『鹿の王 上 生き残った者』『鹿の王 下 還って行く者』上橋菜穂子 角川書店

この本が、今年度の本屋大賞をとったらしい。先日季節風のためにこの本の書評を書いたのだが、上橋菜穂子氏への深い敬意を込めて違うバージョンのものをアップしておきたい。

上橋菜穂子は、ヴァンとホッサルという対照的な二人の男を軸に、息をもつかせぬ迫力で物語を展開していく。黒い犬の襲撃をきっかけに死病が蔓延した岩塩坑から幼子のユナを連れて逃げだした奴隷のヴァン。そして、天才医師として権力の中枢まで入り込み、自分たちの国を滅ぼした黒狼熱という病気の謎を追うホッサル。細部まで徹底的に構築された世界を細やかに描きながらも、上橋の視線は常に「複眼」だ。上橋は決して一方通行の正義を描かない。一つの正義があるところには、必ずそれに反する立場や勢力があり、考え方がある。大国の覇権に伴う近隣諸国の、生き残りをかけた戦術や陰謀。踏みつぶされた民族の怒りが絡み合う事情が、複数の立場から丹念に描かれることによって、読み手は常に価値観が揺らぎ、何が真実なのかを考えさせられることになる。自分が持つ価値観や正義は、他の目から見たときどう映るのか。正しいと信じるものは、本当に正しいのか。怒りは、復讐は、他を断罪する理由になり得るのか、否か。これは、ハイ・ファンタジーという俯瞰の視線を通した、自己への問いかけなのだ。

ヴァンは、かっては飛鹿を操り、山中でのゲリラ戦を得意とした部隊「独角」の頭を務めた男だ。「独角」は小国である故郷の部族が東乎瑠と有利な立場で交渉をするための、死ぬことを前提とした捨て駒だった。その事情に心を寄せるものは、ヴァンを歴戦の英雄とみるだろう。しかし、彼に殺された部族のものから見れば、彼は残虐な殺人者だ。また、ホッサルという医学の天才も、彼に助けられたものには神の手と言われるが、医学を穢れた呪術師として見るものからは、自分たちの血を汚す不心得者にしかすぎない。自分たちがいる場所の価値観は、違う目から見るとくるりとひっくり返るのだ。その中で、現実とどう向き合うのか。人としてどう生きるのか。ヴァンは独角の最後の生き残りだ。仲間たちはまさに捨て駒として戦地に散った。しかし、今、たった一つ守らねばならないものがある。それは、自分が背に守っている幼子の命だ。自分の能力を利用するために、ユナをさらっていったものたちに、ヴァンが吠える。

「大義のためだかなんだか知らんが、自分の命なら勝手に捨てろ。だが、おれの命はおれのもの。あの子の命も、あの子のものだ。…おれはな、なんの関係もない幼子の命を使い捨ててかまわないと思う、おまえや、いま、おれの手の下で涎を垂らしているこの爺に怒ってるんだよ。」

このヴァンという男の魅力的なことと言ったら。男が惚れる強さと情を持ち合わせる男。幼い我が子と妻を病で失い、大きな孤独を抱えながらも、再びユナを背負って守り抜こうとする包容力。彼と行動を共にする密偵のサエが彼に心惹かれてしまうのも無理はない。ヴァンは、そもそも生きること自体に深い虚無感を持つ男だ。愛した妻も息子も、病で簡単に彼から去っていった。こんなに簡単に奪われる人間の命とは何なのか。上橋は、その虚無感を抱えたヴァンの魂を裏返す。人間の視点からではなく、山犬たちの視点を借りて、この世界全体の命の流れを、光として描いてみせる。その光景の、何と不思議で美しいことか。テロの道具として使われる犬たちは、暴力と恐怖の象徴のように見えるが、実は仲間たちや他の動物たちの命と深い友愛で繋がっているのだ。まるで、『風の谷のナウシカ』のオームたちのように。その動物たちを、自分たちの「大義」のために殺戮の道具にするのは、人間の傲慢であり、身勝手に過ぎない。しかし、自分たちの大義のために子どもたちや動物を犠牲にする身勝手は、どれほどこの世界に転がっていることか。人間の勝手な都合に操られかけたオームを、そして風の谷を、自らを犠牲にして救ったのはナウシカという少女だが、この物語でその役割を果たすのは、ヴァンだ。

これ以上ネットであらすじに触れるのは、いかんだろうと思いつつ。分厚い上下巻があっという間の読み応えで、なおかつラストシーンが素晴らしいことだけは書いておきたい。民族も生まれた場所も違う血縁で結ばれてもいない者同士が結ぶ絆が光りとなって輝く。幼い子どもの、まっすぐな、ひたすらな愛情が、闇に消えてゆこうとするものを、取り戻そうとする。人は生まれて、死んでゆく。その間を必死に生きようとする姿には、イデオロギーも国も、宗教も、関係ないのだ。争いを超えて繋がろうとする人間の、子どもの力を信じたい。私はこのラストに、上橋の次の世代を生きる子どもたちへの深い思いを感じた。今、まさに読まれるべき本だと思う。

2014年

わたしちゃん 石井睦美作 平澤明子絵 小峰書店

幼い頃にたった一度だけ遊んだことがある子。でも、なぜか覚えているのは自分だけで、大人になってから他の誰に聞いても「そんな子いたっけ」と言われたりする。記憶の彼方にある光景は時間が経つほどぼんやりと儚げで、でも楽しかった気持ちだけ鮮やかで。そんな不思議な時間を、石井さんはほんわりと物語にしてみせた。

「わたし」は、パパの転勤で見知らぬ町に引っ越ししてきたところ。おじいちゃんおばあちゃんがいて、大好きな海があった町から引っ越してきて、心細くて寂しいわたし。ママも片付けに忙しくて、ひとりぼっち。「どこにいきたい?」ともう一人のわたしに問いかけて、外に遊びにいったら、素敵な庭のある家から「こんにちは」と声がする。誘われるままに、美しい庭でおままごと。まるでずっと友達だったような時間を過ごして最後に名前を聞いたら、「わたしちゃん」と教えてくれた。でも、次の日にまた遊びにいったら、彼女はいなかったのだ。

「わたしちゃん」と過ごした時間は、もしかしたら夢だったのかもしれないし、もうひとりの「わたし」だったのかもしれない。でも、多分そんな謎解きはどうでもいいんだろうと思う。引っ越しして、まだ新しい場所には馴染んでいない時間。体はここにあるのに、心だけどこかに忘れてきたようなふわふわした心もとない、つかの間の揺らぎが風船になって浮かんでいるような物語だ。幼い頃に「もうひとりのわたし」が、もっとくっきり自分の中にあったことを思い出す。私は一人遊びが多い子だったから余計にそう思うのかもしれないが、何かにつけ自分に語りかけてくる「わたし」がいることを、いつもとても意識していた。そして、今は出来ないのだが、少し左右の目の焦点をずらすだけで、すっと自分の体から意識を浮かせることが出来て(いや、わからないですよね。自分でも書いていてわけがわからない(笑))何か自分に都合の悪いことが起きると、よくそうやって逃避していた。離脱しているときの自分は、そこに体のある自分とは少しずれた存在で、半分「あちら側」にずれこんでいる強い感覚があった。その「あちら側」とはどこかと言われると上手く言葉にできないのだが。そういう感覚は自分だけかと思っていたが、大人になってあれこれ読んでいるうちに、似たことを書いている人をまま見つけることがある。言葉にすると特別なことに聞こえるが、多分幼い頃の未分化な、もしくは統合されていなかったりする心のありようの一つだったのだろう。あの頃リアルに私の中にあった「もう一人の私」は、大人になる道筋のどこかで姿を変えてしまったが、あの「あちら側」にずれ込む感覚は、本を読んでいるときの自分に近しいものがあるように思う。日常からふわりと抜け出す魔法の時間。その手触りを、石井さんの言葉たちに誘われて堪能した。

きっと誰でも、こんな「もうひとりのわたし」に出会う時間は子ども時代の中にそっと潜んでいるのではないだろうか。だから、大人が不思議だと思うこの物語も、子どもが読むと「うん、そうそう!」とすっと心に馴染むのかもしれないと思ったりするのだ。もはや自分の子どももうっそりした大人になってしまったので、そこを聞いてみることができないのが、誠に残念だ。

2014年7月刊行

いっしょにアんべ! 高森美由紀作 ミロコマチコ絵 フレーベル館

人々の暮らしと共に歩いてきた言葉が持つ力というものは誠に大きいなと思う。タイトルは東北の方言で「いっしょに行こう!」という意味だ。しかし、「アんべ!」という言葉には、もっと深い温もりや、お互いの荷物を持ち合うような共生の気持ちが含まれているように思う。まあ、お互いあんまり器用には生きられないけれど、一緒にいこか(大阪弁で解説して申し訳ない)という気持ち。この物語には、縁があって寄り添う男の子のストレートな思いが溢れている。踏まれても折られても、何とか伸びようとする若芽のような子どもの力が、朝日のように輝く素敵な物語だ。

主人公は、柿の木から落ちて足を骨折してから、クラスメイトたちと距離が出来てしまい、ひとりの日々を過ごしている5年生の男の子ノボル。そして、彼の家に里子としてやってくる、3.11の震災で親を亡くした有田といういがぐり頭の少年だ。この二人の距離感がとても面白い。有田はマイペースで、いつも首からカメラをさげ、目に付くものを片端から撮りまくっている。何かにつけその調子で、長年ひとりっきりで人との距離感に敏感になっているノボルにぐいぐい近寄ってくる。ノボルも最初は引き気味なのだが、有田のどこかひょうきんで憎めない性格に少しずつ惹かれていく。震災は有田の心に深い傷を残している。水が怖くて一人で風呂に入れないし、首から提げているカメラは、独りぼっちになってしまった避難所で被災した夫婦がくれたもので、片時も手離すことが出来ない。学校に行っても昔自分が飼っていた犬に似ている近所の犬を、追いかけ回してしまう。

この有田という少年が持っている悲しみと痛みが、ノボルの目を通して読み手に強い実感をもって伝わってくる。彼がなぜ、目に映るすべてのものをカメラに撮りたがるのか。それは、彼が常に「末期の目」でこの世の中を見ているからに違いない。彼はあの日に生と死の境目に立ち、家族も友達も目の前で亡くしてしまった。それまでの日常を無くしてしまった彼には、窓に映る水滴一つもかけがえのない「今」の瞬間なのだ。少しの揺れにも恐怖が蘇り、愛犬のチョコを、流されていく父や母を助けられなかった苦しみはいつも胸にある。大人はそんな彼を傷つけまいと、少し遠巻きにして彼を見ているのだが、ノボルはそんな有田に振り回されながらも、子ども同士のまっすぐさで、彼にぶつかっていく。ケンカもする。文句も言う。でも、ずっと一人で過ごしてきたノボルは、いきなりひとりっきりになってしまった有田の心の痛み、苦しみを理屈ではなく感じる心根を持っているのだ。有田にどんな声をかければいいのかと聞いたときに、ノボルの父ちゃんが言う。「ただ、そういうことがケイタくんの身に起きた、ということを知っていればいい、心にもないなぐさめやとってつけたようなはげましはするな。・・・ただ事実を覚えておきなさい」という。その言葉のとおりに、ただ一緒にいようとするノボル。そして、有田もノボルの過ごしてきた日々の寂しさに気がつく。そんな二人に巻き起こるいろんな事件が、小さなつむじ風のように心に風穴を開けていく。それがとても心地よく胸に沁みた。

物語の最後、犬のダイゴロウを連れた二人が新雪の上を走り回って朝日に叫ぶ姿が忘れられない。声が枯れるまで父母と愛犬の名前を呼び続ける有田の声を、じっと聴くノボル。

「有田の深い傷と、痛みをオレもいっしょになって浴び続けた」

ここから、また生きることが始まるのだ。ひとりではなく、一緒に。「いっしょにアんべ!」という言葉の美しさに込められた作者の思い。たくさんの人に読んで欲しい一冊だ。

2014年2月刊行

ちいさなちいさな めにみえない びせいぶつのせかい ニコラ・デイビス文 エミリー・サットン絵 越智典子訳 出川洋介監修 ゴブリン書房

子どもの特権は(もちろん大人でも大切なことだけれど)びっくりすることだと思う。 おっ、と思うくらいの小さなびっくり。世界の見え方が変わってしまうほど、大きな声で走り回って「知ってた?ねえねえ、知ってた?」と言ってあるきたいほど、大きなびっくり。それが次の「知りたい」に移っていったり、自分を思いもよらない方向に突き動かしたりするんじゃないかと思うのだ。この絵本は「びせいぶつ」つまり、微生物についての絵本だが、一応の知識がある大人でも思わず「うわあ」と声を出してしまう驚きと楽しさに満ちている。絵がとてもいい。スプーン一杯の土に、インドの人口と同じくらいの10億もの微生物がいること。10億・・・という数字は具体的に想像するのが難しいけれど、こうしてうまく視覚化されると、すんなり驚くことができる。一つの微生物があっという間に増殖して見開きの頁いっぱいになるところは、インフルエンザにやられたばかりの体には少々こたえるくらいだ(笑)

微生物は、私たちの目には見えないけれど、地球の生き物にとって大きな役割を果たしている。それが、美しくセンスの良い絵で、誰にでもわかるように描かれていて、なぜかしら、ふーっとため息をつきたくなる。この世界を支えている生き物たちの絶妙な役割分担について。どうして、こんなに多種多様なものが存在するんだろうという素朴な驚き。微生物の形の面白さや不思議さ。何もかもがやっぱり不思議で、何度も読んで、ふーっとため息。大きい、小さい、ということは非常に相対的なこと何だわ、と改めて思う。くじらは大きくて微生物は小さい。うん、確かにそうではあるけれど、それはあくまで「人間」を尺度にしているからそう思うだけのこと。微生物から見れば、猫も人間もくじらも、多分分解したり寄生するべき有機物、というだけのことなのだろうと思う。別の生き物の視点に立つだけで、これまでとは全く違う世界が見えてくる。その面白さを発見する喜びがこめられている科学絵本が私は好きだ。子どもと読んで一緒にびっくりするのが楽しい一冊。

2014年8月刊行

ルゥルゥおはなしして たかどのほうこ作・絵 岩波書店

本当にもう、隅から隅まで可愛い、高楼さんの世界がいっぱい詰まった本なのだ。小さな女の子のルゥルゥが、自分の部屋で可愛がっているぬいぐるみを主人公にしてお話をする。ぬいぐるみたちはそれが嬉しくて、いつも彼女がちりん、と鈴の音をたてて部屋に入ってくるのを心待ちにしている。このルゥルゥの部屋がこれまた可愛いこと、可愛いこと!この本自体、表紙から見返しの小花模様、目次も表題紙もすべてとても凝っていて、本の扉を開いて可愛いお話の部屋に入っていくような気持ちになれる。子どもたちは、この本の扉を開いてルゥルゥのお部屋のぬいぐるみたちの隣にそーっと座り、綺麗なカーテンのかかった窓から素敵なお庭を眺めてルゥルゥのお話を聞けるのだ。私が少女の頃に思い描いた幸せというのはこんな姿形をしていたんじゃないのかしらと思うほど、この本にはいっぱいに喜びが詰まっている。お話を聞く喜び、自分でお話を作る喜び。お話の中に入っていく喜び、そっと本を閉じて物語の世界からそっと帰ってくる喜び。ルゥルゥのお話は子どもらしく行ったり来たりするし、途中で思いつきが挟まったりするのだけれど、それがまた友達とのおしゃべりみたいで楽しい。盛大なツッコミ覚悟で書いてしまうが、私の中に眠っている(何年眠ってるかは秘密)女の子がこの物語の中で満足のため息をつくのが聞こえるのである。   『時計坂の家』『11月の扉』『緑の模様画』。私の大好きな高楼作品の少女達は現実と幻想の世界とのあわいにいて、二つの世界をかろやかに行き来する。彼女たちにとって「おはなし」は特別なものであり無くてはならないものだ。きっと高楼さんご自身もそんな少女だったのだろう。高楼さんも訳した『小公女』のセーラも、自在にお話を語る少女だった。『11月の扉』では主人公の爽子が物語の中で『ドードー鳥の物語』というおはなしを書く。ぬいぐるみと11月荘の住人を重ねて描くそのおはなしは、劇中劇のように物語の中での現実とリンクして爽子の内面を光と影を色濃くして語っていくのだが、このお話のルゥルゥは、爽子よりもっと幼いので、まだ物語に影は生まれていない。ルゥルゥの語るペパーミントの海の色のようにきらきらと透明でどこまでも幸せなのだ。こんなに曇りのないきらきらの幸せが言葉で紡げることに驚いてしまう。岡田淳さんといい、高楼さんといい、絵が書ける方の文章は独特のきらめきがある。ルゥルゥの部屋から見えるペパーミントグリーンの海の色は、『ルチアさん』(フレーベル館、2003)が持っていた水色の玉と同じような色なのだろうか。『ルチアさん』が私は大好きなのだが、あの物語の中の女の子も、確かルゥルゥという名前だった。何でもこじつけたがるのは、本読みの悪い癖かもしれないが、『ルチアさん』のルゥルゥが抱いていた遙かなものへの憧れは、この『ルゥルゥおはなしして』のルゥルゥにも溢れているように思う。

2015年2月刊行

あしたも、さんかく 毎日が落語日和 安田夏菜作 宮尾和孝絵 講談社

落語っていい。大阪の人間なので、上方落語は心と身体にすうっと馴染むし、江戸前の落語も言葉のキレが好きで最近は三代目志ん朝の古典をよく聞いている。落語の一番いいところは、あんまり偉い人が出てこないところだ。みーんな、どこか足りない。怠け者だったり、ちょっとおバカだったり、お人好しで騙されてばかりだったり、だらしなかったり。概して上方落語の方が、主人公の「あかんやっちゃ」感は強いように思う。(枝雀の「貧乏神」に出てくる男は、貧乏神に愛想つかされるくらいの怠けモンだ)でも、彼等は絶対に一人ではなくて、いつも町内の誰かが助けに来たり、「どんならん(どうしようもない)やっちゃな」と言われながら面倒を見てもらったり、大家さんに説教されたりしている。まあ、人間生きてたら色々あるやんか、あかんとこはお互いさんやから、助け合っていっとこか、という人の世の底を生きている人間の笑いが好きなのだ。

この物語の主人公の圭介も、クラスメイトに「あかんやっちゃ」と言われてがっくり落ち込んでいる。大阪弁で言う「イチビリ」、お調子もんの騒ぎたがりの圭介だが、それが徒と成って「ありがた迷惑」「空気を読め」と言われてしまうのだ。自信を無くして意気消沈してしまった彼の前に、行方不明になっていたおじいちゃんが現れる。圭介のじいちゃんは、典型的な一発狙うタイプで家族に長らく迷惑をかけ、息子ともケンカばかりしている。そして年いってから落語家に入門するが芽が出ず、酒に逃げて挙げ句の果てに師匠に破門され、孫の貯金を使い込んで家出してしまうという、「どんならん」ぶりなんである。そのじいちゃんが、人知れず落語の修行を積んで、一発逆転を狙って落語コンクールに出るという。信用できない圭介の前で、じいちゃんは見事な「さくらんぼ」という落語を披露するのだ。

このじいちゃんの人となりというか、どんならんけど、あんまり憎めへん感じ、アホやでほんまに、という可愛げを、安田さんはほんまに上手いこと書いてはると思う。この「さくらんぼ」というのは、頭におおきな桜の木が生えて人がそこでどんちゃん騒ぎをする、うるそうてかなわんと抜いたらそこに池が出来て・・・というもの凄いシュールなネタで、よっぽど勢いがないと人を笑いに引き込めない。じいちゃんは、そのネタで人を引きつけられるほど修練を積んだのだ。その必死さ、ひたむきさに圭介はじいちゃんを応援したくなる。どっちかいうたらイチビリ同士、という共感もありつつ、圭介はクラスの中で浮いてしまった自分とじいちゃんが重なってみえる。もっぺん、家族にええとこ見せたいじいちゃんを応援する圭介を、友達が手伝ってくれる。圭介は自分も友達連中も皆もそれぞれにしんどさやアカンタレなところを抱えていることを知るのだ。

「みんなそれぞれ弱っちくて。 陰でこっそり落ち込んだりして。 けど、そやから、さっきみたいに、みんなで思い切り笑えたらええな。」

そう、これが「情(じょう)」というもんやなあとしみじみ思う。失敗したら、あかん。いっぺん落ちこぼれたら、そこで終わり。空気読んでおとなしくしとかな、頭打たれる。滅多なこと言うたら袋だたきやで、という空気が今、えらい強いような気がする。息詰まる。正直、今、子どもに生まれてたらしんどいやろな、としみじみ思うのだ。「笑う」というのは、自分も相手も一度突き放して眺める余裕がないと生まれない。頭を冷やして「お互いアホやなあ」と思い合うこと。全部丸やなくていい。あしたもさんかくで、うまいこと転がれなくて、角っこが削れたり上手いこといかんかもしれんけど、一緒に笑うとこから始めようや、というこの物語の暖かみが胸に沁みた。いつだったか、図書館のカウンターで落語をたくさん借りていた高校生が、横にいた友達に「落語はええで。落語は世界を救うで」と力説していたことがある。すんでのところで「そや!おばちゃんもそう思うわ」と言いそうになったが、まさにこの物語を読んでそう思う。笑いのない世の中になったら終わりやがな。サザンの年越しライブで桑田さんがしたパフォーマンスに右翼が抗議をして、とうとう謝罪騒動になったらしい。反日、とか国賊、などという言葉がまかり通る世の中になってきた。笑いや風刺を許さない流れの果てに何があるのか考えると、ぞっとする。毎日が落語日和な世の中のほうが、なんぼええかわからへん。誠に真剣に、心からそう思う。

2014年5月刊行

希望の牧場 森絵都作 吉田尚令絵 岩崎書店

3.11の震災で起きた原発事故で、たくさんの人たちが故郷を追われた。そのときに、たくさんのペットや家畜が悲惨な状況の中、死んでいった。この絵本に描かれている『希望の牧場・ふくしま』の代表である吉澤正巳さんも、国から退去するように言われ、その次は牛の殺処分(なんて恐ろしい言葉だろう)への同意を求められた。しかし、吉澤さんは自分も被曝することを知りながら、退去にも殺処分にも応じなかった。そして、自分の牛たちの世話をひたすら続けて現在に至っている。こう紹介すると、とても悲惨な絵本であるかのように思われるかもしれないのだが、そうではない。もちろん悲惨な事実もきちんと描かれているのだが、この絵本にはシンプルな強さが溢れているのだ。

「だって、牛にエサやらないと。オレ、牛飼いだからさ」

目の前にお腹を空かせている生き物がいる。だから、ご飯を食べさせてやる。ただ、それだけのまっすぐにシンプルなことを、ただやり切ろうとする強さ。肉牛としての「意味」は被曝してしまった牛にはもはや無い。しかし、生きることに「意味」を結びつけているのは人間だけだ。意味がなくなれば殺処分してもいいのか、という問いかけは、そのまま弱いものや目に見えない苦しみを切り捨てていこうとする人間の姿をあぶり出すように思う。

「希望なんてあるのかな意味はあるのかな。 まだ考えてる。オレはなんどでも考える。 一生、考え抜いてやる。 な、オレたちに意味はあるのかな?」

吉澤さんのような人がいて、その生き方を支援する人たちがいる。それは最後の希望なのかもしれないけれど、全てが他人事になってしまったときに、その希望は消えてしまうのだと思う。昨日終わった選挙の結果は、無関心という化け物が生み出した結果なのか。そう思うのは私だけなのか。テレビを見ながらやけに疎外感を感じてしまうのだが、この吉澤さんの言葉を噛みしめながら、考えることを放棄しちゃいかんよ、と自分に言い聞かせている。

2014年9月刊行

岩崎書店

ピーター バーナデッド・ワッツ 福本友美子訳 BL出版

「庭は神様に一番近い場所」とは、京都の大原でハーブなどをたくさん育てているベニシアさんという方の言葉。この絵本を読みながら、この言葉が浮かんで仕方なかった。本当に美しい絵本なのである。ピーターという少年が、お母さんの誕生日プレゼントに何がいいかと悩んでいると、おじいさんが植木鉢に何か植えて「せかいでいちばんきれいな木だよ」と言って少年にくれる。お姉さんたちは綺麗なケーキや絵をプレゼントしているのに、まるで棒のような木に気後れして、彼はそれを隠してしまう。しかし、お母さんがちゃんと見つけて庭に植えてくれたのだ。その木はフユザクラで、まだ雪ばかりの庭で、うすももいろの花をたくさん咲かせる。ピーターは大きくなってもこの木を見上げてお母さんのことを思い出すのだ。

ここに描かれている庭が、心に沁みいるような美しさなのだ。抑えた色調で丁寧に書き込まれた花々の間を、鳥が羽ばたき猫がゆっくりと歩く。作り込まれたイングリッシュガーデンというよりは、まさに日々の生活と共にある庭で、野菜も植えられているし、洗濯物だって翻っている。でも、というか、だからこその美しさに溢れて子どもたちを見守っている。お母さんに素敵なプレゼントをしたいのに、お姉さんたちのようには出来ない自分を悲しく思うピーター。そんな彼の気持ちをそっと受け止めて咲かせたおじいちゃんとお母さんの愛情が、大きくなってこの庭から旅立っていった彼の胸の中には、いつもひっそりと咲いていることだろう。それは、彼らがこの世からいなくなっても、きっとなくなることはない風景なのだ。だから、この絵本には時間を超えた美しさが宿っている。幼い、瑞々しい瞳に映る風景は特別なものだが、それを何度も何度も思いだし、人は心に自分の色で焼き付けていく。そのとき、愛情のこもった色を載せられる幸せが、この絵本には詰まっているように思う。そして、もうひとつ、大人になって、たくさんの超えがたいものを超えて見つめる命の美しさもこの絵には重なっている。物語の最後の頁は、大人になったペーターの見上げる大きな桜が描かれている。末期の目に映る花と、子どものまだ見開いたばかりの瞳に映る花の色は、もしかしたら似ているのかもしれない。遙かな憧憬が込められているようなこの絵を見て、そんなことも考えてしまった。

私もふとしたことで、今年からまた庭仕事を始めて、たくさんの花を植えた。にわかガーデナーは失敗ばかりだが、花たちはこんな粗忽者も優しく許していつも誇らしく美しい。今は秋バラの盛り。バラたちの香りを吸い込みにいきたくなる一冊だった。こんな美しい絵本は、子どもたちの心にも、きっと美の種を宿してくれると思う。

ヒロシマを伝えるということ 朽木祥さんの作品に寄せて

原爆忌に朽木祥さんの『彼岸花はきつねのかんざし』(学研、2008年刊)『八月の光』(偕成社、2012年刊)『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』(講談社、2013年刊)を読み返していました。

(以前書いたレビューはこちら)→『彼岸花はきつねのかんざし』『八月の光』『光のうつしえ

原爆をテーマにした作品はたくさんありますが、朽木さんのようにヒロシマをライフワークにして創作されている方は少ないです。今、原爆や戦争のことを若者に伝えることは、なかなか難しいものがあります。NHKの番組で放送されたことですが、長崎では原爆の語り部の方に「死にぞこない」と中学生が暴言を浴びせたとか。戦争は、今の若者たちの暮らしから遠すぎて、「ふーん、そんなことあったんだ」くらいの感情しか動かないのではないかと思います。いや、実を言うと、私自身もそうでした。それどころか、社会的なことに問題意識を持つこと自体、何やらタブー感さえ持っていました。

日本の社会は、同調意識が強いんです。当たらずさわらず、「皆と一緒」にしておくのが、一番都合がいい。空気を読むことに長けていた私も、若さゆえの頑なさと保身で、そんな価値観にすっかり縛られていたように思います。でも、子どもを生んで、子育てにもみくちゃにされ、すっかり裸になった心に、幼い頃に触れた児童文学が再び色鮮やかに染みこんできた。戦争や核のことを深く考えるようになったのも、実を言うと朽木さんの作品に触れたことがきっかけです。だから、今の若者たちだって、例え教えられたその時にはピンとこなくても、ふとしたことがきっかけで、もう一度自分から知りたくなる時というのは、必ずやってくると思うのです。心の中に、そのきっかけを作っておくためにも、子どものうちに素晴らしい作品に出会っていて欲しい。今、核は世界的に大きな、避けて通れない、しかも自分たちに必ず降りかかってくる問題です。福島の原発事故では、全ての炉がメルトダウンし、3号機ではほぼ100%の燃料が溶け落ちているとのこと。廃炉までの行程を考えると気が遠くなります。これほどの規模の大事故があったにも関わらず、政府は原発を手放そうとはしません。それは、何故なのか。そこに住む人々の命を犠牲にして、一体何を守ろうとしているのか。秘密保護法案を可決させ、憲法を恣意的に解釈することを自分たち閣僚だけで決め、近隣諸国との対決姿勢をあらわにする今の政治のあり方に、私は強い不安を覚えています。広島と長崎から始まった核の時代は、そのままフクシマに繋がっています。「今」しか見えない眼では、それを見通すことは難しい。連作短編の『八月の光』は、卓越した文章力で「あの日」をくっきりと立ち上がらせ、これからの未来をどう生きるのかを問いかける意欲作です。そして『光のうつしえ』は、記憶を未来に繋いでいくことが語られます。

「加害者になるな。犠牲者になるな。そしてなによりも傍観者になるな」

『光のうつしえ』の中で、婚約者を原爆でなくしてしまった先生が、子どもたちに送った手紙の中の一節です。この言葉の中で一番大切なのは「傍観者になるな」ということ。戦争は常に一人の人間を加害者にも犠牲者にもするのです。それは、今、パレスチナで続く戦闘を見てもわかるように、国家に軸を置いた二元論という単純な腑分けでは語りきれるものではありません。『八月の光』の『水の緘黙』の主人公の青年は、「あの日」から深い深い罪悪感にさいなまれて彷徨い続けます。それは、目の前で燃える少女を助けられなかったから。生き残った人たちは、皆、多かれ少なかれ、自らも傷つきながら「生き残ってしまった」という苦しみに苛まれるのです。ハンナ・アーレントが指摘したように、ホロコーストが行われていたとき、ユダヤ人の指導者たちの中にもナチスに協力した人がいた。もしくは、『夜と霧』でフランクルが語ったように、看守の中にも何とかしてユダヤ人に親切にしようと努めた人もいたのです。私たちは否応なく時代の中で生きている。その中で何を選んでいくのか、どのように生きるのかを自らに常に問いかけなければならないのです。『象使いティンの戦争』(シンシア・カドハタ)では、アメリカ兵をトラッキング(敵の足跡をたどること)して案内した村人の親切が虐殺に繋がり、村人たちは戦争へと踏み出していきます。気がつかないうちに、村人たちは戦争への一線を越えていたのです。そうならないように、一人の人間として考え抜くこと。それが、「傍観者になるな」という言葉の中には含まれているのではないかと思うのです。個々の思考停止の果てに戦争があるのだとすれば、常に私たちの中に戦争の可能性は眠っているのです。『光のうつしえ』は、過去を踏まえた上で、国や民族の枠を超えて、一人の人間としてどう生きるかという真摯な問いかけを投げかける作品だと思うのです。

広島は、長崎は、世界で唯一直接的な核攻撃を受けた場所です。そこで何があったのか。それは、徹底的に語られ、検証され、人類への責任として世界中に発信するべきことです。世界中に核は溢れていて、フクシマの事故もチェルノブイリの事故も人為的なミスから起こっていることを考えれば、人間のすることに絶対はあり得ない。唯一の被爆地に生まれた朽木さんは、被曝を風化させないという責任を、人類に対して、これからを生きる世代に対して背負い続けて、物語を書いていこうとされているのではと思います。その物語の力を、どうかこの夏休みに、子どもたちと一緒に感じて頂きたいと心から思います。

 

槍ヶ岳山頂 川端誠 BL出版

槍ヶ岳。もう、名前からしてかっこいい。先日書いた『八月の六日間』の主人公のように、「槍を責めます」と、言ってみたい。この表紙でスナップショット風にこちらを向いている少年の顔も、とても誇らしげだ。この絵本は正方形に近く、かなり大型。見開きでたっぷり山のダイナミックさが楽しめる。10歳の少年がお父さんと槍ヶ岳縦走に挑む、濃い二泊三日が描かれているのだが、どーんとした山の存在感と迫力がとても素晴らしい。何しろ槍ヶ岳だから、10歳の少年にはなかなかキツい行程なのだが、キツいからこそ身体いっぱいで山を感じる少年と一緒に、心の中の余計なものがすうっとそぎ落とされる。深呼吸したくなる。見開きには、山荘の記念スタンプが旅の行程と一緒に押されていて、それも心憎いのだ。

山では、とにかく愚直に歩くしかない。この絵本の中でも、雨の中を「もうだめだ」と何度も思いながら登り続ける場面があるが、この愚直にやるしかない、というシチュエーションは、結構楽しいものなんだと思う。しんどいけど、楽しい。しんどいから、楽しい。山頂に立って自分の歩いてきた道をたどる少年の胸の内に溢れているものを、宝物のように愛しく思った。夏休みにこんな旅の出来る父と息子が、うらやましくて仕方ない。山と、自分の後ろをずっと歩いてくれるお父さんに見守られている少年は、とても幸せだと思う。風景も清々しくて、今この季節に読むのにぴったりだ。恐ろしいほどの酷暑を一瞬忘れさせてくれる一冊。

わたしたちの島で アストリッド・リンドグレーン 尾崎義訳 岩波書店

本を読む楽しみの一つは、自分とは違ういろいろな価値観に出会えることだ。頭と心の風通しが良くなる。でも、もっと楽しいのは、まるで旧友と出会ったかのように、共感できる一冊に出会うこと。毛細血管に酸素がたっぷり供給されるように、隅々まで美しいと思える物語に出会えることは、かけがえのない幸せだ。岩波が少年文庫で復刊してくれたことが、とても嬉しい。
北欧の輝く夏。20人ほどが住むバルト海の小さな島、ウミガラス島に一組の家族が夏を過ごしにやってくる。詩人で子どもっぽいパパのメルケル、家族の母親代わりの長女マーリン、元気いっぱいの少年のユーハンとニクラス。そして、まだ幼い、大の動物好きのペッレ。この物語は、メルケルの個性豊かな子どもたちと、隣の家に住むチョルベンという女の子を中心に島の暮らしを描いた物語だ。まず舞台になる島の風景が素晴らしい。野バラと白サンザシが咲き誇る海岸と、そこに生えているかのような古いスニッケル荘。桟橋に朝日が昇り、夕陽が満ち、リンゴの大きな木があって・・・。こうして書いているだけでうっとりするような島は、まるで子どもの楽園だ。楽しい夏休みを描いた作品は、児童文学に数多くあるのだけれど、リンドグレーンの描く楽園は、精神性も備えた厚みを備えていて、大人も子どもも、彼女の世界に深く分け入っていくことが出来る。そこが、とても魅力なのだ。

まず、先ほど触れた素晴らしい島の自然に、子どもたちの日常が深く溶け込んでいること。
スニッケル荘の隣に住むテディとフレディという姉妹は、お母さんに「おまえたち、エラが生えてきてもいいの?」と言われるくらいの海の子で、ユーハンとクラウスと加えた四人は、冒険の夏を送っている。秘密の隠れ家、ボート遊び、釣り、イカダ作り。ギャングエイジの彼らは、神出鬼没なのであまり物語の中心にはいない。しかし、彼らがいつも黄金の夏を送っていることは、物語のそこかしこにきらめいていて、それこそ太陽のようにこの物語を照らしている。物語は、その妹のチョルベンと、メルケルの末っ子・ペッレを中心に中心に展開する。いつも大きなセントバーナードの「水夫さん」を従えて島中を歩くチョルベンは、生まれついての大物だ。「永遠に変わらない子どもの落ちつき、あたたかみ、かがやき」を持つチョルベンは、この島の王のように楽しく島中に君臨している。一方、ペッレは子どもの危うい感受性がいっぱいに詰まった子どもだ。ペッレは、いつも「どこかの人や、どこかのネコや、どこかの犬が」十分に幸せでないと心配しているような子で、すべてのことを不思議の連続だと思い、動物に限りない愛情を持っている。

この二人が動物をめぐる大騒動をいろいろと引き起こすのが読みどころなのだが、私が凄いなと思ったのはリンドグレーンが、この輝かしい物語の一番奥に、「死」というものをきちんと描いていることだ。まず、この家族には母親がいない。ペッレの出産のときに亡くなってしまった母のことを、この家族は誰も言葉にしない。それは、母の死が、この家族にとってまだ過去にはなっていないことを意味している。子どもたちにとって、そして、そそっかしくて夢見がちで、子どもたちよりも子どもっぽい父親のメルケルにとって、妻がどんな存在だったか。それは、語られないからこそ、この物語の奥から立ち上ってくる。彼らは実は、生々しい大きな不在を抱えてこの島にやってきたのだ。だからこそ、この島の美しさは彼らの心に染み渡り、幸せな記憶が刻まれた古い家は、彼らに安らぎを与える。ペッレの存在不安と思慮深さは、自分の命と引き替えに母がいなくなってしまったことと無関係ではないだろう。島は、ペッレにまた新しい命を与え、奪うことを繰り返す。彼は、その中で、幼いながらも真剣に考え抜いて、自分なりの最善を尽くそうとする。私はそこに、リンドグレーンの、幼い者への限りない愛情を感じるのだ。幼い心は、大人が思う以上に「死」について敏感だ。ペッレの感受性は、決して特別なものではなく、きっと全ての子どもたちの心の中に棲んでいる。リンドグレーンは、その奥深くに眠る不安と喜びに、魂と言い換えてもいいかもしれない深い場所に語りかける術を持っている。この物語は、実は、家族の再生の物語なのだ。だからこそ、母親代わりのマーリンは、この島で将来を共に生きる恋人を見つけることが出来るのだと思う。

私たちは自然の不条理と共に生きている。命は与えられ、美しく輝いて、必ず奪われる。まるで守護神のようにチョルベンの横にいる水夫さんだって、その危険から逃れることができない。(この水夫さんの危機は、本当にはらはらした)でも、私たちは人間だから、心を持っているから、奪われるものを奪われるままに失うことはないのだということ。生きることが、こんなにも光に満ちて輝いているということ、まさに「この世は生きるに値する」ということを、この物語は教えてくれる。夏の日に何度も何度も読み返すのに相応しい一冊だ。この作品を原作にした映画が、この夏に日本で公開されるらしい。絶対に見に行こう!

戦場のオレンジ エリザベス・レアード 石谷尚子訳 評論社

内線が激しくなったベイルートの町を、ひとりの少女が駆け抜けようとします。自分のいる場所から、闘いの激しい中心地を抜け、相手側に飛び込むという命をかけた旅。10歳の女の子が、町を分断するグリーンラインを命がけで超えて見たものは何なのか。少女が感じた「戦争」が、息詰まるような臨場感で迫ってくる作品です。

でも、主人公の少女アイーシャは、例えばナウシカのように特別に強い女の子でも何でもありません。彼女は、出稼ぎにいった父親が帰らぬうちに内戦の爆撃で母が死に、祖母と兄弟と、命からがら避難先で共同生活を送っています。弟の面倒も見ているけれど、10歳の女の子らしく、自分のことだけでいっぱいいっぱいな毎日。用事を言いつけられてふくれたりするアイーシャを、作者はとても身近な存在として描いています。中東、アラブ諸国に生きる人々に対して、私も含めて日本人は遠い距離感で感じていることが多いのではないでしょうか。イスラム、テロ、戦争―マスコミで伝えられるそんなイメージばかりが先行すると、そこに生きる人たちの顔が見えなくなってしまう。でも、そこには私たちと変わらぬ人間の暮らしがあり、家族が、子どもたちがいるのです。物語は、ひとりの人間の心に飛び込むことで、そんな先入観の壁を超えることができる。この物語も、そうです。あなたと、私と、どこも変わらぬ普通の少女が、なぜ危険地帯に行かねばならなかったのか。唯一自分たちの暮らしを支えてくれているおばあちゃんの具合が急に悪くなったのです。彼女に残された道は、たった一つ。戦闘地帯のグリーンラインを超えて、おばあちゃんの持病の薬を貰いにいくことだけなのです。

アイーシャを突き動かしているのは、「不安」です。戦争のさなか、もし母さんだけではなく、おばあちゃんまでもが死んで、自分たちだけ取り残されてしまったら。当たり前にいてくれると思う人がいなくなる、その恐怖は、アイーシャが身近な存在であるからこそ、余計に読み手の心に食い入ります。だからこそ、彼女が必死の思いで飛び込むグリーンラインの緊張感が、ダイレクトに伝わってくるのです。戦争という有無を言わさぬ暴力の気配が充満する中を走る恐ろしさ。でも、私が何より怖かったのは、そのグリーンラインを超えた一歩先の向こうには、またごく普通の人々の暮らしがあることでした。戦闘と日常が、こんなにも背中合わせだということ。これは、日本という島国から出たことのない私にとっては、やはり虚を突かれることなのです。内線は、一つの国を二分します。目指すお医者さんの家がわからなくて泣いているアイーシャを、ひとりの少年が助けてくれ、オレンジをくれる。その美味しさは、誰が食べても変わらないのに、なぜか人は敵と味方に分かれて殺し合う。戦争に大人の事情は、嫌と言うほどあるでしょう。青臭い物言いをするなと言われそうですが、この根本的な問いをまっすぐ投げかけられるのが、児童書の素晴らしいところだと、私は思っています。戦闘が始まった市場の中を、少年の店のオレンジが転がっていくシーンが忘れられません。殺戮の中で無防備な人間の命のようでもあり、踏みにじられる暖かい心の象徴のようでもあります。

アイーシャは子どもだから(いや、大人もそうかもしれないけれど)敵味方を単純に信じています。敵は悪い人で、味方はいい人。でも、「とってもいい兵隊さん」は、帰ってきたアイーシャに、敵の兵隊と同じ眼をして銃を突きつけます。そして、敵側にいるライラ先生は、アイーシャにおばあちゃんを助けるお薬をくれたし、アブー・バシールは、危険を冒して彼女を助けてくれた。アイーシャは敵も味方も超えた、何人かの善意で危険地帯を行って、帰ってくることができたのです。では、なぜ、その人間が殺し合うのか。その不条理が、アイーシャの眼差しの中から鮮やかに浮かび上がります。戦争がテーマですが、スリリングな展開にのめり込んでいるうちに、アイーシャの気持ちに、素直に寄り添っていくことが出来る。読後、子どもたちの心の中には、アイーシャが助かって良かったと思う気持ちと共に、たくさんのやり切れなさが残るでしょう。そのやり切れなさを、いつまでも覚えていて欲しい。「大人になっても、人をにくんじゃだめよ」というライラ先生の言葉を、アイーシャが敵側の少年から貰って食べた、オレンジの暖かい味と一緒に覚えていて欲しいと思います。そして、私のようにまっすぐな問いかけを忘れてしまいそうな大人は、せっせと児童書を読むことにしたいとおもいます。

2014年4月刊行
評論社

ネルソン・マンデラ カディール・ネルソン作・絵 さくまゆみこ訳 鈴木出版

先日紹介した『やくそく』と同じく、さくまゆみこさんが翻訳されています。アパルトヘイトという人種差別政策と闘い、南アフリカの大統領になったネルソン・マンデラ氏の大型伝記絵本です。この表紙のインパクトの強さといったら!留置場での長い年月を耐え抜き、世界中の人々の尊敬を集めた、素晴らしい「人間の顔」です。この顔を見つめていると、彼が持ち続けた人としての貴さが伝わってきます。

差別と闘う、というのはこれはもう並大抵のことではないです。今、『九月、東京の路上で』(加藤直樹著 ころから)という本を読んでいます。関東大震災のときに何千人もの朝鮮人の人たちが殺されてしまったときの記録なのですが、これを読むと差別心というのは人の心の中に巣くう弱さや恐怖心と分かちがたく結びついているということがわかります。だからこそ、それが発露されるときは暴力性も伴うし、有無を言わせない理不尽さで人の尊厳を踏みにじる。人を虐げるということは、加害者と被害者の心に、同時に恐怖という闇を育てるのです。しかし、さくまゆみこさんが後書きで述べられているように、マンデラ氏は、自分が受けた差別という恐怖に対して、恨みではなく融和で対峙していったのです。ノーベル平和賞をはじめとしたマンデラ氏への評価は、その越えがたいところを越えた彼の大きさへの敬意であり、越えがたさの中で悪戦苦闘を続ける泥沼の中に咲く一筋の希望であるのかもしれません。

この本には、南アフリカという国が置かれていた状況や、その中でマンデラ氏がどのように生き抜き、人々の希望となっていったのかが、簡潔にわかりやすく描かれています。そして何より、マンデラ氏が、英雄ではなく、一人の人間として誠実に生き抜いたことが書かれているのです。彼は誰にも成し遂げられなかったことをしたのではなく、自分の為すべきことを常に見据えて、苦しみに負けずに果たしきった。その身近さと非凡さが同時に伝わってくるのが素晴らしいと思うのです。関東大震災のときに吹き荒れたジェノサイドの嵐の中で、朝鮮人の人たちを守り切った人たちは、常日頃から、ごく普通に彼らと人間同士のつきあいをした人たちでした。人間を、たった一人の顔と名前のある存在として見るのではなく、「○○人」という顔の見えない記号でひとくくりにしてしまうことは、非常に危険なことなのです。私は、物語の力こそが、その危険を救うものであると思っています。物語は、常に「たった一人」の心に寄り添うものだから。すべての壁を乗り越えて心を繋ぐ力があると信じているのです。

南アフリカは日本から遠く、子どもたちにとってもあまり馴染みのない国かもしれません。しかし、アパルトヘイトにも繋がる、人種や民族への差別の問題は、間違いなく今の日本にも重くわだかまっています。だからこそ、ネルソン・マンデラ氏の、一人の人間としての生き方、この力強い顔を持つ「個」としての彼の存在がきちんと描かれている絵本を、たくさんの子どもたちに読んで貰いたい。そう思います。

2014年2月刊行

鈴木出版

 

やくそく ニコラ・デイビス文 ローラ・カーリン絵 さくまゆみこ訳 BL出版

スリやかっぱらいをして生きていた女の子が、ある日おばあさんからカバンをひったくろうとする。その中には、緑のどんぐりがたくさん入っていた。おばあさんの「おまえさんにやるよ。これを植えるってやくそくするんならね」という言葉どおり、女の子は次々にどんぐりを植えていく。すると、すさみきった街に緑が生まれ、人々の心が色づいて鳥たちが帰ってくるのだ。女の子は、どんどん違う街にどんぐりを植えていく・・・。

とてもシンプルなテキストなのだが、深みのある素晴らしい絵と溶け合って、読み手に新鮮な言葉として届くように考え抜かれている。どんぐりは、どんぐりなのかもしれないし、目に見えない大切なものの寓意ともとれる。女の子が初めてどんぐりの詰まったカバンを手に入れて眠った夜の枕辺の絵が素晴らしいのだ。色とりどりの小鳥たちが集まって、慈しむかのように孤独な女の子を見つめている。緑の葉っぱや、小鳥の声。小さな小さな命を慈しむことは、実は慈しまれることなのだとこの絵を見て思う。

うちにはけっこう大きな庭がある。まあ、大きいといってもたかが知れているのだが、長年暮らしているうちに、様々な草花が植わっている。しかし、ここ10年くらい、私はこの庭をほったらかしにしてきた。手入れをしなくちゃ、と思えば思うほど身体は動かず、月桂樹にはカイガラムシが付き、君子蘭は鉢から溢れそうになり、枯れるものは枯れて、生命力の強い花だけがやたらに咲き誇る、荒れ果てた野原のような場所になっていた。ところが、ふと出来心で買った、たった一株のパンジーが、この春とても美しく咲いてくれて、彼女と毎日話をするうちに、私は何となくまた庭に出る時間が多くなった。月桂樹を剪定して、君子蘭の絡んだ根を分けて植え替えもした。雑草を丁寧に抜いていると、それこそ10年以上前に撒いたカモミールの芽が出ていることに気がついた。手を入れて話しかけると、花や木は気持ち良さげに風に吹かれて、優しい顔を見せる。

「人の気持ちが変わることを、わたしはもう知っていたから」

自分のカバンを次の命に受け渡していくとき、女の子はこうつぶやく。壊れて失ったと思うものも、実は形を変えて自分の中に緑の芽のように生きているのかもしれない。こんな年齢でもそう思えるときが巡ってくるのだから、伸びようとする力に溢れている子どもたちなら尚更だ。小さな緑は、大きな樹となって、今度はたくさんの人の心を包んでいく。その力が、小さなひとりの人間にもちゃんと備わっていることが、素直に伝わってくる。何度でもやり直そうとしていいんだよ、何度でも手を繋ごうとしていいんだよ、と静かに語りかけるとても素敵な絵本だと思う。さくまゆみこさんは、こういう高学年から中学生向けの、力のある絵本をたくさん訳されていて、選書のセンスが素晴らしい。絵にとても力があるので、多人数を対象にした高学年の読み聞かせにも良いのでは。

2014年2月刊行

BL出版

あひるの手紙 朽木祥 ささめやゆき絵 佼成出版社

言葉を初めて手に入れたときの喜びを覚えていると言うと、「ほんまかいな」と言われそうですが。自分としては結構はっきりした記憶です。「あいうえお」の赤い磁石を買って貰い、それを絵本の字と同じ順番に並べてみたとき、「あ」の字と音が、ふと一致したんですよね。一つわかれば後は芋づる式に疑問氷解し、それまで見知らぬ暗号だった文字が、私に語りかけてくるように思えて、興奮しました。多分三才くらいだった・・・ということは、ウン十年昔の記憶ですか(笑)私にとって、文字を手に入れた日は、新しい扉が開いた瞬間だったのでしょう。 そんな古い記憶が蘇ってくるほど、この物語には磨き抜かれた言葉の喜びがきらきらしています。

ある日、一年生のクラスに一通の手紙が届きます。そこには覚えたての元気な字でただ一言「あひる」の文字。それは、「ゆっくり、ゆったり、大きくなって」ひらがなを書けるようになった24歳のけんいちさんからのお便りだったのです。そこから、子どもたちとけんいちさんの、お手紙での素敵な言葉のキャッチボールが始まります。「あひる」「るびい」「いるか」・・・交わし合うたった一つの言葉に、たくさんの笑顔が重なっていきます。手紙を送るときの、「喜んでくれるかな?」というドキドキ。お返事を待つときの「早く来ないかな~?」と思うときめき。届いたお手紙を開けて、紙をそっと開くまでの待ち遠しさ。そんな時間も全部こもった手紙って、ほんとにいい。「あひる」という言葉と一緒に、一年生の皆と、ゆっくり大きくなった、けんいちさんが、にこにこと行進していくような。お手紙に書いた言葉たちが、皆で歌っているような楽しい時間が、見事に一冊の本になっています。

朽木さんの物語には、よく手紙が登場します。『かはたれ』(福音館書店、2005年)の、麻のお父さんからの手紙。『風の靴』(講談社、2009年)の、ヨットマンのおじいちゃんからの瓶に入った手紙。『オン・ザ・ライン』(小学館、2011年)では、何枚もの絵葉書が、主人公の侃をめぐる人々の心を行き交います。作品の中で、手紙たちはゆっくりと相手に届く時を待ち、主人公たちの心をほぐしていくのです。思うに、手紙は心を交わすのにちょうどいい「時間」を生むのだと思います。何もかも、早く、早くとせかされてしまいがちな子どもたち。そのスピードはますます上がってめまぐるしいほど。でも、ゆっくりでなければ育たないものがあるのです。けんいちさんの書いた「あひる」の文字は、「にぎやかに、わらっているみたいな三つの文字」。ゆっくり、ゆっくりたどりついた三つの文字への時間の中に、どれだけの愛情と慈しみがこめられていることか。だからこそ育った素直な喜びが、この「あひる」という言葉にはじけているように思うのです。そのけんいちさんの言葉を、まっすぐに受け止めて返していく子どもたちの心には、余計な壁も何もない。心地良いリズムを刻む楽しさと共に、何の押しつけもなく、お互いの尊厳を大切にするメッセージが心にするりと染みこんでくる。言葉は不完全な入れ物だから、そこに何を込めるかで宝物にもなれば、相手を切り裂く刃にもなります。子どもたちには、相手と自分を大切にする言葉を育てて欲しいと切に思います。幼年の物語という難しいジャンルで(これは、ほんとに難しいんですよ!)こんなに自然にメッセージと楽しさを両立させた作品が生まれたというのは、ほんとに嬉しいことです。学校という社会の始まりの中に飛び込んでいく子どもたちへのプレゼントにも相応しい一冊だと思います。ささめやゆきさんの暖かみのある挿絵も、この物語にぴったり。表紙の赤いポストがいい!あのずんぐりした形。ポストは、やっぱりこれでなくちゃね。

2014年4月刊行

佼成出版社