光の井戸 伊津野雄二作品集 芸術新聞社 

あけましておめでとうございます。

2014年の年明けです。どうか穏やかな一年になりますようにと、ほんとうに祈るように思います。今日は地元の氏神さまに初詣に行ってきました。小さなお堂に手を合わせていると、この地に住んで一度も大きな天災に遭ったこともなく、ご近所の方達もいい方ばかりという幸運に恵まれているということに、遅ればせながら気がつきました。25年も住んで今頃気がつくんかいな、という感じですが(汗)こういう小さなことにしっかり心の碇を下ろしておくことが、今とても大切な気がします。

心の碇というと、最近ずっと手元に置いて見ている本があります。伊津野雄二さんの作品集『伊津野雄二作品集 光の井戸』です。手垢でこの美しい本を汚してしまいたくないんですが、つい手が伸びて、頁をめくってしまう。この作品たちから溢れてくる耳に聞こえない音楽に心を澄ませていると、心がしんと落ち着いてくるのです。静かな表情を浮かべて、ゆったりと姿を現す女神のような作品たちに見惚れます。伊津野さんは、美しい彫刻を作ろうとして、これらの作品をお造りになっているのではないと思うんです。海が少しずつ石を刻んでいくように。風が砂に模様を描くように。星がゆっくり軌跡をたどるように。生まれて死んで、命を重ねて紡いでいく時が生み出すかたちに近いもの。日々命の理(ことわり)に耳を澄ますものだけが生み出せる、かたちを超えたかたち。「うた」という、少女の頭部がまるく口を開けて歌っている作品があります。彼女(と言っていいのかどうか)の声は聞こえないんですが、きっとその歌は太古の昔から鳴り響いているに違いないと思う。崇高なんですが、人をひれ伏させる気高さではなく、木や土の暖かさに満ちた慈愛を湛えています。「光の井戸」という言葉が指し示すように、伊津野さんの作品に溢れている光は、天上から射してくるのではなく、私たちの足下にある大地から生まれているように思います。そのせいでしょうか。穏やかに微笑む女性の面影は、どこか懐かしく慕わしい。伊津野さんの作品を見ていると、魂の奥底が共鳴して震えます。その分、時にいろんな負の感情や打算や、大きな流れに押し流されがちになる私の上っ面がよく見えるのです。「美」ということについて、最近特にいろいろ考えているのですが、人間がなぜ「美」を探し続けるのか、それはやはり「美」が太古の昔から私たちを支えるものであり、唯一私たちに残されている可能性そのものだからではないかと思うのです。伊津野さんの作品には、その可能性が溢れています。

かく言う私は見事に俗人で、年賀状の印刷のことで夫と小競り合いはするは、耳が悪いのになかなか補聴器をつけない母に「危ないやんかいさ」と小言をいうは、仕事に行けば、何度も言ったことを間違える同僚に「ええ加減にしてえや」と腹立つは、「明日は特売日やから、牛乳買うのは今日はやめとこ」と10円20円をケチる、そりゃもう、吹けば飛ぶようにちっさな器の人間です。でも、伊津野先生(とうとう先生、と言ってしまった)の作品を見ていると、このちっぽけな私の奥底に、伊津野先生が命を削って形にしておられるものと響き合い、水脈を同じにするものがあることを感じられるのです。それを知覚し、心の碇として自分の芯に鎮ませておくこと。例えば、マイケル・サンデル教授が授業で受講者たちに突きつけるような、正義の名をつけた残酷な二者択一を迫られたときに、この永遠を感じさせる美しさを思い浮かべることができたら。私は少なくともその正義の胡散臭さを感じることは出来るだろうと思うんですよ。

「差異のみがめだつ現代ですが伏流として在る共通のゆたかな水脈に繋がるために、自らの足元を深く掘り下げることが望まれているのではないかと考えています」

これは、伊津野先生自身の後書きの文章の一節です。ちっぽけな自分という目に見える現実に流されないように。「足元を深く掘り下げる」営みとして、今年も本を読み、じっくりと考える一年にしたいと思っています。

皆様にとって実り多い一年になりますように。今年もよろしくお願いいたします。

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