最初は、ごく普通の町にある図書館の物語かと思っていました。しかし、どうも違うらしいと気づいてから一気に面白くなって読みふけることに。この物語は、近未来の図書館。しかも、本というものがとてつもなく高価で手に入りづらくなってしまった時代の図書館のお話です。まるで骨董品のような扱いを受けている紙の本。それを、登録さえすればただで貸してくれるという、この時代には非常識な場所。それがサエズリ図書館です。そこには、ワルツさんという若くて聡明な特別探索司書(!)がいて、「こんな本が読みたい」というと魔法のように本を揃えてくれる。自分のような本読みが、もしこんな時代に放り込まれたら・・と思うと、えらく切なくなってしまうシチュエーションです。文章も、どことなく切なさを湛えていい感じ。
どうやら、大きな戦争があり、その前と後とで大きく全てが変わってしまっているらしい。そして、このサエズリ図書館が出来た経緯も、ワルツさんがたった一人でこの図書館の全書物を所有していることにも、複雑で悲しい事情が絡んでいるらしい。らしい・・というのは、まだこの物語は「1」で、全てが語りつくされているわけではないからです。一篇ごとに秘密を小出しにする感じが、また後を引いていくのだけれども・・・全ての情報が「端末」で所有されるという設定の中で、「紙の本」が人に働きかけるものが、一層心に沁みました。手の中の重み。紙の匂い。新しい本を一度読むと、少し自分の痕跡が残ること。持ち主がいなくなっても、変わっても、大切に保管されていれば本は長い時間を生きます。一冊の本には命があって、持ち主と一緒に時間をその体に刻んでいく。目の前からいなくなった人とだって、本を開いて同じ世界に飛べば、想いを共有することが出来る。そんな紙の本にしかない温もりが、ワルツさんの本を愛する気持ちとともに伝わってくるようでした。
印象的だったのは「第四夜」の中のワルツさんのひとこと。サエズリ図書館の本を持ちだした女性の「一冊ぐらい、一冊ぐらいいいじゃないですか!」という言葉に対してワルツさんが言います。
「かって、この地で、人はいっぱい、亡くなりましたね」 「たくさん亡くなったんだから、ひとりひとりのことなんて、どうでもいいって。ひとりぐらい死んだっていいって、そう思いますか?」
数の多寡というものに、何故か人は左右されます。殺人なら糾弾されるのに、遥かに多い命が失われる戦争ではそうではないし。数が少ないパンダは何億ものお金で取引されて、たくさん生まれてくる猫や犬は、何十万匹も殺処分して平気だったり。図書館の本が受けることが多い受難も、本屋さんが悩む万引きというやつも、そんな危うさと繋がることなのかもしれません。そして、もしかしたら、そんな危うさは、この物語の中で、終末戦争のボタンを押してしまう過ちにも繋がるものなんじゃないか。自分が愛する本だから、私はこの物語に痛みを感じる。でも、こんなふうに数という目に見えるものに騙されて、見過ごしてしまっていることが私にもあるんだろうなと、考えてしまいました。
あと、このワルツさんが、「特別探索司書」という設定が凄い!何が凄いかというと、ワルツさんは、本に内蔵されたマイクロチップから図書の位置情報にアクセスする権限があるらしい。つまり、どの本がどこにあるか、ということを離れた場所から探索することが出来るらしいのです。これはもう、よだれが出るほど羨ましい(笑)本は、油断するとすぐに迷子になります。何十万冊という本の迷路に隠れてしまう。そんな迷子を捜すのは、私のお仕事の一つです。私はこれが何故か人より得意で、いつのまに~か、私だけのお仕事になってしまったという・・・。常に図書館の中を歩きまわって、棚の本を一冊一冊食い入るようにみつめ、いなくなってしまった子(本)を探しております。いなくなった本を呼ぶと、「は~い」「ここ、ここ」と答えてくれるような超能力が欲しい・・・と思いますね、ほんとに(笑)もちろん、図書館には守秘義務があるので、ワルツさんのような権限を持つというのはとても難しいことなんですが。紅玉さんは、後書きを読むと、どうやら図書館のお仕事をされていた様子。きっと、同じ願望をお持ちだったのだと親近感がわきました。
この後の展開がとっても気になるので、楽しみに2巻を待っていようと思います。
2012年8月刊行 星海社
月別アーカイブ: 2012年9月
かっこうの親 もずの子ども 椰月美智子 実業之日本社
維新の会が国政に進出するとか。よもやそんなことは無いと思いますが、こんな団体が政権とったら大変なことになりますよ。相続税100%とか言ってますけど、そうされて困るのはお金持ちではなく、(お金持ちはさっさと外国へ逃げるでしょう)生活に追われ、汲汲と生きている私たちです。要はお金は親に貰わず自分で稼げ、ということなんでしょうが、人生というものは、100人いれば100通りの事情があります。例えば障害を持っているとか、病気で働けないとか、幼い子どもがいるとか、そんな人は自分の住む家さえ取り上げられたら、どうしたらいいんでしょう。極端な個人能力主義は、弱者の切り捨てに繋がります。その昔、ヒットラーが障害を持つ子どもたちを弾圧したことを想い出してしまう。他人より優位に立つことだけを目指して努力する社会って、考えただけでもため息が出るほどしんどい。発達障害は親の責任だ、などと言い出す人たちのもとで子育てしなければならなくなるとしたら・・・と思うとぞっとします。大体、徴兵制とか言いだしてる時点で怖ろしすぎなんですが、なぜかテレビではそのあたりのことが伏せられてます。どうして?私は大阪の人間ですが、橋下さんにたくさん票を入れて彼を当選させたことは、大阪人の大失敗だと思います。彼は弱者の味方なんかでは、決してないですから。・・・前置きが長くなってしまいました(汗)
いつの時代にも、子育てというのは光と闇が息苦しいまでに同居しているものだと思うのですが、現代の医学の進歩は、これまでなかった苦しみも生みだします。この物語の主人公・統子の抱えている苦しみも、一昔前なら考えられなかったこと。統子は息子の智康をAID(非配偶者間人工授精)で生み、それが原因で離婚、子どもを一人で育てているのです。とことん話し合い、お互い納得した上で選んだ道だったのに、見知らぬ人の精子で妻が妊娠したということを、夫婦として乗り越えられなかった。愛しい我が子の出生に関することだけに、その傷は統子の胸をえぐります。
この物語は、AIDという秘密を抱えて苦しむ統子とともに、今の時代の子育ての問題を見つめていきます。統子親子以外にもたくさんの親子が描かれていて、それが逐一「ああ・・いるいる、こんな人」と思うリアルさなんですよ。我が子を守ろうと抱きかかえた背中で、お互い傷つけあったりしてしまう母親という生き物の愚かしさと健気さに、思わず鼻がツンとしてしまう。仕事との両立。一人前にしなくてはという重圧。小さな子を連れて歩くときの、まわりからの冷たい視線。親同士のいさかい。くたくたになる体。時折訪れる、天にも昇るような子育ての至福の瞬間も含めて、この物語に描かれている逐一は、この身体にも心にも強く記憶としてきざまれていることばかりで、ひたすら共感の嵐です。その喜びと苦しみに翻弄される統子の気持ちに寄り添いながら、AIDという縦糸を見つめているうちに見えてくるのは、「命」というものに対して母親が持っている、根源的な「畏れ」です。畏敬とは少し違う。自分のお腹を使って子を生んだ母は、命がどんなに脆く儚いものかを、背骨に刻む実感として持っているのではないかと思うのです。
自分は一体いつから、こんなに弱くなってしまったのだろう。子どもを持った瞬間から、世の中は怖いものだらけになってしまった。・・・(中略)今の自分は、生まれたての子猫よりも臆病だ。絶対に失いたくないものを手に入れた瞬間から、自分はすっかり怖気づいてしまった。涙もろくなり頑なになり、融通がきかなくなって利己的になってしまった。守るべきものがあるというのは、とても窮屈で心もとないことなんだ・・・
子育ての喜びも苦しみも、怖ろしいほど命の実感と直結しています。統子も、智康と出かけた美しい海辺の至福の瞬間に、自分が死ぬ時のことを想像します。魂だけになったとき、この風景に出逢いたいと思うのです。子どもを、命を生むということは、同時に死も生むことなんです。これが恐ろしくないはずがない。その根源的な畏れに正面から向き合わされてしまうケースもこの物語には描かれます。辛いです・・・でも、これも命を抱えていれば誰にでも起こりうること。だから、母は必死です。愚かでも、盲目でも、もがきながら我が子を抱きしめようとする。このタイトルにある「かっこうの親、もずの子ども」というのは、託卵というかっこうの習性とAIDとの問題を重ねてあると思うのですが、子どもというのは、ある意味すべて、どこかからやったきた、託されたものなんじゃないかとも思うのです。妊娠、出産、子育て、すべてがこんなに自分の想い通りにならないことも珍しいじゃありませんか(笑)私たちはみんな、かっこうに卵を託されて盲目的に子育てする、愚かなもずにしか過ぎない。だから、思い通りにならない同士、もう少し風穴あけて子育てできたら、命という奇跡をもっと愛しく思えるんじゃないか。そんな椰月さんの想いを感じる一冊でした。正直、私にはAIDという子どもの生み方に対する疑問がありました。その疑問はなくなってしまったわけではないのですが、この世界にたった一人の存在を生みだすという奇跡は、どんな事情の中にあっても等価なのだとしみじみ思ったのです。子育て中のお母さん、そしてお父さんにぜひ読んで欲しい一冊です。
2012年8月刊行
実業之日本社
by ERI
とにかく散歩いたしましょう 小川洋子 毎日新聞社
小川さんの新刊『最果てアーケード』を、発売してすぐ買い、ちびちび、ちびちびと読んでいて、まだ終わらない。小川さんの物語は、私にとっては美味しい美味しい飴ちゃんのようなもの。言葉のひとつひとつを口にいれて転がして味わい、そっと舌触りを楽しむ。長期間枕元に置いて、あちこち拾い読みしたり、また一から読んだり、そんなことをしながらいつの間にか自分の中に溶け込んでしまうことが多いので、必ず買って読んでいる割にはレビューが書けなかったりする。言葉があまりに緊密に結びついて物語世界を作っているので、それを他の言葉に置き換えて語りにくい。谷川俊太郎が石原吉郎の詩に対して言った言葉に、「この詩は詩以外のなにものでもない。全く散文でパラフレーズ(語句の意味を別の言葉で解説すること)出来ぬ確固とした詩そのものなんです」というのがあって、なるほどと思ったけれども、そういう意味では小川さんの文章は私にとって詩に近いものかもしれない。きらめきながら一瞬で消えていく風景を見つめ続けるようなもので、ただひたすらそこに自分を失くして埋没してしまうのである。
一方、これはエッセイなので、図書館で借りたのです。そうなると返却期限があるので割と早い時間で読めるのだけれど、いちいち個人的に気になるところが多くて付箋だらけになり、こらあかんわと、やはり購入決定。アゴタ・クリストフが母国語ではないフランス語で『悪童日記』を書いたことが、子どもの言葉の魅力に繋がっていること。漱石の小説の主人公たちが、とにかく散歩ばかりすること。ポール・オースターの声が、とても魅力的なこと。(これは、お友達にまず教えてもらったことだけれど・・・彼は、また好みのタイプの男前!)等々、「そうそう、そうなんよ!」と、自分がいつも思っていたことを、小川さんの的確、かつ美しい文章で綴られているのを読んで、思わず小川さんの肩を叩いて「わかる~~!」と言いたくなったり、やられたわ~、と思ったり(笑)共感と羨望、というのが一番はまるエッセイのあり方だと改めて思ったことだった。
中でも「そうそう!」度が高かったのが、「巨大化する心配事」という項。重大な問題だと、かえってあまり思い煩ず、なりゆきにまかせたりするくせに、ちっさな心配事が膨らみだすと、気になって気になって仕方ない。外で友達とランチしていても、ふっと「あの借りた本、どこに置いたかな」とか「あの受け取り証、もしかして今朝ごみに出してないよな」とか思いだすと、ぶわん、と心配の風船が膨れ上がって私を圧迫してくる。始めて車で出かける場所というのも果てしなく緊張する。あそこで右折するのに車線変更がちゃんと出来なかったらどうしよう、とか思いだすと寝られなくなったりする。ところが、心配性だから失敗しないかというと、ところがどっこい、そうではないところが我ながら悲しい。この間も、コメントでご指摘して頂いたように、レビューを書いた本のタイトルを間違って書いていたりするんである。正直、あれには落ち込みました。本文をどれだけ一生懸命書いても、タイトル間違えてたらしゃれになりませんから!ほんとに失礼なことですよね。ああ・・情けない。でも、どうやら小川さんも同じ性癖をお持ちらしい・・・いや、小川さんは私ほどおバカさんではないだろうが、この「そうそう!」は、落ち込んだ心に沁み入った。小川さん、ありがとうございます。
小川さんは、彼女にしか聞こえないないような、ひそやかな小さな声に耳を傾ける。私は、ビクターの犬のように、少し頭を傾けて、聞こえない音に耳を澄ませる小川さんを想像して敬虔な気持ちになる。小川さんが小説という形で、それを私たちに伝えてくれることに感謝する。小川さんの小説がなかったら、私はあの美しくも怖ろしい、でもなぜか私の座る小さな椅子がある世界を手に入れることが出来なかったのだから。この世界は、スナフキンが言うように平和なものじゃない。小川さんの小説は、生きていくのがどうもあんまり上手くない私の傍にいて、寄り添ってくれる。「とにかく散歩いたしましょう」と小川さんを連れて歩いた犬のラブのように、私を別世界に連れていってくれるのである。小川さんの世界を旅すると、私は穏やかな充足に包まれる。
こんなことをやって、何になるんだろう」と、ふと無力感に襲われるようなことでも、実は本人が想像する以上の実りをもたらしている
小川さんのこの言葉を勝手に心の糧にして、今夜は眠ろう。少しでも、そんな自分でいられますように。
2012年7月刊行 毎日新聞社
by ERI