アトミック・ボックス 池澤夏樹 毎日新聞社

凜とした物語だった。大きなものに流されずに自分の足で立ち、自分の頭で考えること。こうして書くのは簡単だが、いざ人生でこれを貫こうとすると、様々な困難がつきまとう。しかし、この物語の主人公はやり切ったのだ。国家権力に追われるという恐ろしい状況の中で、一歩も引かずに父親の後悔を受け止め、もみ消されぬように命をかけて守り切ったのだ。痛快とも言える彼女の鮮やかな軌跡が、この国の中に重く立ちこめている闇を切り裂いていく。そんな景色さえ見えるような、池澤さんの鮮やかな一冊だ。

社会学者である美汐の父は、島の漁師だった。死の間際、彼は美汐にあるものを託す。それは、父が昔関わっていた国産原爆の開発プロジェクト「あさぼらけ」の資料だった。父は、自らも被爆者でありながら、原爆の開発に関わってしまったことを深く後悔し、その機密を娘に託す。それを公表するのか、しないのか。考えるよりも先に美汐に公安の手が伸びてくる。捕まれば、あさぼらけは闇に葬られる。そこから美汐の逃亡が始まるのだ。この逃亡劇が手に汗握るエンタメとして成功しているのも読み応えがあるのだが、私は美汐の逃亡を手助けする、あちこちの島に点在する老人達がとても印象的だった。彼らの、日本にいながらにして、「国」のシステムの外側にいるような生き方が、水俣で漁師として生きてこられた緒方直人さんと、ふとだぶる。

「「国」とは何だったのか。私たちは何を「国」といってきたのか。「国に責任がある」といいながら、実はそこにあったのは、「国」という主体が見えない、主体の存在しない「システム社会」ではなかったのか」 (『チッソは私であった』緒方直人葦書房)

緒方さんは、システム社会の一員ではなく、魂を持った「一人の「個」に帰りたい」ということが、ただ一つの望みだという。美汐も、逃亡を決めた瞬間から、指名手配され、家族とも職場ともアクセスできず、社会のシステムから全く切り離された「個」としてこの「あさぼらけ」という存在に対峙することになる。一方、美汐を追い、過去を握りつぶそうとする力は、国の威信や大義のためと称しながら、美汐という一人の人間の尊厳を傷つけ、危険に陥れることをためらわない。その残酷さが、美汐の薄氷を踏むような逃亡劇の中で浮かび上がって身に染みる。自分がこの立場に立ったら・・・美汐ほど体力も知力もない私はひとたまりもなく捕まってしまう。簡単に踏みにじられてしまうよなあとしみじみ思う。最後に展開される美汐と、あさぼらけプロジェクトの中心にいた人物との対話は、まさに国に「愛」という名をつけて声高に語られる数の論理と、良心を「個」に引き受けて生きようとする者との論戦で、読み応えがあった。美汐のように、戦えなくても。それが自分一人では動かしようのない、大きすぎる問題に見えても。その問題を、システム社会の論理ではなく、「個」の良心にひきうけて考え尽くしてみなければ、大切なことは見えてこない。その原点を、美汐という若い女性に託した池澤さんの願いが伝わるような一冊だった。「中年の、男性の、大企業に所属する人たち」「経済成長ばかりを大事にする今の日本の社会構造」(本文より)だけで全てを押し切ろうとする態度には、もううんざりだ。もういい加減に変わろうよ、と私も心から思う。核という私たちの手には負えないものが、一人歩きしてしまったら。その恐怖を、日本人は何度も味わったのではなかったか。この物語に描かれるあさぼらけの顛末は、その怖さも含めて、読み手に様々なことを問いかける。エンタメで愛国心をやたらに売りにする作品がベストセラーになったりするのに対抗して(かどうかはわからないけれど)池澤さんがこういう作品を書いてくれたのが、とても嬉しい。

2014年2月刊行

毎日新聞社

 

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