女性のいない世界 性比不均衡がもたらす恐怖のシナリオ マーラ・ステンドール 講談社

妊娠・出産というのは、非常にプライベートで個人的なことであると同時に、いろんな慣習的な圧力が加わってくるものなのである。「跡継ぎを生む」という発想は、その最もたるもの。でも、そのために胎児を中絶する、という発想は私自身は聞いたことがなかった。でも驚いたことに、アジア諸国、特に中国とインドでは男子を望むための中絶が多く、非常に男女の比率が不均衡になっているという。この本は、世界における性比の不均衡の歴史と、現在における問題点、これから起きてくるだろう悲劇について論じた本だ。物知らずの私には、驚く話ばかりだった。そして、はたと気がついた。以前読んだ『私は売られてきた』(パトリシア・マコーミック 代田亜香子訳 作品社)という本で知ったインドにおける少女買春の根っこが、この男女比の不均衡にあったことを。この本によると、この男女比の差は、もとをたどると植民地支配というものと結びついているという。構造的な支配構造が、一人の少女の人生を徹底的に痛めつけるということを、繋がった点と線が教えてくれた。なんともやるせない、でも他人事ではない問題なのだ。だって、私も子を生んだ母なのだから。

子どもを生むということは、とても個人的なことであり、一生に何度もない大切な機会だ。だから、子どもを生む時の選択―例えば産むか否か、もしくは中絶などの決断も、あくまでも判断材料は自分とパートナーの都合を判断材料にすると思う。その自分の決断と社会との有機的な繋がりまでは、おそらくあまり考えが及ばないと思うのだ。だって、お腹を痛めて生んで育てるのは自分自身なのだから。その決断がいかに社会に影響を及ぼすか、などということを考えて子どもを生む人はいないと思う。どんなに少子高齢化が問題、なんて言われても、「じゃ、私が」なんてことにはならない。絶対。ところがだ。あくまで個人的だと思っているその決断が、実は社会的な圧力に左右されているものだったら・・・そう思うと、背筋がひやりとする。この本によると、産児制限は、インドにおけるイギリスの政策から始まったものなのである。つまるところ経済の論理が優先された結果なのだ。日本も実はその例に漏れない。第二次大戦後に、アメリカの支配下にあった時、人口調整のモデルケースに選ばれたのが日本だった。その手段は人工中絶だ。その結果、戦後のベビーブームは団塊の世代だけに留まった。そのモデルケースが韓国に、そして中国に応用される。国をあげての産児制限、つまり人工中絶の推進が行われたのだ。そして、伝統的に「跡取り」という慣習があることから、中絶は女児が多くなる。超音波で性別が判明するようになったことが女児の中絶を加速させた。妊娠中絶はお金になることから、医師たちもそれを黙認していったのだ。その結果、中国では男女の比率が100対120にまで拡大しているという。この数字には、正直びっくりしてしまった。個人の選択のはずが、実は社会的な圧力に左右されてしまう。まず、その怖さを思う。「男子が欲しい」というのは、女性自身の選択というよりは、「跡取りを」という期待にこたえようとするものだろう。そして、個人的なよりよいお産の選択が、今度は社会的な問題となるというのも、当たり前だけれども事実なのだ。

男女比の差は、様々な問題を生みだす。結婚難もそうだし、社会全体が暴力的な傾向を帯びることもある。中絶が日常的に行われることも衝撃だったが、この本を読んでいて一番恐ろしいと思ったのは、ゆがんだ男女比が、女性を危険に陥れることだ。誘拐や売春の強要。少女の頃に売り買いされること。外国人花嫁や一妻多夫。(一妻多夫というのは、例えば一人の女性を兄弟で妻にすることだったりする。げげっ・・・と私なぞは思うが、実際あることらしい)初めに書いた『私は売られてきた』の主人公の少女は、何の知識も与えられぬまま、ネパールから3000ドルたらずのお金と引き換えに売春宿に売られてしまうのだ。あの本を読んだときは、なぜネパールから?というところがわからなかったのだが、この本を読んで疑問氷解だった。インドでは女児が少ないからなのだ。だから、他の国からだまし討ちのようにして連れてきて売春させる。負の連鎖が、少女の人生や尊厳を踏みにじる。負の連鎖は、世界のグローバル化によって多数の国に影響を与えるのだ。人は、すぐに構造的な支配行動の奴隷になる。その引き金をひくのは、いつもむき出しの欲望だ。そのしわ寄せは弱者に集中する。しかし、性と出産というデリケートな問題は、一旦負の方向に転がり出すとなかなか歯止めがきかないように思う。どうすれば良いのかという積極的な提言は、残念ながらこの本にはない。しかし、この問題が、実は他人事ではなくて、私たちひとりひとりの意識の持ち方にあるのだということを、知っておく必要があるように思う。アメリカでも日本でも、今は女の子が欲しいという親が多い。でも、それはもしかして自分たちの「女の子ってこういうもの」という思い込みや、都合のよさが判断基準になってはいないか。この本の問いかけを読んで、そうかもしれないと考え込んでしまった。そういう私も、可愛いお洋服を着せたいから女の子が欲しかったくちなのだもの。

日本でも、新しい出生前診断が始まることで、色々と議論が広がっている。これから、もっともっと新しい技術が開発・応用されていくだろう。そのときに、「自分にとって最善と思われることはなんでもやる」という親の都合がすべてに優先されるべきなのか否か。難しい問題だと思う。誰にだって、一生の問題だものなあ。自分の最善を追求したくなる気持ちはわかる。しかし、だ。一応子育てを一通りしてきた身から言うと、子どもというのは、全く自分の思い通りにはならない存在である。産む前に思っていた親の思惑などは、まずもって粉々に粉砕される。子どもは親が想うよりも強烈に自分を持っていて、どこからか運命のようにやってきて、大きくなったらどこかに行ってしまうものだと思うのだ。こんなことを言うと語弊があると思うのだけれども、猫を拾うのと子どもを生むのは、似たところがあるなと思ったりしてる今日この頃なのだ。全くの偶然で我が家にやってくる猫たちは、それぞれ強烈に個性を持っている。でも、どんな猫も、縁があって一緒に暮らしているうちにかけがえない愛する家族になる。日本語はその点、やはり素晴らしい。「子どもは授かりもの」と言いますもんね。子どもをこれから産む人と、産んで育てた経験のある人とでは、この言葉の腑に落ち方に落差があると思う。そこのところを、大人が、私たちの年齢の女が発言していくことは、本当はもっと大切なことなのかもしれないと、改めて考えてしまった一冊だった。

2012年6月刊行
講談社

by ERI