[映画]おやすみなさいを言いたくて エーリク・ポッペ監督 ノルウエー・アイルランド・スゥエーデン合作

何年ぶりだろう、インフルエンザにかかってしまった。くたくたなのだが、頭の芯にしこりのようなものがずっとあって眠れない。熱のせいと、ここ数日ずっと報道されているイスラム国による誘拐事件のことが頭から離れないせいだ。人質になっている本人とご家族の恐怖と孤独はいかばかりだろうか。湯川さんはもはや殺されてしまったのだろうか。赤ちゃんを産んだばかりという後藤健二さんの奥様がどんな思いで夜を過ごしてらっしゃるかを想像すると、とにかく一刻も早く救出して欲しいと心から思う。後藤さんは戦地の子どもたちを取材し、世界に発信していた人だ。日本ではこういう時にすぐ自己責任論を持ち出す人がいるが、私たちが戦地の実情や悲惨さを知り得るのは、彼のようなジャーナリストが報道してくれるからこそなのだ。どうかご無事で、と祈るように思う。

先日見たこの映画は、紛争地帯を取材する戦争カメラマンの女性が主人公だった。しかも、冒頭のシーンは中東での自爆テロへの潜入取材から始まるのだ。死を覚悟して生きながら葬儀もすませ、しなやかな若い体に爆弾を巻き付けて車に乗る女性。主人公のレベッカは、彼女に、彼女を見送る同士たちに、刻々とカメラを向けてシャッターを切る。静謐な死の気配の中で、そのシャッター音だけが響くのだ。これから死のうとする人にまっすぐレンズを向けシャッターを押す、ためらいなく押し切る。そのプロとしての覚悟と胆のくくり方を、ジュリエット・ビノッシュは見事に演じていた。その根底にあるのは、理不尽な暴力や死に対する強烈な怒りであり、使命感なのだが、この映画ではカメラマンの本能のようなものをもう一つ掘り下げて描いてある。その本能に抗えないほど骨の髄までカメラマンである女性を演じきったジュリエット・ビノッシュが素晴らしかった。   スーザン・ソンダクは『写真論』の中で「写真を撮るということは、他人の(あるいは物の)死の運命、はかなさや無常に参入するということである」と述べていた。写真を撮るということは、時を止めることだ。動いているものも、呼吸しているものも、本来なら移ろうものを固定化する。撮った瞬間、映像になって切り取られるものは、もはやこの世界には無いものなのだ。目の前に常に強烈に生と死が輝いていて、それを客観的に切り取れる人だけがカメラマンの目を持っているのだと私は思う。写真というものが、何とも言えずに生々しく、壺のような静物を撮ってさえ時にエロチックであるのは、そこに常に死があるからだ。レベッカは、自爆テロに向かう女性の乗る車から降り際に、危険だと知りながら群衆の中で彼女の写真を撮ってしまう。それが引き金になってその場所で爆発が起こり、その場にいた人たちをレベッカも含めて巻き込んでしまう。若い女性が自爆テロ犯になる残酷さを撮るためだけなら、もう十分なほどシャッターを切っていたにも関わらず、テロ犯の女性の面差しに魅入られるようにシャッターを押してしまう。その本能が死に結びついていく凄惨さ。そして、そのカメラマンが母であり、妻であるということが、よりその凄惨さを際立たせてしまうのだ。他人の不幸にカメラを向ける、その残酷さを、この映画はまっすぐ見つめようとする。

レベッカは夫から、常に危険と共に生きることに耐えられないと最後通告を受ける。彼女の家庭のあるアイルランドはそれはそれは穏やかに美しい場所だ。優しい夫と可愛い娘たちのために、レベッカは一旦カメラを捨てようとする。しかし、安全だからという触れ込みで長女を連れていったケニアでいきなり動乱に巻き込まれ、レベッカは長女を置いてカメラを構え、争いの中に突入してしまう。本能に抗えなかったのだ。群衆になぎ倒されても前を向いてシャッターを押し続けるジュリエット・ビノッシュは、まさにカメラマンそのものだった。結局家を追い出され、全てを捨てて、またレベッカは戦場に向かう。しかし、また冒頭と同じ自爆テロの潜入取材の場面となるラストでまた監督はもう一つどんでん返しを用意する。今度のテロ犯が自分の娘と同じ年頃の少女であることを知ったレベッカは、今度はシャッターを切ることが出来ないのだ。何度試みてもどうしても出来ないまま、レベッカが地面の上にカメラを持って崩れ落ちるところで、映画は終わる。

戦争や饑餓などの凄惨な苦しみを撮影することには、常に人道的な議論がある。人の中に残酷なものをみたいという欲望があることも、その議論をややこしくする。写真を撮ることは傍観者であることでもある。冒頭の静謐な沈黙の中に響くシャッター音は、その残酷さを静謐な中に響かせる。プロである彼女にとってテロ犯は「被写体」なのだ。しかし、最後にレベッカはテロ犯を自分の娘と重ねてしまった。その瞬間、テロ犯の少女は見知らぬ被写体ではなくなってしまった。名前と顔と体温を持つかけがえのない存在になってしまった。もはや彼女は傍観者ではない。少女に心を寄せたその瞬間レベッカは、目の前で奪われようとする命の理不尽さに、その重みに改めて押しつぶされてしまったのだ。一枚の写真。そこに映っている眼差しと向き合うことの苦しみを、この映画は観るものに投げかける。

テレビをつければそこにある後藤さんの写真に、こちらを見つめる眼差しに、私もただ打ちひしがれている。こんな世界の片隅でブログを書いているだけの私に、何が出来ようか。ただ、彼の苦しみを思うしかない。想像するしかない。見ているしかない。手を差し伸べようもない。写真を撮るものの残酷さを、その写真を見るものは常に共有しているのだ。でも、だからこそ、見ないふりをするのではなく、自らの残酷さも含めて、目をそらさず見つめようと思う。自分の家族も救えないちっぽけな私であるけれど、なぜ、こんな写真が撮られることになったのか、もつれた糸の端がどこにあるのか、考えようと思う。地面に崩れ落ちたレベッカは、きっとまた立ち上がって写真を撮ると思うのだ。彼女は、今度は傷ついた子どもたちにカメラを向けていくのではないか。彼女が打ちひしがれたのは娘への、命への愛情ゆえなのだから。中東の子どもたちの苦しみを取材しようとした後藤さんも、何度も何度も打ちひしがれた人ではなかったのだろうか。そんな気がする。

あしたも、さんかく 毎日が落語日和 安田夏菜作 宮尾和孝絵 講談社

落語っていい。大阪の人間なので、上方落語は心と身体にすうっと馴染むし、江戸前の落語も言葉のキレが好きで最近は三代目志ん朝の古典をよく聞いている。落語の一番いいところは、あんまり偉い人が出てこないところだ。みーんな、どこか足りない。怠け者だったり、ちょっとおバカだったり、お人好しで騙されてばかりだったり、だらしなかったり。概して上方落語の方が、主人公の「あかんやっちゃ」感は強いように思う。(枝雀の「貧乏神」に出てくる男は、貧乏神に愛想つかされるくらいの怠けモンだ)でも、彼等は絶対に一人ではなくて、いつも町内の誰かが助けに来たり、「どんならん(どうしようもない)やっちゃな」と言われながら面倒を見てもらったり、大家さんに説教されたりしている。まあ、人間生きてたら色々あるやんか、あかんとこはお互いさんやから、助け合っていっとこか、という人の世の底を生きている人間の笑いが好きなのだ。

この物語の主人公の圭介も、クラスメイトに「あかんやっちゃ」と言われてがっくり落ち込んでいる。大阪弁で言う「イチビリ」、お調子もんの騒ぎたがりの圭介だが、それが徒と成って「ありがた迷惑」「空気を読め」と言われてしまうのだ。自信を無くして意気消沈してしまった彼の前に、行方不明になっていたおじいちゃんが現れる。圭介のじいちゃんは、典型的な一発狙うタイプで家族に長らく迷惑をかけ、息子ともケンカばかりしている。そして年いってから落語家に入門するが芽が出ず、酒に逃げて挙げ句の果てに師匠に破門され、孫の貯金を使い込んで家出してしまうという、「どんならん」ぶりなんである。そのじいちゃんが、人知れず落語の修行を積んで、一発逆転を狙って落語コンクールに出るという。信用できない圭介の前で、じいちゃんは見事な「さくらんぼ」という落語を披露するのだ。

このじいちゃんの人となりというか、どんならんけど、あんまり憎めへん感じ、アホやでほんまに、という可愛げを、安田さんはほんまに上手いこと書いてはると思う。この「さくらんぼ」というのは、頭におおきな桜の木が生えて人がそこでどんちゃん騒ぎをする、うるそうてかなわんと抜いたらそこに池が出来て・・・というもの凄いシュールなネタで、よっぽど勢いがないと人を笑いに引き込めない。じいちゃんは、そのネタで人を引きつけられるほど修練を積んだのだ。その必死さ、ひたむきさに圭介はじいちゃんを応援したくなる。どっちかいうたらイチビリ同士、という共感もありつつ、圭介はクラスの中で浮いてしまった自分とじいちゃんが重なってみえる。もっぺん、家族にええとこ見せたいじいちゃんを応援する圭介を、友達が手伝ってくれる。圭介は自分も友達連中も皆もそれぞれにしんどさやアカンタレなところを抱えていることを知るのだ。

「みんなそれぞれ弱っちくて。 陰でこっそり落ち込んだりして。 けど、そやから、さっきみたいに、みんなで思い切り笑えたらええな。」

そう、これが「情(じょう)」というもんやなあとしみじみ思う。失敗したら、あかん。いっぺん落ちこぼれたら、そこで終わり。空気読んでおとなしくしとかな、頭打たれる。滅多なこと言うたら袋だたきやで、という空気が今、えらい強いような気がする。息詰まる。正直、今、子どもに生まれてたらしんどいやろな、としみじみ思うのだ。「笑う」というのは、自分も相手も一度突き放して眺める余裕がないと生まれない。頭を冷やして「お互いアホやなあ」と思い合うこと。全部丸やなくていい。あしたもさんかくで、うまいこと転がれなくて、角っこが削れたり上手いこといかんかもしれんけど、一緒に笑うとこから始めようや、というこの物語の暖かみが胸に沁みた。いつだったか、図書館のカウンターで落語をたくさん借りていた高校生が、横にいた友達に「落語はええで。落語は世界を救うで」と力説していたことがある。すんでのところで「そや!おばちゃんもそう思うわ」と言いそうになったが、まさにこの物語を読んでそう思う。笑いのない世の中になったら終わりやがな。サザンの年越しライブで桑田さんがしたパフォーマンスに右翼が抗議をして、とうとう謝罪騒動になったらしい。反日、とか国賊、などという言葉がまかり通る世の中になってきた。笑いや風刺を許さない流れの果てに何があるのか考えると、ぞっとする。毎日が落語日和な世の中のほうが、なんぼええかわからへん。誠に真剣に、心からそう思う。

2014年5月刊行

離陸 絲山秋子 文藝春秋

ばたばたと年越しの準備をしながら、ずっとこの本を横目で眺めていた。もう、絶対面白いという予感があったのだ。やっとお雑煮をすませて本を開いて読み始めたら止まらない、止まらない。何度も繰り返される「heureuse,maheureuse」(幸せ、不幸せ)  という言葉を噛みしめながら、絲山さんの物語にはまり込んでしまった。

真冬、雪に閉ざされた巨大なダムの狭い歩梁で作業をする主人公の佐藤のもとに、いきなりレスラーのような体格の見知らぬ外国人がやってくる。こう書くと何の不思議もない感じになってしまうのだが。いつか見た黒四ダムの圧倒されるほどでかい凹部分を思い出すと、このシーンがもたらす違和感に心が泡立つ。この、現実からふわりと浮き上がる感じ。ダムの管理という地道な仕事が、しっかり書き混まれているだけに、そこにやってくる「非日常」がふわりと絶妙な距離感で浮かび上がるのだ。自分の置かれている風景が、音楽一つで色合いや形をいきなり変えてしまう感覚に少し近いかもしれない。私はこの絲山さん独特の浮遊感が大好きで、またこの物語ではそれがますます洗練されているように思う。イルベールというその男は、佐藤に「女優を、探してほしい」という。昔佐藤が少しだけつきあって振られた乃緒が、その女優なのだという。佐藤は知らないと答えるが、イルベールとやりとりを繰り返すうち、少しずつその謎に深入りしていくことになる。

この物語は長編なので、この、突然やってきた非日常が佐藤の人生に少しずつ食い入って根を張る様子が克明に描かれる。失踪した女優の乃緒。彼女を探すイルベールという黒人の男。女優の残した息子。古い文書や映画。日本からフランスへ、パレスチナへ。時空も越える謎の翼に乗ってふわりと離陸した物語は、最後まで謎を連れたまま、今度は確かな日常を連れて佐藤の人生に帰着する。佐藤ははじめ、どこかぼんやりとしたとりとめのない男として描かれる。東大卒のエリート官僚であるけれども、キャリアの役人というのは、大きな組織のコマの一つでしかなく、常に異動させられて一カ所に根付くことから意識的に切り離されている。そんな環境と、常に自分と他者の間に線を引く性格とが手伝ってどこにいても居心地が悪く、自分の人生によそ者として紛れ込んだような気分にいつも支配されている。そんな彼が渡仏して、まさに異郷でエトランゼとなることで、変わっていく。人と深く関わろうとしなかった自分と向き合い、愛する女性と出会い、イルベールや女優が残した幼い息子の人生に深く関わっていくことで、愛も苦しみも深く味わう。後書きによると、この作品の原型は長く絲山さんの中にあったらしいが、伊坂幸太郎氏の「絲山秋子の書く女スパイものが読みたい」という言葉がきっかけになったそうだ。スパイとして生きるというのは、自分の人生そのものを虚構化してしまうことだろうと思う。若い頃の佐藤のこの世界に対する馴染めなさは、どこか乃緒という女性の居所のなさと呼応していたのだろう。しかし、そこから道はどんどん分かれてしまう。不器用ながらも、佐藤は人を愛し、失い、幸と不幸、「heureuse,maheureuse」という残酷な時間にとことんまで洗われていった。パリで、故郷で、九州で、少しずつ根を生やした人と土地との関わりは、大きな悲しみに見舞われた佐藤をふわりと受け止めて落下させなかった。

そう思ったとき、物語の中でほとんど描かれていない乃緒の人生はどんなものだったのだろうと思ってしまうのだ。物語の中で、佐藤の元の同僚も失踪してしまうのだが、彼は3.11の震災の中にいて、その苛烈な風景を見てしまったせいで、元の生活に帰ることができなくなってしまう。乃緒もそうだったのだろうか。彼女も、それまでの自分を失ってしまうほど苛烈なものを見てしまったのだろうか。彼女のそばには、いつも暴力や戦争の匂いがするが、彼女が人生から離陸を繰り返したのは、そのせいだったのだろうか。佐藤の人生が語られれば語られるほど、私はそこにいない、佐藤のようなセーフティネットを持たなかった乃緒の人生が膨れあがってくるように思うのだった。絲山さんが描くそれぞれの土地は、風の匂いまでするようで、とても魅力的だ。その風景の中を、「heureuse,maheureuse」とつぶやきながら歩く乃緒の姿が、いつまでも胸に残る物語だった。

低地 ジュンパ・ラヒリ 小川高義訳 新潮クレストブックス

昔に比べて長編を読むのが体にこたえる。若い頃と体力が違うというのもあるが、そこに描かれるひとつひとつの人生が、年齢と共に深い実感を伴って心に食い込んでくるからだ。私の体の中の時間に、この『低地』の登場人物たちの記憶がどっと流れ込んで混じり合う。既視感のような、まだ見知らぬもう一人の自分と出会っていくような、小説と自分だけが作り出すたったひとつの世界を、浮遊する数日間だった。

これは、死者と生きていこうとする人間たちの闘いの物語だ。まるで双子のようにインドのカルカッタ郊外で育った兄弟と、その妻。弟のウダヤンは、若くして革命運動に身を投じ、警官に自宅の裏にある低地で射殺される。それは、身重の妻と両親の目の前でのことだった。妻のガウリの人生は、そのとき一度粉々に壊れてしまった。兄のスパシュは、彼女を妻として留学先のアメリカにつれてゆき、家族として暮らそうとするのだが、ガウリはどうしてもその暮らしに馴染むことができない。それはそうだろう。例えスパシュがどんなに優しくても、誠実な人であったとしても、彼はガウリが愛した人ではなかったのだから。一度粉々になった壺を何とかテープで貼り合わせてみても、そこには何も溜まらない。ガウリは、もう一度、今度は哲学を勉強することで自分を一から立て直してゆく。「ガウリは精神に救われていた。精神を支えにしてまっすぐ立った。精神が切り開いた道をたどっていった」のだ。しかし、それは妻であったり、母であったりすることとは全く相容れない孤独な作業なのだ。その苦しみが彼女を引き裂き、ガウリは、とうとう娘を棄てて家を出る。世間的には許されないことかもしれないが、それはガウリにとって抜き差しならない営みであったのだ。  一方、ウダヤンの死に向き合い続けたのは、スパシュも同じだ。彼にとって弟は、イデオロギーの上で反発しあったとしても、自分の分身のようなものだった。その彼の代わりに父親になろうとし、ガウリとその娘のベラを守ろうとし、ベラを心から愛した。愛情から生まれた結婚ではなくても、妻と子に精一杯誠実であろうとした。しかし、結婚生活はうまくゆかない。そう、うまくゆかないことは始めからわかっていたのだが、彼は失われた弟の人生が失われたままであることに耐えられなかったのだ。彼のとった方法は間違っていたのかもしれない。しかし、これもまた、抜き差しならない彼の、死と向き合う営みだった。そして、ガウリの娘であるベラもまた、母の失踪という喪失を常に胸の内に抱えていきてゆくのだが、不思議にその足跡は、革命に生きた実の父、ウダヤンと同じような軌道を描き出すのだ。アメリカという移民の国で、ウダヤンという一人の男の生と死を身の内に抱えた三人がたどる足跡を抑えた筆致で俯瞰していくこの物語は、過去と今をぎゅっと凝縮させたような質感に満ちていて、その人生の厚みに圧倒された。

私たちは、生きているものだけでこの社会を動かしている気になっているが、実は全くそうではない。ウダヤンを革命に突き動かしていったのは、インドの大地に踏みつけられるように殺されてゆく貧しい人々の死だった。また、ウダヤンの死は家族の運命と常に共にある。そして、ジュンパ・ラヒリはこの運命の影にある死を、もう一つ用意している。ネタバレというか、この物語を最後まで読んで得られるものを傷つけてしまうような気がするので詳しくは書かないが、それはウダヤンとガウリが正義を行おうとして夫婦で間違いを侵した結果としての死なのだ。私にはその死が、ウダヤンの死そのものよりもガウリの苦しみの最も深いところに突き刺さったまま、ガウリの心を凍らせてしまったことを感じた。だから、ガウリは母性のままに子どもを愛せないのではないか。ガウリは、被害者でもあり加害者でもあった。

「ぽつんと小さく浮いた疑惑の点、あの兄妹と座った窓辺から街路を見下ろし、もっと凶悪なことなのかもしれないと思った心の動きを、彼女は押し殺していた。」

見ないふりをした死を、ガウリは一生見つめ続けて生きてきた。ガウリは被害者であるとともに、加害者でもあった。しかし、生きることは常の二つの立場を抱えているものなのだと思う。その二つを見つめ続けたガウリの人生に、深くのめり込んで私はこの物語を読み終えた。彼女の強さも愚かさも、頑なな一途さも、まるで自分の一部であるかのようだった。

人はその体の内に、大切な「死」を抱えて生きてゆく。ウダヤンという一つの死を身の内に深く抱き続けた家族の物語は、まるで星の軌跡のように一つの宇宙を作っていく。私にはヒンドゥーの知識があまりないのだが、この物語を読んでいると、神々の列伝が語られてゆく形に近いのかもしれないと想像したりした。彼等は歴史に何の名前も残さないが、その人生は、その身に愛と罪と誇りを抱くかけがえのなさに輝いている。そのひとつひとつを、愛という腕で抱き取ってゆくラヒリの眼差しと筆力に脱帽の一冊だった。

希望の牧場 森絵都作 吉田尚令絵 岩崎書店

3.11の震災で起きた原発事故で、たくさんの人たちが故郷を追われた。そのときに、たくさんのペットや家畜が悲惨な状況の中、死んでいった。この絵本に描かれている『希望の牧場・ふくしま』の代表である吉澤正巳さんも、国から退去するように言われ、その次は牛の殺処分(なんて恐ろしい言葉だろう)への同意を求められた。しかし、吉澤さんは自分も被曝することを知りながら、退去にも殺処分にも応じなかった。そして、自分の牛たちの世話をひたすら続けて現在に至っている。こう紹介すると、とても悲惨な絵本であるかのように思われるかもしれないのだが、そうではない。もちろん悲惨な事実もきちんと描かれているのだが、この絵本にはシンプルな強さが溢れているのだ。

「だって、牛にエサやらないと。オレ、牛飼いだからさ」

目の前にお腹を空かせている生き物がいる。だから、ご飯を食べさせてやる。ただ、それだけのまっすぐにシンプルなことを、ただやり切ろうとする強さ。肉牛としての「意味」は被曝してしまった牛にはもはや無い。しかし、生きることに「意味」を結びつけているのは人間だけだ。意味がなくなれば殺処分してもいいのか、という問いかけは、そのまま弱いものや目に見えない苦しみを切り捨てていこうとする人間の姿をあぶり出すように思う。

「希望なんてあるのかな意味はあるのかな。 まだ考えてる。オレはなんどでも考える。 一生、考え抜いてやる。 な、オレたちに意味はあるのかな?」

吉澤さんのような人がいて、その生き方を支援する人たちがいる。それは最後の希望なのかもしれないけれど、全てが他人事になってしまったときに、その希望は消えてしまうのだと思う。昨日終わった選挙の結果は、無関心という化け物が生み出した結果なのか。そう思うのは私だけなのか。テレビを見ながらやけに疎外感を感じてしまうのだが、この吉澤さんの言葉を噛みしめながら、考えることを放棄しちゃいかんよ、と自分に言い聞かせている。

2014年9月刊行

岩崎書店

子どもたちの未来、子どもたちの本の未来 フォーラムポスト3.11

少し前になるが、11月15日(土)に京都の平安女学院でで行われた日本ペンクラブ主催のシンポジウム「子どもたちの未来、子どもたちの本の未来」に行ってきた。第一部は野上暁さんの基調講演「3.11後の子どもの本」.。第二部はパネリストの児童作家の方々によるシンポジウム。朽木祥さん、越水利江子さん、芝田勝茂さん、濱野京子さん、ひこ・田中さん、松原秀行さん、森絵都さんがパネリストとして参加されていた。

第一部の野上暁さんの基調講演は、関東大震災後の日本の歩みを振り返ることから始まった。野上さんの作成された年表を見ながら3.11のあとの日本と重ねあわせてみると、これが、もう、ぎょっとするほど似ているのだ。震災に、その後の不況。中国や韓国との摩擦。右傾化していく中で、治安維持法や言論統制が行われていく。ひこ・田中さんが「我々は既に戦前を生きはじめている」とおっしゃられていたが、まさにその通りだと背中が寒くなる思いだった。その流れの中で、アニメーション、紙芝居、演劇、映画が統制され、児童文学も国威発揚の一端を担わされていった。その歴史も踏まえて、今、児童文学に何が出来るのか。それを問う講演だったと思う。その後のシンポジウムは、パネリストの作家さんたちの発言から始まった。ヒロシマをライフワークにしている朽木祥さんの「戦争を正しく記憶して警戒する」、「共感共苦を抱くことの出来る心」、という心に刻んでおきたい言葉。越水利江子さんの「子どもを守りたい、読者を守りたい」という強い気持ちから訴えられた反原発と面白い本をいっぱい書きたいという決意。社会派として、3.11後の変化を形にしたい、と語る濱野京子さん。特定秘密保護法案後の日本で作品を書いていくことについて語ったひこ・田中さん。松原秀行さんは、親族が3.11で被災され、その後被災地で独自の活動をされている。そして、森絵都さんは、3.11後に刊行された『おいで、一緒に行こう 福島原発20キロ圏内のペットレスキュー』『希望の牧場』の2冊から、弱い命が切り捨てられていること、人との出会いが作品を生み出していくことを語られた。日本ペンクラブの会長である浅田次郎さんも、忙しいスケジュールの合間を縫って、足を運ばれていた。

私は、今、強い危機感を持っている。自民党が政権を取り返してから、ひたすら右傾化の道を歩んでいること。特定秘密保護法も集団的自衛権の容認も、全く議論されないままに押し切られてしまった。マスコミが「反日」「売国奴」など、いつの時代の言葉なのかと思うような口汚さで近隣諸国との対立を煽っている。原発事故のあと、一旦は廃止に向かっていたベクトルが、ここにきて反対の方向に動き出していることも恐ろしい。復興どころか、未だに仮設住宅に住む人々がおられるのに、東京がオリンピック、などと言い出したのにはびっくりしたが、もはや誰もそのことに違和感を感じなくなっていること。ひたひたと暗い波が押し寄せてくる実感が日々強くなる。だが、選挙を間近に控えたこの時期にも、争点としてテレビで放映されるのは経済と消費税ばかり。なんでやねん!と一人テレビに突っ込む日々だ。子どもの物語を書く人は、当たり前だが子どもを見つめている。私たち大人が子どもに手渡すのが、黒い波にのまれていく日本であっていいはずはない。基調講演とパネリストの方々の話を聞き、その危機感を改めて認識できた。

濱野京子さんがおっしゃったように、3.11が児童文学において語られていくのは、まだまだこれからだと思うし、そうでなければならないと思う。子どもの本は、大人の本では語れない希望が、まっすぐな眼差しでみつめるものや真摯な心が語れるはずだ。そこに惹かれているし、そこが私の希望でもある。その希望が間違いではないと思わせてくれたシンポジウムだった。私も微力ではあるが、顔をあげてきちんと声をあげて語っていこう。子どもたちの未来は、私たち大人がどれだけきちんと過去を見つめ、記憶し、そこから学ぶことが出来るかにかかっているのではないか。それは決して自分たちに都合のよい過去であってはならない。

 

ピーター バーナデッド・ワッツ 福本友美子訳 BL出版

「庭は神様に一番近い場所」とは、京都の大原でハーブなどをたくさん育てているベニシアさんという方の言葉。この絵本を読みながら、この言葉が浮かんで仕方なかった。本当に美しい絵本なのである。ピーターという少年が、お母さんの誕生日プレゼントに何がいいかと悩んでいると、おじいさんが植木鉢に何か植えて「せかいでいちばんきれいな木だよ」と言って少年にくれる。お姉さんたちは綺麗なケーキや絵をプレゼントしているのに、まるで棒のような木に気後れして、彼はそれを隠してしまう。しかし、お母さんがちゃんと見つけて庭に植えてくれたのだ。その木はフユザクラで、まだ雪ばかりの庭で、うすももいろの花をたくさん咲かせる。ピーターは大きくなってもこの木を見上げてお母さんのことを思い出すのだ。

ここに描かれている庭が、心に沁みいるような美しさなのだ。抑えた色調で丁寧に書き込まれた花々の間を、鳥が羽ばたき猫がゆっくりと歩く。作り込まれたイングリッシュガーデンというよりは、まさに日々の生活と共にある庭で、野菜も植えられているし、洗濯物だって翻っている。でも、というか、だからこその美しさに溢れて子どもたちを見守っている。お母さんに素敵なプレゼントをしたいのに、お姉さんたちのようには出来ない自分を悲しく思うピーター。そんな彼の気持ちをそっと受け止めて咲かせたおじいちゃんとお母さんの愛情が、大きくなってこの庭から旅立っていった彼の胸の中には、いつもひっそりと咲いていることだろう。それは、彼らがこの世からいなくなっても、きっとなくなることはない風景なのだ。だから、この絵本には時間を超えた美しさが宿っている。幼い、瑞々しい瞳に映る風景は特別なものだが、それを何度も何度も思いだし、人は心に自分の色で焼き付けていく。そのとき、愛情のこもった色を載せられる幸せが、この絵本には詰まっているように思う。そして、もうひとつ、大人になって、たくさんの超えがたいものを超えて見つめる命の美しさもこの絵には重なっている。物語の最後の頁は、大人になったペーターの見上げる大きな桜が描かれている。末期の目に映る花と、子どものまだ見開いたばかりの瞳に映る花の色は、もしかしたら似ているのかもしれない。遙かな憧憬が込められているようなこの絵を見て、そんなことも考えてしまった。

私もふとしたことで、今年からまた庭仕事を始めて、たくさんの花を植えた。にわかガーデナーは失敗ばかりだが、花たちはこんな粗忽者も優しく許していつも誇らしく美しい。今は秋バラの盛り。バラたちの香りを吸い込みにいきたくなる一冊だった。こんな美しい絵本は、子どもたちの心にも、きっと美の種を宿してくれると思う。

ヒロシマを伝えるということ 朽木祥さんの作品に寄せて

原爆忌に朽木祥さんの『彼岸花はきつねのかんざし』(学研、2008年刊)『八月の光』(偕成社、2012年刊)『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』(講談社、2013年刊)を読み返していました。

(以前書いたレビューはこちら)→『彼岸花はきつねのかんざし』『八月の光』『光のうつしえ

原爆をテーマにした作品はたくさんありますが、朽木さんのようにヒロシマをライフワークにして創作されている方は少ないです。今、原爆や戦争のことを若者に伝えることは、なかなか難しいものがあります。NHKの番組で放送されたことですが、長崎では原爆の語り部の方に「死にぞこない」と中学生が暴言を浴びせたとか。戦争は、今の若者たちの暮らしから遠すぎて、「ふーん、そんなことあったんだ」くらいの感情しか動かないのではないかと思います。いや、実を言うと、私自身もそうでした。それどころか、社会的なことに問題意識を持つこと自体、何やらタブー感さえ持っていました。

日本の社会は、同調意識が強いんです。当たらずさわらず、「皆と一緒」にしておくのが、一番都合がいい。空気を読むことに長けていた私も、若さゆえの頑なさと保身で、そんな価値観にすっかり縛られていたように思います。でも、子どもを生んで、子育てにもみくちゃにされ、すっかり裸になった心に、幼い頃に触れた児童文学が再び色鮮やかに染みこんできた。戦争や核のことを深く考えるようになったのも、実を言うと朽木さんの作品に触れたことがきっかけです。だから、今の若者たちだって、例え教えられたその時にはピンとこなくても、ふとしたことがきっかけで、もう一度自分から知りたくなる時というのは、必ずやってくると思うのです。心の中に、そのきっかけを作っておくためにも、子どものうちに素晴らしい作品に出会っていて欲しい。今、核は世界的に大きな、避けて通れない、しかも自分たちに必ず降りかかってくる問題です。福島の原発事故では、全ての炉がメルトダウンし、3号機ではほぼ100%の燃料が溶け落ちているとのこと。廃炉までの行程を考えると気が遠くなります。これほどの規模の大事故があったにも関わらず、政府は原発を手放そうとはしません。それは、何故なのか。そこに住む人々の命を犠牲にして、一体何を守ろうとしているのか。秘密保護法案を可決させ、憲法を恣意的に解釈することを自分たち閣僚だけで決め、近隣諸国との対決姿勢をあらわにする今の政治のあり方に、私は強い不安を覚えています。広島と長崎から始まった核の時代は、そのままフクシマに繋がっています。「今」しか見えない眼では、それを見通すことは難しい。連作短編の『八月の光』は、卓越した文章力で「あの日」をくっきりと立ち上がらせ、これからの未来をどう生きるのかを問いかける意欲作です。そして『光のうつしえ』は、記憶を未来に繋いでいくことが語られます。

「加害者になるな。犠牲者になるな。そしてなによりも傍観者になるな」

『光のうつしえ』の中で、婚約者を原爆でなくしてしまった先生が、子どもたちに送った手紙の中の一節です。この言葉の中で一番大切なのは「傍観者になるな」ということ。戦争は常に一人の人間を加害者にも犠牲者にもするのです。それは、今、パレスチナで続く戦闘を見てもわかるように、国家に軸を置いた二元論という単純な腑分けでは語りきれるものではありません。『八月の光』の『水の緘黙』の主人公の青年は、「あの日」から深い深い罪悪感にさいなまれて彷徨い続けます。それは、目の前で燃える少女を助けられなかったから。生き残った人たちは、皆、多かれ少なかれ、自らも傷つきながら「生き残ってしまった」という苦しみに苛まれるのです。ハンナ・アーレントが指摘したように、ホロコーストが行われていたとき、ユダヤ人の指導者たちの中にもナチスに協力した人がいた。もしくは、『夜と霧』でフランクルが語ったように、看守の中にも何とかしてユダヤ人に親切にしようと努めた人もいたのです。私たちは否応なく時代の中で生きている。その中で何を選んでいくのか、どのように生きるのかを自らに常に問いかけなければならないのです。『象使いティンの戦争』(シンシア・カドハタ)では、アメリカ兵をトラッキング(敵の足跡をたどること)して案内した村人の親切が虐殺に繋がり、村人たちは戦争へと踏み出していきます。気がつかないうちに、村人たちは戦争への一線を越えていたのです。そうならないように、一人の人間として考え抜くこと。それが、「傍観者になるな」という言葉の中には含まれているのではないかと思うのです。個々の思考停止の果てに戦争があるのだとすれば、常に私たちの中に戦争の可能性は眠っているのです。『光のうつしえ』は、過去を踏まえた上で、国や民族の枠を超えて、一人の人間としてどう生きるかという真摯な問いかけを投げかける作品だと思うのです。

広島は、長崎は、世界で唯一直接的な核攻撃を受けた場所です。そこで何があったのか。それは、徹底的に語られ、検証され、人類への責任として世界中に発信するべきことです。世界中に核は溢れていて、フクシマの事故もチェルノブイリの事故も人為的なミスから起こっていることを考えれば、人間のすることに絶対はあり得ない。唯一の被爆地に生まれた朽木さんは、被曝を風化させないという責任を、人類に対して、これからを生きる世代に対して背負い続けて、物語を書いていこうとされているのではと思います。その物語の力を、どうかこの夏休みに、子どもたちと一緒に感じて頂きたいと心から思います。

 

四月になれば彼女は 海街Diary6 吉田秋生 小学館

夏にこのシリーズの新刊を読むのがとても楽しみです。6巻の表紙も青空。でも、変化の予感に少し切ない夏の空です。

すずちゃんたちも中三になって、進学問題が目の前に迫ってきています。サッカー強豪校から特待生のオファーがきた彼女の揺れる気持ちと、そんな彼女を見守る風太の複雑な気持ち。「四月になれば彼女は」は、サイモン&ガーファンクルの懐かしい曲のタイトルです。久々にあの美しい歌声をYou Tubeで探して聞いてみたのですが、恋が季節が変わるように移ろっていく、という歌詞なんですね。「四月になれば 多分 何もかも変わる」という風太のセリフのように、きっと一年後にはいろんなことが変わっている。15歳という変化の季節のまっただ中にいることはお互いよくわかっていて、多分心の奥底で自分がどうすればいいかもよくわかってる。だからこそ「今」がかけがえなくて切ないんですね。思い切りジャンプする前の一時。鎌倉の海辺を、相合い傘で歩く二人のシーンがとてもいい。風太はすずちゃんが遠くに行ってしまうのが、やっぱり怖いんですよね。15歳でお互い何の約束も出来ないこともわかってる。でもなー。「理由とか別に聞かねえけど でも おまえが話聞いてほしいって時は いくらでも聞いちゃるから」って、こんなことを言ってくれる男子は、そんなにいないと思うわ。(私が出会ってないだけか?)もし、二人が変わってしまっても、きっとこの瞬間はすずちゃんの心の居場所の一つになると思うのです。

居場所といえば、すずといとこの直ちゃんが、鎌倉の山奥に工房を構えている女性を訪ねる「地図にない場所」というお話は、特に良かったですね。女性が作った作品の美しさに感応してやってきた直ちゃんは、彼女の心の扉を開く秘密の鍵を持っていた。美しさに共感するということは、同じ心を分け合うということなんですよね。地図にない場所は、自分の心の居場所でもあります。すずちゃんや風太の住む鎌倉は、現実の鎌倉にはない、読者だけがいける地図のない場所でもあります。何と、来年実写で映画化だとか。見たくもあり、怖くもあり(笑)今NHKでやっている村岡花子さんを主人公にした朝ドラは、あまりに酷い内容なので見るのをやめてしまったし。好きな世界を映像化されるというのは、微妙なことですねえ。どうなることやら。

槍ヶ岳山頂 川端誠 BL出版

槍ヶ岳。もう、名前からしてかっこいい。先日書いた『八月の六日間』の主人公のように、「槍を責めます」と、言ってみたい。この表紙でスナップショット風にこちらを向いている少年の顔も、とても誇らしげだ。この絵本は正方形に近く、かなり大型。見開きでたっぷり山のダイナミックさが楽しめる。10歳の少年がお父さんと槍ヶ岳縦走に挑む、濃い二泊三日が描かれているのだが、どーんとした山の存在感と迫力がとても素晴らしい。何しろ槍ヶ岳だから、10歳の少年にはなかなかキツい行程なのだが、キツいからこそ身体いっぱいで山を感じる少年と一緒に、心の中の余計なものがすうっとそぎ落とされる。深呼吸したくなる。見開きには、山荘の記念スタンプが旅の行程と一緒に押されていて、それも心憎いのだ。

山では、とにかく愚直に歩くしかない。この絵本の中でも、雨の中を「もうだめだ」と何度も思いながら登り続ける場面があるが、この愚直にやるしかない、というシチュエーションは、結構楽しいものなんだと思う。しんどいけど、楽しい。しんどいから、楽しい。山頂に立って自分の歩いてきた道をたどる少年の胸の内に溢れているものを、宝物のように愛しく思った。夏休みにこんな旅の出来る父と息子が、うらやましくて仕方ない。山と、自分の後ろをずっと歩いてくれるお父さんに見守られている少年は、とても幸せだと思う。風景も清々しくて、今この季節に読むのにぴったりだ。恐ろしいほどの酷暑を一瞬忘れさせてくれる一冊。

八月の六日間 北村薫 角川書店

北村薫さんの小説を読んだのは久しぶりです。でも、久しぶりに読んでも「ああ、これこれ!」という独特の「間」は健在で嬉しくなります。文章をたどりながら、ふっと考え込んだり、風景を眺めたり。揺り動かされた心を、水面を見つめるようにそっと眺めてみたり。読み手の呼吸に合わせてくる、名人芸とも言うべき「間」なんですよね。しかも、その計算されつくしている「間」が、この本のテーマである山登りの行程のように、ごく自然に、もう初めからそこにあるように描かれていて、読み手を物語の最後まで連れていってくれます。

主人公は40歳くらいのベテラン編集者である女性で、仕事の責任や毎日のルーチンや、上手くいかなかった恋愛が人生にぎっちり詰まった毎日を送っています。この物語は、時折そんな日常から抜け出して山に行く、彼女の独白というか、意識の流れが書かれています。楽しい山歩きは五回。それが、こんな例えは失礼かもしれないんですが、小学生の作文風に書かれています。前日の荷造り、おやつに何を入れたか(これが楽しい!私もじゃがりこ好き)、何時に起きてどこから出発して、どこを歩いて、何を食べて…と、延々と全てを網羅。これを凡人が書くと、ただの素人のブログ風になってしまうんでしょうが、北村薫さんが書くと名人芸になる不思議さったらありません。まず、あふれんばかりの文学の蘊蓄が楽しい。何しろ主人公は編集さんなので無類の本好きという設定です。山歩きにも、絶対お守りのように文庫本を持っていく活字中毒で(お仲間だわ)、そこも楽しい。あ、これかー、これ持っていくのか。やられたなーと思ったり。私なら何を持っていくかを、自分の本棚見ながら考えたり。山歩きと言っても、命をかけた過酷な山歩きではなく、かといって私が行くような日帰りハイキングでもなく、頑張れば手が届いて、穂高や槍ヶ岳の風景を満喫できるという絶妙な山歩きなんです。ほんと、「行きたい!」って思いましたもん。彼女は山に一人で出かけます。それは、多分自分自身を確かめるため。

こんな大きな風景の中に、ただ一人の人間であるわたし。それが、頼りなくもまた愛しい。 思い通りの道を行けないことがあっても、ああ、今がいい。わたしであることがいい。

私たちは「人間」だから、人と人の間で微妙な距離を測りながら生きている。時に自分の輪郭がぼやけてしまうことだってあるし、ぶつかってしまうこともある。でも、山にいるときの自分は果てしなく小さくて、ただひたすら山という美しい場所に抱かれて、徹底的に一人になれる。身体の隅から隅まで感覚も研ぎ澄まされて、輪郭もくっきりするでしょう。うん、ここまでならほんとに「ああ、素敵ね~」という感じなんですが、でも、北村さんは、この小説のあちこちに小さなクレバスを潜ませています。歩きながら、思い出す若い頃のトラウマや、山のあちこちでふと会う人から覗くもの。幼い頃から抱える根源的な恐怖などが、美しい風景の中から突然現れる。個人的には、彼女の元上司の先崎さんのセリフが胸に沁みました。この一節を読めただけでも、この本を読んでよかった。(引用はしません~。(笑))どこまで奥があるのかわからない割れ目を持ちながら、人は生きている。というか、生きていかざるを得ない。おお、同士よ、という思いが、読んでいる間に胸に沁みる一冊でした。

下界にいるときの身分序列も全く関係なく、袖振り合うものは助け合うというルールが存在する山に、たくさんの人が惹かれるのもわかるわー、としみじみ思った読書でした。去年の夏は、友人と長野の夏を満喫できたのだが、今年はどうも諸事情あって難しそうです。ああ、でも、山に行きたいなあ。

リゴーニ・ステルンの動物記 ―北イタリアの森から― マリオ・リゴーニ・ステルン 志村啓子訳 福音館書店

今月の初め、kikoさんと六甲山にハイキングに行った。六甲は無数にハイキングコースがあって、私たちが行ったような初心者向けのコースは、人の手が入って整備されている。それでも山の中は別世界で、何より鳥の声がたくさん聞こえる。一カ所、家の周りではほとんどいなくなったウグイスが集まっている場所があった。深い谷の木々をじっと見ていると、あちこちに留まっているウグイスの姿が段々浮かび上がってくる。不思議に思いながらそこを離れたのだが、しばらく行ったところでバードウオッチングをしている方に会い、ウグイスの巣穴がある場所を教えて頂いた。どうやら、山ではその頃が鳥たちの子育ての季節らしかった。あれから時々あのウグイスの雛はもう巣立ちをしただろうかと考える。人と出会ってもすぐに友達にはなれないが、動物だと一瞬姿を見ただけでも、なぜだか心に残るのが不思議だ。この本にも忘れられない動物たちがたくさん登場する。

この本は以前に読んだことがあって、その時にもレビューを書いているのだが、今現在、版元では絶版になってしまったらしい。表紙を見て貰うだけで伝わると思うのだが、この本はとても美しい。表紙のノロジカに見つめられて扉を開くと、長靴のようなイタリアの地図。もう一枚開くと、二羽の愛らしいクロウタドリが出迎えてくれる。そこはもう、北イタリアの森の入り口なのだ。あちこちに散りばめられた挿絵も、活字の大きさや配置も、志村さんの訳されたリゴーニ・ステルンの文章にしっくりと溶け合っていて、見事な一冊だ。本というのは、特に翻訳されるものは、その一冊に関わる何人もの方の美意識が一点に凝縮されるものだろうと思う。作り手の「想い」が込められている本から伝わってくる風を感じるのは、とても幸せなことだ。特にこの本の巻頭に載せられている、リゴーニ・ステルンの「日本の若い読者への手紙」は、若い人たちに、ぜひ読んでほしいと思う。

「いつもこの世に平和と安らぎがあるとはかぎらない。それは日々守り、獲得していってはじめて可能だということを、これらの挿話は、わたしたちに気づかせてくれるでしょう。」

彼は兵隊として第二次世界大戦に従軍し、強制収容所にいたこともある。この本の中に出てくるように、彼の故郷も大きな傷跡を残した。その彼が、子どもたちや若い人たちに、なぜこの物語を読んで欲しいと思ったのか。この物語たちに登場する人たちは、「たいへんな労苦をはらって、平和の中での暮らしを再開」した人たちだ。現在の日本と中韓との関係を考えても、どんな時代に生きていても、私たちは戦争とは無関係ではいられない。また、戦争でなくても、いきなり厄災に巻き込まれることもあるし、理不尽な状況に陥ってしまうことだって多々ある。穴の中に落っこちてしまった人間には、「平和と安らぎ」は青空のように、あるのはわかっても手に入らない切ないものなのだ。「アルバとフランコ」の中で、男たちが冬のさなかに家にこもって、木の細工物を心満ち足りて作るシーンがある。苦しみの果てに取り戻した日常の中に漂う木の香りが、どんなに胸に優しく満ち足りたか。そして、故郷の山に生きる動物たちが、それぞれの人生に深く縫い止められながら、誇らしく自分の生をまっとうしていく姿に、どんなに愛情を感じているのか。多くは語られなくても、この物語たちには、喪失を体験した人の「平和と安らぎ」に対する深い思いが溢れている。「日本の読者へ 遠く、遠く離れたところに暮らす親愛なる友よ」とリゴーニ・ステルンが書いているように、ここには国や人種という壁を超える生き方が示されているのだと思う。動物たちは国境を持たない。ただ、故郷を持つのだ。リゴーニ・ステルンの描く故郷に愛情を抱くことの出来る若き読者は、心の中で彼と同郷になる。まだ見ぬ故郷を持つことができる、とも言える。その積み重ねが、もしかしたら―本当にわずかな望みであっても、次の世代の若者たちが、自分たちを超える繋がりを手にしてくれるかもしれないというかすかな、でも必死の希望をもって、彼は言葉を紡いだのではないかと思うのだ。

今読んでいる本の後書きで、管啓次郎さんが、こう述べている。「昨日に別れて、少しでもよい明日を作り出すために。きみは渡り鳥として飛ぶか。それとも小さな橋を作るのか。いずれにせよ、合い言葉は「渡り」となるだろう」(※)本屋さんではもう購入できないかもしれないけれど、図書館には所蔵しているところが多いと思う。まだ見ぬ北アルプスの静寂に住むノロジカや、クロライチョウや、ノウサギたち。言葉を持たぬ彼らの生き方に心を繋いでいく幸せを、どうか味わってみて欲しい。

※ミグラード 朗読劇『銀河鉄道の夜』 勁草書房

クラスメイツ 前期・後期 森絵都 偕成社

久々の森絵都さんのYA作品です。何と12年ぶりとか。そんなに経ってたのかと、びっくりしました。森さんのYA作品が大好きです。最近はすっかり成人の小説に移られて、もうYA作品はお書きにならないのかと、すっかり拗ねていました(笑)大人の小説もいいんですけど、こうしてYA作品を読むと、森さんにしか書けない世界がやっぱりあるんですよねえ。読みながら、やっぱり好きだなあと嬉しくなりました。

この物語は、1年A組24人全員を主人公にした短編が24篇という企画で、この試みは目新しくはないものの、森さんが書くと新しい風が吹き抜けます。学校というのは、同じ年齢の人間が一つの場所に集まる特殊な空間。その中で、全員のドラマを追うと、面白い反面、息が詰まるようなしんどさが生まれてしまったりします。(これは、私自身があまり学校という場所が得意ではなかったせいもあるのかもしれませんが。)でも、森さんの物語には、どんな物語にもその子だけの風が吹いていて、心地良い。『10代をひとくくりにする、ということの対極に森さんの作品がある』と、あさのあつこさんが以前言っておられましたが、まことに至言だと思います。一人の人間が、様々な距離から見た24の視線から浮かび上がってくる。自分でこうだと思う自分、他人から見た自分。その違いも含めて、24人を描いてますます「個」が際立つという、なんともニクイ構成になっているのです。一人一人の存在感が粒立っているからこそ、一人の人間が持つ多様性がプリズムのように輝いてお互いを照らし出す。そこがいい。この1年A組、とても居心地がよさそうなんですよね。読んでいて、自分の座る椅子も、このクラスの中にあるような気になってきます。その秘密は、担任の藤田先生にあると見ました。押しつけず、いい距離感で常に生徒を見守るしなやかな強さがあります。この「見守る」というのは、実は一番エネルギーのいることだと思うのです。ありとあらゆる機会を捕まえて、水泳部に生徒を勧誘する癖のある藤田先生には、その強さと同時に、人としての可愛げがあって、とても魅力的です。厚みを持つ「人」を書けるのが、森さんの魅力だとつくづく思います。

クラスカースト、LINE、いじめ、グローバル人材の育成・・・今の中学生たちは、マスコミからの情報や、流行のキーワードでとかく読み解こうとされがちです。(いや、これは中学生だけではないのかもしれませんけど)私の頭も、つい、そんな言葉に毒されそうになってしまう。でも、森さんの物語には、そんな薄っぺらさが吹き飛んでいく身体性があります。例えば、自分の子どもが、小学生であろうと、中学生であろうと、赤ん坊であろうと変わらない、たった一人の体温のある存在であるように。ひとり一人が確かに胸に刻まれていく実感がある。最近テレビをつけると流れてくる、首相と呼ばれる人が語る、薄っぺらで大きな物語は、ひたすらうそ寒く恐ろしいです。あれに負けない厚みのある、同時代に生きる「個」の物語を、私たち大人は子どもたちに語らねばならないと切実に思うのですが・・・。そんなことを、この楽しい物語を読みながらずっと考えていました。森さんには、やっぱりYAの世界に帰ってきて頂きたい。自分で物語を語れない私は、やはりそう願ってしまうのです。

2014年5月刊行
偕成社

 

 

わたしたちの島で アストリッド・リンドグレーン 尾崎義訳 岩波書店

本を読む楽しみの一つは、自分とは違ういろいろな価値観に出会えることだ。頭と心の風通しが良くなる。でも、もっと楽しいのは、まるで旧友と出会ったかのように、共感できる一冊に出会うこと。毛細血管に酸素がたっぷり供給されるように、隅々まで美しいと思える物語に出会えることは、かけがえのない幸せだ。岩波が少年文庫で復刊してくれたことが、とても嬉しい。
北欧の輝く夏。20人ほどが住むバルト海の小さな島、ウミガラス島に一組の家族が夏を過ごしにやってくる。詩人で子どもっぽいパパのメルケル、家族の母親代わりの長女マーリン、元気いっぱいの少年のユーハンとニクラス。そして、まだ幼い、大の動物好きのペッレ。この物語は、メルケルの個性豊かな子どもたちと、隣の家に住むチョルベンという女の子を中心に島の暮らしを描いた物語だ。まず舞台になる島の風景が素晴らしい。野バラと白サンザシが咲き誇る海岸と、そこに生えているかのような古いスニッケル荘。桟橋に朝日が昇り、夕陽が満ち、リンゴの大きな木があって・・・。こうして書いているだけでうっとりするような島は、まるで子どもの楽園だ。楽しい夏休みを描いた作品は、児童文学に数多くあるのだけれど、リンドグレーンの描く楽園は、精神性も備えた厚みを備えていて、大人も子どもも、彼女の世界に深く分け入っていくことが出来る。そこが、とても魅力なのだ。

まず、先ほど触れた素晴らしい島の自然に、子どもたちの日常が深く溶け込んでいること。
スニッケル荘の隣に住むテディとフレディという姉妹は、お母さんに「おまえたち、エラが生えてきてもいいの?」と言われるくらいの海の子で、ユーハンとクラウスと加えた四人は、冒険の夏を送っている。秘密の隠れ家、ボート遊び、釣り、イカダ作り。ギャングエイジの彼らは、神出鬼没なのであまり物語の中心にはいない。しかし、彼らがいつも黄金の夏を送っていることは、物語のそこかしこにきらめいていて、それこそ太陽のようにこの物語を照らしている。物語は、その妹のチョルベンと、メルケルの末っ子・ペッレを中心に中心に展開する。いつも大きなセントバーナードの「水夫さん」を従えて島中を歩くチョルベンは、生まれついての大物だ。「永遠に変わらない子どもの落ちつき、あたたかみ、かがやき」を持つチョルベンは、この島の王のように楽しく島中に君臨している。一方、ペッレは子どもの危うい感受性がいっぱいに詰まった子どもだ。ペッレは、いつも「どこかの人や、どこかのネコや、どこかの犬が」十分に幸せでないと心配しているような子で、すべてのことを不思議の連続だと思い、動物に限りない愛情を持っている。

この二人が動物をめぐる大騒動をいろいろと引き起こすのが読みどころなのだが、私が凄いなと思ったのはリンドグレーンが、この輝かしい物語の一番奥に、「死」というものをきちんと描いていることだ。まず、この家族には母親がいない。ペッレの出産のときに亡くなってしまった母のことを、この家族は誰も言葉にしない。それは、母の死が、この家族にとってまだ過去にはなっていないことを意味している。子どもたちにとって、そして、そそっかしくて夢見がちで、子どもたちよりも子どもっぽい父親のメルケルにとって、妻がどんな存在だったか。それは、語られないからこそ、この物語の奥から立ち上ってくる。彼らは実は、生々しい大きな不在を抱えてこの島にやってきたのだ。だからこそ、この島の美しさは彼らの心に染み渡り、幸せな記憶が刻まれた古い家は、彼らに安らぎを与える。ペッレの存在不安と思慮深さは、自分の命と引き替えに母がいなくなってしまったことと無関係ではないだろう。島は、ペッレにまた新しい命を与え、奪うことを繰り返す。彼は、その中で、幼いながらも真剣に考え抜いて、自分なりの最善を尽くそうとする。私はそこに、リンドグレーンの、幼い者への限りない愛情を感じるのだ。幼い心は、大人が思う以上に「死」について敏感だ。ペッレの感受性は、決して特別なものではなく、きっと全ての子どもたちの心の中に棲んでいる。リンドグレーンは、その奥深くに眠る不安と喜びに、魂と言い換えてもいいかもしれない深い場所に語りかける術を持っている。この物語は、実は、家族の再生の物語なのだ。だからこそ、母親代わりのマーリンは、この島で将来を共に生きる恋人を見つけることが出来るのだと思う。

私たちは自然の不条理と共に生きている。命は与えられ、美しく輝いて、必ず奪われる。まるで守護神のようにチョルベンの横にいる水夫さんだって、その危険から逃れることができない。(この水夫さんの危機は、本当にはらはらした)でも、私たちは人間だから、心を持っているから、奪われるものを奪われるままに失うことはないのだということ。生きることが、こんなにも光に満ちて輝いているということ、まさに「この世は生きるに値する」ということを、この物語は教えてくれる。夏の日に何度も何度も読み返すのに相応しい一冊だ。この作品を原作にした映画が、この夏に日本で公開されるらしい。絶対に見に行こう!

戦場のオレンジ エリザベス・レアード 石谷尚子訳 評論社

内線が激しくなったベイルートの町を、ひとりの少女が駆け抜けようとします。自分のいる場所から、闘いの激しい中心地を抜け、相手側に飛び込むという命をかけた旅。10歳の女の子が、町を分断するグリーンラインを命がけで超えて見たものは何なのか。少女が感じた「戦争」が、息詰まるような臨場感で迫ってくる作品です。

でも、主人公の少女アイーシャは、例えばナウシカのように特別に強い女の子でも何でもありません。彼女は、出稼ぎにいった父親が帰らぬうちに内戦の爆撃で母が死に、祖母と兄弟と、命からがら避難先で共同生活を送っています。弟の面倒も見ているけれど、10歳の女の子らしく、自分のことだけでいっぱいいっぱいな毎日。用事を言いつけられてふくれたりするアイーシャを、作者はとても身近な存在として描いています。中東、アラブ諸国に生きる人々に対して、私も含めて日本人は遠い距離感で感じていることが多いのではないでしょうか。イスラム、テロ、戦争―マスコミで伝えられるそんなイメージばかりが先行すると、そこに生きる人たちの顔が見えなくなってしまう。でも、そこには私たちと変わらぬ人間の暮らしがあり、家族が、子どもたちがいるのです。物語は、ひとりの人間の心に飛び込むことで、そんな先入観の壁を超えることができる。この物語も、そうです。あなたと、私と、どこも変わらぬ普通の少女が、なぜ危険地帯に行かねばならなかったのか。唯一自分たちの暮らしを支えてくれているおばあちゃんの具合が急に悪くなったのです。彼女に残された道は、たった一つ。戦闘地帯のグリーンラインを超えて、おばあちゃんの持病の薬を貰いにいくことだけなのです。

アイーシャを突き動かしているのは、「不安」です。戦争のさなか、もし母さんだけではなく、おばあちゃんまでもが死んで、自分たちだけ取り残されてしまったら。当たり前にいてくれると思う人がいなくなる、その恐怖は、アイーシャが身近な存在であるからこそ、余計に読み手の心に食い入ります。だからこそ、彼女が必死の思いで飛び込むグリーンラインの緊張感が、ダイレクトに伝わってくるのです。戦争という有無を言わさぬ暴力の気配が充満する中を走る恐ろしさ。でも、私が何より怖かったのは、そのグリーンラインを超えた一歩先の向こうには、またごく普通の人々の暮らしがあることでした。戦闘と日常が、こんなにも背中合わせだということ。これは、日本という島国から出たことのない私にとっては、やはり虚を突かれることなのです。内線は、一つの国を二分します。目指すお医者さんの家がわからなくて泣いているアイーシャを、ひとりの少年が助けてくれ、オレンジをくれる。その美味しさは、誰が食べても変わらないのに、なぜか人は敵と味方に分かれて殺し合う。戦争に大人の事情は、嫌と言うほどあるでしょう。青臭い物言いをするなと言われそうですが、この根本的な問いをまっすぐ投げかけられるのが、児童書の素晴らしいところだと、私は思っています。戦闘が始まった市場の中を、少年の店のオレンジが転がっていくシーンが忘れられません。殺戮の中で無防備な人間の命のようでもあり、踏みにじられる暖かい心の象徴のようでもあります。

アイーシャは子どもだから(いや、大人もそうかもしれないけれど)敵味方を単純に信じています。敵は悪い人で、味方はいい人。でも、「とってもいい兵隊さん」は、帰ってきたアイーシャに、敵の兵隊と同じ眼をして銃を突きつけます。そして、敵側にいるライラ先生は、アイーシャにおばあちゃんを助けるお薬をくれたし、アブー・バシールは、危険を冒して彼女を助けてくれた。アイーシャは敵も味方も超えた、何人かの善意で危険地帯を行って、帰ってくることができたのです。では、なぜ、その人間が殺し合うのか。その不条理が、アイーシャの眼差しの中から鮮やかに浮かび上がります。戦争がテーマですが、スリリングな展開にのめり込んでいるうちに、アイーシャの気持ちに、素直に寄り添っていくことが出来る。読後、子どもたちの心の中には、アイーシャが助かって良かったと思う気持ちと共に、たくさんのやり切れなさが残るでしょう。そのやり切れなさを、いつまでも覚えていて欲しい。「大人になっても、人をにくんじゃだめよ」というライラ先生の言葉を、アイーシャが敵側の少年から貰って食べた、オレンジの暖かい味と一緒に覚えていて欲しいと思います。そして、私のようにまっすぐな問いかけを忘れてしまいそうな大人は、せっせと児童書を読むことにしたいとおもいます。

2014年4月刊行
評論社