泣き童子(なきわらし) 三島屋変調百物語 参之続 宮部みゆき 文藝春秋

宮部さんの物語は、読みだしたらやめられなくなります。昨日は夏休みに入って初めての週末。選挙も重なり図書館の人出も最高潮で、くたくたに疲れて。ところが、寝る前にちょっと、と思って読み始めたら、やめられない。とうとう深夜の丑三つ時まで読みふけってしまいました。

このシリーズも3巻目になりました。人の抱える暗闇と不思議を描くこの物語はますます深く、恐ろしく道なき道に分け入っていくようです。物語は、時代を映します。特に宮部さんのように人の心の闇を特に追い続ける人は、特に敏感に「今」の私たちの闇を感じとるでしょう。先日読んだ『ソロモンの偽証』も、その闇に真正面から向き合う物語で読み応えがありました。けれど、この三島屋のシリーズは時代物なだけに、その闇がすとん、と胸に落ちてくるように思います。江戸時代という、私たちの根っこに繋がる場所のあちこちに棲息している闇が見事に今と呼応する、その闇の色がより濃くなっていることに、私は肌が粟立つ想いがしました。そう思って、それぞれの短編が書かれた時期を見ると、2篇目の『くりから御殿』が書かれたのが、2011年7月。震災からあとに書かれた物語たちでした。ああ・・そうなのか、とこの物語たちに対する共感の想いが深くなりました。

『くりから御殿』は、幼い頃に鉄砲水で故郷を失い、みなし子になってしまった男の話。両親も、親族も、中の良かった友達や従妹たちもすべて失ってしまった長坊の寂しさ、辛さが身に沁みます。40年経っても、その辛さ、「置いてけぼり」になってしまった心の傷は癒えることはなくて、ずっと、ずっと心の奥底で血を流している。大人になっても、幼い長坊は、ずっと「くりから御殿」で失った人を探し続けていたんですよね。宮部さんの描く生き残ってしまったものの苦しみは切なく胸を打ちます。生き残ってしまった、という罪悪感。その苦しみは、朽木祥さんの『八月の光』にも大きなテーマとして掲げられていましたし、V・A・フランクルは、『夜と霧』で「最もよき人々は帰ってこなかった」と書きました。そして、今も何万人もの人たちがその苦しみを背負っているのです。その彼に、なんとか寄り添おうとする女房の姿に、宮部さんの切なる願いがこもっているようでした。

そして、非常に恐ろしかったのが「泣き童子」。漱石の『夢十夜』の第三夜、石地蔵のように重たい子をおぶって歩く男の話を連想させる物語です。全くしゃべらない三つの幼子が、特定の人を見ただけで身も背もないほど泣き叫ぶ。その子は、人の罪に感応するのです。人を殺めた自分の娘は、自分の罪を泣き叫ばれるのが怖くてその幼子を殺してしまった。そのことを知りながら、父も見て見ぬふりをした。しかし、長い月日が経ってその娘が産んだ子は、またもやしゃべらぬ子。見て見ぬふりをした罪は、もっと大きな厄災になって帰ってくる。私は、この物語が他人事だとは思えないのです。私も、過去にたくさんの見て見ぬふりしたことがある。そして、今もそうです。昨日参院選があって、自民党が圧勝しました。私は、彼らの原発推進が恐ろしくて仕方がないのです。今を快適に暮らすために、未来を生きる子どもたちに原発のゴミを置いていく傲慢さが怖い。故郷を失った人たちが何万人もいることを忘れたような顔をして、「美しい日本」などと何故言えるのだろう。私たちは大きな罪を犯しているんじゃなかろうか。そんな気がして仕方がない。未来の子どもたちに、その罪を糾弾されたとき、私たちはなんと答えればいいんだろう。「―じじい、おれがこわいか」という泣き童子の問いかけが、私には震えるように恐ろしい。でも、そんな風に思う人間は、マイノリティに過ぎないんだと痛感してしまう選挙でした。「死んで白い腹を見せ、ぷかぷか浮きながら腐ってゆく鯉の眼」を持つ老人のように、その罪が自分に帰ってくるならまだ良いけれど。未来の子どもたちに背負わせるのは間違っている。「小雪舞う日の怪談語り」の、橋の上から異界にいってしまった女性のように、母親なら自分の命よりも子の行く末を願うもの。その人としての道を選ばなくなった私たちは、いつか「まぐる笛」に出てくる化け物のように、己を喰い果てていく道を選んでいはしまいか。宮部さんの冴えに冴えた筆が描く恐怖が、まざまざと胸に突き刺さる選挙の夜でした。

分別ざかりの大人たち
ゆめ 思うな
われわれの手にあまることどもは
孫子の代がきりひらいてくれるだろうなどと

いま解決できなかったことは くりかえされる
より悪質に より深く 広く
これは厳たる法則のようだ (くりかえしのうた)

これは、ツイッターで流れていた、茨木のり子さんの詩の一節。江戸時代に培われた日本人としての財産を食いつぶすように私たちは生きている。私たちが次の世代に残すものは、ゆめゆめ厄災や負の遺産であってはならないのだと。冒頭の「魂取が池」は、「この世のあちこちにあるに違いない、だけどわたしたちには知りようのない、けっして近づいてはいけない場所」に自分の欲望や浅知恵で踏み込んでしっぺ返しをくらう話です。私たちは、自分も含めて大きな闇を抱える存在です。そのことを忘れてはならないんだと。宮部さんの物語を読むたびに思います。読んでいる間は面白くて面白くて夢中になるんですが。読後にその重みがずしっとくるのがさすがの出来栄え。九十九まで続ける予定らしいので、こちらも長生きしてずっと読みたいシリーズでした。

2013年6月刊行

文藝春秋

桜ほうさら 宮部みゆき PHP

GWだというのに、このところ寒かったですね。花冷えの頃のようなお天気で、私のような寒がりには辛い。今日は暑いくらいでしたけど、また明日は冷えるとか。北海道は雪。気分は春というか初夏なのに・・・という落差がこたえるんですよね。この、「そうあるべき」という気持ちと、現実との落差というのは、概して精神状態に悪い。そして、家庭というのは、この落差だらけの場所なのかもしれません。

主人公の笙之介は、故郷を離れて江戸で暮らしているのですが、その理由は賄賂の疑いがかかった父が、自宅で切腹して果てたことにありました。もちろん家は断絶です。しかし、笙之介の父親は真面目一方な畑を耕すのが楽しみという人柄で、どうやら誰かの陰謀で罪をきせられてしまった疑いが強い。身に覚えのない父を追い詰めたのは、彼の手跡にしか思えない手紙でした。二男である笙之介は父の汚名を濯ぐ手がかりを求めて江戸に出てきたのです。人の手跡を、本人でさえわからぬほどに真似ることのできる人間を求めて、富勘長屋という貧乏所帯ばかりが集まる長屋で暮らす笙之介は、次々にいろんな事件と関わり、たくさんの人と出会います。長屋の気のいい住人たちとの友情や、桜の精のような女性・和香との出会い。狭い故郷の藩の中では見えなかったものが、江戸という人のるつぼの中で様々な人間の暮らしに向き合っているうちに段々見えてくるのが読みどころです。

家庭というのは、密室性の濃いものです。それだけに、離れてみて、もしくは時間が経ってやっと見えてくるものがあったりします。笙之介の母は、思い通りにならない自分の人生の帳尻を、自分に似た長男で合わせようとした。それが、一家の破滅の始まりだったんですが・・・。こういう理不尽なめぐり合わせにがんじがらめになってしまう人たちのドラマを書かせたら、宮部さんの右に出る人はそういないでしょう。笙之介の母だって悪人ではありません。本人は正しいことをしている積りなのです。この、正しいことをしている積りの人、というのがこの世で一番始末に負えません。自分の行動の裏に、何があるのかを考えてみることはしないので、軌道修正出来ないんですよね。子は親の影を生きる、といいます。母に可愛がられた兄は、母が溜めこんだ毒と一緒に、今度は金と権力が欲しい邪心と出会って破滅への道を進んでいくのです。

家族というのはなかなか厄介なものです。親子だから、兄弟だから、気持ちが通じたり、愛し合って生きていきたいと誰しもが思う。でも、そんなに簡単にはいかないんですよね、これが。この間も、佐野洋子さんの「シズコさん」を読み返していたのですが、母を愛せないという自責の念をずっと抱えていた佐野さんの苦しみが、娘として、母親として胸に沁みました。「親を愛せず、親から愛されないとしても、それだけで人として大切なものを失っているわけではない、家族だけが世界の全てではない」(著者インタビューより)ということを、宮部さんはこの物語で書きたかった、とおっしゃってますが、そのことを自分の心の真ん中まで得心させるには、なかなか大変なものがあります。この本の分厚さは、その心の旅の長さなのかもしれません。笙之介が、結果的に自分の名前も過去とも決別することになった最後の試練は、読むのは辛くなるほどキツいです。でも、笙之介には自分の居場所とも言える、自分で手に入れた人との繋がりがあった。その暖かさが、桜の花びらのように笙之介に降り注ぐラストが素敵でした。家族だから愛し合って当たり前、という「当たり前」を捨ててみたら、案外そこから新しい関係が始まるのかもしれない。現実を変えることは難しくても、心に届く物語の力がもたらすカタルシスによって、現実を新しく見つめなおす。最後の笙之介と和香の笑顔を思い描きながら、その可能性を思った一冊でした。

2013年3月刊行

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