[映画]ヒトラーの忘れもの LAND OF MINE マーチン・サントフリート監督

地雷という兵器には、人間の悪意がこってりと詰まっている。その悪意を、まだ幼顔の残る少年たちが一つ一つ掘り出していくのを見ていると、体中が緊張してこわばってくる。恐ろしい予感と一緒に、ドカン、という爆発音が心の奥まで突き刺さる。戦争での死を美しいなどという政治家は、絶対にこの映画を、憎しみに吹き飛ばされる少年たちを見るべきだと思う。

第二次世界大戦が終結したとき、デンマークの浜辺には150万発の地雷が埋められていた。その撤去に当たったのは、ドイツ軍の少年兵たち。手作業で一つ一つ地雷を掘り出す作業で半数近くが死亡するか重傷を負ったという。この映画は、美しい浜辺に埋められた地雷を撤去するために集められた少年たちと、彼らを監督する軍曹の物語だ。映画の冒頭は、その軍曹が自国に引き上げるドイツ兵をめちゃくちゃに殴り倒すシーンから始まる。「帰れ!ここは俺たちの国だ!さっさと出ていけ!早く!走れ!」とわめきたてる彼の顔は憎しみで真っ黒に凝り固まっている。しかし、目の前で、あどけない顔で地雷を掘り出し、手足を吹き飛ばされ、死んでいく少年たちを見ながら、少しずつ彼の顔が変わっていくのだ。一人一人と顔をあわせ、言葉を交わし、食料を調達し、面倒を見ているうちに、鬼の顔に少しずつ人間としての顔が混じってくる。手足を吹き飛ばされて「お母さん」と泣き叫ぶ少年は、「にっくきドイツ人」ではない、ただの傷ついたひとりの人間でしかないのだ。ひとりの人間の前に、ただ人間として向き合えば、そこにはどうしても通い合うものが生まれてくる。そのかけがえのなさを、この果てしない絶望の中に描いたことに、心打たれた。

つかの間、海で泳ぎ、ボール遊びに興じる彼らは、本当にどこにでもいるティーンエイジャーだ。その彼らが誰かの命を奪う少年兵として戦地に駆り出されてしまったこと。そして、誰かの命を奪うために埋めた地雷で吹き飛ばされていくこと。その残酷さが、美しい海の風景の中にくっきりと浮かび上がる。今日死ぬか、明日死ぬか、という日々の中でも、少年たちは小さな虫やネズミを捕まえて名前をつけ、愛情を傾けようとする。その切なさと、自分の犬を失って嘆き悲しむ軍曹の姿が、年齢も国の違いも超えて重なり合う。

最後に森の中に消えていく少年たちを見送る軍曹の眼差しに救いを感じたけれど、あの国境の森は、いろんなことを思い起こさせる。『サウルの息子』で、蜂起したユダヤ人たちが殺されていった森。クロード・ランズマンの『ショアー』に証言されている、恐ろしい殺戮が行われていた森。戦争は、憎しみはいつも弱いものを一番先に踏みつぶしていく。あの子たちは、無事に国境を、恐ろしい森を越えたのだろうか。人間と人間を引き裂く「国」とは何なのだろう。この映画の原題である「LAND OF MINE」と人が言うとき、少年たちと軍曹の間に生まれたような心は置き去りになってしまうのではないだろうかと思うのだ。そう考えたとき、『ヒトラーの忘れもの』というこの映画の邦題は、どうなんだろう。この厳しくも美しい映画のタイトルとして相応しいものなのかどうかと考えてしまう。焦点を曖昧にして、口当たりよくしておこうという日本的配慮は、この真摯な作品に対しても、観客にも失礼なことだ。少年を戦争に、殺戮に駆り出すことは、今も世界中で行われている。そして、地雷は今も子どもたちを吹き飛ばして殺している。ヒトラーだけの忘れ物ではない。すべての大人たちが忘れてはならないことなのだ。

 

車夫2 いとうみく 小峰書店

浅草を舞台に、人力車を引いている「吉瀬走」という少年を軸にした連作短編の二作目。「力車屋」の男たちや、そこにやってくる客の視点で一話が描かれる。走は両親の蒸発、という事情があって一人で力車屋にやってきた。他の男たちも、何かありそうなんだが、一作目ではあまりわからずにいた。この「わからない」というのもミステリアスでいいのだが、この二作目では少しずつ彼らの事情がわかっていくのに、ときめいてしまう。いきなり間合いをつめるのではなくて、この連作のように、人とも小説ともゆっくり知り合うのが好きだ。そして、二作目まできて、前作にぼんやりと感じていたことが、ますますくっきりしてきた。それは、この物語が、去るものと去られるものが複雑に交差する物語だということだ。

それを象徴するのが、冒頭の「つなぐもの」だ。この物語は、走という少年が母に置き去りにされてしまうところから始まる。いつも、そこにあると思っていた日常。部活をして、ご飯が用意されていて、進学すると思っていた場所から遠く離れてしまった彼が見つけた居場所が、力車屋だ。しかし、この「つなぐもの」は、走に置き去りにされてしまった部活の仲間の少年遠間直也の視点から描かれている物語だ。走は、自分が去ったことが、これほど仲間たちの心に影を落としていることには気づいていないのだろう。この人間の立体感を短編連作という形で見せてくれるのが、この物語の面白いところだ。人は、案外自分が人にどんな波紋を投げかけているのか、知らぬまま生きている。

「ストーカーはお断りします」「幸せのかっぱ」「願いごと」「やっかいな人」「ハッピーバースディ」と、その他に五つの短編が収められていて、走や力車屋の人たちのところに様々な人たちがやってくる。走たちも彼らも、大切な人や、当たり前にそこにあると思っていた場所を失ったり、無くしかけている人たちだ。しかし、つかの間、走たちの車に乗り、いつもと違う場所から自分を眺めて、笑顔を一つ抱えて帰っていく。その笑顔がまた、走たちの心を動かしていく。そのダイナムズムをとらえる作者の目は鋭くて優しい。人はそれぞれの人生を、それぞれの速度で駆け抜けていく。親子や夫婦でも、全く同じ歩調で歩く、などということはできないし、いつも何かを置き去りにしたり、失ったり、ぐるぐる堂々巡りしたりしながら生きている。この力車屋に集まっている面々の顔ぶれも、心のありようも、数年後には変わってしまっているのだろう。この物語の底に流れている切なさは、かけがえのない「今」が鮮やかに刻印されているせいではないだろうか。

最後の「ハッピーバースディ」で、走は自分を捨てた母から自分の意思で旅立っていく。縁も人との関係も、失ったものも、またそこから初めて自分で掴んでいけばいい。このシンプルな願いにたどり着くまでの走の心の軌跡が、人力車の轍のように鮮やかに胸に残って切なく、後悔だらけの人の生が愛しくなる。「やっかいな人」で、1の冒頭に出てきたミュールの女の子が出てきてしまったから、「車夫」はもうこれで終わりなんだろうか。「3」が読みたいなと、もう思っているのだけれど。

あと、これは余談だが、前作からずっと高校生という年齢の子たちのセーフティネットについて気になっている。走の場合は事業に失敗した父親がまず蒸発し、生活に行き詰まった母親も走を置いていなくなった。私学に通う走は学費も払えなくなり、家賃も生活費もなく一気に行き場を無くして途方に暮れてしまう。走は、先輩の前平くんが力車屋に連れてきてくれたから良かったものの、いろんな理由で親を頼れなくなる高校生は、きっととても多いのではないかと思うのだ。人と人との繋がりが薄くなり、自己責任という冷たい言葉が大きな顔をしている今、相談したり、頼ったりできる大人が身近にいる子は少ないだろう。そして、見た目は大人に近い高校生の子たちを食い物にしようとする闇は、あちこちにぽっかりと口を開けているはず。彼らの困難を捨て置いて、いいはずがない。いとうさんのこの作品はそういう社会に対する一つの問いかけでもあると思う。