2012年 今年印象に残った本

あと少しで2012年が終わります。年齢を重ねるごとに一年が短くて、今年も「○○をした」と自分に言えないまま終わってしまうのが悔しいというか、歯がゆいというか。でも、とにかくこうして本を読みながら無事に一年を終えられることは、とてもありがたいことです。そして、ブログを移転したにも関わらず、たくさんの方がこちらにもレビューを読みに来てくださっていることに、心から感謝いたします。どうもありがとうございました。

2012年に書いた本のレビューは、102本でした。読んだ本の3分の1くらいしかレビューをかけないのが我ながら情けないのですが、不思議なことに、年々レビューを書くということが難しく感じられます。時はさらさらと過ぎていくのに、その中で出会うものの重みは増すようなのです。一冊の重み。そこに注ぎ込まれた思い。感じれば感じるほど、筆は重くなる(汗)でも、私は本をとにかく愛しているので、来年もたゆまずレビューを書いていきたいと思っていますし、そのほかにも自分なりに立てている目標に向かって、一歩ずつ進んでいきたいと思っています。どうか、ときどき「何書いてるんかな~」と覗いてやってくださいませ。

さて、2012年に読んだ中でも、自分の印象に強く残った本をピックアップしてみました。

☆国内作品

『八月の光』 朽木祥 偕成社 http://oisiihonbako.at.webry.info/201206/article_10.html

朽木さんの渾身の作品。今、そしてずっと私たちが心に刻まねばならないことがぎゅっと凝縮されています。今年の一冊をあげろと言われたら、この本を選びます。

『雪と珊瑚と』 梨木香歩 角川書店 http://oisiihonbako.at.webry.info/201205/article_8.html

梨木さんの投げかけるものは、いつも私にとってこれからを考える羅針盤です。

『天山の巫女ソニン 巨山外伝 予言の娘』 菅野雪虫 講談社http://oisiihonbako.at.webry.info/201205/article_2.html

シリーズの外伝というだけでもファンには嬉しいのに、とても深く読み応えのある内容で、ここで終わってしまうのが残念なくらいでした。

『リンデ』 ときありえ 高畠純絵 講談社 http://oisiihonbako.at.webry.info/201202/article_4.html

犬のあったかい体、命のぬくもりの確かさが心に残ります。

『ある一日』 いしいしんじ 新潮社 http://oisiihonbako.at.webry.info/201204/article_7.html

生まれ来るひとつの命が、すべての生死と繋がっていく壮大なドラマ。見事でした。

『ことり』 小川洋子 朝日新聞出版局 http://oishiihonbako.jp/wordpress/?p=465

これは、昨日レビューを書いたところなので、下の記事を読んでください(笑)

☆翻訳作品

『クロックワークスリー マコーリー公園と三つの宝物』 マシュー・カービー 石崎洋司訳 講談社  http://oisiihonbako.at.webry.info/201201/article_9.html

手に汗握って読んだという点においては、今年のNo.1!

『サラスの旅』 シヴォーン・ダウド 尾高薫訳 ゴブリン書房http://oisiihonbako.at.webry.info/201209/article_2.html

サラスのおぼつかない足取りの旅が、愛しかった・・・。

『少年は残酷な弓を射る』 ライオネル・シュライヴァー 光野多恵子/真貴志順子/堤理華訳 イーストプレス』 http://oisiihonbako.at.webry.info/201207/article_3.html

先日もアメリカで銃の発砲事件がありました。この作品のことを考えました。幼い子ともたちのこと。それでも銃社会をやめられない大人の事情・・・。

『ジェンナ 奇跡を生きる少女』 メアリ・E・ピアソン 三辺律子訳 小学館SUPER YA  http://oisiihonbako.at.webry.info/201204/article_9.html

この作品も、今年のノーベル賞であるIPS細胞とリンクしていました。文学作品というのは、不思議に時代とリンクしていきます。

追記;『ミナの物語』デイヴィッド・アーモンド 山田順子訳 東京創元社  http://oishiihonbako.jp/wordpress/ya/78/ 

を忘れていました。私としたことが(汗)

今年も、たくさんの素敵な作品と出合えました。活字本や雑誌の発行額は年々減り、電子書籍の台頭も話題になる今ですが、私は一冊の「本」という世界に出会うことが大好きです。2013年はどんな本に出会えるのか。それを楽しみに新しい年を迎えます。小さな声ですが、細々とでも語り続けることを目指して・・・。一年間どうもありがとうございました!

ことり 小川洋子 朝日新聞出版局

年末は、なんだかバタバタして忙しい。そんなに特別はことはしないでおこうと思うのに、一日が飛ぶように過ぎていきます。そんな中で、この本を読む間だけは、時間の流れ方が違います。いつもの窓から見る風景なのに、穏やかな日の光が美しすぎて、なんだか怖いような思いにとらわれることがあります。日常の中に潜む、不意に永遠と繋がる神聖な瞬間。小川さんの物語は、私がごくたまに遭遇する特別な回路を、開きっぱなしにしてくれます。さらさらと音がするほどの、質量をもった光が降り注ぐ特別な空間に私をいざなってくれるのです。その光には、深い死の匂いがします。何十億年という孤独な暗闇にはさまれて、僥倖のように瞬く命のきらめき。その儚さと確固たる美しさを、光溢れる鳥かごに閉じ込めて、ただ、存在させる。五感のすべてを使って味わう福音のような時間が、頁をめくれば、そこにある。やっぱり、これは奇跡というべきものなんだと思うのです。

小川さんの著書に『言葉の誕生を科学する』という本があります。この『ことり』で謝辞を捧げられている岡ノ谷先生と、「言葉」についての考察を重ねた本なんですが、その中で言葉の起源として挙げられているのが、鳥のさえずりです。歌うことができるのは、鳥とくじらと人間だけ。求愛のために奏でる音楽が、「言葉」に繋がっていくのではないかという仮説が小川さんの心に種を撒いて、この『ことり』という物語に育っていったような気がします。この物語の主人公の「小父さん」は、ポーポー語という自分だけの言葉しか話さない兄さんと共に暮らしています。ある日、人間の言葉を捨てて、自分だけの言葉を話し始めた兄さん。その言葉を共有することができるのは、小父さんと小鳥だけ。その時から、世界はふたりだけの孤独と輝きに満ち溢れます。そう、言葉は常に私たちと共にあり、自分と世界を繋げてくれるもの。そして、同時に私たちと世界を切り離すものでもあります。この世界を言葉ですくい取ろうとしても、どうしても言い表せないものが残る。言葉にすることで、わかったような気になってしまう。そして、言葉は誰かを傷つける最大の武器になる。同じ言葉を使っていても、どうしても分かりあえないこともある・・・というか、そのことの方が多かったりする。その時の徒労感というか、孤独と疲労は、何よりも私たちの心を蝕みます。世間と同じ言葉を持つ小父さんが、心無い人たちの噂話で白眼視されてしまうように。ささやかな、本当にささやかな司書の女の子との思い出さえも、始末書という紙切れで汚されてしまうように。それに引き換え、お兄さんは、自分の中に、誰の手あかもついていない無垢な言葉を持っていた。その奇跡は誰にも顧みられず、称賛もされず、お兄さんだけのものとして朽ち果てていく。でも、そのお兄さんと、小父さんとことりたちの過ごす小さな世界が、なんとかけがえのない美しさに満ちていることか。そこには、言葉と自分との乖離は無いのです。言葉を通じて、たくさんの人と繋がっているかのように思っている私たちは、本当にそうだと言えるのか。お兄さんの言葉は、ことりのさえずりのように、自分自身から生まれてくるものだった。そんな、自分自身と不可分な言葉は、ほんとうは誰とも分け合えないものなのかもしれないのです。そこを分かち合う人がいたお兄さんは、世界の誰よりも孤独に見えるけれども、本当は誰よりも幸せな人だったのかもしれない。お兄さんだけの耳に聞こえていた鳥の歌が、少しだけれど私の耳にも聞こえるような・・・果てしない暗闇に挟まれた一瞬の光の中に存在することの小さな幸せを味わいつくす喜びが、静かに胸に満ち溢れる。そんな物語でした。

ただ、存在すること。そして、歌を歌うことができること。それだけで奇跡なんだけれども、私たちはすぐにそのことを忘れてしまう。言葉は、誰かに愛情を伝えるために生まれたのに、そのことも私たちは忘れてしまう。この物語は、小父さんの亡骸から始まります。小さなことりの死のように、誰からも顧みられない小父さんの死。たいていの私たちは、そんな生を命を生きている。でも、その小さな命が響き合って奏でる音楽は、こんなにも美しい。最後にメジロが奏でた小父さんへの求愛のさえずりが、いつまでも胸に残ります。この間の選挙や、毎日報道されるあれこれを見ていると・・・なんだかとても恐ろしいのです。なんて自分がマイノリティであることかとしみじみ思って、無力感に押し流されそうになってしまう。でも、そんな中で小川さんの小説を読んでいると、自分の足元がどこにあるのかがわかるような気がします。小川さんが生み出す、小さくて悲しくて、孤独で、でもかけがえのない喜びに満ちた世界がともす灯りが、ひとつずつ誰かの胸に増えていく。そのことを願って・・・ささやかな、このブログの2012年のレビュー書き納めといたします。また、もう一本日記はあげたいと思っているのですが。どうなることやら(笑)

皆様、良いお年をお迎えくださいませ。

by ERI

 

緑の精にまた会う日 リンダ・ニューベリー 野の水生訳 徳間書店

今日はクリスマス。眼に見えないものに思いを馳せる日です。私は特別な宗教をもたない人間です。でも、クリスマスという日に、世界中でたくさんの祈りが捧げられることは、とても大切なことだと思います。愛する人の幸せを願って。生きていることへの感謝をこめて。不条理に生きる私たちは、祈らずにはいられない。この本は、眼に見えない大切なものと再会を果たす物語。厳しい冬のあとで春が芽吹くような希望の物語です。

ロンドンに住む少女のルーシーは、大好きなおじいちゃんがいます。おじいちゃんは田舎の農園で、それはそれは見事な野菜を作る「緑の手」を持っている人なのです。そして、おじいちゃんの農園には、緑の精のロブが住んでいます。お気に入りの場所にいて庭仕事を手伝ってくれるロブ。彼の存在を信じ、その気配を感じるのは、おじいちゃんとルーシーだけ。ところが、大好きなおじいちゃんは、突然帰らぬ人となります。農園は売り払われ、つぶされてしまう。ルーシーは、ロブに手紙を書きます。どうか、私のところへ、ロンドンへ来てくださいと。その願いにこたえるかのように、歩きだしたロブ。彼の、ロンドンまでの旅が始まります。

ロブというのは、どういう存在なのかをルーシーに伝えるおじいちゃんの言葉がいいんです。

いいかい、ロブは雨と風からできている、ひざしと、そしてひょうからも。それに、光と闇からも、…(中略)…過ぎ去った時間、訪れる時間からも、ロブはできているんだよ。考えてみりゃあ、わたしらだっておんなじだ。みーんな、おんなじなんだよな

命の船を、ともに浮かべようとする、意志のようなもの。どんなときにも歩き続けてきた、そして歩き続けていこうとする、古い古い記憶のようなもの…ロブはそんな存在なのかと思います。でも、この物語で大切なのは、ロブが何者であるかを解き明かすことではありません。ただ、感じること。彼がいるおじいちゃんの農園が、どんなに満ち足りて美しいか。ルーシーが、農園から森に入ってしまう夜のシーンが、とても印象的です。闇に抱かれて感じる、ぴりぴりするような精神の覚醒は、体の中に眠る動物であったころの自然への記憶そのもののようです。そして、その楽園を失ったルーシーとロブの悲しみ。ロブの旅は困難を極めます。道の途中でロブが出会ったのは彼がまったく見えない人、利用しようとする人、見えても化け物扱いして追いだす人。あちこちでサンドバッグ状態になってしまうロブの旅…その苦しさを読んでいると、酸素が足りなくなった金魚のような心地がします。その中でも、ロブが見えているのに、一緒にいる友達に馬鹿にされて、見えないことにしてしまった女の子のことが、心に刺さりました。本当に大切なこと、自分の心が感じる声を無視してしまうことは、あとになるほど心を荒らします。私にも、何度も何度もそんなことがあったから…わかるのです。だから、ここを子どもたちに読んで欲しい、そう心から思いました。一番大切なことは、心の声に、見えないところに潜んでいるのです。私たちは、いろんな大人の事情で、その声を無視しようとする。その結果がどうなるのか、何度歴史の中で経験しても同じことを繰り返す。でも、声なき声は、ちゃんと胸の中に潜んでいるのです。どんなにひどい目にあっても、やっぱり人と共に命を育てようとするロブのように。この物語は、ほんとはどこにでもいる、誰も知っているはずの、でも、人がすぐに忘れてしまう存在の痛みと希望を描き出そうとしています。

わたしは道を歩むだけ。どこへ行くかは、たどりつくまで、わからない。

そう。わからないけれど…ルーシーと、ロブの再会の旅のように、子どもたちが何度も大切な存在とめぐりあって、秘密を共有してくれたらいいなと心から思います。

「おークリスマスツリー おークリスマスツリー みどりのきよ とわに
よろこびのよるに ほしひとつひかり みどりごうまれん
おークリスマスツリー おー クリスマスツリー」

大好きな、マーガレット・ワイズ・ブラウンの『ちいさなもみのき』の一節です。
子どもたちに、祝福がたくさん舞い降りますように。
Merry X’mas!!

2012年3月刊行

 

シフト ジェニファー・ブラッドベリ 小梨直訳 福音館書店

18歳。子どもから大人へ、シフトチェンジの季節です。働くにしても進学するにしても、親の羽の下から飛び出して、自分の生き方を探すとき。この本は、少年が青年になる、ギュンとギアが入れ替わる瞬間をとらえた物語。疾走感にあふれた魅力がありました。

18歳のクリスは、高校を卒業し、大学に入るまでの2カ月で、親友のウィンと自転車で大陸を横断するという冒険旅行に出かける。ところがその親友は、旅の終わりに、自分を置き去りにしていなくなってしまったのだ。実力者であるウィンの父親は、クリスが居所を知っているはずと圧力をかけてくる。物語は、大学の新生活と、そんなウィンをめぐるごたごたに振り回されるクリスの戸惑いから始まります。

幼いころからの親友だったウィン。何もかも知りつくしているはずだった。でも、本当にそうだったのか。クリスは、ウィンとの旅を思い返しながら、見知らぬ人のように遠くなってしまった彼の心を手繰り寄せようとします。この物語は、夏の旅から帰ってきたあとの、もう一つの心の旅なのです。旅の濃密な時間の中に隠されていた、わずかなサインを、クリスは思い出します。男子ならではの、ライバル心と親しみが交錯する距離感が、ジェットコースターのように展開する旅の面白さ。腕立て伏せや、パンク修理のタイムトライアルに始まって、水のかけあいから、派手な喧嘩やら・・・その子どものじゃれあいのような楽しさと、風景や人と出会いの、なんときらめいていること。でも、その中にこれまでとは違う空気が、冷やりとする水のように流れていたことが、クリスの「今」と交互に書かれていく構成の中で浮かび上がってくるのがスリリングで、物語から目が離せなくなりました。

ウィンは、この旅がクリスとの別れであると心に決めていたのです。高圧的な父に反発して、ずっと自分を出すことなく生きてきたウィン。でも、親友はそんな自分とは裏腹に、勉強もボーイスカウトも、親との関係もしっかり自分のものにして、進学も自分の力で決めた。それに引き換え、自分のこれまでの人生は、やたらに人を支配しようとする父親にたてつくためだけに費やされている。そんな自分からシフトするための、崖を飛び降りるような決断の旅だったのです。これまでずっとくっついて暮らしてきたウィンとクリスの激しいぶつかりあいは、今までの自分との闘いでもあるのです。自転車で大陸を横断するという、無謀に近いような旅。でも、その旅は、ウィンの背中を確実に押したのです。「追いつくよ、いつか」というウィンの言葉は、ここからが自分のスタートだというしるしなんですよね。

いまは-おれたちふたりとも変わって、みんなが考えるより、すごいんだってことがわかって-お互いそれを知ったいまは、もうもどれないよな、もとの場所には。

親子という関係は、ほんとに難しいものだと思います。捨てようと思って簡単に捨てられるものではないんですよね。父親の支配という引力から抜け出すために、ウィンが走った距離を思うと、ため息が出そうです。子は親を捨てていい、私はそう思っています。(反対は絶対だめですけどね)また、いつか拾わなければならないときがやってくるから。若いとき、自分が自分らしく生きる道を探すためには、一度精神的に親を捨てる必要があると思うのです。この二人の旅は、これまでの自分との闘いであると同時に、いわば親捨ての闘いの旅だと思うのですよ。執拗に追いすがってくるウィンの父親の手を、なんとか振り切るクリスの闘いも、ある意味親という引力を振り切る闘いなのでしょう。歩きだそうとする若者に対するエールを、この物語から感じました。

今あちこちで展開されている教育論を聞いていると、若い人たちをなんとか自分の思い通りにしたいという欲望が先に立っているように思えてなりません。そう、このウィンの父親が繰り出す教育論のように。その欲望から逃げ出して、地に足のついた生活をしていこうとするウィンのような若者は、これから増えてくるんじゃないか。そんな風にも思います。もしかしたら、それがこれからの希望かもしれない。選挙のあとの、おじさんたちの高揚の中で読んだこの本は、何やら象徴的でした。YAを対象とした物語としては、少し読み手の想像力に頼る部分が大きいかもしれません。でも、これが第一作という筆者の熱い思いをふつふつと感じる、面白い一冊でした。装丁もとてもしゃれていて、カッコいい。男子向けの貴重なYA小説です。

2012年9月刊行
福音館書店

by ERI

海街Diary 5 群青 吉田秋生 小学館フラワーコミックス

毎日ブログを訪問している、「くるねこ大和」のくるさんが、今日は落ち込んでました。胡てつんの入院がこたえているらしい。くるさんもかあ・・猫好き人間にとって、自分の不注意や至らなさで猫に何かある、というのはとても辛いです。(胡てつんの入院は、くるさんのせいじゃないです。念の為。)私の落ち込みは、ガスコンロの工事に来てもらったときに、私の不注意でぴいを脱走させてしまったこと。業者さんの出入りに気をつけているつもりで、一瞬の隙を突かれてしまった。幸い、30分ほどですぐに帰ってきたけれど、その間生きた心地がしませんでした。長らく外に出していなくて、最近はあまり出せ出せと言わなくなっていたこともあって、油断してたんですよね。ちゃんと帰ってきたからいいものの、またお薬を飲んでいるこの時期に、行方不明にしていたらと思うだけで、背筋が冷える思いがしました。しかも、業者さんにも心配させて、申し訳なかったし・・・。相手はもの言わぬ子だから、こっちが良かれと思ってしていることが食い違ったり、通じなかったりすることもままあります。もっとも、これは人間同士でも同じなのかもしれないですけどね。これからは、もっと気をつけなくちゃいけません。肝に銘じました。

がっくりきて、なんだかちゃんと活字も追えず。この間買ったこの本に、ずいぶん癒されました。この作品の中の時間の流れ方が、とても心地よいのです。鎌倉の街での四人姉妹の生活は、穏やかながらもいろんな波が打ち寄せます。すずの亡くなった祖母からの連絡。幸ねえの、病気疑惑。馴染みの食堂のおばさんの死。みんな、人は、それぞれが生きてきた時間や、背負っているものを携えて、これから歩く道に悩んだり苦しんだりする。その中で言葉にできない思いがたくさん生まれて流れていくんです。この物語は、その言葉にできない思いがちゃんと伝わってくる。彼女たちの思いに触れて、自分が言葉にできなかったあの日の思いが、蘇る。うまく伝えられなくて苦しかったこと。言葉にできなくて、傷ついたまましまいこんでしまったこと。それを、彼女たちとわかちあって、そっと同じ風景の中に、群青の空に解き放てる。この幸せは、なんとも言えません。

空気が薄いほど、空は青さを増すらしいです。そこに立つ人にしか見えない色、景色があって・・・それぞれが違う色の空の下にいるのかもしれないけれど、空はいつも見上げればそこにある。そのことが、とても胸に沁みる。そんな巻でした。うーん・・・やっぱり、「吉田秋生−夜明け− (フラワーコミックスマスターピーシーズ)」は買うべきか。これまで全巻揃えているファンとしては、やっぱり見逃せないかなあ・・・。

2012年12月刊行

小学館

by ERI

くりぃむパン 濱野京子 黒須高嶺絵 くもん出版

私はパンが大好きで、一日2食はパンを食べます。とにかくパンなら何でも食べますが、一番好きなのは、昔からずーっとある地元の商店街のお店のパン。いつ行っても変わらない味で、品揃えも多少のリニューアルはあっても、基本同じ。アンパン、クリームパン、メロンパンは必ずある。甘い甘いコロネパンもね。こういう昔っからあるパンって、とにかく人を黙らせてしまう力があると思います。疲れたとき、欲しくなる。舌に馴染む味に、ほっとする。実は、そんなシンプルなパンほど、ほんとは作るのが難しいんじゃないかと思うんですが、この物語は、そんなくりぃむパンの細やかな味みたいに、プレ思春期の女の子の心境を丁寧につづった物語です。

一家9人、下宿している人も合わせて11人という大家族で暮らす4年生の香里の家に、ある日同学年の未香がやってきます。遠い親戚筋の未香は、お父さんの失業のために、一人で香里の家に身を寄せることになったのです。でも、美人で聞き分けがよくって、お手伝いもし、みんなにお小遣いをもらう未香が、だんだん香里はうっとうしくなります。そんなある日、もやもやした気持ちで、つい同級生の前でつぶやいた、未香への「守銭奴」という言葉が、あっという間にクラス中に広まってしまうのです。

聞き分けがよくてしっかりした子、というのは、ほんとは危なっかしいものなんです。この物語の未香は、自分の立場をよくわかっている子なのです。自分の家ではない場所で、居候させてもらっている自分。肩身の狭さを、「いい子」でいることで何とか埋め合わせをしようと必死なのです。大人は、そこをよくわかっているからこそ、未香を労わろうとする。でも、一度もそんな立場に立ったことのない四年生の香里には、そんな未香の気持ちはわかるはずもありません。みんなにちやほやされているだけのように見えてしまう。だから、つい、意地悪な気持ちになってしまう。幼いころから、父親のお金の苦労を見ている未香とは、感覚が違うのです。早くに大人びてしまった未香と、まだ子どものままの自分。その違いを慮るほどの人生経験は、香里にはまだないのです。

普通は、ここから一気に二人の関係が煮詰まってしまうものなのですが、香里の家には、回復力が備わっています。それは、五世代にもわたる家族が、たくさんいるところ。成り行きで、ひいばあちゃんのところで一緒に過ごしたり、下宿している志帆さんのマンガの話をしたり、いろんなシチュエーションで未香と触れ合う機会がたくさん生まれます。そこで、二人の間には共感が生まれます。未香と自分は違うけれど、ひいばあちゃんのところで過ごす時間は、ゆったりした「魔法の時間」だったこと。おんなじくりぃむパンを食べて、美味しい!と思えること。そんな、単純な時間を分け合うことで、香里は徐々に未香の心の内を知ることになるのです。分け合う、という大切な時間が丁寧に描かれているのが、とてもよかった。

「なんかさあ・・・生きるってせつないね」

小学校四年生の香里の口から出たこの言葉に、「ほんまやねえ」と答えそうになってしまいました。生きる切なさは、大人だけが感じるものではありません。子どもだって自分たちの切なさの中で生きている。彼女たちの人生は始ったばっかりで、いろいろあるのはこれからです。でも、生きることの切なさを分け合う友達がいるということは、いつ食べてもおいしいクリームパンを手にしているように、心強い。違う境遇を抱えてひとつ屋根の下に暮らす違和感から、友だちになるまでの時間を、細やかに描いた物語でした。その時間を支えるものを、この物語から子どもたちが受け取ってくれたらいいなと思います。

2012年10月

くもん出版

by ERI

 

イクバルと仲間たち 児童労働にたちむかった人々 スーザン・クークリン 小峰書店

橋下大阪市長(すっかり大阪はほったらかしにされてるみたいですけど)が、最低賃金制の廃止を言い出したそうで、一体何を目指しているのかと怖くなります。最低賃金制が廃止されるということは、どんなに安い賃金で働かせてもいいということ。今でも、必死に働いても食べていけない人が増えているというのに。若い人たちを安くこき使おうとする思惑がぷんぷん匂う。この本には、そんな欲得しか考えない企業論理のしわ寄せがどこに行くのかが書かれています。理不尽な暴力そのものである、児童労働。一日働いて2.6円しかもらえず、逃げ出せば連れ戻されて拷問され、埃だらけの環境で病気を患いながら働かされ、学校にもいかせてもらえない。働いても増えるのは借金ばかり・・・まるで、江戸時代の遊郭のような労働条件です。でも、実際にこの世界のどこかでは、そうして働かされる子どもたちがいる。世界中がネットワークで繋がれた大きな網の中では、誰もそんな事実と無関係ではないのです。子どもたちの作り出した商品を買うのは、先進国の人間だから。買う人間には罪はない、という考え方もあります。でも、この本を読んだら、誰もそんな考え方に違和感を覚えるのではないでしょうか。

この本は、パキスタンで絨毯を織るという児童労働に、4歳(4歳!)の頃から従事させられていたイクバルという少年の、子ども向けのドキュメントです。彼は、600ルピー(約1600円)の借金のカタに、売り飛ばされたも同然の形で働かされる人生を送りながら、BLLF(債務労働開放戦線)の集会に参加したことがきっかけで、自分と仲間たちを工場主から解放させ、開放運動の先頭に立って活動を展開した少年です。彼はアメリカに渡り、「リーボック行動する若者賞」を受賞し、たくさんの子どもたちの前で自分の経験を語る、いわゆるBLLFのシンボルともいえる存在になるのです。

この本の読みどころは、イクバルという少年の人生を軸にして、児童労働の歴史や現状、どうして子どもたちが働かされるのか、という問題を多角的に説明しているという点にあると思います。児童労働の悲惨さは、驚くべきものです。読んでいて、胸が痛くなる。でも、それだけでは「世界にはかわいそうな子がいるんだな」で、自分と無関係に終わってしまうこともあります。児童労働が貧しさと結びついていること。だからこそ、なかなか無くならないこと。児童労働だけをやめさせようとしても、新たな貧困を生んでしまうだけに終わってしまうこと。その貧しさは、世界の別の場所の豊かさと結びついていること。この本は、そこまで踏み込んでこの問題を追っていきます。地図資料や語句の解説、写真も多数添えられていてとてもわかりやすく、著者がなるべく公平な視線で冷静にこのテーマを子どもたちに伝えようとしていることがわかります。著者は、なるべく自分の目と足でたくさんの人に会い、取材をし、この本を書いています。そこに、たった12歳で殺されてしまったイクバルという少年の理不尽な人生に真摯に向き合おうとする誠実さを感じます。グローバルという言葉を安易に使うのが私は嫌いですが、世界中に張り巡らされたシステムの中にいるという事実からは逃げられません。その中で、イクバルを殺してしまった大人のように、大切なものを見失わないようにする目をどうやって獲得するのかが、これからとても大切なことだと思うのです。

 大勢が声を揃えて一つのことを言っているようなとき、少しでも違和感があったら、自分は何に引っ掛かっているのか、意識のライトを当てて明らかにする。自分が、足がかりにすべきはそこだ。(「僕は、僕たちはどう生きるか」梨木香歩・理論社)

自分の違和感に意識のライトを当てるのは、自分を大切にすることでもあります。知識と思考訓練は、自分を守る砦となり得ます。そのためにも、一つのテーマから、様々な学ぶきっかけが生まれる、こんな本がもっと注目されてもいい。そう思います。

2012年9月発行

小峰書店

by ERI

ミラノの太陽、シチリアの月 内田洋子 小学館

ここのところ、ずっとパソコンの不調に悩まされていました。ちゃんと立ち上がらないし、すぐに固まってしまう。あれこれやってみても埒が明かないので、とうとうリカバリしました。しかも、リカバリディスクを紛失してしまったので、F10連打からのリカバリという原始的(?!)な方法で。おかげで何とか動くようになったんですが、設定のやり直しやWindowsの膨大な更新やらで、時間と手間が半端なくかかりました。慣れないことをするというのは、ほんと大変です。その作業をしながら、この本を読んでいたのですが、こんなパソコンひとつでも右往左往してしまう私にとって、さらっと異国で家を買ったり、パーティを開いたりしてしまう内田さんは、それこそ遠い月を眺めるような遥かな憧れの存在です。

このエッセイは、『ジーノの家』に続くエッセイの第二弾。緻密な香り高い文章はますます冴え、10編のお話は、まるで巨匠が撮った映画のように鮮やかにイタリアの風景と人間を浮かび上がらせます。私は体質的にお酒があまり飲めないのですが、上質のワインを味わう楽しみというのはこういうものかしらと思わせられる、贅沢な文章です。異国人ならではの眼差しと、深くその国を理解する知力と教養。心に刻んだものを、ゆっくりと熟成させる時間。それが結びついた稀有な文章だと思うのです。イタリアという国で、凛と背筋を伸ばして仕事をし、人との出会いを大切にして生きてこられた内田さんの豊かさが、文章から溢れてくる。「六階の足音」という章に、谷崎の『陰影礼賛』の話が出てくるのですが、イタリアという歴史のある国ならではの陰影の濃さに心が震えます。50年間秘めた恋をやっと叶えた喜びもつかの間、病に倒れてしまう女性弁護士。狷介な夫との長年の確執の象徴のような古い屋敷を守り通す女性の孤独。読み書きを学ばないままに生きてきた老練な一匹狼のような船乗り。小さな駅舎でつましく暮らしながら、確かな幸せを築いた一家・・・人生という思い通りにならない旅を続けながら、彼らがなんと自分らしく背筋を伸ばしていることか。彼らの目に映るイタリアの空と海の色が、見たこともないのに心に映ります。たとえどんな場所にいても、イタリアのいい女は高いヒールの靴をはいて美しく装い、まっすぐ風を受ける。内田さんもそうでらっしゃるのかなと勝手に想像します。

そんな孤独と誇りが香るイタリアもとても美味しいけれど、へたれな私は、滅多にない幸せな風景に惹かれます。この10編の中で特に好きなのは「鉄道員オズワルド」と「祝宴は田舎で」そして最後の「シチリアの月と花嫁」。「鉄道員オズワルド」の海の上に建っているかのような駅舎の家は、想像するだけで光溢れて「幸福」という捉えがたいものが幻のように浮かんでいるみたいです。「祝宴は田舎で」は、とにかく美味しい料理がこれでもかと押し寄せる贅沢な時間。そして、「シチリアの月と花嫁」は、映画の『ゴッドファーザー』を連想するような、痺れる一篇です。誰もが濃い血縁に結ばれた土地で、息を潜めるように日々を暮らす人たちの、ハレの一日です。この上なく清楚な美しい月の化身のような花嫁。その母の着る燃え上がるようなオレンジのドレス。ボルサリーノ帽にダークスーツの男たち。夜の中に浮かび上がる舞踏会・・招待の言葉は「あなたの来年の九月二十五日の予定は、私がお預かりしますが、よろしいか」。そのセリフを見事に形にして見せるイタリア男の実力に、くらっとしました。ずっとケばかりでハレのない私の人生(笑)一生縁のない特別な経験を共有させてもらえるなんて、なんて読書って美味しいんでしょう。この世のどこかに、そんな時間が、空間がある。そう思うだけで、とても豊かな気持ちになれる、素敵な一冊です。

2012年11月刊行
小学館

by ERI

ふたつの月の物語 富安陽子 講談社

置き去りにされた双子。人里離れた神社に伝わる神事。狼の血をひく、青く輝く瞳を持つ少女。横溝正史の世界のような伝奇ホラーの雰囲気を湛えた、YA小説です。富安さんのYAものを読むのは初めてなんですが、幻想的なモチーフを使いながら、主人公の双子の少女のキャラがそれに負けずに立っていて、読み応えがありました。

離れ離れに育っていた双子が、大きくなってから出会うという設定や、人里離れたお屋敷とか。代々伝わる神事とか。さっきも書きましたが、横溝正史シリーズを連想させるような要素がいっぱいです。若い頃好きだったんですよね、私も。古本屋をあさって全部読んだ身としては、何やら懐かしい昭和の香り(笑)すっと体に馴染んでお話に入っていけました。若い頃って、こういう因習の匂いのする物語が、かえって新鮮で面白かったりしますよね。『獄門島』とか、『悪魔の手毬唄』とか、タイトルを書くだけで、今でもちょっとワクワクする(笑)私が言うまでもなく、民俗学がからむミステリーというのは日本では一つの王道です。富安さんも、こういうジャンルがお得意の方だけあって、雰囲気作りはお手の物。出だしの少女二人の登場から、ぐぐっと読み手を引き込む力があります。

私がいいなと思ったのは、主人公二人のキャラです。美しくて聡明で、人間離れした嗅覚を持つが故に、人から浮いてしまう少女・美月と、行動力旺盛でまっすぐな気性の、テレポーションの能力を持つ少女・月明。二人でひとつのような彼女たちが、自分で考えて行動し、自らの出生の謎を解いていくのが読んでいて気持ちよかった。児童文学の手練れの富安さんは、二人の性格や表情を活き活きと描きます。富豪の女性、津田節子が何の目的でそんな二人を引き取ったのか。それがこの物語の核心で、二人の出生の秘密と深く関わる部分です。そこを語ってしまうとネタばれになってしまうので伏せますが、最愛の孫を失った節子の深い悔恨と悲しみが、その目的の裏にあります。人の生死の理を超えようとしてしまうほど、節子はその悲しみに囚われている。愛するものを失う悲しみ、しかも逆縁で愛するものを失う苦しみは、筆舌に尽くしがたいものがあると思います。でも、悲しいことに、私達は、そんな理不尽の中に生きている。

昨日、『菖蒲』という映画を見てきましたが、そこに描かれていたのは、やはり別れという名の理不尽に戸惑う人間の姿でした。どんな人生経験を積もうとも、私たちは「別れ」に慣れることはない。でも、その辛さと悲しみの中に、一番尊いものがあるのではないか。私は、そう思いながら昨日帰ってきたのです。ラストシーンで、若い男の子を抱きしめる主人公の中年女性は、我が子を失って泣くピエタを思わせました。節子の悲しみは、人を愛したが故の喪失の苦しみです。受け入れられない、飲み込めない事実―でも、再び自分の近くに少女たちの若い命を感じたとき、節子の心に、優しさが生まれた。理不尽に打ち砕かれても、悲しみに打ちひしがれても、またその中から誰かを思う気持ちが芽生える。それが、理不尽に翻弄されて生きている、私達に与えられた唯一の祝福なのかもしれません。途中まではらはらしながら読んでいた物語は、思いがけず穏やかな充足をもたらせて終わります。節子さんの満足が切ないけれども、心に沁みました。酒井駒子さんの表紙と装丁も、夜の匂いのするこの物語にぴったりあって、さすがの出来栄えでした。

2011年10月刊行
講談社

by ERI

祈りよ力となれ リーマ・ボウイー自伝 東方雅美訳 英治出版

「希望を持つこと以上の苦しみがあるだろうか」
この言葉の重さが、同じ女として深く心に響いた。私たち女は、何があっても日常を保とうとする。だって、子どもにはご飯を食べさせなければならないもの。洗濯をし、少しでも清潔であろうと心を配る。時には、もう何をする気力もないと思っても、日常を放棄することは、たった一日だって出来ない。それが、「生きる」ということだから。心折れてしまう毎日の中で、少しだけ光が見えたとき、「今度こそは」と希望を抱く。でも、その希望が打ち砕かれたとき、見えたと思った光は、刃となって心を貫くのだ。この本は、内戦によって、何度も何度もとことん希望を打ち砕かれた女性が、自ら立ちあがり、希望を現実にした事実を綴った本である。アフリカの内戦について、いろんな本は読むのだが、この本ほど他人事ではないと思ったことはない。女として。子どもを産んだ母として。理不尽な暴力に痛みを感じる人間として、心に深く刺さる本だった。

リーマ・ボウイーさんは、昨年(2011年)のノーベル平和賞を受賞した方だ。リベリアという内戦が続く国で、初めて女性たちが団結して立ちあがり、男たちが成し遂げられなかった停戦を実現させた。その活動の中心となった方である。この本で語られるのは、彼女の半生。リーマさんは、希望溢れる18歳の大学生だった。本当に、日本にも普通にいる、将来のあれこれを普通に思い描く大学生だったのだ。そんな彼女が内戦に翻弄され、夫にDVのような扱いを受けながら4人の子どもを産み、その後シングルマザーとなって働きながら、現在のような平和活動に従事するまでの過程が、率直に語られている。権力・利益・富・有利なポジション。それが、古今東西変わらぬ戦争のモチベーションだ。しかし、その争いで殺され、とことん傷つけられるのは、子どもと女性である。以前『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』(イシメール・ベア 河出書房新社)という本を読んだことがある。リベリアの隣・シエラレオネで、少年兵として過ごした日々のことを綴った本だ。精神を麻痺させるために使われる麻薬と薬。少年たちは、幼い手に銃を握らされて殺戮に駆り出される。悪夢にさいなまれながら、人であることを売り渡さねばならなかった悲惨さは忘れられない。そしてこの本に書かれているのは、女性として経験した内戦の苦しみだ。このような女性の苦しみは、なかなか報道されないし、表に現れない。それは日本でも同じだと思うが、例えば性的な暴力を受けた苦しみは、声高に語ることさえできない性質のものだ。家族にさえ話せない。

―女はスポンジだ―と、私は思う。すべてを自分のなかに吸収する―別れた家族のトラウマも、愛する人の死も、子供や夫の話を聞き、社会や信念の体系が破壊されるのを見て、その痛みまでも吸収する。女は強くなければならず、愚痴を言うことや経験を誰かに話すことさえ、弱さを示すことだからと全部を抱え込んでしまう。

どうやら、戦争における殺戮の欲望は、性的な暴力と深く結びついているように思う。戦争の惨禍をとことん見つめたゴヤが「我が子を喰らうサトゥルヌス」で描き出したように。リーマさんも、レイプの被害こそないが、その例外ではない苦しみを舐めている。戦争の精神的な混乱の中で結婚した夫に、DVを受け、蔑まれながら4人の子を産んだ。その苦しみから立ちあがろうとし、女性のためのトラウマヒーリングの活動に参加しはじめたところから、彼女の闘いは始まった。女性たちが、自分たちの経験した恐怖や苦しみを打ち明け合い、共有すること。そこから、女性達の輪は広がり始めたのだ。そこには、権力や富や、支配欲などは何も関係ない。ただ、自分たちが女であること。奪われ続けることにうんざりしていること。「平和が欲しい」ということ。その祈りが繋ぐ絆だった。もちろん、うんざりするほどのややこしい諍いや、もめ事があったことも書かれている。しかし、「平和が欲しい」という女性たちの座り込み、非暴力の訴えは、男たちが為し得なかった停戦を実現したのだ。

このリーマさんたちの闘いは、女として全く他人事ではない。日本でも選挙が始まって、何やら鼻息荒く威勢のいいことを言う男たちの声が聞こえる。穿ちすぎなのかもしれないけれど、私はその興奮ぶりに、何やら欲望の気配を感じてしまうのだ。私たちが共有すべきなのは、この本に書かれているような苦しみと、平和への祈り。どんなにカッコよく聞こえる議論も、そこを踏まえたものでなければいけないと心から思うのだ。だから女は甘っちょろいんだよ、などという言葉を、この本を読んだ上で吐ける人は、誰もいないはずだ。女性もそうだけれど、男性にもぜひ読んでもらいたい一冊である。

ちなみに、『闇のダイヤモンド』(キャロライン・B・クーニー 武富博子訳 評論社ミステリーBOX)という本には、このリベリアから難民としてアメリカに避難してくる一家の話が描かれている。リベリアの元大統領が、ナオミ・キャンベルに大きなダイヤの原石を贈った話は有名だが、『闇のダイヤモンド』も、ダイヤという欲望の塊が重要な役割を果たしている。この本を読んで、あのリベリアからやってきた親子の苦しみが、余計に胸に迫る。

2012年9月刊行
英冶出版

by ERI

十一月の扉 高楼方子 千葉史子絵 講談社青い鳥文庫

十一月のうちに、この本のレビューを書きたかったのだけれど、気が付いたら12月に突入してしまった(汗)秋が深くなって風が冷たくなると、この物語が読みたくなります。年末に向けてあれこれしなきゃ、と想いながらぼんやりしたりして、あっという間にすぎてしまう11月。でも、この物語の中で爽子と過ごす11月は、感受性の塊のような14歳の心が紡ぐきらびやかなタペストリーです。高楼さんの筆は、彼女の心のひだを一つ一つ色鮮やかに描き出します。憧れ。ほのかな恋。背伸び。少女の感性は憧れとおなじくらい失望も経験します。恋心は、ため息と苦しみを。家族と離れた日々は、同性である母への複雑な想いも具現化したりします。物語の中に迷い込んだような十一月荘の日々は、様々な色で爽子を照らし、その心を染め上げるのです。少女の心の光も影も見つめながら、この作品世界は瑞々しい「美を感じる喜び」に満ちています。だから、爽子と一緒にこの物語の空気を胸いっぱいに吸い込みたくなるのです。

中学生の爽子は、ある日偶然に素敵な家を見つけます。それは「十一月荘」と名付けられた下宿ができるらしい洋館。急に父の転勤が決まった爽子は、3学期までの二ヶ月間、そこから学校に通うことを思いつきます。思いがけずその願いがかなった爽子は、十一月荘で、女性ばかりの個性的な住人たちと過ごすことになるのです。

まず、この物語は、とても重層的な構成になっています。まず、舞台となる十一月荘が、少女小説のエッセンスがぎゅっと詰まったような場所なのです。爽子の部屋は、赤毛のアンの部屋のよう。女ばかりの家は、若草物語を連想させますし、爽子と、幼いるみちゃんの関係は「小公女」のセーラとロッティを思わせます。この十一月荘に足しげくやってくる、おしゃべり好きの鹿島夫人は、赤毛のアンのレイチェル夫人…という風に、大好きな少女もののあれこれが、あちこちに散りばめられているようでうっとりしてしまう。この物語には、先行作品として人々の心に生き続ける永遠の少女たちのエッセンスが香りのように漂っています。そして、この物語には、爽子の書くもう一つの小説が描かれます。ドードー鳥の細密画の表紙の美しいノートに爽子が書きつづる「ドードー森」の物語。動物たちのファンタジーは、この物語の中でも触れられる「たのしい川べ」のような雰囲気なのですが、登場人物たちは、十一月荘の住人や、そこを訪れる人々なのです。物語の中で、もう一つの物語が語られる。それは、爽子という少女から生まれる新しい場所でもあります。家庭という檻の中から抜け出して、新しい扉を開いた爽子が、そこで出会う人たちから、これまでとは違う世界を教えてもらう。そして、そこから爽子の新しい扉が開く。それは、アンやジョーを愛する少女たちがたどってきた道のりでもあり、爽子という少女だけが開くことのできる、たった一つしかない世界でもあります。受け継がれるものと、そこから新しく生まれるもの。過去と今が出逢い、きらめくように溶けあってかけがえのない世界を作る幸せな一瞬が、ここにあります。そんな幸せが音楽の喜びとなって降り注ぐラストシーンに爽子がつぶやく言葉が、私は好きなのです。「だいじょうぶ。きっときっと、未来も素敵だ。」

物語は、心を繋ぎます。爽子の書くドードー森の物語が、るみちゃんと、そして耿介との心を繋ぐように。遥かなものに憧れ続けた少女の頃の私と爽子を繋ぎ、アンやセーラやジョーが大好きだった女の子たちの心も繋ぎます。そして、これからを生きる子どもたちの心にも、暖かい光を投げかけてくれるに違いないと思うのです。

「きょう一日(ひとひ)また金の風
大きい風には銀の鈴
きょう一日また金の風 … 」(中原中也 早春の風)

この詩は春の風の詩ですが、私はこの物語を読むと、この詩を思い出すのです。私の心が通り過ぎてしまった青春の風。でも、無くしてしまったわけじゃない。この物語に私の風も託して、今の子どもたちの心が、新しい扉を開いてくれることを願っています。「十一月には扉を開け。」りんりんと、爽やかな鈴の音がするような言葉に、物語の力が宿ります。この本は2011年に講談社の青い鳥文庫から新しい装丁で刊行されています。元々の単行本も好きなのですが、この青い鳥文庫には、高楼さんのお姉さんの千葉史子さんの挿絵がたくさん入っています。これがまた、可愛くて素敵なんですよね。こうして文庫になることで、またたくさんの子どもたちに読まれるといいなと心から思います。

2011年6月刊行
講談社青い鳥文庫

by ERI

かかしのトーマス オトフリート・プロイスラー ヘルベルト・ホルツィング絵 吉田孝夫訳 さ・え・ら書房

最近、かかしが立っている風景をあまり見なくなりました。鳥対策も、最近はCDを並べてつるしたものとか、おっきな目の模様のバルーンみたいなもの(正式名称はなんていうんだろう)だったりで、手間のかかるかかしは、あまり立てないのかもしれません。あの、田んぼの中にぽつねんと立っているかかしって、何だか切ない。「自分があのかかしだったら・・」と想像してしまう。人の形をしているせいでしょうか。寂しくないかなー、とか。誰にも「御苦労さん」とも言ってもらわずに、それでもじーっと畑や田んぼの見張りをしているのが、切なかったり。個人的には、面白キャラクターかかしより、そういう「いつから立ってるんだろう・・・」と思わせるようなかかしが好みです。(って、かかしの好みなんて生まれて初めて考えたんですけどね)

この物語のかかし、トリビックリ・トーマスくんは、そんな正統派(?!)のかかし。キャベツ畑の真ん中で、帽子にマフラー、着古した上着を着て畑を見張ることになるのです。彼はとっても生真面目で誠実。生まれながらに自分の役割をよくわかっています。存在が先か、意識が先か、なんてことを連想させるほど哲学的で考え深いトーマスくんの眼にうつるのは、自分の影に空に雲。キャベツを食べにやってくるウサギたち…振り返ることも出来ない、身動きできないトーマスくんは、限られた視界の中でいろんなことを感じ、考えます。その目にうつる風景は、人間の眼とは少し違います。だって、彼はかかしなんだから。人間なら、一日自分の影を見つめて、大きさが変わっていくのを「不思議だね」と思うなんてことは、普通はありません。自分の体を叩く雨から逃れることもせずに打たれ、そのまま虹を見上げる、なんてこともありません。蜘蛛が自分の目の前で巣を作るのをじーっと見ていることもないのです。トーマスの見ている風景は、私たちが見ているそれと、同じで違う。定点カメラの長回しの風景を時折テレビで見ると、一輪の花が咲いて枯れるまでが人の一生のようにダイナミックで驚くことがあります。あの視点に近いのかも。影が生まれ、消えていく。雲がやってきて飛び去っていく。それをじーっと見つめる彼は、目の前のすべてを「見届ける」のです。そりゃもう、哲学的にもなりますよね。皆、自分の眼の前を通り過ぎ、生と死をくり返していくのだから。トーマスくんの眼の前にやってきては去っていくものが、また、なんと美しく描かれていることか。トーマスくんがこの世で過ごしたのは、人間の尺度で言えばほんの短い間なんですが、心を込めて全てを見届ける彼にとっては無限にも感じられるほどのものだったのかもしれません。そのせいで、彼は「旅に出たい」と思うようになったのかもしれないな、と思うのは、「月日は百代の過客にして・・・」なんて連想してしまう日本人だからかもしれません。

その彼の願いは、唐突に叶えられます。その消え方には、訳された吉田さんも書いておられますが、びっくりしました。でも、プロイスラーがトーマスくんにこの旅立ちを与えたのが、何だかわかる気もするのです。大地に生まれてそこで生きて旅立っていく、それはとても自然なことだから。この物語の背景は、農場です。種まきから収穫まで、人は一生懸命働いて、大地が野菜を育てて実らせます。トーマスもその営みの一つなんですよね。太陽が昇って沈んで、一年を繰り返して…大きなサイクルの中で、トーマスは自分の命をまっとうしたのです。一生懸命働いて、誰にも振り返られることなく、ぽつねんと自然を見つめた彼に自分の気持ちを重ねてしまう物語でした。読んだあと、彼の孤独が沁みて、その分彼の眼に映ったものが綺麗すぎて、何やら人恋しくなってしまうような物語でもありました。子どもたちは、この物語を読んでどう思うのかな。大人が読むようにトーマスくんに人生を感じる、なんてことは無いかもしれないけれど、人以外のモノに心を重ねてみる、ということを何となくでも感じてくれたらいいなと思います。それが、大切な、目に見えないものを感じる第一歩だと思うから。

プロイスラーは、『クラバート』や『大どろぼうホッツェンプロッツ』が有名ですが、私は『クラバート』という物語が、とても好きなんですよ。あの本の表紙を見ただけで、くらっと異世界に迷い込みます。この本の挿絵も『クラバート』と同じヘルベルト・ホルツイング。彼の描くトーマスの表情の、なんて素敵なこと!わらで出来ているのに、ちゃんと表情がある。この挿絵を見るだけでも価値があります。しみじみと滋味溢れる一冊です。

2012年9月刊行
さ・え。ら書房

by ERI

ソロモンの偽証 第一部~第三部 宮部みゆき 新潮社

連載に9年をかけた大作。読むのも大変だったのだが、何とラスト近くになって、「もっと続きが読みたい」と思った自分に驚いた。テーマとしては、学校という閉鎖社会の中でのいじめと暴力という重くやりきれないものだ。しかし、最後まで読むと、心に光が射してくる。一巻で描かれたやり切れない場所から、この光に至るまでの過程には、なるほどこれだけの分量が必要だったのだと読み終わって納得した。

宮部さんもインタビューでおっしゃっていたが、誰が真実を知っているのかということは、途中で何となく予想がつくのである。しかし、それが物語への興味を失わせないどころか、だからこそますます読み進めたくなる。学校は部外者の立ち入りにくい密室だ。でも、その密室は大人の矛盾やこの社会の理不尽を見事に反映する。いじめ問題も、いくら行政が学校に介入し、手直しを図ろうとやっきになっても、根本的な解決にはならないような気が私はしている。効率よく弱者を切り捨てるのが当たり前という価値観が、大人の社会で大きな顔をしていることを、きっと子ども達は敏感にわかっているんだと思うから。この本は、そんな化け物に対する闘いの書なのだと思う。自分たちで設けた学校内裁判の法廷で、彼らはとことん話し合うことで、自分たちを呑み込もうとする虚無と闘うのだ。誰も真実を教えてくれないまま、うやむやにしてしまおうとする。身勝手な大人の事情を呑み込ませられることにうんざりした中学生たちを立ち上がらせた宮部さんの願いが、とても熱い物語だった。

そう、闘う相手は自分たちにつきつけられた理不尽だから、この学校内裁判では、裁判の勝ち負けではなく、真実にたどりつくことを目的にしている。それが、この法廷の肝だなあと思うのだ。ただ勝ち負けを争うなら、上げ足とりをし合うだけになってしまう。法廷という形をとり、証人と話をし、自分たちの言葉で真実を探そうとする。この、「話す」ということが、大切なんだと想う。昨日、リーマ・ボウイー氏の「祈りよ力となれ」という本を読んでいた。度重なる内戦で家族を殺され、財産を全てなくし、傷つけられ、辛酸をなめたリベリアの女性たちが立ちあがり、男たちが為し得なかった停戦を成し遂げる。その出発点は、自分の過去を語り、話し合い、共有するという営みだった。現実に学校という場所で声をあげるのは非常に大変なことだ。そのことは、自分の中学校時代を思い出しても身にしむほどわかる。こんな闘いは、物語だから出来ることと言ってしまえばそうかもしれない。この物語の中学生たちが出来すぎ、とも言えるかもしれない。(いや、実際、私はこの年齢でも、検察側も弁護側も裁判長も務まらないと思う)でも、この物語の中で積み上げられていく話し合いの中で、中学生たちが初めてお互いの心の中に踏み込んで、心を分け合っていく過程は、宝物だと思う。現実ではない物語だからこそ生まれる宝物がここにはある。その宝物を分け合うことが、微かな光となって私の心に射した。そして、この光が、少しでも現実を照らすものになって欲しいという宮部さんの祈りも、私の心に届いた。その祈りを、私も共有したいと心から思う。

ネタばれになってしまうかもしれないけれど。最後に書かれた短い後日談の中で、健一があれからの自分たちを語った一言を、今悩む子どもたちが言えるようになって欲しい。でも、それはグローバルに通用する優秀な人材(この人材という言葉は傲慢だと思う)を育てることからは生まれないと思う。Xmasの夜に死んでいった柏木くんと、弁護人をつとめた神原くんをわけたものは、優秀さや、そんなことではなくて―暮らしはささやかでも、ちゃんと心を分け合える人がいるか否かということだった。まっとうに生きていれば、人間らしい暮らしが出来る大切さ。そこを忘れてほしくない。もうすぐ始まる衆院選に出てくる政治家の方達には特にね。ちょっとため息ですね・・・。

2012年8月~10月刊行
新潮社