『戦争と児童文学』繁内理恵 みすず書房 2021年12月10日刊行のお知らせ

この評論集は、雑誌『みすず』二〇一八年四月号から二〇二〇年六月号にかけて十二回連載したもののうち、十篇を選んで加筆・修正を加えたものです。連載は隔月で、枚数も限られていたこともあり、刊行にあたり、随分書き直しました。お手にとって頂けると幸いです。

ここ数年、戦争に関する本を多く読みました。まだまだ勉強し足りない身ではありますが、それでも読めば読むほど、戦争が「今」と深く関係していることを知りました。児童文学が描いてきた戦争。そのなかで必死にもがく子どもたちの姿は過去のものではない。その思いが、この連載と改稿を続けられた原動力のひとつであったと思います。
そして戦争と文学という果てしなく巨大なテーマに打ちひしがれる私を支えてくれたのは、児童文学に込められている愛情と光です。戦争という絶望と狂気ののなかから、作者たちが掲げてくれた灯は、未来を照らしてくれる羅針盤です。そんな児童文学の奥深さと豊かさが、少しでも伝わる本になっていればよいのですが。収録された評論は次の十篇です。

・小さきものへのまなざし 小さきものからのまなざし――越えてゆく小さな記憶  朽木祥『彼岸花はきつねのかんざし』『八月の光 失われた声に耳をすませて』

・命に線を引かない、あたたかな混沌の場所――クラップヘクのヒューマニズムの懐に抱かれて  エルス・ペルフロム『第八森の子どもたち』

・空爆と暴力と少年たち――顔の見えない戦争のはじまり  ロバート・ウェストール『〝機関銃要塞〟の少年たち』

・普通の家庭にやってきた戦争――究極の共感のかたち、共苦compassionを生きた弟  ロバート・ウェストール『弟の戦争』

・基地の町に生きる少女たち――沈黙の圧力を解除する物語の力  岩瀬成子『ピース・ヴィレッジ』

・国家と民族のはざまで生きる人々――狂気のジャングルを生き延びる少年が見た星(ムトゥ)  シンシア・カドハタ『象使いティンの戦争』

・転がり落ちていくオレンジと希望――憎しみのなかを走り抜ける少女  エリザベス・レアード『戦場のオレンジ』

・核戦争を止めた火喰い男と少年の物語――愛と怒りの炎を受け継いで  デイヴィッド・アーモンド『火を喰う者たち』

・歴史の暗闇に眠る魂への旅――戦争責任と子ども  三木卓『ほろびた国の旅』
三木卓と満州

・忘却と無関心の黙示録――壮絶な最期が語るもの  グードルン・パウゼヴァング『片手の郵便配達人』

巻末に、取り上げた作家の作品、そして戦争を描いた児童文学のブックリストを載せています。ぜひ、そちらもお手に取っていただけますように。

月白青船山 朽木祥 岩波書店

この物語のプロローグをもう何度読み返したことだろう。追っ手の気配を感じながら闇の中で笛に隠された瑠璃を塚に埋める若者。若者を導くような、妖しく光る白猫。この幻想的かつ、若者の血と汗の匂いまで感じるほどの緊迫した空気に肌が総毛立つような気さえする。ここから、引きずり込まれるままに物語にのめり込んでいく気持ちよさは唯一無二だ。物語は一旦夢から醒めたように現代へと移り、兵吾と主税という古風な名前を持つ兄弟が登場する。ある事情で夏休みの間東京を離れ、父の生まれた古い家に滞在することになった二人は、近所に住む靜音という少女と犬のダンと共に、不思議な場所と現実を行き来する一夏を過ごすことになる。

鎌倉には、八〇〇年近く前からの落ち武者の道である切り通しがそのまま残っているという。三人と一匹は、その切り通しから、時が止まったまま流れない村に迷い込む。その村の桜はつぼみのまま咲くこともなく、人々は闇に食い尽くされそうになりながら恐れと不安の日々を繰り返している。三人と一匹は、村人に失われた瑠璃を取り戻してほしいと頼まれるのだ。現代に帰ってきた彼らは、「星月谷」「大姫」「瑠璃」という言葉を道標に、鎌倉に秘められた悲しい伝説に迫っていく。歴史という地層が積み重なっている鎌倉という土地の魅力、小さな手がかりから謎を解き明かしていく探偵の謎解きのような面白さ。吾妻鏡をベースにした古典世界に触れる典雅な趣。あちこちにちりばめられている、次の本への扉。開けても開けてもきりが無い玉手箱のような作品世界の深みにため息が出る。これだけの複雑な構成をするりと読ませる手腕はさすがとしか言いようがないが、何より心打たれるのは、子どもたちが歴史や時間の壁を越えて、悲しみや痛みに閉じ込められた過去の魂を解放していくところだ。

この物語には幾つかの時代の深い悲しみが、夜空を貫く天の川のように流れている。いや、流れているならば良かったのだ。理不尽にもぎ取られ、踏みにじられたまま置き去りにされた悲しみ。その過ちを解放するのは、「不思議なできごとを苦もなく信じられる」子どもの力だ。その力は物語の力そのものでもあるし、大人の心に秘められた子どもの心を取り戻すことでもある。時間が止まった村の人々の願いを叶えたいという子どもたちの行動が、現在を生きる大人の心もまた動かしていく。ミッションを果たした子どもたちが見た鮮やかな風景は、その力の具現化したものなのかもしれない。「歴史とは過去と現在の対話である」とE・H・カーは述べている。まるで自分と関係なさそうな歴史の出来事が、実は現在と地続きの場所で繋がっていることを子どもたちは実感する。鎌倉という歴史と深く結びついた土地で、過去との対話を通して開いた心の扉は、未来を開く扉でもあるはずだ。物語への旅は、すぐに現実を変えるものではない。しかし、この旅で子どもたちと読み手の心には、先の見えない未来へ進むときの方向感覚のようなものが宿るのではないだろうか。いつか、この物語を手に鎌倉を旅してみたい。靜音や兵吾や主税とともに、輝く星空を眺めてみたい。

2019年5月 岩波書店

バレエシューズ ノエル・ストレトフィールド 朽木祥訳 金子恵画 福音館書店

 三人姉妹がいる。ポーリィンとペトローヴァとポゥジ-という可愛い名前の三姉妹だ。彼女たちはロンドンの大きなお屋敷にコックやメイドたちと暮らしているが、実は三人ともみなしごだ。屋敷の主人である大叔父の化石収集家が、世界中のあちこちで出会った親と暮らせない赤ちゃんを、お屋敷に送ってよこしたのだ。だから彼女たちは誰一人、実の親と会ったこともない。お屋敷を管理しているシルヴィアと彼女の乳母のナナ、コックやメイドたちと暮らしている。大叔父さんはポゥジーを送ってよこしてからは全くの行方不明。彼女たちは残されたお金で細々と暮らしているので、生活は倹約一筋。食事だって、お芝居で体験する『青い鳥』のチルチルとミチルとあまり変わらないくらいだ。だから、一番の問題は、子どもたちの学費をどうするかなのだ。教育にはお金がかかる。三姉妹は家計を助けるために舞台芸術学校に入り、自分で人生を切り開いていこうとする。

この物語の面白いところは、登場人物たちの誰一人、血が繋がっていないというところだ。大人たちは血の繋がっていない三姉妹にこれでもか、と愛情を注ぐ。親代わりの真面目で人の良いシルヴィアも、厳しくて世話焼きで愛情深い乳母のナナも、下宿人としてやってきたシェイクスピアの専門家のジェイクス先生も、数学の専門家のスミス先生も、芸術学校の先生のセオさんも、自動車修理工場の経営者のシンプソン夫妻も。教養であったり、知識であったり、ちょっとした楽しみであったり、自分たちが持っている有形無形の豊かなものを、チームを組んで三姉妹に注ぐのに何のためらいもない。それは三姉妹がみなしごだからとか、かわいそうだから、というところから発生した行動ではないように思う。目の前に困っている子どもがいるのなら、何かしら出来る大人が迷い無く手を差し伸べるのが当たり前でしょう、という潔い割り切り。こういうのを、ノブレス・オブリージュというのかもしれない。風邪をひいたポーリィンに薫り高いジンジャーティーを入れながら、彼女たちが姉妹になったいきさつを聞いたジェイクス先生がさらりと言う。

「あなたのことが、ほんとにうらやましいわ。そんないきさつでフォシルを名乗ることになったり、思いもかけないめぐりあわせで姉妹ができたりなんて、胸がおどるようなことだわ」

個としての人間の誇り高さをお互いに持ち合う、そんな人生の過ごし方がこの物語の中にいい風を吹かせていて、その空気を思い切り深深とすいこむのがとても心地良い。百年前のロンドンが舞台の物語なのだが、少しも古くない。ストレトフィールド自身がプロとして関わってきた商業演劇の神髄が感じられるし、何より少女たちの日常のデティールが見事に描かれている。彼女たちがいつも苦労する、オーディションのドレスにまつわるあれこれ。細かい生地の値段まで、額を付き合わせて真剣に相談するのを読んで共感しない女の子はいないだろうと思う。クリスマスの楽しい一日。夢のような舞台の裏にある現実。出演料の計算まで、しっかり描かれていておもしろい。完訳の強みだ。隅々まで考え抜かれた訳文はどこまでも読みやすく、やはり惜しげも無く豊かなものがさらりと詰め込まれているのが伝わってくる。子どもは親の愛情だけで育つのではなくて、こんなふうに様々な大人たちの眼差しや優しい手に包まれることが理想なのだと思う。この本に託された祈りのような愛情もまた、その優しい手の一つなのだ。

姉妹たちはつましい暮らしのなかで、思い切り笑って、悩んで、自分たちで答えを探していく。美貌で長女の責任感にあふれたポーリィン。本当は自動車と本が大好きで、舞台が苦手なペトローヴァ。バレエの天才で、幼さと老練さが同居する不思議な個性のポゥジ-。彼女たちは失敗もたくさんするけれども、そのときの大人たちの見守り方も素敵なのだ。装丁も美しく、訳注も後書きも何度も読んで飽きない。長く手元において、繰り返しこの姉妹たちに会いたい。

2019年2月刊行 福音館書店

むこう岸 安田夏菜 講談社

 印象的な表紙だ。渋谷のスクランブル交差点のような場所を、制服を来た少年が陸橋から見下ろしている。中三の和真は、有名中学に猛勉強の末に入学したものの、落ちこぼれて公立の中学に転校した。頭の中は惨めな敗北感でいっぱいだ。そして、もう一人、見下される場所に閉じ込められ、水槽の中の金魚のように窒息しかかっている少女の樹希がいる。父が借金を残して死に、パニック障害を抱える母親は働くこともできない。生活保護を受けながら、母親のかわりに家事をして妹の面倒を見ている。この物語は、スクランブル交差点をすれ違う人たちのように、この社会のなかでほとんどお互いの姿を見ることのなかった二人が出会い、見つめ合うところから何が始まるのかを描いた物語だ。 

「けどさー。生まれた家によって、できることって決まっちゃうんだよねー。愚痴じゃないよ、それがほんとだもん。」

 

樹希には夢がある。しかし、生活保護を受けている家庭では、大学進学は許されない。高校を卒業すれば、働くことが義務づけられている。結局、この生活からは抜け出せないのかという憤りと理不尽。「働かずに金もらえるんだ」とさげすまれることに、樹希は疲れ果てている。まるで、閉じ込められた水槽の金魚のように、窒息しかかっている。

ふとしたことでアベルというナイジェリア人の父を持つ少年の勉強を見ることを樹希に頼まれた和真は、「居場所」というカフェでアベルと勉強をはじめる。それまで「貧しい世界」に住んでいる人たちのことを怖いと思い、嫌悪感を抱いていた和真は、樹希とアベルと知り合ううちに、二人の居場所の無さが、自分の孤独と響き合うのを感じ、安らぎを覚えるようになる。そして、樹希の夢と、それが叶えられない理不尽を知って、生活保護のことを調べはじめる。

生まれる場所や環境、性別、親の有無。生まれる場所を私たちは選べない。選べないからこそ、私たちの人生は社会や歴史の構造的な問題と密に繋がっているのだが、生まれた場所しか知らない子どもたちからは、その仕組みは見えない。見えないままに、あなたたちはそこにいるしかないんですよ、という理不尽を、あたかも自分で選んだ道のように思い込まされることになったりする。その不条理にぶち当たり、もがく二人の姿が、いちいち胸に響いてくる。ひたすら人に勝つことを親に求められる和真と、とにかく貧乏人は大人しく小さくなっていろと言われる樹希の苦しみは、そのまま、大人社会の生きづらさと理不尽に繋がっているからだ。

しかし、二人はただ黙って負けてはいない。同じ空気を吸っていても違う場所にいた二つの視線。それが交差し、ぶつかる場所で火花が散って、化学反応のようにお互いの心に燃えていくものを、安田は骨太に描き出す。面白いのは、その希望の火が「知る」という養分を吸って燃えさかっていくところだ。自分たちの権利とは何か。生きていく尊厳とは何か。とっつきにくい法律のなかにその問いかけがあり、叶えられていない理想があり、対応しきれていない現実があるということが、実感をもって迫ってくる。そして「知る」ということが行動に繋がる。そこが、とてもいい。この世界は変えられる。その気概が読み手の胸を叩いてくる。

和真が最後に見つけた、自分が「知りたい」「学びたい」となぜ思うのかという問いに対する答えを、何度も読んで私は心に刻んだ。子どもたちだけではなく、ぜひ大人にも読んでもらいたい。感じてもらいたい。そして、心に火を燃やしてほしい。この世界を変える火を。

2018年12月刊行

茶色の朝 フランク・パブロフ・物語 ヴィンセント・ギャロ・絵 高橋哲也・メッセージ 藤本一勇・訳 大月書店

この物語は、ファシズムが音も無く静かに自分の日常の中に入り込んでくる恐怖を描いたもの。猫が増えすぎるという「問題を解決」するために、「茶色以外の猫をとりのぞく制度にする法律」を「仕方がない」と承諾したことが始まりになって、どんどん取り締まりは広がっていきます。茶色の犬以外の禁止へ。過去に茶色以外の犬猫を飼っていた人たちへの弾圧へ。いつの間にか、茶色以外のものは全て許されない朝を迎える恐怖です。以前読んだ記憶があるので、すっかりレビューを書いたつもりになっていたのに、検索してみたら無いんです。つまり、前回読んだときには、この恐ろしさが身にしみていなかったのでしょう。私も、この恐怖を見過ごしてきた一人です。

教育勅語を復活させ、教育の現場に銃剣で人を殺す方法を持ち込む。それがいつの間にか、閣議決定や、党議拘束で縛られた国会で決まっていく。権力は常に子どもを支配しようとします。子どもを洗脳すると、優秀な兵隊になっていくのは、戦前の日本の教育やヒトラーユーゲントの政策、今も世界中で増え続けている少年兵を見れば、明らかなこと。

もう何年も前から、ひっそりと教科書は政権寄りに改訂され続けているし、「個」より国や全体に奉仕することを目標にした道徳教育も、本格的に実施されます。いつの間にか、私たちの生活は茶色に染まっているのです。過酷な労働。格差の拡大。原発の再稼働。沖縄の基地問題。銃剣で人を殺す以外にも、戦争はそこここに、転がっている。何が出来るのだろう。何が。焦りながら、策を持たない私に、後書きの高橋哲也さんのメッセージが染みます。何が出来るのかを、私は誰かに教えて貰わずに、自分で考えなければならないのです。この違和感や疑問、恐怖を決して手放さないことを軸にして。

いろいろな形はそのまま残っている。家族や会社や、学校や、音楽や、映画や、そんなものは変わっていないのに、いつの間にか精神はそっくり入れ替わっている。でも、形はそのまま残っているから、誰も変わってしまったことに気づかない―これは、丸山眞男の評論で紹介されている、ヒトラーが台頭していった時代について語ったドイツの言語学者の証言です。同じことを繰り返してはならない。何十年かあとの子どもたちに、なぜ、あの時に止めておいてくれなかったのか、と言われないためにも。

 

 

あひる 今村夏子 書肆侃侃房

三つの短編それぞれがお互いの補助線のような役割を果たしていて、読み終わったあと、ほの暗く浮かび上がってくるものがある。それは、家族という形の不気味さだ。

この物語たちの中で、個人名で呼ばれるものは、あひるの「のりたま」と、子どもたちだけだ。大人たちは父、母、弟、おばあさん、という役割としての呼び方しかされない。二つ目の「おばあちゃんの家」のおばあちゃんに至っては、孫以外の家族から「インキョ」と呼ばれている。役割の中に、「個」は埋没してしまい、見えなくなってしまっている。

彼らが守ろうとしているのは、形だ。あひるののりたまは、あっという間に死んでしまう。空っぽになったケージに、しばらくしてまたあひるが帰ってくるが、それは明らかに違う個体のあひる。しかし、老夫婦はあひるを入れ替えたことを、自分でも忘れてしまったかのように振る舞う。あひるが入れ替えられたのは、子どもたちを呼び寄せるためだが、彼らは子どもが本当に好きだから、呼び寄せたかったわけではない。「子どもがいることが幸せ」だという形に拘っているからなのだ。

その形が本当に幸せなのか、幸せとは何なのか、この物語の中にいる人たちが自分に問うことは、無い。いや、そこを問いただしてしまったら、かろうじて保っているものが粉々になってしまう。それは、きっと果てしなく面倒なことなのだ。何があっても毎日ご飯を食べて、生きていかねばならないから。だから、見ないことにする。見ないことで、その形に馴染んでいるうちに、空っぽな自分になっていく。その不気味さをあぶり出しているのは子どもの眼差しだ。子どもの目は、見たくないものを見ないようにする、という取捨選択をしない。出来ないのだ。全てを等価に見る、その回路を通ってあぶり出されるものは、形と心を同じものだと思い込む暴力だ。死んでいくあひるは、その暴力に命を奪われる。

自分の名前を持たずに死んでいくあひるは、間違いなく私の中にも、私の家庭にもいる。この社会のあそこにも、ここにも。さらりとそれを平易な言葉遣いで書き上げてあるのがいい。この人の書いた児童文学が読んでみたいと思う。

海に向かう足あと 朽木祥 角川書店

この物語は、近未来ディストピア小説だ。朽木さんは、この物語を、未来への強い危機感をもって書いたという。折しも、アメリカの大統領が交代し、彼が次々と放つ手前勝手な政策は、世界中を混乱に陥れている。この不安の中で読むこの物語の、なんとタイムリーで美しく切なく恐ろしいことか。

主人公は、エオリアン・ハープ(風の竪琴)号という美しいレース用のヨットを共有している6人のクルーたちだ。オールドソルト(年期の入ったヨット乗りのこと)の相原さん、照明デザイナーの寡黙でいい男のキャプテン村雲。家族思いの公務員三好。物理学者で政府の研究機関に勤める諸橋。可愛い泉ちゃんという妹のいる若い研人と、バイトで生活費を稼ぐ他はすべてをヨットに捧げるヨットニートの洋平。彼らはチームでレースに出る。そのために、生きていると言っても過言でもないほどの海にとりつかれた男たちだ。
彼らは、新しい船を手に入れて、シンプルで最上の滞在型ホテルのある三日月島を起点にしたレースに出る計画を立てる。前半では、その楽しい未来に向かっての、光溢れる充実した日々が鮮やかに紡がれる。しかし、読み進むうちに、彼らを取り巻く世界の空気が徐々に影を増していくのが伝わってくる。そして念願のレース当日、なぜか応援に来るはずの家族も現れず、電話も繋がらない。ネットとかろうじて繋がった電話からの断片的な情報から伝わってくる現実に、ヨット乗りのユートピアのような島で、彼らは恐ろしいまでの絶望に見舞われてしまうのだ。

作者は、クルーたちの家族や恋人、ペットや仕事との関係を前半で細やかに描いている。そのディテールの楽しいこと。特に海とヨットの情景のすばらしさは、朽木ファンなら『風の靴』でお馴染みで、嬉しいことに、やっぱり彼らのホームは『風の靴』の舞台でもある風色湾だ。つまり、この湾のどこかには、海生のおじいちゃんの別荘があり、アイオロス号が係留されているんだと思うと、一気に想像は膨らんでいく。この作品は成人向けなので、主人公たちの世界も広い。特に寡黙なキャプテン村雲と、どこか儚げな輝喜の恋は印象的だ。残る5人の個性も鮮やかで、彼らが楽しげに船を走らせる、そのあれこれを読んでいるだけで、自分も海の空気を吸っている気持ちになれる。そう、かけがえのない日常の美しさが溢れているのだ。

6人が協力しないと走らないヨットのように、私たちは目に見えない糸を、共に生きる人や動物、土地や仕事、大切にしている場所に編み目のように張り巡らせて生きている。その奥行きと肌触りを、作者は6人のクルーたちを中心に、これまでの作品世界も重ねて緻密に描きあげ、奥深い作品世界を作り出す。だからこそ、彼らを襲う絶望が、彼らが失ってしまったものの重みが、自分の痛みのようにずっしりと伝わってくる。私は初めて読んだとき、ラストシーンの切なさに涙が止まらなかった。

「だけど、俺たちにとっては、いきなりなんかじゃない。俺もお前も、お前らも、ぼんやりとでもわかってただろう。こんな日が来るかもしれないって」

最年長の相原さんのこの言葉は、きっと、今誰しもが持っている不安そのものだ。だからこそ、今、世界を不安が覆い始めた今、読んで欲しい。この物語は、一つの絶望の形だ。しかし、これは生きる喜びと輝きをふんだんに詰め込んだ絶望、たくさんの人がこの絶望を噛みしめて別の足あとを作って欲しいと願う希望でもある。

 

車夫2 いとうみく 小峰書店

浅草を舞台に、人力車を引いている「吉瀬走」という少年を軸にした連作短編の二作目。「力車屋」の男たちや、そこにやってくる客の視点で一話が描かれる。走は両親の蒸発、という事情があって一人で力車屋にやってきた。他の男たちも、何かありそうなんだが、一作目ではあまりわからずにいた。この「わからない」というのもミステリアスでいいのだが、この二作目では少しずつ彼らの事情がわかっていくのに、ときめいてしまう。いきなり間合いをつめるのではなくて、この連作のように、人とも小説ともゆっくり知り合うのが好きだ。そして、二作目まできて、前作にぼんやりと感じていたことが、ますますくっきりしてきた。それは、この物語が、去るものと去られるものが複雑に交差する物語だということだ。

それを象徴するのが、冒頭の「つなぐもの」だ。この物語は、走という少年が母に置き去りにされてしまうところから始まる。いつも、そこにあると思っていた日常。部活をして、ご飯が用意されていて、進学すると思っていた場所から遠く離れてしまった彼が見つけた居場所が、力車屋だ。しかし、この「つなぐもの」は、走に置き去りにされてしまった部活の仲間の少年遠間直也の視点から描かれている物語だ。走は、自分が去ったことが、これほど仲間たちの心に影を落としていることには気づいていないのだろう。この人間の立体感を短編連作という形で見せてくれるのが、この物語の面白いところだ。人は、案外自分が人にどんな波紋を投げかけているのか、知らぬまま生きている。

「ストーカーはお断りします」「幸せのかっぱ」「願いごと」「やっかいな人」「ハッピーバースディ」と、その他に五つの短編が収められていて、走や力車屋の人たちのところに様々な人たちがやってくる。走たちも彼らも、大切な人や、当たり前にそこにあると思っていた場所を失ったり、無くしかけている人たちだ。しかし、つかの間、走たちの車に乗り、いつもと違う場所から自分を眺めて、笑顔を一つ抱えて帰っていく。その笑顔がまた、走たちの心を動かしていく。そのダイナムズムをとらえる作者の目は鋭くて優しい。人はそれぞれの人生を、それぞれの速度で駆け抜けていく。親子や夫婦でも、全く同じ歩調で歩く、などということはできないし、いつも何かを置き去りにしたり、失ったり、ぐるぐる堂々巡りしたりしながら生きている。この力車屋に集まっている面々の顔ぶれも、心のありようも、数年後には変わってしまっているのだろう。この物語の底に流れている切なさは、かけがえのない「今」が鮮やかに刻印されているせいではないだろうか。

最後の「ハッピーバースディ」で、走は自分を捨てた母から自分の意思で旅立っていく。縁も人との関係も、失ったものも、またそこから初めて自分で掴んでいけばいい。このシンプルな願いにたどり着くまでの走の心の軌跡が、人力車の轍のように鮮やかに胸に残って切なく、後悔だらけの人の生が愛しくなる。「やっかいな人」で、1の冒頭に出てきたミュールの女の子が出てきてしまったから、「車夫」はもうこれで終わりなんだろうか。「3」が読みたいなと、もう思っているのだけれど。

あと、これは余談だが、前作からずっと高校生という年齢の子たちのセーフティネットについて気になっている。走の場合は事業に失敗した父親がまず蒸発し、生活に行き詰まった母親も走を置いていなくなった。私学に通う走は学費も払えなくなり、家賃も生活費もなく一気に行き場を無くして途方に暮れてしまう。走は、先輩の前平くんが力車屋に連れてきてくれたから良かったものの、いろんな理由で親を頼れなくなる高校生は、きっととても多いのではないかと思うのだ。人と人との繋がりが薄くなり、自己責任という冷たい言葉が大きな顔をしている今、相談したり、頼ったりできる大人が身近にいる子は少ないだろう。そして、見た目は大人に近い高校生の子たちを食い物にしようとする闇は、あちこちにぽっかりと口を開けているはず。彼らの困難を捨て置いて、いいはずがない。いとうさんのこの作品はそういう社会に対する一つの問いかけでもあると思う。

一三番目の子 シヴォーン・ダウド パム・スマイ絵 池田真紀子訳 小学館


一人の女が産んだ一三番目の子を、その子の十三番目の誕生日に、生け贄に捧げよ。そうすれば、一三年間の繁栄が約束される。約束が守られないとき、村は暗黒の神ドントによって滅ぼされるであろう。その呪いにより、主人公のダーラは、明日一三歳の誕生日を迎え、足に石をくくりつけ、海に沈められるのだ。ダーラはそのためだけに、家族からも離されて育てられてきた。

この残酷な一日を、作者は様々な眼から描いていく。ダーラの、死を目の前にした夜。恐怖に震える彼女の前に、一度も会ったことのなかった双子の兄・バーンが現れる。村では、一三番目の子を誰も産みたがらない。二人の母・メブも、自分が双子を妊娠していることに気付かなかったのだ。十二番目に生まれたのが男の子のバーンで、十三番目が女の子のダーラ。しかし、この最後の夜に、二人はクロウタドリの案内で、「運命の裏側」を覗くことになる。どちらが十三番目の子どもだったのかを知ってしまうのだ。真実を隠してきた母の悲痛な叫びと、それを笑う産婆の会話を聞いた二人が、それぞれお互いを助けるために死を決意する。その姿に、母のメブは「どうかこの一度だけ、正しい道をお示しください!」と神に叫ぶ。

生け贄になるダーラ、双子の片割れのバーン、母のメブ、家族はそれぞれの苦しみにあえいでいる。なぜ殺されるのが自分なのかという苦しみ。また、なぜ自分ではないのかという苦しみ。二人の子のどちらかを選ばねばならなかった母の苦しみ。そのどれもが、抑制された音楽的な文章からずっしりと伝わってくる。彼らの苦しみは、愛情と贖罪ゆえの、人としての苦しみだ。この苦しみも恐ろしいが、この物語の中で一番恐ろしいのは、この家族の傷みを全くの他人事として見放している、その他大勢の村人たちだ。これまでそうだったから、という思考停止。一人の命を捧げることで、大多数の人間が幸せになるなら、それが正しいという考え方。皆にあわせておかないと、矛先が自分に向かってきちゃ困るんだよね、という気持ち。その名前を名乗らぬ人たちが、声を揃えて「二人とも殺せ!」と叫ぶのだ。

シヴォーン・ダウドが、この物語を神話のような舞台設定にしたのは、この苦しみと無関心が、人間がずっと抱えている普遍的なものであることを伝えたかったからなのではないか。私たちは、ダーラとバーン、メブ、どの立場にも運命のいたずらでなり得る。しかし、知らず知らずのうちに、海に沈む子どもを無感動に眺めていることが多くはないか。こんな犠牲が間違っている、と声にあげることを怖れて見て見ぬふりをしているのではないか。子どもたちを縛る呪いは、他でもない人間が作り上げたもの。それを断ち切ったのは、双子と母の勇気だったが、本当はこんなことをさせてはいけないんだ、という強い気持ちが物語の底から伝わってくる。シヴォーン・ダウドは、『ボグ・チャイルド』でカーネギー賞を受賞した、将来を嘱望される作家だったが、47歳でこの世を去った。貧困地域や少年院など、本を読む環境にない子どもたちへの読書活動にも関わっていた方だったらしい。私は翻訳されたものを全部読んでいるが、どれも忘れがたい作品ばかり。彼女の未発表作品を、こうして美しい本にして出版して貰えて、本当に嬉しい。

パム・スマイの挿絵と装丁が素晴らしく、物語を一羽の鴎になって目撃するような、神秘的な気持ちにさせられる。手元に置いて、何度も何度も読み返したい。運命のいたずらに巻き込まれた痛みに震えるときも、この世界で一番美しいものに触れたいときも。そして、今、自分がこの物語のどこに立っているのかを確かめたいときも。呪いの連鎖を断ち切って、新しい土地に降り立った若い二人の背中が眩しい。これからを生きる、若い人たちに読んで欲しい本だ。

2016年4月刊行
小学館

エベレストファイル シェルパたちの山 マット・ディキンソン 原田勝訳 小学館


うちの図書館で高校生むけの冊子を作るというので、急いで読了。山岳小説も色々読んだが、シェルパを主人公にした小説は珍しいのではないか。エベレストという特別な山の魅力と、主人公のシェルパの少年・カミのピュアさが呼応しあって、厳しく美しい物語になっている。

物語は、ボランティアでネパールにやってきたイギリス人の少年を道案内役に進行する。急病にかかった彼を看護してくれた美しい少女・シュリーヤの頼みで、彼女の恋人であるカミを探しにいく。そこまでがまず大変なのだが、エベレストにも、カミという少年にも、簡単には会えないということなのだろう。「ぼく」が見たものは、首から下の機能を失ってベッドに横たわるカミの姿だった。物語は、そのカミの口から語られる。アメリカの有名人ブレナンを隊長とした登山隊に、シェルパとして参加したカミが、何を見、何を経験したのか。作者はカミの人生にも深く踏み込んで、彼がひとりの人間として、どんな希望や決意を持ってこの登山に臨んでいるのかを描き出していく。古くからの慣習が根強く残る土地で、カミが生まれながらの婚約者ではなくシュリーヤとの恋を成就させるには、お金が必要だった。この登山は、カミにとって将来を切り開くための大きなチャンスだった。カミのシェルパという仕事への誇りとシュリーヤへのまっすぐな愛情が、この物語の大きな魅力だ。

  しかし、高額なお金が動くエベレスト登頂は、まっすぐな情熱以外の様々な思惑や事情を孕んでいる。隊長のブレナンは、将来の大統領候補とも言われる人物で、それだけに注目度も高い。ブレナンにとっても、どうしても成功させなければならない登頂なのだ。しかし、エベレストは気高く来るものを拒む。様々な困難を乗り越えて、たった二人で頂上を目の前にしたカミとブレナンがした選択は、その気高さに相応しいものだったのか否か。

エベレスト登頂の経験がある作者は、様々な思惑を持って集まってくる人間達の事情を、リアルに描き出している。やはりそこにはお金が動いていて、名誉や名声が欲しい人間の欲望も渦巻いているのだ。しかし、エベレストはそんな人間たちを、丸裸にしていく場所だ。たったひとり、「個」として偉大な存在に向き合ったときに、どう生きるのか。自分以外、誰も知らない嘘を、人はつき通すことが出来るのか。負けるとわかっている道を進む勇気とは何か。人の、真の強さとは何か。様々な問いを投げかけて、何も言わずそびえ立つ山の存在感に痺れ、魅入られる一冊だ。

絲山秋子さんの読書会 in MARUZEN &ジュンク堂梅田店

『薄情』(新潮社)『小松とうさちゃん』(河出書房新社)の二冊の刊行記念読書会に参加してきた。大阪では珍しい、絲山さんご本人も交えての読書会。20人ほどが集まって、小さな会場はいっぱいだった。集まった方のスタンスも色々で、小さな切り抜きも全て集めています、というファンから今日初めて買ってみました、という人もいたりした。でも、それがまた面白かったのだ。ほんの一時だけれど、絲山さんに惹かれて集まった人たちの想いが小さな世界を作っていた。それぞれの不器用な言葉を真摯に受け止める絲山さんの包容力に包まれて、幸せな一時だった。  絲山さんの作品の豊かさ、短いものでも、そこに含まれているものの深さと広がりについて皆が語ると絲山さんが「それはきっと皆さん自身の豊かさなんです。私の作品は、その出力装置にしかすぎない」(言葉そのままではないので、ニュアンスだけ)とおっしゃった。でも、その出力装置の性能が半端じゃないから、皆これだけ語っちゃうんですよ!と申し上げたかったが、言いそびれてしまったのでここに書いておきます。

土地と人間の結びつきについて。住んでいる土地が、人を作るのではないかということ。これから書きたいと思ってらっしゃること。様々お伺いしたが、「面白いことに、言葉で書いてあることについての感想は人それぞれなんですが、言葉で書いていない部分については、共通点があるんです。」という言葉が印象的だった。作品という一つの山に、いろんな道から登ることが出来て、でも、同じ風景も心に感じることが出来る。これが文学の自由さでもあり、広がりでもあるんだなあと。帰宅して、『小松とうさちゃん』を読みましょう、と思いながら、ふと『海の仙人』が読みたくなって取り出したらはまってしまい、すっかり敦賀の海辺で時を過ごしてしまった。幸せだった。『薄情』と『小松とうさちゃん』のレビューは、また改めて。

「離陸」http://oishiihonbako.jp/wordpress/?s=%E9%9B%A2%E9%99%B8

「妻の超然」http://oisiihonbako.at.webry.info/201012/article_9.html

「末裔」http://oisiihonbako.at.webry.info/201104/article_4.html

「ばかもの」http://oisiihonbako.at.webry.info/200810/article_14.html

「北緯14度」http://oisiihonbako.at.webry.info/200901/article_14.html

『八月の光・あとかた』 朽木祥 小学館文庫 

2012年に刊行された『八月の光』は、ヒロシマをライフワークにしている朽木祥の渾身の一作だ。「雛の記憶」「石の記憶」「水の緘黙」という連作短編は、静かな筆致であの日を描きだす。失われた声を、体温のあるかけがえない記憶としてよみがえらせ、「個」から普遍へと繋ぐ見事な構成の三部作だ。(レビューはこちら)この文庫版では、そこに「あとかた」として二篇が書きくわえられている。原爆の残した苦しみの「あとかた」。そして、「あとかた」もなく消え去っていこうとする人々の心が、鮮やかに浮かび上がる。
「銀杏のお重」と「三つ目の橋」は、どちらも若い女性たちが主人公だ。人生で一番美しく、命の喜びに輝いている季節の女たちから、原爆は家族を奪い、若さを奪い、喜びを奪った。

「銀杏のお重」の清子は、「冬の終わりに咲きはじめる水仙のような」人だったのに、見初められて嫁いだ男性は三日で戦地に行った。たった三日だけの結婚なんて、なんと残酷なことだろう。そのまま夫は帰ってこず、清子は実家に帰されてしまう。しかも、母や叔母が持たせてくれた、家宝のように大切にしていた銀杏のお重も取り上げられてしまうのだ。幾重にも重なる戦争がもたらす不幸。それでも生きてさえいれば、面変わりして人も変わってしまったような清子にも心穏やかな日がやってきたかもしれない。しかし、原爆は清子からその時間も奪っていった。桃色の頬に白魚の指をした若い命があとかたもなく消えてしまったことを、朽木は「銀杏のお重」という、ハレの日に使われる家族の象徴のような道具に重ねて描き出した。

この物語で印象的なのは、清子の嫁入り支度の様子が細やかに描き出されていることだ。賑やかに集まって、たとえ戦時中でも少しでも美しいものを持たせ、いい着物を着せて嫁に出そうと苦心する母や叔母たち。その支度をうっとりと見る妹たち。女たちの心尽くしに彩られた清子の嫁入り姿が切ない。先日、友人の娘さんが結婚した。幼い頃から知っている可愛い娘さんの花嫁姿にきゃあきゃあ盛り上がっている今現在の私たちと、物語の中の花嫁と叔母たちの姿がちょうど重なってしまう。子を産み、毎日ご飯を作り、命を慈しんで暮らしてきた女達の営みがそのお重には詰まっていたはずなのだ。あの日の朝、たくさんの女たちが朝の支度や後片付けに追われていたことだろう。そして、声もなく叩き潰されてしまったのだ。彼女たちは、間違いなくあの日を生きていた私たちなのだ。一つのお重からヒロシマを描く、この視点に心打たれる。

もうひとつの「三つ目の橋」は、生き残ってなお苦しまねばならない「私」の物語だ。遺体も戻らず行方不明になった父を探し回って死んでいった母。残された幼い妹と懸命に生きる「私」。奉仕作業を休んで級友たちの中で一人生き残った罪悪感に苦しめられながら、妹の世話をして必死で生きている。そんな彼女にも恋人ができるが、相手の両親に結婚を断られ、恋人からは「あんたのことは容易うにはわからん」と突き放されてしまう。被曝は、体だけではなく、心にも深い傷を残す。叩きつけられ、踏みつぶされ、それでも生き延びて、やっと前を向いて歩きだそうとしても、また心を折られ、彼女はあの日に数え切れない遺体が浮かんだ橋の上から川面を見つめるのだ。しかし、そばに小さな妹の命が息づいていることが、「私」を生に連れ戻す。そのとき、絶望の淵にいる「私」の心に、月光が差し込むシーンを、ぜひ読んで頂きたい。背負いきれぬものを背負い、あの日の記憶を抱いて、それでも生きていこうとする彼女の心に染み渡っていくこの光は、希望とも絶望ともつかぬ、深い思いだ。くっきりとした言葉で語れぬものが、冬の凍てつく匂いとともに心の中になだれ込んでくる。被曝という泥沼のような絶望に心折られてなお、幼子への愛情を糧に生き抜こうとする「私」の胸にあるこの言葉にならぬ思いは、大きな嘘やプロパガンダを打ち砕く静かな力に満ちている。

悲しみの影に、そっと息づく微かな光。慈愛の微笑みの影に宿る果てしない悲しみ。朽木祥の筆は生きて、揺れ動く「私」の心を繊細に描き出して胸にしみ入るほど美しい。原爆という悲惨を描いて美しいということをおかしいという人もいるが、私はそれは違うと思う。セバスチャン・サルガドという写真家がいる。今、彼のドキュメンタリーが映画で公開されているが、彼の写真は、内乱や饑餓の地獄を撮影しても、身震いするほど美しい。監督のヴェンダースが彼の写真が「美しすぎる」という批判に対して、被写体への「尊厳」という言葉で反論している。ヒロシマは、後にも先にも人類が経験したことのない地獄だ。その苦しみの中にいた人たち、そこから果敢にも生き延びてこられた人たちの、命の尊厳への朽木の深い眼差しが、物語に「美」となって構築されているのではないか。だからこそ、その「美」は、読者の胸に共感となって染みこんでいくのではないだろうか。「美」は、私たちの心が持つ、国も民族も言葉も超える、大いなる共感の力なのだ。この物語の「私」も、やはりあの日に橋の上からひたすら水面を眺めた、もうひとりの「私」。この二つの物語は、帯にあるように、決して過去の亡霊などではない。未来の私たちであるかもしれないのだ。

原発は再稼働され、安保法案はなし崩しに可決されようとしている。今こそ、この物語の中に溢れている声にならない声に耳を傾けなければならない。心からそう思う。

2015年8月刊行

『鹿の王 上 生き残った者』『鹿の王 下 還って行く者』上橋菜穂子 角川書店

この本が、今年度の本屋大賞をとったらしい。先日季節風のためにこの本の書評を書いたのだが、上橋菜穂子氏への深い敬意を込めて違うバージョンのものをアップしておきたい。

上橋菜穂子は、ヴァンとホッサルという対照的な二人の男を軸に、息をもつかせぬ迫力で物語を展開していく。黒い犬の襲撃をきっかけに死病が蔓延した岩塩坑から幼子のユナを連れて逃げだした奴隷のヴァン。そして、天才医師として権力の中枢まで入り込み、自分たちの国を滅ぼした黒狼熱という病気の謎を追うホッサル。細部まで徹底的に構築された世界を細やかに描きながらも、上橋の視線は常に「複眼」だ。上橋は決して一方通行の正義を描かない。一つの正義があるところには、必ずそれに反する立場や勢力があり、考え方がある。大国の覇権に伴う近隣諸国の、生き残りをかけた戦術や陰謀。踏みつぶされた民族の怒りが絡み合う事情が、複数の立場から丹念に描かれることによって、読み手は常に価値観が揺らぎ、何が真実なのかを考えさせられることになる。自分が持つ価値観や正義は、他の目から見たときどう映るのか。正しいと信じるものは、本当に正しいのか。怒りは、復讐は、他を断罪する理由になり得るのか、否か。これは、ハイ・ファンタジーという俯瞰の視線を通した、自己への問いかけなのだ。

ヴァンは、かっては飛鹿を操り、山中でのゲリラ戦を得意とした部隊「独角」の頭を務めた男だ。「独角」は小国である故郷の部族が東乎瑠と有利な立場で交渉をするための、死ぬことを前提とした捨て駒だった。その事情に心を寄せるものは、ヴァンを歴戦の英雄とみるだろう。しかし、彼に殺された部族のものから見れば、彼は残虐な殺人者だ。また、ホッサルという医学の天才も、彼に助けられたものには神の手と言われるが、医学を穢れた呪術師として見るものからは、自分たちの血を汚す不心得者にしかすぎない。自分たちがいる場所の価値観は、違う目から見るとくるりとひっくり返るのだ。その中で、現実とどう向き合うのか。人としてどう生きるのか。ヴァンは独角の最後の生き残りだ。仲間たちはまさに捨て駒として戦地に散った。しかし、今、たった一つ守らねばならないものがある。それは、自分が背に守っている幼子の命だ。自分の能力を利用するために、ユナをさらっていったものたちに、ヴァンが吠える。

「大義のためだかなんだか知らんが、自分の命なら勝手に捨てろ。だが、おれの命はおれのもの。あの子の命も、あの子のものだ。…おれはな、なんの関係もない幼子の命を使い捨ててかまわないと思う、おまえや、いま、おれの手の下で涎を垂らしているこの爺に怒ってるんだよ。」

このヴァンという男の魅力的なことと言ったら。男が惚れる強さと情を持ち合わせる男。幼い我が子と妻を病で失い、大きな孤独を抱えながらも、再びユナを背負って守り抜こうとする包容力。彼と行動を共にする密偵のサエが彼に心惹かれてしまうのも無理はない。ヴァンは、そもそも生きること自体に深い虚無感を持つ男だ。愛した妻も息子も、病で簡単に彼から去っていった。こんなに簡単に奪われる人間の命とは何なのか。上橋は、その虚無感を抱えたヴァンの魂を裏返す。人間の視点からではなく、山犬たちの視点を借りて、この世界全体の命の流れを、光として描いてみせる。その光景の、何と不思議で美しいことか。テロの道具として使われる犬たちは、暴力と恐怖の象徴のように見えるが、実は仲間たちや他の動物たちの命と深い友愛で繋がっているのだ。まるで、『風の谷のナウシカ』のオームたちのように。その動物たちを、自分たちの「大義」のために殺戮の道具にするのは、人間の傲慢であり、身勝手に過ぎない。しかし、自分たちの大義のために子どもたちや動物を犠牲にする身勝手は、どれほどこの世界に転がっていることか。人間の勝手な都合に操られかけたオームを、そして風の谷を、自らを犠牲にして救ったのはナウシカという少女だが、この物語でその役割を果たすのは、ヴァンだ。

これ以上ネットであらすじに触れるのは、いかんだろうと思いつつ。分厚い上下巻があっという間の読み応えで、なおかつラストシーンが素晴らしいことだけは書いておきたい。民族も生まれた場所も違う血縁で結ばれてもいない者同士が結ぶ絆が光りとなって輝く。幼い子どもの、まっすぐな、ひたすらな愛情が、闇に消えてゆこうとするものを、取り戻そうとする。人は生まれて、死んでゆく。その間を必死に生きようとする姿には、イデオロギーも国も、宗教も、関係ないのだ。争いを超えて繋がろうとする人間の、子どもの力を信じたい。私はこのラストに、上橋の次の世代を生きる子どもたちへの深い思いを感じた。今、まさに読まれるべき本だと思う。

2014年

トオリヌケキンシ 加納朋子 文藝春秋

加納さんの物語は、いつもほろりと心に沁みる。人々が何気なく通り過ぎていく道の一つ裏に隠れている、迷路や路地の暗がり。小さな謎の顔をして蹲っている悲しみが、木漏れ日のように優しく透明感のある文章で語られることで、背中にささやかな羽をつけて飛び立っていくような、そんな優しさがある。皆身軽にすいすいと通り抜けていく扉が、なぜか自分にだけは閉まっていたり。皆には見えているものが、自分にだけ見えなかったり。反対に誰にも見えないものが、自分にだけ見えてしまったり。とにかくこの世界はハンディを持つものに厳しく、理不尽だ。この本には、理不尽の壁に「トオリヌケキンシ」されてしまった若者たちの物語が収められている。

自分を押し込めている理不尽の正体は何か。それがわからないことが、人と違う苦しみを抱えているものにとっては一番辛いことなのだ。どの扉を開ければいいのか。いや、もしかしたら自分を通してくれる扉などはないのではないか。悶々とするうちに、どんどん自分に対する疑いや、恐怖ばかりが膨れあがる。「フー・アー・ユー?」には、相貌失認の男の子が、ネットからたまたま自分と同じ症状を見つけるシーンがあるが、まさにこれは幸運な例だと思う。心に抱く恐怖や違和感は、特に子どものうちは他人に上手く説明できないことが多いし、周りの人間が気づけるとも限らない。私自身も、次男が生まれつき抱えていたしんどさに、彼が成人するまで気づかなかった。いやもう、それを知ったときは非常に驚いた。彼に「気付かずにいて本当に申し訳なかった」と謝ったら「いや、これを診断できるのは日本でも数人しかおらんらしいから」と反対に慰められてしまったが、やはり私は今でも彼にすまないことをしたと心から思う。ハンディを背負わせていたこともそうだが、何より気付かずにいた、ということは今でも自分が許せない。

だから、この物語に描かれている場面緘黙や相貌失認、醜形恐怖という、傍目からわかりにくい心のしんどさや病気の苦しみについて、この物語を手にとる若い人たちが知るきっかけになれば何よりだと思うのだ。もちろん、加納さんはミステリの名手であるし、ここに収められている短編はどれも切れ味が良くて面白さは折り紙つきだ。だからこそ、物語の面白さと共に、これまで知らなかった視点で自分を眺めてみたり、人の苦しみに思い当たったりする心ばえが、ごく自然に流れこんでくるのではないか。加納さんはご自分も大変な病気をされて、そのことを体験記に書かれた。最後の「この出口の無い、閉ざされた部屋で」という短編には、その経験がのたうっているようだった。「かくも世界とは、不合理で不平等に満ちている」なぜ自分だけが、と壁に頭を打ち付けて苦しむときは、誰にだってやってくる。「トオリヌケキンシ」の扉を開きたい。人の弱さ、悲しみを愛しく思い、精一杯さりげなく差し伸べられる手の温かさ。それが素直に伝わってくる物語だった。

2014年10月刊行

離陸 絲山秋子 文藝春秋

ばたばたと年越しの準備をしながら、ずっとこの本を横目で眺めていた。もう、絶対面白いという予感があったのだ。やっとお雑煮をすませて本を開いて読み始めたら止まらない、止まらない。何度も繰り返される「heureuse,maheureuse」(幸せ、不幸せ)  という言葉を噛みしめながら、絲山さんの物語にはまり込んでしまった。

真冬、雪に閉ざされた巨大なダムの狭い歩梁で作業をする主人公の佐藤のもとに、いきなりレスラーのような体格の見知らぬ外国人がやってくる。こう書くと何の不思議もない感じになってしまうのだが。いつか見た黒四ダムの圧倒されるほどでかい凹部分を思い出すと、このシーンがもたらす違和感に心が泡立つ。この、現実からふわりと浮き上がる感じ。ダムの管理という地道な仕事が、しっかり書き混まれているだけに、そこにやってくる「非日常」がふわりと絶妙な距離感で浮かび上がるのだ。自分の置かれている風景が、音楽一つで色合いや形をいきなり変えてしまう感覚に少し近いかもしれない。私はこの絲山さん独特の浮遊感が大好きで、またこの物語ではそれがますます洗練されているように思う。イルベールというその男は、佐藤に「女優を、探してほしい」という。昔佐藤が少しだけつきあって振られた乃緒が、その女優なのだという。佐藤は知らないと答えるが、イルベールとやりとりを繰り返すうち、少しずつその謎に深入りしていくことになる。

この物語は長編なので、この、突然やってきた非日常が佐藤の人生に少しずつ食い入って根を張る様子が克明に描かれる。失踪した女優の乃緒。彼女を探すイルベールという黒人の男。女優の残した息子。古い文書や映画。日本からフランスへ、パレスチナへ。時空も越える謎の翼に乗ってふわりと離陸した物語は、最後まで謎を連れたまま、今度は確かな日常を連れて佐藤の人生に帰着する。佐藤ははじめ、どこかぼんやりとしたとりとめのない男として描かれる。東大卒のエリート官僚であるけれども、キャリアの役人というのは、大きな組織のコマの一つでしかなく、常に異動させられて一カ所に根付くことから意識的に切り離されている。そんな環境と、常に自分と他者の間に線を引く性格とが手伝ってどこにいても居心地が悪く、自分の人生によそ者として紛れ込んだような気分にいつも支配されている。そんな彼が渡仏して、まさに異郷でエトランゼとなることで、変わっていく。人と深く関わろうとしなかった自分と向き合い、愛する女性と出会い、イルベールや女優が残した幼い息子の人生に深く関わっていくことで、愛も苦しみも深く味わう。後書きによると、この作品の原型は長く絲山さんの中にあったらしいが、伊坂幸太郎氏の「絲山秋子の書く女スパイものが読みたい」という言葉がきっかけになったそうだ。スパイとして生きるというのは、自分の人生そのものを虚構化してしまうことだろうと思う。若い頃の佐藤のこの世界に対する馴染めなさは、どこか乃緒という女性の居所のなさと呼応していたのだろう。しかし、そこから道はどんどん分かれてしまう。不器用ながらも、佐藤は人を愛し、失い、幸と不幸、「heureuse,maheureuse」という残酷な時間にとことんまで洗われていった。パリで、故郷で、九州で、少しずつ根を生やした人と土地との関わりは、大きな悲しみに見舞われた佐藤をふわりと受け止めて落下させなかった。

そう思ったとき、物語の中でほとんど描かれていない乃緒の人生はどんなものだったのだろうと思ってしまうのだ。物語の中で、佐藤の元の同僚も失踪してしまうのだが、彼は3.11の震災の中にいて、その苛烈な風景を見てしまったせいで、元の生活に帰ることができなくなってしまう。乃緒もそうだったのだろうか。彼女も、それまでの自分を失ってしまうほど苛烈なものを見てしまったのだろうか。彼女のそばには、いつも暴力や戦争の匂いがするが、彼女が人生から離陸を繰り返したのは、そのせいだったのだろうか。佐藤の人生が語られれば語られるほど、私はそこにいない、佐藤のようなセーフティネットを持たなかった乃緒の人生が膨れあがってくるように思うのだった。絲山さんが描くそれぞれの土地は、風の匂いまでするようで、とても魅力的だ。その風景の中を、「heureuse,maheureuse」とつぶやきながら歩く乃緒の姿が、いつまでも胸に残る物語だった。