今号の『日本児童文学』のテーマは「3.11と児童文学」である。震災から1年半ほど時間が経って、3.11が少しずつ文学という形に現れてきた。この号では、3.11以降の核の問題をテーマにして、芝田勝茂さんの『ソルティー・ウォーター』と、菅野雪虫さんの『明日美』という作品が掲載されている。どちらも、核とともに生きていかねばならない子どもたちの物語だ。
菅野さんの『明日美』は、南相馬に住む中学3年生の少女・明日美の日常を描いた物語だ。菅野さんの眼差しは、静かな文体で明日美の生活の一コマを切り出していく。切りだされた日常に断層写真のように積み重なっているフクシマの今は、静かな日々の中に、明らかな被災地以外の場所との温度差を孕んでいる。私が個人的に衝撃だったのは、明日美の家の「茶の間にはこたつとミカンと煎餅と線量計」が並んでいること。外出から帰ってきた明日美にその線量計は反応してピーピー音をたてる。明日美はその線量計に向かってふざけてみせるのだ。ここで私はいろんな意味で深くうなだれてしまった。
線量計が、こたつやみかん並んで茶の間にある。日常の中にあるから、その違和感にはっと胸を突かれる。明日美はそのことに慣れている。その、「慣れている」ということにも胸を突かれる。いつもの日常、自分の家の茶の間。穏やかに自分を包むはずの日常に潜む非日常から、明日美は毎日傷つけられている。でも、それに慣れていかなければ生きていけない。傷つけられることに慣れる・・・そんな悲しいことがあるだろうか。違和感は、明日美の心の中から消えることはないだろう。明日美は、あの日以降を、忘れられない風景の中で、失った痛みと共に生きているのだから。「みんな忘れない。あの日のことも、あの日からのことも、みんな、忘れるもんか。」慣れるのと忘れるのは違うのである。被災地の外にいる私たちの方は、その違和感に慣れていないが、その違和感を感じなくなっているのかもしれない。その温度差を思ったとき、私は明日美の孤独に深くうなだれてしまう。その孤独感は、まるでフクシマをホラーの地のように扱うネットの世界を見る明日美の眼差しに感じられる。傷つけられたものが疎外され、孤独を感じなければならない。この理不尽を、静かに私たちの目の前に置く菅野さんの物語は、無関心という見えない壁を超えて心を繋ごうとする物語の大切さを感じさせてくれた。
菅野さんがそっと描き出した温度差は、芝田さんの『ソルティー・ウォーター』で、熱く燃え上がって疾走する。この作品は、3.11以降の近未来を舞台にしたSF仕立てで、芝田さんならではの切れ味のある緊迫感が漂う。バクハツがまるでなかったかのように放射線を遮るという泥の中に埋められたカマの中で、ウランが再び煮えたぎろうとしている。病気を何度も繰り返す主人公のエツの体の中にある熱い塊が、そのウランを感知するのだ。彼は走る。今はもういない少女・ミヤの声に導かれて、ウランの釜の丘に走る―。無責任さや嘘、無関心や事なかれ主義、コストと経済効果という泥に原発を塗り込めようとしても、これから何万年も放射能は拡散しようとするエネルギーをもち続ける。エツが吸い込む空気に水にまき散らされている苦いものは、私たちにとって永遠とも思える時間を生きる。その何万年という時間の前に、すっかり骨抜きになってしまった「安心」という言葉は、はたして意味を持つのだろうか。私たちは忘れっぽい。嫌になるほど同じ過ちを繰り返す。
わたしのつもりでは、自分が書いているのは―ほとんどの小説家と同じで―人が過ちを犯すこと、そして、ほかの人であれ、本人であれ、誰かがその過ちを防いだり、正したりしようと努めて、けれどもその過程で、さらに過ちを犯さずにいられないことです。 ~アーシュラ・K・ル=グウィン「ファンタジーについて前提とされているいくつかのこと」※
だからこそ、私たちは、何度も何度も子どもたちに、自分たち大人のした過ちについて語り続けなければならないのだと思う。明日美の孤独と、真実を見据えようと走るエツの痛みを何度も何度も感じて、心に刻むことがこれから先の希望に繋がるのだと信じて。その3.11以降の長く大切な営みは、まだ始まったばかりだ。私は物語を刻めないから、こうして何度も自分が大切だと思った作品について語ろうと思う。そう思わせてくれた、今号の特集号だった。
※『いま、ファンタジーにできること』河出書房新社 2011年8月刊行に所収されています。
by ERI