かかしのトーマス オトフリート・プロイスラー ヘルベルト・ホルツィング絵 吉田孝夫訳 さ・え・ら書房

最近、かかしが立っている風景をあまり見なくなりました。鳥対策も、最近はCDを並べてつるしたものとか、おっきな目の模様のバルーンみたいなもの(正式名称はなんていうんだろう)だったりで、手間のかかるかかしは、あまり立てないのかもしれません。あの、田んぼの中にぽつねんと立っているかかしって、何だか切ない。「自分があのかかしだったら・・」と想像してしまう。人の形をしているせいでしょうか。寂しくないかなー、とか。誰にも「御苦労さん」とも言ってもらわずに、それでもじーっと畑や田んぼの見張りをしているのが、切なかったり。個人的には、面白キャラクターかかしより、そういう「いつから立ってるんだろう・・・」と思わせるようなかかしが好みです。(って、かかしの好みなんて生まれて初めて考えたんですけどね)

この物語のかかし、トリビックリ・トーマスくんは、そんな正統派(?!)のかかし。キャベツ畑の真ん中で、帽子にマフラー、着古した上着を着て畑を見張ることになるのです。彼はとっても生真面目で誠実。生まれながらに自分の役割をよくわかっています。存在が先か、意識が先か、なんてことを連想させるほど哲学的で考え深いトーマスくんの眼にうつるのは、自分の影に空に雲。キャベツを食べにやってくるウサギたち…振り返ることも出来ない、身動きできないトーマスくんは、限られた視界の中でいろんなことを感じ、考えます。その目にうつる風景は、人間の眼とは少し違います。だって、彼はかかしなんだから。人間なら、一日自分の影を見つめて、大きさが変わっていくのを「不思議だね」と思うなんてことは、普通はありません。自分の体を叩く雨から逃れることもせずに打たれ、そのまま虹を見上げる、なんてこともありません。蜘蛛が自分の目の前で巣を作るのをじーっと見ていることもないのです。トーマスの見ている風景は、私たちが見ているそれと、同じで違う。定点カメラの長回しの風景を時折テレビで見ると、一輪の花が咲いて枯れるまでが人の一生のようにダイナミックで驚くことがあります。あの視点に近いのかも。影が生まれ、消えていく。雲がやってきて飛び去っていく。それをじーっと見つめる彼は、目の前のすべてを「見届ける」のです。そりゃもう、哲学的にもなりますよね。皆、自分の眼の前を通り過ぎ、生と死をくり返していくのだから。トーマスくんの眼の前にやってきては去っていくものが、また、なんと美しく描かれていることか。トーマスくんがこの世で過ごしたのは、人間の尺度で言えばほんの短い間なんですが、心を込めて全てを見届ける彼にとっては無限にも感じられるほどのものだったのかもしれません。そのせいで、彼は「旅に出たい」と思うようになったのかもしれないな、と思うのは、「月日は百代の過客にして・・・」なんて連想してしまう日本人だからかもしれません。

その彼の願いは、唐突に叶えられます。その消え方には、訳された吉田さんも書いておられますが、びっくりしました。でも、プロイスラーがトーマスくんにこの旅立ちを与えたのが、何だかわかる気もするのです。大地に生まれてそこで生きて旅立っていく、それはとても自然なことだから。この物語の背景は、農場です。種まきから収穫まで、人は一生懸命働いて、大地が野菜を育てて実らせます。トーマスもその営みの一つなんですよね。太陽が昇って沈んで、一年を繰り返して…大きなサイクルの中で、トーマスは自分の命をまっとうしたのです。一生懸命働いて、誰にも振り返られることなく、ぽつねんと自然を見つめた彼に自分の気持ちを重ねてしまう物語でした。読んだあと、彼の孤独が沁みて、その分彼の眼に映ったものが綺麗すぎて、何やら人恋しくなってしまうような物語でもありました。子どもたちは、この物語を読んでどう思うのかな。大人が読むようにトーマスくんに人生を感じる、なんてことは無いかもしれないけれど、人以外のモノに心を重ねてみる、ということを何となくでも感じてくれたらいいなと思います。それが、大切な、目に見えないものを感じる第一歩だと思うから。

プロイスラーは、『クラバート』や『大どろぼうホッツェンプロッツ』が有名ですが、私は『クラバート』という物語が、とても好きなんですよ。あの本の表紙を見ただけで、くらっと異世界に迷い込みます。この本の挿絵も『クラバート』と同じヘルベルト・ホルツイング。彼の描くトーマスの表情の、なんて素敵なこと!わらで出来ているのに、ちゃんと表情がある。この挿絵を見るだけでも価値があります。しみじみと滋味溢れる一冊です。

2012年9月刊行
さ・え。ら書房

by ERI

クラバート オトフリート・プロイスラー 中村浩三訳 偕成

土と因習の匂い。死が背中あわせに待つ閉塞感。これは児童書でありながら、人の無意識の中に巣くう 夢魔が形をとってあらわれたような物語です。舞台は近世ドイツの、湿地帯にある水車小屋。

村をまわって物乞いをする貧しい生活にくたびれた14才の少年、クラバートはある日夢で彼をさそうカラスの夢を見る。その声にしたがってコーゼル湿地のほとりにある水車小屋にやってきた彼は、まるで当たり前のようにそこで働くことになる。なにしろ寝るところと食べるものがある、というだけでもクラバートにとってはありがたいことなのだ。しかし、そこはただの水車小屋ではない。親方は魔法使いで、どうやら十一人の職人は彼に魔法で縛られているらしい。それが証拠に、単調な労働に嫌気がさして逃げようとしてもどうしてもそこからは逃げられない。そして辛い見習いの期間が終わると、昼間は魔法の力でラクに働けるようになり、カラスになって親方から魔法をおそわる日々が続く。しかし、親方との恐ろしい契約は、どうやらそれだけではないらしい。なんと一年に一人職人達が死んでゆくのだ。クラバートに親切にしてくれたトンダ、そして落ち着きのあるミヒャルも死んでいく。そんな虜の生活の中で、クラバートは一人の少女と出会う。そして、この囚われた生活から彼を救い出してくれる方法は、彼女がクラバートに会いにきて、彼をえらんでくれることだということを知る。はたしてクラバートの運命は・・?

まるで終わらない夢のなかでずっと働いているようなこの物語。 読んでいる間中時間軸がずれていくような不思議な感覚に襲われました。霧の漂う湿地。カラスに変身して行われる魔術の授業。時々現れる、親方のまたその親方である男の不気味さ。彼がくる夜にひきうすですりつぶすのは、人の骨・・?!そして、一つずつ増えていく、湿地の墓と棺桶。この水車小屋での労働は、生身の身体で行うものではないらしい。みんなで働くこと自体は苦痛を伴うものではないらしい。身体も疲れないし、困ったことがあっても、ちょっと魔法を使えばうまくいってしまうし。なにしろ、この時代の一番重要な「食べること」には困らないんだから・・。でも、その代償として大きすぎるものをクラバートたちは親方に与えてしまう。それは自由と、命と、それから誰かと愛し合うこと。好きな女の子ができても、とことん黙っていろと言ったトンダは、やはり愛を親方に潰された人だった。みじろぎもしないで彼女を思うトンダとともにいる時に聞いた、どこからともなく聞こえてきた歌声。それがクラバートの愛する人・・・。すべてがモノトーンのなかにうずもれているようなこの物語の中で、この自分の可愛い人とふれあう時だけ、色づいているような美しさが溢れます。それは、語りかける声だけでかわすような恋です。でも、暖かい命そのもののような彼女の存在が、この魔術も親方の陰謀も、恐ろしい束縛も、すべてを吹き飛ばしてしまう力になる。この大いなる女性の力。

「心の奥底からはぐくまれる魔法」が解き放ったクラバートは、魔術も使えず、もう自分の力だけでいきていくことになる。でも、クラバートには、それは苦痛ではないはず。自由と愛を手にいれたんだから。そう。どうせ囚われるのなら、魔法にではなく、愛に囚われたいよなあ。

この物語は、古い民話がベースになっているらしい。やはり民話というのは、その土地がもつ、そこから生まれた幻想だけが持つ深さがあります。人が心の底に持つ、古い古い記憶の中で発酵している積み重ねられた思いは、夢の中で響く歌声のように、懐かしくて人を虜にする。
幻想を色濃く反映しながら、長い時間をかけて書かれたこの物語は、緻密な構成と筆力で、見事な幻想溢れるファンタジーになっています。それぞれのシーンが美しいんですよ。様々な光景が流れて、自分の中にしみこんでいくようです。この世界を見事に表現したヘルベルト・ホルツィングの挿し絵もこよなく魅力的。宮崎駿監督も、この物語から多くの着想を得ているそうです。
「千と千尋」のラスト、千尋が豚のなかから両親を選ぶシーンなんて、まさしくそうだなあ。魔女と契約して働く、というのもやはり同じだし。この物語と映画を比較しながら読んでも面白いかも。面白くてそんなこと忘れてよんじゃいましたが。オトナの人むけのファンタジー。とっぷり幻想の気配とゾクゾクする怖さを味わいたい人に。

by ERI