ミラノの太陽、シチリアの月 内田洋子 小学館

ここのところ、ずっとパソコンの不調に悩まされていました。ちゃんと立ち上がらないし、すぐに固まってしまう。あれこれやってみても埒が明かないので、とうとうリカバリしました。しかも、リカバリディスクを紛失してしまったので、F10連打からのリカバリという原始的(?!)な方法で。おかげで何とか動くようになったんですが、設定のやり直しやWindowsの膨大な更新やらで、時間と手間が半端なくかかりました。慣れないことをするというのは、ほんと大変です。その作業をしながら、この本を読んでいたのですが、こんなパソコンひとつでも右往左往してしまう私にとって、さらっと異国で家を買ったり、パーティを開いたりしてしまう内田さんは、それこそ遠い月を眺めるような遥かな憧れの存在です。

このエッセイは、『ジーノの家』に続くエッセイの第二弾。緻密な香り高い文章はますます冴え、10編のお話は、まるで巨匠が撮った映画のように鮮やかにイタリアの風景と人間を浮かび上がらせます。私は体質的にお酒があまり飲めないのですが、上質のワインを味わう楽しみというのはこういうものかしらと思わせられる、贅沢な文章です。異国人ならではの眼差しと、深くその国を理解する知力と教養。心に刻んだものを、ゆっくりと熟成させる時間。それが結びついた稀有な文章だと思うのです。イタリアという国で、凛と背筋を伸ばして仕事をし、人との出会いを大切にして生きてこられた内田さんの豊かさが、文章から溢れてくる。「六階の足音」という章に、谷崎の『陰影礼賛』の話が出てくるのですが、イタリアという歴史のある国ならではの陰影の濃さに心が震えます。50年間秘めた恋をやっと叶えた喜びもつかの間、病に倒れてしまう女性弁護士。狷介な夫との長年の確執の象徴のような古い屋敷を守り通す女性の孤独。読み書きを学ばないままに生きてきた老練な一匹狼のような船乗り。小さな駅舎でつましく暮らしながら、確かな幸せを築いた一家・・・人生という思い通りにならない旅を続けながら、彼らがなんと自分らしく背筋を伸ばしていることか。彼らの目に映るイタリアの空と海の色が、見たこともないのに心に映ります。たとえどんな場所にいても、イタリアのいい女は高いヒールの靴をはいて美しく装い、まっすぐ風を受ける。内田さんもそうでらっしゃるのかなと勝手に想像します。

そんな孤独と誇りが香るイタリアもとても美味しいけれど、へたれな私は、滅多にない幸せな風景に惹かれます。この10編の中で特に好きなのは「鉄道員オズワルド」と「祝宴は田舎で」そして最後の「シチリアの月と花嫁」。「鉄道員オズワルド」の海の上に建っているかのような駅舎の家は、想像するだけで光溢れて「幸福」という捉えがたいものが幻のように浮かんでいるみたいです。「祝宴は田舎で」は、とにかく美味しい料理がこれでもかと押し寄せる贅沢な時間。そして、「シチリアの月と花嫁」は、映画の『ゴッドファーザー』を連想するような、痺れる一篇です。誰もが濃い血縁に結ばれた土地で、息を潜めるように日々を暮らす人たちの、ハレの一日です。この上なく清楚な美しい月の化身のような花嫁。その母の着る燃え上がるようなオレンジのドレス。ボルサリーノ帽にダークスーツの男たち。夜の中に浮かび上がる舞踏会・・招待の言葉は「あなたの来年の九月二十五日の予定は、私がお預かりしますが、よろしいか」。そのセリフを見事に形にして見せるイタリア男の実力に、くらっとしました。ずっとケばかりでハレのない私の人生(笑)一生縁のない特別な経験を共有させてもらえるなんて、なんて読書って美味しいんでしょう。この世のどこかに、そんな時間が、空間がある。そう思うだけで、とても豊かな気持ちになれる、素敵な一冊です。

2012年11月刊行
小学館

by ERI

祈りよ力となれ リーマ・ボウイー自伝 東方雅美訳 英治出版

「希望を持つこと以上の苦しみがあるだろうか」
この言葉の重さが、同じ女として深く心に響いた。私たち女は、何があっても日常を保とうとする。だって、子どもにはご飯を食べさせなければならないもの。洗濯をし、少しでも清潔であろうと心を配る。時には、もう何をする気力もないと思っても、日常を放棄することは、たった一日だって出来ない。それが、「生きる」ということだから。心折れてしまう毎日の中で、少しだけ光が見えたとき、「今度こそは」と希望を抱く。でも、その希望が打ち砕かれたとき、見えたと思った光は、刃となって心を貫くのだ。この本は、内戦によって、何度も何度もとことん希望を打ち砕かれた女性が、自ら立ちあがり、希望を現実にした事実を綴った本である。アフリカの内戦について、いろんな本は読むのだが、この本ほど他人事ではないと思ったことはない。女として。子どもを産んだ母として。理不尽な暴力に痛みを感じる人間として、心に深く刺さる本だった。

リーマ・ボウイーさんは、昨年(2011年)のノーベル平和賞を受賞した方だ。リベリアという内戦が続く国で、初めて女性たちが団結して立ちあがり、男たちが成し遂げられなかった停戦を実現させた。その活動の中心となった方である。この本で語られるのは、彼女の半生。リーマさんは、希望溢れる18歳の大学生だった。本当に、日本にも普通にいる、将来のあれこれを普通に思い描く大学生だったのだ。そんな彼女が内戦に翻弄され、夫にDVのような扱いを受けながら4人の子どもを産み、その後シングルマザーとなって働きながら、現在のような平和活動に従事するまでの過程が、率直に語られている。権力・利益・富・有利なポジション。それが、古今東西変わらぬ戦争のモチベーションだ。しかし、その争いで殺され、とことん傷つけられるのは、子どもと女性である。以前『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』(イシメール・ベア 河出書房新社)という本を読んだことがある。リベリアの隣・シエラレオネで、少年兵として過ごした日々のことを綴った本だ。精神を麻痺させるために使われる麻薬と薬。少年たちは、幼い手に銃を握らされて殺戮に駆り出される。悪夢にさいなまれながら、人であることを売り渡さねばならなかった悲惨さは忘れられない。そしてこの本に書かれているのは、女性として経験した内戦の苦しみだ。このような女性の苦しみは、なかなか報道されないし、表に現れない。それは日本でも同じだと思うが、例えば性的な暴力を受けた苦しみは、声高に語ることさえできない性質のものだ。家族にさえ話せない。

―女はスポンジだ―と、私は思う。すべてを自分のなかに吸収する―別れた家族のトラウマも、愛する人の死も、子供や夫の話を聞き、社会や信念の体系が破壊されるのを見て、その痛みまでも吸収する。女は強くなければならず、愚痴を言うことや経験を誰かに話すことさえ、弱さを示すことだからと全部を抱え込んでしまう。

どうやら、戦争における殺戮の欲望は、性的な暴力と深く結びついているように思う。戦争の惨禍をとことん見つめたゴヤが「我が子を喰らうサトゥルヌス」で描き出したように。リーマさんも、レイプの被害こそないが、その例外ではない苦しみを舐めている。戦争の精神的な混乱の中で結婚した夫に、DVを受け、蔑まれながら4人の子を産んだ。その苦しみから立ちあがろうとし、女性のためのトラウマヒーリングの活動に参加しはじめたところから、彼女の闘いは始まった。女性たちが、自分たちの経験した恐怖や苦しみを打ち明け合い、共有すること。そこから、女性達の輪は広がり始めたのだ。そこには、権力や富や、支配欲などは何も関係ない。ただ、自分たちが女であること。奪われ続けることにうんざりしていること。「平和が欲しい」ということ。その祈りが繋ぐ絆だった。もちろん、うんざりするほどのややこしい諍いや、もめ事があったことも書かれている。しかし、「平和が欲しい」という女性たちの座り込み、非暴力の訴えは、男たちが為し得なかった停戦を実現したのだ。

このリーマさんたちの闘いは、女として全く他人事ではない。日本でも選挙が始まって、何やら鼻息荒く威勢のいいことを言う男たちの声が聞こえる。穿ちすぎなのかもしれないけれど、私はその興奮ぶりに、何やら欲望の気配を感じてしまうのだ。私たちが共有すべきなのは、この本に書かれているような苦しみと、平和への祈り。どんなにカッコよく聞こえる議論も、そこを踏まえたものでなければいけないと心から思うのだ。だから女は甘っちょろいんだよ、などという言葉を、この本を読んだ上で吐ける人は、誰もいないはずだ。女性もそうだけれど、男性にもぜひ読んでもらいたい一冊である。

ちなみに、『闇のダイヤモンド』(キャロライン・B・クーニー 武富博子訳 評論社ミステリーBOX)という本には、このリベリアから難民としてアメリカに避難してくる一家の話が描かれている。リベリアの元大統領が、ナオミ・キャンベルに大きなダイヤの原石を贈った話は有名だが、『闇のダイヤモンド』も、ダイヤという欲望の塊が重要な役割を果たしている。この本を読んで、あのリベリアからやってきた親子の苦しみが、余計に胸に迫る。

2012年9月刊行
英冶出版

by ERI

ソロモンの偽証 第一部~第三部 宮部みゆき 新潮社

連載に9年をかけた大作。読むのも大変だったのだが、何とラスト近くになって、「もっと続きが読みたい」と思った自分に驚いた。テーマとしては、学校という閉鎖社会の中でのいじめと暴力という重くやりきれないものだ。しかし、最後まで読むと、心に光が射してくる。一巻で描かれたやり切れない場所から、この光に至るまでの過程には、なるほどこれだけの分量が必要だったのだと読み終わって納得した。

宮部さんもインタビューでおっしゃっていたが、誰が真実を知っているのかということは、途中で何となく予想がつくのである。しかし、それが物語への興味を失わせないどころか、だからこそますます読み進めたくなる。学校は部外者の立ち入りにくい密室だ。でも、その密室は大人の矛盾やこの社会の理不尽を見事に反映する。いじめ問題も、いくら行政が学校に介入し、手直しを図ろうとやっきになっても、根本的な解決にはならないような気が私はしている。効率よく弱者を切り捨てるのが当たり前という価値観が、大人の社会で大きな顔をしていることを、きっと子ども達は敏感にわかっているんだと思うから。この本は、そんな化け物に対する闘いの書なのだと思う。自分たちで設けた学校内裁判の法廷で、彼らはとことん話し合うことで、自分たちを呑み込もうとする虚無と闘うのだ。誰も真実を教えてくれないまま、うやむやにしてしまおうとする。身勝手な大人の事情を呑み込ませられることにうんざりした中学生たちを立ち上がらせた宮部さんの願いが、とても熱い物語だった。

そう、闘う相手は自分たちにつきつけられた理不尽だから、この学校内裁判では、裁判の勝ち負けではなく、真実にたどりつくことを目的にしている。それが、この法廷の肝だなあと思うのだ。ただ勝ち負けを争うなら、上げ足とりをし合うだけになってしまう。法廷という形をとり、証人と話をし、自分たちの言葉で真実を探そうとする。この、「話す」ということが、大切なんだと想う。昨日、リーマ・ボウイー氏の「祈りよ力となれ」という本を読んでいた。度重なる内戦で家族を殺され、財産を全てなくし、傷つけられ、辛酸をなめたリベリアの女性たちが立ちあがり、男たちが為し得なかった停戦を成し遂げる。その出発点は、自分の過去を語り、話し合い、共有するという営みだった。現実に学校という場所で声をあげるのは非常に大変なことだ。そのことは、自分の中学校時代を思い出しても身にしむほどわかる。こんな闘いは、物語だから出来ることと言ってしまえばそうかもしれない。この物語の中学生たちが出来すぎ、とも言えるかもしれない。(いや、実際、私はこの年齢でも、検察側も弁護側も裁判長も務まらないと思う)でも、この物語の中で積み上げられていく話し合いの中で、中学生たちが初めてお互いの心の中に踏み込んで、心を分け合っていく過程は、宝物だと思う。現実ではない物語だからこそ生まれる宝物がここにはある。その宝物を分け合うことが、微かな光となって私の心に射した。そして、この光が、少しでも現実を照らすものになって欲しいという宮部さんの祈りも、私の心に届いた。その祈りを、私も共有したいと心から思う。

ネタばれになってしまうかもしれないけれど。最後に書かれた短い後日談の中で、健一があれからの自分たちを語った一言を、今悩む子どもたちが言えるようになって欲しい。でも、それはグローバルに通用する優秀な人材(この人材という言葉は傲慢だと思う)を育てることからは生まれないと思う。Xmasの夜に死んでいった柏木くんと、弁護人をつとめた神原くんをわけたものは、優秀さや、そんなことではなくて―暮らしはささやかでも、ちゃんと心を分け合える人がいるか否かということだった。まっとうに生きていれば、人間らしい暮らしが出来る大切さ。そこを忘れてほしくない。もうすぐ始まる衆院選に出てくる政治家の方達には特にね。ちょっとため息ですね・・・。

2012年8月~10月刊行
新潮社

エストニア紀行 森の苔・庭の木漏れ日・海の葦 梨木香歩 新潮社

梨木さんが実際にエストニアを旅したのが、2008年。『考える人』での連載などを経て、一冊の本として上梓されたのが、今年の9月末だ。実に4年の間、梨木さんは「内的な旅」(『考える人 2012年秋号』)を続けてらしたのだ。この本で日程を追う限り、それは短い9日間の旅なのである。しかし、そこから始まる梨木さんの精神の旅は、ご自分が根源的に抱える孤独のありかをめぐる遥かな旅だった。そして、その魂の旅は、私の心のアンテナをびりびりと震わせた。読み進めるごとに私がこの本に貼ったメモつきの付箋が、アンテナが震えた痕。梨木さんという渡りの心性を持つ方から発信された示唆は、「個」を超えた力となって私達にある方向を教えてくれるような気がする。

エストニアはバルト三国のなかの一つであり、他の国に入れ替わり立ち替わり支配され続けた歴史を持つ国だ。その複雑さがかえって開発を遠ざけたことと、森羅万象に神が宿る信仰を持ち続けた古い記憶から、自然が手つかずの状態で保たれている。日本では絶滅してしまったコウノトリが、人間とともに暮らしている土地柄なのだ。エストニアで、梨木さんは度々郷愁という言葉を使う。そう・・・何だか私も、読みながら自分の幼い頃に夏を過ごした田舎のことを思い出したりした。深い深い、迷い込んだら二度と出てこられないような山を歩いた記憶。そこを父と歩いて滝まで行った遠い日・・・こんなこと、覚えていたんだと思うような映像が浮かんだりした。父の田舎は、たった一度梨木さんが映像として見た、コウノトリが日本で暮らしていた場所の近くである。夕方には、赤とんぼで空が真っ赤になった。子どもだった私の体をとんぼの大群が包んで通り過ぎていったときの風圧は、生々しい記憶だ。梨木さん一行をげんなりさせた蛭じいさんは、その昔私をまむしの瓶詰で脅かした田舎のおっちゃんにそっくりだし(このくだりには大爆笑してしまった)。それに、養蜂家のおじいさんの語る、不思議な力を持つ女性の話は、『西の魔女』とそっくりだし。自分の記憶や梨木さんの著作の記憶とこのエストニアという国は、なんと重なることだろう。でも、そこは日本ではない。日本が失ってしまったものが色濃く漂う土地で、その昔近所にいたような人たちと出逢いながら、梨木さんの思索は、失われたもの、この世界からどんどん消え去っていく人間以外の生き物へと視点が移り変わっていく。森と、鳥と、動物をこよなく愛する梨木さんは、非常な痛みを持ちながらこの世界を見つめている。その痛みは、自分が人間であることへの罪悪感に近いと思う。

こんな罪悪感を感じる必要などない、という人もいるだろう。私たちは経済という大きな網に組み込まれているのだから仕方ないじゃないか。自分だって便利な生活の恩恵に預ってるんでしょ?そんな罪悪感は偽善でしょ、とか。にやにや笑いで「あんたも共犯だから」と共に汚れることを押しつけられたとき、私たちは口をつぐんでしまいがちだ。しかし、この世界の羅針盤は、他人の、もしくはこの世界に生きるものたちの痛みを自分のことのように感じる人、つまりは罪悪感を原罪のように抱える人たちによって指し示されるように思う。少なくとも、私にとってはそうだ。日本ではカワウソもコウノトリも、オオカミもトキもいなくなってしまった。チェルノブイリの事故のせいで人が強制的にいなくなった土地は、今、絶滅しかけている動物たちの聖地になっているらしい。そういうことを、常に繊細なアンテナで感じ続け、考え続ける梨木さんの心の旅は、今自分がいる場所を考えるきっかけに満ちていると思う。やたらに扇情的に流れてくる情報や、憎しみをあおるような愛国主義が垂れ流される中で、渡っていくコウノトリの視点を持つこと。支配され続けた歴史の中で、憎しみに流されなかった人たちのこと。忘れないために、何度も私はこの本を読むだろう。そのたびに、またこうして考えたことを書いていくと思う。梨木さんが書くことによって発信されたことを、私は受け止めて、受け止めようとしてこんなに拙いものを書く。正直それが何の役にたつんだろうと時々思ったりすることもあるのだけれど・・・梨木さんが抱える「病理のように」と自分でおっしゃる遥かな想いのようなものが自分にもあるなと思う。例え蟻さんのような歩みでも、私が世界の片隅でこんなものを書いているのは、ささやかなフィードバックを通じて「個」を超えようとする願いなのかもしれない。

・・・と、私のようなちっぽけなブロガーにも大風呂敷を広げさせるような、とにかくいろんな要素がぎゅっと詰まった本だった。ただ、梨木さんの見事な風景描写を読むだけでも楽しいし、不思議な幽霊(?)まで引き寄せてしまう、旅の磁力に吸い込まれてもいい。このエストニアと、フィンランドは絶対に行ってみたい。いや、行くぞ、と言葉に出して言霊を引き寄せよう。行くぞ!!

※2012年秋号の「考える人」に、この本に関連したロングインタビューが掲載されています。

2012年9月刊行

by ERI

 

 

 

女性のいない世界 性比不均衡がもたらす恐怖のシナリオ マーラ・ステンドール 講談社

妊娠・出産というのは、非常にプライベートで個人的なことであると同時に、いろんな慣習的な圧力が加わってくるものなのである。「跡継ぎを生む」という発想は、その最もたるもの。でも、そのために胎児を中絶する、という発想は私自身は聞いたことがなかった。でも驚いたことに、アジア諸国、特に中国とインドでは男子を望むための中絶が多く、非常に男女の比率が不均衡になっているという。この本は、世界における性比の不均衡の歴史と、現在における問題点、これから起きてくるだろう悲劇について論じた本だ。物知らずの私には、驚く話ばかりだった。そして、はたと気がついた。以前読んだ『私は売られてきた』(パトリシア・マコーミック 代田亜香子訳 作品社)という本で知ったインドにおける少女買春の根っこが、この男女比の不均衡にあったことを。この本によると、この男女比の差は、もとをたどると植民地支配というものと結びついているという。構造的な支配構造が、一人の少女の人生を徹底的に痛めつけるということを、繋がった点と線が教えてくれた。なんともやるせない、でも他人事ではない問題なのだ。だって、私も子を生んだ母なのだから。

子どもを生むということは、とても個人的なことであり、一生に何度もない大切な機会だ。だから、子どもを生む時の選択―例えば産むか否か、もしくは中絶などの決断も、あくまでも判断材料は自分とパートナーの都合を判断材料にすると思う。その自分の決断と社会との有機的な繋がりまでは、おそらくあまり考えが及ばないと思うのだ。だって、お腹を痛めて生んで育てるのは自分自身なのだから。その決断がいかに社会に影響を及ぼすか、などということを考えて子どもを生む人はいないと思う。どんなに少子高齢化が問題、なんて言われても、「じゃ、私が」なんてことにはならない。絶対。ところがだ。あくまで個人的だと思っているその決断が、実は社会的な圧力に左右されているものだったら・・・そう思うと、背筋がひやりとする。この本によると、産児制限は、インドにおけるイギリスの政策から始まったものなのである。つまるところ経済の論理が優先された結果なのだ。日本も実はその例に漏れない。第二次大戦後に、アメリカの支配下にあった時、人口調整のモデルケースに選ばれたのが日本だった。その手段は人工中絶だ。その結果、戦後のベビーブームは団塊の世代だけに留まった。そのモデルケースが韓国に、そして中国に応用される。国をあげての産児制限、つまり人工中絶の推進が行われたのだ。そして、伝統的に「跡取り」という慣習があることから、中絶は女児が多くなる。超音波で性別が判明するようになったことが女児の中絶を加速させた。妊娠中絶はお金になることから、医師たちもそれを黙認していったのだ。その結果、中国では男女の比率が100対120にまで拡大しているという。この数字には、正直びっくりしてしまった。個人の選択のはずが、実は社会的な圧力に左右されてしまう。まず、その怖さを思う。「男子が欲しい」というのは、女性自身の選択というよりは、「跡取りを」という期待にこたえようとするものだろう。そして、個人的なよりよいお産の選択が、今度は社会的な問題となるというのも、当たり前だけれども事実なのだ。

男女比の差は、様々な問題を生みだす。結婚難もそうだし、社会全体が暴力的な傾向を帯びることもある。中絶が日常的に行われることも衝撃だったが、この本を読んでいて一番恐ろしいと思ったのは、ゆがんだ男女比が、女性を危険に陥れることだ。誘拐や売春の強要。少女の頃に売り買いされること。外国人花嫁や一妻多夫。(一妻多夫というのは、例えば一人の女性を兄弟で妻にすることだったりする。げげっ・・・と私なぞは思うが、実際あることらしい)初めに書いた『私は売られてきた』の主人公の少女は、何の知識も与えられぬまま、ネパールから3000ドルたらずのお金と引き換えに売春宿に売られてしまうのだ。あの本を読んだときは、なぜネパールから?というところがわからなかったのだが、この本を読んで疑問氷解だった。インドでは女児が少ないからなのだ。だから、他の国からだまし討ちのようにして連れてきて売春させる。負の連鎖が、少女の人生や尊厳を踏みにじる。負の連鎖は、世界のグローバル化によって多数の国に影響を与えるのだ。人は、すぐに構造的な支配行動の奴隷になる。その引き金をひくのは、いつもむき出しの欲望だ。そのしわ寄せは弱者に集中する。しかし、性と出産というデリケートな問題は、一旦負の方向に転がり出すとなかなか歯止めがきかないように思う。どうすれば良いのかという積極的な提言は、残念ながらこの本にはない。しかし、この問題が、実は他人事ではなくて、私たちひとりひとりの意識の持ち方にあるのだということを、知っておく必要があるように思う。アメリカでも日本でも、今は女の子が欲しいという親が多い。でも、それはもしかして自分たちの「女の子ってこういうもの」という思い込みや、都合のよさが判断基準になってはいないか。この本の問いかけを読んで、そうかもしれないと考え込んでしまった。そういう私も、可愛いお洋服を着せたいから女の子が欲しかったくちなのだもの。

日本でも、新しい出生前診断が始まることで、色々と議論が広がっている。これから、もっともっと新しい技術が開発・応用されていくだろう。そのときに、「自分にとって最善と思われることはなんでもやる」という親の都合がすべてに優先されるべきなのか否か。難しい問題だと思う。誰にだって、一生の問題だものなあ。自分の最善を追求したくなる気持ちはわかる。しかし、だ。一応子育てを一通りしてきた身から言うと、子どもというのは、全く自分の思い通りにはならない存在である。産む前に思っていた親の思惑などは、まずもって粉々に粉砕される。子どもは親が想うよりも強烈に自分を持っていて、どこからか運命のようにやってきて、大きくなったらどこかに行ってしまうものだと思うのだ。こんなことを言うと語弊があると思うのだけれども、猫を拾うのと子どもを生むのは、似たところがあるなと思ったりしてる今日この頃なのだ。全くの偶然で我が家にやってくる猫たちは、それぞれ強烈に個性を持っている。でも、どんな猫も、縁があって一緒に暮らしているうちにかけがえない愛する家族になる。日本語はその点、やはり素晴らしい。「子どもは授かりもの」と言いますもんね。子どもをこれから産む人と、産んで育てた経験のある人とでは、この言葉の腑に落ち方に落差があると思う。そこのところを、大人が、私たちの年齢の女が発言していくことは、本当はもっと大切なことなのかもしれないと、改めて考えてしまった一冊だった。

2012年6月刊行
講談社

by ERI

すみれノオト 松田瓊子コレクション 早川茉莉 河出書房新社

松田瓊子さんという方を全く存じ上げないまま、この美しい装丁に惹かれて手にとりました。そうしたら、中から宝石のように、ぎゅっと凝縮された美しいものがたくさん溢れてきたのです。松田瓊子さんという方は、昭和15年に23歳の若さで夭折されています。この本は、生前に瓊子さんが書かれたエッセイ、小説と短歌、日記と、「その人・作品について」という紹介を合わせた、愛蔵本のようなしつらえになっています。

田辺聖子さんの後書きによると、瓊子さんの作品は、戦時中に密かに少女たちに愛されていたらしいのです。戦時中の、乙女らしい楽しみも何もかも奪われてしまった中で、「地上に二度とよみがえってこないだろう楽園―美しい自然、愛と善意に満ちた人々、音楽と読書の楽しみ、敬虔な信仰・・・・・・にためいきついてあこがれた」と田辺さんはその魅力について書かれています。野村胡堂の娘に生まれ、当時としては非常に高い教育を受け、オルコットやスピリ、バーネットの作品に傾倒し・・・生きておられたら、きっと児童文学の世界で活躍されたことでしょう。でも、書くことが大好きな美しい人は、若さの真っ只中で亡くなってしまった。この本には、若い情熱のきらめきが、そのままに詰まっています。言葉というのは、不思議です。何十年もの時を超えて、彼女の若い息吹をそのままに感じることが出来る。あの時代に、高い知的環境の中にいた女性ならではの感性や理想のまっすぐな美しさに、心打たれてしまいました。

私は、戦前の教育を受けた方の文章というのがとても好きです。例えば石井桃子さんや村岡花子さん。和歌や古典に培われた床しい日本語と、英語のリズムが溶けあって、何ともいえない典雅な言葉として昇華しているように思うのです。瓊子さんの文章にもその正統とも言える品があって、そこに感受性の鋭さが加わってそれはそれは快いのです。冒頭の「初夏のリズム」というエッセイを読むだけで、彼女がどれだけ自然を愛していたかがわかります。美に対する感性の優れていた瓊子さんは、愛するものが多すぎたのかもしれません。文学に音楽。自然の美しさ。小さな子ども。家族。信仰・・・そして、病弱な体を焼きつくすような恋人への想い。日記を読むと、彼女がどれだけ一日一日に思いを込めて生きていたかがわかって、苦しくなってしまうほどです。特に婚約していた智雄さんに対する愛情のなんと激しいこと。彼女の愛情は時間による浸食も褪色も知らず、ここに焼き付けられています。

瓊子さんははかないもの、小さなもの、いたいけなものをこよなく愛していたようです。そこには同じく儚い命を生きているという切ない眼差しがあったように思います。瓊子さんの姉の淳子さんは16歳で、兄の一彦さんは21歳で結核で亡くなっています。自分も同じ病に苦しんでいた彼女にとって、次は自分という想いは常にあったでしょう。病がちの彼女は自分の小さな世界にあるものを、心込めて愛していた。その命への切ないまでの愛情が、時間も空間も超えて、心に届きます。

戦争という黒雲が日本を覆い尽くす前の時代。この時代の、東京の知的階級の家庭にしか咲かない芳しい女性の美しさは、もうこんな文学の中にしか残っていないのかもしれない。でも、瓊子さんの胸の中に在った理想のまっとうさや正義感の折り目正しさ、美を感じる心は、時代を超える普遍的な価値観だと思うのです。綺麗ごとだと言われたらそれまでかもしれない。でも、人間なんて、本質的にはそんなに変わらないはずだと思うんですよ。今の若い人たちの眼にも、この本の美しさは届くと思うのですが・・・。コナン・ドイルや江戸川乱歩が永遠に愛されるように、「赤毛のアン」や「小公女」「秘密の花園」はいつだって女の子の心を捉えます。若い人がこの本を読んでくれるといいのになと思いながら、思いがけずに出逢った本の頁を閉じました。

2012年9月発行 河出書房新社

by ERI

世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密 山田航 新潮社

今の若者たちは、短歌というものをどれくらい読むんだろう。中学や高校の授業で駆け足で通り過ぎて終わり・・というのが、大多数ではないかと思うんだけれど。かく言う私も、そんなに現代短歌に詳しいわけではないのだが、こういう本を読むと、やっぱり読まなきゃもったいないな、と思う。

風の交叉点すれ違うとき心臓に全治二秒の手傷を負えり

校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け

こういう心の動きに、キュンとこない高校生はいないんじゃないかと思う・・・んだけどなあ。どうなんだろう。膨れ上がった自意識がちりちりする感じ。世界中が夕焼け、と思うむき出しの視線と、そこに漂う不安。ぎゅぎゅっと、「今」が肉薄してくる感じがする。短歌は、当たり前だけれど、千年以上の長い長い歴史があって・・・私たちの使う日本語の言葉の力と呪いのように深く結びついているもの。五七五七七という定型は、そのまま日本語の基本です。だからこそ、一つ使い方を誤ると、ただの陳腐な入れものになってしまう。言葉の力をいったん定型から引き剥がして、再び構築しなければ「今」を語る短歌は生まれないでしょう。この本は、穂村さんの短歌を山田航さんが詳しく解釈し、その解釈に穂村さん自身がコメントを付けたもの。この、山田さんの解釈がとっても面白いです。優れた「読み」は、新しい目を開かせて、作品に新しい魅力を与えるものだと、改めて感じさせられました。

穂村さんと私はほぼ同世代で、自意識の在り方とか、言葉の背景にある時代感覚とかが、理屈抜きで伝わってくるところがあります。その自分の感覚で掴んだものと、山田さんの歌人としての眼差しと心性で掴んだものの違いに、はっとさせられます。

春を病み笛で呼びだす金色のマグマ大使に「葛湯つくって」

by ERI

 

かっこうの親 もずの子ども 椰月美智子 実業之日本社

維新の会が国政に進出するとか。よもやそんなことは無いと思いますが、こんな団体が政権とったら大変なことになりますよ。相続税100%とか言ってますけど、そうされて困るのはお金持ちではなく、(お金持ちはさっさと外国へ逃げるでしょう)生活に追われ、汲汲と生きている私たちです。要はお金は親に貰わず自分で稼げ、ということなんでしょうが、人生というものは、100人いれば100通りの事情があります。例えば障害を持っているとか、病気で働けないとか、幼い子どもがいるとか、そんな人は自分の住む家さえ取り上げられたら、どうしたらいいんでしょう。極端な個人能力主義は、弱者の切り捨てに繋がります。その昔、ヒットラーが障害を持つ子どもたちを弾圧したことを想い出してしまう。他人より優位に立つことだけを目指して努力する社会って、考えただけでもため息が出るほどしんどい。発達障害は親の責任だ、などと言い出す人たちのもとで子育てしなければならなくなるとしたら・・・と思うとぞっとします。大体、徴兵制とか言いだしてる時点で怖ろしすぎなんですが、なぜかテレビではそのあたりのことが伏せられてます。どうして?私は大阪の人間ですが、橋下さんにたくさん票を入れて彼を当選させたことは、大阪人の大失敗だと思います。彼は弱者の味方なんかでは、決してないですから。・・・前置きが長くなってしまいました(汗)
いつの時代にも、子育てというのは光と闇が息苦しいまでに同居しているものだと思うのですが、現代の医学の進歩は、これまでなかった苦しみも生みだします。この物語の主人公・統子の抱えている苦しみも、一昔前なら考えられなかったこと。統子は息子の智康をAID(非配偶者間人工授精)で生み、それが原因で離婚、子どもを一人で育てているのです。とことん話し合い、お互い納得した上で選んだ道だったのに、見知らぬ人の精子で妻が妊娠したということを、夫婦として乗り越えられなかった。愛しい我が子の出生に関することだけに、その傷は統子の胸をえぐります。
この物語は、AIDという秘密を抱えて苦しむ統子とともに、今の時代の子育ての問題を見つめていきます。統子親子以外にもたくさんの親子が描かれていて、それが逐一「ああ・・いるいる、こんな人」と思うリアルさなんですよ。我が子を守ろうと抱きかかえた背中で、お互い傷つけあったりしてしまう母親という生き物の愚かしさと健気さに、思わず鼻がツンとしてしまう。仕事との両立。一人前にしなくてはという重圧。小さな子を連れて歩くときの、まわりからの冷たい視線。親同士のいさかい。くたくたになる体。時折訪れる、天にも昇るような子育ての至福の瞬間も含めて、この物語に描かれている逐一は、この身体にも心にも強く記憶としてきざまれていることばかりで、ひたすら共感の嵐です。その喜びと苦しみに翻弄される統子の気持ちに寄り添いながら、AIDという縦糸を見つめているうちに見えてくるのは、「命」というものに対して母親が持っている、根源的な「畏れ」です。畏敬とは少し違う。自分のお腹を使って子を生んだ母は、命がどんなに脆く儚いものかを、背骨に刻む実感として持っているのではないかと思うのです。

 

自分は一体いつから、こんなに弱くなってしまったのだろう。子どもを持った瞬間から、世の中は怖いものだらけになってしまった。・・・(中略)今の自分は、生まれたての子猫よりも臆病だ。絶対に失いたくないものを手に入れた瞬間から、自分はすっかり怖気づいてしまった。涙もろくなり頑なになり、融通がきかなくなって利己的になってしまった。守るべきものがあるというのは、とても窮屈で心もとないことなんだ・・・

 

子育ての喜びも苦しみも、怖ろしいほど命の実感と直結しています。統子も、智康と出かけた美しい海辺の至福の瞬間に、自分が死ぬ時のことを想像します。魂だけになったとき、この風景に出逢いたいと思うのです。子どもを、命を生むということは、同時に死も生むことなんです。これが恐ろしくないはずがない。その根源的な畏れに正面から向き合わされてしまうケースもこの物語には描かれます。辛いです・・・でも、これも命を抱えていれば誰にでも起こりうること。だから、母は必死です。愚かでも、盲目でも、もがきながら我が子を抱きしめようとする。このタイトルにある「かっこうの親、もずの子ども」というのは、託卵というかっこうの習性とAIDとの問題を重ねてあると思うのですが、子どもというのは、ある意味すべて、どこかからやったきた、託されたものなんじゃないかとも思うのです。妊娠、出産、子育て、すべてがこんなに自分の想い通りにならないことも珍しいじゃありませんか(笑)私たちはみんな、かっこうに卵を託されて盲目的に子育てする、愚かなもずにしか過ぎない。だから、思い通りにならない同士、もう少し風穴あけて子育てできたら、命という奇跡をもっと愛しく思えるんじゃないか。そんな椰月さんの想いを感じる一冊でした。正直、私にはAIDという子どもの生み方に対する疑問がありました。その疑問はなくなってしまったわけではないのですが、この世界にたった一人の存在を生みだすという奇跡は、どんな事情の中にあっても等価なのだとしみじみ思ったのです。子育て中のお母さん、そしてお父さんにぜひ読んで欲しい一冊です。
2012年8月刊行

実業之日本社

by ERI

とにかく散歩いたしましょう 小川洋子 毎日新聞社

小川さんの新刊『最果てアーケード』を、発売してすぐ買い、ちびちび、ちびちびと読んでいて、まだ終わらない。小川さんの物語は、私にとっては美味しい美味しい飴ちゃんのようなもの。言葉のひとつひとつを口にいれて転がして味わい、そっと舌触りを楽しむ。長期間枕元に置いて、あちこち拾い読みしたり、また一から読んだり、そんなことをしながらいつの間にか自分の中に溶け込んでしまうことが多いので、必ず買って読んでいる割にはレビューが書けなかったりする。言葉があまりに緊密に結びついて物語世界を作っているので、それを他の言葉に置き換えて語りにくい。谷川俊太郎が石原吉郎の詩に対して言った言葉に、「この詩は詩以外のなにものでもない。全く散文でパラフレーズ(語句の意味を別の言葉で解説すること)出来ぬ確固とした詩そのものなんです」というのがあって、なるほどと思ったけれども、そういう意味では小川さんの文章は私にとって詩に近いものかもしれない。きらめきながら一瞬で消えていく風景を見つめ続けるようなもので、ただひたすらそこに自分を失くして埋没してしまうのである。

一方、これはエッセイなので、図書館で借りたのです。そうなると返却期限があるので割と早い時間で読めるのだけれど、いちいち個人的に気になるところが多くて付箋だらけになり、こらあかんわと、やはり購入決定。アゴタ・クリストフが母国語ではないフランス語で『悪童日記』を書いたことが、子どもの言葉の魅力に繋がっていること。漱石の小説の主人公たちが、とにかく散歩ばかりすること。ポール・オースターの声が、とても魅力的なこと。(これは、お友達にまず教えてもらったことだけれど・・・彼は、また好みのタイプの男前!)等々、「そうそう、そうなんよ!」と、自分がいつも思っていたことを、小川さんの的確、かつ美しい文章で綴られているのを読んで、思わず小川さんの肩を叩いて「わかる~~!」と言いたくなったり、やられたわ~、と思ったり(笑)共感と羨望、というのが一番はまるエッセイのあり方だと改めて思ったことだった。

中でも「そうそう!」度が高かったのが、「巨大化する心配事」という項。重大な問題だと、かえってあまり思い煩ず、なりゆきにまかせたりするくせに、ちっさな心配事が膨らみだすと、気になって気になって仕方ない。外で友達とランチしていても、ふっと「あの借りた本、どこに置いたかな」とか「あの受け取り証、もしかして今朝ごみに出してないよな」とか思いだすと、ぶわん、と心配の風船が膨れ上がって私を圧迫してくる。始めて車で出かける場所というのも果てしなく緊張する。あそこで右折するのに車線変更がちゃんと出来なかったらどうしよう、とか思いだすと寝られなくなったりする。ところが、心配性だから失敗しないかというと、ところがどっこい、そうではないところが我ながら悲しい。この間も、コメントでご指摘して頂いたように、レビューを書いた本のタイトルを間違って書いていたりするんである。正直、あれには落ち込みました。本文をどれだけ一生懸命書いても、タイトル間違えてたらしゃれになりませんから!ほんとに失礼なことですよね。ああ・・情けない。でも、どうやら小川さんも同じ性癖をお持ちらしい・・・いや、小川さんは私ほどおバカさんではないだろうが、この「そうそう!」は、落ち込んだ心に沁み入った。小川さん、ありがとうございます。

小川さんは、彼女にしか聞こえないないような、ひそやかな小さな声に耳を傾ける。私は、ビクターの犬のように、少し頭を傾けて、聞こえない音に耳を澄ませる小川さんを想像して敬虔な気持ちになる。小川さんが小説という形で、それを私たちに伝えてくれることに感謝する。小川さんの小説がなかったら、私はあの美しくも怖ろしい、でもなぜか私の座る小さな椅子がある世界を手に入れることが出来なかったのだから。この世界は、スナフキンが言うように平和なものじゃない。小川さんの小説は、生きていくのがどうもあんまり上手くない私の傍にいて、寄り添ってくれる。「とにかく散歩いたしましょう」と小川さんを連れて歩いた犬のラブのように、私を別世界に連れていってくれるのである。小川さんの世界を旅すると、私は穏やかな充足に包まれる。

こんなことをやって、何になるんだろう」と、ふと無力感に襲われるようなことでも、実は本人が想像する以上の実りをもたらしている

小川さんのこの言葉を勝手に心の糧にして、今夜は眠ろう。少しでも、そんな自分でいられますように。

2012年7月刊行 毎日新聞社

by ERI

雪と珊瑚と 梨木香歩 角川書店

「滋養」という言葉があります。ちょっと古めかしい匂いがしますが、「栄養」というのとは、ニュアンスが違う。しみじみと心と体にしみ込んで、命を永らえさせるもの。弱っていたところを修復してくれるもの。そんな意味合いの言葉かと思うのですが、この物語を読んでいる間、この言葉が何度も頭に浮かびました。
主人公は、雪という赤ん坊を抱えて一人生きていこうとする、シングル・マザーの珊瑚。彼女自身もシングルマザーの母を持つのだが、ネグレクトでほぼ放置されて生きてきた。頼る人もない孤独な身の上で乳飲み子を抱え、途方にくれている彼女の目に、「赤ちゃん、お預かりします」の張り紙が映った。思わず飛び込んだ珊瑚は、そこでくららさんという年配の女性に出逢う。くららさんは、『西の魔女』のおばあちゃんのように、傷ついて行き場のない珊瑚と雪を受け入れる。その出逢いから、珊瑚の人生が広がり始める―・・・。
『西の魔女が死んだ』は、「魔女修行」というおばあちゃんの教えが、ラストでまいに見事なカタルシスを与える、エブリデイ・マジックの物語でした。この物語では、その魔法は、「食」に込められています。この、くららさんの作るご飯が、それはそれは美味しそうなんです。元は修道院にいたというくららさんだから、派手な料理は一切なくて、お大根を煮たお汁で作ったスープとか、小松菜と水菜の炒めたのとか、お野菜をメインにした、しみじみした料理。それが、珊瑚の心を満たし、雪の身体を作っていくのが、読んでいてまっすぐ伝わってきます。珊瑚は、ネグレクトの中で育っているので、これまでの人生の中で、全面的に誰かに心を許した経験がない。苦しい経験をしてきたからこそのプライドもある。でも、このくららさんという人は、長年信仰に生きてきた懐の深さがあって、そんな珊瑚の生き難さを、ふわりと受け止めて放さない。『西の魔女が死んだ』の、まいとおばあちゃんの関係もそうでしたが、保護者と被保護者(この言葉は適切ではないかもしれないけれど、どうも他に思いつかなかった)の関係でありながら、お互いの尊厳を損なわず、向き合える―そんな難しい在り方を、梨木さんは見事な呼吸で描きます。支え合うけれども、べたべたはしない。この凛とした空気感は、読んでいてとても心地いい。その中で、珊瑚は、手さぐりで自分の生き方を探していきます。
子どもを産む、育てる、というのはそれまでの生き方や価値観が、がらりと変わる時なんですよね。
「どんなときでも、自分さえしっかり頑張れば大抵のことは何とかなる。現に何とかなった、自分の力でやってきた、という自負と確信のようなものが珊瑚にはいつもあったのだ。」
ずっと気を張って生きてきた珊瑚の人生に、見事に欠けていたもの。それが、「食」です。家に帰っても食べるものがない。飢えまで経験するような苛酷さの中で、いつも疎外感に付きまとわれてきた珊瑚が、初めて人の手から暖かい「食」を手渡される。それがきっかけとなって、珊瑚は人に「食」を提供する仕事をしたいと思うようになる。唐突に思われる、この珊瑚の方向転換は、「母」になったことのあるものなら、理屈ではなくわかることだと思います。母になるということは、たった一人の子の母になると同時に、この世界に生まれている命を強く意識するようになること。たくさんの人に守られていないと生きていけない赤ん坊を持つことで、これまで見えていなかったことが見えるようになる。満たされなかった「食」への想いが、命への慈しみとなって珊瑚の中で膨れ上がっていく過程が、「カフェを開く」という実際的な道のりの中で実直に描かれていくのが、とても興味深くて、まるで自分がカフェを開く準備をしているような気持ちで読みました。そして、この珊瑚が開いたカフェの、なんと居心地のよさそうなこと!!木々の中に埋もれるように建っている民家を利用したカフェ。静かで、ゆったりした時間が流れているここに、私も美味しいコーヒーと食事をしにいきたいと切実に想ってしまった。近くに、こんな場所があればどんなにいいかしらと思う。
・・・と、こうして書いていると、いいことづくめのサクセスストーリーの物語のようですけど、梨木さんなので、そうはいきません。ネグレクト。子を愛せない母、そして愛していても、我が子を信頼できない母。父親の不在。宗教。祈り。食の安全に対する不安。アレルギー。簡単には答えの出ない問いを、梨木さんは丁寧に静かに投げかけます。しかも、梨木さんは、ラスト近くで、この珊瑚の生き方そのものをガツンと否定するような爆弾まで用意するんです。絶対に、ただの「いい話」では終わらないんですよね。真面目に、真摯に向き合えば向き合うほど、葛藤も苦しみも大きい。そこから決して目をそらさない厳しさが、慈しみと同居する。そこが大きな魅力です。そして、その葛藤があるからこそ、ラストの雪の言葉が、胸に迫ります。この無垢な言葉に込められた命の輝きに、ほろほろと心がほどけていくようでした。

梨木さんは実は危うい方なのかもしれないと思います。もちろん小説を書いたり、芸術に人生を捧げようとする人たちは多かれ少なかれ、危うさを抱えているものだと思うけれど。梨木さんは、世間のイメージとは裏腹に、実は非常に激しいものを抱えてらっしゃる方なのではないかと思うんですよ。梨木さんが、鋭敏なアンテナでこの世界から受け取ってらっしゃることは、きっと言葉に出来ることの何万倍もある。その感覚と思考の奔流に押し流されて、どこか遥かな場所に行ってしまわれるのではないかと思う・・・そういう意味での危うさを感じる時があります。深い教養と知性の間に、その危うさが顔をのぞかせるのが、また梨木さんの魅力ではあるけれど、時として置き去りにされてしまうような気持ちにさせられてしまうこともあったりします。『沼地のある森を抜けて』から、『ピスタチオ』まで、私はしばしばそんな想いに囚われていました。でも、この本は、そんなトロい私を置き去りにせず、様々なことを語りかけてくれた。大好きな『西の魔女が死んだ』の、続編のような雰囲気もあって、そこも嬉しかった。発売と同時に買って、何度も何度も読み返してしまいました。きっと、これからも何度も読み返すことになると思います。まだ新刊なので、ネタばれになるようなことは書けないので・・もう少し時間が経ってから、またもう一度詳しくレビューを書いてみたい作品でした。(ほんまに書けよ!)

2012年4月刊行 角川書店

 

by ERI