先日、kikoさんと、神戸の灘にある「阪神大震災記念 人と防災未来センター」に行ってきた。4Fのシアターで阪神大震災を、映像と音響で体験することができる。これが、「来る」と身構えているにも関わらず、非常に怖い。音と映像だけでも恐ろしい。あれがいきなり来たらと思うと、やはり想像を超える。そのあとの、震災の記憶を伝えるブースであれこれ資料を見ていると、6000人を越える死者数に改めて呆然とするのだが、そのときに横にいたkikoさんがぽつりと、「それでも私たちはまだ幸せやったな、って思う」と言う。(kikoさんは神戸の人だ)東日本大震災では、未だに行方不明の方たちがたくさんおられるから、と。kikoさんの中には、どうしても忘れられない記憶が、多分いつも、何をしていても自分の中のどこかにあるのだ。それは、きっと一生そうなのだろうと、いつも彼女を見ていて思う。この一週間、様々なドキュメンタリー番組で震災の三年後の姿が取り上げられると、その果てしなさが心を噛む。傷ついた心と暮らし、そしてもっと降り積もる原発の不安。西館の資料室には、犠牲者の方々のひとりひとりの名前と顔と人生の記録を丁寧に綴った記録がある。数ではない、たった一つの人生がそこには刻まれている。
前置きが長くなってしまったが、この物語は、福島県郡山市出身の作者が、双葉町という避難区域に住む中学生、耕太を主人公に書いた物語だ。あの日、原発の事故が起こり、いきなり避難勧告が出て避難生活を余儀なくされた中学生の耕太。茨城県古河市にある母方の祖父の家に疎開してきた彼は、そこの渡良瀬遊水池が、昔足尾銅山の鉱毒によって消えてしまった谷中村の跡地であることを知る。自分でいろいろと調べるうちに耕太は自分の故郷である双葉町と谷中村が重なって見える。富国強兵を推し進めるために銅山はどんどん開発され、そのためにふもとの谷中村は鉱毒被害に見舞われた。豊かだった村の作物はとれなくなり、渡良瀬川は死の川になり、人々は病気になり死んでいった。しかし、村民の苦しみよりも国の利益を選んだ結果、反対運動は押しつぶされ、村民は村を追い出された。その跡地が渡良瀬遊水池なのだ。
経済的な利益を優先して、一握りの人たちの苦しみは置き去りにしてしまう構図がどんな風に展開されていくのか。そして、それが今もそのまま繰り返されていることを、一色さんは、耕太の目を通して資料と共に説得力を以て描き出していく。実のところ、私がその構図に気付いたのは恥ずかしながら最近なのだ。ヒロシマを勉強していくと、必然的に核や水俣のことにぶつかる。若い頃には、それらは別々のことだと思っていた。しかし、その根っこは全て繋がっている、ヒロシマもフクシマも、谷中村の鉱毒も、水俣も。私は気付くのが遅すぎた。はっきり言うと、日本中の大人たちが気付くのが遅すぎたのだと思う。だからこそ、若い人たちにはこの国の根っこにある負の連鎖を知って欲しいのだ。そして、自分や大切な場所を守るためにも、嘘やごまかしを見抜く目を身につけて欲しい。生涯を捧げて谷中村のために奔走し続けた政治家の田中正造の言葉が紹介されている。「人、侵さばたたかうべし。そのたたかうに道あり。腕力殺りくを持ってせると、天理によって広く教えて勝つものとの二分あり。余はこの天理によりてたたかうものにて、たおれても止まざるはわが道なり」。言葉で、静かに繰り返したたかうこと。根気よく、諦めず。そのための知性を身につけることがこれからを生きる子どもたちには必要なのだと思う。この本には、一色さんの身を切るような切なる願いが込められている。子どもたちにも、そして大人にも、今是非読んでもらいたい本だ。
一色さんは、発売になったばかりの「日本児童文学 2014年3-4月号」に「「演題 だれが戦争を始めるのですか」福島県立安積女子高校三年 山崎悦子」という作品を書いておられる。十八歳の高校生のレポートという形で、日露戦争を始めたときの日本を通じて、今の日本に流れる不穏な空気を考える作品だ。原敬と田中正造という対照的な二人の政治家が、もし協力しあえていたら―お互いの立場を越えて力を合わせることが出来ていたら、戦争を繰り返した歴史は違っていたかもしれない。時代の空気に流されずに発言することはいつも勇気がいる。この一色さんの真摯な闘いに私は胸を打たれた。そちらも、是非読んで欲しい。
2013年10月刊行
随想舎