21世紀美術館「トーマスルフ展」と日常からの距離について

二泊三日で金沢と能登に関東に住む友人と遊びに行っていた。学生時代からのつきあいである彼女とは、遠くにいてもなぜか感覚がシンクロしていることが多いので、時間を気にせずゆっくり話すことが出来るのは無条件に嬉しい。そして写真家である友人は、私と違う眼差しで美しいものを見つけていくので、兼六園や町中を散策しながらそれを横で見ているのも楽しいのだ。

旅に出かける楽しみは、違う土地が育んでいる人間の暮らしを感じることなのだと思うのだが、その面白さを強く感じたのは能登半島だ。観光バスのテープがやたらに面白い。能登にもアイヌの人々が住んでいたことを教えてくれて感心していると、いきなりUFOを押してくる。驚いたのは「モーゼの墓」だ。日本がまだ古事記の神々の時代に、モーゼが船で石川にやってきて583歳という寿命を全うして、そこに葬られたらしい。らしい、と書いていいのかどうか危ぶまれるくらいの伝説だが、西田幾多郎や鈴木大拙という哲学者を生んだ風土の発想力は侮れないね、というのが友人と私の一致した意見だった。なぜ、旧約聖書の中からモーゼを連れてきたのだろう。時間と空間の距離を超えた要素はなんだったのだろう。冬の長い場所は空想力が豊かになるというが、それにしても面白い。

今回の旅のメインは三日目の21世紀美術館。前知識を何も持たずに入った「トーマス・ルフ展」がとても良かった。いかにもドイツ!というかっちりした構図の私的な部屋の写真から始まるのだが、きっちりした写真を撮る姿勢と意欲はそのままに、次々と実験的な手法にトライしていくのが面白い。巨大なサイズに引き延ばされたポートレイト。モンタージュ写真を撮影する器械を使って撮影した四枚の写真を、他の人の写真と重ねあわせた肖像写真。どこかにいそうで、実は存在していない顔たちは、どこか虚ろな気持ち悪さでこちらを見つめてきて、その顔のどこを見つめていいのかわからない。デジタルの四角い粒子を引き延ばしたような巨大な写真には、9.11の光景が撮されているらしい。遠く離れて見るとそれらしいのだが、近くに寄るとただの四角の羅列だ。どこに立ってみても、もどかしく、手が届かない。デュッセルドルフの町を、特殊な暗視装置で撮した写真は、最新兵器が狙う標的のようだ。そこにあるはずの人の暮らしは、標的に阻まれて見えない。 最初に並んでいた、自分の暮らす部屋を撮影した写真からは、丁寧に手入れされた家具やシーツと彼が親密な空気で結ばれているのを感じた。その距離感から離れたとき、もしくは日常に絶え間なく流れ込む情報に自分をさらしたときの居心地の悪さや空しさ。9.11や大震災のような巨大な出来事に向かい合う目線のあり方や、「自分」との距離感の掴めなさを、トーマス・ルフの写真から強く感じた。

21世紀美術館はSANAAの設計で、様々な大きさの展示室が、中庭と回廊のまわりにぐるりと作られている。一つの部屋を出るたびに、冬の変わりやすい空は光の回廊を違う色で染めていく。ぐるぐるとあちこちの部屋を巡るうちに、トーマス・ルフが投げかけるものが、私たちのアンテナに触れて、目に見えない糸を紡ぎ出す。雨の幕の上を覗くと、そこでは金属で出来た一人の男が、空を見上げて雲を測っていた。最後にブルー・プラネット・スカイというジェームズ・タレルの部屋にいった。部屋は石造りの正方形で、天井も四角く切り取られている。私たち以外誰もいない部屋は振り込む雨音に満ちて、遠くから鳥の声が聞こえた。雨だれも四角く切り取られて落ちてくる。フレームの中の空が、様々な色に変わるのを、私たちはしばらく眺めていた。日頃から空が好きで暇さえあれば眺めているが、切り取られていることで、空の繊細な表情がより鮮明に目に映る。何もない、ということにとても満たされる空間だ。空や、雲や、星とは距離感に悩むことなど何もない。ただ、あるがままに受け取り、自分もそれに身を任せることができる。トーマス・ルフが恐ろしいまでの情熱で切り取っている星の写真には、人間が写っている作品とは全く違う親密な幸福感があった。「距離」はやはり心の中にある。

最終日は21世紀美術館だけで満足しきって、昼食もとらぬまま、たくさんの土産物を駅で買って、友人と別れ一人サンダーバードに乗った。ほとんどネットも見ず過ごしていたので、ふとツイッターを開けて覗いてみた。すると、目に飛び込んできたのはアレッポで虐殺されていく人々の写真と声だった。私は呆然とした。旅というちょっとした非日常を楽しんでいる自分と、今、虐殺されるかもしれないという極限の非日常を生きている人々。いや、彼らはもう死んでいるのかもしれない。ただ、その声や顔がツイッターというネット空間の中に浮かんでいるだけなのかもしれないのだ。日の落ちたサンダーバードの車内で、私は呆然とし続けるしかなかった。この距離感をどうすればいいのか、全くわからない。わからないのだが、このわからなさを、文学というものを手がかりにして、一つ一つたどっていくしかないのだと、あれから数日たって思っている。21世紀美術館の上にずっと立っている、測れない距離を、必死で伸び上がって測ろうとする男のように。