昨年見た辰巳芳子さんのドキュメンタリー『天のしずく』で、この本の著者である宮崎かづゑさんのことを知った。宮崎さんは、10歳のときに国立ハンセン病療養所長島愛生園に入園され、それ以後の人生をずっと園内で過ごしてこられた方だ。宮崎さんは、病で倒れたお友達のために、毎日辰巳さんのポタージュスープを作って届けた。そのお礼の手紙を辰巳さんに出したことが縁となり、辰巳さんが宮崎さんを訪ねられたのだ。映画の中での宮崎さんの言葉は、とても強く心に残った。「人間は生きているべきですねえ。私、5、6年前でしょうか、ここまで生きてこなくてはわからないことがあったと思うことがあります」その言葉に頷きあう宮崎さんと辰巳さんを見て、私は「ああ、まだまだだな」と思ったのである。清々しく完敗したと言ったら語弊があるだろうか。少々人生にお疲れ気味だなと思っていたのだが、まだまだ自分が若輩者であることを先輩方に優しく厳しく諭されたようないい気持であった。
繰り返すが、かづゑさんは10歳で園に入られた。そのとき、故郷を失ったのである。私は桜井哲夫さんという、やはりハンセン病の方の詩が好きで関連本を何冊か読んだのだが、その昔「らい」と呼ばれ、人から恐れられたハンセン病にかかって故郷を離れることは、もう二度と帰らぬことと同義であった。かづゑさんのこの本にも、近所の人たちがかづゑさんの実家と同じ井戸を使わなくなったことが、彼女に園に入る決意をさせたことが書かれている。(宮崎さんは、その人たちが遠くまで水汲みをしに行くのが辛いと思われたのだ)この本の冒頭には、幼いころを過ごした故郷のことがとても細やかに描かれている。ほぼ自給自足の農家の生活。こまごまとお漬物や味噌を作り、家族に食べさせる祖母の手。季節の行事や、田んぼの仕事。生き生きと語られるその日々の、なんと色鮮やかなことか。体の弱いかづゑさんを、家族が愛して慈しんでいたことが切ないほど伝わってくる。そして、その思い出を、かづゑさんが宝物のように大切に大切に胸の中で育んで生きてこられたことが、こちらにも温かい雫のように沁み渡るのだ。まさに、天のしずく。さっき私は「故郷を失った」と書いたが、人は本当に愛するものを失ったりはしないのかもしれないとも思う。そう思わせるほどかづゑさんの思いは深い。愛情が深い人なのだと思う。
故郷から離れ、園に入ってからの生活は、戦争とも重なって苦難の連続だ。人間関係に苦しんだり、片方の足を切断しなければならなかったり、たび重なる痛みに苦しめられたりしながら、それでもかづゑさんは結婚し、夫のために料理をし、ミシンで様々なものを手作りし、日々の暮らしに心をこめて生きていく。私は知らなかったのだが、家事仕事をすることは、手の指を失うことなのだ。病気の後遺症で抵抗力が弱くなっているので、水仕事で傷が出来ると、段々手指に血流がいかなくなるという。かづゑさんも両手の指がない。でも、その手で親友のために、非常に手間のかかる辰巳芳子さんのスープを毎日手作りして持っていく。何の理屈も欲得もない無償の行為が、何の計算もなくある。その尊さが、穏やかな海のように輝いて私たちを照らしてくれる。
トヨちゃんは、幼いころから体は病に攻めつづけられたけれど、まるでその苦しみが彼女の心をざぶざぶと洗い流していたかのように、魂に磨きがかかり、美しい光を放ち、そしてその光は歳をとるごとに輝きを増していったと私は思う―・・・
これは、かづゑさんが親友のトヨさんのことを語った文章なのだけれど、そのままかづゑさんのことを表す文章ではないかと思う。そして、この言葉からもわかるように、かづゑさんは、とてもまっすぐな力のある文章を綴られるのだ。かづゑさんは、無類の本好き。趣味などという軽いものではなく、本は親友だとおっしゃる。どんなに苦しいときも、本を読む心の自由が自分を支えてくれたと。そう、そうですよね!と、私は嬉しくなってしまった。モンテ・クリスト伯、赤毛のアンのシリーズ・・・むさぼるように本を読む幸せ。まったく違う世界に飛んでいく時のときめき。
「行きづまっているとき心が自由だったのは、本の中の地中海があったから」
物語の力って、これですよね。この心の自由は、何物にも代えがたい喜び。多分、目だってあまりご丈夫ではなかったろうけれど、本を手放せなかったかづゑさんの気持ちは、同じ本読みとしてとてもよくわかる。そして、だからこそ、私も、年齢を重ねたときに、かづゑさんのように己の人生をありのままに「よかった」と思える日がくるように。心こめて生きていかねばなあと思う・・・思いながら、今日も背中がちょっと痛いだけでへたりこんでいた、どうしようもない私ではあるけれど。「もう人間はやめようね」と、かづゑさんは親友に呼び掛ける。その言葉が感じさせる背負ってきたものの重みと、かづゑさんが与えられ、与えてきた愛情の重みの両方を、深く感じる一冊だった。この本を書くきっかけになった辰巳芳子さんとの出会いも、その愛情が手繰り寄せた縁なのだろう。そして、その愛情はまったく見知らぬ私の胸の中をも照らしてくださったのだ。辰巳芳子さんは、かづゑさんの文章のことを「あの文章を読んだ人は、命とは何かということを見出して、感じて、そのあとでほんとうの意味の解放感を味わうと思う」とおっしゃっていた。まことに、その通りだ。この一冊を世の中に届けてくださったことに、心から感謝したいと思う。
2012年7月
みすず書房