マルセロ・イン・ザ・リアルワールド フランシスコ・X・ストーク 千葉茂樹訳 岩波書店

YAの物語に惹かれるようになったのは大人になってからです。息子たちが思春期を迎え、子育てにあれこれ深く悩み始めた頃から、一気にハマりました。若い頃は自分のことをリベラルな人間だと思っていたのに、親業をしているうちに、自分の感性よりも「こうあるべき」とか、「出遅れちゃ駄目」とかいう、他人からどう思われるかを物差しにした、カチコチの価値観に縛られるようになっていた。そのことに気付かせてくれたのは、YAの物語たちです。大人の入り口に差しかかって、自分の手で扉を開けねばならないときの慄きや、傷口の痛み。不安を抱えてみつめる空の美しさ。自分の心の中に眠る風景を呼び覚まし、目に見えない大切なことに気付かせてくれる―そんなYAの物語に、どれだけ助けてもらってきたことか。この物語も、とても瑞々しい物語です。主人公のマルセロが初めて「リアル」を見つめる眼差しと一緒に、また新しい目で自分とこの世界の関わりを見つめることが出来る。内に閉じた美しい世界に暮らしていたマルセロが、悩みながら発見する新しい「美」に心が震えます。

この物語の主人公であるマルセロは、内面的に豊かな生活を送っている青年なのです。その象徴ともいえるのが、心の中に鳴り響く音楽、IM(インナーミュージック)を持っていること。宗教について深い関心があり音楽のCDを何千枚も持っていて、自宅の庭のツリーハウスで寝起きしています。アスペルガーに近い障害を持っている彼は、他人の表情を読み取ることや、たくさんの人がいる知らない街を歩くこと、予定を決めずに行動することなどが苦手です。マルセロは、閉じた美しい世界にいます。しかし、彼の父親は、そんな彼に「普通」になって欲しい。競争社会の中で生き抜く術を身につけて欲しい。マルセロは、そんな父の提案に従って、夏休みに父親の経営する法律事務所にアルバイトに行くことになるのです。彼はそこで、生まれて初めての恋と、悩みを経験します。これは、初めてリアルな世界に触れたマルセロの心の記録なのです。

この物語はマルセロの視点で描かれています。初めて「リアル」に触れるマルセロの視線があぶり出す私たちの世界が、とても奇妙なんですよ。「こんなもんだよね」という暗黙のルールは、矛盾や無神経を思考停止の中に閉じ込めてしまう。マルセロはそのひとつ一つにひっかかるが故に、とことんまで考える。その筋道をたどるうち、私たちが日々の暮らしの中でどれほど心の中からふるい落としてしまっているものがあるのかを思い知らされます。例えば、私が冒頭で書いた彼の障害について。それは、「科学的なひびきのことばで定義したほうが、ほかの人たちもわかった気になれる」のだけれど、本当はそんな言葉ひとつで、説明しきれることでも、個々の状態に対応することも出来ない。本当は、その「出来ない」部分が大切なのに、私たちはわかった気になったところで大概のことを切り捨ててしまう。競争社会だから。ただ、ひたすら前に進んでいかねばならないから。でも、一番大切なことは、その切り捨てられてしまうことの中にあるのです。マルセロは、ゴミの中に捨てられていた少女の写真を拾います。それは、父親が扱っている企業の製品の不具合によって大けがをしてしまった女の子の写真です。企業側に立つ父が切り捨てようとしていた少女の顔が、マルセロはどうしても忘れられない。その事件を調べたマルセロは、重大な発見をします。しかし、そのことを公にすれば、父親を窮地に追い込むことになる。傷ついた少女と父親の間に立って、マルセロは悩みます。

マルセロが、そこからどんな風に自分の進むべき道を探したのか。どんな風に自分の心の声を聞いたのか。この物語の一番美しい場面は、その答えを探しながら、事務所で仲良くなったジャスミンとゆく彼女の田舎への旅です。ジャスミンは、マルセロの中にある豊かな感受性と純粋さに気付くことの出来る女性。瑞々しい自然の中で目覚めるリアルな女性への愛情が、なんと煌めいて描かれていることか。初恋なんですよねえ。マルセロは、IMよりも美しいものを見つけてしまうのです。そして、自分がどうするべきか、静かに自分の心の声を聞きます。湖の上で彼がその答えを見つける場面が、印象的です。マルセロは、自分の中の声を聞き、正しい道を見つける。そのゆるぎなさも心に沁みるのだけれど、私が素敵だと思ったのは、彼がその正しさを追求するのと同時に、人との出会いを通して、自分の醜さと弱さもまっすぐ見つめるところです。人は誰も心の中に美しいものと醜いものを持っている。マルセロは、醜い欲望を持たない聖者のように見えるけれども、聖者というのは欲望を持たないことではなくて、欲望を持つ自分を静かに見据えることのできる人なんじゃないか。読み進めるほどに大好きになっていくこの青年の面影を想像しながら、そんなことを考えてしまいました。

もちろんマルセロは聖者ではありません。だから、ジャスミンの過去を知って苦しみもします。庇護してくれていた父親からの自立と、初めて知った愛の苦しみは、マルセロを新しいリアルな人生へと導きます。そのリアルは、勝ち組になるとか、人よりいい人生を送るためのリアルではなくて、なりたい自分と共に生きていきたい人とが美しい音楽を奏でるために必要なリアルなのです。マルセロがひと夏の間にたどった旅は、未知の自分に出会う深い心の旅でした。この物語は、訳者の千葉茂樹さんもおっしゃるように、私たちが常に出会う普遍的な命題への問いかけに満ちています。そして、その問いかけに、真摯に向かい合うマルセロの姿が、とても美しいのです。人生の垢に凝り固まった大人の心も溶かしてくれる静かに深い湖のような物語でした。何度も読み返したくなること必至です。

この岩波のSTANP BOOKS、とても選書が素敵です。これまで読んだ3作品、「アリ・ブランディを探して」「ペーパータウン」、そしてこの「マルセロ・イン・ザ・リアルワールド」どれも読みごたえのある作品ばかり。岩波の底力を感じます。これからの刊行に、期待大。YAのこういう物語が、日本からももっと出て欲しいなあ・・・。

2013年3月刊行

岩波書店 STANP BOOKS

by ERI

マルセロ・イン・ザ・リアルワールド フランシスコ・X・ストーク 千葉茂樹訳 岩波書店” への2件のコメント

  1. ERIさん、わたしもこの本読みました。
    ほんとに瑞々しくて美しくて・・・すごく好きな本になりました。

    ERIさんのレビュー、素敵です^^
    なんとなくわかったような気がするけれど、もやもやしていて言葉になりにくいところまで丁寧に解してもらったような気がします。
    マルセロの初恋の描き方、素敵でしたよねえ。
    息を詰めるようにして、大切に大切にそうっとしておいてあげたいような、繊細さ。
    あのキャンプの場面は、本当に美しかったです。

    STAMP BOOKSほんとにいいですね! これから出る本も待ち遠しいです。

  2. >ぱせりさん
    ぱせりさんも、絶対この本お好きだと思いました!ほんとに、隅から隅まで好きなシーンがいっぱいでしたよね。私も、もっともっと書きたいことがあったのです。でも、ぱせりさんもおっしゃるように、うまく言葉にできなくてけっこうジタバタしました。マルセロが豊かな内面に培っているものに触れるたびに、新鮮な喜びがあふれました。ぱせりさんが先日ブログに書いてらした『星の王子さま』の王子さまに通じるところがありますね。マルセロが抱いている繊細な感受性や知性の瑞々しさ、美しさ。これから何度も読みかえすことになりそうです。

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