十一月の扉 高楼方子 千葉史子絵 講談社青い鳥文庫

十一月のうちに、この本のレビューを書きたかったのだけれど、気が付いたら12月に突入してしまった(汗)秋が深くなって風が冷たくなると、この物語が読みたくなります。年末に向けてあれこれしなきゃ、と想いながらぼんやりしたりして、あっという間にすぎてしまう11月。でも、この物語の中で爽子と過ごす11月は、感受性の塊のような14歳の心が紡ぐきらびやかなタペストリーです。高楼さんの筆は、彼女の心のひだを一つ一つ色鮮やかに描き出します。憧れ。ほのかな恋。背伸び。少女の感性は憧れとおなじくらい失望も経験します。恋心は、ため息と苦しみを。家族と離れた日々は、同性である母への複雑な想いも具現化したりします。物語の中に迷い込んだような十一月荘の日々は、様々な色で爽子を照らし、その心を染め上げるのです。少女の心の光も影も見つめながら、この作品世界は瑞々しい「美を感じる喜び」に満ちています。だから、爽子と一緒にこの物語の空気を胸いっぱいに吸い込みたくなるのです。

中学生の爽子は、ある日偶然に素敵な家を見つけます。それは「十一月荘」と名付けられた下宿ができるらしい洋館。急に父の転勤が決まった爽子は、3学期までの二ヶ月間、そこから学校に通うことを思いつきます。思いがけずその願いがかなった爽子は、十一月荘で、女性ばかりの個性的な住人たちと過ごすことになるのです。

まず、この物語は、とても重層的な構成になっています。まず、舞台となる十一月荘が、少女小説のエッセンスがぎゅっと詰まったような場所なのです。爽子の部屋は、赤毛のアンの部屋のよう。女ばかりの家は、若草物語を連想させますし、爽子と、幼いるみちゃんの関係は「小公女」のセーラとロッティを思わせます。この十一月荘に足しげくやってくる、おしゃべり好きの鹿島夫人は、赤毛のアンのレイチェル夫人…という風に、大好きな少女もののあれこれが、あちこちに散りばめられているようでうっとりしてしまう。この物語には、先行作品として人々の心に生き続ける永遠の少女たちのエッセンスが香りのように漂っています。そして、この物語には、爽子の書くもう一つの小説が描かれます。ドードー鳥の細密画の表紙の美しいノートに爽子が書きつづる「ドードー森」の物語。動物たちのファンタジーは、この物語の中でも触れられる「たのしい川べ」のような雰囲気なのですが、登場人物たちは、十一月荘の住人や、そこを訪れる人々なのです。物語の中で、もう一つの物語が語られる。それは、爽子という少女から生まれる新しい場所でもあります。家庭という檻の中から抜け出して、新しい扉を開いた爽子が、そこで出会う人たちから、これまでとは違う世界を教えてもらう。そして、そこから爽子の新しい扉が開く。それは、アンやジョーを愛する少女たちがたどってきた道のりでもあり、爽子という少女だけが開くことのできる、たった一つしかない世界でもあります。受け継がれるものと、そこから新しく生まれるもの。過去と今が出逢い、きらめくように溶けあってかけがえのない世界を作る幸せな一瞬が、ここにあります。そんな幸せが音楽の喜びとなって降り注ぐラストシーンに爽子がつぶやく言葉が、私は好きなのです。「だいじょうぶ。きっときっと、未来も素敵だ。」

物語は、心を繋ぎます。爽子の書くドードー森の物語が、るみちゃんと、そして耿介との心を繋ぐように。遥かなものに憧れ続けた少女の頃の私と爽子を繋ぎ、アンやセーラやジョーが大好きだった女の子たちの心も繋ぎます。そして、これからを生きる子どもたちの心にも、暖かい光を投げかけてくれるに違いないと思うのです。

「きょう一日(ひとひ)また金の風
大きい風には銀の鈴
きょう一日また金の風 … 」(中原中也 早春の風)

この詩は春の風の詩ですが、私はこの物語を読むと、この詩を思い出すのです。私の心が通り過ぎてしまった青春の風。でも、無くしてしまったわけじゃない。この物語に私の風も託して、今の子どもたちの心が、新しい扉を開いてくれることを願っています。「十一月には扉を開け。」りんりんと、爽やかな鈴の音がするような言葉に、物語の力が宿ります。この本は2011年に講談社の青い鳥文庫から新しい装丁で刊行されています。元々の単行本も好きなのですが、この青い鳥文庫には、高楼さんのお姉さんの千葉史子さんの挿絵がたくさん入っています。これがまた、可愛くて素敵なんですよね。こうして文庫になることで、またたくさんの子どもたちに読まれるといいなと心から思います。

2011年6月刊行
講談社青い鳥文庫

by ERI

かかしのトーマス オトフリート・プロイスラー ヘルベルト・ホルツィング絵 吉田孝夫訳 さ・え・ら書房

最近、かかしが立っている風景をあまり見なくなりました。鳥対策も、最近はCDを並べてつるしたものとか、おっきな目の模様のバルーンみたいなもの(正式名称はなんていうんだろう)だったりで、手間のかかるかかしは、あまり立てないのかもしれません。あの、田んぼの中にぽつねんと立っているかかしって、何だか切ない。「自分があのかかしだったら・・」と想像してしまう。人の形をしているせいでしょうか。寂しくないかなー、とか。誰にも「御苦労さん」とも言ってもらわずに、それでもじーっと畑や田んぼの見張りをしているのが、切なかったり。個人的には、面白キャラクターかかしより、そういう「いつから立ってるんだろう・・・」と思わせるようなかかしが好みです。(って、かかしの好みなんて生まれて初めて考えたんですけどね)

この物語のかかし、トリビックリ・トーマスくんは、そんな正統派(?!)のかかし。キャベツ畑の真ん中で、帽子にマフラー、着古した上着を着て畑を見張ることになるのです。彼はとっても生真面目で誠実。生まれながらに自分の役割をよくわかっています。存在が先か、意識が先か、なんてことを連想させるほど哲学的で考え深いトーマスくんの眼にうつるのは、自分の影に空に雲。キャベツを食べにやってくるウサギたち…振り返ることも出来ない、身動きできないトーマスくんは、限られた視界の中でいろんなことを感じ、考えます。その目にうつる風景は、人間の眼とは少し違います。だって、彼はかかしなんだから。人間なら、一日自分の影を見つめて、大きさが変わっていくのを「不思議だね」と思うなんてことは、普通はありません。自分の体を叩く雨から逃れることもせずに打たれ、そのまま虹を見上げる、なんてこともありません。蜘蛛が自分の目の前で巣を作るのをじーっと見ていることもないのです。トーマスの見ている風景は、私たちが見ているそれと、同じで違う。定点カメラの長回しの風景を時折テレビで見ると、一輪の花が咲いて枯れるまでが人の一生のようにダイナミックで驚くことがあります。あの視点に近いのかも。影が生まれ、消えていく。雲がやってきて飛び去っていく。それをじーっと見つめる彼は、目の前のすべてを「見届ける」のです。そりゃもう、哲学的にもなりますよね。皆、自分の眼の前を通り過ぎ、生と死をくり返していくのだから。トーマスくんの眼の前にやってきては去っていくものが、また、なんと美しく描かれていることか。トーマスくんがこの世で過ごしたのは、人間の尺度で言えばほんの短い間なんですが、心を込めて全てを見届ける彼にとっては無限にも感じられるほどのものだったのかもしれません。そのせいで、彼は「旅に出たい」と思うようになったのかもしれないな、と思うのは、「月日は百代の過客にして・・・」なんて連想してしまう日本人だからかもしれません。

その彼の願いは、唐突に叶えられます。その消え方には、訳された吉田さんも書いておられますが、びっくりしました。でも、プロイスラーがトーマスくんにこの旅立ちを与えたのが、何だかわかる気もするのです。大地に生まれてそこで生きて旅立っていく、それはとても自然なことだから。この物語の背景は、農場です。種まきから収穫まで、人は一生懸命働いて、大地が野菜を育てて実らせます。トーマスもその営みの一つなんですよね。太陽が昇って沈んで、一年を繰り返して…大きなサイクルの中で、トーマスは自分の命をまっとうしたのです。一生懸命働いて、誰にも振り返られることなく、ぽつねんと自然を見つめた彼に自分の気持ちを重ねてしまう物語でした。読んだあと、彼の孤独が沁みて、その分彼の眼に映ったものが綺麗すぎて、何やら人恋しくなってしまうような物語でもありました。子どもたちは、この物語を読んでどう思うのかな。大人が読むようにトーマスくんに人生を感じる、なんてことは無いかもしれないけれど、人以外のモノに心を重ねてみる、ということを何となくでも感じてくれたらいいなと思います。それが、大切な、目に見えないものを感じる第一歩だと思うから。

プロイスラーは、『クラバート』や『大どろぼうホッツェンプロッツ』が有名ですが、私は『クラバート』という物語が、とても好きなんですよ。あの本の表紙を見ただけで、くらっと異世界に迷い込みます。この本の挿絵も『クラバート』と同じヘルベルト・ホルツイング。彼の描くトーマスの表情の、なんて素敵なこと!わらで出来ているのに、ちゃんと表情がある。この挿絵を見るだけでも価値があります。しみじみと滋味溢れる一冊です。

2012年9月刊行
さ・え。ら書房

by ERI

ソロモンの偽証 第一部~第三部 宮部みゆき 新潮社

連載に9年をかけた大作。読むのも大変だったのだが、何とラスト近くになって、「もっと続きが読みたい」と思った自分に驚いた。テーマとしては、学校という閉鎖社会の中でのいじめと暴力という重くやりきれないものだ。しかし、最後まで読むと、心に光が射してくる。一巻で描かれたやり切れない場所から、この光に至るまでの過程には、なるほどこれだけの分量が必要だったのだと読み終わって納得した。

宮部さんもインタビューでおっしゃっていたが、誰が真実を知っているのかということは、途中で何となく予想がつくのである。しかし、それが物語への興味を失わせないどころか、だからこそますます読み進めたくなる。学校は部外者の立ち入りにくい密室だ。でも、その密室は大人の矛盾やこの社会の理不尽を見事に反映する。いじめ問題も、いくら行政が学校に介入し、手直しを図ろうとやっきになっても、根本的な解決にはならないような気が私はしている。効率よく弱者を切り捨てるのが当たり前という価値観が、大人の社会で大きな顔をしていることを、きっと子ども達は敏感にわかっているんだと思うから。この本は、そんな化け物に対する闘いの書なのだと思う。自分たちで設けた学校内裁判の法廷で、彼らはとことん話し合うことで、自分たちを呑み込もうとする虚無と闘うのだ。誰も真実を教えてくれないまま、うやむやにしてしまおうとする。身勝手な大人の事情を呑み込ませられることにうんざりした中学生たちを立ち上がらせた宮部さんの願いが、とても熱い物語だった。

そう、闘う相手は自分たちにつきつけられた理不尽だから、この学校内裁判では、裁判の勝ち負けではなく、真実にたどりつくことを目的にしている。それが、この法廷の肝だなあと思うのだ。ただ勝ち負けを争うなら、上げ足とりをし合うだけになってしまう。法廷という形をとり、証人と話をし、自分たちの言葉で真実を探そうとする。この、「話す」ということが、大切なんだと想う。昨日、リーマ・ボウイー氏の「祈りよ力となれ」という本を読んでいた。度重なる内戦で家族を殺され、財産を全てなくし、傷つけられ、辛酸をなめたリベリアの女性たちが立ちあがり、男たちが為し得なかった停戦を成し遂げる。その出発点は、自分の過去を語り、話し合い、共有するという営みだった。現実に学校という場所で声をあげるのは非常に大変なことだ。そのことは、自分の中学校時代を思い出しても身にしむほどわかる。こんな闘いは、物語だから出来ることと言ってしまえばそうかもしれない。この物語の中学生たちが出来すぎ、とも言えるかもしれない。(いや、実際、私はこの年齢でも、検察側も弁護側も裁判長も務まらないと思う)でも、この物語の中で積み上げられていく話し合いの中で、中学生たちが初めてお互いの心の中に踏み込んで、心を分け合っていく過程は、宝物だと思う。現実ではない物語だからこそ生まれる宝物がここにはある。その宝物を分け合うことが、微かな光となって私の心に射した。そして、この光が、少しでも現実を照らすものになって欲しいという宮部さんの祈りも、私の心に届いた。その祈りを、私も共有したいと心から思う。

ネタばれになってしまうかもしれないけれど。最後に書かれた短い後日談の中で、健一があれからの自分たちを語った一言を、今悩む子どもたちが言えるようになって欲しい。でも、それはグローバルに通用する優秀な人材(この人材という言葉は傲慢だと思う)を育てることからは生まれないと思う。Xmasの夜に死んでいった柏木くんと、弁護人をつとめた神原くんをわけたものは、優秀さや、そんなことではなくて―暮らしはささやかでも、ちゃんと心を分け合える人がいるか否かということだった。まっとうに生きていれば、人間らしい暮らしが出来る大切さ。そこを忘れてほしくない。もうすぐ始まる衆院選に出てくる政治家の方達には特にね。ちょっとため息ですね・・・。

2012年8月~10月刊行
新潮社

エストニア紀行 森の苔・庭の木漏れ日・海の葦 梨木香歩 新潮社

梨木さんが実際にエストニアを旅したのが、2008年。『考える人』での連載などを経て、一冊の本として上梓されたのが、今年の9月末だ。実に4年の間、梨木さんは「内的な旅」(『考える人 2012年秋号』)を続けてらしたのだ。この本で日程を追う限り、それは短い9日間の旅なのである。しかし、そこから始まる梨木さんの精神の旅は、ご自分が根源的に抱える孤独のありかをめぐる遥かな旅だった。そして、その魂の旅は、私の心のアンテナをびりびりと震わせた。読み進めるごとに私がこの本に貼ったメモつきの付箋が、アンテナが震えた痕。梨木さんという渡りの心性を持つ方から発信された示唆は、「個」を超えた力となって私達にある方向を教えてくれるような気がする。

エストニアはバルト三国のなかの一つであり、他の国に入れ替わり立ち替わり支配され続けた歴史を持つ国だ。その複雑さがかえって開発を遠ざけたことと、森羅万象に神が宿る信仰を持ち続けた古い記憶から、自然が手つかずの状態で保たれている。日本では絶滅してしまったコウノトリが、人間とともに暮らしている土地柄なのだ。エストニアで、梨木さんは度々郷愁という言葉を使う。そう・・・何だか私も、読みながら自分の幼い頃に夏を過ごした田舎のことを思い出したりした。深い深い、迷い込んだら二度と出てこられないような山を歩いた記憶。そこを父と歩いて滝まで行った遠い日・・・こんなこと、覚えていたんだと思うような映像が浮かんだりした。父の田舎は、たった一度梨木さんが映像として見た、コウノトリが日本で暮らしていた場所の近くである。夕方には、赤とんぼで空が真っ赤になった。子どもだった私の体をとんぼの大群が包んで通り過ぎていったときの風圧は、生々しい記憶だ。梨木さん一行をげんなりさせた蛭じいさんは、その昔私をまむしの瓶詰で脅かした田舎のおっちゃんにそっくりだし(このくだりには大爆笑してしまった)。それに、養蜂家のおじいさんの語る、不思議な力を持つ女性の話は、『西の魔女』とそっくりだし。自分の記憶や梨木さんの著作の記憶とこのエストニアという国は、なんと重なることだろう。でも、そこは日本ではない。日本が失ってしまったものが色濃く漂う土地で、その昔近所にいたような人たちと出逢いながら、梨木さんの思索は、失われたもの、この世界からどんどん消え去っていく人間以外の生き物へと視点が移り変わっていく。森と、鳥と、動物をこよなく愛する梨木さんは、非常な痛みを持ちながらこの世界を見つめている。その痛みは、自分が人間であることへの罪悪感に近いと思う。

こんな罪悪感を感じる必要などない、という人もいるだろう。私たちは経済という大きな網に組み込まれているのだから仕方ないじゃないか。自分だって便利な生活の恩恵に預ってるんでしょ?そんな罪悪感は偽善でしょ、とか。にやにや笑いで「あんたも共犯だから」と共に汚れることを押しつけられたとき、私たちは口をつぐんでしまいがちだ。しかし、この世界の羅針盤は、他人の、もしくはこの世界に生きるものたちの痛みを自分のことのように感じる人、つまりは罪悪感を原罪のように抱える人たちによって指し示されるように思う。少なくとも、私にとってはそうだ。日本ではカワウソもコウノトリも、オオカミもトキもいなくなってしまった。チェルノブイリの事故のせいで人が強制的にいなくなった土地は、今、絶滅しかけている動物たちの聖地になっているらしい。そういうことを、常に繊細なアンテナで感じ続け、考え続ける梨木さんの心の旅は、今自分がいる場所を考えるきっかけに満ちていると思う。やたらに扇情的に流れてくる情報や、憎しみをあおるような愛国主義が垂れ流される中で、渡っていくコウノトリの視点を持つこと。支配され続けた歴史の中で、憎しみに流されなかった人たちのこと。忘れないために、何度も私はこの本を読むだろう。そのたびに、またこうして考えたことを書いていくと思う。梨木さんが書くことによって発信されたことを、私は受け止めて、受け止めようとしてこんなに拙いものを書く。正直それが何の役にたつんだろうと時々思ったりすることもあるのだけれど・・・梨木さんが抱える「病理のように」と自分でおっしゃる遥かな想いのようなものが自分にもあるなと思う。例え蟻さんのような歩みでも、私が世界の片隅でこんなものを書いているのは、ささやかなフィードバックを通じて「個」を超えようとする願いなのかもしれない。

・・・と、私のようなちっぽけなブロガーにも大風呂敷を広げさせるような、とにかくいろんな要素がぎゅっと詰まった本だった。ただ、梨木さんの見事な風景描写を読むだけでも楽しいし、不思議な幽霊(?)まで引き寄せてしまう、旅の磁力に吸い込まれてもいい。このエストニアと、フィンランドは絶対に行ってみたい。いや、行くぞ、と言葉に出して言霊を引き寄せよう。行くぞ!!

※2012年秋号の「考える人」に、この本に関連したロングインタビューが掲載されています。

2012年9月刊行

by ERI

 

 

 

女性のいない世界 性比不均衡がもたらす恐怖のシナリオ マーラ・ステンドール 講談社

妊娠・出産というのは、非常にプライベートで個人的なことであると同時に、いろんな慣習的な圧力が加わってくるものなのである。「跡継ぎを生む」という発想は、その最もたるもの。でも、そのために胎児を中絶する、という発想は私自身は聞いたことがなかった。でも驚いたことに、アジア諸国、特に中国とインドでは男子を望むための中絶が多く、非常に男女の比率が不均衡になっているという。この本は、世界における性比の不均衡の歴史と、現在における問題点、これから起きてくるだろう悲劇について論じた本だ。物知らずの私には、驚く話ばかりだった。そして、はたと気がついた。以前読んだ『私は売られてきた』(パトリシア・マコーミック 代田亜香子訳 作品社)という本で知ったインドにおける少女買春の根っこが、この男女比の不均衡にあったことを。この本によると、この男女比の差は、もとをたどると植民地支配というものと結びついているという。構造的な支配構造が、一人の少女の人生を徹底的に痛めつけるということを、繋がった点と線が教えてくれた。なんともやるせない、でも他人事ではない問題なのだ。だって、私も子を生んだ母なのだから。

子どもを生むということは、とても個人的なことであり、一生に何度もない大切な機会だ。だから、子どもを生む時の選択―例えば産むか否か、もしくは中絶などの決断も、あくまでも判断材料は自分とパートナーの都合を判断材料にすると思う。その自分の決断と社会との有機的な繋がりまでは、おそらくあまり考えが及ばないと思うのだ。だって、お腹を痛めて生んで育てるのは自分自身なのだから。その決断がいかに社会に影響を及ぼすか、などということを考えて子どもを生む人はいないと思う。どんなに少子高齢化が問題、なんて言われても、「じゃ、私が」なんてことにはならない。絶対。ところがだ。あくまで個人的だと思っているその決断が、実は社会的な圧力に左右されているものだったら・・・そう思うと、背筋がひやりとする。この本によると、産児制限は、インドにおけるイギリスの政策から始まったものなのである。つまるところ経済の論理が優先された結果なのだ。日本も実はその例に漏れない。第二次大戦後に、アメリカの支配下にあった時、人口調整のモデルケースに選ばれたのが日本だった。その手段は人工中絶だ。その結果、戦後のベビーブームは団塊の世代だけに留まった。そのモデルケースが韓国に、そして中国に応用される。国をあげての産児制限、つまり人工中絶の推進が行われたのだ。そして、伝統的に「跡取り」という慣習があることから、中絶は女児が多くなる。超音波で性別が判明するようになったことが女児の中絶を加速させた。妊娠中絶はお金になることから、医師たちもそれを黙認していったのだ。その結果、中国では男女の比率が100対120にまで拡大しているという。この数字には、正直びっくりしてしまった。個人の選択のはずが、実は社会的な圧力に左右されてしまう。まず、その怖さを思う。「男子が欲しい」というのは、女性自身の選択というよりは、「跡取りを」という期待にこたえようとするものだろう。そして、個人的なよりよいお産の選択が、今度は社会的な問題となるというのも、当たり前だけれども事実なのだ。

男女比の差は、様々な問題を生みだす。結婚難もそうだし、社会全体が暴力的な傾向を帯びることもある。中絶が日常的に行われることも衝撃だったが、この本を読んでいて一番恐ろしいと思ったのは、ゆがんだ男女比が、女性を危険に陥れることだ。誘拐や売春の強要。少女の頃に売り買いされること。外国人花嫁や一妻多夫。(一妻多夫というのは、例えば一人の女性を兄弟で妻にすることだったりする。げげっ・・・と私なぞは思うが、実際あることらしい)初めに書いた『私は売られてきた』の主人公の少女は、何の知識も与えられぬまま、ネパールから3000ドルたらずのお金と引き換えに売春宿に売られてしまうのだ。あの本を読んだときは、なぜネパールから?というところがわからなかったのだが、この本を読んで疑問氷解だった。インドでは女児が少ないからなのだ。だから、他の国からだまし討ちのようにして連れてきて売春させる。負の連鎖が、少女の人生や尊厳を踏みにじる。負の連鎖は、世界のグローバル化によって多数の国に影響を与えるのだ。人は、すぐに構造的な支配行動の奴隷になる。その引き金をひくのは、いつもむき出しの欲望だ。そのしわ寄せは弱者に集中する。しかし、性と出産というデリケートな問題は、一旦負の方向に転がり出すとなかなか歯止めがきかないように思う。どうすれば良いのかという積極的な提言は、残念ながらこの本にはない。しかし、この問題が、実は他人事ではなくて、私たちひとりひとりの意識の持ち方にあるのだということを、知っておく必要があるように思う。アメリカでも日本でも、今は女の子が欲しいという親が多い。でも、それはもしかして自分たちの「女の子ってこういうもの」という思い込みや、都合のよさが判断基準になってはいないか。この本の問いかけを読んで、そうかもしれないと考え込んでしまった。そういう私も、可愛いお洋服を着せたいから女の子が欲しかったくちなのだもの。

日本でも、新しい出生前診断が始まることで、色々と議論が広がっている。これから、もっともっと新しい技術が開発・応用されていくだろう。そのときに、「自分にとって最善と思われることはなんでもやる」という親の都合がすべてに優先されるべきなのか否か。難しい問題だと思う。誰にだって、一生の問題だものなあ。自分の最善を追求したくなる気持ちはわかる。しかし、だ。一応子育てを一通りしてきた身から言うと、子どもというのは、全く自分の思い通りにはならない存在である。産む前に思っていた親の思惑などは、まずもって粉々に粉砕される。子どもは親が想うよりも強烈に自分を持っていて、どこからか運命のようにやってきて、大きくなったらどこかに行ってしまうものだと思うのだ。こんなことを言うと語弊があると思うのだけれども、猫を拾うのと子どもを生むのは、似たところがあるなと思ったりしてる今日この頃なのだ。全くの偶然で我が家にやってくる猫たちは、それぞれ強烈に個性を持っている。でも、どんな猫も、縁があって一緒に暮らしているうちにかけがえない愛する家族になる。日本語はその点、やはり素晴らしい。「子どもは授かりもの」と言いますもんね。子どもをこれから産む人と、産んで育てた経験のある人とでは、この言葉の腑に落ち方に落差があると思う。そこのところを、大人が、私たちの年齢の女が発言していくことは、本当はもっと大切なことなのかもしれないと、改めて考えてしまった一冊だった。

2012年6月刊行
講談社

by ERI

【映画】天のしずく 辰巳芳子“いのちのスープ”

私は毎日料理をする。1年が365日あれば、360日ぐらいは欠かさず家族5人のためにご飯を作る。私ぐらいの年齢になれば、まわりの友人たちはそろそろご飯作りから解放されている人も多い。子どもたちは家に帰ってこなくなり、夫も仕事仕事で帰りが遅い。「たった一人の夕食だと何を作るのも面倒で、買ってすませてしまうんよ」などと聞くと、正直うらやましく思ったりもする。でも、この映画を見て、辰巳芳子さんが作る「天のしずく」である命のスープに込められた愛情に、自分の適当さや、「こんなもんで大丈夫」という奢りの心を思い知らされてしまったのである。「食」は人間の一番根源的な愛情の姿であること。そして、この国の食べ物を守る、「食」を守ることが、私たちの次の世代のために絶対に必要なことであることを、心込めて教えてもらった。凛と立つ辰巳さんが、その手から生み出す料理は、まさに慈愛そのものなのだ。

辰巳さんの「食」は、家族と生きてこられた歴史。戦中戦後と苦しい時代を、心込めた料理で支えたお母様との毎日が、辰巳さんの中にそのまま生きている。そして、病気で倒れたお父様のために作られたのが、命のスープ。それを作る辰巳さんの手の動きの美しいこと。そう、全てが美しいのだ。辰巳さんの使う食材を生みだす農家の人たちの面差し。広がる土の風景。田んぼに実る黄金色の稲穂。何て日本の風景は美しいのかと涙が出そうになる。その美しさを全て集めて、辰巳さんの端正な手が命のしずくを生みだす。そのスープを飲む人の、顔がとても印象的だった。保育園の子どもたちは満ち足りて寝てしまう。病んでいる人が「おいしい」と顔を緩める。私は、人に「美しい」と思わせるような料理を作ることが出来ているだろうか。辰巳さんのお母様は人生の最後に「ああ、美し。一点一画のくるいもない」と思わせる献立を並べて辰巳さんに食べさせた。何となく食べられるから、くらいのものを毎日作って「めんどくさい」とはよく言えたものだなと、自分のぼんやり加減にため息が出た。

この映画の中で、心に残った手がもう一つある。それは、長島愛生園で人生を過ごしてこられた宮崎かづゑさんの手だ。若い頃の病でその手は指がない。でも、かづゑさんはその手で愛する親友のために、辰巳さんのスープを作って届けておられたのである。辰巳さんはそのスープを飲んで「やさしい味ね」とため息をついた。私はそのシーンを見ながら、父の臨終のときのことを思い出していた。父が倒れたとき、あともう少ししか命がないとわかったとき。私はなぜ、病室で右往左往しか出来なかったのだろう。なぜ、父の好きだったお味噌汁を作って飲ませなかったのだろう。そう思って涙が止まらなくなってしまった。私は、そんな風に人に愛情を与える生き方をしてこなかったんだなあと心がひりひりした。そのかづゑさんが言う。「人間は生きているべきですね」「ここまで生きてこなくちゃわからなかった、ということがあるんです」とおっしゃっていた。そう・・本当に、年齢を重ねなければわからないことがある。それも、丁寧に生きていなければわからないことが。

今、日本人の価値観は揺らいでいる。大きな波にのまれそうになって消えてしまいそうなものがたくさんある。富とは何か。豊かに生きるということは何か。この美しい日本に生まれて、こんなに豊かな食の慈しみを受けられること。この恵みを決して無くしてはいけないし、それを無くしてしまったら、心の未来は無いのだということ。土は絶対に汚してはいけない。土は、命そのものだから。その基本を見据えたら、自ずと私たちの方向は定まるように思う。私達は日本人だから、この日本で、顔の見える人たちの作るものを慈しんで食べて生きるべきなのだ。それは、ほんとうに当たり前のこと。そして、大切なこと。でも、その大切なことは、今切り捨てられようとしている。ここで声を上げなければならないという辰巳さんとスタッフさんたちの切なる想いが、まっすぐ伝わる映画だった。このところ、漠然と心にあって形にならなかったことが、すーっと心の中で繋がったような気がする。心から見て良かったと思う。

この映画は、今公開中です。パンフレットにはレシピもついてます。一人でも多くの人がこの映画を見てくれますように・・・。

by ERI

楽しいスケート遠足 ヒルダ・ファン・ストックム ふなと よし子訳 福音館書店

オランダはスケートが国技のようなお国柄。もっとも、それを教えてくれたのは、『銀のスケート』や『ピートのスケートレース』などのオランダを舞台にした物語たちでした。寒い冬に国中の運河や水路が凍りつく。そこをスケートで走り抜けるのです。200kmを滑りきる「エルフステーデントホト」というレースも行われるという、スケート王国。その冬の楽しみを、趣のある挿絵と楽しい文章で綴った、これからの季節にぴったりのお話です。

待ちに待った氷の大王がやってきて、街中が雪と氷になった朝から物語は始まります。双子のエベルトとアフケは大喜びで学校へと飛び出します。すると先生が、皆を一日がかりの日帰りスケート遠足の企画を立ててくれたのです。大喜びの二人は、張り切って遠足の準備を始めます。

私たち日本人は、設備の整ったリンクでのスケートしか知りません。でも、エベルトとアフケの挑むスケート遠足は、自然の作った道を滑るのです。でこぼこもあれば、ひび割れやこぶもある。色んなものが落ちていたりもする。そんな上を、何十キロも滑って違う街に遠足する。9歳の二人には大きな冒険なのです。私たちの世代は冬場になると必ず耐寒遠足というものに連れて行かれましたが(笑)これがまさに「耐寒」そのものでした。あちこち凍りついた山道を歩き、頂上で吹雪に見舞われながらかちかちのお弁当を食べるという、ほぼ拷問のような一日…。昔のこととて、今のような保温の水筒もありません。ダウンジャケットもなかった。吹雪の中で身を寄せあいながら、冷たい冷たいお茶を飲んで鼻水を垂らすというなんとも冴えない遠足だった…昔って、ああいう軍事教練の名残りのような行事がたくさんあったなあ(遠い目)でも、でも。この二人の体験するスケート遠足は、1934年の出版という昔なんですが、楽しさが全く違います。

まず、自然の中を走るスポーツの喜びがあります。きらきら光る運河の上を、皆で揃って走っていく。表紙の絵に描かれているように、女の子たちは先生がポールで引っ張ってくれるのです。その女の子たちの衣装の可愛いこと!真っ白な雪に映えるその光景がいいですよねえ。そして、何と凍りついた運河の途中には、美味しい熱いココアや焼き立てのお菓子を売るお店まであって、そこでスケートを履いたまま休むことも出来るのです。老若男女が皆スケーターであるオランダならではの楽しみです。もう何十年もスケート靴はいてませんから、きっと滑れないでしょうけど、ちょっとやってみたくなるじゃありませんか!こういう、伝統に根ざした楽しみって、心が豊かになりますよね。まず、風景が美しい。それに比べて道頓堀川にプール作るとかいうアホなこと言うてる人たちがおりますが、もう、想像しただけでげんなりする光景です。誰が泳ぐねん、あんなとこで。もうちょっと美的なことを考えられへんのかいな。・・・おっと、脇道にそれてしまいました。反省、反省。

先生とエベルトたち一行の一日は、いろんなアクシデントに襲われます。何しろいたずら盛りの男の子たちに、若くて元気な男の先生という布陣ですから(笑)エベルトが氷の割れ目におっこちるやら、助けて貰った農家で美味しそうなあっつあつの雪パンケーキを御馳走になるやら。(この農家の豊かな包容力は『第八森の子どもたち』を思い出させます)たどり着いた街で、他の学校の子たちと雪合戦になるやら。極めつけは教会での男子行方不明事件という盛りだくさんの一日の中で、子どもたちの気持ちが、生き生きと動いていくのが暖かい筆致で描かれます。シモンという内気な少年が、この一日の中で別の顔を見せて、男の子たちの友情を勝ち取るというのが、この物語の芯の一つ。自分が行動することによって、仲間を作ることができたシモンの誇らしい気持ちが伝わってきます。このスケート遠足のありようや友情の描かれ方に、子どもという存在に対する信頼と自発性の尊重を感じるんですよね。お膳立てされたプログラムをこなすのではなく、自分の力で問題を乗り越えていくことを尊重する姿勢があります。もちろん、それは見守る大人のしっかりした眼差しがあってのこと。その眼差しをこの本に感じました。子どもたちは、一日の冒険を終えて家路につきます。くたくたの体でたどりついた家にある、笑顔と暖かいご飯。この帰宅のシーンがとても良いんです。幸せそのものだなあと思います。ベッドにもぐりこむ安らぎの中で、子どもたちの冒険は生きた喜びとなるんですよね。どこに行っても、冒険しても、「ただいま」と帰ってくる場所がある。本を閉じて、面白かったなあと帰ってこれる。この「帰ってくる」という安らぎも、また子どもの本の良さだと思います。この子どもたちのように、皆に生きる喜びを味わって欲しいなと心から思います。この本は、1935年のニューベリー賞を受賞しています。画家でもある作者の美しい挿絵も堪能できる、楽しい本。この本を発見して翻訳し、紹介されたふなとよし子さんの後書きが印象的でした。思いのこもった暖かい一冊でした。

2009年10月発行

福音館書店

by ERI

 

すみれノオト 松田瓊子コレクション 早川茉莉 河出書房新社

松田瓊子さんという方を全く存じ上げないまま、この美しい装丁に惹かれて手にとりました。そうしたら、中から宝石のように、ぎゅっと凝縮された美しいものがたくさん溢れてきたのです。松田瓊子さんという方は、昭和15年に23歳の若さで夭折されています。この本は、生前に瓊子さんが書かれたエッセイ、小説と短歌、日記と、「その人・作品について」という紹介を合わせた、愛蔵本のようなしつらえになっています。

田辺聖子さんの後書きによると、瓊子さんの作品は、戦時中に密かに少女たちに愛されていたらしいのです。戦時中の、乙女らしい楽しみも何もかも奪われてしまった中で、「地上に二度とよみがえってこないだろう楽園―美しい自然、愛と善意に満ちた人々、音楽と読書の楽しみ、敬虔な信仰・・・・・・にためいきついてあこがれた」と田辺さんはその魅力について書かれています。野村胡堂の娘に生まれ、当時としては非常に高い教育を受け、オルコットやスピリ、バーネットの作品に傾倒し・・・生きておられたら、きっと児童文学の世界で活躍されたことでしょう。でも、書くことが大好きな美しい人は、若さの真っ只中で亡くなってしまった。この本には、若い情熱のきらめきが、そのままに詰まっています。言葉というのは、不思議です。何十年もの時を超えて、彼女の若い息吹をそのままに感じることが出来る。あの時代に、高い知的環境の中にいた女性ならではの感性や理想のまっすぐな美しさに、心打たれてしまいました。

私は、戦前の教育を受けた方の文章というのがとても好きです。例えば石井桃子さんや村岡花子さん。和歌や古典に培われた床しい日本語と、英語のリズムが溶けあって、何ともいえない典雅な言葉として昇華しているように思うのです。瓊子さんの文章にもその正統とも言える品があって、そこに感受性の鋭さが加わってそれはそれは快いのです。冒頭の「初夏のリズム」というエッセイを読むだけで、彼女がどれだけ自然を愛していたかがわかります。美に対する感性の優れていた瓊子さんは、愛するものが多すぎたのかもしれません。文学に音楽。自然の美しさ。小さな子ども。家族。信仰・・・そして、病弱な体を焼きつくすような恋人への想い。日記を読むと、彼女がどれだけ一日一日に思いを込めて生きていたかがわかって、苦しくなってしまうほどです。特に婚約していた智雄さんに対する愛情のなんと激しいこと。彼女の愛情は時間による浸食も褪色も知らず、ここに焼き付けられています。

瓊子さんははかないもの、小さなもの、いたいけなものをこよなく愛していたようです。そこには同じく儚い命を生きているという切ない眼差しがあったように思います。瓊子さんの姉の淳子さんは16歳で、兄の一彦さんは21歳で結核で亡くなっています。自分も同じ病に苦しんでいた彼女にとって、次は自分という想いは常にあったでしょう。病がちの彼女は自分の小さな世界にあるものを、心込めて愛していた。その命への切ないまでの愛情が、時間も空間も超えて、心に届きます。

戦争という黒雲が日本を覆い尽くす前の時代。この時代の、東京の知的階級の家庭にしか咲かない芳しい女性の美しさは、もうこんな文学の中にしか残っていないのかもしれない。でも、瓊子さんの胸の中に在った理想のまっとうさや正義感の折り目正しさ、美を感じる心は、時代を超える普遍的な価値観だと思うのです。綺麗ごとだと言われたらそれまでかもしれない。でも、人間なんて、本質的にはそんなに変わらないはずだと思うんですよ。今の若い人たちの眼にも、この本の美しさは届くと思うのですが・・・。コナン・ドイルや江戸川乱歩が永遠に愛されるように、「赤毛のアン」や「小公女」「秘密の花園」はいつだって女の子の心を捉えます。若い人がこの本を読んでくれるといいのになと思いながら、思いがけずに出逢った本の頁を閉じました。

2012年9月発行 河出書房新社

by ERI

父と息子のフイルム・クラブ デヴィッド・ギルモア 高見浩訳 新潮社

 16歳で学校に通うことが出来なくなってしまった息子に、父親は二つ条件を出して学校からリタイアすることを認める。一つは麻薬に手を出さないこと。もう一つは、父親と一緒に週に3本映画を見ること。この本は、そこからの3年間の日々を綴ったノンフィクションです。

親にとって、子どもが学校に行かなくなるというのは、結構こたえることです。いろんな不安が押し寄せる。子ども自身の将来がどうなってしまうんだろうという不安。どんどん社会から取り残されてしまうような不安。これまでの自分の子育てを反芻してはその原因を探して堂々巡りに陥ったり、右往左往の連続です。私の場合、これからリタイアするよ、と明確に引き際を決めることさえも難しかった。無理かも・・・と思いながら、車で大幅に遅刻した息子を無理やり送っていったり。毎日毎日学校に「今日も休みます」と連絡することに疲れ果ててしまったり。ひたすらじたばたし、かえって息子にストレスを与えてしまったようにも思います。まず、不登校という事実を受け入れるまでに親も疲れ果ててしまう。そこからまた歩き出すには、私は時間が必要でした。しばらく呆然としていた、というのが正直なところです。この本の著者のデヴィッドも、だいぶ右往左往されたようなのです。でも、とうとうその事実を受け入れざるを得なくなったとき、彼は息子と「映画を一緒に見る」という取り決めを交わします。そこでこの提案が出来、ちゃんとそのプログラムが実行されたこと。それが、私にはまず驚きでした。うちの場合、鬱や胃腸障害を抱え込んでしまったので、そのときの体調に全てが左右されてしまう面が大きかったこともありますが、ほんとにいろんなことを途中で放り出してしまった。流されるままになし崩しにしてしまった。その後悔があります。だから、こんな風に学校に行くか行かないのかをきっちりと判断させ、なおかつ親子でひとつのことを続けていくことが出来たら、もっと早く精神的な支柱を取り戻せたかのかな、と読みながら思うことしきりでした。

まず、映画を親子で見続けるということが出来たのは、映画という媒体の力が大きいし、父親自身が、映画のことを知りつくしている人だから出来たことでもあるでしょう。自信を持って息子に語れることが父親にある。そのことについて、話が出来る。この『話が出来る』というは、子どもがずっと家にいる状態では、かえって難しかったりします。距離の取り方が難しいのです。ただでさえ、思春期の子どもと親が話をするのは難しい。いろんないざこざでお互い傷つけあったあとでは、なおさら難しい。部屋にとじこもりがちになる子どもに何を話しかけていいのかわからなくなるんですよね。だから、こうしてずっと息子と話が出来るきっかけを映画という媒体を通して作り続けたことが素晴らしいと思うのです。ずっと息子に対して自分を開いた状態にし続けた父親の愛情と努力を尊敬してしまう。父親であるデヴィッドは、説教したり上から目線の言葉を決して投げかけません。息子の感性と考え方を尊重し、彼の若さゆえの行動も、ガールフレンドとのあれこれも、自分の問題として受け入れて誠実に答えていくのです。自分の性的なことに関しても父親に話すジェシーのまっすぐさにも驚きましたが、そこにはお互いに対する強い信頼があるんですよね。私はここまで息子を信頼できていたのかな・・・いや、今も出来ているんだろうか。そんなことを思ってしまいました。

ジェシーは、19歳で学業に復活し大学生になります。ジェシーとデヴィッドは、二人三脚でこの時期を乗り切ったのです。もちろん、この親子と同じことをしようと思っても、はいそうですか、と出来ることではありません。でも、この親子のたどった道から、いろんなことを教えてもらうことは出来そうです。そして、優れた映画案内として読むことも出来ます。私自身が好きでよく見た映画もいっぱい紹介されていましたが、デイヴィッドが語る映画のみどころを読むと、もういっぺん見たくてうずうずしましたもん。もちろん見ていない映画は、メモメモしました(笑)老後は映画をいっぱい見よう・・・って、死ぬまでに読み切れないほどの本のリストを抱えて、まだそんなことを言う自分の欲深さが恐ろしい(笑)

私の子育ては後悔の連続で、ほんとに、ただひたすら流されてしまったことが多すぎた。流されなくては、今度は自分が生きていくことに踏みとどまれなかったのかもしれないし、今もどんどん流されてしまっていることには変わりないのですが・・。その時々の分かれ目でどうすれば良かったのか、それをいまだに考えます。この本は今、苦しみの中にいる人の助けにはならないかもしれないけれど(不登校には、千差万別の事情がありますから)、同じ苦しみを体験した親として分け合える何かがあると思います。その『何か』を与えてくれるものは、これだけ専門書や関係書が出回っているにも関わらず存外少ないのです。読めば読むほど苦しみの中に堕ちてしまうことの方が多いんですよね。自分の家庭のことを書くのは、後書きでご自身がおっしゃるように大変なことだったと思います。でも、そこを押してこの本を出版されたことに、著者の同じ苦しみの中にいる人たちへの想いを感じる・・そんな一冊でした。

by ERI

小公女 フランシス・ホジソン・バーネット 高楼方子訳 福音館書店

昨日、「私の一冊」は何か、ということを考えていて、またこの本について語りたくなってしまいました。先日行った東京の教文館・ナルニア国で、この福音館の復刻シリーズが店頭に置かれていて、それがなんと高楼方子さんのサイン本!正直ちょっと悔しかった。だって、私はこの本が出版されたときに、すぐにネットで購入してしまっていたんです。実はそのときkikoさんがそのサイン本を購入しました。サイン見せて貰って、写メ撮りかけて思いとどまりました。だって、余計に切ないもん(笑)もう一冊買おうかと悶々とする今日この頃・・・。

以前のレビューにも書いたし、昨日の記事にも書いたのですが、私はこの本を幼い頃から何度も何度も読んできました。私が幼い頃に読んでいたのは、抄訳のものです。挿絵も、今から思うと妙ちきりんなフランス人形のようなセーラだった。でも、とにかく好きだったのです。その本を、私が特別に好きな高楼方子さんが翻訳される!これが興奮せずにいられようか、ということで、すぐに入手した私は、届いた完訳本の表紙のセーラを見て、打ち抜かれたのでした。それは、私が長らく心に思い描いていたセーラ・クルーそのものだったからです。エセル・フランクリン・ベッツの描くセーラは、飾り気のない黒いドレスを着て、強い眼差しで一点を見つめています。アニメのセーラのほんわか美少女ぶりとは全く違う、激しい内面をのぞかせるその眼。組んだ両手からは、繊細さと思索的な性格が感じられます。親しみやすいというよりは、簡単に声をかけるのをためらうような、凛とした佇まいの少女です。見る人が見れば、彼女が並々ならぬ魂を秘めていることがわかるはず。この表紙は、高楼さんのリクエストによるものだとか。さすが!と、私は心が震えました。そして、私はこのセーラを見て、高楼さんの訳によるこの本を読んで、なぜ自分がこの物語が好きなのか、やっとわかったのです。(遅っ!)

この物語の中で、セーラは劇的に境遇が変わります。特別寄宿生として、何不自由なく全てを与えられ、褒めたたえられる11歳までのセーラ。そして、父親の死によって全てを失い、下働きとして食事もろくに与えられずこき使われる2年間。でも、その浮き沈みの中で、セーラは常に変わらず、見事に自分を貫きます。その誇り高さと気概に私は惹かれていたのです。そして、その彼女を支えていたのは、高楼さんも後書きでおっしゃっていますが、「想像力」です。セーラは幼い頃から想像力と共に生きていた、アメリア先生に言わせれば「変わった子」です。セーラは本が、物語が大好きです。物語に入りこむ、ということはその時間他の人生を生きること。つまり、セーラは物語を通じて自分を相対化することを知っているのです。

「人に起こるいろんなことって、偶然なのよ」
「私があなたじゃなくて、あなたが私じゃないっていうのは、偶然のできごとみたいなものなのよ」

この世界にはありとあらゆる境遇があり、生き方があり、貧富の差があり、能力の差があり、千差万別の人生がある。ありとあらゆる時間と空間を超える本の旅は、常に見知らぬ「あなた」と「私」との回路を開くことなのです。セーラは、幼い頃からその回路を開いて生きていた。そして、その回路を通じて自由に想像力を羽ばたかせることを知っているのです。物語というフィクションの中に自分を投入することで、自分の幸福も悲劇も相対化し、そこに埋没しないこと。そして、物語の力を、自分の生きる力に変えること。そこから生まれる名シーンは、皆さんご存じのことだと思います。自分の棲む屋根裏部屋を、バスチーユの囚人の部屋になぞらえてベッキーと暗号を交わすシーン。せっかく拾った小銭で甘パンを買って、それをほとんど乞食の女の子に与えてしまう。たったひとつ残ったパンを、一口食べたらお腹がいっぱいになる魔法のパンだと想像してやりすごす。中でも私の好きなのは、ロッティに自分の屋根裏部屋のロマンを語ってきかせるシーンです。みずぼらしい屋根裏部屋が、セーラの言葉の魔法でロマンチックな短編小説の趣を帯びてしまう。こういう細部の彩りがこの物語の魅力です。ロッティが去り、セーラは自分の部屋を見回して思います。「・・・・寂しいところだわ・・・・・」「ときどき、世界でいちばん寂しいところのような気がする・・・・」でも、この、魔法の溶けた寂しいセーラとロンドンの空を眺めるのは、私にとってとても大きな慰めでした。それは、現実の私が生きている世界で見上げた空とセーラの見上げた空が、どこかで・・・そう、物語という世界を通じて繋がっていると思っていたからです。

想像力と、そこから生まれる物語の力。セーラが学園で大きな影響力を持ったのは、その能力によるところが大きいのです。アーメンガードが、ベッキーが、ロッティーがセーラから離れられないのは、その魔法のような魅力です。でも、その魅力を最初から最後まで理解できない人間が、たった一人います。それが、ミンチン先生です。彼女とセーラが出会った時、セーラがまだ見ぬ人形のエミリーのことを想像で語って聞かせたところから、もうセーラのことが大嫌いになるんですよね。それが見事に伝わってくるのが、バーネットの筆力ですが。そこから、この二人は敵対することに運命が決まってしまう。ミンチン先生はとことん現実派です。目に見えるものしか信用しない。この物語は、想像力と現実派の闘いとも言えるのかもしれません。セーラのミンチン先生に対する辛辣な物言いは、想像力派であるバーネットが常日頃抱いていた想いに近いものなのかもしれないな、などと想像したりします。その闘いに最後はお金という現実で決着がついてしまうところが、少々残念なところでもあり、一番ドキドキさせるところでもあるのですが、そのラストを引き寄せたのは、後書きで高楼さんもおっしゃっている「現実を変えていくセーラの想像力」なのでしょう。

先日参加した講演会でデイヴィッド・アーモンド氏が「物語は崩壊に向かう力を押し戻すもの」とおっしゃっていました。私も、その力を信じています。想像力の翼を、大きく広げる物語の力。その原点を、私はセーラの中に幼心の中にも見出していたのではないかと、思うのです。いや、カッコよく言いすぎやな。私は、想像力たくましい子どもでしたが、どちらかというと発想が貧乏くさいというか(笑)自分が悲劇の主人公みたいに死んでしまうところを想像して、自分をいじめた子が泣いてるところを想像してうっとりしたりとか・・・貧乏育ちでしたから、100万円拾ったら何を買うかを、新聞広告を見ながら計算してみたりとか(あーあ・・・)よくそんなことを考えていたのを思い出します。そんな私にセーラは憧れでした。だって、自分が女王さまだと想像する女の子なんて、本当に私の想像力では思いもつかないことだったのですから。彼女は、精神の香気がどこから生まれるのかを私に考えるきっかけをくれたのです。今読み返すと、物語としてはあちこちに矛盾もあります。でも、そのセーラの誇り高い精神は、いつの時代にも変わらぬ光を投げかけてくれるのだと思います。その精神の輝きをくっきりと浮かび上がらせたこの新訳は、かけがえのない物語の財産だと思います。きっと、何度も何度も読み返すだろうなあ・・。そして、また不意に思いだしてこうして語ると思います。文章長いね・・・。

2011年9月刊行
福音館書店

by ERI

飛ぶ教室 31 2012 秋号

今号の『飛ぶ教室』は、【44人の「わたしの一冊」】という特集。本好きには堪えられない。メモメモ片手に、読みふけってしまう。「わたしが出会ったこの一冊、わたしを作ったこの一冊」というテーマで、44人の方々が自分を変えた一冊を語っておられるのだ。本に深く関わる生き方をしている人の「一冊」への想いは深く濃く、それぞれの出逢いの熱さに、こっちも感染してしまいそうになる。

例えば、いしいしんじさんの「大人以上の大人の、本以上の本」の長新太さんへの想い。私も、こんな風に長さんを語りたかった。あの大きくて突き抜けていて、長さんの絵を見ているだけで、どこまでも世界が広がっていくようなあの感じ。長さんが書いた本たちがなかったら・・・という想像は、マンガ界に萩尾望都さんがいなかったら、と思うくらいの欠落感を伴う。巨人だよねえ、と思うんだが、その大きさをこんなに肉体的な感動で書けるのはさすがにいしいさんだと心から感嘆した。

江國香織さんの、もはや自分とうさこちゃん(ブルーナです)の区別がつかないほどの混然一体ぶりも凄いし魚住直子さんの『ムーミン谷の冬』への共感の仕方にも、感じるところがあった。ムーミンのシリーズはどれも大好きなのだけれど、『ムーミン谷の冬』は、私にとっては別格なのだ。それは、夜の中で自分だけ起きているという孤独への親和感なのかもしれないと、魚住さんの文章を読んで思ったことだった。植田真さんの、「日常の景色を変える鍵」という、ホームズ作品に出逢った夏の想い出は、コナン・ドイルの本の魔法に強烈に囚われていた小学生の頃にタイムスリップさせてくれたし。ここには、44人の、本と出逢ってしまった人の幸せがぎゅっと詰まっている。うん。やっぱり、本と出逢うのは幸せなことだ。

新人短編共作では、庭野雫さんの『母のワンピース』と、くぼひできさんの『俺を殺す方法』が印象的だった。『母のワンピース』は、母とのささやかな行き違いが、痛みのままに残ってしまった女の子の気持ちが、とても伝わってきた。母が生きていれば、そのうち笑いごとになってしまったかもしれないことが、少女には後悔となって残っている。でも、手作りのワンピースという温もりを感じ、そこに母の想いを感じることが、少女を少し大人にする。共感する、そこにいない人の心を理解しようと伸ばす手が、心を結んでいくのだということがさり気ないメッセージとして書かれているように思えた。『俺を殺す方法』は、なかなかショッキングな物語だった。母親の自殺未遂を目撃してしまった少年の話だ。語り手は、主人公の秀一の中に住む「俺」。日常の中でいきなり両親とものっぺらぼうになってしまうような秀一の疎外感が、「俺」に語らせることで浮かび上がっている。あまりにもショッキングなことが起こると、人は記憶を途切れさせて自分を守ろうとする。でも、本当は忘れられるはずなどない。心の奥深くにしまいこんでいるだけ・・・ややもするとぽっかり浮かびあがろうとする不安や恐怖の在りかを考えさせる作品になっている。これは、けっこう挑戦的な試みかもしれないけれど、私は、子どもというのは、心の奥底に恐怖という箱を持っているように思う。怖いけれど、怖ろしいけれど、時々そこをあけて見ずにはいられない、箱。この短編も、その箱に転がっていることの一つのような気がするのだ。家庭の崩壊というのは、子どもにとって一番の恐怖だ。その恐怖の手触りを、ざらりと乾いた筆致で書いてあることに惹かれた。知らなくていいことなのかもしれない。でも、物語という方法で、自分の、もしくは他者の未知の領域を知るのも、私は子どもの物語のひとつの営みだと思う。

「books」には、加藤純子さんによる朽木祥さんの『八月の光』の評が載っていた。三つの短編の有機的な繋がりを「記憶」を鍵として述べてらっしゃる文章に、自分のレビューに欠けていたものを見つけてはっとした。そう、こういうことだったんだなあ・・。さすがだ。

最後に、自分の「わたしの一冊」を考えてみた。子どもの頃の一冊なら・・・『小公女』だと思う。今でも時々読み返すくらいの一冊だ。なんでこんなに惹かれるのか、ということに、先日高楼方子さんの新訳を読んで気がついた。セーラは、どんな境遇にいても変わらない。ちやほや甘やかされても、どん底の暮らしの中でも、彼女はいつでも自分自身で在り続ける。その気概と誇り高さが、私は好きだったのだ。どこにいても、自分を物語の主人公になぞらえてしまうことで現実から距離を置いて自分を見つめる。そんな生き方を、私は知らず知らずにセーラに教えてもらったように思う。そして、大人になってからの一冊は、朽木祥さんの『かはたれ』だ。目に見えないものを感じること。耳に聞こえない美しい音楽を聞こうとする心。それこそが、この人生を生き切るための光であることを、大人になって新鮮な眼を失いかけた私に教えてくれた一冊。河童の八寸は、出会った日から、ずっと私の中に棲んでいる。やはり、折に触れて読み返す、中年になってからの私の原点なのだ。

今更ですが・・引っ越してきました!!

これだけ記事をあげておきながら、今更の御挨拶ですが。

旧ブログ おいしい本箱Diary http://oisiihonbako.at.webry.info/ から、ここにお引っ越しして参りました。と言っても、アーカイブはまだ全然移せておりませんし、ここもまだ使い勝手がわからぬままの急発進ですが、新しいレビューはこちらにあげていこうと思っております。そして、これまでとは違う取り組みもやっていきたいと思っています。
これまでのレビューも少しずつこちらにお引っ越しさせますが、あちらはそのまま消さずに置いておこうと思いますので、これまでのレビューを読みたい方は、旧ブログの方をご覧くださいませ。

「おいしい本箱book cafe」
という名前にふさわしく、居心地のいい場所にしていきたいと思っておりますので、これからもどうかよろしくお願いいたします。

管理人 ERI

子どもと絵本に親しむ 【いいお産の日】

今日(11月4日)は、関西ろうさい病院で、【いいお産の日】というイベントがありました。これは、かんさい労務病院のもとでいいお産をし、笑顔のあふれた家庭・社会を一緒に作るという目的で、毎年病院が行っている行事だそうです。そこで『子どもと絵本に親しむ』というテーマで、kikoさんがメインのお話を、私がサブでお手伝いを、という形で参加させて頂きました。

ブックスタート(赤ちゃんに初めての絵本をプレゼントする活動です。今、多くの自治体で行われています)のお仕事をしていてよく思うのが、「絵本」について、親ごさんたちが構える気持ちをもってらっしゃること。「いつから読めばいいのか」「どういう風に読めばいいのか」「どんな絵本がいいのか」漠然と、ルールを求めてらっしゃるように思えることがあります。でも、絵本を読むのにルールはいらない。いつから、どんな絵本を読んでもいいし、どんな風に読んであげてもいい。ルールのない自由さを楽しむのが絵本のいいところだと思っています。一番大切なのは楽しむこと。子どもと一緒に笑顔になれること。子ども時代にしか経験できない、かけがえのない親子の時間を過ごすことが、絵本のある一番の喜びだと思うのです。今日のkikoさんのお話も、実際に絵本を紹介しながら、絵本の楽しさ、絵本と共に過ごす子育ての楽しさについてのあれこれを紹介するという形で進みました。

そこで何組もの親子の皆さんや看護師の皆さんとお話をして思ったのが、「絵本の力」です。会場には、たくさんの本を持っていきました。(リストを固定バーの『おいしい本の特集』の頁に貼っておきます)そこでお話をしながら、または自由に絵本を見て頂いたのですが、皆さん絵本を見ると、とてもいい顔になるんです。「この本覚えてる!」「よくおふくろに読んでもらいました」というお父さん。お父さんたちに人気だったのが『どろんこハリー』です。

このハリーのやんちゃぶりが、お父さんたちの少年心をくすぐるのかも(笑)お父さんたちが、むっちゃ笑顔でした。この笑顔、っていうのがいいんですよねえ。そのお父さんたちの「まだあるんですね、この絵本」という言葉を聞いてはっとしました。

私たちは、図書館で働いていて、いつも身近に絵本があって、どれがスタンダードで長らく愛されている絵本なのかを一通り知っています。でも、大抵の若い親ごさんたちは、絵本に触れる機会が、子ども時代以降、ぷっつりないのです。だから『ぐりとぐら』という絵本を、中川李枝子さんと山脇百合子さんというゴールデンコンビが書いてらっしゃるということも知らない。「外国の絵本なんだと思ってました」という言葉に、こちらのほうが、そうか、それも当たり前なことだよなあと認識を新たにさせて貰いました。スタンダードでなくても、名作でなくてもいいんですけど、「この絵本素敵ですよ」「面白いですよ」といろんな形で紹介することって、やっぱり必要だなと思ったんです。

絵本には力があります。読み手を笑顔にする力。頭の中で、いっぱい想像という翼を羽ばたかせるイメージを生む力。「国語が出来るようになりますか?」ということを期待される親ごさんもいらっしゃるけど、それはまあ「そんなことがあったらいいな」くらいで置いといて(笑)何より、絵本を通じて、いっぱい親子でお話して欲しい。「ちょっと怖い内容の絵本を読んでも大丈夫なんですか」とおっしゃるお母さんもいらしたけれど、お父さんやお母さんのお膝や抱っこの中で、怖い世界を覗くのも、一つの経験だと思います。絵本の、物語のいいところは、ちゃんと帰ってこれるところ。最近流行りの『地獄絵本』なんかは、私はどうなんだろうと思いますが(だって、あれは絵本じゃないですからね。元々の目的が、信仰しないと地獄におちるよ、という脅迫のようなものですから。絵も美しくない)物語の世界を堪能して、また温かいお膝に戻ってくるというのは、これも大きな喜びです。

一人のお父さんが『おおきなかぶ』を見て、しみじみと「これ、おふくろがよく読んでくれたんですよ。うんとこしょ、どっこいしょ、ってすごく元気に読んでくれた声も思いだしました」とおっしゃってました。そのお母さんは、今、ご病気で声がうまく出せなくなってらしゃるそうで・・。でも、絵本を見たときに、元気な時のお母さんを、絵本を読んで、いっぱい抱きしめてくれたその愛情も一緒に思いだせるなんて、なんて幸せなことなんだろう。胸がいっぱいになりました。改めて、絵本っていいなあと思わせて頂けたこと。たくさんの気づきを頂けたこと。貴重な機会を頂きました。看護師長さんはじめ、お世話になった方々に、心から感謝の一日でした。また、こんなふうに、絵本のお話をいろんな方とできる機会があったらと思います。

by ERI

デイヴィッド・アーモンド講演会 「想像から生まれる力」 

今日(11月3日)大阪府立中央図書館で、来日されているデイヴィッド・アーモンド氏の講演会「想像から生まれる力―国際アンデルセン賞作家、デイヴィッド・アーモンド自身を語る」という講演会がありました。こんな機会は一生に一度かもしれないと、張り切って行ってきました。

初めて拝見したアーモンドさんは、とても気さくなあったかいオーラを放っておられる方でした。会場に気軽な感じで入ってこられて、とても熱心にいろんなお話をしてくださって・・・何だか、ますますファンになってしまいました。アーモンドさんは日本が大好きで、岩手にも行ってらしたとか。宮沢賢治の詩が好きで、とてもインスピレーションを感じられるそうです。賢治が方言を使って物語を書いているところに共感してらっしゃるようで・・講演の中でも、故郷の風景や子どもの頃のお話をいろいろしてくださいましたが、彼の言葉のひとつひとつが、そのまま作品世界を連想させるものでした。空が、土が、spiritが呼び掛けてくる・・という言葉が印象的でした。

作品が好きで読みこんでいる作家さんのお話を聞くと、当たり前かもしれませんが、共感できるところがとても多いです。「ありふれた(ordinary )」という言葉をよく私たちは使うけれども、この世界にありふれたものなど、何もないということ。存在の奇跡ということにからめて、ウイリアム・ブレイクの「THE TIGER」という詩を朗読しておられましたが、ブレイクの詩は、イギリスでもアーモンドさんの著書に影響されて読む人が多いとか。昨日レビューを書いた『ミナの物語』の主人公ミナは、(登場人物は誰でもそうだけれども)自分の一部だと。そして、「私が作品を書くのを助けてくれる部分」だともおっしゃっていました。ミナの世界に対する無垢な驚きの眼は、そのままアーモンドさんの心の眼なんですよね。・・・うん、納得。

ご自分の作品がどんな風に生まれるかという話も、創作ノートを公開してまで説明してくださって、とても興味深いものでした。子どもたちにも、同じように創作について説明されるそう。それは、本は遠いものに見えるが、皆さんにも近づきやすいものだということを伝えたいからとか。「あなたも出来ます」ということを伝えたいのだとおっしゃっていました。いやいや、それは難しいよ、と思いながら、そんなアーモンドさんの姿勢が素敵です。いろんな作品のお話もしてくださったのですが、その中でも印象的だったのを一つだけ。

『肩胛骨は翼のなごり』のスケリグ。「あの不可思議な存在を思いつかれたきっかけは何だったのですか」という質問(実はこれ、私でした)に、シュン、と降りてきたんだと。(シュン、という擬音とジェスチャー付きでした)一冊本を書き上げてポストに投函し、頭の中は空っぽで、やれやれ、ちょっと休憩しようと思って10mほど歩いたところで、いきなりあの物語を思い付いた。机に向かって書き始めたら、スケリグが、いきなり頭の中にやってきたらしいんです。「どこから来たのかわからないけど」とおっしゃってました。びっくりされたらしい(笑)あの物語は、書いている間、自分でもどうなるのかわからなかったと。あの作品をよく「巧みだ」と評されることが多いけれど、「その通りだよね」と笑ってらっしゃいました。『肩甲骨は翼のなごり』は、どうもとてもお気に入りのようです。5歳の頃に、氏の肩胛骨をお母様がさわって、「これはあなたが天使だったときの名残りよ」と言ってくれたと。そのことは忘れられないとおっしゃってました。あの物語には、そんな想い出も込められていたらしいのです。だからこそ、より特別な作品なのかもしれません。

既にイギリスでは出版されている著書を幾つか見せてくださったのですが、どれも涎が垂れるほど読みたいものばかり・・・どうか、日本でも出版されますように。これから書きたいものも、山のようにおありになるとか。嬉しいなあ。

「物語は楽観主義と希望から生まれる」「物語は崩壊に向かう力を押し戻すもの」「人間は物語を語るもの。人は人である以上、物語を語り続ける」

この言葉に、アーモンドさんの物語に対する信頼と愛情、物語を生みだすものとしての気概を強く感じました。参加できて幸せでした。アーモンドさん、ありがとうございました。そして、この機会を作って頂いた関係者の方々に、心からお礼を申し上げたいと思います。本にサインまでして頂きました~!幸せ・・・。

by ERI

 

ミナの物語 デイヴィッド・アーモンド 山田順子訳 東京創元社

大好きな『肩胛骨は翼のなごり』のミナの物語・・・もう、この惹句を読んだとたん、アマゾンでぽちっとしてしまったこの本。ひとつひとつの言葉が、優しい雨のように、木漏れ日のように心に降り落ちて、沁み込んでいくのです。生まれおちて初めて空や海を見る幼子のように新鮮な眼で全てを見つめ、言葉を紡いでいくミナ。私はミナと一緒に、この世界の不思議を見つめます。何て豊穣なミナの世界!原題は『My NAME IS MINA』。ミナが自分のノートに綴った心の記録が、この本です。

ミナは、常に考えています。ミナのお母さん曰く「自分の意見や見解を持っている子」なんです。いつも驚きを持って自分と世界を見つめている彼女にとって、毎日は冒険。思考は果てしなく展開し、心はフクロウのように翼を広げてどこまでも飛んでいこうとする。その自由さといったら!この本は、ミナのノートそのものという設定で、そこがとても楽しいのです。ぴょんぴょん跳ねるウサギのように、楽しく跳ねまわる彼女の視線。美しいもの、素敵な言葉を見つけると、一直線に走り寄って言葉にせずにはいられない。

「この刺激的で、すばらしくて、不可思議で、美しくて、息を呑むような、驚きに満ちた、ゴージャスで、いとおしい、あたしたちの世界をみつめよう!」

ミナの心を書き写すアーモンドの筆は、冴えに冴えます。月の夜。地下の坑道。お気に入りの木の上。埃だらけの隣の家(そう、マイケルが越してくるあの家です)まで、ミナにとってはこの世の不思議を内包する、存在の輝きに満ちた特別なもの。その心の軌跡を、少女の瑞々しい瞳が見つめるままに書きとっていきます。この本は、ミナの心の自由そのもの。その眼差しに心を重ねるのは、心躍る体験でした。しびれた足のように堅くなっている心に血が巡る感覚・・・ル・クレジオの『地上の見知らぬ少年』のように、この世界をはじめて眼にする新鮮な喜びに、心が躍りました。ミナと一緒にこの世界を愛せる気持ちになれるんです。まだ少女であるミナの世界は、物理的に言うとほんの狭い場所なんですが、彼女の心の旅はどこまでも広がっていく・・そう、本の世界と同じです。

でも、そんな彼女は、学校という場所では異端者です。ミナにとって学校は鳥籠。彼女の羽を縛る恐るべき場所。「標準学力テスト」とミナが折り合うはずもありません。「標準」という言葉で、たった一つの価値観で、子どもを評価しようとすることに、ミナはことごとく反発します。「上手くやる」「人に合わせる」ということが全く出来ない。心に自由の翼を持つ彼女は、現実世界では落伍者なのです。ミナは、学校にいかずに、家で母の教育を受けています。今は、それでいい。でも、いつまでもそのままではいられないことも、わかっているのです。自分の心の王国では女王であるミナも、いやいや行ったフリースクールでは、おびえ、戸惑うちっぽけな女の子。

「“成長する”ことは、すばらしくて胸がどきどきするけれど、同時に、決して簡単なことではないのだろう。こんちくしょうにむずかしいことなのだろう」

自分だけの心の世界から、誰かと共有する世界へ。しなやかな心は、別の魂と出逢いたくてうずうずする。でも、繊細すぎる感性は、傷つくことを恐れ、伸ばした手を引っ込めようとする。そんなミナの葛藤が、アーモンドならではの細心さで書き綴られます。差し出そうとする手をそっと抱き寄せるようなアーモンドの優しさは、少女や少年と呼ばれる年代を生きる子たちの心に必ず届くと思います。

この本は、マイケルと新しい物語を始める、その日までの物語。彼女が、その手で新しい扉を開く、その瞬間までを綴ります。新しい扉を開いたミナは、マイケルと、スケリグと出逢い、「不可思議な存在」がもたらす奇跡を分け合います。そう。人と出逢い、勇気を出して心を繋ぐことで、世界は広がっていく。傷つきやすい魂の苦しみを見つめながら、生きる喜びを心いっぱいで抱きしめようとするアーモンドの詩情に、心深く打たれる一冊でした。この本を読んで、再び『肩胛骨は翼のなごり』を読むと、感動がひとしお。そして、またこのミナの物語を読み・・という、循環に陥ってしまう、きっと折に触れて読み返す大切な本になりそうです。山田順子さんの繊細な訳に感謝です。

明日(もう今日になってしまったけれど)は、大阪の中央図書館で、この作品の著者デイヴィッド・アーモンドの講演会があるのです。もちろん行きます!また、お伝えできることがあったら報告しますね。

2012年10月刊行

by ERI