とっても すてきな おうちです なかがわちひろ文 高橋和枝絵 アリス館

先日、津久井浜にある「うみべのえほんやツバメ号」で開催されていた「高橋和枝絵原画展」におじゃましたときに、この絵本の原画を拝見した。当日は37度になろうとする酷暑で、その前に行った上野では息も絶え絶えになったが、京急の特急で向かった三浦半島の津久井浜という、海風が吹き渡るところはとても爽やかで、生き返ったような気持ちになった。そして、そこで出会った絵本の原画も、私を生き返らせてくれるような気持ちにしてくれたのだ。一階には『ねこもおでかけ』(朽木祥 講談社)の原画。大好きな茶トラの猫、トラノスケがとっても可愛くて、ご自分も猫を飼ってらっしゃる高橋さんの猫愛があふれていた。猫愛は昨年出版された『うちのねこ』(アリス館)にもあふれているのだが、そのモデルの猫さんとの日々を綴った手作りの冊子も拝見できて、とても嬉しかった。そして、二階のギャラリーには、この『とっても すてきな おうちです』の原画が並んでいたのだ。

 

「幸福という言葉が、どのような内容を持っているかは別問題としても、私は幸福になろうと思うし、そう希望することを許されている筈だ。私たちはあまり多くの不幸を知りすぎたので、自分がどんなに不幸であるかということをはっきり知る力を失ってしまっており、そういうほんとうに不幸な状態に完全に慣らされてしまった結果、ばくぜんと、そういう不幸な状態を最もふつうの状態のように考え、そのことから幸福という言葉の本当の意味の重量を知ることができなくなっている。」(石原吉郎「一九五六年から一九八五年までのノートから」石原吉郎詩集、講談社文芸文庫、二〇〇五より)

 

「幸せ」とは人によって違う。特に幸せを欲望と結びつけたときには。しかし、シベリア抑留という生と死の極限を体験した石原吉郎にとっての「幸せ」とは、欲望をかなえる喜びとは違うような気がするのだ。それは、人間が人間として、当たり前に、深々と呼吸をし、生活するようなことではないかと思う。この絵本には、その「幸せ」が見事に息づいている。何も特別なこともない、ただ日の当たる春の庭。アリや、クモや、ツバメが巣を作り、猫と子どもが日向ぼっこをする。それぞれの生き物には「おうち」があって、命の営みがある。お互い食べたり食べられたり、という緊張感はあるけれど、硬く、重たく炸裂し、あたり一面を焼け野原にするものなど何も降ってはこない、共存を許された穏やかな場所。陽射しのなかで、お日様の匂いのする猫の背中に顔をくっつけて、命たちの小さなざわめきを感じながら、うとうと、ごろごろ、する。子どものほっぺと膝小僧も、ほんのり色づいている。「これが/わたしたちの おうちです。/おひさま きらきら かぜが そよそよ/つちが しっとり ほっこり あたたかい。」ツバメの巣のある縁側で、うーんと昼寝のあとの伸びをする頁の絵に、魅入られる。高橋さんの絵は質感がとても柔らかい。植物も鳥も虫たちもたくましい生命力を持っているが、同時にその命の湛えられている体の輪郭はとても柔らかくて傷つきやすい。だからこそ、命は成長するし、形を変えて生き続けることもできるのだ。その儚さゆえの命の力がどの絵からも伝わってきて、心を包んでくれる。

 

ここ数年、そして去年の秋から特に、何をしていても気持ちの裏側に、今、ガザで行われているジェノサイドのことがべったりと張り付いて、消えない。子どもたちが飢え、殺されていくのを世界中が見ていることを思うたび、「幸せ」という言葉自体が崩れ去っていくような気さえする。この状態に自分自身が慣れてしまっている、と思うときには特にそうだ。

「幸せ」はここにある。子どもが柔らかく伸びをし、風がそよぎ、洗濯物がはためいているこの庭に。この「幸せ」を心ゆくまで享受するのはすべての子どもがもっている権利だし、この世界を担保するのは大人の役割だ。改めてそう思う。そう思える出会いがあって、ほんとうに良かった。『ねこもおでかけ』と、去年出版された『うちのねこ』(アリス館)にお宝サインを頂いて、ほんとに「幸せ」な時間だった。

きみは、ぼうけんか シャフルザード・シャフルジェルディー 文, ガザル・ファトッラヒー 絵, 愛甲恵子 訳 ブロンズ新社

 

窓ガラスが割れ、家族の写真も壁から落ち、一目で爆撃されたことがわかる部屋に兄と妹がいる。両親の姿はすでにない。戦車が迫る町から逃げ出さないと命があぶない。途方に暮れる幼い妹に、兄は「ぼうけんかになりたくない?」と言葉をかけ、一冊の本とともに、戦火から逃れ、難民のひとりとなって歩き続ける。生き延びるために、兄は物語の魔法の力を妹と分け合おうとした。次々と直面する苦難に打ちひしがれるたび、兄はその魔法が解けないように、妹に、これは「ぼうけんか」になるための旅だと必死に語り続ける。それは、自分をはげます魔法でもあるのだ。

「さあ、おやすみ……。/ぼうけんかには こわいものなんて なにもないんだ。/もちろん、くらやみだって」

小さな肩に背負う妹の命と、胸に抱えた悲しみ。複雑な気持ちを湛えた兄の表情が切ない。その兄が疲れ果てて力尽きようとしたとき、今度は妹が再び兄に魔法をかけようとする。この、小さい子どもたちが抱いている、大きくて尊い愛情が、柔らかく繊細な絵で伝わってくる。表題紙と最後の頁の折り鶴に心が掴まれる。この物語が、国境を、時代を超えた、苦しみと困難に直面している子どもたちの物語であることを教えてくれているようだ。

殺傷能力のある武器を作り、輸出することを推進しようという動きが活発化している。軍事の専門家、と言われるひとたちの口からも「どんどんやったらいい」などという言葉があちこちで聞こえて驚く。平和主義というこれまで一応でも原則とされていたことが、冷笑と蔑みに汚されていく。そのしたり顔の欺瞞を打ち砕くのは、この子どもが抱く悲しみと愛情ではないかと、私は思う。

この絵本は。2021年度 プラチスラバ世界絵本原画展金杯を受賞している。

ねこもおでかけ 朽木祥作 高橋和枝絵 講談社

 家の近くを飛び交う鳥たちを見ながら、数メートル、時に数千メートルの高度まで飛べる鳥たちには、私たちと全く違う世界が見えているのだろうといつも思う。
 うちの猫たちも、少し開けた窓から外の空気を嗅ぐとき、この町内に住んでいるもの、通り過ぎていくものの気配を、アンテナをびんびん立てて感じている顔をしている。
当たり前だけれども、猫は人間とは違う種族なので、同じ空間にいても、私たちには見えない異世界への扉を持っている。それでいて、寂しがり屋だったり、甘えん坊だったり、やきもちを焼いたり、いたずらして隠れてみたり、一緒に暮らしていると、感情や心のありようが、驚くほど人間と変わらない。
この物語には、そんな猫の魅力がいっぱいに詰まっている。三匹の猫と暮らす私の心のツボにすっぽりはまってくる素敵な物語だ。

主人公の小学生の信ちゃんが愛犬のダンと公園で散歩していると、一匹の茶トラの子猫がダンの足元に走り込んできた。思わずかぶっていた野球帽に入れて連れて帰った、かぼちゃプリンのような色のトラノスケは、大きなダンもタジタジの元気な子。

余談だが、朽木さんの物語に登場する、優しくて食いしん坊のダンが、ほんとに好きだ。彼は、犬種族の信頼と愛情を体現するような存在だなあといつも思う。信ちゃんと、心配性のお父さん、動物大好きのお母さんに可愛がられて、トラノスケは家族の一員になっていく。大きくなった彼は、「ねこのごようじ」のためにお出かけするようになる。トラノスケがどこに行くのか気になる信ちゃんは、こっそりあとをついていき、「ねこのごようじ」の秘密をさぐってみるのだった。
うちにも、トラノスケとそっくりの茶トラくん(現在16歳)がいて、その昔、わが家の周りが田んぼだらけの頃はお外で遊んだりしていたのだ。でも、あっという間に田んぼが埋め立てられ、車の通りも多くなって、心配性の私は、信ちゃんのお父さんのように、彼が帰ってくるまで胃に穴があくほど心配で心配でいてもたってもいられず、ここ十年以上、室内飼いを貫いている。でも、今も思い出す。遊び疲れて、満ち足りて眠っていた寝息。お外に出るとき、意気揚々と弾んでいた足取り。カエルを咥えて帰ってきて大騒ぎしたこと。そして、トラノスケの親友のコタロウと同じように、仲良しのハチワレがいて、いつも一緒に遊んでいたこと。一日遊んで帰ってきたうちの子から、なんともいえないお日様の匂いがしていたこと。あれは、平和の幸せな匂いだ。

遊んで、可愛がられて、おなか一杯食べて、コテンと寝こけて。この物語には、そんな、猫と子どもの幸せがいっぱいに詰まっている。猫と人間、犬と猫、犬と人間。お互い持ってる時間軸も種族も違うけれど、お互いの聞こえない声に耳をすませて、愉快に、共に生きることが出来る。出来るんだよ、という声が聞こえて、ここ最近の、恐ろしい出来事に冷え切った心と指先をふんわり温めてくれる。この物語のトラノスケと信ちゃんは、光村図書の三年生の国語教科書に掲載された「もうすぐ雨に」にも登場するふたり。朽木さんの物語は、先行作品の世界と重なりながら、波紋のように広がり、深まっていくのが、読んでいてとても嬉しく、楽しい。物語と友だちになることは、自分の座る椅子がそこに出来る、ということだ。高橋和枝さんの可愛い絵は、トラノスケと信ちゃんがいる、暖かい陽だまりの居場所に読み手を連れていってくれる。特に、裏表紙のトラノスケのお尻がお気に入り。猫がお尻を見せてくれるのは、友情の証。こっちにおいで、と誘ってくれている。子どもの持つ、小さきものへの優しい眼差しが、トラノスケの心の声となって響いてくる、子どもと共に大人にも読んでほしい作品だ。

 

 

夏に、ネコをさがして 西田俊也作 徳間書店

細やかな、心の隅々まで満たされるような物語だった。大好きだった祖母のナツばあが、急に亡くなってしまった。あまりに突然の別れの日から、ずっと怖い夢の中にいるような気持ちの佳斗と両親は、ナツばあが住んでいた古い家に、引っ越すことにする。ナツばあは、テンちゃんというネコを飼っていたのだが、佳斗たちが越してきてすぐに、いなくなってしまう。ちょうど夏休みの佳斗は、姿を見せないテンちゃんを探して、町中を探して歩く。

私も猫を探して歩いたことがあるのでよくわかるのだが、どこにでも入れる、小さい体の猫の目線で町を見ると、見慣れたと思っていた町が摩訶不思議なダンジョンに思えてくる。ビラを作ってあちこちに貼らせてもらったり、見知らぬ人にも声をかけて手渡ししたりすると、「見かけたら知らせますね」と、思いがけない優しさや心遣いに出会ったりもする。佳斗もテンちゃんを探して歩くうちに、いろんな人と出会う。ナツばあの知り合いや、思い出にもたくさん出会うことになる。

この物語に登場するひとたちは、みんな心のうちに大切な別れや喪失を抱えている。ネコさがしを手伝ってくれる蘭も大好きな猫のメ―を亡くしている。そして、蘭のおばあちゃんは、戦争のときに、供出させられてしまった猫のことを、ずっと忘れられないでいる。それは確かに痛みだが、愛する人や生き物を失った痛みや悲しみは、人が人であることそのものだと、この物語を読みながら思えてくる。佳斗は、いなくなってしまったテンちゃんに導かれるように町を歩き、心のなかのナツばあに出会い続ける。そこにはもういなくても、愛したものたちの話を一緒にすることで、心のなかにひとつ、あかりがともる。物語とは、そんなあかりを、たくさん胸にともすことかもしれない。死者とともに生きることで、人は幾重にも重なる豊かな時間を生きるのだ、きっと。佳斗が、探していたテンちゃんと再会できたのか、それは物語を読んでいただきたい。親子で、ゆっくり読みたい一冊。

 

おばあちゃんのにわ ジョーダン・スコット文 シドニー・スミス絵 原田勝訳 偕成社

昨年刊行された『ぼくは川のように話す』のコンビによる絵本。私はシドニー・スミスの絵がとても好きだ。『このまちのどこかに』(せなあいこ訳 評論社)の冬の都会の風景も忘れがたいし、『ぼくは川のように話す』の、川面のきらめく光にもとても心惹かれた。この『おばあちゃんのにわ』の表紙も、とてもいい。おばあちゃんとぼくのまわりを、うっすらと取り巻く光。まるで二人を祝福するかのようだ。シドニー・スミスの描く光には、時間と季節の表情がある。二人が朝食をとるシーンの朝の光。庭を歩く夕方の光。雨の日にガラス窓から射す淡い光。それが見事に心を映し、響いてくる。

作者であるジョーダン・スコットのおばあちゃんは、ポーランドからカナダに移民としてやってきた人だ。第二次世界大戦中は家族とともに、非常な苦労を味わったとのこと。第二次世界大戦は、ナチスドイツがポーランドに侵攻したとことを皮切りにはじまった。ユダヤ人に対する弾圧も、最も激しかった。有名なトレブリンカの収容所も、アウシュヴィッツの収容所もポーランドにある。ポーランドの総人口の五分の一が大戦中に亡くなっていて、大戦後はソ連の鉄のカーテンの向こうに組み込まれた。今、ロシアと戦争中のウクライナとは隣同士だ。『炎628』や『異端の鳥』という映画を見ると、当時の東欧がさらされていた暴力の恐ろしさの一端が垣間見える。垣間見えるだけで、本当のところはとてもわからない。いろんな当時の記録を何冊読んでもわからないことだらけだ。占領、飢餓、告発、逮捕、連行、病気。このおばあちゃんは、そんな苦難をかいくぐり、故郷から離れ、今は孫と一緒に、穏やかな光に包まれて歩いている。表紙のおばあちゃんの背中は、その幸せなひと時の重みを語っている。

元ニワトリ小屋だったというおばあちゃんの家が、とてもいい。朝の光に照らされて、猫がいて、いろんな果物や野菜がつるされたり、積まれたりしている。ビーツは、おばあちゃんの故郷の味だろうか。ぼくが食べ物をこぼすと、おばあちゃんはさっと拾い上げて、キスをしておわんに戻す。おばあちゃんの中にはたくさんの記憶が息づいているのだろう。言葉の壁があっても、いや、うまく言葉にできないことが、毎日の積み重ねのなかで「ぼく」に伝わっている。この穏やかさが、静かに満ちる安らぎが、実はとても尊く、得難いものであることが、繰り返して読むうちに伝わってきて、心がしんとする。過去と未来と今が、すべてこの一冊のなかで憩っているようだ。手元において、何度も開きたい絵本だ。

 

 

 

『へそまがりの魔女』 安東みきえ文 牧野千穂絵 アリス館

牧野千穂さんの絵と、安東みきえさんのテキストがお互いの良さを引き立て合って、おしゃれで、小さな宝箱のような一冊になっている。牧野さんの赤の使い方が、なんとも心憎くて、洗練されている。絵を眺めているだけで一日過ごせる。魔女が王子に呪いをかける、というおとぎ話の定型をうまく反転させて、どこか不穏な、それでいて心温まるファンタジーに仕上げている。一抹の不穏さと温かさが同居しているのがとても素敵だ

へそまがりの、年老いた魔女のところに、ある日少女が迷い込んでくる。身寄りのない少女は、魔女の家で骨身を惜しまず働くのだが、魔女はいつもそっけない。しかし、実は魔女は、誰かを愛して裏切られることに傷ついてしまっただけで、実は、帰りが遅くなった娘を心配して何も手につかなくなってしまうほど娘を愛しているのだ。大切なものができてしまうと、失うのが怖くなる。その怖さはよくわかる。

いいかい。良いことの裏には悪いこともくっついてくる。ふたつはうらおもてにできているんだ。良いことばかりを手にするわけにはいかないんだよ。」

この言葉を心に刻んでおくと、息をするのが少し楽になるかもしれない。祈りと呪いも裏表。呪いを祝福に変えるラストが嬉しい。

 

 

かぜがつよいひ 昼田弥子作 シゲリカツヒコ絵 くもん出版

大迫力。これは、子どもと一緒に読むと、ほんとに楽しいと思う。

風がびゅうびゅう吹く日に、家でお留守番しているお姉ちゃんと弟が、しりとりを始める。すると、窓の外を、しりとりの言葉で言ったものたちが、どんどん飛んでいく。おうむ、むしめがね、ねこ、こま・・・まじょ!!窓の外に飛び交うものは、どんどんシュールさを増していく。しりとり、っていうものは段々、脱線していくのを楽しむもの。そして、脱線していくとともに、窓の外も物凄いことになっていく。突き抜ける。気持ちいい!

どこまでいくの?というくらい、宇宙の果てまで飛躍したあとの、回収の仕方というか、日常への回復の仕方も面白い。

ナンセンス、というのは滅茶苦茶をやったからと言って手に入るものではない。「しりとり」という言葉の縛りが圧力を生み、絵の力で突き抜けていくのが、楽しくてわくわくする。個人的に「ずるいいるか」と「ろっぴきのまぐろ」がたまらなく好きだ。読み聞かせにもとての良いのではと思う一冊。

 

ぼくって、ステキ? ファン・インチャン文 イ・ミョンエ絵 おおたけきよみ訳 光村教育図書

授業中に、ふと隣の席の女の子が、ぼくを見て「すてき・・・・・・」と言った。

もしかして、ぼくのことを「すてき」って言ったのかな?と思ってから、いがぐり坊主の「ぼく」の日常がきらきらする。瞳だってきらきらしてしまうし、ご飯だっておいしいし、なんだかそのことばっかり考えてしまう。「すてき」ってどういうことなんだろう、ってずっと考える。でも、次の日学校にいった「ぼく」は、彼女が何を見て「すてき」と言ったのかわかってしまう。

この、勘違いしてしまったときの恥ずかしさというか、やっちまった感とか、いい気になっていた自分が恥ずかしい気持ちとか、わかりすぎるくらいにわかる。少年よ、落ち込むことはないんだよ、誰だって一度や二度、いや、何度もその穴に落っこちるものなのだ。いい歳をした大人になってもそうだし、大人だって、その穴に落っこちたときは、なかなか這い上がれないものなんだよ。うん。

それでもこの絵本を読んだあと、優しい気持ちになれるのは、「すてき」という言葉の魔法が、ポジティブに描かれているからだろう。この本のなかで「すてき」と言われているのは、一面にはなびらが散り頻る満開の桜の木。自分の思い込みが恥ずかしくて悲しくなってしまった「ぼく」の心は、「すてき」な桜になぐさめられる。ああ、「すてき」ってこういうことなんだなあと心に刻むのだ。花の命があふれて、皆を幸せにしてしまう。その不思議。すてきなものを見て幸せを感じたり、慰められる人の心のあり方が、愛しいなと思う。さくらのピンクにふんわりと包み込まれるような、優しい絵本だ。

 

リジーと雲 テリー・ファン&エリック・ファン作 増子久美訳 化学同人

淡い黄色とセピア色を基調にした配色がとても美しい絵本。

リジーは、公園の「雲うり」から、小さな雲を買ってもらって「ミロ」と名付けます。リジーは、ミロを大切にお世話します。どこに行くにも一緒です。でも、ミロはだんだん大きくなって、リジーの手にはおえなくなってしまいます。大きくなりすぎた雲は、お部屋に閉じ込めていてはいけないのです。悲しいけれどお別れしなくてはなりません。

子どものときに持っていたもの。名前をつけて慈しんでいたもの。大人になっていくどこかで、別れのときがやってきたりするのだけれども、それは消えてしまうわけではなくて。いつもミロのように、眼差しのどこかに宿っているし、なぜか年をとればとるほど、色鮮やかによみがえってくるように思う。だから、この本自体が、懐かしい記憶のように思えて、何度も頁をめくって細かいところを眺める。カーテンの揺らめきも、雨上がりの空気の匂いも、子どものときのあこがれも、細部まで心のこもった絵のなかにやさしく閉じ込められているようで、うれしくなる。この季節に何度もめくりたい。

カメラにうつらなかった真実 3人の写真家が見た日系人収容所  エリザベス・パートリッジ文 ローレン・タマキ絵 松波佐知子訳 徳間書店

第二次大戦中、アメリカ西海岸に住むすべての日本人と日系アメリカ人が強制収容所に収容され、「敵対外国人」として暮らさなければならなかったことを、当時収容所の写真を撮影した3人の写真家たちの写真を中心に、「日系人たちになにが起こったのか」を伝えた本。

ある属性を有している人々を、「強制収容」するということが、どういうことなのかを、この本は非常に的確に、詳しく教えてくれる。収容所に向かう日系人の一家が、小さな子どもまで荷札のようなものを付けられ、こちらを見つめている。荷札は識別タグで、そこには番号が書かれている。人間を番号で管理しようとする、ナチスの強制収容所と同じやり方だ。強制収容の告示のなかの「ペットの同行は一切認めない」という一文にも凍り付いた。小さな家族の一員を置いていかねばならないということ。それは子どもたちにどんな苦しみと悲しみを残したのだろう。想像すると胸が痛くなる。

挿絵も印象的だが、やはり三人の写真家たちの手によって撮影された写真たちが、違う角度から日系人たちの表情を切り取っていて、興味深い。同じ日系人の宮武東洋が同胞として撮影した写真たちは、写す側と移される側の距離感がほとんどなくて、表情が豊かだ。それに対して3人目の写真家、アンセル・アダムズの撮影した日系人たちは、皆笑顔、笑顔だ。「忠誠を誓うこと、善良な市民であること、真面目で働き者であること」をアピールする必要があったからだ。この笑顔は、収容所から解放されたあとも、「モデル・マイノリティ」として、日系人の人々を縛ったという。この「モデル・マイノリティ(マイノリティの手本)」という言葉は、「マイノリティ(少数派)でありながら、社会的に平均よりも成功しているグループ」を指す言葉で、アメリカにいるアジア系の人に対して、よく使われるそうだ。アジア系だからといって、皆が皆働き者で、従順なわけはないのだが、そうあらねばならないという呪縛がずっとアジア系の人たちにはかかっている。つまり、「白人の眼鏡にかなう者」としてふるまうことを求められているということで、これもまた差別の現れであるということ。なるほどと深く納得した。そして、「忠誠を誓うこと、善良な市民であること、真面目で働き者であること」という三つの価値観は、アメリカ社会のみならず、今の日本の社会の中でも、同調圧力として存在するのではないかと思う。では、私たちは誰の眼鏡にかなうために、そうふるまっているのだろう?

そして、この強制収容という極悪非道なことが、同じく第二次大戦中に日本国内においても行われていたということを、忘れてはいけないと思う。中国や朝鮮の人々を強制連行して労働させていたところがたくさんあったのだ。アメリカ政府は、日系人の強制収容に対して公的な謝罪の文書に署名し、賠償金を支払った。しかし日本は、きちんと過去に向き合うことすら出来ていない。そして、今、私たちが生きている日本のなかにも、外国人を強制収容している場所があり、人権を踏みにじる行為が行われている。そのことも合わせて考えてみる助けにもなる本だと思う。数日前に我が国でも可決した、障害を持つ人や、認知症の人などが使うことが難しいことを無視して、マイナンバーカードを国民皆保険と結びつける強引な法案のこと。人権や生存権を踏みにじる行為があからさまに行われているにもかかわらず、それを無視して、改悪とも言われる入管法を、成立させようとしていること。これもまた、数の力による暴力なのではないかと思う。この本に書かれていることは過去のことではなく、すべて「今」と繋がっていることなのだ。

かげふみ 朽木祥作 網中いづる絵 光村図書

 

「ヒロシマ」「原爆」をライフワークにしておられる朽木祥さんの最新作。

妹が水ぼうそうにかかったせいで、一人で広島にある母の実家で夏休みを過ごすことになった拓海は、近くの児童館の図書室で、白いブラウスに黒のスカート、三つ編みの透き通るような色白の女の子「澄ちゃん」に出会う。しかし、心惹かれたその子とは、雨の日しか出会えない。少しずつ話をするようになった拓海は、女の子が「影の話」を探していること、石けりやらかげふみをして遊ぶことが好きなのに「長いことあそんでない」ことを知る…。

澄ちゃんは「影」をずっと探している。『八月の光 失われた声に耳をすませて』(小学館、2017)の連作短編にも、「影」はいろんな形で、失われた命や声を呼び戻す手がかりとして登場していた。あの日さく裂した「空に現れた二つ目の太陽」は、たくさんの人を、石段や壁に、影だけ残して焼き尽くした。その影たちは長い年月の間に薄れ、人々の記憶からも消え去ろうとしている。この物語は、その影たちを、体温と顔のある、ひとりの人間として立ち上がらせ、温かい血を通わせる。儚げな澄ちゃんに、拓海はほのかな思いを抱く。一人で、慣れないところにやってきた拓海と、一人でずっと影を探してきた澄ちゃんは、どこかで心が共鳴したのかもしれない。近くにいると、日向の温かい匂いのする少女。いつも図書室にいる謎めいた澄ちゃんと、本好きな拓海は本を通じていろんな話をする。

この物語は、朽木さん自身の作品も含めて、たくさんの文学作品が登場する。『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス)のタイムスリップという、ファンタジー要素も重ねあわされ、この物語自体が、時間と空間を旅する小さな船のようだ。

よそからやってきた拓海と、すぐに仲良くしてくれた広島の友人たちと、拓海は川で古いボタンや「石けり」を拾う。それは、あの日に逝ってしまった子どもたちが残したもの。広島もまた、あの日の記憶を幾重にも隠し持つ船のようだ。いっしんに遊ぶ子どもたちのなかに混ぜてもらって、自分の「石けり」を拾ってもらった子も、きっと嬉しいだろう。ここにいるよ、という小さい声が聞こえるようだ。ふっと、見知った顔のなかに、いつもと違う、澄ちゃんのような子が遊んでいるかもしれない。そんな優しい空間が、この物語には広がっている。原爆の話はこわい。恐ろしい。子どもだけではなく、大人でもそう思ってしまいがちだ。

「うまいこと言えんのじゃけど、あの日いきなりおらんようになった人らのことをね、遺族らは、こわいとは思うとらんのよ。ただただ慕わしいっていうか……」

「『こわい』という言葉と『かわいそう』という言葉は、なんだか似てる」という拓海の言葉にはっとさせられる。自分とは違うものを私たちは畏れるが、それは異質なものを排除したい、という気持ちの現れ、無意識に作る心の壁なのだ。物語は、その壁を越えてゆくもの。本という、時間と空間を超えたタイムカプセルと共に長い年月を過ごした澄ちゃんは、拓海の心に刻まれて、これからを生きる子どもたちの希望に、未来を照らす光になっていく。何度も読んで切なくて美しい二人の物語に浸りたい。「この本は、あなたの前の扉です。/扉をあけて、「澄ちゃん」に出会ってくださいね。/わたしたちひとりひとりの「命」について、考えを深めるきっかけになりますように。」というあまんきみこさんの帯文もまた、心に沁みる。

共に掲載されている「たずねびと」は、小学五年生の国語教科書に載っている短編。「さがしています」という『原爆供養塔納骨名簿』のポスターに、「楠木アヤ」という自分と同じ名前を見つけたことが縁で、広島を尋ねた少女の物語だ。このふたつの物語を合わせて読むことで、私たちはかけがえない「記憶」への旅をすることができる。朽木さんが後書きで書いておられるように、ウクライナ侵攻により、子どもたちにも戦争は遠くのことではなくなっている。核もまた、力の顕示や政治の道具として使われることが多くなってきた。それがいかなる惨禍をもたらすのか。改めて心に刻むべきだと思う。

パンに書かれた言葉 朽木祥 小学館

元首相が聴衆の目前で銃弾に倒れるというショッキングな事件があった。犯人はカルト宗教信者の家庭に生まれた二世で、その宗教と繋がりのある元首相を狙ったとのこと。同じ宗教ではないが、私も幼い頃から新興宗教にのめり込む母に悩まされてきた。金銭的にも精神的にも、カルト宗教二世は大きなダメージを受ける。いまだに子どもの頃に叩きこまれた価値観が自分のなかに根深く存在することに気づいてうんざりする。人生の基盤をカルトに左右されてしまう子どもの辛さに溜息がでる。だからといって、その恨みを直接的な暴力に結びつけてしまうのは許されることではないのは重々承知しながら、もし彼に自分の苦しみや状況を語る、自分の言葉があったなら、もし自分で綴れないとしても、自分の痛みと響き合い、問題を可視化してくれる言葉や物語に出会っていたら、と思ってしまうのだ。

 周りがすべて一つの価値観に染まっているなかで自分の言葉を持つことは非常に難しい。抑圧は沈黙を強いるから。しかし、人間が理不尽な力に押しつぶされそうになるとき、人の心を支え、自分のいる場所を客観的に見ることで怒りや絶望を別のエネルギーに変えてくれるのは、「言葉」なのだと私は思う。例えば、隠れ家の日々を批判精神と真摯に思考する言葉で日記に綴ったアンネ・フランクのように。

 この『パンに書かれた言葉』という物語は、イタリア人の母と日本人の父を持つ少女、光・S・エレオノーラ(通称エリー)が、東日本大震災をきっかけに、第二次世界大戦下のイタリアでファシズムに抗おうとしたレジスタンス、そしてヒロシマの記憶を旅する物語だ。彼女のミドルネームは最後まで伏せられている。そこに大切な秘密が隠されているから。

物語は東日本大震災の日々から始まる。余震と停電が繰り返されるなか、「毎日のようにテレビに映し出される光景をいやというほど観て、心が痛いのか痛くないのかわからなくなって、しびれたみたいな感じ」になるエリー。戦争に銃による襲撃と、次々と目の前で繰り広げられる恐怖に、同じようなしんどさを抱えている子どもたちは多いのではないだろうか。エリーは両親のすすめで母の故郷であるイタリアのフリウリの村にあるノンナ(祖母)の家にしばらく滞在することになる。そこで、エリーは、ノンナから、ナチスに連れていかれ消息不明になった当時十三歳だった親友のサラと、レジスタンス活動に身を投じたために十七歳で処刑されてしまったノンナの兄、パオロの話を聞くことになる。パオロは、処刑前に一冊のノートと、自分の血である言葉を書き記したパンを残していった。ノンナはずっとそれを大切にしてきたのだ。

世界中に報道されるほどの大震災があった日本からやってきたエリーに、ノンナがナチス支配下の記憶をしっかり話して聞かせるのがとても印象的だ。ノンナはエリーに、素晴らしい家庭料理を作ってくれる。(これがもう、たまらなく美味しそうで涎が出る)その一方で、人間の罪の暗い淵をのぞき込むような過去の記憶を語り、しっかりエリーに伝えようとする。ヨーロッパにおける戦争の記憶の継承のあり方は、特に加害の過去に蓋をしがちな日本とは全く違う。ガス室に送り込まれた人たち、レジスタンス活動で殺されていった人たちの声を、顔と名前を取り戻し、決して忘れない記憶としてすべての子どもたちが継承していくことが大前提なのだ。エリーは、サラとパオロの話をノンナから聞くうちに、これまで、心のどこかで自分と無関係だと思っていたアウシュヴィッツの光景が、まるで今目の前で起こっていることのように思えてくる。どこかの見知らぬ人ではなく、顔と名前のある存在として人間を取り戻す、というのはこういう営みなのだ。

イタリアから帰ってきたエリーは、今度が自分から広島に行き、祖父母が体験した原爆の話を聞き、広島平和記念資料館で、やはり十三歳で被爆し、死んでいった祖父の妹、真美子の写真に出会う。なぜ、真美子は体中を焼かれて死ななければならなかったのか。戦後もピカドンに焼かれた人たちは、差別と後遺症に苦しみ続けた。エリーの祖父母のヒロシマの記憶は、フクシマへ繋がっていく。

チェルノブイリ原発にロシア軍が侵攻し、世界中が震え上がったのは、つい数か月前のことだ。恐ろしかったのは、ロシア軍が、チェルノブイリでも特に放射線量の高いことで有名な森に野営し、兵士たちが被曝したことだ。チェルノブイリの記憶が、全く彼らには共有されていなかった。決して忘れてはならない記憶が、継承されていなかったのだ。ヒロシマもフクシマも、チェルノブイリも、ショア―(ホロコースト)も、決して過去のものではない。現在進行形の、いつわが身にふりかかるかもしれぬ未来でもある。その未来を生むのは、忘却と無関心なのだ。

パオロが処刑前に、自分の血でパンに書き残した言葉が何かは、読んで確かめてほしい。いつまでも、まるでゾンビのように戦争と暴力を繰り返すのを、「人間ってこんなもの」「弱いものがやられるのは仕方ない」などとうそぶいてやり過ごすのは、もういい加減やめにしよう。言葉の力を信じて、素敵なミドルネームを持つエリーとともに何度も記憶をめぐる旅に出よう。美味しいものもたくさん出てくる、愛しい人たちと出会う旅に。大切な人々から聞いたそれぞれの記憶が少女の心のなかで輻輳し、お互いを照らし、響き合いながら、少女の視界を開いていく。共に旅する私たちの心の扉も。だからなのだろうか、辛く悲しい記憶への旅なのに、読後感は優しい光に満ちている。

一冊の本は大切な記憶への扉だ。ただ、羅列的に知識を得るだけなら、ネットでも出来る。しかし、他者の経験や心の動きを通じて歴史の奥行きを体験し、心に刻むことができるのは、厚みを供えた本への旅が必要なのだ。戦争と暴力の恐怖が世界中を駆け巡っている今、この本が刊行された意味はとても大きい。暴力に、同じ暴力で立ち向かおうとする負の連鎖を断ち切るのは、痛みや苦しみへの真の理解と共感を促す言葉の力であることを信じてやまない。

 

 

うまれてそだつ わたしたちのDNAといでん ニコラ・デイビス文 エミリー・サットン絵 越智典子訳 斎藤成也 監修 ゴブリン書房

 

国とは何だろう。国という大きな枠組みに属していないと、わたしたちが人間らしく生きることは難しい。しかし、「国」というアイデンティティは、私たちを形作る複雑な、無数の要素のたった一つにすぎないはず。好きな音楽、食べ物の好み、どんな家に住み、どんな仕事をしているのか。映画の好みや、それこそ推しのアイドルに至るまで、ひとりの人間のなかには、無数のアイデンティティがある。それなのに、たった一つ、国という帰属のために、敵と味方に分かれて殺しあわねばならぬという価値観に縛られる理不尽から、そろそろ自由になってもいいはずだ。

 

「すべての いきものが、うまれて そだつ」という文章と生き物たちの鮮やかな絵からはじまるこの絵本は、DNAという生き物の「せっけいしょ」について、わかりやすく楽しく教えてくれる。驚くほどはやく成長するもの、長い時間をかけるもの。大きく成長するもの、小さいサイズでおとなになるもの。環境にあわせてDNAの設計書がつくりかえられ、驚くほど多様な生き物たちが、この地球上に生きているという奇跡がどのようにこの青い星に満ちているのか。その理由が科学の力でわかりはじめたからこそ、なお募る不思議さと豊かさが、ぎっしりとこの絵本には描きこまれている。

 

様々な肌の色、髪、体格、服装をした人たちが100人以上いる駅を描いた頁と、動物や植物たちが300種類近く(正確に数えるのが難しいほどたくさん!)も描きこまれた頁が呼応するように配置されているのは、考え抜かれてのことだろう。様々な人種に分かれているように見えるが、私たちは「人間」という大きなひとつの種だ。肌や髪の色の違いは、多様性というDNAの生存戦略。人間のDNAという設計書は、ひとりひとり違うけれども、「わたしたちは みんな おなじ、にんげんだから。」地球上のほかの人たちとも似ていること。そして、地球上のすべての生き物の設計書も、どこか同じところがあって、「みんなが おおきな かぞく」であること。大きな命の樹に実る果実のように。

 

見かけも、生き方もこんなに違う生き物がいる地球の不思議と、それが塩基というたった4つの文字で書かれた暗号から、出来ているんだという驚きを何度も味わいたい。科学は、積み上げられた事実に裏打ちされた大切なことを教えてくれる。動物学者であるニコラ・デイビスは、科学者の視点から、命の不思議を教えてくれるが、そこには深い祈りがあると思う。どうやら、私たち人間の遺伝子には、ある条件がそろうと発動する残虐さが組み込まれている。ゾンビのように蘇る戦争を、これほど繰り返しているのだから。しかし、この血塗られた呪いを解く鍵もやはり私たちのなかにあると思いたい。ニコラ・デイビスは、その鍵のひとつを、子どもたちに手渡したいと思っているのではないだろうか。彼の書いた『せんそうがやってきた日』(レベッカ・コップ絵、長友恵子訳、鈴木出版)という絵本もぜひ読んでほしい。もう、大人たちの憎しみに子どもたちが殺されるのは、たくさんだ。

2021年4月発行

日・中・韓平和絵本 へいわって、どんなこと? 浜田桂子 童心社

今こそ確認したい「へいわ」(平和)の原則

 

お昼時に寄った焼き立てパンの店で、支払いの列に並ぶお父さんと小さな男の子。多分家族の分もなのだろう、パンを溢れんばかりにトレイに載せて「たくさん買っちゃったねえ」「ちょっと買いすぎちゃったねえ」と話していた。温かいパンを抱えた二人を迎える家族の声も想像して、幸せな気持ちになる。同時に、男の子の笑顔にウクライナの避難シェルターで「死にたくない」と泣いていた男の子の泣き顔がかぶり、心が曇る。

 

浜田桂子さんの『へいわって、どんなこと?』というこの絵本を、『戦争と児童文学』の原稿を書いている間、何度も開いて読み返した。戦争の記録を読めば読むほど、この絵本に描かれている「へいわ」(平和)の原則が、まさに原則として的を射ていると思ったからだ。この絵本は平和という抽象的な言葉が具体的にどういうものなのかを、子どもの目線で描いている。注目すべきなのは、その言葉が、すべて「せんそうを しない」「ばくだんなんか おとさない」とすべて決意表明としてはっきり言い切る形になっていることだ。

 

この絵本は「アジアの絵本作家と連帯し、一緒に平和の絵本を作る」というプロジェクトの中から生まれている。各国の絵本作家が集まる南京でのディスカッションの場に持っていくこの絵本の試作では、浜田さんは「ばくだんが ふってこないこと」と受け身の表現として描いていた。しかし、「日本の被害者意識を表している」という意見が出て、話し合いを繰り返すなかで、浜田さんは被害者意識に偏っていた自分の平和認識を見つめなおす。そして「被害認識も戦争の実相を知る上で大事だけれども、本当に戦争を拒否するためには、加害意識を持つことが必要だ」と思うようになったという。(「好書好日」https://book.asahi.com/article/13568012 より)

 これはとても大切な認識だと思う。なぜなら、戦争はまず正義の名のもとに始められるのが常道であり、国民の被害者意識に訴えることから始められるからだ。今回のプーチンによる侵略も、「我々は平和的な解決を目指してきたが、これ以上我々の主権に対する脅威を許すわけにはいかない。ドンバスで行われている残虐行為から人々を救うための派兵」という大義名分が掲げられている。ナチスドイツも、戦争を始めたときの日本も、全く同じ理屈で他国を蹂躙していった。どんな大義名分を唱えられても、どんなに被害者意識を喚起させられようとも、殺し合いである戦争は絶対にしない、武力に対して「No」と言い切ることが、この巧妙なプロパガンダに飲み込まれない意識を育てる。そう思う。テレビで日本の防衛大臣が、チャンスとばかり軍備増強を口にし、首相経験者の国会議員(自称プーチンの友達らしいが)が、あろうことか核兵器の配備まで言い出す始末だが、その発想はプーチンが陥った過ちと同じ道をたどるものでしかない。軍備増強や核配備はますます国同士の緊張を高め、攻撃される糸口になってしまうだろう。誇大妄想にとりつかれた為政者が、防衛と称していたずらに巨大化した軍事力を手にしたとき何が起こるかを、私たちは今目にしている。愚かにも同じ轍を踏めば、次世代の子どもたちに恐ろしい苦しみをもたらしてしまうはずだ。

『戦争は女の顔をしていない』『ボタン穴から見た戦争』の著者スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチは、「血の時代、武器の時代、暴力の時代は去ったのです。そして私たちは、命というもののとらえ方を、今までとは違うものに切り替えるべきなのです。」(文藝2021年冬号・インタビュー(「抵抗するために『聞く』、アレクシェーヴィチの今」)と述べている。彼女はウクライナの隣国ベラルーシで弾圧を受け、国外滞在中だ。暴力で他者をねじ伏せようとするやり方は、もはや過去の遺物として葬り去らねばならない。NHKが放映したイギリス制作の「プーチン政権と闘う女性たち」というドキュメンタリーを見た。ただ選挙戦に立候補したいだけの女性たちを逮捕・監禁するなどというのは、血なまぐさいソ連・スターリン時代の再来でしかない。ロシア国内でも、プーチンのやり方に抵抗しようとして闘い、傷ついている人たちはたくさんいる。「いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる」ことを許さない体制など、ロシアの人々も、もういらないはずだ。

この絵本に書かれている「へいわ」(平和)の原則を、世界中が共有できるようになればと心から思う。「現実はそんなに甘いもんじゃないよ」「お人よしは潰されるだけ」と冷笑されても、「お花畑」と笑われても、何度も何度も言いたい。この原則を、何度も声に出して確認したい。かがり火のように世界の片隅から掲げたい。

 

「へいわって ぼくが うまれて よかったって いうこと。」

「へいわって きみが うまれて よかったって いうこと。」

 

子どもたちが、この言葉を笑顔で言える世界を作ることこそが、政治の目的であり、大人たちの責任であるということを。

 

『戦争と児童文学』繁内理恵 みすず書房 2021年12月10日刊行のお知らせ

この評論集は、雑誌『みすず』二〇一八年四月号から二〇二〇年六月号にかけて十二回連載したもののうち、十篇を選んで加筆・修正を加えたものです。連載は隔月で、枚数も限られていたこともあり、刊行にあたり、随分書き直しました。お手にとって頂けると幸いです。

ここ数年、戦争に関する本を多く読みました。まだまだ勉強し足りない身ではありますが、それでも読めば読むほど、戦争が「今」と深く関係していることを知りました。児童文学が描いてきた戦争。そのなかで必死にもがく子どもたちの姿は過去のものではない。その思いが、この連載と改稿を続けられた原動力のひとつであったと思います。
そして戦争と文学という果てしなく巨大なテーマに打ちひしがれる私を支えてくれたのは、児童文学に込められている愛情と光です。戦争という絶望と狂気ののなかから、作者たちが掲げてくれた灯は、未来を照らしてくれる羅針盤です。そんな児童文学の奥深さと豊かさが、少しでも伝わる本になっていればよいのですが。収録された評論は次の十篇です。

・小さきものへのまなざし 小さきものからのまなざし――越えてゆく小さな記憶  朽木祥『彼岸花はきつねのかんざし』『八月の光 失われた声に耳をすませて』

・命に線を引かない、あたたかな混沌の場所――クラップヘクのヒューマニズムの懐に抱かれて  エルス・ペルフロム『第八森の子どもたち』

・空爆と暴力と少年たち――顔の見えない戦争のはじまり  ロバート・ウェストール『〝機関銃要塞〟の少年たち』

・普通の家庭にやってきた戦争――究極の共感のかたち、共苦compassionを生きた弟  ロバート・ウェストール『弟の戦争』

・基地の町に生きる少女たち――沈黙の圧力を解除する物語の力  岩瀬成子『ピース・ヴィレッジ』

・国家と民族のはざまで生きる人々――狂気のジャングルを生き延びる少年が見た星(ムトゥ)  シンシア・カドハタ『象使いティンの戦争』

・転がり落ちていくオレンジと希望――憎しみのなかを走り抜ける少女  エリザベス・レアード『戦場のオレンジ』

・核戦争を止めた火喰い男と少年の物語――愛と怒りの炎を受け継いで  デイヴィッド・アーモンド『火を喰う者たち』

・歴史の暗闇に眠る魂への旅――戦争責任と子ども  三木卓『ほろびた国の旅』
三木卓と満州

・忘却と無関心の黙示録――壮絶な最期が語るもの  グードルン・パウゼヴァング『片手の郵便配達人』

巻末に、取り上げた作家の作品、そして戦争を描いた児童文学のブックリストを載せています。ぜひ、そちらもお手に取っていただけますように。