図書館のトリセツ 福本友美子 江口絵理 絵スギヤマカナヨ 講談社

子ども向けに、図書館をどう使うか、どう図書館と仲良くなるかを書いた本なのだけれど、これがとってもわかりやすくて、伝えるべきことをしっかり踏まえている内容になっています。図書館で働いてる私でさえもなるほど~、と思うくらいです。大人の方が読んでも、きっと目からウロコのところがあるはず。

この本には、図書館で出来ることがたくさん書いてあります。本を読む、借りる、本で調べる。もちろんそれが基本なのですが、私が一番いいな、と思ったのは「図書館では、なにかをしなければいけない、ということは1つもないのです。こんな自由な場所は、ほかにそうそうありません」という言葉。そう、その通りなんですよねえ。本はたくさんあるけれど、別に読まなくたってかまわない。反対に、どれだけ読んでもかまわない。誰にもなんにも強制されません。この本にも書かれていますが、様々なジャンルの本を、なるべく偏りのないように収集する。この本が読みたいとリクエストされれば、その希望を叶えるべくあちこちに問い合わせて提供します。そう、図書館は「自由」が基本なのです。そのために、図書館は資料収集の自由と、提供の自由を宣言しているんです。(「図書館の自由に関する宣言」を、リンクしておきます。私は時々、この宣言を読むことにしています。何かこうね、ぎゅっと身が引き締まる思いがします。 )その自由を、最大限に活用して貰いたいなあと思うんですよ。なぜなら、この自由は活用して、使い倒すことで、もっと活性化して広がっていくと思うから。

だいたいの図書館は地方自治体が運営している「市民の図書館」なのですが、こんな風に公共図書館が出来るまでには、先人たちの努力と闘いがあったのです。それこそ女性や子どもに貸し出しをするようになったのも、そんなに昔のことではありません。はじめから当然のようにあるものではないからこそ、どんどん使って、実績を作って、この社会になくてはならぬものとして根付いて欲しいのです。日本では、そこがまだまだだと思うんですよねえ。「これだけネットがあるんだから、何も本でなくても」という声もあるでしょうが、やはり一冊の本が持つ情報量の多さと確かさは、ネットで検索して見る頁とは格段に違います。客観性も違います。この本にも「なぜ本でさがすかというと、たいていの本は専門家が書いていますし、出版される前に何人もの人が、正しいかどうかを確認しているからです」とあるように、ネットで個人的に書いているものと、出版されるものとはその責任の取り方が根本的に違います。ネットは匿名が基本ですもんね。

そして、図書館のいいところは、同じテーマの本が何種類も揃っていること。調べたことを鵜呑みにしないで、別の角度からも見ることができる。この本には、そこもちゃんと書いてあります。「1冊見て終わりではなく、2冊以上の本を使って確認しよう」その通り。活字で書かれているからと言ってそれを鵜呑みにしない、というのも大切なことです。いろいろ調べて同じテーマで違うことが書いてあったら、それは自分で考えてみる余地があるビッグチャンスですもんね!それだけで自由研究ができちゃう。卒論もできちゃうかもしれない。「なぜだろう」と思って自分で調べて、自分の頭で考えて「これだ!」という解答を手に入れることって、ほんとに楽しい。解答を得られなくても、これまたずっと考え続けるという楽しみが生まれます。また、答えは一つでなくてもいいかもしれない。答えは無いのかもしれない。でも、なぜだろうと思って考えることが、人間に与えられた一番の楽しみであると私は思います。そして、もちろん、何にも考えないために図書館に来るのも、いいですよねえ。いろんなことに疲れて、家や学校から離れたいとき。一人でいるのも寂しいけれど、誰とも話したくないとき。人間関係に疲れて、生きていくのがめんどくさいよな、と思うとき。図書館にきて、ぼーっとして、綺麗な写真集や、美しい絵画を眺めたり。漫画を読んでみたり。居眠りしたりするだけでも、ほっと出来るかもしれない。誰に気を遣う必要もないのが、また、図書館のいいところです。安心してひとりになれる。そして、本ほどひとりになった人間の味方をしてくれるものはありません。

「学校は何年かたつと卒業しなければなりませんが、図書館に卒業はありません。何歳になっても行けます。もし図書館があなたのお気に入りの場所になったら、一生ずっと遣い続けることができますよ」

いいこと言うなあ。私もきっと一生図書館には通い続けるでしょうねえ。他にもいっぱいしびれる名言がたくさんあって、この本付箋だらけになってしまいました。「私は図書館のことよく知ってるから」と思う方にもおすすめです。そうそう~~!と嬉しくなって、明日図書館に行きたくなること、請け合いです。

2013年10月刊行

講談社

てつぞうはね ミロコマチコ ブロンズ新社

てつぞうは、ミロコマチコさんが一緒に暮らしていた猫さんだ。もっとも、猫飼いの勘で、白いおっきな猫がはみださんばかりの表紙を見ただけで、「あ、この子はミロコマチコさんの猫だな」とわかってしまったけれど。『おおかみがとぶひ』の動物たちは、とってもアートだったけれど、このてつぞうは「あにゃにゃ」と話しかけてきそうなほど心の近くまで寄ってくる。賢くて気むずかしくて、わがままで甘えたのてつぞう。うちのぴいすけも、歯磨きのスースーする匂いが大好きで、私が歯を磨いているとやたらに寄ってくるんだけど。しかも、猫ぎらいで、人を選ぶところも、一緒なんだけど。桜の花びら追いかけてるし。可愛いなあ。てつぞうがめっちゃ好きになってまうやん。やだなあ。困ったなあ。だって、いやな予感がするんだよね・・・と思っていたら、やっぱりてつぞうは、見開きの画面の中で、虹の橋を渡って逝ってしまった。

でも、ミロコさんのところには、今、ソトとボウという二匹の猫さんたちがいて、彼らはてつぞうのお皿でご飯を食べて、てつぞうの使っていたトイレでおしっこもうんちもする。彼らは捨てられていたのを、ミロコさんの知り合いが拾って、てつぞうのあとにミロコさんのところにやってきた。生まれて死んでいくサイクルが、猫は私たちよりも短くて、どうしても先に逝ってしまう。それがわかっているから、目の前にいても、いつも心のどこかに、失うことを怖れる気持ちが揺れているのだけれど。ミロコさんが描かずにいられなかったてつぞうの絵は、生きている喜びがひたすらにいっぱいで、ミロコさんを愛して、ミロコさんに愛されて一生を送ったことがまっすぐ伝わってくる。彼はとても誇り高く自分の命をまっとうして逝った。これを幸せと言わずしてなんとしよう。

ミロコさんは、てつぞうというかけがえのない自分の猫を描いているのだけれど、自分のためにこの絵本を描いていない。命の大きな流れの中に、視点を置き直している距離感が、この絵本を見事な作品にしていると思う。命は絵本の大きなテーマの一つだ。生まれて初めて「死」に向かい合う瞬間が、幼い頃に必ず誰にもやってくるから。てつぞうの命が、ミロコさんの絵の中で生き生きと飛び跳ね、また次の子たちの命と響き合っているようなこの絵本は、言葉を尽くさなくても子どもたちに大切なことを教えてくれるような気がする。

2013年9月刊行

ブロンズ新社

あいしてくれて、ありがとう 越水利江子作 よしざわけいこ絵 岩崎書店

私の父親はとても心配性だった。少しでもとがったもの、例えばハサミや毛糸の編み棒なども、妹や私が怪我をしてはいけないと、すぐにどこかにしまい込んでしまう。建て売りの古い家の窓から冷たい風が入ってくるのを気にして、私の部屋の窓をきっちりテープで封鎖してしまったこともあった。もう、ちょっと、やめてよー、息苦しいやん、と若い私は思っていたものだ。この物語を読んでいると、あんな風に何の見返りもなく、ただ愛してくれた人がいなくなってしまったということが、表紙の風船のようにぽっかりと浮かんでくる。とても寂しいけれど、その風船を手に持ってしばらく眺めていたくなる。

この物語は、急にいなくなってしまった、大好きなおじいちゃんへの手紙だ。バイクでタイフーンのようにやってくるカッコいいおじいちゃん。どうやら何かの事情で、自分だけで子どもを育てている娘と、孫のことが気になって気になって仕方なかったおじいちゃん。口うるさいけれど、女親とは違うやり方で包んでくれるおじいちゃんは特別の存在だ。別におじいちゃんが何か役に立つことをしてくれるからじゃない。何かいい物を持ってきてくれるからでもない。ただ、「お母さんのおにぎりと、おじいちゃんのおにぎりと、どっちがうまい?」なんて聞いたりする、おとなげないおじいちゃんは、「僕」が今ここにいることを、とてもかけがえなく思っていたのだと思う。そのことを、抑えた言葉数で見事に伝えてしまう利江子先生の筆力は、さすがだ。

年を取ればとるほど、悲しいことも、辛いこともたくさん見てしまう。ヘンな話、親子だからといって愛し合えるとも限らないし、また愛し合っていても、会いたい時に会えるとも限らない。だからこそ、きっと、このおじいちゃんは、僕たちにいつも「ここにこうして、いてくれて、愛させてくれて、ほんまにありがとう」と思っていた人なのだ。その「ありがとう」は、お母さんの、お姉ちゃんの、そして僕が今ここにいることへの限りない寿ぎだった。だから、「あいしてくれてありがとう」という僕たちの感謝は、おじいちゃんの「愛させてくれてありがとう」という感謝と背中合わせなんだろうと思う。この物語には、その背中合わせの「ありがとう」の暖かさが溢れている。この物語を読む子どもたちは、ふと顔をあげて、自分を愛してくれる人を改めて見つめたくなるんじゃないだろうか。それは、自分が今生きているということを、とても大切に思える瞬間のはずだ。

心配性だった私の父は平均寿命よりもだいぶ早く、この物語のおじいちゃんと同じように、肺が原因であっという間にいなくなってしまった。だから、やっぱりこの物語のお母さんのように「ごめんね」と思うことが今でもある。でも、猫を溺愛している長男に、最近父と同じような心配性ぶりをみつけることがあって、可笑しくて一人で笑ってしまうことがあるのだ。ああ、そういうことなんやなあと、この物語で僕がおじいちゃんから受け取った愛情を感じて、納得してしまった。この年齢で父の娘である自分を思い出すというサプライズももらえて、とても嬉しかった。そして、この物語のような距離感が自分と息子の間に生まれるのだとしたら(生まれるのだかどうだかわからないけれど)、死ぬのもちょっと悪くないとも思う。大人の疲れた心にも効く一冊です。

2013年9月刊行

岩崎書店

12種類の氷 エレン・ブライアン・オベッド文 バーバラ・マクリントック絵 福本友美子訳 ほるぷ出版

もうすぐソチオリンピックがありますね。「がんばれ!日本!」みたいな応援の仕方はあんまり好きじゃないのですが、フィギュアスケート好きとしては、今度の五輪は見逃せないでしょう。テレビで放映される大会は全部見ているので、外国の選手にも好きな方がたくさんいるんですが、一番好きなのは、やっぱり大ちゃんこと高橋大輔選手。彼の最後のオリンピックですから。年末の代表選考はやきもきしました。彼はアスリートで、演技を数値化される競技でぎりぎりの闘いをしているのですが、生まれながらのダンサーで身体が物語を語るんですよね。そこにいつもドキドキしてしまう。その分、失敗も多くてドキドキしますけど(笑)高橋大輔選手と浅田真央選手のスケーティングは上手く言えないんですけど、他の選手と全く違うものを感じます。他の選手はスケートを愛しているんですが、彼らはスケートに愛されてるなあと思うんですよね。氷が彼らに滑ってもらいたがってる。彼らが、氷の上で流れるように滑っているだけで、うっとりする。それを見るのが至福です。二人がヘンなナショナリズムに巻き込まれないで、オリンピックで楽しく、のびのびと滑ってくれたらいいなと思うんですけど。ほんとに応援しているファンは、メダルの色がどうとか言わないんですよね、きっと。オリンピックのときだけやたらに愛国主義になる人たちに振り回されませんように。

前置きが長くなりましたが、これは、そんな氷を愛してやまない小さなスケーターたちの本です。冬を迎えて、初氷が出来ると子どもたちは期待に胸がいっぱいになるのです。それは、スケートができるから!この本には、そんなスケートの楽しみがいっぱいに詰まっています。小川の上をずっとたどっていくスケート。分厚い氷が張った池の上を走るスケート。そして、自分の家の農園にスケートリンクを作って(凄い!)そこで近所の友達とフィギュアスケートやアイスホッケーをする楽しみ。日常の中にこんなにスケートがある喜びが溢れているなんて、なんて幸せなんだろうと思います。空と、風と、森と、溶け合うように滑る楽しさ。私はスケートは屋内のリンクでしかしたことがなくて、しかも下手っぴであまりスピードを出せませんでしたが、スキーは結構経験があります。冷たい風の中で、きらきら光る白い世界を山の景色を見ながら滑り降りていく楽しさ。耳元で風がうなりをあげるほどスピードを出す感覚。もうこの年齢でそんなことをしたら危ないだろう私には、もう体感できませんが、この本の中で思い出せて嬉しくてぞくそくしました。

銀のスピードが出るまですべると、肺と足が、雲と太陽が、風と寒さが、みんないっしょにきょうそうしているみたいになる。

うん、そうそう!楽しいんだよねえ。自分の身体で掴む、確かな弾む喜びが、この本には溢れています。子どもが身体を思い切り使って喜びを感じる幸せの大切さ。それをさりげなく支える大人の心遣い。それがとても美しい絵と文章で綴られています。

児童文学には、スケートがよく登場します。フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』の川をスケートで渡っていくシーンの美しさは格別ですし、『ピートのスケートレース』(ルイーズ・ボーデン 福音館書店)の少年の冒険も忘れられません。メアリー・メイプス ドッジの『銀のスケート』(岩波少年文庫)や 『 楽しいスケート遠足』(ヒルダ・ファン・ストックム 福音館書店)も好きだなあ。こんなにフィギュアスケートが好きなのは日本人だけかも、といつも満杯のテレビ中継を見てて思うのですが、スケートを長く愛してきた国のことを、こんな物語からたどってみるのも、また楽しいと思います。

光の井戸 伊津野雄二作品集 芸術新聞社 

あけましておめでとうございます。

2014年の年明けです。どうか穏やかな一年になりますようにと、ほんとうに祈るように思います。今日は地元の氏神さまに初詣に行ってきました。小さなお堂に手を合わせていると、この地に住んで一度も大きな天災に遭ったこともなく、ご近所の方達もいい方ばかりという幸運に恵まれているということに、遅ればせながら気がつきました。25年も住んで今頃気がつくんかいな、という感じですが(汗)こういう小さなことにしっかり心の碇を下ろしておくことが、今とても大切な気がします。

心の碇というと、最近ずっと手元に置いて見ている本があります。伊津野雄二さんの作品集『伊津野雄二作品集 光の井戸』です。手垢でこの美しい本を汚してしまいたくないんですが、つい手が伸びて、頁をめくってしまう。この作品たちから溢れてくる耳に聞こえない音楽に心を澄ませていると、心がしんと落ち着いてくるのです。静かな表情を浮かべて、ゆったりと姿を現す女神のような作品たちに見惚れます。伊津野さんは、美しい彫刻を作ろうとして、これらの作品をお造りになっているのではないと思うんです。海が少しずつ石を刻んでいくように。風が砂に模様を描くように。星がゆっくり軌跡をたどるように。生まれて死んで、命を重ねて紡いでいく時が生み出すかたちに近いもの。日々命の理(ことわり)に耳を澄ますものだけが生み出せる、かたちを超えたかたち。「うた」という、少女の頭部がまるく口を開けて歌っている作品があります。彼女(と言っていいのかどうか)の声は聞こえないんですが、きっとその歌は太古の昔から鳴り響いているに違いないと思う。崇高なんですが、人をひれ伏させる気高さではなく、木や土の暖かさに満ちた慈愛を湛えています。「光の井戸」という言葉が指し示すように、伊津野さんの作品に溢れている光は、天上から射してくるのではなく、私たちの足下にある大地から生まれているように思います。そのせいでしょうか。穏やかに微笑む女性の面影は、どこか懐かしく慕わしい。伊津野さんの作品を見ていると、魂の奥底が共鳴して震えます。その分、時にいろんな負の感情や打算や、大きな流れに押し流されがちになる私の上っ面がよく見えるのです。「美」ということについて、最近特にいろいろ考えているのですが、人間がなぜ「美」を探し続けるのか、それはやはり「美」が太古の昔から私たちを支えるものであり、唯一私たちに残されている可能性そのものだからではないかと思うのです。伊津野さんの作品には、その可能性が溢れています。

かく言う私は見事に俗人で、年賀状の印刷のことで夫と小競り合いはするは、耳が悪いのになかなか補聴器をつけない母に「危ないやんかいさ」と小言をいうは、仕事に行けば、何度も言ったことを間違える同僚に「ええ加減にしてえや」と腹立つは、「明日は特売日やから、牛乳買うのは今日はやめとこ」と10円20円をケチる、そりゃもう、吹けば飛ぶようにちっさな器の人間です。でも、伊津野先生(とうとう先生、と言ってしまった)の作品を見ていると、このちっぽけな私の奥底に、伊津野先生が命を削って形にしておられるものと響き合い、水脈を同じにするものがあることを感じられるのです。それを知覚し、心の碇として自分の芯に鎮ませておくこと。例えば、マイケル・サンデル教授が授業で受講者たちに突きつけるような、正義の名をつけた残酷な二者択一を迫られたときに、この永遠を感じさせる美しさを思い浮かべることができたら。私は少なくともその正義の胡散臭さを感じることは出来るだろうと思うんですよ。

「差異のみがめだつ現代ですが伏流として在る共通のゆたかな水脈に繋がるために、自らの足元を深く掘り下げることが望まれているのではないかと考えています」

これは、伊津野先生自身の後書きの文章の一節です。ちっぽけな自分という目に見える現実に流されないように。「足元を深く掘り下げる」営みとして、今年も本を読み、じっくりと考える一年にしたいと思っています。

皆様にとって実り多い一年になりますように。今年もよろしくお願いいたします。