八月の六日間 北村薫 角川書店

北村薫さんの小説を読んだのは久しぶりです。でも、久しぶりに読んでも「ああ、これこれ!」という独特の「間」は健在で嬉しくなります。文章をたどりながら、ふっと考え込んだり、風景を眺めたり。揺り動かされた心を、水面を見つめるようにそっと眺めてみたり。読み手の呼吸に合わせてくる、名人芸とも言うべき「間」なんですよね。しかも、その計算されつくしている「間」が、この本のテーマである山登りの行程のように、ごく自然に、もう初めからそこにあるように描かれていて、読み手を物語の最後まで連れていってくれます。

主人公は40歳くらいのベテラン編集者である女性で、仕事の責任や毎日のルーチンや、上手くいかなかった恋愛が人生にぎっちり詰まった毎日を送っています。この物語は、時折そんな日常から抜け出して山に行く、彼女の独白というか、意識の流れが書かれています。楽しい山歩きは五回。それが、こんな例えは失礼かもしれないんですが、小学生の作文風に書かれています。前日の荷造り、おやつに何を入れたか(これが楽しい!私もじゃがりこ好き)、何時に起きてどこから出発して、どこを歩いて、何を食べて…と、延々と全てを網羅。これを凡人が書くと、ただの素人のブログ風になってしまうんでしょうが、北村薫さんが書くと名人芸になる不思議さったらありません。まず、あふれんばかりの文学の蘊蓄が楽しい。何しろ主人公は編集さんなので無類の本好きという設定です。山歩きにも、絶対お守りのように文庫本を持っていく活字中毒で(お仲間だわ)、そこも楽しい。あ、これかー、これ持っていくのか。やられたなーと思ったり。私なら何を持っていくかを、自分の本棚見ながら考えたり。山歩きと言っても、命をかけた過酷な山歩きではなく、かといって私が行くような日帰りハイキングでもなく、頑張れば手が届いて、穂高や槍ヶ岳の風景を満喫できるという絶妙な山歩きなんです。ほんと、「行きたい!」って思いましたもん。彼女は山に一人で出かけます。それは、多分自分自身を確かめるため。

こんな大きな風景の中に、ただ一人の人間であるわたし。それが、頼りなくもまた愛しい。 思い通りの道を行けないことがあっても、ああ、今がいい。わたしであることがいい。

私たちは「人間」だから、人と人の間で微妙な距離を測りながら生きている。時に自分の輪郭がぼやけてしまうことだってあるし、ぶつかってしまうこともある。でも、山にいるときの自分は果てしなく小さくて、ただひたすら山という美しい場所に抱かれて、徹底的に一人になれる。身体の隅から隅まで感覚も研ぎ澄まされて、輪郭もくっきりするでしょう。うん、ここまでならほんとに「ああ、素敵ね~」という感じなんですが、でも、北村さんは、この小説のあちこちに小さなクレバスを潜ませています。歩きながら、思い出す若い頃のトラウマや、山のあちこちでふと会う人から覗くもの。幼い頃から抱える根源的な恐怖などが、美しい風景の中から突然現れる。個人的には、彼女の元上司の先崎さんのセリフが胸に沁みました。この一節を読めただけでも、この本を読んでよかった。(引用はしません~。(笑))どこまで奥があるのかわからない割れ目を持ちながら、人は生きている。というか、生きていかざるを得ない。おお、同士よ、という思いが、読んでいる間に胸に沁みる一冊でした。

下界にいるときの身分序列も全く関係なく、袖振り合うものは助け合うというルールが存在する山に、たくさんの人が惹かれるのもわかるわー、としみじみ思った読書でした。去年の夏は、友人と長野の夏を満喫できたのだが、今年はどうも諸事情あって難しそうです。ああ、でも、山に行きたいなあ。

八月の六日間 北村薫 角川書店” への2件のコメント

  1. Rieさん、おはようございます。
    やっと読めました。夏のどろどろした暑さを吹き飛ばすような気もちのよい読書でした。
    >揺り動かされた心を、水面を見つめるようにそっと眺めてみたり。読み手の呼吸に合わせてくる、名人芸とも言うべき「間」
    >凡人が書くと、ただの素人のブログ風になってしまうんでしょうが、北村薫さんが書くと名人芸になる不思議さ
    >この小説のあちこちに小さなクレバスを潜ませて・・・
    いちいち、そうだ・・・と納得できる言葉ばかりです。この爽快さは、緻密に練られたすごい登山コース(?)だったのだ、という気がしてきました。

    教えていただいた「お守り」の文庫選び、すごくわくわくしました。山に登らない私も、こんな風に本から準備して(あ、お菓子類もだ^^)山に登ってみたい、と思ってしまいました。

  2. ぱせりさん、お返事送れてしまってごめんなさい。コメントありがとうございます。
    本当に楽しい読書でしたよねえ。北村薫さん曰く、この本のコースはかなりの上級者向けだとか。そこを登らずして体感させて頂けて、読書って、ほんとお得です(笑)
    来週、山方面に行きます。(方面って!)今回は山は責めませんが、山のふもとあたりの空気を吸って、リフレッシュしてこようかなと思っています。本は何を持っていこうかな。

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