ライフワークとしてヒロシマを描き続けてきた朽木祥さんの最新刊。広島平和記念資料館に収蔵されている「人影の石」をテーマにした、史実を忠実に踏まえた物語だ。実は、この「人影の石」の主ではないかと言われている「越智ミツノ」さんは、朽木さんの姻戚にあたる人で、ミツノさんの一人娘の幸子さんは子どもの頃にお世話になった方だったらしい。この石に残った人影が誰のものであるかを確定することは、この物語に詳しく書かれているように、非常に難しいことだった。「人影の石」があったのは、ほとんど爆心地ともいえるような場所だ。三千度から四千度になったという熱線を浴びて、ほとんどの人が即死し、壊滅的な被害が出た混乱の極みのなかで、たったひとつの死の状況を特定することが、いかに難しいか。しかし、難しいからこそ、この物語は書かれねばならなかったに違いない。
「人影の石」のモチーフは、『八月の光 失われた声に耳をすませて』(小学館)の冒頭に収録されている短編「石の記憶」にも取り上げられているが、今回は、歴史ドキュメントとして、非常に緻密に再構成されている。幾つもの時と場所、眼差しを重ねながら、「あの日」を立ち上がらせていく過程が見事だ。物語としては、一気に読めるぐらいのページ数でありながら、原爆という巨大な、捉えがたいものに肉薄する扉がたくさん秘められている。原爆のことは学校で習っても、冒頭に描かれる原爆スラムのことまで知っている人は、あまりいないかもしれない。そこにずっと暮らしている人たちと、原爆のことを考えずに生きていける人たちとの断絶から紡がれる物語は、零れ落ちていく人々の記憶を、パズルのピースを埋めるように丁寧に拾い集めていく。原爆投下の日に人々が体験したこと、また何とかあの日を生き延びても、家や家族を焼かれてしまったあと、傷ついた心と体を抱えて生きてゆかねばならなかったこと。声も出さずに消えていった人たちのこと。被曝しても被爆者と認められず、何の支援も受けられなかった朝鮮の人々のこと。
巨大な暴力に押しつぶされてしまったのは、「人間」なのだ。このことを忘れてしまったら、ミツノさんと、娘の幸子さんが味わった地獄は、再び未来に蘇ってしまう。ガザで繰り返されているジェノサイドを目の当たりにし、核兵器の使用が再び現実性を帯びているいま、これは腹の底に落ちてくる恐ろしい確信だ。 先日、「パレスチナ・イスラエル取材記 壁の外側と内側」という映画を見に行った際、この映画を作った川上泰徳氏の舞台挨拶を聞く機会があった。映画は川上氏がイスラエルとヨルダン川西岸のパレスチナ自治区で人々に直接取材した映像がそのまま使われていて、ニュース報道ではわからない人々の生の声を伝えてくれる。日常的に行われているパレスチナの人々へのイスラエルの暴力と抑圧は痛ましく残酷なものだが、ほとんどのイスラエルの人々は、その事実を知らない。イスラエルはパレスチナの人々を閉じ込めるために巨大な分離壁を作ったが、その壁は「外側」を遮断し、「内側」に自らの加害への無関心を育てている。「無関心」は暴力の温床になっているが、その暴力は「自分とは関係ない」人々を殺すだけではなく、イスラエルの人々自らの人間性を殺してしまっているのではないかと川上氏は言う。自分の知りたい情報の中だけで過ごすのは、SNSのフィルターバブルのなかで生きている現代人すべてに共通していることで、これは何もイスラエルの人だけの問題ではないのだ、と。しかし、絶望的にも思えるこの状況のなかでも、イスラエル人のなかに、少数ではあるがパレスチナの人々と交流を持ち、「友人」になろうとする人たちがいる。このささやかな営みは、袋小路から脱する、微かではあるが、確かな道標になるのではと川上氏は言う。パレスチナの人々は、何度叩きのめされても、家を壊されても、洞窟の一隅に薔薇を飾り、人間らしく生きようとする。それは、人間らしく生きて日常を送ることが、ささやかでも確かな抵抗の印だからだ。そのパレスチナの人々と友人になって初めて、イスラエルの人々も人間性を回復できるのでは、と。この話を聞きながら、この人間性の回復のあり方は、物語の中に生きる人々の喜びと痛みを共にし、思いを馳せることにも通じるのではと、私は思ったのだ。
ささやかな、小さな命のしずくは、戦争で一番先に踏みつぶされる。あの日の朝、ミツノさんは銀行に出かける前に、縁側に布団を干していく。あの頃、布団は、何度も綿を打ち直し、仕立て直して、とても大切に使ったものだった。夫亡きあと、娘との暮らしを守ってゆかねばならぬという母の思いが、ささやかな行いのなかにも宿っている。記憶の糸を伸ばし、張りめぐらせて失われた命のしずくを蘇らせる。それは、巨大な暴力への、ささやかでしぶとい抵抗であり、人間性を失わぬための道標でもある。そのしずくをこの手に受け、命の重みを感じることもまた、このやり切れない世界に生きながら人間としての心を失わぬための、大切な抵抗だ。またひとつ、灯された平和へのあかりが、大きく広がっていくことを願う。
2025年10月刊行