右一昨日だったか、テレビのバラエティで、大阪府民の県民性をえらい誇張してやってました。大阪の男は声がでかいとか、やたらに「くさっ」と言うとか。まるで大阪府民が全員お笑い芸人みたいな取り上げ方で、なんやら片腹痛いなと思ったりしました。そないに、皆がみんな、お笑いに走ってるわけやないですしねえ。まあ、確かに人を楽しませたいとか、大阪人同士の独得の間の取り方とかはありますが、大阪弁は、お笑いだけに特化した言葉やない、当意即妙の距離感の伸び縮みがある言葉やと思ってます。その距離感の伸び縮みというのは、年齢だけやない、「オトナ」であることをわきまえてるのんかどうなんか、という物差しなんやと思うのです。津村さんの小説読んでもろたら、そのへんがわかってもらえるかもなあ、と思った次第です。
年代物の雑居ビルを職場にしているネゴロさんと、フカボリくん。そして、ビル内の塾に通ってきているヒロシという小学生。ビルの物置をそれぞれが休憩所にしている縁で顔も見ずにゆるく繋がっている3人の物語が同時進行します。仕事をきちんとこなす中堅事務職で、それだけにややこしいことを抱えがちな事務職のネゴロさん。真面目でおっちょこちょいで、自ら貧乏くじを引いてみたがるような、可笑しみのある男のフカボリくん。そして、母親にいわれていやいや塾に通ってはきてるんだけれども、全く身が入らずに絵ばかり書いているヒロシ。それぞれの人間関係の円がゆるく重なって、模様を作ります。この大人の世界の中に、ふっとヒロシが上手いこと紛れこんでるとこが、面白い。絵が好きで、多分それで食べていける才能のあるヒロシは、年齢的には子どもやけど精神的にはすっかりオトナです。絵を描く人、写真を撮る人というのは、物事の本質をすっと見抜く目を持っていることが多いんですよね。そこを一目で見抜いてバイトに据えたレンタルロッカー屋の親父はさすがです(笑)オトナ子どものヒロシ、雨の地下道にゴムボート浮かべて乗り入れたりする子どもオトナのフカボリくん、しっかり者でオトナオトナのネゴロさん。その三者三様の描く模様が古いビルのゆるい風景の中で雨に打たれて滲んでいくような独特の風情が読みどころでした。成長戦略とか、グローバルとか、ぴかぴかのオフィスで働いてはるとことは、ちょっと違う、圧倒的大多数の大阪民の匂いです。その匂いがやたらに濃く匂う(文字通り濡れた靴下のかほりまで漂う)大雨に閉じ込められる日のドタバタなんか、お腹抱えて笑いました。
テレビ用の言葉ではなく、日常の中で生きてる大阪弁の微妙なやり取りを、その時の空気感も含めてごく自然に小説に出来る、というのはとても難しいことやと思うんですが、津村さんはそこがとっても上手い。この小説も、ほんまに普通の私らとおんなじような大阪の子(大阪では大人にも「子」を使います。)の毎日―そないにぱっとしたこともなく、地味にひたすら働いて、その割にはお給料安いし、けどこの仕事かていつまでちゃんとあるんやろ、と思いながらなんとか暮らしてる。そんな毎日の中にある、ちっさいけどおっきなこと、ほんまに狭い世界での出来事やけど、うちらにとってはそこが大事やねん、ということが見事に書いてあるなと思います。生きてるってそういうことですよねえ。その大事なことは、大人であれ、子どもであれ、人に指図されて決められたり、わかったような顔で図られたりするようなもんではないんです。ヒロシの通う塾の講師が「こんな所で働く人間になったらダメだ」というような古いビル。そんな一元的な価値観がはびこりかけてる日本ですが、そんなゆるい所にだからこそ生まれる人と人との繋がり、コミュニティがあって、本当はそっちのほうが毎日生きていくには大切なんちゃうかな、と思います。大雨の中で、「あ、あそこ入ろう」と走り込みやすい、すっと何もかも受け入れる余地がある曖昧な場所。そんな場所を、効率や欲得ばかりではなく、ちゃんと確保して大切にしとくのが、ほんまのオトナ社会というもんやんな、と。津村さんの描くあったかい場所を失ったらあかんなと思いながら、この本を読み終えました。
2012年11月刊行
朝日新聞出版