一つであり、他の国に入れ替わり立ち替わり支配され続けた歴史を持つ国だ。その複雑さがかえって開発を遠ざけたことと、森羅万象に神が宿る信仰を持ち続けた古い記憶から、自然が手つかずの状態で保たれている。日本では絶滅してしまったコウノトリが、人間とともに暮らしている土地柄なのだ。エストニアで、梨木さんは度々郷愁という言葉を使う。そう・・・何だか私も、読みながら自分の幼い頃に夏を過ごした田舎のことを思い出したりした。深い深い、迷い込んだら二度と出てこられないような山を歩いた記憶。そこを父と歩いて滝まで行った遠い日・・・こんなこと、覚えていたんだと思うような映像が浮かんだりした。父の田舎は、たった一度梨木さんが映像として見た、コウノトリが日本で暮らしていた場所の近くである。夕方には、赤とんぼで空が真っ赤になった。子どもだった私の体をとんぼの大群が包んで通り過ぎていったときの風圧は、生々しい記憶だ。梨木さん一行をげんなりさせた蛭じいさんは、その昔私をまむしの瓶詰で脅かした田舎のおっちゃんにそっくりだし(このくだりには大爆笑してしまった)。それに、養蜂家のおじいさんの語る、不思議な力を持つ女性の話は、『西の魔女』とそっくりだし。自分の記憶や梨木さんの著作の記憶とこのエストニアという国は、なんと重なることだろう。でも、そこは日本ではない。日本が失ってしまったものが色濃く漂う土地で、その昔近所にいたような人たちと出逢いながら、梨木さんの思索は、失われたもの、この世界からどんどん消え去っていく人間以外の生き物へと視点が移り変わっていく。森と、鳥と、動物をこよなく愛する梨木さんは、非常な痛みを持ちながらこの世界を見つめている。その痛みは、自分が人間であることへの罪悪感に近いと思う。

こんな罪悪感を感じる必要などない、という人もいるだろう。私たちは経済という大きな網に組み込まれているのだから仕方ないじゃないか。自分だって便利な生活の恩恵に預ってるんでしょ?そんな罪悪感は偽善でしょ、とか。にやにや笑いで「あんたも共犯だから」と共に汚れることを押しつけられたとき、私たちは口をつぐんでしまいがちだ。しかし、この世界の羅針盤は、他人の、もしくはこの世界に生きるものたちの痛みを自分のことのように感じる人、つまりは罪悪感を原罪のように抱える人たちによって指し示されるように思う。少なくとも、私にとってはそうだ。日本ではカワウソもコウノトリも、オオカミもトキもいなくなってしまった。チェルノブイリの事故のせいで人が強制的にいなくなった土地は、今、絶滅しかけている動物たちの聖地になっているらしい。そういうことを、常に繊細なアンテナで感じ続け、考え続ける梨木さんの心の旅は、今自分がいる場所を考えるきっかけに満ちていると思う。やたらに扇情的に流れてくる情報や、憎しみをあおるような愛国主義が垂れ流される中で、渡っていくコウノトリの視点を持つこと。支配され続けた歴史の中で、憎しみに流されなかった人たちのこと。忘れないために、何度も私はこの本を読むだろう。そのたびに、またこうして考えたことを書いていくと思う。梨木さんが書くことによって発信されたことを、私は受け止めて、受け止めようとしてこんなに拙いものを書く。正直それが何の役にたつんだろうと時々思ったりすることもあるのだけれど・・・梨木さんが抱える「病理のように」と自分でおっしゃる遥かな想いのようなものが自分にもあるなと思う。例え蟻さんのような歩みでも、私が世界の片隅でこんなものを書いているのは、ささやかなフィードバックを通じて「個」を超えようとする願いなのかもしれない。

・・・と、私のようなちっぽけなブロガーにも大風呂敷を広げさせるような、とにかくいろんな要素がぎゅっと詰まった本だった。ただ、梨木さんの見事な風景描写を読むだけでも楽しいし、不思議な幽霊(?)まで引き寄せてしまう、旅の磁力に吸い込まれてもいい。このエストニアと、フィンランドは絶対に行ってみたい。いや、行くぞ、と言葉に出して言霊を引き寄せよう。行くぞ!!

※2012年秋号の「考える人」に、この本に関連したロングインタビューが掲載されています。

2012年9月刊行

by ERI

 

 

 

女性のいない世界 性比不均衡がもたらす恐怖のシナリオ マーラ・ステンドール 講談社

妊娠・出産というのは、非常にプライベートで個人的なことであると同時に、いろんな慣習的な圧力が加わってくるものなのである。「跡継ぎを生む」という発想は、その最もたるもの。でも、そのために胎児を中絶する、という発想は私自身は聞いたことがなかった。でも驚いたことに、アジア諸国、特に中国とインドでは男子を望むための中絶が多く、非常に男女の比率が不均衡になっているという。この本は、世界における性比の不均衡の歴史と、現在における問題点、これから起きてくるだろう悲劇について論じた本だ。物知らずの私には、驚く話ばかりだった。そして、はたと気がついた。以前読んだ『私は売られてきた』(パトリシア・マコーミック 代田亜香子訳 作品社)という本で知ったインドにおける少女買春の根っこが、この男女比の不均衡にあったことを。この本によると、この男女比の差は、もとをたどると植民地支配というものと結びついているという。構造的な支配構造が、一人の少女の人生を徹底的に痛めつけるということを、繋がった点と線が教えてくれた。なんともやるせない、でも他人事ではない問題なのだ。だって、私も子を生んだ母なのだから。

子どもを生むということは、とても個人的なことであり、一生に何度もない大切な機会だ。だから、子どもを生む時の選択―例えば産むか否か、もしくは中絶などの決断も、あくまでも判断材料は自分とパートナーの都合を判断材料にすると思う。その自分の決断と社会との有機的な繋がりまでは、おそらくあまり考えが及ばないと思うのだ。だって、お腹を痛めて生んで育てるのは自分自身なのだから。その決断がいかに社会に影響を及ぼすか、などということを考えて子どもを生む人はいないと思う。どんなに少子高齢化が問題、なんて言われても、「じゃ、私が」なんてことにはならない。絶対。ところがだ。あくまで個人的だと思っているその決断が、実は社会的な圧力に左右されているものだったら・・・そう思うと、背筋がひやりとする。この本によると、産児制限は、インドにおけるイギリスの政策から始まったものなのである。つまるところ経済の論理が優先された結果なのだ。日本も実はその例に漏れない。第二次大戦後に、アメリカの支配下にあった時、人口調整のモデルケースに選ばれたのが日本だった。その手段は人工中絶だ。その結果、戦後のベビーブームは団塊の世代だけに留まった。そのモデルケースが韓国に、そして中国に応用される。国をあげての産児制限、つまり人工中絶の推進が行われたのだ。そして、伝統的に「跡取り」という慣習があることから、中絶は女児が多くなる。超音波で性別が判明するようになったことが女児の中絶を加速させた。妊娠中絶はお金になることから、医師たちもそれを黙認していったのだ。その結果、中国では男女の比率が100対120にまで拡大しているという。この数字には、正直びっくりしてしまった。個人の選択のはずが、実は社会的な圧力に左右されてしまう。まず、その怖さを思う。「男子が欲しい」というのは、女性自身の選択というよりは、「跡取りを」という期待にこたえようとするものだろう。そして、個人的なよりよいお産の選択が、今度は社会的な問題となるというのも、当たり前だけれども事実なのだ。

男女比の差は、様々な問題を生みだす。結婚難もそうだし、社会全体が暴力的な傾向を帯びることもある。中絶が日常的に行われることも衝撃だったが、この本を読んでいて一番恐ろしいと思ったのは、ゆがんだ男女比が、女性を危険に陥れることだ。誘拐や売春の強要。少女の頃に売り買いされること。外国人花嫁や一妻多夫。(一妻多夫というのは、例えば一人の女性を兄弟で妻にすることだったりする。げげっ・・・と私なぞは思うが、実際あることらしい)初めに書いた『私は売られてきた』の主人公の少女は、何の知識も与えられぬまま、ネパールから3000ドルたらずのお金と引き換えに売春宿に売られてしまうのだ。あの本を読んだときは、なぜネパールから?というところがわからなかったのだが、この本を読んで疑問氷解だった。インドでは女児が少ないからなのだ。だから、他の国からだまし討ちのようにして連れてきて売春させる。負の連鎖が、少女の人生や尊厳を踏みにじる。負の連鎖は、世界のグローバル化によって多数の国に影響を与えるのだ。人は、すぐに構造的な支配行動の奴隷になる。その引き金をひくのは、いつもむき出しの欲望だ。そのしわ寄せは弱者に集中する。しかし、性と出産というデリケートな問題は、一旦負の方向に転がり出すとなかなか歯止めがきかないように思う。どうすれば良いのかという積極的な提言は、残念ながらこの本にはない。しかし、この問題が、実は他人事ではなくて、私たちひとりひとりの意識の持ち方にあるのだということを、知っておく必要があるように思う。アメリカでも日本でも、今は女の子が欲しいという親が多い。でも、それはもしかして自分たちの「女の子ってこういうもの」という思い込みや、都合のよさが判断基準になってはいないか。この本の問いかけを読んで、そうかもしれないと考え込んでしまった。そういう私も、可愛いお洋服を着せたいから女の子が欲しかったくちなのだもの。

日本でも、新しい出生前診断が始まることで、色々と議論が広がっている。これから、もっともっと新しい技術が開発・応用されていくだろう。そのときに、「自分にとって最善と思われることはなんでもやる」という親の都合がすべてに優先されるべきなのか否か。難しい問題だと思う。誰にだって、一生の問題だものなあ。自分の最善を追求したくなる気持ちはわかる。しかし、だ。一応子育てを一通りしてきた身から言うと、子どもというのは、全く自分の思い通りにはならない存在である。産む前に思っていた親の思惑などは、まずもって粉々に粉砕される。子どもは親が想うよりも強烈に自分を持っていて、どこからか運命のようにやってきて、大きくなったらどこかに行ってしまうものだと思うのだ。こんなことを言うと語弊があると思うのだけれども、猫を拾うのと子どもを生むのは、似たところがあるなと思ったりしてる今日この頃なのだ。全くの偶然で我が家にやってくる猫たちは、それぞれ強烈に個性を持っている。でも、どんな猫も、縁があって一緒に暮らしているうちにかけがえない愛する家族になる。日本語はその点、やはり素晴らしい。「子どもは授かりもの」と言いますもんね。子どもをこれから産む人と、産んで育てた経験のある人とでは、この言葉の腑に落ち方に落差があると思う。そこのところを、大人が、私たちの年齢の女が発言していくことは、本当はもっと大切なことなのかもしれないと、改めて考えてしまった一冊だった。

2012年6月刊行
講談社

by ERI

【映画】天のしずく 辰巳芳子“いのちのスープ”

私は毎日料理をする。1年が365日あれば、360日ぐらいは欠かさず家族5人のためにご飯を作る。私ぐらいの年齢になれば、まわりの友人たちはそろそろご飯作りから解放されている人も多い。子どもたちは家に帰ってこなくなり、夫も仕事仕事で帰りが遅い。「たった一人の夕食だと何を作るのも面倒で、買ってすませてしまうんよ」などと聞くと、正直うらやましく思ったりもする。でも、この映画を見て、辰巳芳子さんが作る「天のしずく」である命のスープに込められた愛情に、自分の適当さや、「こんなもんで大丈夫」という奢りの心を思い知らされてしまったのである。「食」は人間の一番根源的な愛情の姿であること。そして、この国の食べ物を守る、「食」を守ることが、私たちの次の世代のために絶対に必要なことであることを、心込めて教えてもらった。凛と立つ辰巳さんが、その手から生み出す料理は、まさに慈愛そのものなのだ。

辰巳さんの「食」は、家族と生きてこられた歴史。戦中戦後と苦しい時代を、心込めた料理で支えたお母様との毎日が、辰巳さんの中にそのまま生きている。そして、病気で倒れたお父様のために作られたのが、命のスープ。それを作る辰巳さんの手の動きの美しいこと。そう、全てが美しいのだ。辰巳さんの使う食材を生みだす農家の人たちの面差し。広がる土の風景。田んぼに実る黄金色の稲穂。何て日本の風景は美しいのかと涙が出そうになる。その美しさを全て集めて、辰巳さんの端正な手が命のしずくを生みだす。そのスープを飲む人の、顔がとても印象的だった。保育園の子どもたちは満ち足りて寝てしまう。病んでいる人が「おいしい」と顔を緩める。私は、人に「美しい」と思わせるような料理を作ることが出来ているだろうか。辰巳さんのお母様は人生の最後に「ああ、美し。一点一画のくるいもない」と思わせる献立を並べて辰巳さんに食べさせた。何となく食べられるから、くらいのものを毎日作って「めんどくさい」とはよく言えたものだなと、自分のぼんやり加減にため息が出た。

この映画の中で、心に残った手がもう一つある。それは、長島愛生園で人生を過ごしてこられた宮崎かづゑさんの手だ。若い頃の病でその手は指がない。でも、かづゑさんはその手で愛する親友のために、辰巳さんのスープを作って届けておられたのである。辰巳さんはそのスープを飲んで「やさしい味ね」とため息をついた。私はそのシーンを見ながら、父の臨終のときのことを思い出していた。父が倒れたとき、あともう少ししか命がないとわかったとき。私はなぜ、病室で右往左往しか出来なかったのだろう。なぜ、父の好きだったお味噌汁を作って飲ませなかったのだろう。そう思って涙が止まらなくなってしまった。私は、そんな風に人に愛情を与える生き方をしてこなかったんだなあと心がひりひりした。そのかづゑさんが言う。「人間は生きているべきですね」「ここまで生きてこなくちゃわからなかった、ということがあるんです」とおっしゃっていた。そう・・本当に、年齢を重ねなければわからないことがある。それも、丁寧に生きていなければわからないことが。

今、日本人の価値観は揺らいでいる。大きな波にのまれそうになって消えてしまいそうなものがたくさんある。富とは何か。豊かに生きるということは何か。この美しい日本に生まれて、こんなに豊かな食の慈しみを受けられること。この恵みを決して無くしてはいけないし、それを無くしてしまったら、心の未来は無いのだということ。土は絶対に汚してはいけない。土は、命そのものだから。その基本を見据えたら、自ずと私たちの方向は定まるように思う。私達は日本人だから、この日本で、顔の見える人たちの作るものを慈しんで食べて生きるべきなのだ。それは、ほんとうに当たり前のこと。そして、大切なこと。でも、その大切なことは、今切り捨てられようとしている。ここで声を上げなければならないという辰巳さんとスタッフさんたちの切なる想いが、まっすぐ伝わる映画だった。このところ、漠然と心にあって形にならなかったことが、すーっと心の中で繋がったような気がする。心から見て良かったと思う。

この映画は、今公開中です。パンフレットにはレシピもついてます。一人でも多くの人がこの映画を見てくれますように・・・。

by ERI

楽しいスケート遠足 ヒルダ・ファン・ストックム ふなと よし子訳 福音館書店

オランダはスケートが国技のようなお国柄。もっとも、それを教えてくれたのは、『銀のスケート』や『ピートのスケートレース』などのオランダを舞台にした物語たちでした。寒い冬に国中の運河や水路が凍りつく。そこをスケートで走り抜けるのです。200kmを滑りきる「エルフステーデントホト」というレースも行われるという、スケート王国。その冬の楽しみを、趣のある挿絵と楽しい文章で綴った、これからの季節にぴったりのお話です。

待ちに待った氷の大王がやってきて、街中が雪と氷になった朝から物語は始まります。双子のエベルトとアフケは大喜びで学校へと飛び出します。すると先生が、皆を一日がかりの日帰りスケート遠足の企画を立ててくれたのです。大喜びの二人は、張り切って遠足の準備を始めます。

私たち日本人は、設備の整ったリンクでのスケートしか知りません。でも、エベルトとアフケの挑むスケート遠足は、自然の作った道を滑るのです。でこぼこもあれば、ひび割れやこぶもある。色んなものが落ちていたりもする。そんな上を、何十キロも滑って違う街に遠足する。9歳の二人には大きな冒険なのです。私たちの世代は冬場になると必ず耐寒遠足というものに連れて行かれましたが(笑)これがまさに「耐寒」そのものでした。あちこち凍りついた山道を歩き、頂上で吹雪に見舞われながらかちかちのお弁当を食べるという、ほぼ拷問のような一日…。昔のこととて、今のような保温の水筒もありません。ダウンジャケットもなかった。吹雪の中で身を寄せあいながら、冷たい冷たいお茶を飲んで鼻水を垂らすというなんとも冴えない遠足だった…昔って、ああいう軍事教練の名残りのような行事がたくさんあったなあ(遠い目)でも、でも。この二人の体験するスケート遠足は、1934年の出版という昔なんですが、楽しさが全く違います。

まず、自然の中を走るスポーツの喜びがあります。きらきら光る運河の上を、皆で揃って走っていく。表紙の絵に描かれているように、女の子たちは先生がポールで引っ張ってくれるのです。その女の子たちの衣装の可愛いこと!真っ白な雪に映えるその光景がいいですよねえ。そして、何と凍りついた運河の途中には、美味しい熱いココアや焼き立てのお菓子を売るお店まであって、そこでスケートを履いたまま休むことも出来るのです。老若男女が皆スケーターであるオランダならではの楽しみです。もう何十年もスケート靴はいてませんから、きっと滑れないでしょうけど、ちょっとやってみたくなるじゃありませんか!こういう、伝統に根ざした楽しみって、心が豊かになりますよね。まず、風景が美しい。それに比べて道頓堀川にプール作るとかいうアホなこと言うてる人たちがおりますが、もう、想像しただけでげんなりする光景です。誰が泳ぐねん、あんなとこで。もうちょっと美的なことを考えられへんのかいな。・・・おっと、脇道にそれてしまいました。反省、反省。

先生とエベルトたち一行の一日は、いろんなアクシデントに襲われます。何しろいたずら盛りの男の子たちに、若くて元気な男の先生という布陣ですから(笑)エベルトが氷の割れ目におっこちるやら、助けて貰った農家で美味しそうなあっつあつの雪パンケーキを御馳走になるやら。(この農家の豊かな包容力は『第八森の子どもたち』を思い出させます)たどり着いた街で、他の学校の子たちと雪合戦になるやら。極めつけは教会での男子行方不明事件という盛りだくさんの一日の中で、子どもたちの気持ちが、生き生きと動いていくのが暖かい筆致で描かれます。シモンという内気な少年が、この一日の中で別の顔を見せて、男の子たちの友情を勝ち取るというのが、この物語の芯の一つ。自分が行動することによって、仲間を作ることができたシモンの誇らしい気持ちが伝わってきます。このスケート遠足のありようや友情の描かれ方に、子どもという存在に対する信頼と自発性の尊重を感じるんですよね。お膳立てされたプログラムをこなすのではなく、自分の力で問題を乗り越えていくことを尊重する姿勢があります。もちろん、それは見守る大人のしっかりした眼差しがあってのこと。その眼差しをこの本に感じました。子どもたちは、一日の冒険を終えて家路につきます。くたくたの体でたどりついた家にある、笑顔と暖かいご飯。この帰宅のシーンがとても良いんです。幸せそのものだなあと思います。ベッドにもぐりこむ安らぎの中で、子どもたちの冒険は生きた喜びとなるんですよね。どこに行っても、冒険しても、「ただいま」と帰ってくる場所がある。本を閉じて、面白かったなあと帰ってこれる。この「帰ってくる」という安らぎも、また子どもの本の良さだと思います。この子どもたちのように、皆に生きる喜びを味わって欲しいなと心から思います。この本は、1935年のニューベリー賞を受賞しています。画家でもある作者の美しい挿絵も堪能できる、楽しい本。この本を発見して翻訳し、紹介されたふなとよし子さんの後書きが印象的でした。思いのこもった暖かい一冊でした。

2009年10月発行

福音館書店

by ERI