エストニア紀行 森の苔・庭の木漏れ日・海の葦 梨木香歩 新潮社

梨木さんが実際にエストニアを旅したのが、2008年。『考える人』での連載などを経て、一冊の本として上梓されたのが、今年の9月末だ。実に4年の間、梨木さんは「内的な旅」(『考える人 2012年秋号』)を続けてらしたのだ。この本で日程を追う限り、それは短い9日間の旅なのである。しかし、そこから始まる梨木さんの精神の旅は、ご自分が根源的に抱える孤独のありかをめぐる遥かな旅だった。そして、その魂の旅は、私の心のアンテナをびりびりと震わせた。読み進めるごとに私がこの本に貼ったメモつきの付箋が、アンテナが震えた痕。梨木さんという渡りの心性を持つ方から発信された示唆は、「個」を超えた力となって私達にある方向を教えてくれるような気がする。

エストニアはバルト三国のなかの一つであり、他の国に入れ替わり立ち替わり支配され続けた歴史を持つ国だ。その複雑さがかえって開発を遠ざけたことと、森羅万象に神が宿る信仰を持ち続けた古い記憶から、自然が手つかずの状態で保たれている。日本では絶滅してしまったコウノトリが、人間とともに暮らしている土地柄なのだ。エストニアで、梨木さんは度々郷愁という言葉を使う。そう・・・何だか私も、読みながら自分の幼い頃に夏を過ごした田舎のことを思い出したりした。深い深い、迷い込んだら二度と出てこられないような山を歩いた記憶。そこを父と歩いて滝まで行った遠い日・・・こんなこと、覚えていたんだと思うような映像が浮かんだりした。父の田舎は、たった一度梨木さんが映像として見た、コウノトリが日本で暮らしていた場所の近くである。夕方には、赤とんぼで空が真っ赤になった。子どもだった私の体をとんぼの大群が包んで通り過ぎていったときの風圧は、生々しい記憶だ。梨木さん一行をげんなりさせた蛭じいさんは、その昔私をまむしの瓶詰で脅かした田舎のおっちゃんにそっくりだし(このくだりには大爆笑してしまった)。それに、養蜂家のおじいさんの語る、不思議な力を持つ女性の話は、『西の魔女』とそっくりだし。自分の記憶や梨木さんの著作の記憶とこのエストニアという国は、なんと重なることだろう。でも、そこは日本ではない。日本が失ってしまったものが色濃く漂う土地で、その昔近所にいたような人たちと出逢いながら、梨木さんの思索は、失われたもの、この世界からどんどん消え去っていく人間以外の生き物へと視点が移り変わっていく。森と、鳥と、動物をこよなく愛する梨木さんは、非常な痛みを持ちながらこの世界を見つめている。その痛みは、自分が人間であることへの罪悪感に近いと思う。

こんな罪悪感を感じる必要などない、という人もいるだろう。私たちは経済という大きな網に組み込まれているのだから仕方ないじゃないか。自分だって便利な生活の恩恵に預ってるんでしょ?そんな罪悪感は偽善でしょ、とか。にやにや笑いで「あんたも共犯だから」と共に汚れることを押しつけられたとき、私たちは口をつぐんでしまいがちだ。しかし、この世界の羅針盤は、他人の、もしくはこの世界に生きるものたちの痛みを自分のことのように感じる人、つまりは罪悪感を原罪のように抱える人たちによって指し示されるように思う。少なくとも、私にとってはそうだ。日本ではカワウソもコウノトリも、オオカミもトキもいなくなってしまった。チェルノブイリの事故のせいで人が強制的にいなくなった土地は、今、絶滅しかけている動物たちの聖地になっているらしい。そういうことを、常に繊細なアンテナで感じ続け、考え続ける梨木さんの心の旅は、今自分がいる場所を考えるきっかけに満ちていると思う。やたらに扇情的に流れてくる情報や、憎しみをあおるような愛国主義が垂れ流される中で、渡っていくコウノトリの視点を持つこと。支配され続けた歴史の中で、憎しみに流されなかった人たちのこと。忘れないために、何度も私はこの本を読むだろう。そのたびに、またこうして考えたことを書いていくと思う。梨木さんが書くことによって発信されたことを、私は受け止めて、受け止めようとしてこんなに拙いものを書く。正直それが何の役にたつんだろうと時々思ったりすることもあるのだけれど・・・梨木さんが抱える「病理のように」と自分でおっしゃる遥かな想いのようなものが自分にもあるなと思う。例え蟻さんのような歩みでも、私が世界の片隅でこんなものを書いているのは、ささやかなフィードバックを通じて「個」を超えようとする願いなのかもしれない。

・・・と、私のようなちっぽけなブロガーにも大風呂敷を広げさせるような、とにかくいろんな要素がぎゅっと詰まった本だった。ただ、梨木さんの見事な風景描写を読むだけでも楽しいし、不思議な幽霊(?)まで引き寄せてしまう、旅の磁力に吸い込まれてもいい。このエストニアと、フィンランドは絶対に行ってみたい。いや、行くぞ、と言葉に出して言霊を引き寄せよう。行くぞ!!

※2012年秋号の「考える人」に、この本に関連したロングインタビューが掲載されています。

2012年9月刊行

by ERI

 

 

 

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