火山のふもとで 松家仁之 新潮社

去年遊びに行った金沢の21世紀美術館での体験が忘れ難く、時々建築の本などを覗いてみたりします。21世紀美術館を作ったのは妹島和世さんと西沢立衛さんという二人の建築家ユニット「SANAA」。先日特集番組も見たのですが、軽やかで光溢れる建築の数々に魅了されました。建築というのは非常に求心力がありまよね。素晴らしい建築が一つあるだけで、その町の風景や雰囲気を変えてしまう。人が、その場所を目指してやってくる。そういう「場」を作ってしまうドラマチックな力があります。この物語も、建築と人が作る「場」を語ります。この物語を読んでいる間中、浅間山を望む北軽井沢の自然と、「夏の家」が織りなす空気の中にいることが、とても心地よくて幸せでした。

物語は、主人公の僕が、「村井設計事務所」に入所して初めて「夏の家」という山荘で過ごす日々が描かれます。所長の村井俊輔は、フランク・ロイド・ライトに師事し、端正で美しい建築を生みだす、知る人ぞ知る高名な建築家。夏には、北軽井沢の山荘で仕事するのが、この事務所の恒例です。高齢の村井所長を中心に、個性豊かな人たちが共同生活を送りながら設計に取り組んでいく毎日が描かれます。これがもう、「美」を生み出すに相応しい、素晴らしい場所なんですよ。程よい緊張と自然との一体感がもたらす安らぎと、文化を育んできた歴史が、静かに結実しているような、みっちりと生きる手ごたえを感じる「ぼく」の日々。もう、うらやましいの一言です。村井氏は、木を使った非常に繊細なディテールを持つ建築を生み出す人として描かれています。その建築に対する姿勢は、そのまま、この物語の作者である松家氏の思想でもあるのでしょう。「細部と全体は同時に成り立っていくんだ」という言葉通り、ありとあらゆる細部に神経が行き届き、それらが見事な調和を見せる物語でした。だから、どこを読んでいても気持ちが好い。松家氏の美意識の鋭さと繊細さが、「ぼく」の眼差しの初々しさと重なって、もう二度と帰らない夏の想い出を煌めかせます。

そう、この夏は二度と帰ってこない「ぼく」にとって忘れられない夏なんですよね。この「夏の家」の日々は、初めから僅かな滅びの影を纏っています。急ぐように熱を帯びるコンペの準備や、村井氏が語る言葉のひとつひとつに、ある予感が孕んでいる。どんなに優れた才能と頭脳の持ち主でも、貴重な、積み上げた経験とともに滅びる日が必ずやってくる。人も、必ず朽ちていくものなのだけれど、どう生きるか、という志を持った美意識は、心から心に伝わっていくものなのです。それを残していくのが建築であり、物語なのだと、そう思います。人生にこぎ出したばかりの「ぼく」の若さ、生命力と、最後に燃えあがろうとする老建築家の気概が重なり合って、清冽な「場」を生み出す。どっしりと変わらぬ浅間山を背景に、より良く生きようとする人たちのコミュニティの在り方に深く共感できる物語でした。

ここからは、この物語を読んで私が考えたことなんですが。日本人の仕事の理想的な在り方は、こういうところにあるんじゃないかと思うんですよ。繊細な美意識と手仕事。自然との調和。各々の長所を生かした共同作業。緻密な手触りのディティールが生み出す心地よさと清冽な佇まい。冒頭に書いた「SANAA」の仕事も、日本の伝統的な建築の在り方を受け継ぐ美意識が、海外の人に高く評価されているそうだし。世界市場と渡り合う競争力、なんていいますが、それは果たしてTOEFLで何点取る、なんていうところから生み出されるものなのかどうか、はなはだ疑問です。日本人にしか生み出せないものは、何なのか。もちろん語学は出来るに越したことはないけれど、それ以前にやるべきことがたくさんあるんじゃないか。繊細な美意識や手仕事を伝え、継承し、磨き上げていくためには、やはりそれを言い表す日本語の語彙や表現能力が必要です。外国にない、日本人にしかない感性は、やはり美しい日本語があってこそのものだと思うのです。今、それがあまりにもないがしろにされすぎなんじゃないか。この物語の中の、お互いの建築理論を語り合う言葉の豊富さを読むにつけ、優れた仕事と言葉の結びつきの重要さを感じます。感性と思想を伝える「自分の言葉」を持つことは、やはり優れた母国語の感性あってのものではないか。そう思うのです。松家氏は、長年新潮社で優れた文学の仕事をされてきた人。その方が今、この小説を書かれた思いに、そっと心重ねてみたくなる、そんな物語でした。

2012年9月刊行

新潮社

 

 

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