あいしてくれて、ありがとう 越水利江子作 よしざわけいこ絵 岩崎書店

私の父親はとても心配性だった。少しでもとがったもの、例えばハサミや毛糸の編み棒なども、妹や私が怪我をしてはいけないと、すぐにどこかにしまい込んでしまう。建て売りの古い家の窓から冷たい風が入ってくるのを気にして、私の部屋の窓をきっちりテープで封鎖してしまったこともあった。もう、ちょっと、やめてよー、息苦しいやん、と若い私は思っていたものだ。この物語を読んでいると、あんな風に何の見返りもなく、ただ愛してくれた人がいなくなってしまったということが、表紙の風船のようにぽっかりと浮かんでくる。とても寂しいけれど、その風船を手に持ってしばらく眺めていたくなる。

この物語は、急にいなくなってしまった、大好きなおじいちゃんへの手紙だ。バイクでタイフーンのようにやってくるカッコいいおじいちゃん。どうやら何かの事情で、自分だけで子どもを育てている娘と、孫のことが気になって気になって仕方なかったおじいちゃん。口うるさいけれど、女親とは違うやり方で包んでくれるおじいちゃんは特別の存在だ。別におじいちゃんが何か役に立つことをしてくれるからじゃない。何かいい物を持ってきてくれるからでもない。ただ、「お母さんのおにぎりと、おじいちゃんのおにぎりと、どっちがうまい?」なんて聞いたりする、おとなげないおじいちゃんは、「僕」が今ここにいることを、とてもかけがえなく思っていたのだと思う。そのことを、抑えた言葉数で見事に伝えてしまう利江子先生の筆力は、さすがだ。

年を取ればとるほど、悲しいことも、辛いこともたくさん見てしまう。ヘンな話、親子だからといって愛し合えるとも限らないし、また愛し合っていても、会いたい時に会えるとも限らない。だからこそ、きっと、このおじいちゃんは、僕たちにいつも「ここにこうして、いてくれて、愛させてくれて、ほんまにありがとう」と思っていた人なのだ。その「ありがとう」は、お母さんの、お姉ちゃんの、そして僕が今ここにいることへの限りない寿ぎだった。だから、「あいしてくれてありがとう」という僕たちの感謝は、おじいちゃんの「愛させてくれてありがとう」という感謝と背中合わせなんだろうと思う。この物語には、その背中合わせの「ありがとう」の暖かさが溢れている。この物語を読む子どもたちは、ふと顔をあげて、自分を愛してくれる人を改めて見つめたくなるんじゃないだろうか。それは、自分が今生きているということを、とても大切に思える瞬間のはずだ。

心配性だった私の父は平均寿命よりもだいぶ早く、この物語のおじいちゃんと同じように、肺が原因であっという間にいなくなってしまった。だから、やっぱりこの物語のお母さんのように「ごめんね」と思うことが今でもある。でも、猫を溺愛している長男に、最近父と同じような心配性ぶりをみつけることがあって、可笑しくて一人で笑ってしまうことがあるのだ。ああ、そういうことなんやなあと、この物語で僕がおじいちゃんから受け取った愛情を感じて、納得してしまった。この年齢で父の娘である自分を思い出すというサプライズももらえて、とても嬉しかった。そして、この物語のような距離感が自分と息子の間に生まれるのだとしたら(生まれるのだかどうだかわからないけれど)、死ぬのもちょっと悪くないとも思う。大人の疲れた心にも効く一冊です。

2013年9月刊行

岩崎書店

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