嵐にいななく L・S・マシューズ 三辺律子訳 小学館

この物語、冒頭からとてもドキドキします。嵐の夜、お母さんと二人きりで暮らすジャックの家を洪水が襲います。あっという間にあがってくる水の中、ボートで漂う二人・・。思わず3.11を思い出してしまうのですが、その後の展開は津波の話ではありません。でも、この不気味に襲ってくる水のような不安は、この物語の中にずっと漂うことになります。上手いなあ・・・と引きずり込まれるうちに、この物語が近未来のような複雑な設定になっていることに気付くのです。ひたひたと迫る暗い水のような時代の不安。その中で少年が自分の手で掴む、信頼という黄金がきらきらと泥の中から現れる。その鮮やかさに思わず涙してしまう物語でした。

村を襲った洪水から逃れ、新しい町に引っ越ししたジャック。そこで彼は、一匹の傷ついた馬・バンに出会う。バンは、人間とトラブルを起こしたせいで、もうすぐ殺されてしまうという。思わずバンを飼うことにしたジャックだが、動物をペットとして飼うことは許されていない。馬なら、運送に使うという目的でしか飼育できないのだ。一度も馬と過ごしたことがないジャック。でも、両親と隣に住むマイケルの力を借りて、何とかバンに荷を引かせる訓練を始める・・・。

主人公のジャックは、あまり自分に自信を持てていない男の子なのです。度重なる父親の転勤で、まとまって学校に通えず、読み書きが遅れがち。しかも引っ込み思案な彼は、友だちも作りにくい。読みながら、私は、そんなジャックの不安が、そのまま自分の中の不安と繋がっていくのを感じていました。ジャックの生きる世界は、私たちの社会の不安が、そのまま膨れ上がっているような世界なのです。先進技術がありながら、エネルギーが足りない。動物も自由に飼えない。戦争が絶え間なく続き、気候も不順で雨季と乾季を繰り返す。そして、どうやら教育もお金の有無で格差が広がっているらしい。いろんなことを考えれば考えるほど、まるで窒息しそうな息苦しい世界。でも、ジャックは引っ越してきた町で、バンに出会ったのです。躍動する命、温かい体とまっすぐな眼差しを持った美しい馬が、ジャックの内に眠っている力を呼び覚ましていくのです。その毎日の手ごたえが、とても瑞々しく描かれます。「ぼくはこうやってここに、馬といることで、とても満たされた気持ちになる」というジャックの気持ちが、私はとてもよくわかります。嘘偽りなく生きている動物がくれる愛情と信頼ほど、胸にまっすぐ沁み込むものはないですから。バンのいななきが、温かい体が、ジャックの視界に一筋の光を連れてくるのが見えるようでした。

そして、もう一つ大切なのが、隣に住むマイケルとの関係です。このマイケルの描き方がねえ、それはもう上手いというか、何というか。この物語は、ジャックの視点からの部分と、マイケルが日記として書いた部分とが交錯して進みます。マイケルはジャックに自分の日記を書き写すことを勧めて読み書きの手ほどきをするのです。読み手は、ジャックとともに、マイケルの日記から、彼の人となりを想像しながら読み進めていくのですが、いい意味で、その想像を最後の最後で裏切られることになるのです。このどんでん返しが、何とも鮮やかで、「やられた」と思いながら涙が溢れて、もう一度この物語を初めから読み返したくなること請け合いです。マイケルがジャックに与える優しさと希望が、読み返すたびに胸に沁み込んでいくのです。

作者のマシューズさんは、読み手の想像力を刺激することに長けた方です。以前読んだ『フイッシュ』も、とても不思議な味わいの物語でした。読み手の視点によって、プリズムのように様々に色を変えるような、そんなお話なのです。この物語も、そんな仕掛けがいっぱいです。ジャックの世界は、どうしてこんな風になってしまったのだろう?犬や猫が全く出てこないけれど、ペットが許されない時代で、彼らはどうしているのか。・・・そんなことを考えてしまう。ジャックの世界も、私たちの世界も、簡単に答えの出るようなことばかりではありません。簡単に見せかけていることほど、裏にややこしい、どす黒いものを秘めていたりする。情報が溢れるほど押し寄せるこの時代に、子どもたちは一人でこぎ出していかねばならないのです。その中で生き抜く、お仕着せではない知性、本当の知恵とは何かを、この物語は考えさせます。そして、どんな時代であっても、自分の手で繋ぐ信頼こそが、人の背中を押してくれるということを教えてくれるのです。彼らの信頼という黄金は、バンを、ジャックを、マイケルを、嵐になぎ倒されてしまいそうになった村の人たちも救っていくのです。訳された三辺さんもおっしゃっていますが、この最後の驚きを、ジャックとバンとマイケルが成し遂げた奇跡を、どうか味わってみて頂きたいと思います。

2013年3月刊行

小学館

 

 

双頭の船 池澤夏樹 新潮社

昨日、関西では久々に震度6の地震がありました。私の住んでいるところでは、震度4くらい。阪神淡路大震災以来の久々の長い揺れでした。時間帯が同じくらいだったのも手伝って、あの記憶が一気によみがえりました。何年経っても、恐怖の記憶というのは体と心の奥底に潜んでいて無くなりはしないのだと、しみじみ実感し・・・東北の方々が延々と続く余震の中で、どんな気持ちで毎日を送ってらしたのかを改めて思いました。

この物語は、3.11をテーマにした連作です。あれから2年と少し経ちました。3.11については夥しい数のドキュメントや資料があります。ツイッターやブログというネット発信を含めると、それはそれは膨大な量になるはず。でも、3.11が物語として語られるのは、これから何だと思うのです。なぜ物語として語られなければならないのか。それは、物語が記録では見えないものを語るものだから。私たちが失ったもの。あの日からずっと心の中に鳴り響く声。闇から吹き上げる風、苦しみの中から見上げた空の色・・・それらをもう一度手繰り寄せて、失ったものを失ったままにしないために、心に深く刻んでいく営みが、「物語として語る」という行為です。そして、池澤さんのこの物語は、その出発点のような役割を果たすものなのかもしれないと思うのです。

この「双頭の船」は寓意的な手法を使って描かれています。物語を経るごとに大きく膨れ上がっていく船。200人のボランティアが舞台の上の書き割りのようにどっと移動し、甲板の上には瞬く間に240戸の仮設住宅が立ち並ぶ。そこには生きている人と、あの日にいなくなってしまった死者たちが同時に存在し、オオカミたちが命のオーラを放ちながら徘徊し、傷ついた犬や猫たちがつかの間の休息ののちに、あの世に旅立っていく。私は物語をたどりながら、なぜ池澤さんが、この物語の舞台を「双頭の船」にしたのか考えていました。この船のイメージは、間違いなくノアの箱舟でしょう。大昔に押し寄せた洪水の記憶が、人々の集まりの中で、もしくは子どもたちに語る枕辺で何度も何度も繰り返されて一つの共通の記憶となっていく。神話には、民族の心を同じ記憶に重ね、共有していくという無意識の意志が働いているはず。それは物語というものの在り方の原点だと思います。

「小説にもまた同じような機能がそなわっている。心の痛みや悲しみは個人的な、孤立したものではあるけれども、同時にまたもっと深いところで誰かと担いあえるものであり、共通の広い風景の中にそっと組み込んでいけるものなのだ」 (※)

これは、村上春樹氏の言葉ですが。物語は、たった一つの心に寄り添うもの。この世でたった一つだけの命に向き合おうとするものです。たとえば、去年レビューを書いた朽木祥さんの「八月の光」のように。「八月の光」はヒロシマの原爆をテーマにした物語です。それは、忘れ去られようとする「個」を徹底的に描くことで普遍へと繋げようとする、真摯な営みでした。鮮烈な記憶が時を超えて立ち上がります。それに対してこの「双頭の船」は、寓意的な手法を使って描かれています。登場人物たちも、どこかひょっこりひょうたん島の登場人物のように、実在の人物というよりは、キャラクターのような感じです。これは―私が勝手に思うことなんですが。3.11の東日本大震災を語る営みは、まだ始まったばかりです。「個」にリアルに向き合う物語を、今東北の方々が読むのは、きっと辛すぎる。だからこそ、ノアの箱舟という心になじみ深い神話を重ねることで、池澤さんは何とか道を開き、3.11を物語として語る回路をここから開こうとされたのではないか。この物語は、神話という原始的な物語の力を借りて、「個」に向かおうとした、営みなのではないか。そう思うのです。圧倒的な力になぎ倒されたたくさんの心たち、この世界から旅立ってしまった命に、何とかして寄り添おうとする営み。残されたものの痛みを共に感じ、分け合っていこうとする切なる願い。

平らになった地面はまるで神話の舞台のように見えたけれど、そこではまだどんな神話も生まれていない。この空っぽの場所の至るところに草の種みたいな神話の種が埋まっているのが見える気がした。(本分より)

何とかして希望の種を、あの空っぽになってしまった海辺に播こうとする、作家としての真摯な挑戦を、私はこの物語から感じました。だから、この「双頭の船」は、過去と未来を繋ぐもの、何度も何度もなぎ倒されながらもここまで歩いてきた過去と、これからを生きていこうとする未来を行き来しながら希望を運ぼうとする、私たち人間の営みという大きな流れを旅する船なのだと思うのです。神話と土の匂い。心の奥深いところから様々なシンボルが立ち上がり、トーテムポールのように各々の物語を語る。その声の語り部になってしまったような池澤さんの筆が冴える一冊でした。

※「おおきなかぶ、むずかしいアボガド 村上ラヂオ2」 村上春樹 大橋歩画 マガジンハウス 

[映画】ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの

この映画を楽しみにしていたのに、背中痛に阻まれて、なかなか電車にも乗れず・・・でも、今日は絶対!と勢いこんで出かけたものの、寒いわ、梅田のホームで失礼な男にむこうずねを蹴られるわ、グランフロントのビル風が物凄いわ、地下道が臭いわ(文句多すぎ)で少々へこみながらガーデンシネマにたどり着いたのです。でもでも。この映画を見て、季節外れの寒気に凍えた気持ちがすっかり持ち直して暖かくなりました。

この映画は、ハーバート・ヴォーゲルとドロシー・ヴォーゲルという夫婦のアートコレクターのドキュメンタリーです。ハーバートは郵便局員、ドロシーは図書館司書。特にお金持ちでもない二人は、大の美術好きで、お給料で買える現代アートを40年間1DKのアパートに集め続けました。その数およそ4000点。彼らはコレクションをワシントンのナショナル・ギャラリーに寄贈することにします。でも、ナショナルギャラリーだけでは、彼らのコレクションを展示しきれない。そこで、50×50プロジェクト、全米の美術館に50作品ずつコレクションを寄贈するというプロジェクトが始まったのです。この映画は、その様子と、各美術館を巡るハーブとドロシーの姿を追ったドキュメンタリーです。

このお二人が、とってもキュートなんですよ。彼らがアートを集めたのは、お金のためじゃありません。ただ「好きだから」。1DKのアパートは、もう壮観と言っていいほどアート、アート、アート・・・その間に猫と水槽。それだけしかない。ある美術館は、その部屋を再現してコレクションを展示していました。わかるなあ。作品と資料と猫に埋もれたその部屋は、二人で築いたど迫力の芸術作品そのものです。「コレクションの根底にあるのは、アートに全力を注ぐという行為」(by リチャード・タトル)であり、芸術に捧げた愛の証なんですもんね。僭越ながら・・・その徹底したアート馬鹿っぷりといい、猫好きといい、(アートと文芸というジャンルは違えども)芸術にとり憑かれた(笑)人生を送った先輩として、その生き方に心から共感してしまいました。

彼らのコレクション魂。よーくわかります。私も、読み切れないほど家に本があっても、とにかく本を買ってしまう。好きな本を手に入れるのは、多次元の宇宙を手に入れるようなものです。そこから広がる新しい世界を自分の本だなに並べる楽しさ。別に誰に褒めてもらわなくても、それが何にも利益を産まなくてもよいのです。コレクションし、その作品に対する愛情を語っていたいのです。私だって、なんでこんなレビューを日々書いているのかと言われれば、ほんとに、ただ「好き」だから。本や映画を愛していて、その話をしていたいからなのです。私が書いたレビューは、ここに越してくる前の「おいしい本箱Diary」に2000本ほど(多分。ちゃんと数えたことがない・爆)、まだこちらは100本に満たないので、彼らの数にはまだまだ及びませんが、多分その根底にある気持ちは一緒なんやろなあと思うのです。ハーブはたくさんの芸術家と親交があり、常に芸術の話ばかりしていたらしい。顔を合わせれば95%アートの話。はい、その通り(笑)。私も、本を愛しているお仲間さんにお会いすると、ひたすら本の話で終わります。そこも一緒。

芸術というものは、発信する人と、受け取る人と、二種類の人間があって成り立ちます。彼らは徹底的に受け取ることで、アートを支え、作家たちを応援してきた。彼らに愛され、評価されることで支えられたアーティストたちが、この映画には何人も登場していました。二人が買い続けてきたのは、既に評価の定まっている、たとえばサザビーズでオークションにかけられるような作家の作品ではなく、現在進行形で「今」を歩いている作家たちだった。二人は、彼らと現代アートの最先端を作っていったんですよね。それは、ハーブとドロシーが、お金や名声ではなく、芸術を生み出し、発信する作家たちの魂に最大の愛と敬意をささげていた証です。普通の暮らしをしていた二人が、こつこつと、ひたすらにその愛情を積み上げていった結果として、非凡な一大コレクションを成し遂げた、というところに、たまらないカタルシスを感じます。私も、こつこつと、書き続けよう。お二人のような偉業は無理だろうけれど、私もハーブとドロシーがアートを愛するように本を愛してるから。猫好きも同じだし(笑)―と、行きに凹んだ気持ちがすっかり膨らんで帰ってきました。寄付を募って資金を集め、苦労してこの映画を作られたのは、日本の佐々木芽生さんという監督さんです。それも、とても嬉しくて誇らしかった。どうせなら、こんな人生を送りたい。ほんとに素敵な映画でした。アート好きな方、必見です。

火山のふもとで 松家仁之 新潮社

去年遊びに行った金沢の21世紀美術館での体験が忘れ難く、時々建築の本などを覗いてみたりします。21世紀美術館を作ったのは妹島和世さんと西沢立衛さんという二人の建築家ユニット「SANAA」。先日特集番組も見たのですが、軽やかで光溢れる建築の数々に魅了されました。建築というのは非常に求心力がありまよね。素晴らしい建築が一つあるだけで、その町の風景や雰囲気を変えてしまう。人が、その場所を目指してやってくる。そういう「場」を作ってしまうドラマチックな力があります。この物語も、建築と人が作る「場」を語ります。この物語を読んでいる間中、浅間山を望む北軽井沢の自然と、「夏の家」が織りなす空気の中にいることが、とても心地よくて幸せでした。

物語は、主人公の僕が、「村井設計事務所」に入所して初めて「夏の家」という山荘で過ごす日々が描かれます。所長の村井俊輔は、フランク・ロイド・ライトに師事し、端正で美しい建築を生みだす、知る人ぞ知る高名な建築家。夏には、北軽井沢の山荘で仕事するのが、この事務所の恒例です。高齢の村井所長を中心に、個性豊かな人たちが共同生活を送りながら設計に取り組んでいく毎日が描かれます。これがもう、「美」を生み出すに相応しい、素晴らしい場所なんですよ。程よい緊張と自然との一体感がもたらす安らぎと、文化を育んできた歴史が、静かに結実しているような、みっちりと生きる手ごたえを感じる「ぼく」の日々。もう、うらやましいの一言です。村井氏は、木を使った非常に繊細なディテールを持つ建築を生み出す人として描かれています。その建築に対する姿勢は、そのまま、この物語の作者である松家氏の思想でもあるのでしょう。「細部と全体は同時に成り立っていくんだ」という言葉通り、ありとあらゆる細部に神経が行き届き、それらが見事な調和を見せる物語でした。だから、どこを読んでいても気持ちが好い。松家氏の美意識の鋭さと繊細さが、「ぼく」の眼差しの初々しさと重なって、もう二度と帰らない夏の想い出を煌めかせます。

そう、この夏は二度と帰ってこない「ぼく」にとって忘れられない夏なんですよね。この「夏の家」の日々は、初めから僅かな滅びの影を纏っています。急ぐように熱を帯びるコンペの準備や、村井氏が語る言葉のひとつひとつに、ある予感が孕んでいる。どんなに優れた才能と頭脳の持ち主でも、貴重な、積み上げた経験とともに滅びる日が必ずやってくる。人も、必ず朽ちていくものなのだけれど、どう生きるか、という志を持った美意識は、心から心に伝わっていくものなのです。それを残していくのが建築であり、物語なのだと、そう思います。人生にこぎ出したばかりの「ぼく」の若さ、生命力と、最後に燃えあがろうとする老建築家の気概が重なり合って、清冽な「場」を生み出す。どっしりと変わらぬ浅間山を背景に、より良く生きようとする人たちのコミュニティの在り方に深く共感できる物語でした。

ここからは、この物語を読んで私が考えたことなんですが。日本人の仕事の理想的な在り方は、こういうところにあるんじゃないかと思うんですよ。繊細な美意識と手仕事。自然との調和。各々の長所を生かした共同作業。緻密な手触りのディティールが生み出す心地よさと清冽な佇まい。冒頭に書いた「SANAA」の仕事も、日本の伝統的な建築の在り方を受け継ぐ美意識が、海外の人に高く評価されているそうだし。世界市場と渡り合う競争力、なんていいますが、それは果たしてTOEFLで何点取る、なんていうところから生み出されるものなのかどうか、はなはだ疑問です。日本人にしか生み出せないものは、何なのか。もちろん語学は出来るに越したことはないけれど、それ以前にやるべきことがたくさんあるんじゃないか。繊細な美意識や手仕事を伝え、継承し、磨き上げていくためには、やはりそれを言い表す日本語の語彙や表現能力が必要です。外国にない、日本人にしかない感性は、やはり美しい日本語があってこそのものだと思うのです。今、それがあまりにもないがしろにされすぎなんじゃないか。この物語の中の、お互いの建築理論を語り合う言葉の豊富さを読むにつけ、優れた仕事と言葉の結びつきの重要さを感じます。感性と思想を伝える「自分の言葉」を持つことは、やはり優れた母国語の感性あってのものではないか。そう思うのです。松家氏は、長年新潮社で優れた文学の仕事をされてきた人。その方が今、この小説を書かれた思いに、そっと心重ねてみたくなる、そんな物語でした。

2012年9月刊行

新潮社

 

 

ペーパータウン ジョン・グリーン 金原瑞人訳 岩波書店スタンプブックズ

岩波が出す新しいYAシリーズの一冊です。装丁がとてもいい。ペーパーバックのような、軽くてすっきりしたデザインに、表紙のこっちを向いている女の子がとても印象的です。そう、中身も印象的な場面がとてもたくさんある物語なのです。冒頭の幼い主人公のQと隣に住む幼馴染のマーゴが公園で死体を発見するシーン。誰もいない夜中に、高層ビルの窓から二人が見るジェイソンパークの光景。マーゴがいたかもしれない廃屋の破れた天井から、覗いている夜空。テンポのいい物語の割れ目から、時おり瞬くようにこぼれてくる繊細さがとても魅力的です。

Qは日本で言うような草食系男子。両親の愛情に包まれて育った真面目な男の子です。一方、隣に住むマーゴは学校中の伝説を一手に引き受けるような、クールで魅力的な女の子。卒業を間近に控えたある夜、マーゴはQを一夜限りの冒険に引っ張り出します。ムカツくやつにスカッとするようないたずらを仕掛け、シーワールドや高層ビルに不法侵入する、無敵の夜。でも、その夜を最後にマーゴは学校から、隣の家から姿を消してしまうのです。そこから、Qのマーゴを探す日々が始まります。Qだけに残された、マーゴからの暗号を読み解き、マーゴが身を潜めていた廃屋で夜を過ごす。プロム(卒業パーティー)という一大イベントに浮かれる同級生たちの中で、一人マーゴのことばかりを考えて過ごすQの日々。しかし、マーゴはどこに行ってしまったのか、まったく見当がつかない・・・。

奔放な女子に翻弄される気弱な男子、というのは日本のラノベでも典型的なお決まりパターンです。ツンデレは男子の永遠の憧れ。Qも、密かにそれを期待していた気配です。何しろ、マーゴは最後の夜の冒険に、自分を選んでくれたのだから。傷ついていなくなったマーゴを探し出し、彼女が涙を流しながら「ありがとう」と抱きついていて、ハッピーエンド、なんて、甘い夢。でも、マーゴの足跡を探しているうちに、Qはマーゴが自分の思い描いていた彼女とは違う女の子だと気が付いていくのです。マーゴがいた場所は、孤独と荒廃の気配ばかりが漂って、どうしてもQに「死」を連想させる。Qはいなくなったマーゴと向き合い、彼女が残していったホイットマンの詩を読み解こうとします。

このQくんが、本当に必死にマーゴを探すんです。こんなに他人と、生身の、自分以外の誰かと真剣に向き合い、理解しようとしたことが、私には無かったかもしれない。難解でわかりにくい詩に分け入るように。マーゴという少女の心になんとかにじり寄っていこうとするQの心の旅は、すなわち自分自身への旅でもあるんですね。学校でマーゴが見せていた顔とは違う孤独や悲しみを見つけることで、Qは、未知の自分をも発見していきます。カウンセラーである両親が、わかりやすく読み解いてくれる自分とは違う自分が心の中に眠っていること。簡単に嘘をつける自分がいること。卒業式をサボる、なんていうことが出来る自分だっている。自分の青春時代を思い返すと、若いころって、世間の何もかもを簡単に「こうだ」と決めつけることが多かった。「そんなもんだよね」と割り切ることが大人になることと誤解していた節があります。でも、ステレオタイプに「こんなやつ」と自分や他人を区分けすることは、自分の心に負荷はかからないけれど、その分大切なことを見失いがちなんです。だから、こんな風に、目に見えない人の心のうちを想像し、心重ねてみること。そして、そこから帰ってくる自分だけの意味を読み解いていく経験は、人と理解しあって生きようとする人生への、出発点でもあるわけです。

だれかの身になって想像するのも、世界をほかのなにかに置き換えるのも、わかりあう唯一の方法なんだ。

でも、その想像がそのまま相手への理解につながるとは限りません。Qが心の中で見つけた、と思っていたマーゴは、苦労の挙句にやっと見つけた実物のマーゴに、あっと言う間に否定されてしまいます。でも、それでいいのです。誰かの心を完全に理解することなんてできない。自分の心だって、簡単に探りきれるものではないのです。だからこそ、想像したり、理解しようとしたりする、お互いに伸ばしあう手だけが、信頼を繋ぐものになる。自分を知ろうとする旅も、一生続いていくのです。・・・って、わかったようなことを言ってますが、私も若い頃から、おんなじことばっかり繰り返してるような気がしてなりません(汗)ああ、また、やっちゃったよ、と思うんですけど、また同じパターンにはまったりして・・。つい最近も、自分が長年強く思いこんで、人にも吹聴していたことが「そうじゃない」とわかって、びっくりしたところです。しばらく、穴があったら入りたい状態になってました。だから、この物語の最後のQくんの心情が身に沁みる(笑)この岩波のシリーズは刊行されたら必ず読んでみようと思います。

 

2013年1月刊行

岩波書店

 

 

 

魔道師の月 乾石智子 東京創元社

私たちは「今」を俯瞰することはできない。いや、俯瞰しようとはしない、と言うべきかも。例えば私が今パソコンのキーを叩いている、この光景も、本当はありとあらゆる過去の積み重ねの上にあるものなんですよね。無造作に積んでいる本の一冊一冊、テーブルの下に敷いてあるラグから電話、壁にかかっている時計ひとつにしたって、発明と工夫と、それを使い続けてきた人たちの歴史があり、精神と物語がある。いわば、この瞬間、私たちが命を刻んでいる「今」は、同時に膨大な時間と空間の広がりを孕んだ宇宙の物語そのものなのだ。―なんてことを書くと、「大げさやな~」「この人、大風呂敷広げてはるわ」という字面になってしまうのだけれど、この物語を読むと、この私のやたらにハイテンションな物言いを幻視化させてくれる言葉の魔法に、目をみはることになるはずです。これは、文学だけが叶える魔法。奔流のように展開していくこのイメージを映像でもゲームでも具現化するのは無理かと思います。

『夜の写本師』に続く乾石さんの2作目のファンタジー。舞台は一作目より前の時代に始まりますが、物語は歌とタペストリーに導かれ、過去に、別の生命体へと旅して複雑な展開を見せます。主人公になるのは、キアルスとレイサンダーという二人の魔道師。レイサンダーは次期皇帝のガザウスに可愛がられていたが、ある日ガザウスに献上された「暗樹」という漆黒の円筒に、恐ろしい邪悪さを感じて逃げ出してしまう。一方、キアルスは、前作でアンジストに殺されてしまった少女を救えなかったことにヤケを起こして、大切な「タージの歌謡集」を燃やしてしまう。しかし、その歌謡集こそが、「暗樹」という根源的な悪意の塊に対抗するものなのだった・・・。

この「暗樹」という存在が、この物語の芯です。太古の闇、人が必ず持つ暗黒。邪悪を導き、破滅を喜ぶもの。この「暗樹」の姿が、非常に気味悪い。うっすらと目をあけるところなんか、背筋がぞくりとします。このイメージの具現化力が、乾石さんはとても高いんですよね。初めて読む物語なのに、こういう邪悪さの姿をいつか見たことがあるような気さえしてきます。キアルスは、失われた歌を求めてティバドールという別の男の人生を夢の中で生きる。そして、レイサンダーは、『クロニクル千古の闇』の生き霊わたりのように、人以外の生き物の命をわたり歩いて、闇を遠ざける力を探し続ける。しかし、どうやら、その暗樹を滅ぼすことは出来ないらしい。出来るのは、自らの命と引き換えに共に闇に沈むことのみ。この二人がどうなるのか、最後まで物語は息もつかせません。物語の密度が濃いんですよねえ。矢継ぎ早に繰り出される展開に翻弄されながら、物語は冒頭で述べたように過去と今を結んで大きな命や時の循環の中に、激しく光る一点を結びます。このあたりのダイナミックな展開は、ぜひ読んで頂きたいところ。まさに物語のうちに千夜を過ごす喜びを感じることが出来ます。

ここから少々ネタばれ。

人の中に潜む暗闇は、滅ぼすことは出来ない。また、暗闇を嘆くだけでは何も出来ない。たとえ心に暗闇を持とうとも、「善意と愛と美をめでる心」を持ち続けていれば、暗闇に喰われてしまうことはない。長い長い闘いを経たあとにもたらされる、この物語のメッセージは、とても共感できるものでした。物語の中で、キアルスが可愛がっていたエブンという少年が、書きかけの歌謡集を火から守って死んでしまうのです。私がこの物語で一番心に残ったのは、彼の死と、エブンを抱きしめて嘆くキアルスの悲しみでした。邪悪さは、大きな暴力で人の運命にのしかかるけれど、私たちがそれに対抗する力は、いつもとても小さい。歌謡集を守って焼け死んでしまった小さな背中のように。でも、その小さな積み重ねこそが、私たちを光に導くものだと、強く思うのです。最後に笑いあうキアルスとレイサンダーの姿に、小さな人間同士が結ぶ信頼を見ました。「世界はやっていける、人生は生きるに値する、ひとは信頼できる」。先日読んだ岡田淳さんの言葉を思い出しました。世界中のあちこちにどんなに恐ろしいものが巣くっていても、物語は自ずから光を求めて言葉を紡ぐ。私はいつもそこに生きる力を貰っているように思います。

・・・これは全くの余談ですが。恐ろしいと言えば、最近流行ってる「地獄」の絵本って、どうなんでしょうねえ。あれをしつけに使っているところも多いそうですが、私は好きじゃありません。私は、幼い頃に、この地獄極楽図というやつを、散々見せられ、講釈を聞かされました。幼い頃、私は(今じゃ考えられない、と言われますが)非常に怖がりで、蚊や蟻さえも怖い、同級生も宇宙人に見えるほど怖い。ジャングルジムに足をかけることも出来ない子でした。その怖がりが、あの血みどろの絵を見せられて、「死」について延々と聞かされる、恐怖といったら・・・。存在不安や離人体験のようなことも、今思い起こすとあったりして、けっこう辛い記憶です。私ほど極端でなくても、多かれ少なかれ、子どもというのは、この世界に対する不安を持っているのではないかと思うのです。絵本を読む時間というのは、やはり、親子の愛情を確かめ合う時間であってほしい。子どもの不安を抱きしめて、「大丈夫だよ」と伝えるものであって欲しい、そう思うんですよね。暗闇を見つめることは大切なことです。でも、その暗闇を功利的に扱うことと、きちんと向き合うこととを一緒にしてはいけない。そう思います。余談が長くなりましたが・・・。ファンタジーの力を強く感じる一冊でした。乾石さんの3作目を読むのが楽しみです。

2012年4月刊行

東京創元社

 

 

昔日の客 関口良雄 夏葉社

「佇まい」という言葉が好きだ。存在自体が醸し出す気配。そこに在る、ということが美しさにつながるような。多分それは、長い時間をかけて積み重ねてきたものが醸し出すもの、しかも何か一つのことに心をこめて生きてきた人のみが身につけるもの、という気がする。この本は、山王書房という古本屋さんを営んでいた関口良雄さんが、文人たちやお店の客人たちの想い出を綴ったもの。一度もおじゃましたことのない山王書房の古本の匂いのするような、とても心惹かれる佇まいの本なのだ。きっと、山王書房も、この本のように、ふと気が付いたらそこに何時間もいてしまうような、魅力ある古本屋さんだったに違いない。ああ、行きたかったなあ。私はビビリだから、きっとゆっくりお話などは出来なかっただろうけれども、関口さんが愛した本の数々を、じっくりと拝見したかった。本に対する愛情が、いっぱいに詰まったこの本を読んで、しみじみとそう思った。

「古本屋という職業は、一冊の本に込められた作家、詩人の魂を扱う仕事なんだって。ですから私が敬愛する作家の本達は、たとえ何年も売れなかろうが、棚にいつまでも置いておきたいと思うんですよ」

後書きの息子さんの言によると、関口さんはいつもこうおっしゃっていたとか。そんな風に関口さんに愛されて誰かのもとに旅立っていった本は、なんて幸せなんだろうと思う。きっとお店には、そんな関口さんの想いがいっぱいに詰まっていただろうから、お客さんもきっと本を愛していた人がほとんどだっただろう。そんな風に本を愛する人、というのは概してあまりお金儲けが得意でない。というか、本ばかり読んでいるので、お金儲けをする暇もない(笑)この本に出てくる昔日のお客さんたちも、そんな人ばっかりだ。書斎を作って、そこで本ばかり読んでいる植字工さん。部屋に本と美術書しかなかった井上さん。そんな方たちのお話を読んでいると、何だか私は安心してしまうのだ。本を愛して、本に淫して一生を過ごしていった人たちと、この本を通じてなんだか繋がっているような気がするのである。世の中からはあまり理解されないかもしれない、本好きたち。もう、この本に出てくる方たちも、関口さんも、とうに御存命ではないけれども、きっと彼らはあの世でも、本の話ばかりして笑っておられるような気がする。そう、「二人の尾崎先生」という項での、尾崎一雄氏宅での夜のエピソードのように。書庫で語り明かし、「あなたがたは、いつまで話しているんですか」と夫人に言われ、手料理を頂きながら、また本の話。本を買いに行ったことも忘れて、本を包むはずの風呂敷に蜜柑をいっぱい包んで帰る夜。これを、至福と言わずになんと言おうか。私も、あの世にいったら、ぜひ関口さんのお仲間に、本好き山脈の一端に加えて頂きたいと、思うのである。…それまでに、ちゃんと勉強しておかなきゃ。そう言えば、この本はやっぱり本好き山脈仲間のぱせりさんのブログで教えて貰ったのだ。私たちはネットのおかげで近くにはいなくても、こうして繋がっていられる。本好きは、本好きを呼ぶというのは昔から変わらない。その感謝も感じる一冊だった。

関口さんの敬愛された上林暁氏の本を、去年一冊買ったまままだ読めていなかったのを思い出した。昔日にならぬうちに、早く読まねば・・・。

2010年10月刊行
夏葉社

キミトピア 舞城王太郎 新潮社

舞城氏の言葉は、日常に切り込んでくる鋭く、扇情的な凶器のようだと思う。「言葉」というものは不完全で曖昧な道具で、私たちの生活や意識と密接に結びついている。個人個人の言語感覚のずれもある。その「個」に結びついた言語をいったん日常から引きはがし、厳密に再構築した上でもう一度「日常」という風景の中に放り込む。すると、言葉は新たな熱を帯びて「個」の中に切り込んでゆき、私たちが言葉にすることを諦めて葬り去ろうとしていた感情や奇妙なズレや暗闇を掘り起こしていく。文学というものは、多かれ少なかれ、この営みを繰り返すものだけれど、舞城氏ほど、言葉の可能性と限界を同時に感じさせてくれる人はあまりいないんじゃないか、と思ってしまうのだ。

『キミトピア』と名づけられたこの短編集は、誰でも一度は巻き込まれてしまうような、人間同士のトラブルやズレを克明に描き出す。登場人物、特に語り手は、とにかく論理的に言葉を駆使して思考し、問題の本質をえぐりだそうとする。たとえば冒頭の「やさしナリン」。夫と義妹の「他人のかわいそうに弱い」という性格が巻き起こす、お金とコンプレックスの混じった身内のゴタゴタ…もう、他人に説明するのもめんどくさいこういうゴタゴタって、誰でも一度や二度は巻き込まれたことがあるはず。ものすごく精神力を消耗するんだよなあ、こういうのって。言葉を尽くしても尽くしても、なぜか見事に核心がすれ違っていくあの隔靴掻痒というか、気持ち悪さが、こんなに見事に再現されるのが信じられないくらいなのだ。主人公の櫛子は、夫に、義妹に、ありとあらゆる言葉を駆使して彼らの「やさしナリン」の理不尽さをわからせようとする。この櫛子の言葉は、「そう!それが言いたかったの!」と、自分の過去のゴタゴタに使いたかったセリフ満載の明晰さなんですよ。このあたりの言葉の縦横無尽さは、「真夜中のブラブラ蜂」の網子の言葉たちなんかも読んでてうっとりするくらいです(笑)「好きなことやっていいよ」と言いながら、絶対にそう思ってない夫や息子の無意識の領海に、ビシビシと切り込んでいく網子の言葉たちに、すっかり惚れました。(個人的な感情が入ってるな・爆)

しかし、しかし。櫛子にしても網子にしても、言葉を交わせば交わすほど、相手との距離が離れていくんですよね。言葉たちが、見事な理論と世界観を構築していけばいくほど言葉が照らす光は、同時にくっきりと距離と、お互いの間に横たわる暗闇を暴きだすことになる。…言葉の可能性と限界とは、人間同士が分かり合おうとする可能性と限界のことだよな、とつくづく思う。キミと僕、あなたと私がいてわかり合おうとすることは、どこにもないユートピアを願うことなのかもしれない。でもでも。その言葉の限界を、人と人との果てしない距離を、舞城氏はありとあらゆる仕掛けを駆使して突き抜けようとするんですよね。流動的で、ヒステリックな「今」をガリガリと齧りながら走る、その乱舞っぷりを、私は頼もしいと思うし、エロくて素敵だとも思うし、とことんいてまえ!とも思うのである。文体の疾走感を読む楽しみだけでも、相当ポイント高いです。…なんで、舞城氏は、芥川賞を取れないんだろう。不思議だなあ。

2013年1月刊行
新潮社

図工準備室の窓から 窓をあければ子どもたちがいた 岡田淳 偕成社

昨日、この本を神戸からの帰りの電車の中で、待ち切れずに読んでしまったんです。いやー、失敗でした。もうね、面白すぎて、楽しくて、うふうふと声が漏れてしまうのです。あまりにツボにはまって、爆笑したくなるのを必死でこらえ、でも読むのをやめられなくて目を白黒してる私は、相当ヘンな人だったと思われます(笑)トンビのトンちゃんのくだりや、川を飛び越えられんで落っこちたお話、トイレのよこに図工準備室があるのをええことに、肝試しにきた子どもたちを脅かしてるところ・・・「さんばんめーのーはーなこさーん」「は~~~い」・・・もう、帰宅後再読して、転がりまわるくらい笑いました。「先生、何してんねんな!」ってツッコミながら。

そう、この本を読んでいる間、私はすっかり岡田先生に図工を教えてもらってる小学生みたいな気分でした。私、小学生のときは図工が大好きだったんです。でも、段々人と自分の作品を比べるようになって、あんまり好きじゃなくなってしまった。ほんまに勿体なかったなあ・・と、この本を読んで思ってしまった。岡田さんは、ずっと小学校で図工を教えてらして、その想い出がこの本にはぎっしり詰まっています。それがもう、楽しいのなんの。岡田先生は、図工準備室をうす暗くして、大きな枝やら不思議なオブジェ、雑然といろんなものを詰め込んで、ワンダーランドみたいにしてしまう。しかも、「先生のゆるしなく、じゅんびしつにはいったら、おしりペンペンです」などと書いた紙を張る。思わず裏返すと「うらがえしたひとはもういっぱつおしりペンです」と書いてあって「つぎのやつをひっかけるから、もとのむきにもどしておくこと」なんて、書いてある。ひゃ~!もう、こんな図工準備室に、行かずにおられようか、ってなもんです。そして、岡田先生の授業の楽しそうなこと!あー、これやりたかった!(今でもやってみたい)と思うことばっかり。それだけやなくて、岡田先生はいろんなことを子どもたちに働きかけます。演劇部をつくったり、お昼休みの放送のDJをして、そこで自作の短編を朗読してしまう。その短編は、今、自分が通ってる小学校が舞台なんです。ああ!なんて幸せなこどもたち。だって、その物語は、「今」の自分たちと一緒にあるワンダーランド、現在進行形の物語なんですよ。それは、不思議と一緒に生きること。子どもたちは、どんなにドキドキして放送を聞いたやろう。これこそ、エブリディマジックの魔法です。

岡田先生が図工の授業で目指してはったのは三つ。

わくわくどきどきしながら、
①絵をかくことが好きになること
②ぼくはやったぞ、と思えること
③あの子やるなあ、と思えること

ああ・・これに尽きるなあ。なんかもう、これがすべてやなって。そう思います。生きる喜びが、ここにはぎゅっと詰まっています。「図工は、いつの日か豊かな人生を送れるために、ではなく、今を豊かに生きる実学であったのだ」(本分より)私たち大人は、子どもたちに「先々のために勉強しなさい」と言う。でも、その「先」って、どこにあるんやろう。高校受験のため。大学受験のため。就職のため。スキルアップのため・・いつまで行っても「先」ばかり見なければならない人生って、しんどくない?って、思うんですよ。子どもたちの気分を支配している行き詰まり感って、そこにあるんじゃないのか。そう思います。岡田先生のような発想の先生が教育現場にいはって、子どもたちに「先生、はよ図工しよ」と言われる授業をしはることは、どんなに大切なことか。

昨日「しあわせなふくろう」さんで、この本にサインをして頂きました。その時に岡田淳さんがイラストも一緒に書いて下さったんです。私が『夜の小学校で』の最後の物語、『図書室』がとても好きだと言うのを聞きながら書いてくださったのは、人が軽く腰に手をあてて佇むシルエット。私は単純に「うわあ、素敵だ」と喜んで「ありがとうございます」と脳天気に抱きしめて帰りました。そして、この本をずーっと読んでいって。その『図書室』の話が出てきました。そこに書いてあった「本」に対する思を書いた一節に、私は撃ち抜かれてしまったんです。「世界はやっていける、人生は生きるに値する、ひとは信頼できるという感覚を、ドリトル先生の台所は育ててくれたのではないか」そう!これやん!って。私が幼いころに物語からもらったもののこれやった。そして、これからを生きる子どもたちに必要なんは、やっぱりこれやんな、って。もう、まっすぐ胸の真ん中に落ちました。岡田さんの作品の根底にあるのもこれで、だから、私はいっつも岡田さんの物語に勇気と優しさをもらうんやな、って。そう思って頁をめくったら・・・その言葉の裏に、私がサインしてもらった人のシルエットの絵が出てきたんです。うわあ!とびっくりしました。岡田先生にやられてしまった。もしかして・・私の一言を聞いて、岡田先生はこの絵を書いてくれはったんかも!そう思ったら、ドキドキして、嬉しくて、何だか泣けてしまった…。岡田先生のマジックに、笑って泣いて、感動して。すごく大切な宝物を頂きました。

この本には、阪神淡路大震災の話も出てきます。神戸に生きる人たちは、みんなこの記憶を抱えています。岡田先生も、きっときっと大変な思いをされたに違いない。でも、岡田先生は、悲しい話、つらい話ではなく、「それ以外の話をしよう」と心に決めたらしいのです。kikoさんもそうなんですが、神戸の人にはこういうところがあるなあと思います。優しいんです。悲しみも辛さも、お互いの中にあることを受け止めながら、「生きてるうちは、笑っとこや」て労わりあうような。美しいもの、美味しいものが大好きで、今を一生懸命生きてる。そんな強さと優しさ。『願いのかなうまがり角』(偕成社)に出てきた、震災でつぶれてしまったまがり角の話を思い出しました。大きな悲しみを知っている人ほど、人に優しい。身内に教育関係が多い私は、学校という場所の大変さについてもよく聞きます。それはそれは、いろんなことがあったに違いない。でも、こんなふうに学校生活の想い出を書き、愛情の溢れる本にされた岡田先生の想いに、たくさん幸せを頂いて、大切なことを教えて頂きました。岡田先生、素敵なサインとイラストを、本当にありがとうございました。大切にします。

2012年9月刊行
偕成社

 

岡田淳さんの「夜の小学校で」原画展と“ひつじ書房”

春らしい穏やかなお天気のもと、神戸まで足を伸ばして岡田淳さんの作品展に行ってきました。JRの摂津本山駅前の画廊「しあわせなふくろう」さんで、『夜の小学校で』の原画展が行われていたのです。

原画はとても素敵でした。やっぱり印刷されたものよりも色がとても鮮やかに美しく、絵から優しさや温かさが溢れてくるようでした。ほかにも素敵な絵がいっぱい出品されていて、そちらは販売されてもいたのですが、何とほとんどが売約済み。わかるなあ・・・だって、岡田さんの絵って、見ていると、何だか胸にぽっと明るいものが宿るようなのです。落ち込んだ時や、心がすさんでやさぐれた時に、あたたかい光を投げかけてくれるような。「しあわせなふくろう」さんの中には、そんな岡田さんのパワーが満ち溢れていました。小さな画廊は、もういっぱいの人。今日は岡田さんご自身も来られていて、本にサインもして頂けるということで、小学生たちがたくさん来てました。皆、手に手に岡田さんの本を持って、とっても嬉しそう。岡田さんは一人ひとりとお話しながら、ゆっくりサインとイラストを描いてあげておられました。もう、子どもたちも岡田さんも幸せそうで、いつまでも見ていたい光景でした。一人の女の子なんか、岡田さんの大ファンで、ノートに書いた自分の物語も岡田さんに読んでもらおうと持ってきてて。一生懸命な顔して岡田さんが読むのを見てました。一生の思い出になるよなあ、もしかして、将来作家さんになって、この日のことをエッセイに書いたりして・・・なんて思うのも幸せでした。もちろん私もkikoさんもサインして貰いました。私がサインしてもらったのは『図工準備室の窓から』です。

その「しあわせなふくろう」さんの数軒横に、児童書の専門店「ひつじ書房」さんがあります。ここは、kikoさんの馴染みの本屋さん。児童書の専門店として有名です。以前からkikoさんに聞いて、ぜひ行ってみたかったので、今日は心おきなく埋没(笑)kikoさんと私をこんな本屋さんにほりこんだら、もう、何時間でもいます(笑)岡田淳さんを偕成社に紹介して、作家さんになるきっかけを作られたのは、ここの店主さんです。児童書に深い造詣と理解をお持ちの方なのです。もちろん品ぞろえも充実。大好きな本、気になる本がいっぱい。選書がとても素敵なんですよね。端から端まで欲しくなる。絵本から専門書まで、何を聞いてもいろんなお話をしてくださるので、嬉しくなってあれこれとおしゃべりしているうちに、数時間も経ってしまったという・・・。本を、児童書を、とても愛してらっしゃる。その愛情がたっぷり詰まった本屋さんでした。アイザック・B・シンガーの『ショーシャ』(吉夏社)と、マーガレット・ワイズ・ブラウン&バーバラ・クーニーという大好きなコンビの絵本『どこへいってた?』(童話館)を購入。ここは、また通ってしまうと思います。

たっぷり本を見たあとで、kikoさんのお友達の雑貨屋さんでカレー皿を衝動買いし、「tea room mahisa」で、美味しいスイーツとミルクシナモンティーを満喫し、帰りの電車の中で岡田さんの『図工準備室の窓から』を読んで、電車内で爆笑したくなるのを必死でこらえつつ帰宅するという、至福の一日でした。楽しかった~!

※「しあわせなふくろう」での原画展は、3月26日(火曜日)まで。最終日の26日は、1時頃から岡田さんご自身が来店されます。店内で本の販売あり。お近くの方は、ぜひ!

 

 

 

 

おなやみジュース 15歳の寺子屋 令丈ヒロ子 講談社

この本、まず、タイトルがいいなあ!と思うのです。「おなやみジュース」。とても日常的な言葉で、核心をぎゅっと掴むこの言語感覚が、いつも凄いなあと思うのです。令丈さんは大阪の方で、日ごろコテコテの大阪弁の私としては、文章のリズムや言葉のニュアンスが、とても心に馴染む、というのもあるのですが、この本、15歳をとっくに過ぎた…過ぎたというのもはばかられるような年齢の私にも、まっすぐ伝わってくるものがありました。自分の不甲斐なさへの実感と、この年齢になってこそわかる「そう!その通り!」という共感がいっぱい(汗)この本、ぜひぜひ15歳の人たちに、いや、それ以外の年齢の人たちにも読んでほしいなあ~と思います。

自分の人生という小さな世界の中で起こる、悩み事。当事者以外には、そないに大したことやなくても、これがもう自分にしてみたらしんどくて、切なくてしゃあないこと。ほんとに、人生ってそんなことの繰り返しなんですよね。令丈さんは、そんな「コップの中の嵐」に揉まれた自分の経験を、「作家になりたい」と気付くまでのジタバタする気持ちを振り返りながら率直に語ってはります。自分の将来を考える時期になって、美大への受験で悩んだこと。悩んで悩んで、お父さんの言葉がきっかけで気付いたのは、「作家になりたい」という自分の本当の思い。その覚悟を受け入れるまでの葛藤。こう書いてしまうと簡単だけれど、自分という人生の「おなやみジュース」を飲み干すのは、とても勇気がいることです。誰のせいにもしない、自分をごまかさないでまっすぐ見つめること。私はこれが今でも非常に苦手で、やっぱりすぐに逃げたくなる。苦い「おなやみジュース」を飲まずにおこうとする弱さ、失敗したり傷ついたりしたくないという防衛本能に振り回される…令丈さん曰く「気に入らないおなやみジュースをそっと捨て、なかったことにする」ことが、たびたびです(汗)そんな私に追い打ちの言葉。「おなやみジュースが、グレードアップして再登場」そう!そうそう!これやん…もう、人生の真理を突いてますわ。その通りなんやわ、と何度もグレードアップに打ちのめされた経験があれもこれもと湧いてきます。私も、若い頃の自分に言うてやりたい。「おなやみジュースは、どんなにしんどくても飲んだほうがええよ」って。ほんまに楽しいことや、嬉しいことは、そんなおなやみジュースから生まれてくることも、知ってるから。

自分の思いを言葉にする、っていうのは客観的に捉える余裕を持つということやと思います。ぐるぐる回るコップの中の嵐に出会ったとき、「あ、これって令丈サンの言うてはったおなやみジュースかも」って思えたら、それだけでも安心できたり、少しだけ違うところからおなやみを見る目が出来るかもしれない。自分以外のだれかに相談してみよかな、と思えるかもしれない。だからこそ、この「おなやみジュース」というネーミングのセンスが素敵やと思います。悩みに悩んだあげくに、自分の命を断つ、なんていう取り返しのつかないことろまで自分を追い込んでしまう悲しいことにならないように。こんなふうに心に届く本がもっとあったらええなあと真剣に思います。ほんまに、たくさんの子どもに読んでほしいなあ。

2009年刊行
講談社

霧の王 ズザンネ・ゲルドム 遠山明子 東京創元社

設定がとても面白いファンタジーなのですが、その設定ゆえに、主人公たちの心の中まで霧の中になってしまい、最後まで共感がもたらす心の震えを感じることが出来なかったのが残念です。

物語は、大きなお屋敷の下働きの少女サリーが、図書室で本を閉じるシーンから始まります。お屋敷はクモの巣のような廊下と、幾つあるのかわからない部屋と、東西南北にそびえる大きな塔、地下の迷路まである壮大なもの。サリーはそこから出たことがありません。いきなり夜の晩さん会にかり出されたサリーは、そこで客の何人かが死んでいく恐ろしい光景を見ます。どうやら、このお屋敷は普通の世界にあるのではないらしい。館の中の人は何度死んでも生き返り、図書室の仲良しの司書は梟だし、庭園にいる猫は、サリーに語りかけてくる。どうやらこのお屋敷は、邪悪な霧の王を閉じ込めるための時の止まった空間らしい。そして、サリーは、この世界のゆがみを正す唯一の存在らしい・・・ということが、読み進めるうちに段々とわかってきます。

凝った装丁と、各章の初めに施されている繊細な挿絵。贅沢な調度や料理のあれこれを読む楽しさ。美しい庭や果樹園の描写なども素晴らしくて、印象的なシーンがたくさんあります。RPGのゲームのように、大きな図書室をホームに、壮麗なお屋敷や地下迷路のダンジョンを探検したくなる。どこまで行っても霧の中、というあやかしの世界をさまよう面白さがあります。狼の頭に手を触れてワープしたりする面白い仕掛けもあって、そこがとても魅力的なのですが・・・その霧が、いつまで経っても晴れない。主人公のサリーは、霧の王をこの屋敷に幽閉した猫の女王・サラのもうひとつの姿らしいのです。しかし、サリーはそのサラの記憶を今は失っていて、なぜ自分が霧の王に立ち向かわねばならないのかがわからない。サリーの人格や個性が、設定に引きずられるままに最後まではっきりしません。そして、頭に霧がかかったサリーを導く役のわき役たちも、やはり、いまひとつキャラクターがはっきりせず、皆で右往左往したまま最後まで行ってしまうんですね。だから、ストーリーの中で誰かに感情移入することがしにくいのです。皆、ぼんやりと輪郭がかすんだまま・・・それが設定の在り方ではあるのですが、やはり物語というのは、主人公と一緒に心の旅をするものであると思うのです。そこが弱いというのが非常にもったいない気がしました。そして、これは私の理解力の故かもしれないのですが、この霧の奥にあるはずの、登場人物たちの真の姿が織り上げる物語の在りようも、しっかりと伝わってこない。だから、最後に霧が晴れたときのカタルシスが、あまり無いんですよねえ。右往左往した割には、あっけなく最後の闘い(?)が終わってしまう・・・というか、実質的にサリーはなんにもしてないというのも、感情移入しにくい理由の一つかもしれません。

何やら文句ばかりつけたような文章になってしまいましたが(汗)文章や設定の魅力と、筋運びとのアンバランスさが何やら歯がゆくて、ついあれこれ書いてしまいました。ファンタジーって、難しいもんですねえ。うーん・・・。でも、この作者は最近矢継ぎ早に作品を発表しているらしいので、翻訳されたらぜひ読んでみたいと思っています。いろんな要素がぱん、とツボにはまったら、傑作が生まれるんじゃないか。そう思わせる作者でもあるのです。いろんな意味で気になる一冊でした。

2012年12月刊行

東京創元社

 

あい 永遠に在り 高田郁 角川春樹事務所

高田さんには、「みをつくし料理帖」という時代小説の人気シリーズがあります。図書館でもたくさん予約が入りますし、夫が大ファンで、私も作品は全部読んでおります。高田さんの物語のヒロインは、いつも過酷な運命に翻弄されます。でも、激しく押し寄せる川の流れの中で、逆らわず、流されず、へこたれず、健気に生き抜くのです。この本の主人公・あいも、そういう女性です。関寛斉という幕末から明治にかけて活躍した医師の妻であり、実在の人。夫とともに時代の変わり目の激動の中に生き、12人の子を産み、6人の子を亡くし・・・古希を過ぎ、すべてを捨てて北海道に入植した夫についていって、そこで人生を終えた人です。

この夫婦の在り方をあえて一言でいうとしたら、「私心がない」ということだと思うんです。関寛斉とあいは、「八千石の蕪かじり」と言われる、貧しい農村の出身です。その地域から血の滲むような思いで学問を収め、医学を志した寛斉は人の何倍もの使命感を持って生きた人。栄達を嫌い、貧しいものからは医療費を取らず、種痘を実施し、晩年になって隠居するどころか、若者でも耐えられないほどの開拓事業にその身を投じていく人なんです。そういう人は、多分に人に、世間に理解されにくい。その夫の孤独を包み、幼い頃からの機織りで家計も支え、子どもを育てたあい。同じ女として溜息が出るほど凄いなと思います。若い頃の自分なら、こんな物語を読んだとき、「こんなに出来た人なんて、いるわけないやん」と思ってしまったような気がします。でも、この年齢になると、自分の狭い枠の中だけで人を判断することの無責任さだけはわかるようになるんですよね。自分の産んだ子のうち、6人を亡くすというのは、どれだけ辛いことだったことか。何度も財産すべてを無くす目にあうのは、家庭を持つ身として、どれだけ不安だったことか。それでもしゃんと立って歩いていけたのは、私心なく「人の本分」を果たしたいと願う夫に、自分の夢も託したからではなかったのかと思います。人は、辛いことがあったとき、自分のために頑張る気力も生まれてこないときでも、人のためなら頑張れたりする。高田さんが書きたかったのは、あいが苦しみや悲しみにぶつかったときに、どう行動し、生き抜いていったのか。彼女を支えたのは何だったのか、ということなのだと思うのです。「人たるものの本分は、眼前にあらずして、永遠に在り」。これは、寛斉を支援した豪商の濱口悟陵の言葉です。この言葉に支えられて生きた夫婦の、不器用な、でも私心のない生き方の尊さを思いました。

3・11から2年が経って・・・いろんな特集を見たり、いろんな人の書いたものを読んだりしましたが、本当に何一つ変わっていない。復興などほど遠い現状の中で、被災地とそれ以外の場所での温度差が大きくなっているようにも思います。アベノミクス、という言葉がやたらに飛び交う毎日ですが、経済というものは本当にこんなにヒステリックなものなんでしょうか。実質的な何かが変わったように見えないのに、なぜ政権が変わっただけでこんなに空気が違ってしまうのか。その動向の在り方というものが、私にはわけがわかりません。くるくる変わる猫の目のように、また空気が変われば簡単に転がり落ちるような気がしてならない。そして、この浮ついた流れが、弱いものや大切なことを置き去りにして忘れようとしているような気がしてならないのです。あいが見つめようとした永遠の中に在るものとはなにか。あいの眼差しに、今の私たちの目線を重ねてみる・・それが、この本の読み方の一つかもしれないとも思いました。

2013年1月刊行

角川春樹事務所

 

狛犬の佐助 迷子の巻 伊藤遊 岡本順絵 ポプラ社

表紙の狛犬さんの顔がとても良いんです。お人よしのワンコのような、今にも何か話しかけてくれそうな、この狛犬さん。ワンコ好きの私としては見逃せません(笑)思わず読んでみたら、体中にあったかいパワーが溢れてくるような、そんなお話でした。

街中にある古い神社を守る2頭の狛犬さんには、石工の佐助と、親方の魂がそれぞれこもっています。この2頭、きっちり神社を守護しているというよりは、いつもしゃべくりまくって過ごしている、ゆるーい狛犬です。いつも弟子の佐助が親方に怒られてるんですが、めっちゃ仲良しなんやね、ということが伝わってくる、とってもいい漫才コンビです。そして、佐助は「心持ちも狛犬らしくなってきたし」なんていいながら、いろんなことが気になってしまう、やっぱりお人よし。最近はいつも神社にくる耕平という少年が気になって仕方がないのです。耕平は飼っていた大切な犬のモモがいなくなって落ち込む毎日。佐助は、ある日、そのモモの行方の手がかりを聞いて、なんとか耕平にそのことを伝えたいと必死になってしまうのです。佐助は狛犬です。石の身動きできない体では、何も出来ない。親方に「あきらめろ」と諭される佐助ですが、どうしても彼は諦められない。その思いが、佐助を石の体から解き放ってしまうのです。

神社というのは、たくさんの人が自分の願いを伝えにくるところです。中には切ない願いもあることでしょう。これまで、願いをする立場からしか、狛犬さんや神社の神様を見たことはなかったけれど、この必死の佐助の奮闘ぶりを読んで、もしかしたら神様もしんどいのかもしれへんな、と思ったり。何かしてあげたい、思いを叶えてあげたいと思っても、してあげられへんことのほうが多いやないですか。いろんなことが見えたり、俯瞰できたりすれば、尚更その思いは強いのかもしれないですよね。家族や友達や、恋人が苦しみや悲しみを抱えているのを知っていて、何も出来ない、というのはとても辛いことです。でも、だからこそ、その「何かしてあげたい」「喜ばせてあげたい」という気持ちというのは、とても尊い、強いパワーでもあると思うのです。佐助のパワーも思わず爆発してしまうのですが、獅子奮迅のおせっかいは、見当はずれの結果に終わってしまいます。これもねえ、何だかじーんとよくわかるんですよね。私もお節介な性質で、ついあれこれ世話を焼きたがるほうなんです。でも、それがいつもいい結果につながるとは限らない。佐助のように見当はずれになることも多いし、やめときゃ良かった、と後悔することもあります。だから、この佐助の気持ちがよーくわかる。佐助は狛犬としてはおバカさんかもしれないけれど、そのおバカさんなところが、よくわかるというか、何とも愛しいんです。

佐助は生きている間も、とても不器用な人でした。でも、だからこそ、親方の期待に応えたいと一生懸命で必死でこの狛犬を彫ったのです。その誰かの思いに応えたいという純粋さが狛犬さんに宿り、息づいている。見かけはあんまりカッコよくなくても、お節介がうまく実を結ばなくても、その「思い」は、とても大切な宝物なんですね。今日読んでいた『それでも人生にイエスと言う』(※)の中で、フランクルが次のようなことを述べていました。「私たちは、生きる意味を問うてはならない」と。私たちは、人生に問われている存在、つまり人生は我々に何を期待しているか、を考えていくことが大切なんだと。そういう生き方は不器用に見えるし、要領よく生きていったり、得することとは縁遠かったりするのかもしれないけれど、どこかで誰かを笑顔に出来る唯一のパワーを生み出すものでもあると思うのです。その不器用な温かさが、溢れてくるような物語でした。狛犬さんの挿絵は、岡本順さん。伊藤さんといいコンビですねえ。見返しのどんぐりも可愛くて、心のこもった一冊でした。

2013年2月刊行

ポプラ社

(※)「それでも人生にイエスと言う」V・E・フランクル 春秋社

 

 

狼の群れと暮らした男 ショーン・エリス ペニー・ジューノ 築地書館

「私たち(人間)は、たかが欲張りの サルにしかすぎない」と述べていたのは、一匹のオオカミと10年間暮らした哲学者、マーク・ローランズ(※)だ。曰く、人間はサル的動物であると。サルは、人生にとって 一番大切なものを、自分に対する利益ではかる。目に見えるもの。 物質、利益、コスト・・つまり、対費用効果だ。 その為に、陰謀を図り、共謀し、相手を欺き、利益をあげることで 文明を築いてきた。確かに優れた 芸術、文化、科学、真実は存在するが、その偉大さを生む知性の核心には 邪悪さと狡猾が潜んでいる。 しかし、オオカミにはそのような邪悪さは一切ない。彼らは計算をしない。 嘘をつけない。相手を欺かない。恐ろしいほどの運動能力があるが、その能力をちゃんと抑制してみせる・・・。この本を読んだとき、私は非常にその論に共感し、親オオカミ派になってしまったのだが、この本を読んでオオカミという生き物の見事さにますます惚れてしまった。しかし、どれだけ惚れても、私にはこのショーン・エリスのようにオオカミの群れに単身のりこんで暮らすことは出来ない。彼は「ウルフ・マン」とも呼ばれるオオカミにとり憑かれた男なのである。

幼い頃から英国の自然の中に育ち、人間よりもキツネにのめりこんでしまう少年だったショーンは、軍隊生活を経たのち、アメリカに渡ってネイティブ・アメリカンの管理するオオカミの生息地区に入り、野生のオオカミと暮らすという経験をする。この本には彼の半生がそのまま綴られているのだけれど、圧巻はやはりその2年間の記録だ。ショーンは寝袋一つ持たずに森の中に入っていく。そしてオオカミの取ってきた獲物を共に食べ、一緒に眠り、子育てまでつぶさに見る。いやもう、ほんとに人間超えてます。you tubeで検索して動画を見たのだけれど、そりゃもう人間離れしてます。どうも、ショーンは人間が苦手なんですね。彼は人間の世界にいるよりは、オオカミの世界にいるほうがしっくりくる。ショーン曰く。

「人間はオオカミに冷酷な殺人鬼の汚名を着せたが、本当の強さの源は武器を持ちながらそれを使わないことにある。人間があのような殺人能力を手にしたら、どれだけの人がそれを使わないだけの抑制力をもっただろうか」

オオカミは非常に家族を大切にする。彼らは自分の命を持続し、子どもを育てるための狩りはするが、必要以上の殺戮は決して行わない。しかし、ショーンも言うように、人間は少しずつ彼らの世界を切り取っていき、オオカミが長い間培ってきた世界のバランスを壊してしまう。その結果人間とオオカミの不幸な遭遇が起こってしまうのだ。こういう動物の世界のことを書いた本を読むたびに、もしかしたら人間はこの地球に一番不要な生き物なんじゃないかと思ってしまう。とにかく必要以上のものを欲しがってむやみに増殖して生態系を壊していくなんて、まるでガン細胞みたいだ。私も便利な生活を手放すことも出来ない、それこそ欲張りのサルの一員なのだから、偉そうなことを言う資格は一切ない。しかし、せめて動物たちの世界のバランスを壊すことだけはしたくないし、正しい知識を持たずに思いこみやイメージで安易な失敗をしたくないと思う。人間にとってはちょっとした間違いでも、動物にはそれが命取りになるのだから。ショーンが命を張って教えてくれたオオカミの生き方は、非常にまっとうで理にかなっている。最近とみにサル的な人間のあれこれがしんどいと思ってしまう中、この本はとても楽しい一冊だった。

私もショーン同様、一番心安らいで落ち着くのは、猫たちと一緒にいる時だ。彼らは言葉を持たない分、何の嘘も裏表もなく、今生きていることの喜びを全身で教えてくれる。この「今」を生き切ることは、やたらに先の繁栄ばかりを夢みて今をおろそかにする人間が学ばなければいけないことのような気がする。

2012年9月刊行
築地書館

(※)『哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン』(マーク・ローランズ著 今泉みね子訳 白水社)