おばあちゃんのにわ ジョーダン・スコット文 シドニー・スミス絵 原田勝訳 偕成社

昨年刊行された『ぼくは川のように話す』のコンビによる絵本。私はシドニー・スミスの絵がとても好きだ。『このまちのどこかに』(せなあいこ訳 評論社)の冬の都会の風景も忘れがたいし、『ぼくは川のように話す』の、川面のきらめく光にもとても心惹かれた。この『おばあちゃんのにわ』の表紙も、とてもいい。おばあちゃんとぼくのまわりを、うっすらと取り巻く光。まるで二人を祝福するかのようだ。シドニー・スミスの描く光には、時間と季節の表情がある。二人が朝食をとるシーンの朝の光。庭を歩く夕方の光。雨の日にガラス窓から射す淡い光。それが見事に心を映し、響いてくる。

作者であるジョーダン・スコットのおばあちゃんは、ポーランドからカナダに移民としてやってきた人だ。第二次世界大戦中は家族とともに、非常な苦労を味わったとのこと。第二次世界大戦は、ナチスドイツがポーランドに侵攻したとことを皮切りにはじまった。ユダヤ人に対する弾圧も、最も激しかった。有名なトレブリンカの収容所も、アウシュヴィッツの収容所もポーランドにある。ポーランドの総人口の五分の一が大戦中に亡くなっていて、大戦後はソ連の鉄のカーテンの向こうに組み込まれた。今、ロシアと戦争中のウクライナとは隣同士だ。『炎628』や『異端の鳥』という映画を見ると、当時の東欧がさらされていた暴力の恐ろしさの一端が垣間見える。垣間見えるだけで、本当のところはとてもわからない。いろんな当時の記録を何冊読んでもわからないことだらけだ。占領、飢餓、告発、逮捕、連行、病気。このおばあちゃんは、そんな苦難をかいくぐり、故郷から離れ、今は孫と一緒に、穏やかな光に包まれて歩いている。表紙のおばあちゃんの背中は、その幸せなひと時の重みを語っている。

元ニワトリ小屋だったというおばあちゃんの家が、とてもいい。朝の光に照らされて、猫がいて、いろんな果物や野菜がつるされたり、積まれたりしている。ビーツは、おばあちゃんの故郷の味だろうか。ぼくが食べ物をこぼすと、おばあちゃんはさっと拾い上げて、キスをしておわんに戻す。おばあちゃんの中にはたくさんの記憶が息づいているのだろう。言葉の壁があっても、いや、うまく言葉にできないことが、毎日の積み重ねのなかで「ぼく」に伝わっている。この穏やかさが、静かに満ちる安らぎが、実はとても尊く、得難いものであることが、繰り返して読むうちに伝わってきて、心がしんとする。過去と未来と今が、すべてこの一冊のなかで憩っているようだ。手元において、何度も開きたい絵本だ。

 

 

 

『へそまがりの魔女』 安東みきえ文 牧野千穂絵 アリス館

牧野千穂さんの絵と、安東みきえさんのテキストがお互いの良さを引き立て合って、おしゃれで、小さな宝箱のような一冊になっている。牧野さんの赤の使い方が、なんとも心憎くて、洗練されている。絵を眺めているだけで一日過ごせる。魔女が王子に呪いをかける、というおとぎ話の定型をうまく反転させて、どこか不穏な、それでいて心温まるファンタジーに仕上げている。一抹の不穏さと温かさが同居しているのがとても素敵だ

へそまがりの、年老いた魔女のところに、ある日少女が迷い込んでくる。身寄りのない少女は、魔女の家で骨身を惜しまず働くのだが、魔女はいつもそっけない。しかし、実は魔女は、誰かを愛して裏切られることに傷ついてしまっただけで、実は、帰りが遅くなった娘を心配して何も手につかなくなってしまうほど娘を愛しているのだ。大切なものができてしまうと、失うのが怖くなる。その怖さはよくわかる。

いいかい。良いことの裏には悪いこともくっついてくる。ふたつはうらおもてにできているんだ。良いことばかりを手にするわけにはいかないんだよ。」

この言葉を心に刻んでおくと、息をするのが少し楽になるかもしれない。祈りと呪いも裏表。呪いを祝福に変えるラストが嬉しい。

 

 

かぜがつよいひ 昼田弥子作 シゲリカツヒコ絵 くもん出版

大迫力。これは、子どもと一緒に読むと、ほんとに楽しいと思う。

風がびゅうびゅう吹く日に、家でお留守番しているお姉ちゃんと弟が、しりとりを始める。すると、窓の外を、しりとりの言葉で言ったものたちが、どんどん飛んでいく。おうむ、むしめがね、ねこ、こま・・・まじょ!!窓の外に飛び交うものは、どんどんシュールさを増していく。しりとり、っていうものは段々、脱線していくのを楽しむもの。そして、脱線していくとともに、窓の外も物凄いことになっていく。突き抜ける。気持ちいい!

どこまでいくの?というくらい、宇宙の果てまで飛躍したあとの、回収の仕方というか、日常への回復の仕方も面白い。

ナンセンス、というのは滅茶苦茶をやったからと言って手に入るものではない。「しりとり」という言葉の縛りが圧力を生み、絵の力で突き抜けていくのが、楽しくてわくわくする。個人的に「ずるいいるか」と「ろっぴきのまぐろ」がたまらなく好きだ。読み聞かせにもとての良いのではと思う一冊。

 

ぼくって、ステキ? ファン・インチャン文 イ・ミョンエ絵 おおたけきよみ訳 光村教育図書

授業中に、ふと隣の席の女の子が、ぼくを見て「すてき・・・・・・」と言った。

もしかして、ぼくのことを「すてき」って言ったのかな?と思ってから、いがぐり坊主の「ぼく」の日常がきらきらする。瞳だってきらきらしてしまうし、ご飯だっておいしいし、なんだかそのことばっかり考えてしまう。「すてき」ってどういうことなんだろう、ってずっと考える。でも、次の日学校にいった「ぼく」は、彼女が何を見て「すてき」と言ったのかわかってしまう。

この、勘違いしてしまったときの恥ずかしさというか、やっちまった感とか、いい気になっていた自分が恥ずかしい気持ちとか、わかりすぎるくらいにわかる。少年よ、落ち込むことはないんだよ、誰だって一度や二度、いや、何度もその穴に落っこちるものなのだ。いい歳をした大人になってもそうだし、大人だって、その穴に落っこちたときは、なかなか這い上がれないものなんだよ。うん。

それでもこの絵本を読んだあと、優しい気持ちになれるのは、「すてき」という言葉の魔法が、ポジティブに描かれているからだろう。この本のなかで「すてき」と言われているのは、一面にはなびらが散り頻る満開の桜の木。自分の思い込みが恥ずかしくて悲しくなってしまった「ぼく」の心は、「すてき」な桜になぐさめられる。ああ、「すてき」ってこういうことなんだなあと心に刻むのだ。花の命があふれて、皆を幸せにしてしまう。その不思議。すてきなものを見て幸せを感じたり、慰められる人の心のあり方が、愛しいなと思う。さくらのピンクにふんわりと包み込まれるような、優しい絵本だ。

 

リジーと雲 テリー・ファン&エリック・ファン作 増子久美訳 化学同人

淡い黄色とセピア色を基調にした配色がとても美しい絵本。

リジーは、公園の「雲うり」から、小さな雲を買ってもらって「ミロ」と名付けます。リジーは、ミロを大切にお世話します。どこに行くにも一緒です。でも、ミロはだんだん大きくなって、リジーの手にはおえなくなってしまいます。大きくなりすぎた雲は、お部屋に閉じ込めていてはいけないのです。悲しいけれどお別れしなくてはなりません。

子どものときに持っていたもの。名前をつけて慈しんでいたもの。大人になっていくどこかで、別れのときがやってきたりするのだけれども、それは消えてしまうわけではなくて。いつもミロのように、眼差しのどこかに宿っているし、なぜか年をとればとるほど、色鮮やかによみがえってくるように思う。だから、この本自体が、懐かしい記憶のように思えて、何度も頁をめくって細かいところを眺める。カーテンの揺らめきも、雨上がりの空気の匂いも、子どものときのあこがれも、細部まで心のこもった絵のなかにやさしく閉じ込められているようで、うれしくなる。この季節に何度もめくりたい。